【雑記帳(農業)】


医・食・農、三位一体と言われる。医学は病気を治し予防はするが、命は「食」によって
守られる。そして食を守るのは「農」である。村の崩壊が言われ久しい。人も食も環境も
守り続けた農業は、やがて効率とか国際競争力という経済原則の洗礼を受け、壊滅の
途上にある。農の復活は困難である。たとえ気力ある人が取り組もうとも、限定的な力
しか及ばない。後継者が居ないのだ。農家は補助金でヌクヌクと生き、努力を怠ってき
たのか?
不良債権を税金で処理してもらった銀行は補助金ではないのか?医療費の七割を基
金から賄う医療機関は補助金といえないのか?建築業界の公共工事というのは補助
金ではないのか?金を湯水の如く使う政治家や官僚は、誰の金を使っているのだ。
せめて農業に注ぐ目は、優しく温かなものであって欲しい。

 

農業わけ知り事典 
もし農産物の輸入がスットップしたら
農業の公益機能
農業集落の崩壊
消毒か散毒か...
米価10倍論

 


農業わけ知り事典 山下惣一

麦秋の頃、雲雀は空高く、声高に啼き続け、追い立てられるように麦刈りが始まる。来る梅雨を前に、貴重な晴天を頼りの慌しい作業である。さらに、時を置かず田植えの準備に入る。刈り取られた麦藁は焼かれ、毎年、毎年繰り返されてきた佐賀平野の風物詩であった。ところが、今年の朝日新聞の地方版の記事を見て驚く。

佐賀平野では麦の収穫が最盛期を迎えた。収穫後、畑に積んだ麦わらを
燃やす「わら焼き」も含め、全国有数の麦産地の風物詩だが、近年、この
野焼きに苦情が相次いでいる。法的には特例として容認されるが、県は
苦情に配慮して、焼かない利用法を提案している。今のところ、協力を得
るのは難しそうだ。<2004・6/10>

どうやら県庁に苦情が舞い込んでいるようだ。相次ぐとは、どれくらいの件数なのだろう。苦情の理由は、「環境への影響」「煙い」「視界が遮られる」この3つの事に過ぎない。「環境」とさえ言えば何でも許される風潮が蔓延している。人が生きていくには何らかの汚染を出し、また汚染を出すことでの恩恵を受けているはずだ。煙い?視界が遮られる?これは一体どういうことなのだ。藁を焼けば煙くらい出るだろう。煙いなら窓を閉めれば良い!車の視界が遮られるならゆっくり走れば良いではないか!藁焼きは延々と繰り返されてきた営みである。わずか数日で終わることなのに、なぜ、しばしのガマンが出来ないのだろうか?農業県・佐賀の人々の多くが農業に従事していた頃、このような苦情が寄せられたであろうか?ビール、うどん、パン、ケーキ..麦を原料とするものは殆どが遠い外国で生産されたものだ。「日本の農家の世話にはなりません」と言われるならば、一言もない。苦情を公に訴え一体どうして欲しいというのだ。煙いのは燃え尽きるまでの一時間、車の視界が遮られる時間はわずか数分、自分に都合の良い短時間の環境のため農家に「藁焼きを止めよ」と言う。この記事を読んで、数日間の風情溢れる風物詩を楽しめない人の居ることに驚き、哀しくなった。農作業への思いやりや優しい眼差しがいつのまに消え去ったのだろうか?

この夏、各地で花火大会が催される。炸裂する火薬が大気を汚染し、爆音が駆け抜ける。多数の観客で交通渋滞は起こり、祭りのあとはゴミだけが無残に散乱する。「わら焼き」と同じく「花火大会を止めよ」と言う苦情も等しく寄せて欲しいものだ。

ここ数年頻発する農産物窃盗事件にも心を痛めている。昨年度の警察庁のまとめによると、農水産物の窃盗事件は全国で1000件に達し、前年に比べ437件(78%)も増えた。被害総額は約9700万円に上り、同約3300万円(52%)も増えた。

残念なのは、検挙件数が1000件のうち54件(5.4%)と低いことだ。
農産物の流通が多様化、広域化していることや、流通ルートも複雑に
なっていることなどが要因だろう。地域のコミュニケーションが薄くなっ
ていることもあろう。多くの犯人が捕まっていないのだから、繰り返され
る恐れがある。事件を地域別でみると、東北を除くすべてで増えた。
最も発生件数が多かったのは332件(前年比1.5倍)の九州、次い
で中部(同2.3倍)の223件、関東の182件(同2.2倍)だった。
月別では、米の収穫期である9〜11月が多い。この3カ月で、全体の
46%を占める。品目別では、米が249件でトップ。次いでブドウの88件、
イチゴ53件、スイカ49件、メロン27件だった。やはり単価の高いものが
狙われやすい。

丹精込めて、、と前置きし、これらの被害を悲しく思う。まさに丹精込めた農家と自然との合作なのだ。1年に1回しか得られないものを、まんまとせしめ、犯人の946件は逃げ失せている。高価な作物とはいえ、それは定価が付いて高価なだけで、生産者の出荷価格は決して高価なものではない。元々、小売り業者が行っていた仕分け、パック詰め作業まで家族総出でこなした労賃ナシの生産者価格なのだ。庭先の蜜柑の一個や畑の野菜のいくつかを失敬するのとは訳が違う。50歩100歩の問題ではない。食べる分を盗んでいく泥棒には寛容であった。「少しくらい、、、仕方がない」、柵もないし見張りをするでもない。盗るほうもここまで徹底しては居なかった。農耕民族である日本人の心には、農産物の窃盗を戒める暗黙の掟があったように思う。農業後継者の激減とともに農業集落の繋がりも希薄になる。農業に対する「心」もまた同じなのかも知れない。

* * * * *

少し古い本を取り出して見た。と言っても1995年10月初版である。著者の山下惣一氏は佐賀在住の農民作家である。本やレーポートを著し、インタビュー、テレビへの登場も多く、長年に渡って農業に対する思いを訴え続けてこられた。終始一貫するテーマは農という営みへの愛情である。氏は農業の傍ら、作家という仕事をこなす兼業農家である。農業の視点から語り続けることは、日本の文化や心にも通じる普遍性を備えている。

【一村一品】大分県の元知事の提案で始まり、評価は高いが10年続いた例は少ないという。充分なマーケットリサーチもなく熱気だけで始まり。行政マンが村人を引きずりまわし、くたびれさせるのが特徴。「玉葱を植えてハワイへ行こう」という運動があった。1年目は何とか利益が出た。それを見込んで次の年には参入者が増え、価格は大暴落。まったく百姓は「博打打ち」に等しい。

【生産調整】わずかな補助金で「米を作るな」と言う。68万haの米の減反は、1haの水田農家68万戸の職場を奪うことになる。工業製品などの輸出の代償として、国内の農産物の生産が抑制される。国際競争力という聞こえの良い言葉で、農家や消費者を欺く。情けないほどまでに零落した自給率を前にしても、いまだなお「国際競争力を!」と大合唱が続く。企業が倒産し、わずか1000人の失業者が出たら大騒動だというのに、68万戸の失業同様の事態は意に介さない。これが銀行であれば一社で何千億もの資金が投入される。「農家は補助金漬けで羨ましい」という揶揄も聞かれる。しかし1ha減反して10〜15万。それも「とも補償」として農家から拠出されたお金が使われるのだ。「とも補償」を拒否する農家には1銭も支給されない。

【平成コメ騒動】平成5年のことだ。パンや輸入米など、食べるものはあるというのに国産米を求め行列ができ、盗難も相次いだ。たかがこれくらいでパニックである。本物の食糧危機が訪れたなら農家は武装しなくてはなるまい(笑)。輸入しながら片や減反を奨励する。そこには不透明な意図が見え隠れするが、世の常、正義ばかりが通るものではない。その年の暮れ細川首相がコメの輸入自由化を表明した。後日、閣僚の一人は「大凶作は天の助けだった」と、、、この議員、よもや農村票で議席を得たのではあるまい。政治家に罵詈雑言を浴びせつつも、地元の代議士を当選させてしまう農家の責任は大きい。一定程度の安全と生活が確保され、より良い生活の為の不満を訴えるくらいが幸福なのかも知れない。

【農業機械】多くを手作業でこなした頃は、時間と体力が資本であった。それに代わる機械の登場で時間からもそれまでの重労働からも解放された。その分、農産物から得る手取りは減る。1haに満たない耕作農家も、トラクター、コンバイン、田植え機、、など備え、年間で10日程度しか使わない。10年もすると機械屋から買い替えの勧誘がくる。農産物は20年以上も値上げナシというのに、機械はどんどん値上がりする。

【農業報道】時のニュースというのは、放送局やニュースのためにあるものだ。やがて飽きてくると、次のニュースが面白く報道される。今やお茶の間の娯楽番組に等しい。報道が先行して世論が形成されることもしばしば。1980年代に農業パッシング現象が起こった。農家や農協の悪口から生活に至るまで、、新聞の読者投稿欄にも「農家は一人1台づつ車を所有している...」、「農家の敷地は広い...」、「都心部の畑を宅地に没収せよ...」、、昔の話を持ち出し「戦時中、農家の人がコメを分けてくれなかった...」と憤慨する人まで居た。このようなムードを利用して政策の遂行や票の発掘に励む人々もいる。

【自給率】現在、主食のコメ自給率は90%台をキープしているが、全穀物の自給率は30%を切っている。カロリー自給率は40%。穀物自給率には家畜の餌となる穀物も含まれている。肉食が増えると穀物は飛躍的に消費される。幸いコメは自給出来ているものの、コメ食離れで消費は減っている。いざ、食糧危機になれば、コメしか頼るものはない。コメ自給率はさらに余裕が必要である。日本以外の先進国は、食糧の自給が強力な武器になることを知っている。

【消費者ニーズ】消費者は本当にありがたく貴重な存在である。しかし、ブームが1年以上続いているものがあるだろうか?消費者はまた、冷めやすく、気まぐれなものである。有機野菜を求めるときは曲がったものや土の付いたものでもお金を払うが、スーパーでは形が整い、汚れや傷のないものを選ぶ。いずれも農家が丹精込めて育てたものだ。農業の現場を顧みることなく消費者ニーズは一人歩きする。「無農薬、有機栽培で形が整い、しかも安く...」と言う。スローフードやオーガニックを胡散臭く見るのはこのためである。現場を知らない消費者はオーガニックとさえ言えば、なんでも買ってくれる。生産者の顔が見えるようにと、交流会が開かれる。そこでは和気あいあいと過ごし良好な関係が築かれるものと思う。一方、同じ消費者が虫の付いた野菜をスーパーに持ち込み抗議をする。人は立場と状況が変われば、優しくも厳しくもなる。片方の要求のみ100%満たす消費者ニーズなどお互いの誤解の始まりである。

【農業近代化】生産効率を上げ国際競争力があるようにと大規模化、機械化する。農産物を工業製品に見立てるのだ。これによって更なるコスト増となり、農家は淘汰されて二極化が起こる。

【巨大アグリビジネス】巨大な多国籍企業の5社が中心となって穀物を支配する。また世界の農産物・食品貿易の7割が約500社によって行われている。大きな流れを堰き止めることは不可能である。情報操作などで需要も供給も思いのままと言えなくもない。農産物に限らず、機械でも、医薬品でも...作り出す人にとっては愛情や愛着のあるものであろう。しかし、それが流通に乗ると一律に、換金される無機的な「物」になってしまう。食物だけはそうなるべきではない、という議論もあるが仕方のないことだ。一人一人が自ら食べるものを自ら作るという時代ではない。プランターにネギ一本でも作ってみれば、事の意味が実感できるのではないか?

【EM農法】多くの自治体で生ゴミ処理法として取り入れられているが、科学的根拠は確かなのだろうか?EM菌を医療の分野で利用する動きもあるが医薬品としての根拠は薄い。有機農業が○○農法と結びつく例は多く、竹炭や竹酢、薬草、イオン水などを用い、まるで代替医療の治療家を思わせる。とにかく良く育つという根拠で用いるところも似ている。自然、薬草、天然などの言葉が、自然を相手の農業で重宝がられるのは滑稽でさえある。

【過保護農政論】もちろん農家側からの主張ではない。誰が言うのか?一部の評論家の議論にメディアが便乗して世論を形成する。こんなことが繰り返されると農家自身が「過保護かも知れない」と錯覚を起すようになる。過保護な割に後継者は居ない。農家には嫁も来たがらないので、いよいよ農業人口は激減する。政治家や医者に跡継ぎが居るのは何故だろう?「過保護と跡継ぎの話は...問題のすり替え」とでも言うのだろうか。過保護と思わんかた是非農家へ転職を、、大歓迎いたします。

【有機農業】昨年、有機の認定を巡って、協会側の不正が報道された。認定団体、認定係の経費が有機農産物の中に含まれているのだ。医療に代替医療の潮流が生じたように、農業に有機への志向が起こったのは1970年代である。戦後復興をなし遂げ、豊かさが根ざし始めたころである。余裕が出てくるとより良い物を求める。農薬や化学肥料批判や健康への関心が高まり、より高く売れる有機農産物が生まれる。農家の自家菜園はほぼ有機といえるものであった。しかし、儲かると察知した人々が群がり始め厳密なオーガニックの規定を作りあげた。そのため今迄有機と思っていた自家菜園は有機ではなくなり、有機への参入がハードルの高いものとなる。規定をクリアできる少数の農家の為の認証マークとなり、そこで不正が行われたのだ。認証の意義は理解できるが、認証が善意の有機を排除してはならない。有機という思想や信念こそ尊ばれるべきだ。そして、ついに有機農産物まで輸入されるようになった。有機とは狭い閉鎖系で生活と農が結びつくものではなかったのか?いつの間にか情けない方向へと変容する。有機で飽きたりない人々は遠いイタリア生まれの「スローフード」を声高に謳歌する。「どこがスローですか?」ブームになった時点でファーストと肩を並べ、スローではなくなるのだ。静かに人知れず、スローにやることこそスローではないか。

【農薬】農薬を撒くことを消毒ともいう。今でこそ消毒回数は減っているが、かつては2週間毎に撒かれた。それもすべて農協の指導の下。定期的に農薬が配達された。害虫が居なくても農協の販促メニューをこなすために撒かれたのである。しかし、必要なときは見事な働きをしてくれる。虫食いはイヤという消費者が多い中、農薬害悪論ばかりで農業はできない。自家菜園程度ならいざ知らず1haの水田に這いずり回る虫を、一匹一匹摘み出すことが果たして可能であろうか。農薬のおかげで有機農業が成り立つ環境が出来上がったという皮肉な話もある。

【機械化貧乏】機械の導入で短時間、少人数の作業で済むようになった。例えば昔の田植えは人を雇い未明から夕暮れまで、何日もかかっていたが、今は家族2〜3人で数日かからずに片付く。一番働く機械が最も手取りが多い。田植え後の水汲みもポンプ小屋を備え地域で一斉に行う。さらに収穫後の乾燥、籾摺り、出荷の作業も一括してカントリーエレベーターで行う。これらの手数料を差し引いた残りは労賃にもならない。裏作に麦を作ってやっと小遣い銭が残る。これは1ha未満の農家の話である。そのためもうひとつ職を兼業する。先祖からの土地を守るために農業を続け、不足分の経費を副業で賄うのが多くの兼業農家の実態である。それでも「先祖様に申し訳ない」と土地は手放さない。ここに農の原点があるように思う。それほど経費がかかるなら一層、手作業で行えば良い...とは行かないのだ。隣が機械でどんどん作業を進めるのを横目で見ながら手作業など出来よう筈がない。そして、農業のみならず今や汗や泥にまみれ重労働をこなせる日本人がどれくらい居るというのだ。

注)カントリーエレベーター:米の収穫時期に稲刈りをした「もみ」を持ち込み、それを乾燥・調製しサイロに保管。必要に応じて、もみ摺りをして出荷する施設。

【産直】産地直送の略称。直送なので中間の経費や時間が省け、農家は新鮮で安いものを供給できる。消費者にとっても悪いことではない。近隣に巨大な消費地のある大都市周辺の農家は産直に適している。近年、各地に地元農産物販売所が増えている。規格外の野菜や自家菜園の作物を袋に詰め100円前後の価格で並べる。早朝から盛況で、ささやかな農家との触れあいもある。ただし、多量に捌くことが出来ないので生活の手段とはなりにくい。一方有機農産物の産直を手がける人々は契約した消費者のもとへと送り、生活の手段としている。そのため無理が祟り健康を損ねる農家もあるらしい。有機栽培は真面目に取り組めば予想以上に手間や労力がかかり、その上価格競争にさらされ、割りに合わない面もある。自家菜園では農薬も殆ど使わないし、鮮度の点でも遠方から運ばれる有機野菜に劣らない。

【農業補助金】政治家や官僚、また会社などの不正が報道されるたびに、社会の闇を見る思いがする。学校では教えてくれない社会の仕組みが段々と解ってくる。歳を重ねる毎に諦めにも似た悟りを得る。補助金は誰のためにあるのか?制度や規制は誰のためにあるのか?公共事業は誰のためにあるのか?保険制度は誰のためにあるのか?ことごとく政治家や官僚や関連業界のためにあるのだ。言葉は悪いが「上前を撥ねる」仕事のなんと多いことか。なんら生産もせず生活する者を農家では「穀潰し」と言って戒めた。農業補助金?もちろん多くは農家に配分されるものに違いない。しかし一戸の農家が得る額はたかが知れている。その上多くの厳しい条件を呑まなければならない。「上前を撥ねる」人々は少数で、労することなく静かに堂々と行う。できれば、そのような少数派に属したいと切望する。

【ふるさとの味】食糧を輸入に依存する日本で、ふるさとの味というのは貴重な存在といえる。今年、お茶の産地嬉野町(佐賀県)で起こった事件がある。バラ売りの中国産の緑茶を「嬉野茶」と表記。また中国産が原料の9つの商品(袋詰め)の原産国を表示せず総量約5000kgを販売。この事件を受けて嬉野茶の組合では一定割合、嬉野産の茶が入っていない茶を嬉野茶と表記しないように決めたという。これまで、曖昧なまま嬉野茶として販売されていたのだろうか?対策案の....一定割合というのが寂しいところだ。お茶に限らず米、野菜、肉、魚など食を巡る不当表示や偽装は著しく多い。農家も善人ばかりではない。

【パーキンソンの法則】組織はある目的のために作られるが、いったん出来上がった組織は自己増殖を始めて肥大化、巨大化する。しかし、限りなく巨大化する訳ではなく、いずれ足踏みし、負へ転じる時が来る。人や利益が群がっている為、潔い解体もできず、仕方なく守りの体勢に入る。守りながらも肥大、巨大化の空しいかけ声は続いていく。組織、会社、業界、団体、そして同好会でさえこの法則に支配される。何事も永遠に続くものなどないのだ。

【農家分類】専業農家:全収入が農業/一種兼業農家:全収入に対する農業収入50%以上/二種兼業農家:全収入に対する農業収入50%以下/それぞれの農家の就業人口比は2:3:5になる。専業農家の7割は65歳以上の高齢者である。また8割を占める兼業農家の60%は農産物の販売額100万円未満である。農家所得(全国平均は800万円程度)として公表されるものは、家族全員が勤めや年金その他の収入で得た合計金額である。

【有機農産物ガイドライン】農薬の害と健康志向があいまって農産物にも差別化が生じてくる。有機、自然、天然、完全無農薬、無農薬、減農薬、低農薬、無化学肥料、、、正しく区別できないが、なんとなく良いものという気配は伝わってくる。もともと情緒に訴える言葉に過ぎない。これが高じ、内容は空疎なままシールを貼っただけの有機や無農薬農産物が流通し始めた。これでは生産者と消費者の信頼関係が損なわれるということで、平成1993年に制定される。

  1. 有機農産物:化学合成農薬、化学肥料等を原料として使用していない栽培方法によって3年以上経過し、堆肥等による土作りを行ったほ場において収穫されたもの。

  2. 転換期間中有機農産物:化学合成農薬、化学肥料等を原則としてしようしていない栽培方法によって6ヶ月以上3年未満経過し、堆肥等による土づくりを行ったほ場において収穫されたもの。

  3. 無農薬栽培農産物:前作の収穫後から当該農産物の収穫までの期間において、農薬を使用しない方法により生産されたもの。

  4. 減農薬栽培農産物:前作の収穫後から当該農産物の収穫までの期間に化学合成農薬の使用が、当該地域の同作期において慣行的に行われている使用のおおむね5割以下で生産されたもの。

  5. 無化学肥料栽培農産物:前作の収穫後から当該農産物の収穫までの期間において、化学肥料を使用しない栽培方法により生産されたもの。

  6. 減化学肥料栽培農産物:前作の収穫後から当該農産物の収穫までの期間に化学肥料の使用が、当該地域の同作期において慣行的に行われている使用のおおむね5割以下で生産されたもの。

上記の分類でもかなり解りにくいが具体性は出てきた。そして2001年4月、日本農林規格(JAS)法に基づく有機認証制度が始まった。それまでまちまちだった「有機」や「オーガニック」表示に統一基準が設定され、国が認めた第三者機関の検査に合格するとJASが定めた認証マークを表示できるようになった。細部の規定は煩雑だが、JAS規格に基づき「有機」や「オーガニック」と表示できる農産物はおおよそ以下のような内容である。(1)2年以上農薬や化学肥料を使っていない農地で栽培。(2)農薬や化学肥料を使わずに栽培。(3)生産、加工、出荷までの工程を記録・管理。ところが認証機関や生産者、加工業者の不正が相次いでいる。生産コスト増に加え認証検査の費用も高額でその割りに有機農産物が高く売れない。また、認証団体間の競争のため認定作業での不正も起こっている。高邁な「有機の理念」は一体何処へ向かうのだろう。

【自然食品】メーリングリストなど自然食関連の討論の場では「自然」がキーワードになっている。自然といえば無条件に奉る「神」のようなものだ。したがって宗教性も高い。食も自然、服もオーガニックコットンでないとダメ。化学と名の付くものに手を出さない。自然とさえ言えば可とする。ついにペットの犬や猫にまで無農薬栽培の玄米を与える。「何やら不気味である」、しかし憑かれたように追い求める人は何を言っても聞き入れず妄想や信仰は続く。このようなレベルの自然主義は危険である。危険であるがそのライフスタイルには惹かれる何かがあるのだろう。やがて醒めた人は「熱病のようだった」と述懐する。科学技術、工業、機械など文明への批判として自然を語るものの、文明の恩恵や科学の庇護があってこそ謳歌できるのだ。

【生協】添加物などの話をすると「生協から購入しているので...」と言う人がある。言外に「だから安心」という気持ちが込めらている。私も出来れば生協から購入したい。一般の店よりいくらか配慮があると思うからだ。しかし、安心という訳にはいかない。数年前、佐賀の生協で牛肉偽装事件が発覚した。顧客は離れ、厳しい批判や糾弾が続いた。これが一般の食料品店だったら、あれほどの非難に晒されることもなかった筈だ。配慮があるからこそ、またその配慮で顧客を呼び込んでいるからこそ「襟を正す」べき事もある。「安全で環境に優しい暮らし、より安全で安心できるものの共同購入」という生協の理念は納得が出来る。無添加、有機などの差別化により、一般の店でも安全、安心を標榜する商品が増えている。それは単に営業戦略であるかも知れないが、より配慮のあるものならば消費者の利益になる。

【生産組合】農事に関する業務や行政、農協の取次ぎなどを一括して行う組織である。街には地区に「自治会長」が居て住民の世話や行政の代行を行うが、農村では自治会長とは別に生産組合長が君臨する。生産組合は多くの委員(当番)を抱え、転作、水利、青年部、婦人部、総代、、、などと称する役が回ってくる。しかし、農家の戸数は激減し勤めの傍らそれらの役をこなさなくてはならない。ひとつの役が終わったかと思うと、次の役が回ってくる。もともと農業を行う人の組織だったが、人が足りない為、今は非農家であっても水田を所有している限り逃れることは出来ない。すべての人に役が回ってくるのでアウトローは自然に淘汰され、古くからの「村の掟」みたいなものが踏襲される。

【五穀】米、麦、黍(きび)又は稗(ひえ)、粟、豆。あるいは穀物の総称。祭りの時は五穀豊穣を祈願するが、今や自給できるのは米、一穀のみ。麦を裏作するが国内自給率9%。転作の推奨作物は大豆である。また水田や畑の周りには今でも大豆を撒き自家消費する。国産丸大豆といえば自然派にとって垂涎の的。大豆は言わずと知れた日本人の蛋白源であった。現在の自給率は5%。これを有機栽培している農家はさらに極少数である。オーガニックの豆腐などまさに貴重品で庶民の食卓に上ることはない。多少農薬を使っても自給率を上げることが急務と思う。自分だけオーガニックがいかにエゴに満ちたものかを如実に物語る数字である。ちなみに大豆についてweb検索すると意外や意外。先物取引のページが数多くヒットする。まさにこのような時代なのだ。

【二斗八升】佐賀弁で「にとはっしゅう」と短く発音する。米の重量は現在一俵60kgであるが、昔は升で計量し一俵が3斗であった。一俵には二升ほど足りないので「少し足りない」の意味。もっと足りないのを「にとごしゅう」と言うのかどうかは知らないが、あまりに足りなさすぎる事を秕(しいな)、佐賀弁で「しいら」という。

【家】家という集合体の観念は随分薄れてきた。家と周囲の土地、水田、家族、親類、、そして、これらを取り巻く営みが家という言葉に集約されていた。結婚式や葬式をはじめ多くの催しを家で執り行っていたのだ。そのため家の間取りも座敷、奥座敷が襖を隔てひと続きで、揃いの食器もたくさん備えられた。今はホテルなどの会場を借り、すべて業者任せが多い。特に都会になれば仕方のない状況であろう。農家の敷地は広く、そこには農機具や資材を置く小屋や籾を天日乾燥させる庭があった。引越しセンターに頼んで日曜日を利用して引越しできるようなものではない。家というのは重く面倒なものだ。とりわけ、魂となって漂う先祖様が最も重い存在かも知れない。

【食物連鎖】生き物である以上、他の命を頂戴し生をまっとうしなくてはならない。小さい命を奪ったものは、さらに大きなものの命を涵養する。種を保つには食物連鎖の節理から逃れられない。自らの主食とするものを疎かにすれば、自らの種を絶滅させるに等しい。人は幸い、、、(不幸にも、というべきか?)食物連鎖の頂点に位置し、すべての生き物の命を食い尽くしていく。人を喰うものが人でないことを祈りたい。

【身土不二】しんどふじ、と読む。語源ははっきりしないが身と土は二つにあらず、つまり、一体だという意味。これを表看板にするのがマクロビオティックという玄米菜食のグループである。「自分の身の回りでとれた旬の食物を丸ごと全体を食べる」というのが基本的な主張である。だから、輸入食品などトンデモないことになる。輸入に依存する現状を考えると、どちらがトンデモなのか苦慮する。たとえば、日本食に欠かせない胡麻、白は中米、黒は中国から輸入されている。練り胡麻の価格は約200gで450円程度であるがマクロビオティック協会の扱う国産ものは1500円になる。これほどまで高価な食材を買い集め食養生を心がけると、食費は一般の家庭の2〜3倍に達する。これは最早グルメと呼ぶ以外にない。国産の農産物を販売する謳い文句にも身土不二は用いられる。そして身土不二といえるのは米、野菜くらいしか残っていない。

【音楽農法】農法と名の付くおびただしい農法の数に驚く。○○法、○△式、×○理論、、、と付いただけで何か奥深い原理があり、驚くような秘密が隠されているかのような気がしてくる。そして仕事柄、図らずも代替医療と結びつけて考えてしまう。漢方にも○○流、○×理論、、、というグループが多数ひしめいている。音楽療法ならぬ、音楽農法...つまり音楽を流して作物を育てるだけなのだ。ここにも1/fゆらぎとか、波動効果などの理屈が幅を利かせる。ブドウやナシに、牛や豚にモーツアルトを聞かせる。さらに焼酎やワイン、味噌、醤油の類にまで音楽を聞かせ熟成させるという。良いものが出来そうな気がする→良いものが出来たようだ→確かに良いものだ。と、支持者が増えていくところも代替医療や健康食品に似ている。「音楽を聞けば快い」ただそれだけの事で、何故、農業理論や治療理論へと適用を広げるのだろうか?

【脱サラ農民】農家で育ったものは農業の呪縛から逃れられない。農業にも苦痛な面がいくつかある。機械化は進んだとはいえ、重労働の部分は依然として残っている。炎天下での喘ぐような作業。天候に追われる慌しい作業。このような労働の挙句、収穫間際に天災に遭うと、まさにアウトである。農業を廃業した今でも農繁期になると落ち着かない気分になる。小学生の頃から農作業に借り出された想い出は決して快適なものではない。しかし、脱サラして農業へと向かう人々は喜々として農業に励んでいるように見える。農家が負の部分や不安の種を探すのに対し、脱サラ農家は正の部分や可能性を見据える。農業の楽しい面やその生活に学ぶべき点も多い。脱サラ農民もいくつかのパターンがあるようだ。まさに農業を志向する人々。定年後で潤沢な蓄えがあったり、収入を別の手段で確保しながら悠々と農業を営む人々。自然志向の理念によって農業を営む変わり者も少なからず居る。

【農業小学校】子供に農作業や山歩き、自炊などの体験学習を通じて生きる知恵を身につけさせる運動である。これにより情操豊かな子供にしようというのだ。過保護と言いながら、さらなる保護のもと至れり尽くせりの運動である。世の中や子供が危機的な状況だと叫ぶのは誰なのだ。土曜も休日もなく働いた昔の大人に比べ、今は土・日・祭日休むのは当然となってしまった。刻苦勉励という言葉も遠い昔のもの。これに年末・年始・夏休み・年次休暇が加わる。365日から差し引いてみると1年の1/3は休んでいる計算になる。この余暇が子供との遊びやイベントに向かっていくのかも知れない。私達の子供の頃は、大人がこれほどまで面倒を見てはくれなかった。学校では、今なら人権問題になるような教師の暴言や暴力もあった。今の子供ははるかに暮らしやすい環境にいる。報道される事件は多いが青少年の犯罪は減少しているという。農業体験は子供を異種のテーマパークへ連れて行くようなものではないのか?田植え前の水田で1日だけ泥んこ遊びをさせ、それで逞しい子供に育つとは思えない。「どうだった?」とのインタビューに子供は「うん、楽しかった」と一様に答える。一村一品運動のように善意溢れる少数の大人に子供が振り回わされてはいないのか。

本は農業版・悪魔の辞典の趣であった。その内容を拝借・紹介しながらいつの間にか私個人の農業観になってしまった。恣意も入り過ぎ本の内容を逸脱してしまったが農業に対する思いは変わらないものと確信している。

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麦秋の佐賀平野は藁焼きも終わり田植えを待つばかりになった。梅雨だと言うのに肝心の雨が降らない。農業と縁のない人はどうやら梅雨を好まないようだ。時候の挨拶も「天気がイイですね」、雨が降れば「よく降りますね」で始まる。しかし農家にとっては天候は重大な問題である。必要なときに都合よく天が味方しないと困った事態になる。砂漠のように乾き切った大地にやっと雨が降る。久々の慈雨、雨音とともに草木の笑い声が響く、土や草木に命が吹き込まれ、砂漠は湿地へと変貌し、新たな自然の営みが始まる。

 

もし農産物の輸入がスットップしたら

国際分業が進んでる現在、「金さえあれば食物は手に入る。」と、憚ることなく公言する馬鹿な評論家も居る。それがあまりにも有名で言動に影響力があるので、惑わされる人も多いのではないかと思っている。時にはその様な評論家の尻馬にのって堂々と、農家は国際競争力を持てと言う素人もいる。水と泥を喰って生きてゆけるなら、そんな議論も成り立つかもしれない。農機具も農薬も人件費も生活費も世界一となった日本で、農産物は20年前より安くなっているのだ。あまり感情的になってはいけないが、4年ほどまえ農水省が分析したシュミレーションを紹介してみたい。

世界の穀物価格が高騰したり、輸入が途絶えた時、現在の農地495万hrを維持し、水田転作をやめ米を増産、畑を芋畑に変えても終戦直後の食料難が再現する。国民1人あたりの熱量供給量は今の2/3の1760 Calまで落ち込む。農水省は食料安全保障上の非常事態に備えた「対応策と食料供給シュミレーション」を3段階に分けて明示している。

 

ケース(1)

国内外の不作などにより国内生産の減少や輸入の減少・遅滞が生じるが、
備蓄の活用などで現在の食生活の維持は確保される事態。

(例)
・備蓄制度で想定している程度の異常気象や台風等の災害による国内
 稲作の不足
・主要輸出国や主要生産国における単年度の不作による輸入の減少
・主要輸出国における港湾ストライキ等の輸送上の障害による輸入の遅滞

(対応策)
・備蓄の放出
 輸入の減少・遅滞の場合は、それ自体を最小限に止める為の対策を講じ
 ることが前提
・価格・流通の動向の監視等

(食料供給の水準・内容)
現在の食生活の維持
・熱量 2651 Cal/人・日 蛋白質 90g/人・日

 

ケース(2)

備蓄で対応しきれない・食生活の内容等にも影響が出ざるを得ない深刻
な事態

(例)
・主要輸出国や主要生産国における連続不作による輸入の大幅な減少
 (例:2年連続で穀物・大豆の輸入が半減)
・主要輸出国などでの同時不作による輸入の大幅な減少
・国際的紛争による世界の農業生産、貿易の混乱による輸入の大幅な
 減少・遅滞

(2年連続して穀物・大豆の輸入が半減したと仮定した場合)

(対応策・1年目)
・備蓄の放出 ・米麦等の緊急増産(効果は翌年)
・代替品の輸入の確保 ・(屠畜の増加による畜産の一時的縮小)
・必要に応じて国民生活二法等の活用による価格・流通の規制

(食料供給の水準・内容)
供給熱量水準の低下、米の増加、小麦・油脂等の減少
・熱量 2530 Cal/人・日 蛋白質 84g/人・日

(対応策・2年目)
・代替品の輸入の確保
・米麦の増産による供給増加(前年の屠畜の増加による畜産物の供給減)
・必要に応じて国民生活二法等の活用による価格・流通の規制

(食料供給の水準・内容)
供給熱量水準の一層の低下、小麦、油脂等の減少
・熱量 2390 Cal/人・日 蛋白質 79g/人・日

 

ケース(3)

食生活の内容が大きく変わらざるを得ない状態が長期的・構造的に継続す
る極めて深刻な事態

(例)
需要の大幅な増大に見合った生産拡大が行えない場合に生じる世界の
食料需給の構造的逼迫による継続的かつ大幅な輸入の減少
(例:全ての食料の輸入がゼロ)

(国内生産のみによる供給と仮定した場合)
・熱量効率の高い生産計画を策定し、その計画に沿って生産を誘導
・国民生活二法等の活用による価格の統制、配給制度の実施

(食料供給の水準・内容)
1)農地面積495万hrの場合
供給熱量水準の大幅な低下、米、いも類の増加、小麦・畜産品・油脂・魚介
類等の大幅な減少
・熱量 1760 Cal/人・日 蛋白質 52g/人・日

2)442万hrの場合
供給熱量水準の大幅な低下、米、いも類の増加、小麦・畜産品・油脂・魚介
類等の大幅な減少
・熱量 1620 Cal/人・日 蛋白質 47g/人・日

3)396万hrの場合
供給熱量水準の大幅な低下、米、いも類の増加、小麦・畜産品・油脂・魚介
類等の大幅な減少
・熱量 1440 Cal/人・日(54) 蛋白質 42g/人・日(47)

※このレベルになると現在のカロリー摂収量を100としての
  指数(54)(47)
  

 

こんなシュミレーションがあることも知らない人が多いと思う。しかし決して忘れてはならない。起りうる訳がないなどという保障もない。農水省は異常気象のみを想定しているが、実際は、食料が政治戦略や経済戦略となる可能性の方が高いかも知れない。これは天候に関係なくやってくるものだ。食料の自給できない国は砂上の楼閣のように脆弱で頼りない。食料を捨てるほど豊かさを謳歌してはいるが、、、

後継者の不足により2010年には耕作放棄地が急増し、農地は396万hrまで減少する危険性がある。後継者が居なくなって、どうして増産ができるのか?本当に食料を確保したいのならば、農業を担う国家公務員を増員するしかないのではないか?農産物を買うのではなく、農業を担う労力に対価を支払うのでなければ再生は困難だと思う。

 

農業の公益機能

田畑を維持してゆくのは大変なことである。きっぱり売り払って、街の住民となったほうがどれだけいいか知れない。しかし先祖からの土地は守らねばならないと言う農としての意識がある。売ったところで大した金にもならない、金に酷く困っていないかぎり相変わらず細々と管理を続けてゆかねばならない。田畑は水の管理や雑草の除去、畦や土の管理ばかりではない。そこに注ぎ込む水路も共同で管理して行かなくてはならない。私の属する○○地区という最小単位の集落は約200世帯あるが、専業農家は殆ど居ない、兼業農家が40戸足らず。この40戸で上から流入する水路の管理をしなくてはならない。古い昔からの水利権の関係で慣習となっている。草刈機やスコップ、鎌を持ちトラックを連ね春・秋2回の溝掃除に駆り出される。これに加え、地区の溝掃除もあるので、年間5回は溝掃除の重労働をこなさなくてはならない。

溝を使うのは農家だけではない、誰しも下水路として台所や風呂の排水又家庭菜園をもつ人は、溝の水を使っている。しかし慣習として農家がそれを管理しているのだ。大雨の時は、溝の水門の管理も役割が決められている。効率よく排水できるように豪雨の中、水門の開閉に走り回る。これも農家の役目となっている。後継者も減っているのに、こんな作業は市役所にお任せしたらどうか?そんな意見はまだ出てこないが、いずれ考えなくてはならない事である。

水田の貯水機能の事はよく言われるが、山手で農業を営んでいた人も、次々と土地を手放し、そこは高台の住宅地となった。梅雨の終盤の豪雨の時である。急激に濁流が流れ込み、以前はこんな事はなかったのにと、嘆く声も聞かれる。

農業や農村の持つ景観や環境保全機能は一体どれほどの価値があるのか?野村総合研究所が行った調査がある。全国3236市町村の農政担当者によるアンケート結果。公益機能4兆1000億円と言う数字が出された。これは農家1世帯当たり10万円に相当する額であり、米の総出荷額に匹敵する。

(農林地が持つ公的機能の重要度の評価)

 

水田

畑地

林地

草地

都市的地域 微気象緩和 微気象緩和
レクリエーション
大気保全
微気象緩和  
平地地域 景観保全
大気保全
景観保全
大気保全
生物・生態系保全
微気象緩和 景観保全
中山間地域 景観保全
土壌侵食防止
景観保全
土壌侵食防止
土砂崩壊防止
生物・生態系保全
土砂崩壊防止
水涵養
水質浄化
景観保全

 

農家はこれらの労働をも含めての報酬として、農業生産物の代金を受け取る。補助金などいくらもない。米・麦、さらに玉葱をつくる、コンテナ1杯20kg=100円である。汗を流した価値もない。国際競争力と言うのはこんなことなのだ。農閑期はどこかで賃稼ぎをしたり、別の職を得て、副業として田畑を管理する。これが私の周囲で見られる一般的農民の姿である。
 

農業集落の崩壊

1991年九州農政局の調査、、農家が減り、共同作業や年中行事など農村の機能が失われた農業集落が九州七県で過去10年間に728にのぼった。農村の話合い、「寄り合い」が開かれているかどうかを基準に集落ごと聞き取り調査した結果との事。この減少のペースは前の10年の3倍だという。更に10年が経過したわけで、結果を知るのが恐いくらいである。

今も田植えが終わっての神社参り、収穫の後の秋祭り、また農作業の節目毎のささやかな催しは細々と続いているが、地区あげてのものではない。子供の頃はその様な催しのたび、大人に混じって参加したものである。今の子供は催しの存在すら全く知らない。楽しいことや物が増えすぎ、ご馳走や美味いお菓子も沢山あるし、いつでも手にいるようになった。別に村の祭りを楽しみとしなくても毎日が楽しい祭りであり、「ハレの日」の連続である。

しかし過去の郷愁に浸ってばかりではいけない、村という共同体は年功序列、男中心の封建社会でもあったのだ。農家が減少し土地を手放した後、造成地ができやがて住宅が建つ、そこに新しい住民が移り住んでくる。人権や民主主義の教えを受けた、農業をやらない街の住民である。教えられることは多い。旧態依然とした村が徐々に変わってくる。村にとってはそれが良いのかも知れない。時々、行事に参加の誘いもある。まずは優先順位第1位とすべきものであろうが、今は「用事がありますので、失礼させて下さい。」で済むようになった。

 

消毒か散毒か...

農業用語で害虫の防除を「しょうどく」という。農薬を撒いて無差別に生き物を殺すわけだから散毒のほうが正しい。ホリドールという農薬があった。子供の頃、村でいっせいに散毒の共同作業が行われていた。この農薬1952年登録され1971年失効しているが、猛毒であった。本格使用が始まった1953年に70人の死者、1564人の中毒者、翌年には70人の死者、1887人の中毒者。それ以降は中毒は半減しているが、この農薬での自他殺者・237〜900人/年が13年続いた。

この農薬の散毒が始まると子供は外に出る事ができなかった。大人はマスクを付け作業を続けるものの、完全に吸引を防止できるようなマスクではない。中毒者の多くは不完全な準備が原因であろう。汗と農薬にまみれ血が滲んだようになった大人の背中を今も鮮明に覚えている。現在の農薬はホリドールに比べると毒性は弱くなったとはいえ相変わらず毒に変わりはない。

そのうちヘリコプターで地域いっぱいばら撒く散毒も行われた事があった。マスクを付けて学校へ行ったがそれでも吐気がして保健室で横になっていた記憶がある。散毒計画は、農協の農薬の販売計画で決められていたのを知ったのは、随分後になってからだった。害虫もいないのに散毒の必要はナイ。虫が増えた頃を見計らって散毒すればよいのだ。必要もない散毒で、蜘蛛などの小昆虫まで殺してしまうと、害虫の天敵が居なくなり更に散毒という悪循環を繰り返す。

記憶にあるので、最も散毒の多い頃は7日〜2週間に1回くらいだった。いまはかなり減っている。年に3〜5回程度であろう。これで生産が減少している訳ではない。では、一体今まで散毒した事は、何だったのだ、危険を犯し、農薬代という付加価値の上がった米を作っていたのだ。

危険な農薬、しかし農家の毒に対する警戒心は無防備に等しい。暑いからと、半袖の下着一枚、半ズボン、鉢巻1本でマスクもしない人がいる。その上、くわえ煙草で散毒する姿も見かける。米・麦農家ばかりではない、野菜農家やミカン農家も同じように、暑いから重装備では仕事にならないという理由で、農薬に命を晒す。散毒の後は決まって体調を崩す。佐賀県の肝癌疾病率日本一の原因はこんなところではないかと思っている

農薬の使用は充分な説明がなされていると信じたい。しかし現場はこのような無知蒙昧がまかり通っているのだ。「農薬が恐くて百姓がやれるか!」といった強がりを聞いたこともある。

散毒に無防備な人は農家だけではない、近年、各自治体で煙霧消毒という行事が行われる。農薬を撒き散らすだけの予算の無駄使いに過ぎないと思うが、一体何を消毒するのか?このときマスクをつけている人を見たことがない、大概、撒いた煙を吸いながらの作業である。ここにも、くわえ煙草の豪傑がいる。自治体はどんな薬剤を散毒させているのか知っているのだろうか?被害を最小限に食い止める防衛措置を講じているのか?少なくとも毒を消すという意味での消毒ではない筈だ。はっきり散毒というべきである。

 

米価10倍論

12年前、面白い題名の本を手にした。「米価10倍にしなけりゃ日本はつぶれる」田中佳宏 著。米価10倍にすれば日本がつぶれる、という反論も起りそうな本であった。怒りや暴論かもしれないが、まったくの妄想でもなさそうに思い、楽しく読んだ。米価2倍、3倍、5倍、7倍、10倍、逆に半値と、それぞれのケースで話が展開してゆく。農業者側の多くの思惑を代弁し、かつ農業保護の大部分の論点が集約された本であった。

現在の生産者米価1俵(60kg)16000円、これが160000円、、、しかし、これは夢ではない。あるいは過ぎ去った夢というべきなのか?昭和35年、小学校の教員の初任給10000円の頃、白米60kg 5220円である。2俵で教員の給料の1か月分あった訳である。それから給料は上がり続けほぼ20倍になっているというのに、米はやっと3倍。1hrの水田で米・麦を耕作しても残る金は、勤め人の初任給の2〜3ヶ月分くらいしかない。

農業の持ついろいろな貢献度を経済試算すると、10倍の米価でないと農業は守れないという話。農機具や農薬、農業資材は40年前とするとどれほど高くなったのかこの間農業は機械化され経費だけがかさむようになった。数年がかりで農機具の支払いを終えたところで、次の新型農機具を勧められる。農業のために、副業である仕事の給料をつぎ込む事態も生じている。

今、有機栽培米が1俵4〜5万円位である。1俵160000円とは行かぬまでも1俵10万円位の米を販売している人もある。オーガニックの黒米や赤米などを作り1袋100g 300円で零売すると、1俵いくらになるか?こういった希少米は必ず一定数の愛好家を生み出す事ができる。直売ルートに乗せ自分で販路を確保するという難しい仕事でもあるが、可能性は大きい。

直接消費者に販売する方法はこれからの農業を考えるヒントになるかも知れない。しかし誰もがやる訳には行かない。地区の転作委員会や農協が動き出す。少数だから看過されるのであって、増えればそれ相応の問題が出てくる。大きい街に近い周辺の農業というのは、環境の面に於いても重要な役割を果たしてくれるだろう。更に人口の多い街に近ければ消費者も確保できる。わざわざ輸送手段を駆使し遠方まで運ぶ必要はない。生産者の顔の見える農業に取り組むかたも幾人か知っている。儲かるからと、農業に参入する商社の有機栽培もあるが、やはり信念のある人の有機栽培が嬉しい。

農業を趣味にすれば、最も理想的な生活が出来そうな気がする。パーマカルチャーという農的暮らしを取り入れた生活スタイルの提言である。これも誰もができることではないが、夢のように空想が膨らむ。

 

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