【読書録(17)】-2020-
F.ニーチェは、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」と言った。著者は感染症の第一人者として、新型コロナウイルス患者の発生したダイヤモンド・プリンセス号に乗り込んだ。船内の悲惨な感染症対策に対し、船をコロナ(COVID-19)製造機と非難するが、感染対策の意思決定に参与できず素人の厚労省官僚に船を追い出された。「感染症は実在しない」とでも言ったのだろうか。このタイトルを選んだ著者はもっと哲学的な見方をしている。ニーチェの言葉を借りて、「感染症というものは存在しない、存在するのは解釈だけである」と言いかえてもよい。
症状や検査数値や病変の集合体を病と解釈するのであって、検査数値や病変から〇〇病とされても、人によっては症状もなく健康であれば病気ではない。絶対間違いのない検査は存在しない。たとえ検査が正常でも病気ではない保証とはならず、病気がないのに検査で間違って病気にされ不必要な投薬や手術を受けることがある。薬も手術も無害なものはなく副作用、合併症が起こるかも知れず、リスクを飲み込んで投薬や手術を受ける。リスクと治療との正当な価値交換を経ての治療だ。 検査や機器のなかった時代は症状から病名を付した。たとえば結核菌が体の中に入っても、結核という病気を引き起こすとは限らず、「保菌者」であれば病気ではない。米国の医者は「症状のない結核=潜伏結核」と認識しようと提唱した。この状態を専門家が「病気ではない」というのは恣意的判断になり、とにかく結核菌が体内にあれば「病気と呼ぼう」というのも恣意的判断である。結核菌を持っており、症状を引き起こしているのを活動性結核と呼ぶのも専門家の恣意的判断だ。完璧な検査が存在しない以上、病気とそうでないものを明確に峻別できないため専門家によってそれぞれ恣意的判断が異なる。歴史を振り返ると、もともと結核は現象であり、「もの」ではなかった。長い間熱や咳が続き、緑色の痰や血を吐いて体力を消耗し、痩せてそのまま死んでしまう。こういった症状のある人の病気を「労咳」と言った。19世紀にR.コッホが結核菌を発見するまでは、結核は感染症という認識ではなく、現象の観察だけで診断されていた。物として結核菌が発見されると、結核という病気そのものまで物として認識されるようになる。
インフルエンザという病気も実在しない。急に高熱が出て体中が痛くなり、のどが痛く、寒気がするというインフルエンザの症状はインフルエンザウイルス以外の病原体でも起こる。インフルエンザの症状を示す「状態」の半数以上がインフルエンザ以外の病原体であることが判明している。インフルエンザの検査キットを用いると症状がなくてもどんどん検出され、インフルエンザの診断のもとインフルエンザ薬が投与される。この過程を考えると検査キットが反応すれば、インフルエンザウイルスが原因でなくても検査を根拠に医師がインフルエンザと診断しインフルエンザの治療を施す。検査技術の進歩は正確・迅速に病名の診断ができるが、検査と診断の間にはブラックボックスが横たわり医師の認識が関与する。インフルエンザウイルスは「もの」として実在するが、インフルエンザという病気は「もの」ではなく「こと」であり、実在しない。この理屈を演繹すると新型インフルエンザも他の感染症も実在せず、さらにはメタボやがんなどの病気も実在しない。
実在しない概念だから国によって基準が異なり、どこが間違っている、どこが正しいとはいえない。あたかもルールに基いておこなうスポーツの試合と同じだ。例えば、ボクシングではWBCとかWBAとか所属する協会によってルールが異なる。診断基準が異なり曖昧なのが問題ではなく、恣意的に設けた基準によって健康診断を義務づけ、その基準で病気を量産することが問題だ。では、「がん」はどうだろう、目に見える「でき物」が原因で死んでしまう病気だった。しかし、病理学の発達により「でき物」が顕微鏡下で細胞からなることが分かった。やがて「がん細胞が確認されること」が「がん」という病気だと認識されるようになった。このようながん検診に異論を唱える医者が現れた。「患者よ、がんと闘うな」の本を書いた近藤誠・医師だ。がん細胞が見つかったからといって「がんとは限らない」という、「がんもどき」理論をもとに検診の無意味、手術や薬物治療の問題を説いていく。
病気があれば治療するという一律的な判断に疑問を呈し、「治療しない選択肢」を提唱した点で近藤氏の功績は大きい。しかし、がん検診が無意味というのは納得できないと著者はいう。近藤氏はがん検診で患者の総死亡率は下がらないから無意味としているが、検診は人の価値観も絡むため総死亡率だけを見て一概に無意味とも言えない。近藤氏は「くじ引き試験がされていない」と言って批判する。「使った、治った、効いた」という三た論法では根拠は薄く、使わなかった場合と比較するランダム化比較試験、つまり「くじ引き試験」が欠かせない。しかし、根拠の明かなものに比較試験は必要はない。たとえば感染症を劇的に治す抗生物質、鎮痛剤のモルヒネ、麻酔薬など比較試験をするまでもなく薬効は明白で、疑って使用する医者はいない。高血圧薬、コレステロール薬、抗うつ薬など効果があるかどうか微妙な問題のみくじ引き試験は役立つ。 大規模くじ引き試験にも誤解がある。微妙な研究だからこそ、1000人規模、4万人規模と多く集めなければ差が見つからなかったとも言える。劇的に効く薬であれば10人と10人で比較しても効果がはっきりでるはずだ。モルヒネや笑気ガス、抜歯に用いるキシロカインなど、効果を疑う者はいない。微妙な問題だからこそ恣意が介入し、医者の意図、主義、主張、あるいは感情や打算などを排除することが原理的に不可能である。
近藤氏のいう「がん検診は無意味」との説に対し「一概に無意味とも言えない」と著者は書いている。なぜなら、近藤氏が「がん検診無駄」という主義・主張に則って議論を展開し論文を読んでいるとすれば、がん検診に否定的な論文には賛意を示し、検診有効の論文には否定的評価を下すであろう、これが恣意性なのだ。がんを切るか切らないかは明確に線引きのできない微妙な問題だからこそ、ひとりひとりの医者の恣意の葛藤が起こる。明確に効果のあるもの、明確に有害なものを除くと、ほとんどの医療行為はグレーゾーンだ。証拠に基づく医療をEBM(EvidenceBasedMedicine)というが、NNT(NumberNeeded toTreat)という指標がある。ある医療を提供して一人が利益を得るため何人治療しなければならないかの数値だ。例えばコレステロールを下げるスタチン薬のNNTは35であった。35人治療してやっと一人に利益があり、残り34人は薬を無駄に飲んでいる。「1/35の確率だ」と医者に告げられ、薬を服用するだろうか。しかし、多くの医者は1/35の治療は「けっこう効く」と考えているそうだ。
著者はいろいろな理由で漢方薬も処方する。しかし漢方薬はくじ引き試験で効果が示されていない。漢方の専門家は「何千年も使われており、効果がなければ廃れているはずだ」と主張する。これが漢方家の信奉するEvidenceだ。逆に考えれば何千年かけてもEvidenceのひとつさえ出ない証拠にもなる。東洋医療が長く続いたのは無謬性ではなく継承という東洋文化の特性が大きい。著者は「漢方薬が効くか効かないか医療にどれくらい貢献している分からない」と言う。漢方家は「漢方薬が効かない」のは「証が合わなかったからだ」と言い、技術の研鑽により完全無謬な存在へ向かうかのように語る。漢方が効くか否か、西洋医学がいいか東洋医学がいいかといった議論は無意味であり議論を白熱させるだけだ。「目的に合致しているか」、「正当な価値交換が行われているか」が吟味されなければならない。著者は「わからないにもかかわらず漢方を処方する」との態度をとり、規範もある。漢方、民間療法など肯定も否定もしないが、信用されるには2つの条件をクリアすべきだ。
保険診療もかなりいい加減な根拠で成立しているので、2つの条件は医療はもとより他の曖昧な問題に対する思考の糸口にもなるだろう。 |
新紙幣・1万円札の図柄は渋沢栄一だという。古くは聖徳太子から、板垣退助、伊藤博文、福沢諭吉など、いままでの紙幣の登場人物が浮かんでくる。高潔無比で手放しで讃える偉人だったと思う人もたくさん居るだろう。しかし、隣の韓国や中国の人々は侵略の悪夢を呼び覚ます極悪非道の人物であって、紙幣を見るたび苦々しく思うに違いない。日本の近代は開国・明治維新から、天皇を戴く立憲君主制で始まった。明治政府の文明開化・殖産興業・富国強兵の政策は小学校で学んだが、政府誕生直後に要職にあった人物は幕末に倒幕運動に関わった下級武士集団の一員であった。薩摩藩・西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆、松方正義、長州藩・木戸孝允、伊藤博文、井上馨、土佐藩・後藤象二郎、板垣退助、佐賀藩・大隈重信、江藤新平、佐野常民たちだ。ほかに政府幹部として京都公家や大名藩主もいたが、少数を除いて、いずれも経済の実務に暗く金銭の扱いを知らなかった。 そういった連中が欲しいまま明治政府の要職を手にしたが、早速財政を動かさねばならない。商人のように算盤勘定のできない集団が全国300藩にまたがる日本の大金を動かすことなど到底無理である。しかし「金の力があれば強い武器を得られる」という倒幕の教訓から軍国主義への思想に憑りつかれた。彼らに代わって日本経済を動かし始めたのが商人財閥で三井・住友・安田・古河・渋沢・大倉・浅野・川崎・藤田(後の日立、日産)が続々と誕生し、財閥集団が日本を戦争へ引きずりこんでゆくことになる。 政府首脳の座についた者には政治方針がなく、行政能力がまったくなかった。そこで豪商の三井を呼びつけ金穀出納所御用達を申しつけた。三井は京都御所に手代を10人も派遣し、由利公正のもとで資金と米の調達実務をおこない、この金庫番が、のちの大蔵省である。新政府は、江戸幕府にも劣らぬ法外な金を商人や豪農からせびりとった。江戸時代、武士や大地主は「百姓とゴマの油は絞れば絞るほど出るものなり」と酷使したが、明治政府の施策でさらに過酷になり、百姓一揆が続発した。
三井財閥の誕生は幕末にさかのぼる。三井は徳川幕府を見限り、新政府に資金援助を開始し、巨額の融資で動乱期を乗り切った。新政府には口から出まかせの大言壮語はするが、財務を知るものが居ないことを見抜いていた。金を貢いでおけば新政府の金庫をそっくり頂戴し、財務を総なめにできる。三井の番頭・吹田四郎兵衛は通商司の長官に就き、金庫を預る佐賀藩・大隈重信に官営の船舶会社を設立させた。その下に通商会社と金融業務を営む会社を全国の主要八都市に1社づつ置いた。国が船会社、廻船問屋、貿易会社、銀行を経営し、実際は三井の番頭によって動かされる仕組みが出来上がる。あとは最大の貿易港として栄える横浜の土地問題が残った。幕府が外国貿易のため寒村の横浜に市街地を建設したとき、幕臣たちは農地を商人が私有することを認めず、借地として外国貿易にあたらせた。ところがみるみる富を蓄えた商人にとって借地は手狭で自前の土地を得る力もついてくる。そして明治に入ると土地の私有が認められることになり、商人は農地の借用料のわずか5年分で土地を買い上げ、買い占めた。 新政府の要職に就いた下級武士は、商売に疎いため、銃砲で民衆の怒りを抑えつけながら徳川幕府が切り開いた外国貿易をそっくりいただくことにした。港の産業を自分たちで支配し、軍資金を得る手っ取り早い方法は閨閥(結婚による縁結び)を作ることだ。当時は家父長制で父親が息子や娘の結婚相手を決め、反抗する子供は勘当させられた。系図を網の目のように張り巡らせ一族で利権の獲得と配分を成し遂げる。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といった1万円札の福沢諭吉でさえ、巨大な福沢門閥をつくりあげた。新一万円札の渋沢栄一は徳川慶喜の家臣であったが、財務能力を期待した明治政府に登用された。明治政府の財務が動き出すと渋沢はかっての幕臣の仲間たちを集め、租税、貨幣、建築、鉄道へと精力的に事業をすすめ大蔵省全体を管掌するまでになる。
幕末に全国に300人近く居た大名集団は明治4年の廃藩置県で藩主の座を追われ、巨額な彼らの私財を一挙に預ろうと、東京第十五国立銀行が創設され「華族銀行」とも呼ばれた。ここに膨大な資金が集まり創設4年後には全国銀行株総額の42%を華族銀行が占めた。江戸時代の農民・職人・商人の血と汗によって築かれた日本最大の大名資産になる。この資産は太平洋戦争に敗れる前年の1944年に帝国銀行に吸収合併され、ついに大日本帝国の無謀な戦争によって雲散霧消する。 大日本帝国憲法は第十一条で「天皇は陸海軍を統帥する」と規定し、第十二条で「天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む」と規定し、第十三条で「天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」と規定した。もし悪意ある者が居れば天皇を取り込んで内閣も議会も無視して、軍隊を自在に動かし戦争でもなんでもできる。そして、実際にそれが起こってしまった。いまも大日本帝国憲法の復活を夢見る勢力があることを付け足しておきたい。武士階級を消滅させ貧しい農民を兵隊にする徴兵制を実現し、軍需産業を振興する。その時、すでに財閥がすべての軍需工場を一手に握っていた。
軍需品による利益は、危険な欲望を刺激せずにはおかない。ひとたび戦争が起これば莫大な需要が巻き起こり国家予算が軍需資材の工場に流れ込む。こうして肥大化した軍需産業は戦争に利益の継続を願い、経済そのものが軍需工場なしに生きられないように作り変えられていく。 2年前の2018年、明治維新から150年ということで各地でイベントが開催された。明治維新の志士たちの活躍で日本に自由な時代が到来したと思っている人が多い。しかし、日本を開国し近代化に着手したのは明治政府ではなく、港を開いた徳川幕府である。明治政府と明治文化の主導者たちが自分たちを美化し、脚色して残した記録をもとに、後世の物書きが歴史的事実かのように語り、映画やドラマがそのまま忠実に描写した。明治維新を礼賛し、維新の志士を英傑として祭りあげる。それが武士道や侍魂を鼓舞する態度となって明治以降の戦争を引き起こした。明治政府が主導した日清・日露の戦争勝利によって日本人に優越的な感情が芽生え膨らみ、ついに暴走し大正、昭和にかけて日本人全体がとんでもない間違いを犯した。国際的なルールとして、日本人から被害を受けた国はすべての日本人に連帯責任を問うだろう。戦時中、日本人が犯した悪行から目を背け、「自虐史観」と称して歴史から逃亡し書き換えるようであってはならず、最悪のアジア侵略の戦争時代を見ないようであれば、戦後、連合軍GHQが日本を占領しなにをしようとしたか、日本人がどのようにして平和憲法を生み出したかが分からない。
第二次世界大戦の敗戦までに日本は朝鮮、中国、満州、台湾、フィリピン、インドネシアをはじめとするアジア諸国に対し、鉄道、通貨、生活向上など、文化・文明の普及にどれだけ尽くしたかを語る人々が居る。アメリカと中国の連携にはめられて日本は戦争に突入したのであって、侵略したのではない。こういった人々は日本の軍隊が台湾や朝鮮や満州、中国にどのようにして入りこみ、何を奪ったかについて、ひとことも語らない。
...................................... 植民地主義拡大の起源は江戸時代にさかのぼる。初代薩摩藩主の島津家久が琉球王を捕らえて武力併合して以来、江戸時代全期を通じて、薩摩藩は琉球密貿易のため琉球民に対して蛮行ともいうべき過酷な奴隷労働を課した。ここに徳川幕府は関わっておらず、薩摩藩単独で奄美大島・徳之島・喜界島から強制労働による甘藷栽培で砂糖を独占した。密売したものは死罪とし首枷の刑、足枷の刑などの刑罰で縛った。琉球国は日本と清国の両国に位置していたが、明治5年、日本が一方的に琉球藩として日本の領土にし、明治12年、廃藩置県に伴い沖縄県とする布告を出した。日本はこうして琉球を強奪・侵略したのだ。現在、日本政府は沖縄の辺野古で機動隊を導入し強引に建設を進めており、沖縄県民からは「第二の琉球処分だ」と激しい怒りの声があがっている。
朝鮮半島は豊臣秀吉の朝鮮出兵以降、江戸時代の260年間は平穏であった。鎖国政策をとってはいたが釜山に近い対馬藩(長崎県)は朝鮮との親善外交を密かに進めて成功させていた。ところが明治新政府に君臨した長州藩の木戸孝允が岩倉具視に「朝鮮に鎖国の無礼を詫びさせ、謝罪しないなら兵を送って攻撃しよう」と、侵略をけしかけた。その後、旧士族が起こした佐賀の乱を経て征韓の暴挙は幕を閉じたかのように見えたが、2年後の明治8年、日本はついに朝鮮へ出兵する。日本の軍艦が無許可で釜山へ入港し、朝鮮近海で射撃演習などのあからさまな示威行動を激化させていく。現在のソウルの西の沖合にある江華島に侵入し朝鮮側から砲撃を受けると、待ってましたとばかりに艦砲射撃で応じた。江華島事件といい、軍民を殺傷し、民家を焼き払い、軍需品と兵器を略奪した。続いて翌年、薩摩藩の黒田清隆と長州藩の井上馨が朝鮮派遣特命大臣として軍艦で朝鮮に乗り込み、「開国しなければ軍事攻撃を始める」と威嚇した。 江華島条約といい明治9年、韓国は清国との属国関係を断って開国通商条約を締結させられた。日本は自分に極めて有利な通商権を獲得し、のちには首都・京城に兵士を駐留させる権利や鉄道、電線の敷設権も獲得し侵略への足掛かりを築いていく。苛酷な不平等条約のもと、日本の通貨を持ち込み貨幣の製造を口実に朝鮮の金採掘業者と農民から狡猾な手法で安価に金を略奪し、日本の金輸入量の7割は朝鮮から入るほど莫大な量に達した。不正が横行し朝鮮民衆の生活は極度に圧迫されるようになり、明治15年、日本の横暴に耐えかねた朝鮮兵が反乱を起こした。壬午事変と呼ばれる反日暴動は民衆のあいだにみるみる広がり、李朝・閔妃が中国清朝に援軍を求めた。朝鮮市場に再び中国人が迎えられ、日本人と激しく競争が繰り広げことになり、朝鮮の利権確保のため山縣有朋は軍事費の増額を要求し日清戦争の構えに入る。
日本が清国に宣戦布告して日清戦争が始まると、どさくさにまぎれて沖縄と台湾に隣接する「尖閣諸島」を日本の領土に編入した。日清戦争に勝利すると下関条約を締結し、敗れた清国は台湾を日本に割譲し、沖縄県の日本領有権を認めた。この戦争で日本軍人の死者は1万3825人、戦費総額は2億3240万円。明治28年の日本の歳入が2億7935万円だったので、9か月の戦争にほぼ1年分の国家予算をつぎ込んでいる。日本は朝鮮に対して大々的な経済侵略をおこない、朝鮮貿易から朝鮮・清国の商人を一掃し、大豆、金の地金を求め朝鮮を荒らし回った。当時は金本位制だったので金があればあるだけ通貨が発行できた。福沢諭吉は日清戦争について「これは文明と野蛮の戦争であり、文明国日本にとって清との戦いは正義の戦いである」と新聞に書き、アヘン戦争でイギリスがとった植民地化の戦法を使えとまで教唆している。1万円札の見方も変わろうというものだ。
朝鮮国民が王朝に不満を抱いていたとしても、自国の顔でもある妃が日本人によって蹂躙された恥辱を、胸に深く刻む事件だった。その後、激しい反日抵抗運動が続いたことを日本人の手による歴史にはまともに記録されていない。日清・日露戦争で日本が一方的に領土権を主張した尖閣諸島や竹島も、日本政府はじめ日本のテレビや新聞などの報道界、文化人、知識人も日本が侵略したという史実を一顧だにしない。本来国家の領土はそこに長く人間が住んで生活している必要がある。尖閣諸島も竹島もただの島で人間が居住して生活する場所ではなく、日本の領土でもなく、どこの国の領土でもない。領土権の争いは1970年代から始まり、漁業権や石油・ガスなどの海底資源の所有権が重要な問題となった。戦後の日本の領土権を定義する基礎となるものは、1943年のカイロ宣言である。 「1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本が奪取しまたは占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに満州、台湾および澎湖島のごとき日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」 これに依り、日清戦争で植民地にした台湾を戦後に返還した。また、日清・日露戦争で日本が一方的に領土権を宣言した尖閣諸島や竹島についても主張は通らない。この夏、終戦75年の日に次の談話が発表された。 村山富市元首相は8/15日、戦後50年の「村山談話」発表から25年となったことを受け、談話を発表した。歴史検証や反省の取り組みを「自虐史観」と捉える動きがあることに触れ、「過去を謙虚に問うことは日本の名誉につながる。侵略や植民地支配を認めない姿勢こそこの国をおとしめる」などと記した村山談話の作成をめぐっては、「肝心なことは歴史的事実を明確にして謝罪の意思を示し、二度と侵略や植民地支配を繰り返さない決意を表明することだと強く指示した」と回想した。
日本は日清戦争では中国ではなく台湾を、日露戦争ではロシアではなく朝鮮を戦利品とした。台湾と朝鮮はまったくいわれのない侵略を受けたことになる。朝鮮総督には日本の陸海軍大将をあて、朝鮮の行政権と軍令権を与えた。朝鮮半島全土に蟻の這い出る隙もないほど憲兵網が張りめぐらされ、朝鮮半島の人々を恐怖で支配した。悪魔伝説とまで言われる大日本帝国による恐怖政治が始まった。朝鮮支配を成し遂げた日本は、日露戦争以後に本格的な満州の利権獲得に進出し、さらに中国全土の支配という危険な道へ踏み出す。日露戦争の末期、すでに日本軍の弾薬は底をつき、疲れ果てて敗北直前であった。形ばかりロシアに勝利し、かろうじて戦争に幕を引いたことを日本国民は知らなかった。この戦争のため増税が断行され10万人近い死者を出したが、講和会議でロシアから賠償金がとれないことに日本の民衆は激昂し、3か月近く全国で暴動がおこり戒厳令が布かれた。しかし日本は、南満州で長春〜旅順の700キロの鉄道と5つの支線や沿線の炭鉱の採掘権、南樺太を獲得した。満州は、満州民族の生活の地であり、ロシアと日本は関係のない土地で殺し合いを展開したのだ。
日露戦争後、新たな戦争の嵐が襲ってくる。1912(明治45年)明治が終わり、大正の時代に入った2年後、第一次世界大戦が勃発した。戦火がヨーロッパ全土に広がると、ヨーロッパ諸国からアジアへの輸出が止まり、代わりに日本が綿布や雑貨を大量に輸出し始めた。日本はこの戦争景気によって軍需製品の注文が増え、外貨収入はみるみる蓄積され、財閥集団は手にした資金で近代的な工場建設に邁進した。産業は一気に活気を取り戻し、製鉄と造船などの重工業が急速に回復し、それまで輸入に頼っていた化学工業が生まれ莫大な富を得た。日本は大戦景気に乗じ、中国大総統・袁世凱に「対華21箇条要求」を突きつけた。ドイツが山東省に持っていた権益(関東州の租借権・満鉄の権益・鉄道敷設権)など膨大な要求を認めさせ、あたかも2度目の日清戦争の勝利者のように振る舞ったことで、中国人に決定的な反日憎悪の感情を抱かせることになる。日本の工業生産額は5倍に増大し、またしても造船、海運業界をはじめとする戦争成金が誕生する。驕れる日本に対して、朝鮮で「三・一独立運動」が起こり、京城や平壌などで朝鮮独立宣言が発布され、日本の植民地支配に抵抗する激烈な民衆運動が拡大した。日本の憲兵隊による弾圧と虐殺もすさまじく、朝鮮人7500人が殺され、逮捕者は5万人ほどに達した。 不思議なことに、これほどの蛮行が日本の一般庶民には見えなかった。第一次世界大戦の戦後処理で日本はアメリカ、イギリスに次ぐ第三の強国として認められ、太平洋のミクロネシア諸島、マーシャル諸島、北マリアナ諸島、カロリン諸島などの統治を委任され、事実上の植民地を確保した。強国となれば、ますます軍備の充実を図らなければならず、国家予算の半分以上の65%を軍事に投入している。 政府が軍国主義集団だったとき、国民は一体どんな暮らしを営んでいたのか。軍事費が最大規模になった1920年(大正9年)3月に東西の株式相場が暴落し、戦後恐慌が始まった。株価の暴落で成金が急速に没落し、米価の暴騰により米騒動が全国に広がった。農地における小作人争議も2年間で3258件にも達し、江戸時代の百姓一揆とは比較にならぬほど大きな数になった。元々労働者は農業で食えなくなり極度な貧困のため仕事を求め都市へ流れ込んだ人たちだ。労働者たちは手を結ばねば生きていけないとの自覚から、1920年5月2日に我が国最初のメーデーを上野公園で開催し、1万人をこえる群衆が集まった。それまでの軍需景気は軍艦を柱としていたので造船所の争議が非常に多いのが特徴である。
「背に腹はかえられぬ」ということか、一度、大戦争をはじめた国家は、頂点から底辺に至るまで、果てしなく軍国資本主義に没入しなければならない。軍事費の比率は1919年の65%から、1920年の58%、1921年の53%から1923年に30%台に落ちた。何故か?この年、マグニチュユード7.9の関東大震災が起こり、死者・行方不明者14万2807人を出す史上空前の被害を受け、産業界や金融界の深い傷跡がその後の日本経済の根幹を揺るがすことになる。
日露戦争で日本が獲得したのは満州のなかでも遼東半島の南部先端だけで、鉄道路線も限られており、満州はまだ中国のものであった。1928年6月4日、関東軍参謀・河本大作と守備隊の東宮鉄男らが列車を爆破して、奉天に引き上げる途中の満州の統治者・張作霖を暗殺した。その年、石原莞爾という軍人が関東軍の参謀として赴任し、満州支配がはじまる。石原は日本の食糧不足と資源不足の解消のため、満州の農作物と石炭や鉄鉱など地下資源を狙い、赴任から3年後に実行に移す。満州全土を軍事支配するため夜陰に乗じ満鉄の鉄道路線を爆破し、「中国軍の仕業だと」奸計をめぐらせ総攻撃をかけた。当時満州に居住する人々は35000人で、うち中国人が3/4を占め満州族が16%、朝鮮人が2%で、日本人は0.4%に過ぎない。日露戦争で塗炭の苦しみにもがいた現地人の暮らしを思いやることもなく、たちまち満州全土を制圧していく。石井莞爾は東郷部隊を発足させ、これと陸軍軍医学校を拠点とした細菌戦研究所を設立した。「悪魔の七三一部隊」ともいい、生体実験と称し中国人を細菌に感染させるなど暴虐の限りを尽くした。
当時は国家がメディアを統制する「情報局」が存在せず、軍部の操作が及ばないため、どの新聞社も自主性がありながら、自らの意志で関東軍を声援し侵略を鼓舞した。メディアだけではない、1932年に「大日本国防婦人会」が設立され、20歳未満の未婚者を除いて、すべての女性を総力戦に動員し国土防衛戦の戦士として訓練を施すとした。その実態は隣組など利用して町内でつつましく暮らしている人にも「召集令状の赤紙」を押し付け戦場に送り込み、女たちまで見事に軍国化していた。 このまま日本人の動きを放置すれば、自分たちがまともに生きられなくなる。1932年、耐えかねた抗日ゲリラが決死の覚悟で満州国に反対し、満鉄の撫順炭鉱を襲撃し、日本人5人を殺害した。すると日本軍の撫順守備隊は、近くにある平頂山の住民がゲリラに通じているとして、ただちに皆殺しを決定した。
3000人の死者数は中国側の発表であるが、日本は後に平頂山の大虐殺を認め700〜800人とした。虐殺で奇跡的に生き残った人や遺族の証言から明かになり、戦後になって当時虐殺に加わった元日本兵もすべてを認め泣いて詫びた。平頂山の虐殺の5年後の1937年、盧溝橋事件に端を発した「日中戦争」に突入し、その年末に南京大虐殺を起こし、1938〜1943年にかけ市街地を廃墟に変える「重慶の無差別爆撃」を展開する。1940年以降には抗日ゲリラの掃討を目的に村落の焼き討ちを重ねた「華北の治安戦」で数十万人を虐殺し、日中戦争を通じて、350万人以上の軍人を死傷させた。これは日本の見解であって、中国側は軍人と民間人の合計で一桁多い3500万人の死傷者だとしている。平頂山の虐殺から、日本人は二等兵をはじめとする末端兵士らが、中国・満州・朝鮮の民衆に対して平然と、日本刀で首を刎ねるなどの残虐行為に手を染め、村落からすべてを略奪した。終戦記念日に日本では戦死者、空襲や原爆で亡くなった人々を追悼し、とくに原爆や空襲については、「われらが被害者」として悲惨や非人道を「忘れるな」と訴える。同じく中国、満州、朝鮮の人々もやられたことを「忘れるな」と語り継いでいるのだ。 【付記】長崎新聞(2021/3/17):長崎市内の有志でつくる「長崎の原爆展示をただす市民の会」(渡邊正光代表)は16日、長崎原爆資料館(平野町)を訪れ、同館の常設展示で使用している「南京大虐殺」の表記の修正などを要望した。同会は1996年に設立。毎年、8月9日の平和祈念式典で長崎市長が読み上げる「平和宣言」などの見直しを求めている。要望書によると、中学歴史教科書には「大虐殺」と記述されていないとして、展示も合わせて修正すべきと訴えた。「日本が悪かったから原爆の使用はやむを得ないという原爆正当論を助長する」としている。渡邊代表から要望書を受け取った篠ア桂子館長は「慎重に検討したい」と応えた。 歴史修正主義以外の何物でもない、政権の都合で修正された歴史教科書の記述を頼りに、あたかも常識かのごとくふるまう。いったいどのような息のかかった団体だろうか。 当時、力による軍国思想は農村の小作人や貧困層から、一般国民のあいだに広がり、中国全土から満州・蒙古あたりまで日本が支配した。隣近所の民衆から女、子供に至るまで日本の侵略を己が力として賞賛したのである。しかし、国際社会はこれを認めず、1932年2月から10月にかけイギリスのヴィクター・リントン卿を団長とする満州現地国際調査団が日本軍による残虐な侵略の実態を調べ、日本政府に報告書を通達していた。このリットン報告書を国際連盟が採択し、「日本の満州における軍事行動は自衛の措置とは認めがたい」とし、賛成42、反対1(日本)の圧倒的多数で満州国の独立を認めず、日本の満州国撤退を勧告した。日本全権代表の松岡洋右は国連脱退を宣言し退場し、翌月3月27日、日本政府は国連脱退を正式に決定した。小さな島国の植民地帝国が「全世界を相手に戦う!」と宣言したに等しい。
過去に起こった事実は後世の人間が手を加えることはできない。隠そうとすればするほど被害者は事実を掘り起こす。その前に日本が侵略の事実と反省を語る必要がある。中国政府は現在も、日本人の侵略は「日本の軍人の一部が悪かったのであって、日本人もまた被害者であった」と語っている。日本にとってありがたい言葉だが、歴史を忘れてよいという話ではない。軍人を育て放任したのは何故か、軍人も日本の国民ではなかったのか。第一に封建時代と変わらず個人の言論の自由を奪い、国家が重要とする社会制度の欠陥があった。第二に忠君愛国の念に凝り固まる日本全体の思想の未熟さが、軍国主義と天皇神権思想を疑いもなく育んだ。第三に日清・日露の戦争に勝利してから、日本人の誇りが傲慢さに変わった。そのうえで、最大の問題は資本と軍事力が結びついたことにある。
軍事的にも思想的にも未熟な軍人たちの力を資産家や政治家が利用し、己の野心を遂げようとした。軍人もまた冨や権力をかざし、日本国内での発言力を強め、民衆を暴力でおさえつけ殴りつける者たちが台頭していく。そういう性格の集団は貪欲にアジアの侵略に走り、アジア人の虐殺を重ね、国内でも国民を痛めつけることに快感を覚えたであろう。 日本が受けた戦争被害の記録を追うと、現在の日本人が理解する出来事と全く違う戦争の歴史が見えてくる。言いかえるなら政治家と官僚と高級軍人がとった行動の記録でもあり、彼らは部下や民衆が殺されることに何の痛みも感じなかった。心血を注ぎ働き続けた国民の財産が1935年から10年間のアジア侵略と太平洋戦争でどれほど失われたか。推計を避け確認し得るものだけ集計した被害額は、2000年時価で100兆円をはるかに上まわる。大和魂、武士道、愛国心を掲げ「天皇陛下万歳!」と叫びながら..これだけの額が消え失せた。 航空機産業の被害は特に顕著で、日本各地の軍需工場が空襲で狙い撃ちされた。アメリカとの航空技術の差は歴然たるもので、巨大な爆撃機B29は全長30mもあり爆弾9000Kgが搭載可能で5200Kmの航続距離を有した。時速576Kmで高度1万mを飛行するので日本の高射砲がB29に届かず、迎撃機もB29のスピードに追撃できない。航続距離は2500kmもあり、北海道の稚内と沖縄本島を給油なしで往復可能、まさに「空飛ぶ要塞」と呼ばれた。まず軍用機メーカーだった中島飛行機の武蔵製作所を爆撃し、航空基地の静岡県浜松市、三菱重工・名古屋航空機製作所など、とくに軍需産業の90%以上の比率を占めた名古屋は54回の来襲を受け、愛知県・豊川市の海軍工廠では2400人を超える女子挺身隊員と国民学校児童らが即死した。そして長崎に投下された原爆で幕末から育てた重工業の三菱重工・長崎造船所が壊滅した。 1945年に始まった都市空襲による一般市街地の被害は軍需産業をはるかに上回る凄惨なものであった。兵庫県は1945年2月4日から終戦まで55回の爆撃を受け、6月5日には垂水から西宮まで焼け野原となり、7月4日には姫路市街が全滅。幸い姫路城は残り現在、世界遺産に登録されている。一方、名古屋城は5月14日に2時間炎上し崩壊、場内にあった多数の国宝や建築物と本丸御殿の金の鯱が焼失した。他に焼失した国宝の建造物は数えきれないほどで、戦災で失われた国宝は193件、史跡名勝天然記念物は44件、重要美術品が134件にも及ぶ。人類の歴史上最大の空襲被害とされる東京大空襲は火災を誘発する無差別焼夷弾爆撃で江東地区を中心に市街地の4割、下町がほぼ全焼する壊滅的な被害をうけ死者10万人を超えた。この2日後に名古屋大空襲が始まり、市中心部が焼け野原となり15万人以上が被災、最盛期、135万人だった名古屋の人口は終戦時に半分以下の60万人となり、街は廃墟と化した。 空襲のパターンは市街地の周りに大量の焼夷弾を投下し、大火災を起こし逃げ惑う住民が市街の中心に集まったところへ大量の爆弾を投下するという無差別殺戮が終戦まで続いた。アメリカ人は残忍で無慈悲という前に、歴史を明確に認識する必要がある。1941年、ハワイの真珠湾奇襲攻撃でアメリカの艦船を大量に破壊し、一瞬で軍人2326人を殺し1900人以上を負傷させのは日本人だった。また日本は秘密兵器として風船爆弾でアメリカ本土を攻撃した。これは効果をあげなかったが、製造には中学生や女性が動員されたため、米軍は日本の民衆が何をするか分からないという恐怖を覚えた。一連の空襲で50万人が焼き殺されたが、負傷者はさらに過酷な人生を強いられ、親を失い戦災孤児となった子供たちは12万人を超えた。同時に米軍の死者も10万人に達している。
沖縄戦は空襲として扱われていない戦争被害である。東京大空襲の2週間後から始まるが、前年の1944年10月10日にはアメリカの空母が沖縄各地を攻撃し那覇市の市街の90%が焼失していた。翌年からは米軍が沖縄に上陸し、初の日本領土侵攻となる。日本軍が勝算もない無謀な反撃を繰り返したため、米軍が沖縄戦終了を宣言するまで3か月もの戦闘が続いた。終戦までの戦死者18万8136人、うち民間人12万2228人とされるが実数はこれを大きく上まわる。 東京大空襲、沖縄戦と並んで最大級の被害を出したのが1945年8月6日の広島原爆投下、8月9日の長崎原爆投下である。人類史上最初の核兵器実戦使用となり、広島の即死者と被曝による死者は20数万人とされている。長崎市が国連に報告した被爆者の死亡数は約7万人。長崎は午前11:02に炸裂し、20の学校が全焼し、授業中の児童生徒の六割が死亡した。
この5日間、8/10に東北地方、千葉県房総半島、東京周辺、九州の熊本・大分・宮崎、山形県酒田市が空襲を受け、8/12に福岡県久留米市が大空襲で2万人が罹災し、福島県郡山、佐賀県、愛媛県松山が空爆を受けた。8/13には長野市、長野県の松本・上田・須坂、山梨県大月も空襲された。終戦前日の8/14には埼玉県熊谷市、大阪、秋田、群馬県高崎・伊勢崎・太田・桐生、神奈川県小田原、大分県佐伯、大阪陸軍造兵廠、山口県光市の海軍工廠が空襲された。
これら都市への空襲は3月10日の東京大空襲から激化した。前夜10時30分に東京に警戒警報が出されたあと、大阪・名古屋では「敵機が北上中」とラジオでしきりに放送したが、東京の人々はそれをまったく知らされず寝込んでいた。東京では陸軍が報道管制を敷いて空襲警報を出さず、東京の人々を見殺しにした。そこに同盟通信社、NHK、新聞社、大日本婦人会、大政翼賛会、大日本産業報国会も加担したのだ。 東京大空襲の3週間前、米軍はマリアナ諸島と日本本土の中間にある硫黄島を制圧した。2月16日、硫黄島を猛攻撃した爆撃機がマリアナに大量にあり、そこからB29が飛び立ち東京を空襲した。
大本営は硫黄島の戦闘について、米軍上陸前から全員が玉砕する結果を確実に予測していたが、硫黄島での日本兵の戦闘を撮影し、英雄的な記録映画として国民に見せ欺いた。映画を制作したのは文部省、日本映画社、電通、理研科学映画であり、朝日新聞、大阪毎日新聞、東京日日新聞も大本営発表をそのまま報道した。彼らは日本軍が硫黄島で玉砕後も、敗北したとは言わず、英雄的戦闘と讃え国民に「一億総玉砕」を呼びかけた。日本の指導者たちは、戦争に勝てないと分かっていたから、国民に玉砕=死を求めたのだ。 勝てないことは真珠湾攻撃を開始したときから明らかだった。1941年に日本は石油の7割をアメリカの輸入に頼り、石油保有量もアメリカの100分の1、生産量は500分の1以下だった。軍艦も飛行機も戦車もトラックも動かせないことを知りながら参謀本部は無謀な戦争に国民を駆り立てた。
1937年の日中戦争開戦から敗戦までの8年間における戦争犠牲者を新聞が掲載した数字で示すと次のようになる。加害者である日本側の推測なので実数よりかなり少ない。
アジア各国の犠牲者総計1760万人以上は、日本人の犠牲者の5倍である。東日本大震災の死者・行方不明者が2万人余りなので、戦争の蛮行のすさまじさは桁違いである。日本の敗戦により朝鮮、台湾、満州、アジア全土が日本の植民地支配から解放された。終戦時日本に居た在日朝鮮人は強制連行を含め200万人に達した。
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新型コロナウイルスによる未曽有の危機に直面し、専門家、一般を問わず様々な情報が飛び交う。ついに「デマに惑わされるな」という警告が発せられた。医者や研究者など専門家が発信するものは説得力があり、ことによると医療は「説得」で動いているのかもしれない。
健康法のデマよりひどいのが病気の治療で、「脅し」が加わる。著者は医療業界の「あおり運転」だという。世界中の医学論文を読み込むと、成人病の9割は白髪と同じく老化現象であって、防止も治療も無理だ。本書は氷山の一角として、医者たちがいいふらす52項目のデマが書かれていた。さらにその一角を紹介する。最後の章は近藤先生推奨のホントの話も10数項目あった。 ※体温を上げると健康になる 免疫学者・安保徹氏の「低体温は万病のもと、体温を上げるには入浴が最適で、体がポカポカすると免疫力が上がる」との説だ。がんの温熱療法というのもあり、1980〜90年代半ばまで脚光を浴びたが、理論は確立しておらず導入する病院も学会の会員数も減っている。実は体温が高い人ほど死亡リスクが高まり、平熱35℃台の人たちが死亡率は最も低い。0.149℃体温が上がるごとに年間死亡率が8.4%増加する。温泉好き、風呂好きは、嗜好が長生きに通じるならと温泉巡りや長風呂で体温を上げようとする。1時間毎に温泉につかる、皮膚が赤らむほど熱い湯につかる。どれもこれも結構なことと思いきや、風呂での年間死者数は19000人で交通事故死者数の5倍以上だ。とりわけ長生きへの欲求が強い高齢者が危ない。シャワー文化の欧米では入浴中の死者は10万人中1〜2名だ。消費者庁のアンケートでは42℃以上の高温入浴派が4割、10分以上つかる人が3割、高温浴は熱中症のリスクに加え血液を凝固させる血小板が活性化する。発汗で体内の水分も減っているので、それが心臓や循環器系などの事故を引き起こす。風呂は41℃以下、10分までと心得るべし。 ※ストレスとがんは無関係 がんではない男女11万6056人のストレス状況を詳しく調べた後、12年間追跡したところ、大腸がん522人、肺がん374人、乳がん1010人、前立腺がん865人の発症がみられ、いずれもストレスの多少とは関係が認められなかった。かつてドイツの心理学者が「がんのリスクはタバコよりストレスの方が絶大」と言ったことが世界中に広まった。この学者はタバコ産業から莫大な寄付金を受け取っていた。がんは正常遺伝子に傷がつき突然変異して生じるもので、日光、放射線、排気ガス、タバコなど様々な物質が関与する。いつ発症するかは運命だ。原因をストレスに帰するのは医者のみならず各種治療家にもみられ、説明困難な逃げの方便でもある。「きちんと薬を飲まなかったからだ」、「なぜ、こうなるまで放っておいたのだ」、「食事の摂り方が間違っている」、「運動不足だ」などの口上はあまた聞かされる。祈祷師にお伺いを立てると「先祖の霊」、「水子の供養」などと御宣託を垂れるが、これと本質は変わらない。 ※漢方薬はおやめなさい。効能も副作用も不明です 自然由来だからと無批判に穏かで安全と思い込む。医薬品中、漢方薬のシェアは1%に過ぎないが、過去5年間に報告された1220件の重篤な副作用のうち風邪薬404件、解熱剤系234件、漢方薬系123件と副作用の発生率は高い。副作用も不明だが、薬理作用はさらに不明で、「いままで使ってきたから多分効くし安全だろう」くらいの理由で利用するのが現状だ。漢方薬の科学データは山ほどあるが、治療における比較試験など証拠となるデータはない。痛いアドバイスだが、仕事では、たくさんある漢方薬や生薬のなかのいくつかは「多分効くだろうし安全だろう」といった信仰にすがっている。 ※「糖質制限」を続けると深刻な病気や、早死にのリスクが高まる クスリの使用に警鐘を鳴らしてきた浜六郎氏の本はコラムで何度も取り上げた。ところが、ある日唐突に糖質制限食を唱えるようになった。それ以来、氏の著書は手にしていない。専門家でさえとり憑かれ妄信もする。それを知識と権威を駆使して説得し、本にまで書く。まったく以て始末に負えない。2019年11月24日放送のNHKスペシャルで、米シモンズ大学教授のテレサ・ファン博士が「糖質抜き」ダイエットに警鐘を鳴らして大きな反響をよんだ。同大学チームは13万人の食生活と健康状態を20年以上追跡した。総カロリーの60%を糖質で摂る人に比べ、糖質が35%の人は死亡率が1.3倍以上になった。石器時代から人類の栄養源は糖質だった。糖質を抜くと、ブドウ糖しか利用できない脳がまず悲鳴を上げる。体が無理をして脂肪やタンパク質からブドウ糖を供給しようとするため、有害物質のケトン体が生じ体を痛めつける。しかし、まったく逆の発想をする専門家も珍しくない、驚くことに「ケトン体が人類を救う」とまで豪語する本もある。専門家と称する人々は影響力も大きく、言われたとおり実践する信者が存在するから厄介だ。これとは逆に、糖質は重要だからと胚芽の栄養まで摂れる玄米がいい、という人もいる。たいがい菜食とセットでの食事療法が多い。「栄養を減らしがんを兵糧攻めにする」という理屈もあるが、栄養が不足すると正常細胞のほうが先にやられ、体力も抵抗力も落ちてしまう。がん患者の8割は栄養障害による感染症で死んでいる。肉、魚、牛乳、卵などを糖質とのバランスを考えながら摂るべきである。 ※減塩で体内バランスが狂う。1日10〜15gが最も長生き 減塩、体重減らせも医者や治療家の逃げの方便の一つで、治らない患者に責任を転嫁する。権威ある医学誌「ニューイングランド・ジャーナルの報告によると、塩分を1日10〜15g摂る人たちが最も長寿で、それより減るほど心筋梗塞などに罹りやすく、死亡率も上がる。水と塩が共同で心臓の拍動を支え命を守っている。どちらが欠けても脱水、めまい、精神障害、腎不全、昏睡、最悪の場合は死に至る。塩を摂りすぎても尿として出ていき必要な分は残る。1g、2g単位の苦行を強いられる人には朗報だ。 ※職場検診も、胃がん・肺がんの集団検診も欧米には存在しない 1980年代、チェコスロバキアで肺がん検診の比較試験が行われた。喫煙男性6300人を2群に分け、肺がん検診を年に2回受ける組と受けない組で3年間追跡した。3年後、肺がんの発生、肺がん死亡数、総死亡数とも検診を受けた組が2割以上も多かった。アメリカで行われた同様の試験でも同じ結果が出ている。日本の検診は「毎年検査して早期発見すれば寿命が延びる」との思いつきで広まったが根拠はない。健康なのに、医者から異常を見つけ出され、手術や投薬で不調になる人が激増している。 ※ボケ(認知症)、うつ病、骨粗しょう症のクスリで身も心も折れる 認知症の患者が、2025年には約700万人、予備軍も含め約1300万人になると厚生労働省は推計している。65歳以上の3人に1人がボケか半ボケということだ。それに伴いアリセプト、メマリーなど4つの認知症治療薬の市場規模も2000億円になる。しかし脳細胞が老化して働きが衰えたものをクスリでは治せない。フランスでは4つのクスリとも「有効性に乏しい」として公的保険の対象外だ。衰えた脳がクスリで鼓舞され徘徊、妄想、わめく、暴れる、歩行困難など深刻な副作用を引き起こす。うつ病のクスリは脳内のセロトニンが増加し眠気や自殺衝動を引き起こす。骨粗しょう薬はカルシウムが増えても骨は脆弱になり、顎の骨が腐ったり、大腿骨中央部で骨折が起こったりする。 ※早く切らないと大変なことに 本当にあった話だ。甲状腺腫である病院を受診したところ「3か月後には大変なことになる」と医師に脅された。「手術受けます」と答えたところ「それでは6か月後に手術しましょう」との事。大きい病院は若手医者を集めるために運営上、手術件数を増やす必要がある。明らかな良性腫瘍でも「放っておくと大変なことになる」と手術へ誘導する。そのうえ予防のためとしてリンパ節も同時に切除する。欧米では「リンパ節切除は無意味・有害」として行わない。リンパ節切除群のほうががん死亡数も総死亡数も多い。 ※副作用の少ない、いい抗がん剤がありますよ 副作用の少ない抗がん剤などこの世に存在しない。昔ながらの抗がん剤も新薬も「細胞毒」だが併用される副作用止めが進歩している。おかげで吐き気が少なく、ステロイド剤でだるさや食欲不振も激減した。ところが副作用を感じないだけで毒性はあるので死者数が増えている。以前は副作用の苦しさから患者さんが根をあげたが、いまは副作用止めに騙され蓄積した毒性で突然命を奪われる。 ※手洗い、うがい、マスク、ワクチン、クスリ、すべて風邪・インフルエンザに無力 だから「免疫力をきたえて自分で治そう」という話だ。風邪、インフルエンザのウイルスは1mmの1万分の1と極小のため、どんなマスクもすり抜け肺に入る。手洗い消毒でも、その手でなにかに触った瞬間、ウイルスが付着する。うがいも無意味で欧米では行われていない。ワクチンやクスリで防いだり治す効果はない。もっともなことだが、新型コロナウイルスに翻弄されるいま、インフルエンザや風邪と同様の対策でよいのか疑問だ。いままで欧米の人々がマスクをしないとは聞いていたが、現在テレビ報道で見る限り全世界の人々がマスク着用を励行し、手洗い、うがい、人との距離をとるなど努めている。テレビで流される飛沫の映像は誰もが一度ならず見たであろう。特殊な撮影法で飛沫の動きが確認できる。ウイルスが空気感染するなら無意味かも知れないが、新型コロナは飛沫と接触によって感染する。咳やくしゃみによってたちまち部屋中に広がり漂うのを防ぐため、マスクは有効だ。接触を避けるための宴会や集会の自粛も理に叶う。それを納得しているからこそ世界中の人々はマスクを着用し、手洗いをし人との接触を避ける。この項目で比較試験は紹介されていないが、調べてみると、マスク、ゴーグルなどを着用すれば、しない人に比べ70〜80%の予防効果があった。注意をしていても感染は起こるが、その結果を捉えて無力とはいえず、医療スタッフの防護服やマスク姿を否定できない。もっと有効な方法が出てくるまでは最高の対策であろう。いまはマスクがエチケットの域まで広がり、人と対するうえでの標準装備となった。飛沫の映像は少なからず衝撃を受けた。宴会で寄り添って酌をしつつ語る、話は白熱し食べもののカスも唾も飛んできた。料理を作る人も運ぶ人も今まではマスクなしだった。イベントの出店ではむき出しの料理や食品が並び素手で試食もした。コロナが終息したとしても、以前のようには戻らないだろう。インフルエンザも飛沫と接触により感染する。現在のコロナ対策が継続されれば、この冬のインフルエンザは激減するかも知れない。手洗い、うがい、マスク、無力という説が検証される。 |
充て職で市の環境美化推進員の役を授かった。年一回の講習会に出るだけで他に大した仕事はなく、もちろん無報酬だ。その講習会で市がEM活性液を無料配布していることを知った。市役所のサイトを閲覧すると「EMジャブジャブ作戦」というページがあり、作戦の目的が謳われていた。
合成洗剤や漂白剤を使うと便利だが、川や海を汚染する。一方EM菌は浄化パワーを持ち汚れや臭いを分解し自然界に悪影響を及ぼさず、アレルギーのある人にも有効だという。これを生ごみに混ぜて堆肥化し野菜を育てると、土中の微生物を活性化し土壌環境が改善するので立派な野菜ができる。そのうえ生ごみの焼却が減り二酸化炭素の削減にもつながる。少しでも猜疑心があればいいこと尽くしの話は警戒するが、市民の中にも利用者が居て、熱心に取り組む人は河川浄化と称し、小学生とともにEM団子を作って川に投げ込む活動など行う。民間の誰かがやれば「マユツバ」だが、公的団体が旗を振ればトンデモな話でも説得力がある。EM菌の取り組みは各地の団体や学校で行われ、わが町だけに特異なものではない。 EMとはEffectiveMicroorganismsの頭文字をとったもので「有用微生物群」という。開発者は比嘉照夫氏で、彼が琉球大学教授だった1993年「地球を救う大革命」という著書がベストセラーになった。EM菌はもともと世界救世教という宗教団体が扱う微生物資材であった。浄霊という手かざし儀式をおこない、自然農法や芸術活動を推進するなかで神からのプレゼントとしてEM菌が生まれた。著書はサンマーク出版から出され、当時、有名な経営コンサルタントだった船井幸雄氏が賞賛したことで話題になった。
世にさまよう地縛霊か熱病にうなされる子供か、大学で教鞭をとるものの話とは到底思えない。さらにEM効果は飛躍的に広がり奇想天外な領域に達する。EM生活をしていると大きな地震が来てもコップひとつ倒れなかった。EM栽培に徹すると自然災害が極端に少なくなった。EM生活で健康になり人間関係もよくなり、学校のイジメがなくなった。電気料金も安くなり、電気製品の寿命も延びた。人の欲望や願望のすべてを満たす力がEMにはあるらしい。比嘉氏は「なんでもいいことはEMのおかげにし、悪いことが起これば、EMの極め方が足りなかった」として更なる精進を求める。EMは学術誌にも報告されておらず、科学的評価も定まっていない。それどころか科学的にありえない万能性をうたい全国の自治体や学校へ広がる。 2015年秋、山形大学理学部准教授の天羽優子氏により、「小・中学校におけるEMの利用を止めよう」という署名活動が行われた。趣意書には(6)項目について問題点が指摘されている。いくつかをまとめると、EMの投入によって河川が浄化されたという実験結果に公的な試験機関からのものがない。逆に顕著な効果が無かったという報告が地方公共団体から出ている。根拠の明確でないものを学校教育の場で無批判に利用することは、子供の客観的判断能力の成長を著しく阻害する。 EMは微生物で有機物だから河川や湖沼、海に投入すると、それ自体が水域への有機物負荷を増大させる。余分な微生物のため環境を悪化させる可能性があり、環境中の微生物の組成を変えてしまいかねない。また少量の投入はパフォーマンスに過ぎず、本当の水質浄化の方法を学ぶ機会を失う。 EMはどのような微生物がどれだけの割合で含まれるか明らかにされおらず、人体への安全性についての資料も出されていない。また、製造プロセスに原料や器具の殺菌工程が無いのでどのような菌が優勢になるかわからず、人体に対する安全性の保証が困難だ。なんでも良しの宣伝をするので、飲用でないEM活性液を飲んでしまう事例もあった。
学校や地方自治体が子どもたちや市民にEMボカシや団子を作らせ、環境活動として、特定の会社の商品であるEMに助成金を出す。政界では2013年に「EM菌議連」が発足し100人を超える規模になった。比嘉氏は彼らを通じて様々なEM商品をすべて使う「EM生活」を国民の義務にすることを狙っているという。EM生活をすれば生活習慣病などなくなるので社会保険制度は不要になるという。彼らはEMの非科学性や活動を批判する人たちに対し、身分を隠して押しかけ「名誉棄損」、「営業妨害」だと批判封じをする。EMに科学的証拠や効果に自信があれば公明正大な議論をすればいい。しかし、議論に耐えるどころか、俎上にも載せられないトンデモ科学が全体を貫いている。物理学の用語に素粒子の波動性と粒子性があり、共振と共鳴という現象もある。
水の持つ情報は代替医療のホメオパシーにも出てくるが、いわゆる「水伝」とよばれる「水からの伝言」の著者、江本勝氏のさまざまな「波動商売」にみられる。「ありがとう」と語りかけた水は氷結すると美しい結晶になり、「ばかやろう」と言えば崩れたり汚い結晶になる。学校の道徳の授業で「悪い言葉を使うな」という説明に使う学校もある。こういったニセ科学を堂々と授業に取り入れる例は他にも山ほどある。 誰がどのようにして持ち込んだのか?教育技術法則化運動の略でTOSS(Teachers'Organization of Skill Sharing)といい、前身は1984年に向山洋一氏が立ち上げた「教育技術の法則化運動」だった。向山氏が自分の教育技術だけでなく、すぐれた先輩教員の技術も取り込んで法則化論文として投稿を促す運動だ。当時は向山氏のオカルティストの傾向や右翼的考えの一面をわかっていなかった。向山氏は次第に教祖化していき、論文は氏を宗教の教祖のように崇める内容に変わっていく。2000年にはTOSSランドというウエブサイトを開設し、会員数1万人を超えるわが国最大の教育団体へと膨れ上がった。向山氏は科学リテラシーが弱いのではなく、確信的オカルティストであり、「水からの伝言」や「EM」、「波動」などから、原子力発電万歳やゲーム脳のようなニセ科学の教育も進める。科学だけでなく、歴史修正教育もあり、右翼的考えのため、別の教育方法を排除していく。著者は危険と感じる理由を3つあげているが、現政権は極右傾向の政治家が席巻し、彼らとの関係も深めている。総理夫妻は「水からの伝言」やニセ科学など信じ、教育へも積極的介入を見せている。そのひとつ教育勅語の復活は余りにも有名だ。 オカルトでもニセ科学でも受け手が皆無なら広がらないが、きちんと受け手は居る。ニセ科学の普及に一役も二役も買ってきた故・船井幸雄氏のいう4つのタイプ分けによると、(1)タイプは先覚者として、2%くらいの人がいる。男女比は男:女=2:8で、女性が中心だ。(2)タイプは素直な人で20%くらい、先覚者のいうことに素直に耳を傾ける。(3)タイプは普通の人で70%弱くらい。(4)タイプは抵抗者で10%弱、50歳以上の男性に多いという。(1)タイプの先覚者の3〜4割が動き出すと「素直な人」の半分くらいが同調する。さらにそれに「普通の人」が追随しブームが起こる。この中に教員や公務員など影響を及ぼす力のある人がいるのが問題だ。
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奇抜なタイトルだが、まさか偽薬を売るものはいないだろうと、検索するとAmazonや楽天で堂々と販売されているではないか。プラセボ製薬は、「薬を飲まないと不安になる方のために..」と謳い、食品として販売する。本書はプラセボ製薬の社長の著書だ。私はプラシーボ(placebo)の読みに慣れているがフランス語読みでプラセボ、ラテン語ではCEをケと発音するためプラケーボーという。プラシーボとは薬理作用を持たない薬の他、効果のない処置や偽手術も含み、治療環境や治療家の働きかけにも患者が反応し効果を発揮することをいう。プラシーボ効果についての症例や体験談は山ほどあるが、プラシーボ効果の原理を説明するのは困難を要する。著者は果敢にもそれに挑む。
哲学事典を開くと神の存在証明というのが4つ書かれている。1)存在論的証明、2)宇宙論的証明、3)目的論的証明、4)道徳論的証明、このうち宇宙論的証明を分からないことの説明に使おうという。科学は第一原因としての「神」を持ち出せないため、薬効のない治療や偽薬によって起こる変化を「プラシーボ効果」と規定した。著者は、プラシーボ効果を「神」として、その存在の可否を問わない。 インフォームドコンセントのことを、古くはムンテラ(独:Munttherapie)といい、これには金融・証券用語の「口先介入」と同じく、話すことで効果をもたらす意味もあった。一般に暗示効果というものでプラシーボ効果はながらく心理的なものとして解釈された。やがて気休め薬のプラシーボ効果は非実体的なものから実体的な認識へと進んだ。体内の生理活性物質が関与する生理学的・神経学的な現象とされたが、これは用語を変えただけで真の説明には至らない。一般的にここまでの認識で多くの治療家は日々の仕事に取り組んでいるものと思う。
科学的証拠(evidence)を欠いても医療は行われる。たとえそれが疑似科学であり妄想であろうが、納得しうる論理性を備えていたら決断や行動の支えとなる。代替医療の論理、科学用語を駆使した健康食品の宣伝など、一見論理的で整合性のある体裁を備えたものは、説得力があり購買行動を促す。プラシーボにも、こういった説得力のある論理を構築しようという。著者は数学の素養があるらしく、プラシーボを数字の「ゼロ」に例える。連想は次々と繋がりゼロから無や神へと発展する。ゼロの発見が数学史上画期的だったように、ゼロの有用性でプラシーボを解釈する。ここから独自の理論が始まり、ゼロと2乗してマイナスになる数を導入し複素効理論という。読んでいて分からなくなったので、要諦を引用する。
治療を受ける患者を虚数的な要素を有する複素数的存在と仮定し、複素数的存在である偽薬や治療が作用することで複素数的状態を変化させる。ドーナッツの穴は目に見えるが、そこには実体はない。代替医療は科学的根拠がないということで批判されるが、通常医療にも厳密な意味での実体はない。 人間は何かしないではいられない生物で「何もしないこと」を甘受できず、自然現象や老化までも病気にして治そうとする。自然治癒も見込まれる症状に対しても納得せず薬や治療を追い求める。ここで偽薬は「しない」を「する」に転換し、実質的に「しない」効果を生みだす。プラセボ製薬は自然治癒力を基軸とした健康観の普及を目指すという。偽薬のプラシーボ効果を利用するのではなく、偽薬が効かない特徴を肯定的に利用する。薬効の評価はさておき、治療や薬でプラシーボ効果が得られるなら、私はそれを利用したいと思うが、著者は効かないという認識を元に利用する。知的冒険心を満たすための仮説のような気がしないでもない。 代替医療の多くは東洋思想に通底し、プラシーボに根ざした治療と混然一体だ。東洋医学は科学のルールに即していない公理系だという。「分類すれども測定せず」、陰陽や五行によって証という細分化された概念で診断・治療をおこなうが、数値が出てくることは皆無だ。証を数値で示す流派もあるが、科学的体裁だけで科学の欠片もない。測定機器を用いた成分分析、動物での薬理試験、2群に分けた臨床試験もなされるが、これは東洋医学を素材にした科学実験だ。
東洋医学をモデル化して単純化すると現実に即応できないから「考えるな、感じろ」という。東洋医学は科学性の欠如から自然治癒力やプラシーボの要素を分別せずに扱い、西洋医学は二元論に合理化するため、現実の複雑さと客観性のあるものとの対比が可能になる。西洋医学が力を発揮するのはヒトの世界モデルと現実世界の複雑さに大差がないときだ。
「科学では説明できない事柄がある」、「まだ科学では説明できていない」、「科学では説明不可能だ」、ところが宇宙の起源を陰陽の気の交わりとする東洋医学では、そこから森羅万象の説明が可能だ。東洋医学ではプラシーボ効果の認識もなければ解明もなく、体系が完結する。それを科学が覗き見ると、プラシーボや自然治癒の掌中で走り回る孫悟空のように映るのかも知れない。多くの代替医療、そして西洋医学のいくつかは第一原因としての「神」を認めるところから体系が広がる。複素効理論ほど難解ではないが診断や治療の理論とされるものは治療家にとっての真理なのだ。 |
大学病院を辞めてからの近藤先生は、しがらみから解き放たれ発言に過激さが増したのではないか、と思いつつ文字を追った。2012年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中教授は研究の特許を取得する理由を「金儲けに転用されることは、絶対に防がなくてはならない」、「公的機関である京都大学が特許を申請することは、『iPS細胞研究』の特許を独占させないためのもの」と語った。一方、本庶教授は「オプジーボ」の特許料などを巡り、小野薬品工業が提示した寄付額に対し「200億〜300億円で済ますのはあり得ない」と拒否した。二人のノーベル賞学者の対照的な行動であった。本庶教授が小野薬品への不満を漏らす談話はテレビで見たが、製薬会社とどんな駆け引きや葛藤があったのか。小野薬品はオブジーボ研究のスポンサーになり、社員が論文の著者として名を連ねている。別の製薬会社ではあるが、2014年に発覚したノバルティス事件では社員が大学の研究室へ入り込み、教授へ研究費を提供したり、高血圧治療薬・ディオバンの論文データを捏造した。製薬会社と医師との結びつきは強く、ほとんどの新薬がなんらかのヒモつきと考えてよい。 「免疫療法」といえば胡散臭いものから、高度な理論まであり、意味を熟知しないまま「良さそう」という情緒で利用するのが一般的であろう。「人体にとってがんは敵であり、免疫システムが働けば細菌やウイルスなどの外敵ばかりでなく、がんも根絶できる」との考えが基本になる。しかしこれが間違っていることを示すデータが出てきた。驚くのはそのデータが他でもない、免疫療法薬のオブジーボの治療データだ。
オブジーボは免疫チェックポイント阻害剤という作用機序を持つ。免疫システムは敵と味方を峻別する能力を持つので、免疫システムががん細胞を敵とみなし働けば、誕生したばかりのがん細胞をすぐさま殺してしまう。がんが見つかるということは免疫システムが、がんを「敵」と認識していない証拠になる。免疫を標榜するがんのあらゆる薬や療法は修正が検討されるべきだ。免疫治療の根拠が揺らぐなか、副作用は多岐で激烈だ。死に至る副作用として大腸の炎症、肺炎、肝機能障害、脳神経系の障害、心臓の炎症、筋肉の炎症、血液を作る骨髄の障害、ホルモンを作る副腎などの障害、腎臓の障害、重症の糖尿病などがあり、それぞれ多数の患者さんが亡くなっている。 厚労省は、2019年5月「オブジーボを投与された患者11人が、脳の一部である下垂体の機能障害を発症し、うち一人が死亡した」と発表し、投与中の定期的な下垂体の機能チェックを促した。しかし、臨床現場ではチェックがほとんど役にたたず副作用は突然生じることが知られている。他の抗がん剤は注射すると間もなく吐き気やダルさなどの自覚症状が出るため、それが警告になるがオブジーボは症状が出ないことから安全と錯覚し重大な副作用がでると、そのまま亡くなるパターンが多い。医者たちはこれを「免疫システムの暴走」と他人事のように呼んでいる。日本の報告では肺がん患者にオブジーボを投与したところ、3か月以内に亡くなったのが19%、そのうち約6割がオブジーボの副作用と認定されている。
世界中見渡しても、オブジーボで治ったことが証明されたケースは1例もなく、がん細胞を殺す力も強くなく、悪評の高い抗がん剤と同程度だ。がんの薬物療法では病巣の直径が3割縮小したら「効果があった」、「有効だ」と判定されるが、有効率は固形がんで1〜3割しかない。血液がんのような例外を除けば、抗がん剤で治るがんはない。オブジーボも同様で1〜3割で従来のものと同じだ。 しかし、オブジーボと他の抗がん剤との比較試験ではすばらしい結果が報告されている。結論からいえば、比較試験の過程にインチキがあり、一見すばらしい成績が作り出された。悪性黒色腫(メラノーマ)に対して抗がん剤とオブジーボを比べたA試験のグラフでは奇跡のクスリといっていいほどオブジーボの生存期間が良好であり、このグラフが承認の根拠となった。もうひとつ同じ比較試験がおこなわれ、このB試験では抗がん剤とオブジーボの生存期間のグラフが重なっている。同じ試験でこれほど大きく異なり矛盾するのはありえず、どちらかの試験が間違っていることになる。 試験期間中、患者さんたちは研究機関へ定期的に受診する。受診が生存の証拠となりグラフに〇や△のチェックを入れ、死亡が判明すればその時点でグラフを一段下げる。これを現況調査といい、手を抜くと実際には亡くなっている人も生きていたと扱われ生存期間のグラフは下がっていかない。この手抜きをオブジーボのグループで行えば他の抗がん剤より良好なグラフが得られる。オブジーボは肺がんに対しても新薬として承認された。肺がんについても同じ条件の比較試験では生存期間が抗がん剤と重なり、最後の方ではオブジーボのほうがバタバタ死亡している。オブジーボで突然起こる副作用の可能性が高い。
免疫システムは敵と味方を峻別し、がんを敵とみなせば誕生したばかりのがん細胞をすぐ殺してしまう。実際はがん細胞が存在するため、「免疫はがんを敵とみなしていない」と近藤先生はいう。がん細胞は正常細胞が分化して生まれるため、免疫システムは正常細胞とがん細胞を区別できず、両者とも攻撃してしまう。免疫療法ではがんと闘えないばかりか、攻撃される正常細胞のほうが多くなると副作用が発現する。突然襲うオブジーボの激烈な副作用の説明がつく。 一般に限らず医師など専門家でさえ「このクスリで治った」という症例や体験に惹きつけられる。オブジーボにもたくさんの治癒例が報告されているが、学問的にはこれを重視してはならない。稀有な現象である可能性があり、これを以って副作用の検証もなく、他の大勢の人には使えない。また自然治癒の可能性もあり、クスリの本当の実力は不明だ。クスリや治療法を実施するには体験ではなく、比較試験のデータが必要とされる。
冒頭に引用したが、本庶氏も比較試験に矛盾があること、ダメなクスリであることを知っているのは間違いない。選考委員がなにを思って授賞を決めたか断定はできないが、オブジーボに脚光を浴びさせ話題を作ることで医薬品産業を盛り立てようとしたのではないか。免疫は細菌やウイルスに対しては有益で、免疫についての社会通念も概ね良好だ。それに乗じて医師や研究者が、同じくがんも免疫の対象だと言い出した。この誤解のもと、巷に乱立するのが免疫療法クリニックや免疫を謳う代替医療、薬品、食品の数々だ。 |
高血圧、糖尿病、高コレステロール血症など生活習慣病の話は繰り返し紹介したので省略するが、「健康常識の大罪」という章からいくつかを取り上げた。
ピロリ菌は胃の中に住む細菌で、世界人口の50%以上がピロリ菌に感染しているという。業界にとって垂涎の市場ともいえる。胃がんの患者にピロリ菌感染者が多かったことから胃がんの原因とされているが、そのころの胃がん死亡数は一貫して減少していた。日本は検査でピロリ菌を見つけ出し、胃がん予防の除菌キャンペーンをおこない、2000年11月に除菌療法が保険適用された。多くの人がピロリ除菌を受けているが、除菌の効果を調べる比較試験では除菌グループのほうが総死亡数が増えることが分かっている。中国で実施された比較試験では非除菌群の総死亡数が142人に対し、ピロリ除菌群では157人。韓国で実施された比較試験では非除菌群の総死亡数が6人に対し、ピロリ除菌群では11人。総死亡数が増えた原因はピロリ除菌による胃がん減少効果が弱いか無いか、それと除菌に用いた抗菌剤のクスリの副作用で死亡したことが考えられる。除菌が成功しても胃がんになることがあるため、医師から半年に一度の内視鏡検査が言い渡される。もう一つピロリ除菌に成功すると胃液分泌が増え、逆流性食道炎を起こすことがあり、食道粘膜が障害され食道がんが増える。胃がん死亡が減ったという報告は、食道がん死亡数も調べ総数で判断する必要がある。わざと転んでタダでは起きないという話だ。
インフルエンザワクチンは毎年5000万本が打たれ、高齢者には肺炎球菌ワクチンを打つ。子供は乳児から就学時まで40本近くを打つことになる。ワクチンを打つかどうかは自由とされているが、死亡や障害が起こっても国や医師は責任を取らない。 肺炎球菌ワクチン:肺炎で亡くなる高齢者が増えたため必要を感じる人も多いが、死亡につながる肺炎の大半は、脳卒中の後遺症やボケなどで食事がうまく摂れずに起こる誤嚥性肺炎だ。介護施設入所者を対象とした比較試験では、ワクチン接種により総死亡数が増えた。非接種者で80人の死亡に対して、接種者は89人と多く、ワクチンは無効というより有害である。 BCGワクチン:日本で新たに発症する結核は激減し、子供の結核はゼロに近い。BCGを行っていた国もほとんどが廃止し、先進国では日本だけが続けている。接種には生きているウシ結核菌を用いるため、乳児にウシ結核が発症し、その数は乳児結核の数を超える恐れがある。これと似ているのが獣医の生活保護のための狂犬病ワクチンだ。1957年を最後に狂犬病の発生はなくなり、予防接種を止めた国もあるが日本はいまだに続けている。このため年間、数十頭の犬が副作用で死亡する。 ワクチンの副作用が疑われても、専門家からなる厚労省の審議会では努めて副作用と認定しない。「因果関係不明」で済ましてしまう。厚労省は将来の天下り先となるワクチンを製造する製薬会社におもねり、医師はワクチン接種で手間賃を稼ぐ、いわゆる公共事業として実施されている。
月に数人くらい、本や広告記事を片手に薬局を訪れる客がいる。時間の無駄だと邪険には扱えないので、取り扱いのないことを穏便に伝える。いままで知られなかった植物や食品を万病に効いたとの体験談で薬効を暗示させ、広告は科学用語で体裁を整える。サンプル進呈、初回500円などとまき餌で釣り、喰らいついたら半年、一年飲まねば効かないといい大量購入を促す。もうこれだけで健康とは無縁のマネービジネスであることが分かる。薬効の証拠がないため食品として販売するが、薬効はなくても副作用はある。ニンジンジュースに含まれるベータカロテンについてフィンランドで実施された試験がある。3万人の喫煙男性をベータカロテンを飲むグループと飲まないグループに分けて飲ませたところ、飲むグループの肺がん発生率が18%も増加し、総死亡率も8%増加した。
サプリメントの広告や食養の本や治療家はこぞって「がんが治った」と喧伝する。がん患者の直接死因でいちばん多いのは栄養失調だが、治療家は末期のがん患者にも玄米菜食を勧めることがある。末期の患者たちこそ十分な栄養を摂るべきだ。「糖質制限食」は玄米菜食と対極の食養になるが旗を振り続ける医師もいて、一般は何を信じていいのか迷う。ほぼ完全な糖質制限をおこなうと体内にケトン体が増え「がんの完全寛解」がみられるという。食養家は病気の発生は食事の誤りであるとの論調で展開するため、あたかも食事さえ修正すれば無病息災が得られると勘違いする。がんは遺伝子の病気で遺伝子を傷つける要素は様々だ。がんには自然縮小も消失もあるので、それと療法の偶然の一致が「効果アリ」と錯覚させる。実験的研究では体にケトン体を増やすとがん細胞の増殖や転移が増加するとされている。多くの食養は制限にまみれ禁欲的ですらあり、真面目な実践者ほど痩せ衰え寿命を縮める。
医師が語ると話に重みが増すので芸能人に種々の検査をさせ、出演した医師が余命を宣告するという健康番組がある。「余命3年、寿命44歳」などというのは一から十まウソだ。余命とは半数が亡くなるまでの期間をいい、高齢者でも余命期間は相当長い。90歳の男性で余命は3〜4年、病人が含まれていても半数は4年以上生きる。40歳の男性では半数が亡くなるまで42年もかかる。テレビの医師たちは芸能プロダクションに所属し、視聴者を面白がらせるため「余命3年」などというが、本来の余命とは異なり根拠はない。最近のマスコミを見ていると政治に忖度し、隠蔽・改竄は当たり前の様相を呈しているが、医療については昔から連綿とスポンサーたる製薬会社を忖度した。稀に比較試験のデータなど熟知し、医療を批判する記者もいるが、上層部の方針に従わざるを得ないジレンマにさらされ、従う。 「生活習慣病のクスリはすぐやめるが吉」と近藤氏はいう。ステロイドや抗不安薬、睡眠薬など、急な断薬は危険なものもあるが、降圧剤、血糖降下剤、コレステロール低下薬、骨粗鬆症薬などは飲み始める前は元気で自覚症状はなかった。これらのクスリは検査で異常値が出たがため病気とされ飲み始めたものだ。
検査で異常値が出たためクスリを飲む、そのクスリの副作用でまた異常値が出て体調を崩す。種々の副作用対策のクスリも併せ5種類、10種類と飲んでいる人は多い。病気の診断ができるのは医師のみであり、健康人を検査し「がんだ、生活習慣病だ」と病名をつける。医師はなにもないところから病気をつくりだし、そこで仕事が生まれる。昔から言われたことで江戸時代の名医、中神琴渓は著書で次のように述べている。
救命医療、緩和医療、老人介護、非薬物的精神医療、未熟児医療など、本当に必要とされ医療利権とは無縁の分野で働く医師や医療者についていうべきことではないが、軽い病気や老化現象で安易に検査を受け、病気へ踏み出さないことが肝要であろう。しかし、一般人は軽いか重いかわからず、軽いものが重症の兆候かも知れず、老化と思いたいが大病かも知れない。医療には疑心暗鬼がつきまとい、その隙間に闖入する魔物が行動を攪乱する。死ぬような思いをしてまでも生きたいというのが本音であろう。 |
わが家は父母の代まで農業を営み、2000年頃まで米・麦からの農業所得があった。私は父母を手伝うことはあっても、米麦の種撒きや育成の技術など学ばず、父の死を機に委託農家となる。宅地周囲に残る200坪ほどの畑が農家の痕跡をとどめる。野菜や果樹を植え、自家消費と知人へのお裾分けが専らだ。出荷するほどの規模を目指すと全然違った形になり、労苦もあり、設備も費用もかかる。少人数で食べるだけの農業は悠々たる趣味の世界に通じる。小農つまり小規模農業とは家族農業とほぼ同義で、家族単位もしくは複数の世帯により営まれ、家族の労働力のみ、または家族の労働力を主に所得を稼ぐ農業のことで、日本では昔から「百姓」と呼んだ。所得を稼ぐ否かが趣味的農業とやや異なるが、近年推進される大規模化とは逆の潮流だ。 家族農業や小規模農業が持続可能な食料生産の基盤として、世界の安全保障確保と貧困撲滅に大きな役割を果たすことを広く世界に周知させるため、国連は2014年を「国際農業年」と定めた。このときの報告書に5つのことが書かれている。
日本では農業後継者の不足から委託耕作地をまとめ、法人化し機械を投入する大規模化が進んだ。しかし、日本の農地面積を考えると大規模化にも限度があり、北海道でさえ米国の1/100がせいぜいだ。世界では約15億ヘクタールの農地面積があり、そこで約5億7000万世帯の農家が糧を得ており、うち90%が家族農業だ。大規模化というのはアグリ企業が振りまく幻想で、実態は90%の家族農業が食を支える。「零細で国際競争力がない」と刷り込み、純朴な百姓を騙し続けた。
国連の国際農業年の主旨は、小規模家族農業こそ立国・救国の礎であり、これを守り投資することを各国に求めている。しかし、国ほどアテにならぬものはなく、農業の力を削ぐ事ばかりで一向に光が見えない。これまでの既存の小農から農的暮らし、田舎暮らし、菜園家族、半農半〇、定年帰農、都市生活者の体験農園など含め新しく小農を定義をすることで、市民皆農、国民皆農というユートピアの片鱗が見えてくる。2016年秋、萬田正治・山下惣一氏を共同代表の下、10人ほどの世話人で構成する「小農学会」を立ち上げ、現在会員は250名を超えた。 農業では儲からない、第一次産業は衰退し外国から安い食料を買うことで、衰退に拍車がかかり、ついに日本は世界一の食料輸入大国になった。輸入量は1960年から半世紀で約10倍に増え、カロリーベースの自給率は38%、国民の62%が輸入食品で生きている。輸入大国の影では、食品ロスも多く年間の廃棄食品は6003万トンにのぼり、この数字は国連が飢餓地域に支援する食料の2倍だという。食料は余っているところから不足しているところへではなく、価格の安いところから高いところへしか移動しない。世界では8億人以上の人々が飢えに苦しみ、その80%が農村に暮らし農業に依存する。工業的大規模農業は農地の70〜80%、水資源、化石燃料の70%を使用し世界の食料の30%しか産出せず、輸送中のロスや廃棄なども避けれれない。一方、小規模・家族農業は土地、水、化石燃料の25%の利用で世界の食料の70%を生産する。手間暇がかかった分、他のコストは省け、労力が集約されるので環境に優しい。
農業にもうけはない、小農はもうけではなく「対価を得る」という思想への転換だ。対価は金銭のみにあらず、環境や伝統、ライフスタイルなど多くの豊かさをもたらす。山下氏はあるとき雑誌の取材で東京郊外の巨大団地を取材したという。生まれて幼少を過ごしたところが故郷になるなら、都会も団地も故郷になるだろうと考えていた。しかし、「団地は故郷になりえない」、終の棲家ではなく人が通過していくだけの箱に過ぎない。故郷は生きかわり、死にかわりして未来永劫そこに人が住み続けるところでなくてはならない。全国の農山漁村にはそれを担い、そこを守る人々がいる。 しかし、集落内ヒエラルキーの存在と息苦しさから、風通しの良い都会へ出る若者も少なくない。都会もストレスは付きまとい、一概に田舎が良いとも都会が良いとも言えない。才知長けた人は農業に限らずどこにいてもうまくいくだろう。いまほど多くを金銭に左右されなかった時代を経験した世代は農的暮らしにノスタルジーを感じるかも知れないが、利便と金銭で動く社会に慣れた人が炎天下や極寒の労働に耐えうるであろうか。小農を可能とするには農業以外からの収入が不可欠であろう。それを確保しての小農なら豊かに違いない。そのうえ仲間が居れば心強く、同じ志を持って邁進する励みにもなる。衣食足りてこそ夢や希望も叶う。もうからない小農で生きる人は不足する糧の確保と、崇高な信念で労苦を愉しみ、農業を産業として市場優先の路線へ進む人たちは、弱肉強食の過酷な国際的競争にさらされる。勝ち残る人はわずかであろう。どちらを選ぶかものは考えようだ。ロシアの古い諺に「イモ(ジャガイモ)植えりゃ国破れてもわが身あり」というのがあるそうだ。国も他人もアテにならず、小農の思想は自分で自分の身を守るための砦だ。 |
古代の医療は巫医が執り行い、医という漢字の成り立ちにもその名残がある。巫とは神や精霊など霊界との交信ができる能力や地位を有し、その超常性を以て病の治療にあたった。カリスマ性の演出は今も多くの治療家に共通し、難しい病気に対して、人々が「神の手」を求める心情を救いとる。苦痛や病を治すため、いままでどれほど多くの治療法が試みられたことだろう。なかには病以上に苦痛をもたらし、死に至る治療さえあった。現代の医療が整ってようやく50年になるかどうかだ。がんの手術にしても、20年ほど前までは正常な部位まで切り取って再発に備えた。「なぜ無意味で危険な検査や治療をおこなっていたのか?」ということが、今もおこなわれているのかも知れない。医療の歴史で浮いては消えた様々な治療は、現在おこなわれている治療への反証とも言えよう。 【水銀】カロメル(塩化第一水銀)は何百年ものあいだ万能薬として利用された。どんな症状であれ、とりあえず水銀を飲め。水銀は液体だが塩酸との化合物は無臭の白い粉で無害に見える。これを飲むと強力な下剤となって黒い大便が排出される。古代ギリシャ時代、ヒポクラテスは四体液説で黒い大便は毒素の胆汁が出て体と体液のバランスが整うと唱えた。薬を飲んだ患者は水銀中毒のため歯が抜け落ち、あごの骨が壊死し、頬の壊疽で穴が開いた。心気症の患者はうつ病、不安、対人恐怖症が加わった。カロメルは20世紀の半ばまで生き延び、ようやく重金属は有害という認識が広がり薬から外された。 【アンチモン】水銀は毒を下すという発想だが、毒を吐き出そうという薬もある。薬価に収載されいまも少なからず使われる吐根(トコン)という植物は、毒を即時に吐かせたり、薄めて去痰薬として用いる。漢方で用いる巴豆は峻烈な下剤であるが、吐き気も催し、胃の内容物は口から排除し腸管の内容物は肛門から下す。昔は子どもが熱を出したり不調を訴えると、まずヒマシ油を飲ませた。消化管に溜まったものを下すことで、胃腸の負担を軽減し、血液を治癒へ向かわせるとの思い付きだ。酒好きな男が、妻からアンチモン化合物の吐酒石少量を酒に盛られ嘔吐し、そのショックで2年間は酒を飲まなかった。アンチモンは吐くという苦痛の他、肝障害、膵炎、心機能障害、ときには死をもたらすことがあった。現在ほとんど吐剤は使われず、胃内の毒は活性炭で吸着除去し、血管内の毒物はキレート剤で結合させ体外に排除する。 【ヒ素】フローベルの小説、ボヴァリー夫人は薬剤師の家からヒ素を持ち出して自殺する。この物語は瀉血など当時の医療の様子が描かれている。ヒ素は無味無臭、小麦粉みたいで食べ物や飲み物に混ぜても気づかれにくい。和歌山毒カレー事件もヒ素が使われた。肝毒性の強い発がん物質で致死量100mgを飲むと数時間で死に至る。薬剤師がヒ素を持っていたのは薬として使うためで、泥膏(パスタ)として潰瘍や湿疹などあらゆる皮膚病に塗った。内服では発熱、胃痛、胸やけ、リウマチ、強壮薬、原因不明の病気に使った。昭和50年頃の薬剤学の教科書には亜ヒ酸の水剤であるホーレル水や亜ヒ酸丸を製造する方法が記載され、教科書の隅に「漸増漸減で適用」とメモしている。貧血病、白血病、マラリア、慢性リウマチ、慢性皮膚病に用いた。姿形の奇妙なもの、死ぬほど強烈な毒物に薬効を期待するのは東洋医学にも見られ、古代から現代まで通じる癒しへの渇望がみてとれる。 【瀉血】「医師が義兄に瀉血を行って頭に冷湿布を貼ると、義兄は見るからに力尽きて気を失い、その後意識を取り戻すことはありませんでした」と義理の妹はいった。義兄とはモーツァルトのことで、彼は死ぬ前の一週間で2リットルもの血を抜き取られた。瀉血は紀元前1500年頃、エジプト人が最初におこなった。人間の体液は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁で構成されると考え、体液のバランスをとるため瀉血か嘔吐か排便によって体内を浄化しようとした。理容店に置かれた白地に赤と青のポールは動脈と静脈を意味し、古くは理容師が顧客に対し整髪の他、爪やタコを切り、虫歯を抜いたり瀉血をおこなった。犠牲者は後を絶たず、発作で倒れたチャールズ2世は瀉血の他、浣腸、下剤、吸角法を行い、ヤギの胆石を飲ませ、脚に鳩の糞を塗った。瀉血のため頸動脈まで切開し血をほぼ抜き取られて亡くなった。アン女王が発作で意識不明になったときは瀉血と下剤の投与で命は2日間しか持たなかった。イギリスの詩人バイロンは風邪をこじらせ高熱と全身の痛みに苦しんでいたが、「以前の病気で瀉血が効かなかった」と言い断固拒否した。しかし、医者の懇願に負け三度の瀉血で1リットル以上の血を抜かれ、病状は悪化した。医者は必死になり、熱で水膨れを作って膿を出し、耳の周りにヒルを置いて血を吸わせた。まもなくバイロンが息を引き取ると、「もっと早く瀉血をすれば、何とかなったのに」と言い放った。「どうしてこうなるまで放っておいたのだ」、「も少し早く検査をしておけば」、こういう医者の言いぐさはいま始まったことではない。瀉血は2000年以上にわたり医者を虜にしたが、18〜19世紀になると内科医や科学者のなかから瀉血反対の声があがり始めた。パスツールやコッホは炎症の原因は感染であることを突き止め、瀉血で治らないことを証明した。血液を大量に抜くなどの大胆で侵襲性すさまじい治療を「英雄的医療」といい、そのひとつが次のロボトミーだ。 【ロボトミー】前頭葉白質切載術といい、頭蓋骨に穴を開けることは古代からおこなわれた。遺跡から四角に切り取ったり、小さな穴のある頭蓋骨が発掘されている。火打石や黒曜石、金属、貝殻など用いた最古の脳外科手術と考えられる。当時は脳ミソに触れてはならないと理解していたようで、脳や脳の毛細血管、髄膜はいじらなかった。原因不明の頭痛、癲癇、気分の落ち込み、精神疾患、頭の軽い怪我などにも行ったが、ヒポクラテスは頭の陥没骨折のみに穿頭術を試みることを勧めた。しかし、開けた穴から骨の破片や血餅を取り出しても患者が生き延びたことから、大脳皮質をえぐり取る手術へ向かった。13世紀のギリシアの外科学書には頭蓋に穴を開けることで「悪い気質や気分が抜けて蒸発するだろう」と書かれている。ルネッサンス期には脳内に石ができると、狂気、愚行、認知症などが起こるとの説が流布した。1888年、スイスの医師、ブルクハルトは手術した経験もないのに、統合失調症や幻覚のある精神疾患患者の開頭手術をおこなった。冠状ノコでこめかみ付近の頭蓋骨に穴を開けたあと、内側の硬膜を切開し、大脳皮質の一部を鋭利なスプーンで何杯もえぐり取った。一部の患者はおとなしくなり幻覚を見なくなったが、多くの患者は神経障害に悩まされ術後の合併症で亡くなるか、なかには自殺した人もいた。当時は衛生管理が杜撰で、穿頭術をうけた患者の50%が合併症で亡くなったという。ブルクハルトの外科手術が史上初のロボトミーとされ、従来と異なりスプーンやアイスピック、泡立て器などで脳を傷めつけた。医学会から野蛮との批判を浴びたブルクハルトはやがて開頭手術をやめ二度とおこなわなかった。約50年後、別の方法でロボトミーをやってみようという医師が現れた。1930年代後半から1940年代前半にかけアメリカでは精神疾患が40万人に達し、どこの病院も病床の半分以上を占めていた。1935年、エガス・モニスは精神疾患患者に新しい外科手術を試みた。患者の頭頂付近に穴を開け、純度100%のエタノールを注射し前頭葉の一部を壊死させた。後に白質切断用メスを考案し、柔らかい脳をかき混ぜくり抜いた。モニスの教えを引き継いだフリーマンとワッツは頭蓋骨に穴を開ける代わりに、こめかみを切開してメスを差し込み脳をえぐり取ったが、メスは堅さに問題がありしばしば脳内で折れた。ある日、キッチンで鋭利だが鋭すぎず強くて適度に細いアイスピックを発見し、アイスピックロボトミーが誕生した。まぶたを持ち上げ眼球の上部からアイスピックを突き刺し、ハンマーで軽く叩いて眼窩の薄い骨に穴を開け脳組織まで刺し貫く、そこでアイスピックを上下左右と動かし脳をかき回し、同じことを両目でおこなう。しかし脳細胞を切ったりかき回しただけで正常な精神状態に戻れるはずがない。この手術によって再起不能となった患者や出血多量で死んだ患者は少なくなかった。その多くは女性に施され、脳が発達しきっていない子供にも行われ、一番幼い患者はわずか4歳の幼児だった。1967年、フリーマンの手術によって女性患者が脳出血で亡くなるまで続き、抗精神薬・クロルプロマジンの登場で悲惨な精神科病棟の風景は一変する。 【断食】古代から続くもので古代ギリシア時代にピタゴラスは「定期的に断食すると体に良い」と述べている。「風邪をひいたらたくさん食べて、熱が出たら食事を控えよ」という諺があり、ある意味正しい。断食は体に良い場合がある。宗教では精神修行として魂に良い影響を与え、神の啓示に近づく近道ともいう。14世紀後半、オランダの聖人、リドヴィナは霊感を得るための断食と治療のための断食を結びつけた。現代栄養学つまり西洋式の病院でおこなう栄養指導以外の食事療法はどこか宗教と通底するものがある。オランダの少女リドヴィナはスケートで転んで大怪我を負い、体を治すため断食を始めた。まもなく宗教的な想念に囚われ本格化し、口にするのはりんごかデーツ、水で薄めたワイン、海塩入りの川の水へと徐々に減っていく。最後は空気を取り込むだけとなり、「癒す人、聖なる女性」と呼ばれ有名になった。リドヴィナの症状は悪化し、亡くなったあとも人々は断食にあこがれ何人もの断食少女が現れては餓死した。餓死は教訓にならず逆に断食を利用したインチキ療法が登場した。断食が流行ると医師たちはアメリカでもヨーロッパでも「自然健康法」と称する療法を広め始めた。バランスのとれた食事、新鮮な空気、運動、日光浴、たくさん水を飲むこと等、水飲み以外は常識的でとくに問題はなさそうに思うが、治療のため医師が処方した薬は飲まず、断食での自然治癒を促した。断食で健康を取り戻したという多くの体験談をもとに断食療法は普及する。体に有益なものもあるが、薬物療法、輸血、放射線治療、サプリメント、苦痛の緩和措置をも認めない問題のある指導もある。スピリチュアルな世界と結びつくと、「なにを言っても聞き入れない」、頑迷な信念に補足される。医師の資格を持ち知力や教養に富む人でさえ、憑りつかれると正気を失う。最近流行った低炭水化物ダイエットなど、いままで玄米を推奨した医師がある日を境に肉食一辺倒へと転向した。様々な食事法が浮いては消え、あるとき装いを変え再び浮きあがる。 【ラジオニクス】古代には存在しなかった新しいものだ。1895年、マルコーニが史上初の無線通信機を開発し、商業的にも成功を収め技術革新が進んだ。人々は見えない電波に驚嘆したが仕組みは理解していなかった。そこに荒稼ぎしたいインチキ治療家がつけこみ、電波の神秘的な力は病気に効くと言い始めた。サンフランシスコで生まれたアルバート・エイブラムスは19歳という若さでドイツの大学で医学博士号を取得した。1893年、故郷に戻りクーパー・カレッジで病理学を教え、40代になるころには神経科医としての名声を確立した。しかし、夜間クラスで詐欺を働いて教職を追われたあと、インチキ療法に傾倒していく。彼の治療法で最も注目を集めたのがラジオニクスである。1916年、エイブラムスは「診断と処置の新しい概念」という本で、「健康な人は健康的なエネルギーを放出し、病んだ人は病気の周波数を放出するが、ラジオニクスの専門医は複雑で操作の難しい装置を使って病んだ波動を検知し、病んだ波動を健康的な波動に変え患者のどんな病気も治せる」と主張した。ラジオニクスは一台数10万円から1000万円もするものがあり、故障の恐れがあるので装置の「中を開けるな!」という。禁を破って中を見た物理学者は「10歳の少年が、8歳の少年をだまそうとして作ったおもちゃだ」と揶揄した。ダイアルや電極を複数取り付けた正体不明の機械だが、皮膚の電気伝導度を計測し意味ありげに診断を下すもののようだ。宗教的で形だけの診察を終え、「がん」だと脅し、治療を提案する。もともとありもしない「がん」だから、すぐに消え患者は喜びのあまり知人に話を広める。もっとも効果的な販促キャンペーンと言っていい。ラジオニクスに科学的根拠はないが、常に神秘的要素がつきまとい信者は後を絶たない。信者を惹きつけるために神秘的粉飾が必要なのかも知れない。 ガレノスが提唱した四体液説は19世紀に病理解剖学が誕生するまでおこなわれ、代替医療ではいまも体液説を踏襲する治療家が少なくない。医学の歴史は人体実験の歴史でもあり、無知と善意と欺瞞と暴力が交錯する。いま行われている最新の治療も将来において批判に耐えうるかどうかは分からない。発がん性のある抗がん剤で副作用を起こし、麻酔が効いているから痛くないと、臓器を切り取る。放射線を照射し正常細胞まで侵す。予防ワクチンと称し健康な少女に障害を負わせる。医療がつくりだす病気を医原病といい、3大死因のひとつだ。 |