【読書録(22)】-2025-
著者は小児外科医になって37年、19年大学病院に勤務し、開業医として17年過ごした。「ようやく1人前という感じだろうか..」と述懐する。病を治し、命を救う仕事は尊く診断・診療を行う医師の知識や技術の研鑽は並大抵のものではない。医療の告発本とは異なり、仕事を遂行する医師の本音や思いを語る本である。開業はしたものの、人生がもう一度あれば大学病院での研究生活を選ぶという。本に囲まれた中で専門誌に論文を発表し評価を受けることが喜びだった。診療科や開業地によって違いはあるが、開業医は地域住民の日常的診療や健康管理を主とするため難しい病気は大きな病院へ紹介する。その大病院のベッドが満床だったり診てくれないことが開業医の最大のストレスだ。
開業医はそれまでの自分の経験と知恵を売る仕事で、外来診療という臨床のため朝から夕方までずっと椅子に座っている。大学病院では臨床3割、あとは研究、教育で占める。大学病院では研究の評価を楽しみとしたが、開業すると「お山の大将」として自由と自分の時間を持つことができた。開業医は18時に帰宅し家族と夕食をとり、入浴後は自分の自由時間だ。大学での18時は回診を終え、それから雑用を片付ける仕事が始まる。「お山の大将」で自由を謳歌しつつも人生がもう一度あれば、「迷わず大学病院を選ぶ」と著者いう。意外に思ったが、仕方なく本を読む者には理解し難く、真に勉強や読書の好きな人がいるのだ。 大学の診療科は細分化しており、その分野のベテランでも、開業1年目はだれもが未熟でスタートし、「開業医」という仕事を学んでいく。たとえば大学病院の内科では消化器、呼吸器、腎臓、糖尿病、アレルギーなどに分かれ、外科はさらに細分化され消化器だけをみても食道から大腸までの消化管と肝胆膵臓などに分かれる。その狭い領域の中でのベテランだ。開業すると一般に内科・小児科を標榜するが、中には子供を診たことのない医者もいる。そこで頼りになるのがガイドラインだ。
寿司や鰻の松・竹・梅とは違い、ガイドラインに則り、標準に沿っておこなうことが「特上」の治療になる。一般にevidenceといえば、効くか否かのデータを考えるが、医学におけるevidenceにはレベルの低いものから高いものまでランクがある。権威ある医学者の個人的な意見は最もレベルが低く、信頼に足りない。例えば、テレビや新聞で大学教授が○○...と思うなどの発言を鵜呑みしてコロナワクチンを接種した人々は肝に銘じておくべきだ。最もレベルが高いのは新型コロナに感染した患者をA群、B群にランダムに分けワクチンと生理食塩の注射をして結果を比較する。こういった研究を多数集めて評価したものが最高のevidenceだ。注意すべき点は、evidenceの評価に製薬会社などの利益相反者の影響を排除することが絶対条件だ。開業医は疾患別のガイドラインを念頭に診療をおこなうべきだが、我流で治療をおこなう医者がいる。そして意外にもそういった医者に患者が集まったりする。一般的に使われない特殊な診断・治療機器、保険薬として認可されない医薬品または食品の投与など。自由診療と称する特殊治療は注意が要る。著者は、「ガイドラインに外れた治療は怖くてできない」と言う。冒頭で医師頭(イシアタマ)と書いたが、男性医師のほうがおおよそイシアタマが多く、女性のほうが医師には向いているのではないか。
2018年にアメリカ科学アカデミー紀要という雑誌にフロリダ州の研究チームが発表したものだ。わずかだが男性医師のほうがイシアタマが多く、女性は少ないと考えられる。著者が知る限り女性医師のほうが頭が柔軟でまじめである。
怖い病気は藁の山から1本の針を見つけ出すような作業であり、これができれば開業医として十分に合格である。95%が軽症ならば開業医へ通う人々は、ガマンで済んだり、気に留めなければ病気ではない。医者に病気を命名されて病人が出来上がる。歳をとってくると、どこかに何らかの不調や機能の衰えがある。診断には病名診断と重症度診断があり、病名については医学部ですべてを習うことはなく、見たことのない病気も多い。しかし、重症度の診断は緊急に対応が必要だ。多くの軽症患者の中から重症患者を探すため、結果的に軽症患者の診断がもっとも難しい。私たちは重症化した話や手遅れだった話を聞き及ぶと、自らの症状に疑心暗鬼が生じ「念のため受診」をする。なにもなければ一安心だが、健康なのに検査値の異常が見つかれば、病気も不調もないところに降ってわく災禍だ。
苦痛はすぐに取り除かねばならないが、耐えがたい不調でなければ時間を置くことで平常に揺れ戻すかも知れない。長年多くの患者を診てきた医者であれば経験から「様子見」をアドバイスすることもあるが、見放されたと感じる患者や、注射もせず薬も出さないことに不満を抱く患者もいる。医者によっては患者を安心させるため注射や投薬をおこなうことがある。患者も意識を変える必要はあるが、変えられない患者のため医療上の嘘や無害な薬の投薬が容認されてもいい。 著者の悩みのひとつに廃業に関するものがある。ご子息は医療に関心がなく、後を継がせる気もなく、「自分の道は自分で決めればいい」と思っていた。友人に64歳で引退したいと語るが、まだ早いとたしなめられ、それでは男性の平均健康寿命72.68歳までは働こうと考えている。クリニックは患者と膨大なカルテやスタッフ、設備、機器などを抱え、廃業によりすべて失いたくない。だれか引き継いでくれる医者がいないだろうか。こういうことを考え始めたとき、クリニックの継承を斡旋してくれる会社を知った。クリニックを譲る場合どれくらいの価値があるか調べてもらうと、保有資産と営業権を合わせ5118万2498円という数字が出て、「嬉しかった」という。内訳は営業権が95%以上、つまりクリニックのソフトの部分であり、著者のいままでの知的財産だ。開業時の借入金とリース代の合計は6200万円だった。ほぼ同じくらいの価値がソフト部分の財産として残った。 |
戦時下、日本人の平均寿命は50代だった。結核でさらに若くして死亡する人もいた。海外では今も飢えや死の恐怖にさらされる人々がいて、とりわけ子供たちの悲惨には目を覆い、ないものと思いたい。日本では平均寿命が80歳を超える長寿社会を迎え、戦時下の死とは異なる思いと死を考える時間が与えられた。死が避けられないことは明白なので、七十歳、八十歳を超えた人は、「いままで生きられたのだから..」と諦観を以て望む反面、わが身を気遣い医者の診療に一喜一憂する。来たる死に逡巡し足掻いているようにも見える。 死が迫るのを意識する年齢は人によって異なるだろう。著者は58歳のとき。重症の糖尿病にかかり、血糖値は660mg/dl、のどが渇き10分ごとに水を飲む、体重激減、すい臓癌、慢性の心不全などを考え、自分の死を覚悟する。当時、がん放置療法で知られる近藤誠氏と本の出版のため何度か対談を重ね、がんが見つかっても治療は受けないと決めていた。
著者はいくつか検査を受けたが、がんは見つからなかった。死を覚悟したことで本当にやりたいことが分かり時間を無駄にすることがなくなった。「どうせ死ぬのだから」と思うと、いままでの価値観も変わり、人生の幸福度は高まる。 3年前、共著を編んでいた近藤先生が心不全で急死された。著者も近藤先生とおなじく健康診断否定派だという。そのことで急死は「報い」という声も少なからずあった。しかしいまの健康診断では心筋梗塞は防ぐことができず、血液検査が正常でも心筋梗塞で亡くなる人はいる。意外だったのは近藤先生は本では、「がん死は意識が保て、死までの猶予があるのでオススメ」と、書かれていたが、家族には「まだ元気なうちに、ポックリ死にたい」と話されていたそうだ。死が迫る歳になると、次第に死の見え方が変わったり、あるいは老いが身に染みることの虚勢かも知れない。
医学の発達か医師の増加か、早期発見・治療を施せば長生きできるという至上主義が人々の死生観を変えた。食事・運動・医療情報に過敏でわずかな体調の変化も見逃さず数々の健康法を試しては飽きる。医者にかかれば多くの人が高血圧薬を飲まされる。血圧の薬を飲まなければ6年後に高血圧の人の10%が脳卒中になるが、飲んでいたら10%を6%まで減らせるという。10%が脳卒中になるなら残り90%はならないわけで、薬を飲んでも6%の人は脳卒中を起こすとも言える。数字の解釈次第で、服薬することと避ける理由になる。少しでも延命したり、ときに苦痛を緩和するのは医療の責務ではあるが、それに伴う検査や治療が命を縮めたり苦痛を及ぼすこともしばしばだ。最近の例ではコロナ禍で、何度もワクチンを接種したことが死や障害の惨禍をもたらし、コロナ禍より酷いものになった。国や学者のいうことを「疑え」ではなく、「信じるな」という教訓を得た。死ぬほど苦しいときだけ医者にかかればいい。
少子高齢化が進み、財産のゆくえや遺言など終活ムーブメントが起こり、終末医療や葬儀などについて、リビング・ウィルを残す人もある。著者は現段階では、と断ったうえでリビング・ウィルを残すことは肯定するが、終活する時間があれば、「生きている今をもっと楽しむべき」という。しかし、いま60代の著書の考えと、まさに70代、80代を歩く人とは景色も思いも違うだろう。人生50年から100年時代を迎え、感染症や栄養状態の改善を考えると寿命はほぼピークに達し、80代にとっては死がそこまで迫る。
老い衰えるのは病気ではないが、病気と考えて克服の希望を抱く人は多い。分かっていても、「病気だから治る」と思う方が心の平安には都合がよい。素直に老いを認めつつ、賢明な生き方でもある。70代は健康寿命の分かれ道になり、とくに70代後半から、がんの罹患率や死亡率、要介護や認知症になる率が高まる。とにかく動く、とにかく頭を使う、身体と頭を使えば使った分だけ老化を遅らせることができると著者は言う。続いて老人が服用させられる3つのクスリについて注意を喚起する。1)血圧降下剤:加齢に伴う動脈硬化で血管の内腔が狭くなり、血圧をあげて末端まで循環を良くする。これを下げると血行が阻害され活力が低下し体はだるくなり頭がボケる。2)血糖降下剤:無理に下げると低血糖を引き起す、脳への糖の供給も低下しボケたり心不全など合併症のリスクが高まる。3)コレステロール治療薬:製薬会社のために正常値の基準が下げられた。疫学的研究では高い方が免疫力も高まり、がんになりにくい。
わかりやすく言えば「ぽっちゃり小太り」が一番長生きし、歳をとってからのダイエットは代謝を悪くし、老化を進行させる。ほとんどの高齢者は「食べすぎ」より、「食べなさすぎ」のほうが危ない。健康診断は体の無数の成分のひとつふたつを検査して、全体を類推するもので、実際の健康との関係性は希薄だ。にもかかわらず数字で脅して病人を作り、治療と薬を売りつける。保険、教育、宗教などの業界にも通じる戦術だ。薬に100%安全なものはなく、副作用のない薬はない。多くの作用を持つ薬の一つの作用を有効とするなら、他の作用は有害な作用で、被害のほうが大きいことがある。若く健康な人より、老齢で病気を抱えた人ほどダメージは大きいが、そんな患者ほど医者は多くのクスリを処方をする。調査によると処方された通り、きちんと服みきらない人が8割近くいるようで、好ましいことだ。 「どうせ死ぬのだから」という著者も終章では理想の死に方、死に場所、看取られ方、死ぬときに後悔しない生き方の心得を語る。死が避けられないと悟ったとしても自暴自棄にも無敵にもなれず、相変わらず煩悩に惑う日々が続く。 |
薬局で調剤する薬に独自の処方とか家伝薬というのは存在しない。薬事法で決められた処方を分量どうり調剤し販売する。加減法、合方などは禁じられており、医師のように診察・診断し、自由に薬を処方することはできない。薬剤師は客との対話で得た情報から、薬事法に定められた処方を提案し、同意を得て調剤・販売を行う。手続きは面倒だがやっていることは味気なく簡単で、漢方専門とは名ばかり、ただ生薬と漢方薬を備えているだけだ。実力不足のため難しい相談には「単なる薬草売りなので..」と断っている。「漢方薬は漢方家が考えるほど効かない」と悟ってから、漢方の本を読まなくなった。本書は旅先でふと立ち寄った書店で手にする。薄い本なので帰りの電車で読める思ったが、興味は尽きず、本に出会ったことが旅の成果であった。著者は丸剤というスタイルで処方するが、重要なのは丸剤ではなく、それを運用する理念だ。 一般に漢方を処方する医師は保険薬価を取得した漢方エキス顆粒や錠剤を利用する。薬価収載された生薬や生薬(末)を自在に処方し、製剤まで行なう医師は珍しい。漢方薬には適応症が記載され、それを基に新薬と同じように処方は可能だが、漢方理論を学ぶとより運用の巾は広がる。著者は漢方を学び、ひと廻りしたところで西洋医学の病名での治療を提言する。漢方薬は多種の生薬で構成され、ひとつの生薬が持つ成分も多く未知のものも多い。それを適応症だけで使えるかの疑問は残る。虫封じ、ボケ封じ、癌封じなどの御祈祷と同しくプラシーボ効果なのかも知れない。そのおかげで、効能や適応症に書かれていない不調や病気まで治り、それを東洋医学の知恵とか神秘などと讃える。漢方エキス顆粒、錠剤、散剤、丸剤など漢方製剤の効能・効果には目標とされる症状と病名が記載され、専門家を自認する人々はこれを「病名漢方」、「番号漢方」と揶揄し、原典に則り、「証」を把握して運用するのが本物だという。
一般に馴染みの薄い「証」という概念は専門家の縄張り意識から生じるのかも知れない。「素人判断は禁物、オレに任せろ」、とも聞こえる。専門家も最初は素人だ。学んだ過程を振り返り素人にわかるように説明できるはずだ。著者は山本巌先生を師と仰ぎ、理念を継承する過程で丸薬での治療スタイルに辿り着く。丸薬だから治るのではなく、漢方薬を運用する治療家の技量であることは言うまでもない。漢方診療において四診で得たものは主観的データであり、そこから弁証論治か方証相対を経て処方に至る。弁証論治は漢方的病理を検討し処方を導き、方証相対は症状に対応する処方を探す。医師の漢方は西洋医学の診断が介在するので薬局漢方より精密な診断が基になる。西洋医学は東洋医学が主観的診断で足踏みする間に、画像や理化学検査などの診断技術が急速に進歩した。病態を正しく捉えた結果、病名が判明する。病名が判明しない、判明しても治療法のない領域の隙間に漢方薬の居場所はある。
西洋医学の病名と漢方の証は関連付けができる。西洋医学の病名を於血、陰虚、気虚、寒熱、臓腑弁証などの漢方医学的仮説で説明できる。仮説である漢方の生体観が役立つことがある。たとえば気血水などの用語を駆使し病状を説明すると西洋医学的説明より平明で治癒へのイメージを喚起しやすい。
薬局漢方では診察・診断はできないが、漢方薬の基となる生薬成分の構造や薬理、毒性、分量などの学びを得ている。古典的な気味、薬性から、再現性のある科学的薬理をもとに病名に対応する生薬や処方の再構成が可能だ。西洋医学の病名で新薬同様、誰もが生薬や漢方薬が使える。かつて漢方薬は煎じるか粉末で利用された。昭和23年(1948年)、日本で最初のエキス剤が作られ、9年後の1957年、小太郎漢方製薬から30種ほどのエキス顆粒とエキス錠剤が製品として発売された。粉末を携帯に便利で飲みやすくしたのが丸剤だ。煎じで服用すると水で抽出する成分が得られ、散剤にすると生薬の成分が丸ごと得られる。分量も少なくて効果も得られるが副作用も付いてくる。エキス顆粒や錠剤は水で抽出した成分を乳糖や澱粉で薄めるため成分の減少は免れない。製剤となった漢方薬は処方内容が固定する。それを一つの薬として、処方を組み合わせる医師が現れた。処方名を書くのが面倒なので16番と9番などと指示する。これを揶揄して番号漢方と呼んだ。2〜3処方を同時に服用し、朝夕で異なる処方というケースもあり、生薬の数だけで20〜30種にもなることがある。重複することで生薬の分量は増え、薬効は混沌としたものになる。 生薬の薬理と効能によって処方を構成していけば、不要で無駄な生薬を整理し単独でも利用ができる。芍薬甘草湯という芍薬・甘草の2種を配合した漢方薬は、痙攣や痛みの緩和に用いる。芍薬だけでも鎮痙作用があり、甘草にも急迫を緩める作用がある。著者は単独で丸剤を製造し使い分ける。芍薬は風邪に用いる葛根湯にも配合され筋肉を緩めることで汗腺を開き発汗を促す。他にも葛根、麻黄、桂皮など発汗を促す生薬が配合され発表剤とも言われる。葛根湯は肩こりのある風邪の初期症状に用いるが、肩こりだけなら鎮痙作用のある葛根だけでも構わない。発汗を促すのが目標であれば麻黄、桂皮でも達せられる。葛根湯に配合された生姜は発汗を目的とはしないが、単独で分量を増やし熱くして服用すると発汗し、葛根湯の役割を果たすことがある。薬効を生かすには引き算も大切で、生薬の薬理と配合される事の吟味が必要だ。経験的に知られた薬効と科学的に解明された薬理を知ることで、新しい無駄のない漢方処方が創出できる。これも合成新薬に劣らない医療の進歩だと思う。 「古典を踏襲した本格漢方」といえば聞こえはいいが、同じ患者を診て漢方家によって異なる診断と治療が行われることが多い。漢方理論だけでの運用は効かなかったとき、その理論を検証する方法がなく漢方家の思考を超えることがない。科学技術とともに発展した西洋医学の診断法で漢方薬を運用すると、この曖昧さが回避できる。医療用医薬品における漢方薬の市場規模は約1.6%に留まる。いかほど宣伝広告費をかけても限界は見えている。この数字が示すことは「漢方薬は漢方家が考えるほど効かない」ということだ。しかし、約1.6%はまったく無益ではない。無益ではない内訳には難病があり、ありふれた病気や不調、老化現象、日々揺れる体調もあるだろう。 |
公共事業がスタートすると、ブレーキ無き車と同じで止められず暴走し続ける。民意も裁判も障害をも踏み倒し、ひたすら突き進む。例えば、コロナワクチンの接種事業では、死者が出ても、効果なしとの報告が出ても中止も躊躇もない。また、使い馴れた「紙の保険証」の廃止。マイナンバーカードの普及率は低迷し、国民や医療機関の反対にあっても一顧だにしない。総裁選のさ中、石破氏や林氏は「紙の保険証」を残すかのような発言をしたが、それぞれ総理、幹事長になると歯牙にもかけない。政治家の発言や約束は鴻毛のごとく軽く平気で嘘をつく。「なぜだ!」の構図が諫早湾干拓事業に凝縮し、巨万の利権に癒着した政官業が群れる。 諫早湾干拓事業を取り上げたのは、地元の海であり、計画から工事、その後まで50年あまり間近で見聞してきたからだ。1997年、ギロチンといわれる潮受け堤防締め切り以来、漁場から魚や貝が減り、海苔の品質の低下が始まった。開門調査を求める漁業者と干拓地へ入植した農業者による開門反対の裁判が相互に繰り返され、相反する判決に相譲らず膠着状態が続いた。国は頑なに開門を拒み、2023年、最高裁の開門無効化の判決により「開門せず」が確定した。 干拓事業の目的は最初、優良農地の造成であった。戦後10年経過した頃の話なので食料の増産は喫緊の課題だった。しかし、次第に農地が足りて、減反するほどになる。やがて出来上がった干拓地は優良農地どころか泥干潟に由来する重粘土質で排水不良は常習化し、乾燥すると土壌が硬化し農作業を悩ませる。農業用水は調整池の水を使用する予定だったが、よどんで水質が悪化、アオコが大量に発生した。かろうじて本明川の河口からの取水に頼らざるを得なくなる。あと一つ、防災機能強化の課題は、潮受け堤防と調整池の水位管理くらいでは防災効果は達成できない。
社会的費用を奪い取り、一部の者に還元するため莫大な税金を投入する。これもまた社会的費用の搾取に他ならない。環境を破壊し、費用対効果を欠く公共事業が中止されたり是正されないのは、権限を持つ厳正な第三者独立機関がなく、事業の正しい評価をしないからだ。さらに重大なことは事業をめぐる政治家、官僚、業界の利権・癒着構造の存在とその肥大化にある。農水族議員や地元の国会議員、関係政党の議員らは諫早湾干拓事業の予算獲得や事業推進のために奔走する。その裏では工事受注企業から多額の政治献金と選挙での票を受け取る。干拓事業が本格化した1986〜2000年には、大手受注企業上位31社から自民党長崎県連に約6.6憶円の企業献金が渡った。これは自民党長崎県連の企業献金の49%を占める。工事が佳境にあった1996〜2000年には、地元諫早・島原を政治地盤とする自民党・久間章夫衆議院議員に約3000万円、県内の他の議員2人にもそれぞれ約2000万円の企業献金が支払われた。当時長崎県知事であった金子原二郎氏の資金管理団体にも2000年までの3年間だけで、受注元受け33社から2240万円、諫早市長へも890万円の企業献金が行われた。県や市の有力議員には自民党県連を通して献金の再分配がなされた。これらは長崎県選挙管理委員会の「政治団体収支報告書」に上がった合法的なものだ。自民党のパー券事件を見ていると、バレるまで隠す。他にも、裏金、つかみ金、接待、贈答等なんでもありだ。
政官業の一翼を担う官僚は諫早湾干拓関連企業やコンサルタントに「天下り」することが常態化していた。受注企業の取締役以上へ天下りした官僚は2002年時点で33名、その多くは技官で、うち6名は農水省での最終役職が諫早湾干拓工事を直接管轄する九州農政局の局長や干拓事務所所長などの責任者であった。トップばかりではない、1996年時点で諫早湾干拓の大手受注31社に農水省から222人、下位49社も含めると256人、関連コンサルタント会社25社にも152人が天下っていた。彼らは再就職先を確保するとともに官・業の巨大な利権の橋渡しを担う。
官製談合が常態化し政官業、三者の利権癒着が肥大していく。これに加え各種委員会や審議会で「活躍」する御用学者や一部マスコミが「鉄の三角形」の内に取り込まれた。信じたくはないが、裁判官も一役演じているのかも知れない。お金が動くことで諫早・島原地区の公共事業依存度は高まり、干拓事業への需要度が増してくる。干拓工事が進むにつれ漁業被害は深刻化し、漁業関係者の転職・廃業が相次ぎ、干拓事業の下請け企業で働く人も増えた。干拓事業に反対した漁民は干拓事業を受忍せざるを得なくなる。 優良農地の造成や防災という虚偽の口実で農地は出来上がる。内部堤防と農地造成を含む農地10アール(1反)あたりのコストの総額は約1448万円である。現在の農地の価格は長崎・佐賀地域で1反80万円ほど、遊休農地は10万円でも買い手がつかないという。全国的に農地は余っているのに土質も水利も劣悪な農地を作ってしまった。仕方なく95%もの大幅な値引をおこない、農家への販売額は約73.3万円となる。値引の原資は干拓事業と同じく税金だ。この超安値でも全農地の売却は困難と見た農水省と長崎県は農業振興公社に農地を一括購入させ、1反あたり年間2万円で農民にリースする方式とした。リース料で賄えない分は農業振興公社が長崎県の一般会計から借り入れ、60年間の長期で返済することになった。農林漁業金融公庫からも借り入れ、複雑なリース方式により、最長70年間もの超長期ローンを組んだ。
諫早湾排水門の開門を求める佐賀県の原告団は当然このことを熟知し、正義のためにも負けられない裁判であった。消費者は米は高いキャベツは高いというが、例えば生産者米価は30年で半額になった。天候に左右され不作も豊作もある。ところが肥料や農薬、農機具の価格は倍増している。1反のリース料2万円でも農民の負担は大きく、最初の入植農民の41経営体のうち2018年度までに11経営体が経営上の理由で営農を止め撤退した。2017年度に営農していた35経営体のうち、黒字の経営体が24で赤字の経営体は11あり、リース料を支払えないため農業振興公社から追い立てられ訴訟にまで発展している。干拓の農民にとっても非効率かつ不合理な干拓事業であり、目的たるや政官業の糧食の生産地だった。そして莫大な費用を費やした干拓事業は「有明海異変」という海洋環境破壊を生み出した。
この窮状を逆手にとって農水省は次なる糧食を得ようと企てる。2002年、有明海特措法を設け、環境保全と水産資源の回復を目的として有明海全域へ公共事業を拡大させた。有明海再生事業費は、農水省・水産庁分だけでも2005〜2019年度までの15年間で全国分を含め約1100億円、毎年度約120億円が予算として計上され、これに「調整池浄化事業費」約390億円が加わる。いままで有明海再生の口実のもと、約900億円を超える事業費が投入され、この費用は諫早湾干拓事業費2530億円の36%に匹敵する。有明海の水質浄化が叶わぬ限り、毎年継続する支出になる。いったん始めた有害・無益な事業のためシジフォスの神話のごとくお金と徒労が循環する。
全国でおこなわれる公共事業は規模の大小はあれ有益なものも無益なものも有害なものもあるだろう。いま国と沖縄県の間で争われる辺野古の埋め立ても諫早湾干拓事業と同じく、誰のための埋め立てかは明らかだ。沖縄県が軟弱地盤で埋め立てには不適だと指摘しても止めない。不適でも何年かかってもやり続けることが政官業にとっては意義のあることだ。病人の布団を剥ぐようにして持っていかれる税金は政官業の糧食であり、日本は彼らにとっての超福祉国家である。 |
チームKとは、日本で最も多くワクチンを販売するMeijiSeikaファルマという製薬会社の社員有志である。この本を出版してクビになったかどうか定かではないが、「クビを覚悟で世に問う」という気迫ある内容だ。彼らは26歳という若さで亡くなった同僚の死を忘れてはならないという思いで執筆に至った。同僚はファイザー社のコロナワクチン2回目を接種した3日後に亡くなり、死因は「急性心不全(推定)」とされた。約2年後、予防接種が原因で死亡したことを国は正式に認めた。冒頭で、「本書には秘密保持が条件の非公開データや企業の内部情報をリークするようなものはなく、厚労省や製薬企業が公表している内容で話を進める」と書かれている。私たちも探せば見ることのできるデータをどう評価するかを問うものだ。 ワクチンについて「知っているか知らないか」で命が左右される時代になった。コロナワクチンだけではなく、日本国民の半数が接種するインフルエンザワクチンにも不安が迫る。2023年まで使用された従来型のインフルエンザワクチンは「不活化ワクチン」といい、長年の実績があり安全性は確保されている。2024年秋までは従来型であるが「不活化タイプ」から「mRNAタイプ」へと変わったときの話だ。従来型のワクチンは「鶏卵」を利用して製造するが、早ければ2025年、「mRNAタイプ」のワクチンに取って代わる流れだ。インフルエンザやインフルエンザ・コロナ混合ワクチンが開発され、すでに治験の最終段階まで進んでいる。それを受けてインフルエンザ同様にコロナワクチンも定期接種の動きが出ている。他にも小児がかかるRSウイルス、ノロウイルスなどのワクチンも準備されている。
従来型ワクチンは不活化ワクチン、弱毒化ワクチン、組換えタンパクワクチンなどで、安全性の確認を行なうため開発に10年以上かかった。今後、ワクチンを席巻するであろうmRNAタイプは安全性が十分に検証されているとは言い難く、それを国は恐怖を煽って接種を促す。薬は健康を損なった人に処方され、副作用があっても健康状態が改善すれば意味を持つ。ワクチンは逆に健康な人に接種するので、不健康にするリスクは極力ゼロでなければならない。接種後の死亡認定数を比べるとコロナワクチンは従来型のインフルエンザワクチンの100倍以上になり、健康被害認定数は過去45年間のあらゆるワクチンの被害総数の倍の件数をわずか3年半で超えた。「新型コロナワクチン後遺症患者の会」では後遺症に悩む人々からアンケートを取っており、深刻な報告が記されている。後遺症は他に例がないほど多岐にわたり、1人で複数の多様な症状に悩まされている状況だ。平均すると1人で20以上もの症状を抱えている。
突然の死、ガンの頻発、様々な後遺症で生活を奪われてもワクチンとは気づかず、実際は3割ほどしか申請に至らない。申請そのものが困難で途中で諦める人や、制度のあることを知らない人も多数いるだろう。ハインリッヒの法則で推測すると1件の重大な事故には29件の軽微な事故が存在し、事故につながる300件の事例がある。つまり死亡事例の背後には重篤な副作用による後遺症で苦しむ人がいて、さらに背後には多数の継続的な不調や様々な後遺症に悩む人がいる。なぜ短期間に桁違いの死者や後遺症を出したのか。
医薬品開発には最低でも10年かかるが、今回のコロナワクチンはウイルスが登場してから10カ月という異例中の異例の早さで市場に出た。まさに前例のない人類初の出来事であった。mRNA技術を用いたワクチン開発は20年前からアイデアとして研究が続いてきたが、あくまでも理論的にであり、実際の効果や安全性は確認されていない。まして長期的安全性はおろか1年間の臨床試験さえ実施されておらず、何が起こるか分からなかった。これについて河野太郎コロナワクチン推進大臣はブログで次のように発信している。 「長期的な安全性はわからない」というのはデマだ。mRNAは半日から数日で分解され、ワクチンにより作られるスパイクタンパクも約2週間以内でほとんどがなくなる。mRNAワクチンが遺伝子に組み込まれることはない。 デマ太郎、ブロック太郎という名誉なあだ名をいただくほど、他をデマ、フェイクと切捨て、自らデマ、フェイクを垂れ流す。政治家の薄汚さと驕りをまざまざと見せつける。デマの最たるものが初期コロナワクチンの有効率だ。ファイザー社のいう有効率95%というのは数字操作後のトリックで、わかりやすいように被験者100人で説明すると未接種群で1人発症するとき、接種群ではゼロに近いという程度。つまりワクチンを100人に接種して1人効くかどうかである。正しい数字を知れば、ワクチン接種は激減し死亡や障害が避けられたはずだ。業界の常識をも超える驚異の有効率がなぜ闊歩し、人々は粛々と接種の列につづいたのか。やがて接種者の多くのデータが出てくると驚愕の事実が判明した。
ワクチン接種の旗振りをした御用学者たちは、新しいデータを黙殺し、最初の歪められたデータを元に接種を促し、問い詰められると口をつぐんだ。彼らが語るように有効率95%のワクチンを2回、3回と世界のどの国より頻回に接種してきたのなら死者はいなくなるはずだ。しかし2022年、2023年と日本の死亡者数は激増した。2022年は前年より12万9105人増加、2023年は2022年より6886人に増えた。
従来のワクチンは無毒化(弱毒化)したウイルスを抗原として体に入れ、体で免疫をつくることで、外敵に備えるものだった。ところがmRNAワクチンは人間の体で抗原をつくらせ、できた抗原に対する免疫を獲得するという設計思想である。抗原をつくるためmRNAという遺伝子情報を細胞に送り込む。数十年前から動物実験が試みられたが頻回接種すると、すべて動物が死んでしまうので人間による治験まで至らず足踏み状態であった。それがこの度のコロナパンデミックで緊急承認された。 「私たちは売りたくない!」と訴えるのはmRNAワクチンの次世代型といわれるレプリコンワクチンである。一般的には自己増殖型ワクチンといい、mRNAそのものを複製増殖させ抗原をどんどん産生し、免疫を得るものだ。体内で増殖するのでより少ない投与量で済む。いままでのmRNAワクチンもだが、レプリコンワクチンは危険度がよりパワーアップしており、有害事象を引き起こす3大要素がある。
従来型のワクチンは抗原量(力価)を厳格に決め投与されたが、mRNAワクチンは0.3ml..といった容積量で投与する。これはあくまでもmRNAの量で抗原量は各々の体で作られる。遺伝子が体内で自己増殖するため個人差は極めて大きい。とくにmRNA自体が自己増殖するレプリンコンワクチンではますます抗原量がわからなくなる。
抗原量がコントロールできない問題の他、シェディング(伝搬)が懸念される。人の細胞内でmRNAが自己増殖する仕組みは、ウイルスの性質そのもので「疑似ウイルス」として周囲の未接種者へ影響を及ぼすことが考えられる。この件については明確な知見は得られていないが、医療機関や各種サロンで「レプリコンワクチン接種者の入室を禁じる!」と貼紙で警告するところがある。懸念材料である以上、「私たちは売りたくない!」 現在、日本だけ8回目の接種に突き進んでいる。最近はワクチンを警戒する人も増え、国の言うままに従う人は減った。しかし、ワクチンの被害は接種から数ヶ月後、あるいは数年後に見られるケースもあり油断はできない。医師であっても相談できるほどワクチンに詳しくない。幸い警告を発してくれる医師もいれば、注意喚起する人々もいる。国の無謬性を信じる人は善良だ。国は都合の悪いものをフェイクや陰謀と切り捨てるが、その発言こそフェイクや陰謀である。今後、さまざまな感染症のキャンペーンがテレビや新聞を介しておこなわれるだろう。危機を存分に煽り、その先にワクチンを準備した製薬会社が顧客を待ち受ける。これからはmRNAタイプのワクチンが主流となり、臨床試験も安全性も軽んじ、死者や被害者がでても突き進む。自分の身は自分で守ることを銘記すべきかと思う。最も心配なのはワクチンの売り先が子供たちに迫るときだ。 |