【食と文化(1)】
人間の生活や生息活動の多様な情報を整理し、構成する知の体系を文化人類学という。ある事象を捉えたときこの情報をもとに、それが何処に位置し、どのような流れで生起し、どのような意味や価値を持つのか考察することで本質に迫ろうとするものである。食の分野だけを見ても、栄養学では充分語り尽くせない苛立ちをしばしば経験する。また栄養学では手に負えない食の領域もある。科学を縦軸に、歴史や風土、文化を横軸にとって考えていけば、縦横に拡がる食の世界が見えてくるのではないだろうか。食を栄養学や科学で語り、科学的根拠なきものを排除するのは簡単である。しかし、解ってはいるが止められない食行動、悪しきものを求める食行動、強固な説得にも屈しない食行動もある。科学技術をはじめ人類学、社会学、民俗学、心理学など文化を構成する要素は多彩である。食文化も例外ではない。その多様さが栄養学を混乱させ、そして栄養学そのものもまた食を混乱させているのではないか。次の文はHPのコラムで取上げた「食べる人類誌」という本の読書ノートである。 |
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人間は自然との関わりなしに生きていく事は出来ない。そのうち食物との関わりあいの文化や生態を歴史をとおして公平に考察するのが本の目的であると書かれている。自然にあるそのものを食材として生を営むなら、そこに食文化が発生しえたであろうか?食材を5大栄養素に分析して検討する栄養学は、見方によってはこの原始的段階にとどまっていると言えなくもない。火を用い食材を調理する事で食文化の革命が始まるのである。その大きな食の革命として8章を挙げ記述される。
このうち2章と8章を中心に幾つかを取りあげて見たい。食材を調理する事により食べられるものの範囲が拡がり、食の消化や味覚に変化をもたらすようになると、食に生命維持の栄養という以上の意味が生まれてくる。栄養学ならば肉は生でも焼いても脂肪、蛋白源に過ぎないが、食文化に於いては食が別の「意味」を持ち始めてくる。精神的、宗教的、道徳的、、、に益があったり、毒であったりする。それに伴い推奨されたり、禁止されたりしてくる。 食人種は栄養学では語れない栄養摂取以上或いは以外の意味を求めるという。人肉食(カニバリズム)には自己の変容、力の獲得などの動機があるらしい。この意味で食物によって自己改善や健康の獲得、病気の克服ができるとして、菜食に没頭したり、健康食品を摂取する人々と同列の存在であると結論付ける。最も遠く離れた二つの食行動が、食文化の本質に於いて共通の解釈が為されることは驚きである。健康維持の為には多様な食物をバランスよく摂らねばならないと言われる反面、病気によっては摂取を禁ずる食物がある。栄養学のない時代には、食物を温・冷に分類し体調に対処していった。薬膳ではさらに食材に薬効まで認めている。現在言われるアルカリ食品・酸性食品というのもこの分類を踏襲したものであろうと思われる。このような分類は恣意的になされたもので科学的とはいえない。栄養学で語れない分野であっても食を語るには、最低限栄養学の知識はもっていたほうが良い。 食物で病が治ると言うのは薬膳に限った事ではない、茸やお茶でガンが治る。味噌汁で放射線の被害が軽減される。野菜で血液サラサラ、、等々巷に溢れる健康情報にはつきものである。ビタミンは科学の発見がイカサマ師に渡って生まれた強迫観念だという。食物や薬は権威づけの為、科学の用語や学者のコメントを必要とする。さらに希少で高価なものほど有り難いのは言うまでもない。食材では海燕の巣やアワビ、熊の手、、、薬草では鹿の角や牛の胆石、麝香などがこの条件を満たしている。誰にでも納得させ、心理的効果を上げるための大切な要件なのだ。 食に寄せられる「意味」はタブーを含めて、神経質に過大に厳密に考える必要はないのではないか? 極端にかたよった食事をとっていると病気になる可能性がある。 日本の食文化は激動のために伝統の知恵が忘れ去られてはいないのか?国が成り立たないほど低い食糧自給率、世界中からかき集める食材、ヒュージョン料理と言われる国籍不明の料理店、、、スローフードという伝統食の動きもあるが、新聞、雑誌を見る限りスローをフレーズに高級志向の料理を提供するに過ぎない。旗振り役となる有名人だけが享受できる楽しみなら心外であろう。遊興的視点でのスローではなく生活者の視点に立ったスローであって欲しい。スローもフュージョンも食に意味や意義を見いだそうとする食行動に於いて同根であると言える。あらゆる美食を漁り尽した果てに、玄米などのスローに行き着く人々、完璧な菜食を守りつつ忌み嫌う肉や魚に似せた精進料理を喜ぶ人々、同根だからこそ両極に揺れ動く可能性を秘めているのである。 現実の食生活は巨大な食品産業の流通の中に組み込まれている。そこで与えられるものを選択し摂るしかないのだ。豊富な食糧とはいえ画一化され選択の幅も意外に狭いものである。プランター菜園でも良い。自ら耕すものだけが、食による自由と自然の恵みを味わえるのではないだろうか?食獲得の全過程に関わってこそ見えてくるものがあるのだ。「未来は、未来学の専門家の予言よりもずっと過去に近いものになるだろう」と書かれている。それを実証するかのように、スローフード(伝統食)の言葉が聞かれるようになった。胡散臭い商人が群がり始めているが、つかの間のグルメブームや懐古趣味に終わらないよう祈りたい。 薬と違い食物には一定の用法・用量がある訳ではない。情報も錯綜し使用上の注意もいらない。そのようなものであるだけに多様な解釈が容認されてきた。文化から見た食は、栄養学者の誤謬や独断や傲慢さも包括して検討されている。他の要因を考慮しない科学だけの見方は食指導の現場での狭量さや空虚さに反映する。しかし、科学の体裁をとった疑似科学は問題外としても、科学を捨てたり軽視してはならない。 これほど饒舌に食を語り、健康を語り続ける時代がかってあっただろうか?多様な考えに比し食行動は画一化されていないだろうか?極端な例を取り上げるのでない。普通の人々の食を見る限り、1日30品目、高血圧予防、生活習慣病対策、糖尿病予防、、、ビタミン、ミネラル、カルシウム、繊維、、、このように頭で食べる食生活が食の楽しみや喜びより優先されていないか気になるところである。そして多様な考えにも関わらず、豊富な食材にも関わらず、食習慣は変えられず、くる日もくる日も同じような食卓が再現されるのではないだろうか? 飢餓を前にしては、食の種類よりカロリーの選択が優先されなければならない。添加物や農薬を取り沙汰する者は飢えて死ぬが良い。しかし、豊かな栄養過剰の国での「良い食事」とは「少なめの食事」であると書かれている。栄養学や食文化を語り尽くしても、つまるところ「腹八分目の食...」なのだろうか? 産業主義の行き過ぎは後戻りさせる必要がある。 最終章の結びはこの言葉で締めくくられている。美味しかったらそれで良い、儲かればそれで良い、楽しかったらそれで良いという刹那の快や不快に身を任せどこまでも進んでいけるのだろうか? |
【参考図書】 食べる人類誌 フェリペ・フェルナンデス=アルメスト 小田切勝子訳 文化人類学を学ぶ人のために 米山・谷編 |