Q 人間が真理を求める理由は何でしょうか?
日常生活に何か関係があるのでしょうか? |
A 消極的に言えば「苦しみからの解放」
積極的に言えば「魂の自由の獲得」です。
たとえばみなさんが猛烈な悪臭の立ちこめる洞窟に閉じ込められたと考えてみてください。
その時みなさんは必死になって出口を探そうとするでしょうし、それが出来なければせめて
きれいな空気が吸える穴を探そうとするでしょう。
真理を探求するのもそれと同じことです。
何かのきっかけであなたが「苦しみ」の状態に置かれたならば
「この状態は何かおかしい」
「どこかに出口はないだろうか」
「この苦しみの原因は何だろうか」
ということを必死になって探求するでしょう。
したがって日常生活に特に苦しみの原因がない、または特にそれを感じない場合は
真理を求める必要も感じません。
歯が痛くなければ歯医者を意識もしないのと同じことです。
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| Q 人間の自由とはどのようにして得られるでしょうか? |
A われわれを取り巻く制約を脱することによって得られます。
私たちは日々さまざまな束縛に囲まれて生きています。
その束縛とは「あれがなければならない」「これがなければ不安だ」 という形を取りますので、
その束縛が成り立っている本質を見抜けば、それによって自由が得られます。
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| Q 束縛からの自由はどんな場合でも可能なのでしょうか? |
A 可能です。
AやBという束縛は有限なのに対し存在全体は無限です。
したがって人間は束縛から解かれることが予定されています。
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| Q 絶望は何から生まれますか? |
A ある有限な価値Aへの過度の依存から生まれます。
その価値Aを得なければ絶望であり、得たとしても再び失うかもしれないという
不安は消えません。これが絶望の正体です。
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| Q それならば人間は絶望から免れることはないのでしょうか? |
A 幸福の源泉を有限な価値においている限りにおいては「絶望」「不安」「焦燥」から
逃れることはありません。しかしその絶望の仕組みを理解した瞬間に絶望から免れる
ことになります。
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| Q 「絶望の仕組みを知る」とはどういうことでしょうか? |
A ものごとが「本来かくあるはずだ」という内的直観がないならば、人間はなんら絶望に
おちいることはありません。自己を取り巻く現状と内的直観の「ずれ」が絶望を生むのです。
したがって絶望におちいる自己は内的直感のうちに「本来絶望しない自己」を潜在させて
いることになります。
そのことを指します。
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| Q 人生の目的は何でしょうか? |
A 「本来の自己」の実現です。
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| Q 「本来の自己」はどうやって実現されるのですか? |
A 自らの周囲の矛盾の解消を通じて実現されます。
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| Q 哲学はなぜ難解なのでしょうか。? |
A 理由は二つあります。
一つは例えば西洋哲学などを紹介する場合、学者自身が中身を消化しないで字面
だけで機械的に翻訳していることによるものです。
こうなると伝言ゲームを宇宙語でやっているようなもので、混乱に拍車がかかります。
もう一つは、話題にされている事柄自体が、違う文化圏や時代の人間にとっては
リアリティ(現実味)をまったく持たないことによるもので、これを理解しようとするのが
もともと無理があります。
たとえば「実存主義」哲学の始祖とされるキェルケゴールを考えてみましょう。
彼自身は単に「人間が有限な価値に幸福のよりどころを置いているならば、
それは絶望に終わらざるを得ない」という人間の本質を説き明かし、最終的に
そこからの救済を「私という有限に見える存在が、本来的には無限者である神と
一体である」という点に見出しました。
しかし、この簡単な理屈が、デンマーク語 → ドイツ語 → 英語 → 日本語
という伝言ゲームを経ていくたびにどこかで少しずつ翻訳や理解の誤差を生じ、
しだいに意味不明の文章になっていくのです。
特に圧倒的に西洋の科学的近代化に遅れを取った明治維新時の日本では、
経済・政治・芸術・哲学の分野に至るまで西洋思想を「自分のものとして消化せず」
大急ぎで丸のみにしようとしました。
その後遺症が今に至るまで続いているのです。
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| Q カントの言う「定言命法」とは何でしょうか? |
A 「定言」とは「普遍的真理」のことです。
逆に 「これをすれば、あれが得られるから」 とか
「これをしなければあれを失いそうだから」
ということで行為をなす基準を「仮言(的)命法」と言います。
「仮言(的)命法」の方は、刻々と移りゆく周囲の状況をいつも計算していなければ
いけませんから、こうして並べてみるとどちらが人間にとって「本来の自己」を実現しながら
生きていく「大安心」の道か明らかでしょう。
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| Q カントの「批判哲学」とは何ですか。カントは何を批判したのでしょうか? |
A 「目に見え」「経験したもの」だけを実在とするいわゆる「経験主義」「理性万能主義」の
限界を論じたものです。
その限界を指摘する方法として「批判」の形を取ったので、批判哲学と呼ばれるように
なったのです。
決して「理性」や「経験による認識」を否定したわけではありません。
私たちは金銭や社会的名声といった目に見える形で表れたものを評価しがちです。
ところがもしその目に見えるものだけがすべてであるとしたならば、自分の「良心」に従うとか、
「無償の愛」をそそぐ、などの、「たった今」「目の前の」事象においては損につながるような
行為はすべて意味を持たないことになります。
カントの時代もそうで、その300年ぐらい前からヨーロッパで勃興してきたルネッサンス
以降のいわゆる「科学的精神」があまりにも行き過ぎてきて「目に見えるもの」だけを
評価する傾向にありました。
人間の認識能力のうち「目に見えるもの」を分析し、評価し、吟味するのがここでいう
「理性」です。
目に見えて経験したことだけがすべて、という意味で「経験主義」と言ってもいいでしょう。
一言で言うとカントはこの「経験主義」「理性偏重主義」に警鐘をならしたのです。
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| Q デカルトは何を言ったのでしょうか? デカルトの「われ、思うゆえにわれあり」とはどういう意味でしょうか? |
A ものごとの本質を疑う「われ=私」は疑えないということを言明したのがデカルトです。
私たちを取り巻く事象や、事物の存在はどこまでも疑うことが出来る。
しかしその疑っている当の「われ=私」は疑えない。そこから神が存在することを
証明したものです。
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| Q 神とは何でしょうか? それは存在するのでしょうか? |
A 神とは人間や宇宙を含めた一切の存在を、そのようにあらしめている「普遍的理法」
「エネルギー」のことです。
そのようなものとして存在しています。
「神」そのものは私たちを含む存在全体を刻々と生成・発展せしめる「宇宙の普遍的理法」
「宇宙に遍満するエネルギー」のことです。「神」というと一般的には一神教のイメージが
強すぎて誤解され、よく論争の種にもなるのですが東洋思想になじんだ人たちにとっては
「天」や「道」と置き換えればそれほど違和感もなく理解できるはずです。
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Q 世の中にはたくさんの宗教がありますが、それぞれの宗教の立てる 「神」は本来は同じものなのでしょうか?
もし同じならなぜ、色々な宗教に分かれるているのでしょうか? |
A もちろん同じものです。
同じものを認識する教祖の表現によって多様に分かれたものです。
宗教とはわれわれや宇宙全体のすべての存在の根底にある普遍的一者を認識した
教祖(宗教的覚醒者)が、われわれの存在は本来は無限者の表れのひとつであること
→ したがって、われわれすべての存在には救済が予定されていることを説くものです。
その「神」と呼ばれ「天」と呼ばれる、存在の根底にある「普遍的一者」は、まさに
「ひとつのもの」ですからどの民族のどの時代の教祖が認識したものであろと、
当然ながら同じものです。
ところがその「普遍的一者」を認識する側はあくまで生身の人間ですから、
その認識体験を「ことば」で表現するにあたって、地域的、文化土壌的差が生じます。
そしてそれが同一のものが多様なもののように表現される原因です。
言い古されたたとえですが、たとえば同一の電波を、型式の違う各地のラジオ(受信機)で
受信すれば多少の音色の違いが出るようなものです。
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| Q もし宗教が本来は同一のものならば、なぜ宗教同士がいがみ合うのでしょうか? |
A それぞれの宗教がいつのまにか「経典主義」におちいってしまっているからです。
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| Q 「経典主義」とは何でしょうか? |
A 自らの奉ずる宗教のみを絶対視し、自らの正しさを自らの奉ずる宗教の「経典」の
字句によって証明しようとすることです。
その時にもし他方の宗教も同じように「経典主義」におちいってしまっていれば、
ここに両者の激突が生じます。
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| Q なぜひとつの宗教が「経典主義」におちいってしまうのでしょうか? |
A 「経典」は「ことば」という「形成されたもの」によって成り立っています。
そしてこの「形成されたもの」は政治システムであれ何であれ、必ず時とともに
その本来の意味を失っていきます。
そのことは宗教といえども例外ではありません。
宗教はもともと普遍法則を体得した教祖が周囲の矛盾、人々の苦しみを救わんがために、
その得た普遍法則を述べ伝えたものです。
普遍法則自体は「絶対」であり「無限」ですから個別の「ことば」では言い尽くせません。
教祖自身はそのことを知りぬいていますから、「経典」自体はあらわさず、相対する
一人一人の人間の理解の幅とリアリティに応じて、分かりやすいことばで応接するのですが、
それが後代になって「経典」として編集されると次第にそこにあらわされた「ことば」の固定化、
絶対化が起きるようになります。
そのことをここで「経典主義」と呼んでいます。
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| Q そのように宗教が時とともに形骸化していくことを教祖自身は知っていたのでしょうか? |
A もちろん知っていました。
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| Q 異なる宗教間に優劣がありますか? |
A 宗教である以上、優劣自体があるわけではありません。ただし、その通用する時間と
空間の意識の幅による包摂関係があります。
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| Q 異なる宗教間の対話はいかにして可能でしょうか? |
A 両者ともに内在する普遍的なもの、すなわち「直観知」を基盤として少しずつ対話を
成り立たせていくことです。
それこそが「外交」の本質です。
たとえば数学で「四角形の内角の和が360°である」ことは対角線を1本引けば
三角形が2つ出来ることから証明できます。
なぜなら三角形の内角の和は180°だからです。
さらにその「三角形の和が180°である」ことは(少し工夫がいりますが)慣れた人や
現役の学生なら、底辺に平行な補助線を引いて3つの内角を一直線に移し変える
ことによって説明できます。
なぜなら「平行線における同位角や錯角は等しい」からです。
ではなぜ「平行線における同位角は等しい」のか?
そうやってさかのぼっていくと、もう最後には「正しいから正しい」「証明する必要もなく
自明である」としか言えないものにたどりつくことになります。
そしてそれは、どこかの何かの教科書に「知識」として書いてあるのではなく、
私たちの潜在意識の中にもともとあったものです。
それがわれわれの潜在意識に内在している「直観知」です。
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| Q 哲学と宗教の違いは何でしょうか? |
A どちらも人間の本質、存在の本質を説き明かそうとする点では同じです。
しかしその根拠を哲学は、われわれの外部にある事象の分析に拠り、宗教は
われわれの内部にある直観をよりどころにします。それが両者の違いです。
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| Q 矛盾とは何でしょうか? |
A 潜在意識が感じる違和感です。
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| Q 何を矛盾と感じるかは人によって違うのでしょうか? |
A 人によって違います。
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| Q どんな矛盾も必ず解消されるのでしょうか? |
A されます 矛盾は調和が予定されています。
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Q しかし歴史を見ると、社会矛盾に警鐘を鳴らした先覚者が非業の死を遂げる場合が
あるのはなぜでしょうか? 矛盾がかならず解消されることと矛盾しませんか? |
A 矛盾しません。たまたま矛盾の解消にかかる時間が個人の寿命を上まわったに
過ぎません。
政治や宗教のもたらす矛盾のように長い時間の幅を持つ矛盾の場合は確かに質問の
ような事態が起きることがあります。
しかしその場合は先覚者の周囲にいた数人の人間がその潜在意識を引き継ぎ矛盾の
解消に立ち向います。
それでも時間が足りない場合は、さらにそのそれぞれの周辺にいる数人の人間がその
潜在意識を引き継ぎます。
矛盾をもたらす原因事象は有限であるのに対して、矛盾解消に向う人間はこのように
「かけ算」で増えていきます。
したがってそれがたとえどんなに長い期間にまたがる矛盾であろうと必ず解消されるのです。
たとえば江戸末期の「大塩平八郎の乱」を思い起こしてみてください。
当時民衆は260年続いた徳川幕府の「官僚化・事なかれ主義」の腐敗しきった体質の
中で重税にあえぎ、疲弊しきっていました。
そこに天保の大飢饉が起こり、無力な民衆は生きるか死ぬかの窮状にさらされます。
大阪の現役の町奉行であった大塩平八郎はその窮状を幕府に訴え救済策を嘆願
するのですが、それでも長い間の太平に慣れきった幕府は何の策も打とうとはしません。
そこにあるのは問題の先送りと役人の自己保身ばかり。
そこでついに義憤やむかたなき大塩平八郎はこつこつ貯めた自らの蔵書を叩き売って
軍資金に代え、わずかな同士と共に決起します。
もちろん反乱そのものはわずか半日で幕府方によって鎮圧され、大塩父子も覚悟の
自殺を遂げます。
しかしこの反乱をきっかけとして各地に多くの共鳴者が現れて暴動や一揆を起こし、
徳川幕府の 崩壊が始まり、やがて明治維新へと結実していくのです。
|
| Q 矛盾が尽きることはあるのでしょうか? |
A ありません。
ひとつの矛盾は解消調和が予定されていますが同時にそれがつぎの矛盾をもたらします。
たとえば前述のように多くの先覚者の血と犠牲のおかげで成り立った明治維新も
半世紀もして、維新の功業者が死んだりすると今度はまた、だんだん制度が固定化し
時代の状況に対応できないようになってきます。
このように矛盾は永遠に尽きることはありません。
|
| Q 矛盾が永遠に尽きないとすれば、人間はどうすればいいのでしょうか? |
A その時にはまた新たな存在が登場し、その矛盾の解消に立ち向かうことになります。
それが新たな存在が「新たな」存在として「再生」する本当の意味です。
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| Q 縁の本質とは何でしょうか? |
A 直観です。
たとえば
「同じクラスになった」
「同じ地域の同じ班になった」
「ビジネスで名刺交換したら同じ仕事だった」
などというのはすべて「同じクラス」「同じ班」「同じ仕事」という、表にすでに表れたもので、
ことばの形に出来るものです。
こうした「形成されたもの」でできあがった人間関係は時と共に意味を失っていきますので、
大部分は時間が経てば疎遠なものとなります。
縁は本来潜在意識のうちに内在していますのでそちらは時間の経過と関係なく永続性を
持ちます。
|
| Q 縁のあるなしは何によって決定されるでしょうか? |
A 出会う両者に内在する時間と空間の幅によります
たとえば「日本の政治家」を話題にする場合を考えてみましょう。
Aは「小泉首相」や「森首相」を瞬間的に思い浮かべ、Bは「田中角栄」や「吉田茂」を、
さらにCは「大久保利通」や「島津斉彬」を連想します。
この場合で言えば、政治を論じる視野はAは1〜2年、Bは10〜50年、Cは100〜200年の
時間的幅に分かれており、異なるグループに属する相手との議論はなかなか噛み合いません。
その結果、自分と似たような時間の幅を持つ人間同士が自然に引き寄せられてきます。
これが縁の正体です。
|
| Q 縁があるかないかはどうやって判断すればいいでしょうか? |
A 間違っても表面の利害で判断しないことです。
会った瞬間に「何か親しみを感じる」「何か自分を分かってくれるような気がする」
こうした直観をよりどころとすることです。
|
Q ある集団の中で、自分にとって縁の濃い人は何人に一人ぐらいいるのでしょうか?
そんな目安があるのでしょうか? (新入社員) |
A あります。その集団が100人だとすると、最も縁の濃い人は2人から3人、
つぎに縁の濃い人は10〜15人ぐらいです。
ひとつの刺激に対する反応の濃淡はだいたいつぎの図のように分布しています。

ある刺激Xに対する反応度グラフ
この図を6つに分割して面積比を求めると、
一番右の集団が2〜3%、
その次の集団が13〜15% になります。
こうした人たちはみなさんが仮に会社をやめたからといって縁が完全に切れるわけではなく
長い時間の後にひょっこり縁が復活して、あなたの人生の実現にとって重要なある役割を
果たすことになります。
その縁を大事にすることです。
|
| Q 直観とは何でしょうか? |
A 潜在意識です。
|
| Q 芸術の価値序列は何によって決定されるでしょうか? |
A 普遍性の幅によります。
|
| Q 芸術の価値は個人の好みで決まるのではないのですか。だとしたら芸術に価値序列があることと矛盾しませんか? |
A もちろん個人の好みで決まります。
しかしその価値観の幅が個人によって違い、しだいに大きな幅の方が小さな幅の方を
呑み込むようになっていくのです。
たとえばラーメン屋の場合を考えてみてください。
Aが「だるま軒」のラーメンを、Bが「来々軒」のラーメンをうまいと主張します。
どちらも簡単には主張を譲りませんから、なるほどその時点では「うまいかどうかは
人それぞれである」という主張を否定できません。
しかし実はAは「だるま軒」しか知らず、Bは「だるま軒」も「来々軒」も両方とも
食べ比べてみた上で「来々軒の方がチャーシュウが1枚多いし、材料の下味も
手を抜かずにきちんとしている」と言っていたのです。
そうするとAもいずれ何かの機会に「来々軒」を食べてみるでしょうし、なるほどと
納得もするでしょう。
こうして価値観の幅の大きな方が時間が経つとともにしだいに評価を得ていくのです。
|
| Q 普遍的価値を持つ芸術家は必ずその時代に正当な評価を受けるのでしょうか? |
A 正当な評価を受けるとは限りません。
特に芸術や宗教のような長い時間の幅を持つ分野はそうです。
この分野の天才が、その生きている時代に正当な評価を受けるのはむしろまれで、
よほどの出会いに恵まれなければ無理です。
|
| Q 普遍的価値を持つ文学にはどんなものがあるでしょうかょうか? |
A 文学で言えばパール・バックの「大地」、ユゴーの「レ・ミゼラブル」、日本では山崎豊子の
「大地の子」、マンガで言えば小山ゆうの「がんばれ元気」、美内すずえの「ガラスの仮面」
があります。
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| Q 時間の本質とは何でしょうか? |
A 相当の難問です。 どうやらこれも相対的なもののようです。
|
| Q 不安はどこから生まれますか? |
A これも有限な価値への過度の依存から生まれます。
たとえば「xxx円の財産を持った」「xxxの地位を得た」「xxxという恋人を得た」
などという価値はすべて、「xxx円の財産」「xxxの地位」「xxxという恋人」という
ひとつの「形成されたもの」によって成り立っています。
「形成され」「目に見える」ものである以上、これらにはすべて「失う」または
「時とともに移ろう」という「有限性ゆえの宿命」がつきまといます。
そのことを理性は抑えつけようとするのですが、潜在意識は知っていますので
何かのおりにひょこっと顔をのぞかせることになります。
それが「不安」の正体です。
|
| Q 虚無感は何から生まれますか? |
A 有限な価値への過度の依存からです
ある人がそれまで価値観あるいは目標としてきた「xxxという財産を得る」
「xxxという地位を得る」というようなことを獲得したとしましょう。
最初のうちはそれで満足するでしょうが、しばらくすると「何だ、この程度のことだったのか」
「思ったほどではなかった」
と、何がしかの「目的喪失感」に襲われることがあります。
これが「虚無感」です。
|
| Q 不安や虚無感を解消するためにはどんな方法がありますか? |
A こだわりを捨てて心の一番深いところにある自分の潜在意識と向き合うことです。
|
| Q 悪とはどんなものでしょうか? |
A 悪は単独、絶対に存在するのではなく両者の関係に依存します。
その意味で相対的です。
たとえば嫁と姑の対立のようなものです。
両者が狭い範囲で我を張り合えばそこに対立が生じ、一方から見れば他方が
絶対悪に見えます。
|
| Q 悪は何から生じますか? |
A 世界と時間に関する誤った認識から生じます。
すなわち本来は変転してやまない世界が静止・固定化していると思う誤解が
悪を生みます。
もし世界が静止しているならば、たとえば富を持たないものが富を得るためには
「奪う」以外の手段を持たないことになります。
「奪う」「抹殺する」「破壊する」といった行為の根底にはこの誤解があります。
|
| Q 躁鬱病とは何ですか? |
A 躁は存在感の過剰、鬱とは存在感の過小です。
|
| Q 精神分裂とは何ですか? |
A 潜在意識と現状認識との過剰な乖離(ズレ)です。
|
| Q 普遍的真理の確認は何によってなされるのでしょうか? |
A 内的直観によってです
たとえば数学で「四角形の内角の和が360°である」ことは対角線を1本引けば
三角形が2つ出来ることから証明できます。
なぜなら三角形の内角の和は180°だからです。
さらにその「三角形の和が180°である」ことは(少し工夫がいりますが)慣れた人や
現役の学生なら、底辺に平行な補助線を引いて3つの内角を一直線に移し変える
ことによって説明できます。
なぜなら「平行線における同位角や錯角は等しい」からです。
ではなぜ「平行線における同位角は等しい」のか?
そうやってさかのぼっていくと、もう最後には「正しいから正しい」「証明する必要もなく
自明である」としか言えないものにたどりつくことになります。
そしてそれは、どこかの何かの教科書に「知識」として書いてあるのではなく、
私たちの潜在意識の中にもともとあったものです。
それがわれわれの潜在意識に内在している「直観知」です。
|
| Q その人の言っている論説が普遍的であるか、それとも単に普遍的であると装っているだけか、どうやったら見分けられますか? |
A 論争を挑むことです。
普遍性というのはどんな場合にもあてはまる真理の体得ですからどんな論争でも
真摯に対応し、相手にとって分かり易いことばで応接することができます。
またたとえば引き合いに出すデータの細かな違いや部分的なミスなどを
指摘された場合にはこだわりなく指摘を感謝し修正します。
これに対し普遍的であると装っている場合は、ある部分についてごまかしがあるわけ
ですから論争をいやがり言葉をにごすか、あるいはやたら難解な専門用語を使って
人を煙にまこうとします。
もうひとつ言葉の使い分けでも簡単に見分ける事ができます。
普遍的真理を体得している場合は
A 普遍的真理である
B 普遍的真理とまで断言はできないがかなりの確率で正しいと思っている
の二つを、
Aは「・・・・・である」
Bは「・・・・・だろうと思う」
のようにきちんと使い分けます。
|
| Q 葉隠とは何ですか? |
A 生死の大問題を根底にすえて諸問題を相対化した処世哲学です。
|
| Q 陽明学とは何ですか? |
| A 知っているなら行動せよ、という哲学です。
われわれが周囲の矛盾に接した時に「これはおかしい」「これはどこか間違っている」
という感じを持つことがあります。
これが「知性」の持つ疑いの第一歩ですが、この「知性」が単に「知識」に
とどまっているのでは、それはいわゆる「もの知り」のレベルに過ぎません。
特に周囲の矛盾が政治や経済などの多くの人々を巻き込み、苦しめているような
場合にはその「知識」が「知恵」にまで高められ「実践」に移されなければそれを
解消することは出来ません。
陽明学とはその「実践知」を説いたものです。
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| Q 孟子は何を言ったのでしょうか? |
A 孟子が説いたのは一言で言えば「義」です。
社会矛盾が増大し人々の困苦が耐えられないものとなった時にその社会変革の
天命を直覚する人々が出てきます。
その根本思想を説いたものです。
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| Q 老莊思想と儒教の違いは何ですか? |
A 老莊思想は、目に見える存在の背後にある宇宙の根本存在を説いたものである
のに対し、孔子や孟子といった儒教は目に見える存在である政治のあり方や、
人間関係のあり方を説いたものです。
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