【読書録(14)】-2017-


薬のやめ方事典
研究不正
おもてなしという残酷社会
西洋医学が解明した「痛み」が治せる漢方
言ってはいけない
テロルの真犯人
日本会議の正体
悪癖の科学
宗教消滅
日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか

薬のやめ方事典 浜六郎

16年後の2017年現在、次のように言い換えます。「コレステロールが高いことを理由に低下剤を処方されている人は、例外なく今すぐに、(低下剤を)やめよう。医者が何といおうと、学者が何と言おうと、厚生労働省が何と言おうと、メーカーが何と言おうと、マスコミ、タレント、マンガ、保健所、家族が何と言おうと、あなた自身がやめればよいのです」

著者の主張はコラムに何度かとりあげ、特にコレステロールや血圧等の数値の欺瞞と薬の服用について注意喚起してきた。著者は1999年頃、コレステロール値について徹底的に調べ上げた結果、「下げる必要がない」といい始めた。それから12年後の2012年まで多少の例外はあるかも知れないとの考えから「コレステロールが高い以外危険因子のない人は..」と、曖昧さを残していたが、2017年現在「例外なく今すぐ..」止めるよう断言している。

循環器学会や動脈硬化学会はコレステロールをやり玉にあげ、体に悪いものかのようなイメージを植え付けてきた。しかし、総コレステロール値が300mgを超えるような家族性高コレステロール血症の人でさえ強力なコレステロール低下剤で極端に下げると害のほうが大きい。いまもせっせと服み続けている人は製薬会社の宣伝にすっかり馴らされ抜け出せなくなっている。健康に関する広告は軽く不安をかきたて、重く暗示させることにある。薬の危険や副作用は理屈で理解できても、止めるには不安を乗り越えなくてはならない。「止めると不安」というだけで律儀に服用を続け、医師は止めさせることで悪化したら、他の原因であっても責任を問われかねないという不安で処方を続ける。脅迫ビジネスの代表が医療や宗教、保険、他にも教育、軍事、政府等、まだたくさんの業種がありそうだ。

2016年6月に出版された英国医師会雑誌によると、60歳以上の人を対象とした調査でコレステロール値が高い人のほうが長寿を示していた。欧米の調査でも60歳以降の人では例外なく悪玉コレステロールが高いほうの人が長寿であることが判明した。いままでコレステロールを悪者とみなし食品から摂るコレステロールも忌み避けてきた。厚生労働省は食事摂取基準を設け、食品から摂るコレステロールの上限値を決めていた。これに基づいて食品業界は「低コレステロール食品」、「コレステロール・ゼロ」などを謳いトクホ(特定保健食)の指定を取得し、食品や飲料を薬のごとく売り始めた。2010年、日本脂質栄養学会は日本での大規模な疫学調査の結果、コレステロールの高い人のほうが長寿だと認め、2013年には米国の心臓関係の学会が「コレステロールの摂取制限を設けない」見解をだした。厚生労働省は2014年3月、ついにコレステロールの食事摂取基準を廃止し、翌年の5月、日本動脈硬化学会もこれを認めるに至った。動脈硬化学会は「健常者において..」との枕詞を付しているが、言い訳がましい表現だと著者は喝破する。このことは大きく報道されたが、相変わらず処方され服み続ける人が多く、その後も薬の売り上げは増加した。

無害無益なら製薬会社への資金カンパで済むが、筋肉が溶けて強い痛みを起こす横紋筋融解症という副作用が知られている。他に末梢神経や中枢神経の障害、肝機能障害など多岐に及ぶ。これを「服まねば悪いことが起こる」という脅迫で服み続ける。私の薬局でも、服用中の薬の相談を受けることが多く、薬が不要であることの説明を切々とおこなっても、受け入れる人はほとんどいない。「止めると不安だから服み続ける」という。社交辞令で「止めてみます」と答える人も居るには居るが、「止めることの不安」を打ち破ることは難しい。

コレステロールは生命活動の基本を為す重要な成分で、副腎皮質ホルモン、性ホルモン、胆汁などの原料として必須のものだ。体内のコレステロールの7割以上が自身の体内で生産され、食物からの摂取は3割弱にすぎない。食物からコレステロール摂取が減ると体は蓄えた体脂肪やブドウ糖からコレステロールを生産するため体が重大な危機に陥る。コレステロールはLDL(低比重)とHDL(高比重)に分けられているが、日本動脈硬化学会はLDLを悪玉コレステーロールと呼んで、あたかも害毒かのように勘違いさせる。コレステロールは体に必要なもので悪玉も善玉もない。

1980年代末、折しもコレステロール低下剤が市場に出たころ、悪者扱いが始まった。続いてコレステロール低下剤の売り上げが足踏みし始めた2000〜2001年頃、コレステロール悪玉説がいっそう盛んになった。2016年にコレステロールの高い人が長寿であることが明らかになっても、ガイドラインの修正は見込めない。製薬会社の努力は目を見張るものがあり、彼らが繰り返しばら撒く嘘の情報に浸っていると嘘に慣れてくる。血液サラサラが良く、ドロドロが悪いという刷り込みで薬を服み、食事を制限し、ひたすら長寿を夢見るのは見当違いだ。血液ドロドロだから心筋梗塞になるのではなく、血液サラサラのほうが赤血球が壊れ心停止を引き起こす危険が大きい。「コレステロールを薬剤で下げるなど言語道断、健康な人をわざわざ不健康にする」とまで著者は言う。ではどうすればよいか、心筋梗塞などの要素があれば、食生活、運動などの養生で十分に対処できる。著書が勧めるチェック項目は以下のようなものだ。

【チェック項目】

  1. タバコを吸っていませんか?
  2. ストレスは溜っていませんか?過労や睡眠不足ではありませんか?
  3. 運動不足ではありませんか?
  4. 肥満しすぎ(BMI30以上)または、やせすぎ(BMI18未満)ではありませんか?
  5. 食べすぎていませんか?食事に偏りはありませんか?食事を制限しすぎではありませんか?
  6. 血圧は高めではありませんか?(160以上あるなら、ストレスの原因を考えてください)
  7. 糖尿病はありませんか?
  8. アルコールが過ぎることは?1日あたりビール500ml、または日本酒180mlを超えていませんか?
  9. 親が若くして(60歳以下で)狭心症や心筋梗塞になりませんでしたか?
  10. これまで狭心症や心筋梗塞になったことは?

それぞれのチェック項目の内容から、対策は推して知るべし。該当してもしなくても、コレステロールがどんなに高くても、薬で下げる必要はない。

7)の対策として、「糖尿病は、徹底した糖質制限食で無理なくコントロールが可能である」と助言されているが、5)食事に偏りがありませんか?のチェック項目と相矛盾しはしないか、と思い目次を見ると「食事と運動」の章を設け詳しく書かれていた。

本書でいう健康食とは、個々の体格と仕事や運動量に見合った必要なエネルギーの、約半分を脂質から摂り、良質のタンパク質を十分に摂り、糖質(炭水化物)は控えめにする、というものです。

最近、Evidenceを示し、確かで斬新な食養生として糖質制限食を推奨する風潮がある。著者は徹底的に調べあげたうえでの結論だと言う。道元の「赴粥飯法」に食をいただく際の5つの心がけがある。その4)、正に良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為なり。「食は良薬であり体を養い健康のためにいただく」という意味で、科学的Evidence以前に誰一人として疑うことのないEvidenceだ。いままで習慣としてきた食生活を変えることは薬を止める理屈とは別だ。現代栄養学では栄養バランスの良い食事として糖質の割合を60%、脂質20〜25%、タンパク質15〜20%を推奨する。しかし、糖尿病患者では糖質摂取に伴い尿中の糖分が増えることから、糖分を抜き高脂肪・高タンパク食にして、糖尿病の治療に成功した。これは目新しことではなく18世紀終盤から19世紀初めに試みられ、現在の糖尿病の食事指導の原形となった。最近、復活している糖質制限食は糖尿病のみならず健康な人にも推奨し、「糖質を30〜40%に抑えるだけでも十分健康に良い」と書かれている。抑えるだけでも..というのは、言外にもっと減らせという意味が込められている。そして減らした分を脂質、タンパク質で補えという。

糖質を制限すれば、糖質を必要とする筋肉や脳の活動が維持できなくなり、命に関わる障害が出る。体にはそれを防ぐための機構が備わり、筋肉を分解し糖生成をおこなう。この反応は脳から分泌されるコルチゾールが関与し、このホルモンが働くときは相当の低血糖状態であり、人体にとって普通ではない。そこで糖生成と同時にインシュリンの働きを抑え血糖低下を防ごうとする。そうなると今度はインシュリンが効かなくなり、血糖値が下げられなくなる。糖質を制限する健康法や糖尿病治療が逆に糖尿病を誘発する。豪メルボルン大学のラモント教授が2016年、ネイチャーに発表した論文では「低炭水化物食」(糖質制限食)を与えたマウスは、インスリンを生成する「β細胞」の機能が減少していた。「糖質制限を始めるとインスリンの分泌が減り、生成元である「β細胞」の活動が低下する。使わないと衰える筋肉と同じように、ある程度の期間、糖質制限を継続すると、休み過ぎてβ細胞の機能低下を招く。そうなると、糖質を摂取した際に、インスリンを分泌できなくなり、高血糖状態になってしまう。

著者は「徹底的に調べあげ、糖質制限食を推奨するに至った」というが、なぜ糖質制限食のEvidenceが優れていると考えたのだろう。

脳は、ブドウ糖だけをエネルギー源にしていると考えられがちですが、じつは、脂質が分解されてできたケトン体もエネルギーとして使うことができるので、ブドウ糖は必ずしも必須ではありません。筋肉も、ブドウ糖だけでなく、ケトン体をエネルギー源として使います。

トリグリセリド(中性脂肪)は、脂肪酸とグリセリンに分かれます。そして、このグリセリンからブドウ糖が合成されますし、アミノ酸からもブドウ糖を作ることができます。つまり、糖質をまったく摂取しなくても、最低限のブドウ糖を私たちの体は別の手段で確保することができるのです。

必須の栄養素は脂質とタンパク質であり、代表的なモデルは「鶏卵」だという。カロリーでみると脂質が65%、タンパク質が34%、糖質は1%で他に骨に必要なカルシウムや必須ミネラル類、ビタミン類もすべて揃っている。なによりもこの卵から1羽のヒヨコが生まれるのだから、脂質とタンパク質は生命に重要な栄養素である。「脂質とタンパク質から糖質は作られる」と言うからには、いちおう糖質の役割や必要性は認識されているようだ。しかし、著者は糖毒といい、糖は毒であり健康を害するという。体の中の余分なタンパク質は、タンパク分解酵素によって分解され、無毒なアミノ酸やペプチドに変わるが、糖が結合し酸化したり濃縮するとタンパク分解酵素で分解できなくなる。これを最終糖化産物(AGEs)といい、これを排除するための免疫反応である炎症が起こり、繰り返す炎症で細胞が早く老化する。老化はあらゆる病気の原因になり、とくにアルツハイマーやパーキンソン氏病、認知症になりやすい。糖尿病の人ではインシュリンを分泌する膵臓のβ細胞が糖毒に侵され、インシュリンの分泌ができなくなり、ますます悪くなる。糖質を摂取すると糖を下げるため大量のインシュリンが必要で、膵臓のβ細胞は疲弊するが脂質や蛋白質なら糖毒の心配もなく、インシュリンをほとんど必要としない。いわゆる食事由来の2型糖尿病の人は糖質の摂取量を全エネルギーのうちの10%未満にするのが好ましく、減らした糖質の分を主に脂肪、次に蛋白質で補う。

関連書籍やネットで調べると、糖質制限食で糖尿病が治り、ダイエットにも成功した体験談があり、これを支持する専門家の説明もある。一方、糖質制限に警鐘を鳴らす意見もあり、いくつかまとめると、脳を動かすエネルギーは100%糖質であり、炭水化物を食べず脳を正常に保つには1日に数キロという大量のタンパク質や脂質を必要とし現実的ではない。糖エネルギーが不足すると筋肉を分解して糖生成をおこない脳へ送る。その時水分を使用するので体重は落ちるが、脂肪は減っておらずダイエットとはいえない。糖質制限ダイエットをしていると糖質不足で脳が極力エネルギーを使わないよう指示を出すため慢性的に眠気を催す。さらに筋肉を消費し糖質を動員するので筋力が落ち、骨もスカスカになり骨粗鬆症の危険がある。

2006年、ランセットなどの医学雑誌で糖質制限ダイエットを厳格に実行すると、体内に老廃物が溜まり、体が酸化し非常に危険な状態に陥るケースが報告されており、「死を招く恐れあり」との警告を発する医者もいる。また糖質制限ダイエットを体験した医者の話もあった。「あっとうまに15kgくらい痩せた」が次第に頭がぼ〜っとする状態が続き、ある朝目覚めると右半身が麻痺してまったく動かなかった。MRIを撮ると脳梗塞の一歩手前で、脂質やタンパク質の摂りすぎで脂肪が飽和状態になり、一時的に脳の微小血管が詰まったのが原因だった。

霞を食べて生きてはゆけない。食は命や健康を支えるため子々孫々培ってきたものだ。そこには食文化という知恵が脈々と流れている。短期間、糖質制限はできるかも知れないが、いままでと真逆の食習慣が根付くだろうか。糖質制限食を強く推奨するなら著者ご自身で長期に実践され、食の満足度や体調の変化など仔細な報告を待ちたい。賛否両論揺れるものは静観するほうがいい。

 

研究不正 黒木登志夫

昨年4月16日の熊本地震の本震で、大阪大や京都大のチームが熊本県益城町で観測したと主張していた特に強い揺れのデータに不自然な点があり、チームがデータの公開を中止したことが2日、分かった。関連する論文の撤回も検討している。捏造(ねつぞう)や改ざんの疑いがあり、文部科学省も事実関係を調べている。(2017.10.2)

日産自動車は19日、無資格者が完成車の安全性などを出荷前に最終確認する「完成検査」に従事していた問題で、国から指摘を受けて再発防止策を講じた後も、複数の工場で無資格者が一部の検査を続けていた、などと発表した。(2017.10.19)

神戸製鋼所の製造するアルミ・銅製部材のデータ改ざん問題を巡り、8月の社内調査で事実が発覚した後もアルミ・銅事業の一部で不正が継続していたことが20日、分かった。8日に梅原尚人副社長が会見して問題を公表したが、不正な製品の出荷がその後も継続されていた可能性もある。経営陣の指示が現場に徹底できておらず、企業のガバナンス(企業統治)が改めて問われそうだ。(2017.10.20)

先月の新聞記事を3つあげた。日産や神鋼の不正は理由も明らかで分かりやすいが、地震データの捏造や改ざんはなんのために行われたのだろう。天気予報のようにデータを元に予測される事象を論ずればいい。本書を読むと命を預かる医学データさえ捏造や改ざんが行われ、むしろ医学だからという逆説も成り立つ。地震データ不正は匿名の指摘で発覚した。指摘をうけ再度分析したところ、記録した地震波の形が不自然で問題をかかえたまま広く流布されていた。昨年、別の人からもこの指摘を受けていたが精査をしないまま、論文を発表している。研究チームの論文に沿って捏造、改ざんが行われたに違いない。3つの事件に共通する点は、指摘されながらも黙殺し続けていたことだ。

不正は科学だけではない。いつの時代でも、あらゆる社会現象に不正はつきものである。2015年の後半にメディアを賑わせた不正だけでも、東京オリンピック・エンブレム問題、旭化成建材のマンション杭打ちデータ改ざん、東芝の不正会計、東洋ゴムの免震・防振ゴムのデータ改ざん、有機肥料成分偽装、化血研の血液製剤・ワクチン製造不正、橋梁溶接不良事件、フォルクスワーゲンの排気ガス測定ソフト改ざん、ロシア陸上競技選手のドーピングなど、枚挙にいとまがない。

発覚したのは特殊な例か氷山の一角か、社会不正も研究不正も根は同じであり、真実に対する誠実さが欠如し野心、競争心、金銭欲、拘り、傲慢、無責任、杜撰などが底流にあるという。不正が暴露されたとき、他人ごとのように語ることができるだろうか。著者は不正への誘惑として次の6つをあげる。

  1. ストーリの誘惑:実験をするとき仮説を立て、それを証明する方法を考えるが、自分の立てた仮説に拘りすぎると、仮説に合わないデータを排除、捏造する。警察や検察による取り調べでこれが行われると悲劇的な冤罪を生む。
  2. お化粧の誘惑:研究をしている人は、誰でも、きれいな実験をしたいと願う。完璧な実験や美しいデータを求めて、改ざんの誘惑へ駆られる。
  3. 競争に勝つ誘惑:民主党の事業仕分けで蓮舫議員が言った「二番」でよいというわけにはいかない。最先端を走る研究者は、すべて1位を目指す。厳しい競争のため、ドーピングに手を出すスポーツ選手のように研究不正に走る人が出てくる。
  4. ネイチャー、サイエンスの誘惑:ネイチャーやサイエンスなど権威ある学術雑誌に掲載されると有利になり、研究費も保証されるが、不正論文も多く、論文撤回率も高い。
  5. 研究資金の誘惑:今では億を超す研究費も珍しくなく、資金獲得競争に勝たねば研究ができない。研究費申請や奨学金の申請書類にも、発表論文の虚偽記載、アイデアの盗用、研究成果の不正などの不適切な行為が見られる。研究費を獲得した後でも、それが高額であればあるほど、申請書で約束した成果を出そうとするため判断の過ちを招く。
  6. 出世の誘惑:研究者も競争とヒエラルキーの世界で生きているのでポスドク、助教、講師、準教授、教授とよりうえを目指す。地位を得れば自分のアイディアで研究が可能となるため、他人の論文をコピーしたり、論文を捏造してでっちあげる。

ばかばかしいくらい単純で見え透いた不正であっても、不正を働いた当人は、何も見えなくなってしまう。研究不正には若い研究者がデータを捏造する「ボトムアップ型」と研究室のボスが積極的に関わる「トップダウン型」がある。2014年にSTAP細胞とノバルティス事件という2つの大きな研究不正事件が発覚し、日本は量だけでなく、研究不正の質においても世界の注目を集めた。STAP細胞は捏造、改ざん、盗用という重大な研究不正をすべて詰め込んだ発表で、11カ月で消えていった。

ノバルティス事件は、わが国の臨床医学の構造上の問題を内包しているという点で、STAP細胞よりもはるかに深刻な研究不正であった。

ノバルティス事件で知られるディオバンはアンジオテンシンU受容体拮抗薬という血圧降下剤である。アンジオテンシンUは心臓と血管に作用し血圧を上げるが、この物質が受容体と結合するのを阻害することで血圧を下げる。40歳以上の男性の60%、女性の40%が高血圧患者で何らかの血圧降圧薬を服用するため、製薬会社にとって大きなマーケットだ。さらに抗脂血症薬、抗コレステロール薬、糖尿病薬などを併用することもあり、使いだしたら服み続けることが多い。医師にいかに処方してもらうかが勝負どころで、他社に差をつけるデータがあれば一挙に優位に立てる。ノバルティス事件はこのような背景で仕組まれた研究不正である。

慈恵会医大、名古屋大、滋賀医大、京都府立医大、千葉大の循環器内科が参加し、ほぼ10年にわたって大規模な臨床研究が行われた。ノバルティスの経営本部が中心となり、すべての研究に大阪市立大学の(N.S.)が参加した。(N.S.)は統計の専門家という触れ込みであったが、彼を含めスタッフに一人として臨床統計学の専門家は居なかった。毎日新聞は、ノ社の社長から(N.S.)が社員であることを聞き出した。彼はデータの統計分析を行い、効果を判定する委員会にも出席し、すべての情報に介入・操作できる立場にいた。(N.S.)に講師の肩書を提供した大阪市立大の研究室へ400万円の奨学寄付金が渡り、(N.S.)は無給の講師として10年間居座った。大学は企業の魂胆を知らず産学連携ということで受け入れたのだろう。

慈恵医大の研究者は、「自分たちにはデータ解析の知識も能力もない」と語っている。これは驚くべき証言である。「知識も能力もない」研究者はノバルティス社に丸投げするほかなく、ノバルティス社は研究者の無知につけこんで、自由に都合のよいデータを作ったことになる。その意味で、ノバルティス事件は、わが国の臨床研究の抱える構造的な問題を反映していると言える。

2002年、ディオバンの売り上げがまだ400億円だったころ、1000億円を目指すプロジェクト達成のため国内の臨床データの創出が不可欠であった。降圧効果に加えて心臓や血管のイベントを減少させるデータをヨーロッパ心臓病学会誌とランセット誌に報告した。ディオバンは他の降圧剤に比べ、45%(京都府立医大)、39%(慈恵医大)も心血管イベントを減少させるという。普通に考えれば心血管イベントを40%も抑えるなど信じられないが、論文が権威ある雑誌に載ったため信じざるを得なかった。おかげで、ディオバンの売上は爆発的に膨れ上がり、2006年に1100億円、2007年に1300億円、2009年に1400億円に達した。ノ社は講師(N.S.)の貢献を称え社長賞を贈った。

しかし長くは続かず、2011年、5大学の臨床研究が出揃ったところで臨床研究適正評価教育機構理事長の桑島巌氏から「日本のEBM(Evidenceに基づく医療)をどうしようというのか」という厳しい論評が寄稿された。2012年には京都大学循環器内科の由井芳樹氏が、慈恵医大、京都府立医大、千葉大の血圧データについての懸念をランセット誌に発表した。3つの研究論文で、ディオバン服用グループと対照降圧剤の服用グループの研究開始時と終了時の血圧分布(平均値と標準偏差値)が奇妙なほど一致していることを指摘した。ついに2013年7月、学会、日本医師会、メディアの追及に耐えられず、データの捏造を告白せざるを得なかった。ディオバン服用グループの心血管イベントの発生を少なくし、対照薬グループで多くするよう操作したことを明らかにした。

8月、厚生労働省は有識者検討委員会を立ち上げ、第1回検討委員会でノバルティス社から大学側に提供された奨学寄付金が報告された。11年間に11億3290万円が5大学に渡っていたが、すべての大学が「利益相反」関係にあることを明記していなかった。

一言でいえば、ノバルティス社が、わが国の臨床医学の弱点を見抜き、愚弄した事件であると言っても良い。それは同時に、この研究に協力した患者だけでなく、将来この薬を使うであろう患者をも愚弄したことになる。

ノバルティス事件の進行中に、STAP細胞事件が重なったため、市民の関心はSTAP細胞へ流れたが、医学界の構造的欠陥を抱えている点ではるかに重大である。時間軸に沿って事件の経過を見ると本質が見えてくる。ノ社のプロジェクトに基づき、まず社員(N.S.)を身分を隠して大阪市立大の非常勤講師に潜り込ませ、同時に5大学に巨額の奨学金をばら撒く。5大学の循環器科教授は高血圧の専門家ではなく、臨床研究に造詣が深い研究者でもない、基礎研究で莫大な研究費を必要とする研究室であった。ノ社は彼らが臨床やEBMに疎く、軽視していることを見抜きビジネスチャンスとして利用した。それぞれの顛末をいくつかあげると、ノ社は日本製薬工業会から無期限の会員資格停止処分をうけ、ノ社の日本人社長は更迭され、本社から外国人社長が送り込まれた。さらに東京地検特捜部から「虚偽・誇大広告」で起訴され、統計処理を担当した(N.S.)は逮捕された。慈恵医大の(S.M.)は定年後勤めていた病院の院長を退職し、論文は撤回された。京都府立医大の(H.M.)はディオバンと関係のない論文でも捏造が発覚し、懲戒免職となった・・・ディオバンの販売額は激減し、2013年度は前年度比16.8%減の881億円、2014年1〜3月期は前年度比25.1%減となり、医薬品ランキングのトップ10から圏外へ消えた。

ノバルティス社はフォーチュン誌の「世界で最も尊敬される会社」の製薬会社部門の一位に連続して選らばれるような優良会社である。新しく就任したエプスタイン社長は「日本のノバルィス社員は、患者より医師を優先している。海外と同じように患者を優先するようにカルチャーを変えねばならない」と発言した。そして執行部の日本人を外国人に入れ替え、営業スタッフ(MR)は医師主導の臨床研究には一切関わらず、MRの成績評価の営業の比重を70%から40%に引き下げた。奨学寄付金を廃止し、公募による研究助成とした。このノ社の試みは、日本の製薬企業にも広がりつつある。不正への誘惑として6つをあげたが、ある者は名誉であり、あるものは金や競争であったかも知れない。古い時代は国のため会社のためであれば不正も容認される土壌があった。しかし、不正によって失われるものは研究費、追試のための費用、不正の調査費などあまりにも大きく、なによりも信義を失い取り返しがつかない。

研究不正をなくすためには、どうしたらよいだろうか。研究室の壁に「べからず」の並んだ標語を貼れば、みんな守ってくれるであろうか。

多くの社会的不正事件と同じように、これという妙案も妙薬もない。すべての間違いや不正には、最初の一歩があり、慣れてくるうちに重大な不正へとつながっていく。著者は病気と同じく初期段階で予防できるような研究倫理教育が必要だという。一般に研究不正は若い未熟な研究者によって起こされると思いがちであるが、指導者自ら不正の指導を行った事例もある。研究倫理教育は全研究者が対象だ。医療者には「医療事故を防ぐためヒヤリ・ハット検討会がある。ハインリッヒの法則と言われ、重大な事故の背景には29の軽微な事故があり、300の異常があるという経験則だ。ヒヤリ・ハットを出し合い検討することで事故を減らそうという取り組みで、実際事故は減っている。風通しのよい研究室の運営も重要になる。閉鎖された環境、自由に意見を言えない雰囲気、教授からのパワハラ、アカハラなど、研究不正を醸成しかねない。病院で利用されている電子カルテのように、実験ノートをデジタル化して研究室内で共有することで相互チェックの機能が働くし、人の心には正義もある。内部告発の制度や告発者の保護体制を整えることも社会費用の観点から重要であろう。しかし、社会不正が繰り返されるのと同じく、様々な不正対策を講じても、研究不正はなくならない。石川五右衛門の辞世の歌はあまりにも有名だ。「浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじ」

参考図書:偽りの薬-バルサルタン臨床試験疑惑を追う- 毎日新聞科学環境部

 

おもてなしという残酷社会 榎本博明

かつてNHK紅白歌合戦の常連だった三波春夫がいつの頃からか「お客様は神様です」といい始めた。調べてみると1961年頃、三波春夫と宮尾たか志の対談の際に生まれたという。それから客の神様扱い、客の神様振る舞いが広がり、客を神様のごとくもてなすことが常識かのようになった。「善」だという価値観が確立すると異論は差し挟みにくい。三波春夫の真意は異なるところにあり、言葉だけが独り歩きしているようだ。三波が言う「お客様」は、商店や飲食店などのお客様、営業先のクライアントなどではなく、聴衆・オーディエンスのことだ。生前の三波春夫はオフィシャルサイトで次のように語っている。

「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです」

「お客様は神様です」は三波の真意とは逆に、誤解され拡がった。人々は「客は金を払うのだから丁寧に、神様を扱うようにすべき」と思うようになり、増長した客は「神様だから、何をしてもいい」と考え、クレーマまで生み出した。外国ではうかつに「すみません」など謝罪に通じる言葉を使ってはならないという。謝罪が責任に直結し賠償責任がかかってくるからだ。しかし、日本ではクレーマに対してさえ、まず「すみません」といって話を始める。

日本人の心の深層には、自分の非を認めずに自己正当化するのは見苦しく、みっともないといった感受性が根付いている。そのため、自分の非を認めずに自己正当化に走る人物は自分勝手な未熟者とみなされ、軽蔑される。さらには、私たち日本人の心の深層には、非を認めて謝っている人物をそれ以上責め立てるのは無粋であり、みっともないといった感受性がある。そのため、自分の非を認めて謝る人物は、その潔さが評価され、寛大な対応がなされるのが普通である。

日本は謝罪が責任に直結しない文化であり、謝罪は「お互いさま」という人間関係の潤滑油として機能する。この麗しき文化が欧米の価値観を取り入れたことで、過剰なお客様扱いへと変貌し、客の勘違いを助長した。人たるもの甘やかされるとつい調子に乗り、過剰な期待や理不尽な要求をする「困った客」になる。いままで我慢できたことにも我慢できない、順番も待てない、些細な振る舞いに怒る。忙しい店員を捕まえてサービスが悪い、態度が悪いと責め立てる。第一次産業の時代から第二次を経て第三次産業の時代になり、サービス業の比率は高まり過剰な「お客様扱い」を当然とみなす風潮はあらゆる労働へ広がっていく。経済産業省によれば、現在サービス産業は日本のGDPの約70%を占め、従業員数でも約75%を占める。多くの消費者の中で「お客様扱い」を当然とする観念やサービスの要求水準が高まっていった。低廉、なおかつ「顧客満足度」などの評価を気にしながら働く側は常に緊張と苦難を強いられる。第三次産業の従事者が増えるにつれ、肉体労働、頭脳労働とは別の感情労働という問題が生じた。

感情労働に従事する職種として、かつては旅客機の客室乗務員が典型とされていたが、現代では看護師などの医療職、介護士などの介護職、コールセンターのヘルプデスク、官公庁や企業の広報、苦情処理、顧客対応セクション、マスメディアの読者や視聴者応答部門などが幅広く注目されるようになってきた。もちろん従前のホスト、ホステス、風俗嬢などの風俗業、秘書、受付係、電話オペレーター、百貨店のエレベーターガール(1990年代からは各社とも廃止の一途を辿っている)、ホテルのドアマン、銀行店舗の案内係、不動産営業等のサービス業も感情労働に該当する。-wikipedia-

企業が接遇講座を設け、従業員に客扱いの訓練を施す。感情労働の技法が二つあり、表層演技は客に対する不都合な感情を抑えたり、職務に必要な感情を偽装したりする。もう一つは深層演技といい、表層演技で見かけを取り繕うのではなく、感情や気持ちを客に同調させ自分を変える努力をする。例えば結婚式などお祝いの場で仏頂面はそぐわない。店員が客の前で機嫌よく振る舞うのはいままでもやってきが、「おもてなし」が肥大化するにつれ、感情の抑制や演技が過大なストレスを強い、耐えきれずバーンアウトする。バーンアウトとは臨床心理学の概念で、情緒的消耗感、脱人格化、個人的達成感の3つで構成される。

情緒的消耗感とは、無理して頑張ることで心が消耗してしまった感じのことである。脱人格化とは、感情が枯渇し、気持ちのこもらない非人間的な応対をするようになることである。そして個人的達成感の減退とは、職務に対する有能感や達成感を感じなくなることである。

いままで顧客の評判がよく、模範的な従業員が、突然、顧客に対してキレたり、いつも笑顔で感じの良い店員が、無表情でうわの空の応対をするようになる。客がいれば応対する店員がいて、店員もあるところでは客にもなる。威圧する客もあるところでは平身低頭で頼もしい店員かも知れない。電話やメールでは悪態をつくが、会って話すと優しく思いやりのある客だったりもする。互いに立場が入れ替わるなら、お互い想像力を働かせ「おもてなし」はほどほどでよい。日本はもともと相手の感情に適切に対応する文化的素養があった。

研修などで、客を尊重するように促す教育は、欧米などでは必要だろうが、日本にはそれほど必要なかった。それなのに、もともと文化的に自己中心的に振る舞わず、相手(客)に対する配慮がある日本で、わざわざ「お客様の尊重」を吹き込むことで、客への配慮が過剰となり、おかしくなってきた。

感情労働の負担に耐えかねて心を患う人、自ら命を絶つ人まであり、接客業に限らず、むしろ多くの仕事が接客業のようになった。ネット社会の広がりで、この傾向は酷くなり殺到する苦情で廃業に追い込まれる例もある。苦情処理係を設け、ここでの対応が事業を左右することもあるという。国が一億総活躍社会といって給料よりも「やり甲斐」や「自己実現」などを煽ると、労働者はなんとなく「自分のため」に働いているかのように錯覚する。

心理学者として内発的動機づけの効用を説くこともある者として、その考えを悪用して、従業員を酷使する事例が多いことに戸惑いを覚えざるを得ない。だが、そのような風潮を後押ししているのが、政府が主導する「総活躍社会」とか「女性が輝く」というような、自己愛を刺激することでひたすら働くロボットのような人間を生み出そうという戦略である。そうした風潮のなか、多くの人は長時間労働を強いられ、感情を殺してロボットのように働くことになる。

最近は定年を延長し「老人が輝く」という議論まで出始めた。政治家の意図は明白だが抑圧されればされるほど人々は強い権力者に寄り添うという。過酷なおもてなし現場の例示のあと、過剰・感情労働時代のストレスとの付き合い方として著者は以下の提言をする。

何らかの新たな枠組みを設定することによって、うんざりする気持ちや腹が立つ気持ちを同情心に変えることもできるし、切羽詰まった緊張感から解放され、気持ちが楽になる。事実は変えられなくても、フレームを変える、つまり物事を違った枠組みのなかに置いてみると、その事実のもつ意味が違ってみえてくる。腹が立って仕方がなかったことでも、そのように、みる枠組みが変わると、感じる意味が変わり、そんなに腹も立たなくなる。

著者は「心理学者として内発的動機づけの効用を説くこともある者として、その考えを悪用して..」とも述べている。「自分で折り合いをつけろ」、「がんばれのかけ声で走れ」ということか。自分の枠組みではなく社会の枠組みを変えることは心理学者にとって苦手な領域なのかも知れない。「きずなと思いやりが日本をダメにする」という社会学者の対談本もあわせて読んだ。社会学者は次のようにいう。

大事なのは心がけを説くのではなくて、制度設計をすることなのですが、それが今の日本ではたいへんおろそかになっているんです。

制度設計で社会をよくするのは政治や行政の役割で、国民は選挙や社会運動によって、わずかに参加が可能だ。厚い壁でもあり、挫折感や無力感も重くのしかかる。かといって黙っていては変わらない。社会運動に身を投じる人々は願いや祈りだけで解決されないから抗議行動を起こす。それも無益に終わるかも知れないが少しづつ変化が起こるかも知れない。それが叶わぬ時は、ひとまず心理学者の宣託に習い、自分の枠組みを変えてみる。自分への説得はイソップ童話の「酸っぱいブドウ」と「甘いレモン」の話そのままだ。

先月、新聞でネット炎上の記事を読んだ。ネットユーザ2万人へのアンケートで炎上に参加したことのある人は1.1%にとどまった。そのうち2度以上書き込んだ人は1度きりの人の半分以下であった。率でいえばわずか0.05%のヘビーユーザが複数のアカウントを利用したり、複数の書き込みをしていることになる。炎上については文化庁の調査も報告されおり、炎上に自分も参加したり拡散したいと思う人は3%にとどまった。炎上が起こり、それをメディアが伝えると、ネットユーザ全てが批判しているように錯覚するが、実際には少数であることに驚く。「おもてなし社会..」、「きずなと思いやり..」などの本も学者が特異な少数を誇張して論じているのかもしれない。客として利用するとき「俺様は神様だ」と思う人がどれくらいいるだろうか、またそのように振る舞う人が続々いるとも思えない。客対従業員のやりとりで多少の齟齬が生じるのはいままでもあった。モンスターとかクレーマと呼ばれる人はニュースになるほど少ないのではないか。私はいまだ実物を見たことがない。

 

西洋医学が解明した「痛み」が治せる漢方 伊齋偉矢

2015年度の医療用医薬品の売上高は10兆6000億円、うち医療用漢方薬・最大手のツムラは1126億円で全体の1%に満たない。高血圧薬のミカルディスの売上高が972億円で新薬1品目の売上と比べても漢方薬の普及率は高くない。一般薬のリボビタンD・ドリンクの売上が605億円、これと比べても漢方薬の規模はたかが知れている。漢方業界は「副作用なし、体に優しい、中国3000年の臨床経験..」と言う。気持ちは分かるが、いかほどの根拠があるのか。売上げの数字を見る限り、代替医療の中では健闘しており、数ある代替医療の一つと考えるほうが正しい。漢方に身を埋めていると、漢方のフィルターを通して医療や健康を解釈し納得してしまう。少なくとも私は1%の業界であることを戒めとしている。前置きはここまでにして本の話へ進もう。
  • 第1相試験:健康人を対象に治験薬の安全性と薬物動態(吸収・分布・代謝・
    排泄までの動き)を試験
  • 第2相試験:第1相で安全性が確認されたら、病気の患者(少数)に投与し、
    安全性や投与法、用量を試験
  • 第3相試験:多数の患者で二重盲検し、現在承認されている薬より有効で
    安全であるか試験

医療用の医薬品として承認されるには第1から第3相まで3つの臨床試験をクリアすることが原則であるが、漢方薬はこれらの手順を踏まず、超法規的措置で医療用医薬品として認可された。当時の厚生省は保険への適用に反対したが、1976年、治験も行わず文献資料だけで42処方が認可され医療用漢方の幕開けとなった。この文献資料はいわゆる3000年の伝説を含む体験談と単純な薬理を記述したものだ。漢方クリニックや漢方薬局のサイトを閲覧するとほぼ100%このことを謳っている。他に適当な薬がなく副作用が少ないということで処方する医師もあり、1%という売上高の中には多くの懐疑派の存在も含まれる。

漢方薬が不当な扱いを受ける背景には、古典的な漢方理論に固執し、漢方薬を世の中に広く普及させようという努力をしてこなかった漢方界にも責任があります。

陰陽・気血水・五行・臓腑弁証・・どれをとっても現代医学に通じるものはないし、概念を現代医学に翻訳しないと専門家も一般人も理解・納得がいかない。「西洋薬と同じサイエンスに則って話をする必要がある」、ここから著者のいう「サイエンス漢方」が始まる。話を傾聴すると..神農という伝説上の人物が山の中を歩き回り、植物を口にし自分の体で薬効や毒性を確かめ神農本草経に記載した。実際は無数の人々が体を張って試した結果が今から2000年くらい前に確立した。この段階ですでに第1相試験は終了した。次に一つの薬草に一つ加え、二つ加えするうちに非常に効果の高い組み合わせを発見するに至り、単独で使う民間薬から組み合わせて使う漢方薬へと発展する。こうして漢方処方が創製され、約2000年前までの間に、5種類くらいまでの処方が出来上がった。様々な処方のうち、どれが最も薬効があるか確かめるための比較検討が約1500年前頃に始まる。200〜300年に渡る壮大な臨床研究の結果を集約したものが後漢末200年頃に編纂された「傷寒論」であり、現代の第2相、第3相試験に該当する。著者によれば「約1800年の時を超え現代でもそのまま用いられているので完成度が高い」という。

新薬も漢方薬も薬効というのは「引き金」にすぎないもので、身体に対する刺激の強さと引き出される応答の違いだと推測する。西洋薬はある程度の分量を投与し作用点を強く刺激することで一定の応答を得るが、漢方薬は超多成分で個々の化合物の量が非常に少ないため、新薬のようにはいかない。

たくさんの化合物が、それぞれの作用点を軽いタッチでタタタタタと刺激することになります。その結果、非常に複雑でしかも動的なシステム(炎症、微小循環、水分分布、熱産生)が応答します。

ドクターズルール(医師の心得集)という本に「四種類以上の薬を飲んでいる患者は、医学知識の及ばぬ危険な領域にいる」と書かれている。4種で医学知識が及ばない。ましていわんや超多成分の漢方薬を於いておや、であろう。実際、どの成分がどのスイッチを押しているのかはよくわかっていないし、個々の成分が何をしているのかを積み重ねても、身体が全体として示す応答を説明できない。漢方薬を飲んで応答を体感することが漢方を理解する近道である。古代から続く「飲んだ、治った、効いた」を科学で調味し解釈もしくは説明しようという。

漢方薬という薬剤を現代医学の治療体系にしっかり組み込むためには、西洋薬と同じ土俵で、その作用機序(薬が生体に効果を発揮するしくみ、メカニズム)を理解してもらう必要があります。サイエンスの視点から漢方薬という薬剤を捉えて研究を進める以外に、漢方薬がふつうの薬剤として認知され、医療現場でふつうに使われるようにする道はないと確信しています。

現代の治療は、原因療法と対症療法に分けられ、西洋医学はいずれの治療にも有効だが、落とし穴もある。例えば肺炎で抗菌薬を投与し細菌を抑え込んでも炎症を止める西洋薬がない。炎症から立ち直るのは患者自身に備わる修復能力である。消炎剤や鎮痛薬などの対症療法では症状とのいたちごっこを繰り返すだけで、身体には好ましくない影響を及ぼす。病気は原因があって症状が起こるまでに体内で何らかのシステム異常が起きていると考えられる。漢方薬はシステム異常に対処し西洋医学の原因療法と対症療法の隙間を埋める役割を果たす。

4種類以上の薬の作用は医学知識の及ばない領域と言われているが、解明できたものは陰陽や虚実などではなく、科学用語で説明するほうが万人に理解され権威の箔も付く。伝統的に使われ、約1800年前に第2相、第3相試験は済んだ等という世迷い事は通じない。科学的根拠を示して、西洋薬に比べ遜色のないことを主張するべきだ。著者のいう漢方薬の4つの役割は次のようなものだ。

  1. 免疫賦活・抗炎症薬:細菌やウイルスなどの病原体が身体に入ってくるとトル様受容体というセンサーが反応しT細胞系に伝える。そこで即座に活性化T細胞に変身し全身に警告を発し、一気に免疫システムが立ち上がり病原体を攻撃する。漢方薬はこのセンサーの感度をあげ免疫賦活薬として働く。また防衛反応として起こる炎症の過剰を抑制し、炎症で傷害された組織の修復を助ける。西洋薬の抗炎症薬は強力ですぐに炎症を抑えるが同時に免疫力を削いでしまう。
  2. 微小循環障害改善薬:血管は末端へ向かうと次第に細く枝分かれし狭くなる。血液の流動性が少しでも低下すると微小循環の血流も滞り、身体の隅々まで酸素と栄養が充分届かない。西洋医学では微小循環障害を改善する手立てはないが、漢方では桂枝茯苓丸などの於血薬で血管を広げ血液の流動性を高め改善する。
  3. 水分分布異常改善薬:水分が多すぎて起こる浮腫と少なすぎて起こる乾燥に分かれる。西洋医学では浮腫に対して利尿薬を用いて尿量を増やし水分を移動させる。身体全体の浮腫にはこれでいいが、部分浮腫では局所以外の水分まで減ってしまう。漢方薬は浮腫の部分だけに効果を発揮する。身体には水の出入口となる13種類のアクアポリンがあり、この開閉によって部分浮腫もしくは乾燥を改善する。
  4. 熱産生薬:1)〜3)のシステムが正しく働くには体の深部体温が37℃に保たれることが必要で、漢方薬は褐色細胞を活性化するアディポネクチンという物質を増やすことで熱を産生する。

さらに本書のタイトルにある「痛み」の分析は次のようなものだ。国際疼痛学会の定義で痛みとは「不快な感覚性・情動性の体験であり、それには組織損傷を伴うものと、そのような損傷があるように表現されるものがある」。情動性の体験といえば感情的・心理的なもので、損傷があるように表現というのも心が関与する。痛みには急性と慢性があり、急性は組織が損傷しブラジキニン、セロトニン、ヒスタミンなどの発痛物質が産生されて起こる。急性は新薬の解熱鎮痛消炎薬で対処し大概、鎮痛効果が得られ、漢方薬でも同じように働くものがある。しかし、慢性になると神経系の反応や精神的もしくは社会的なものを加えた様々な要因が絡む。

慢性疼痛は、すでに攻撃対象となる発痛物質は存在せず、先に述べましたように、患者さんが痛みの記憶などをもとにして、自分で痛みをつくっている傾向があります。つまり、心理的側面が重要な慢性疼痛発生因子となっているのです。

ほとんどの漢方薬が身体と精神応答の両面を引き出す。漢方薬を飲むことで心理状態を含めて、先にあげた1)〜4)のシステムが正常に回復し、結果として痛みが消えていく。例えば慢性の痛みには根底に「怒り」の感情が隠れていることがあり、怒りを鎮める漢方薬を処方すると痛みが消えてしまうことがよくある。以下、様々な症例をあげて具体的な痛み治療の実際を紹介する。歯痛に立効散・排膿散及湯、喉頭痛に桔梗湯・小柴胡湯加桔梗石膏、肩関節周囲炎に二朮湯、筋肉痛に麻杏意甘湯・芍薬甘草湯、急性関節痛に桂枝加朮附湯・越婢加朮湯、胃痛に安中散・六君子湯、片頭痛に呉茱萸湯・川弓茶調散、慢性腰痛に八味丸・牛車腎気丸・六味丸・・このようなペースで続いていくが、一般の人でも自己判断で買い求められる処方だ。ありふれた漢方薬だがサイエンス漢方の看板を上げ、科学用語で味付けすれば1冊の本が出来上がり、賛同する仲間も集まる。

科学的に解明された薬理は伝聞や体験談よりかはEvidenceレベルは上位になるが、古い用語を現代用語で代弁してもEvidenceレベルが上がるわけではない。現代の第3相試験に耐えられるかどうかは別の話だ。科学的に説明しないと医療現場での居場所を失うという思いがあるのだろう。漢方薬の存在は「パスカルの賭け」のようなもので「薬効の証拠がなくても、不調が改善されるなら失うものはなく、利益はある」。証拠のない様々な代替医療、突き詰めれば西洋医学でさえ、「賭け」に基づいてなされているのかも知れない。

注)パスカルの賭け:神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す。

 

言ってはいけない 橘 玲

言ってはいけないことを言って有名人が非難され大臣が更迭される。一般人でも思っていても言いたくても、言ってはいけないことがある。ネットを閲覧すると更迭された大臣と同じ発言や、それ以上の暴言はあふれかえっている。しかし、暗黙の規範に触れてはならない時や場所や立場がある。本書の遺伝にまつわる話はとくに興味深く読んだ。

1)やせた親からはやせた子どもが生まれる
2)太った親からは太った子どもが生まれる

3)親が陽気なら子どもも明るい性格に育つ
4)親が陰気だと子どもも暗い性格に育つ

5)子どもの歌が下手なのは親が音痴だからだ
6)子どもの成績が悪いのは親が馬鹿だからだ

1)、2)は体形と遺伝について述べたものであり、2)には抵抗を感じることがあってもおおむね受け入れるだろう。3)、4)は性格と遺伝について述べたもので、3)はよしとしても4)は暗黙の規範に触れるため、簡単に口に出せない。5)は4)に近いが、6)は公に「言ってはいけない」、大臣だったら更迭ものだ。逆に子どもの成績が良く、親が大学教授であれば、「子どもの成績が良いのは、親が良いから」と普通に語り納得する。頭の良し悪しは7〜8割が遺伝で説明できる。一般知能は知能指数(IQ)によって数値化が可能で一卵性双生児と二卵性双生児でのさまざまな研究で論理的推論能力の遺伝率は68%、一般知能の遺伝率は77%であることが分かっている。どんなに頑張っても勉強のできない子はいるし、難関大学への合格は努力だけでは難しい。学校教育ではすべての子供が良い成績を収めるのを目標とするため、遺伝の事を言ってしまうと教育が成り立たない。歌が下手とか、走りが遅いなど社会生活でどうでもいいことは個性として容認するが、成績は子どもの将来や人格の評価に直結するため努力によって克服・向上できると考えたほうがよい。

もしも知能が遺伝し「馬鹿な親から馬鹿な子どもが生まれる」のなら、努力は無駄になって「教育」が成立しなくなってしまう。だからこそ自然科学の研究成果とは無関係に、「(負の)知能は遺伝しない」というイデオロギー(お話)が必要とされるのだ。

「誰でも努力すれば報われる、その人特有の優れた能力や才能があり、それを見つけ伸ばすのが教育だ」と言う。「馬鹿は死ななきゃ治らない」といわれるより希望や自信がわいてくる。病気や犯罪についても遺伝的要因が強く影響する。

1)アルコール中毒は遺伝する
2)精神病は遺伝する
3)犯罪は遺伝する

1)から順を追って「言ってはいけない」度が増す。3)はほとんど聞かれることない言説だ。がん、血圧、糖尿病、高血症など「親がそうだったから」という話はしばしば聞く。精神病についての研究では統合失調症遺伝率は躁うつ病と並んで極めて高く80%を超えている。ちなみに身長の遺伝率が66%、体重が74%であることを考えるとかなりの発症率になる。精神疾患を持つ夫婦が出産を望んだ時、この数字からどう判断し、相談を受けた医療者はどんなアドバイスを出すだろう。犯罪の遺伝についてはさらに受け入れがたいものだ。猟奇殺人の犯人は悪びれる様子もなく「人を殺したかった」、「殺して解剖したかった」などという。識者は犯行に至った環境や社会制度や性格等論じ、もっともな物語を創作し、それを以て防止や更生に生かすことを提言する。弁護士は精神障害を錦の御旗に罪の軽減を求め、再び社会に復帰させる。その結果、残酷にも同様の犠牲者を出す。誰が見てもずるがしこい人や残酷な人は一定数いる。彼らを理解し、社会制度に手を加えたり、支援するのは限度がある。

教師、親、本人の三者ともが「反社会的」と評価した子どもだけを抽出してみた。(本人も含め)誰からも暴力性や異常性が顕著と見なされた子どもの反社会的行動は、遺伝率96%という驚くべき数字が示された。

犯罪心理学でサイコパスに分類されるような子どもの場合、その遺伝率は81%で、環境の影響は2割弱しかなかった。しかもその環境は、子育てではなく友だち関係のような「非共有環境」の影響とされた。この結果が正しいとすれば、子どもの極端な異常行動に対して親ができることはほとんどない。

親ができることのない非共有環境とはなにか。これについては双子での研究がよく知られている。一卵性双生児は完全に同一の遺伝子を共有し、二卵性双生児は遺伝子の共有比率はおよそ50%で、同一の家庭で育てば他の条件は同じだ。彼らがどれくらい似ているか調査することで遺伝と環境の影響がわかる。しかし、養子に出したり、2人を別々の学校へ通わせると人間関係、食事、運動等に差異が生じ、これを非共有環境という。研究の結果、一卵性双生児の性格は育った環境が異なっても同じくらいよく似ていた。子どもの人格や能力・才能の形成に子育てはほとんど関係のないことを示唆している。遺伝の影響はあらゆるところに及び、遺伝率は音楽的才能の92%から言語性知能の14%までさまざまだが、共有環境の影響はゼロとされた。学習能力やしつけの基本でさえ、親は子どもの人格形成になんの影響も与えられない。

子どもは友だち集団のなかで、グループの掟に従いつつ、役割(キャラクター)を決めて自分を目立たせるという複雑なゲームをしている。子どものパーソナリティ(人格)は、遺伝的な要素を土台として、友だち関係のなかでつくられていくのだ。

別々に育てられても一卵性双生児がよく似てくるのは、遺伝的要素によって、同じような友だち関係をつくり、同じような役割を選択する可能性が高い。出生後の授乳、子育てなど親が保護すべき期間を終えると、子どもは年齢の近い子ども集団の中で成長していく。幼児は少し年上の子どもになつき、年の離れた子どもには近づかない。年齢によって遊び方など異なるため年が離れると合わないのだ。男女では思春期までは遊びや興味が異なるため別々のグループに分かれる。最初は兄や姉、いとこなど血縁の近いもの、自分に似た子などを優先的に選ぶ。思春期までは子どもにとって「友だちの世界」がすべてであって、この世界で生きるため親の影響はほとんど見られない。子ども集団のルールが家庭のしつけとぶつかったとき、子どもが親のいうことをきくことは絶対にない。子どもが壮絶な暴力やイジメで亡くなる。親に相談はしたのか、大人に訴えることはできなかったのかと思わずにはいられないが、子どもにとって死守すべきは集団のルールなのだ。親が行使できる分野は集団のルールの対象外となっているものだけである。

子どもは友だちのなかで自分の性格(キャラ)を決めていく。どんな集団でも必ずリーダーや道化役がいるが、2人のリーダー(道化)が共存することはない。キャラがかぶれば、どちらかが譲るしかない。このようにして、まったく同じ遺伝子持っていても、集団内でのキャラが異なれば違う性格が生まれ、異なる人生を歩むことになるのだ。

たとえば一卵性双生児の一人が音楽と無縁の環境で育ちプロのピアニストになり、一人は音楽教師の親のもとで育ち音符さえ読めない。どのように理解すればいいのか?音楽と無縁の環境で育った子どもが、なにかのきっかけでたまたまオルガンを弾いたところ、自分に他人と違う才能を感じ、その利点を生かし皆から認められようとする。一方は音楽教師のもと音楽の薫陶を受けても、少しピアノが上手なくらいでは注目されず、他の目立つものを求め音楽から離れていった。但し、親が関与できる重要なものがある。子どもの人生に決定的影響を及ぼす「友だち環境」は親が行使できる大切なものだ。どのような非共有環境を与えうるかが親の役割ともいえよう。あとは子どもが自分の意識と感性で自らの役割や能力を見出していく。

何らかの努力が報われず、たまたま他の分野へ方向転換することでニッチを見出すことがある。それは満足なものではないかも知れないが一定数の似たような支持者を得る。その快適な居心地がアイデンティティを確立する。本書の著者は作家であり、他にも斬新なタイトルのエッセイがある。奇を衒うという言い方もあるが、言ってはいけないことを言う。この作者も非共有環境でアイデンティティを見出したのかも知れない。遺伝の影響は避けがたく、社会的に評価される者はいいとして、負の運命を背負った者は夢も希望もない。さらに犯罪性の烙印が押された者は、社会生活が許されない懸念もある。世界的に極右が台頭し、民族主義傾向が加速しつつあるいま、医学や心理学の研究成果が優生思想や政策の道具に利用されないとも限らない。治安維持、隔離収容、ついには大量虐殺へ至った歴史を忘れてはならない。

 

テロルの真犯人 加藤紘一

著者は元衆議院議員で超リベラル派といわれている。昨年秋に逝去され、本書は2006年に出版された。この年の8月15日の夕刻、右翼団体の幹部が加藤氏の実家に放火し、住宅と事務所が全焼した。男は放火後、割腹自殺を図るが一命はとりとめた。この日、靖国神社に参拝した小泉首相への加藤氏のコメントが取り沙汰されたが、加藤氏は直截な批判はしていない。犯人はこの日を狙い数日前から加藤氏の自宅周辺の下見をしていた。なぜ靖国神社に拘り、些細なことばにさえ、過敏に反応するのだろうか。知らせを聞いた加藤氏は最終便の飛行機で郷里へ向かう。

こういうときには意見を明確にし、ぶれないことが必要だ。右翼による攻撃と決めつけ、私がヒステリックに声を上げれば、よけい向こうも反発する。怒りをもって怒りに対抗しようとすれば、際限のない泥仕合となる。それだけは避けたいと思った。

右翼によるテロ事件はこれまで何度も起きているが、加藤氏が身近に危険を感じたのは、大平首相のもとで副官房長官をしていたときだ。短刀を握った暴漢が大平首相に襲いかかり、あわやという事件があった。翌日、大平首相が語った言葉が忘れられないという。

「加藤な、昨日俺の腋の下を死が走って行ったよ」
「人間、じつは死んでいるのが本来の常態であって、生きているというのは神様からほんの数十年、特別な形を預かっているだけで、死に戻っていくのが当たり前なんだ」

加藤氏が右翼団体の攻撃目標になったのは初めてではなかった。北朝鮮問題に関してホームページ上で意見を述べたところ、関係先事務所4か所に実弾入りの手紙が送られた。この右翼団体は朝鮮総連団体の事務所に銃弾を撃ち込んだり、外務省の田中均審議官の自宅ガレージに発火物を置いたと犯行声明を出している。彼の行動が「北朝鮮寄り」だからという。

「田中均という奴は爆弾を仕掛けられた。当ったり前の話だとわたしは思う」

当時、東京都知事であった石原氏はこのようにコメントした。加藤氏は放火し自殺を図った男が元気になれば「なぜ私の家に火をつけて、自殺しようと思ったのか一度会って話を聞いてみたい」という。

私には、彼もまた、この時代が生んだ犠牲者だと思えてならないのだ。彼にも、もっといい人生、もっといい老後を歩めるようにするのが、私たち政治家の仕事であると思う。

加藤氏も石原氏もほぼ同世代で自民党にも籍を置いた。戦後教育を受け、同じ歴史や文化に身をおきながら、これほどまで価値観に差異が生じるのが不思議でならない。命が惜しくない人間はいない。誰にとっても右翼の一撃は怖い。本が出版されたのは10年前だが、加藤氏は「過度にナショナリズムを沸き立たせようとする最近の風潮や政治的な流れ」を危険な徴候と捉えていた。主義主張に反したり意にそわない発言を暴力で封殺すれば、政治家、官僚、ジャーナリスト、学者、評論家、メディア、そして多くの一般の人も自由にものが言えず民主主義は蹂躙される。加藤氏の懸念どうりメディアは言葉を失い、政治家、官僚、学者、評論家まで広がりつつある。石原氏の「爆弾を仕掛けられて、当ったり前..」の発言は2003年、この頃はメディアから、かなりの批判を浴びた。

それから10年を経て、石原氏が突如「東京都が尖閣諸島を購入する」と寄付金を求めた。この時、批判はほとんど聞かれず、それどころか約26万件、14億円の寄付金が集まった。異論を述べると「売国、反日、中国人、朝鮮人..」とヘイトの嵐が巻き起こるようになった。中国大使の丹羽氏が政府関係者として初めて反対を明言したが、与野党、メディアの批判を浴び更迭された。結局、国が購入することになるが、10年前に比べると内容の違いはあるにしても、ナショナリズムは高揚し、顕著に右傾化が感じられた。それから5年、過去に国会が排除・失効を決議(1948年)した教育勅語を復活する動きが現実のものとなった。加藤氏は「時代の空気」を指摘している。

時代の空気が、靖国参拝を是とする首相を選んだ。
時代の空気が、テロで言論を封殺しようとする卑劣な犯行を招いた。
私はあえて、その時代の空気に異を唱えたいと思う。

空気はメディアが大衆を巻き込んで作りあげ、背後に空気を作ることに勤しむ人々がいる。彼らが象徴と崇めるのが靖国神社であり、ここへの参拝は特別の意味を持つ。加藤氏は勉強を兼ねてこれまでに6〜7回足を運んだ。とりわけ隣接する資料館・遊就館の展示は膨大で内容は「靖国史観」というべき独特なものだ。1回に2時間くらい費やしたが、それでも全体の4割くらいしか見ていないという。

館内に入って目をひくのが、新館1階ホールに展示されたゼロ戦だ。1974年、南洋ラバウルの旧日本軍基地で見つかった主翼胴体と、1984年にミクロネシアのヤップ島で発見された5機のゼロ戦をもとに修復したものだ。ゼロ戦の周囲は常に人だかりで、これを背景に記念撮影する人も多く、遊就館のシンボルともいえる。2階廊下を進んでいくと、映像ホールが待ち受け、日本会議・英霊にこたえる会が企画・製作した「私たちは忘れない!」というタイトルの50分の映画が繰り返し上映されている。ここが遊就館の最もシンボリックな場所で、「極東の小さな島国の日本が、なぜ戦争をしたか、戦争をせざるを得ないところに追いやられたか、私たちは忘れない」と叫ぶ。日本は欧米植民地主義の侵略にさいなまれていたアジアの国々の解放に立ち上がり、その後しだいにアメリカに追いつめられ、孤立させられていき、ついに開戦に踏み切らざるを得なかったという論調で貫かれている。1階に下り、展示室11〜15までは大東亜戦争がテーマとなり、展示室16・17・18は靖国の神々と題し、靖国神社に合祀されている戦没者246万6千余柱のうち、遺族から奉納された約3000人の遺影が展示されている。

夫や息子が死ぬかもしれない。それも2〜3割以上の確率でそうなるのである。それも承知のうえで、「お国のため」にと黙って送り出す--戦争というものは、よくあそこまで国民を覚悟させるものだ、といまにして思う。

戦死すれば神として、国が「篤く哀悼の誠をささげる」、死の覚悟を促す要因のひとつとして靖国神社が機能した。展示室5では「戦死者の霊を"国家の守護神"、"護国の英霊"として社に祀るのは、古今を貫く日本人の信仰によっている」との説明がある。

遊就館の展示は基本的には事実を伝えるものではあるが、歴史の解釈としては、押さえておくべき事実を意図的に外して展示し、独自の史観に基づいた説明を強行しているところが数多く見受けられる。歴史の捏造とまではいわないが、解釈としてはあまりにも偏りがあるものではないだろうか。

意図的に外している事実の一つは、太平洋戦争の戦死者の半数が、戦地へ食糧の補給ができずに餓死した兵士であった。展示室13でアッツ島やキスカ島、ニューギニアで日本兵が最後まで勇敢に戦い玉砕したという記述はあるが、食糧などの補給に関する記述は一切見あたらない。出口に向かう手前の展示室19には、来館者が自由に感想を書くことのできるノートが置いてある。多くは「軍人さんの命を無駄にしないように生きていきたい」などの素直なものだが、「靖国に祀られた英霊は東アジア全体の平和のために散っていった..」「首相の靖国参拝を中国や韓国から干渉されるべきではない..」など明らかに遊就館の歴史観に影響を受けたものがあった。加藤氏が賛成したいという感想は50代・女性のものだ。「戦争をせざるを得なかったという言い訳は、どんなに立派な言葉で飾られても間違いである」

先の戦争が一種のフィクションと化しているのではないかと感じた。戦争を知らない団塊世代、そして団塊ジュニアが社会の中心を占めるようになって、すでに戦争の記憶はリアルな実感を喪失してしまった。それによって新たにフィクションとして再生したように感じられてならない。

戦争の記憶がほぼ完全に失われているいま、フィクションがリアルにとってかわりつつあるように感じる。

本書に石原莞爾という名前が出てきたので調べてみると加藤氏とおなじ山形出身の陸軍中将だった。満州事変の首謀者で後に東條英機と対立し、裁判当時、病床に伏していたので戦犯を免れた。「日本は日本国憲法9条を武器として、蹂躙されても構わないから絶対、戦争放棄に徹して生きていくべき」と主張している。「キリストが十字架を背負って刑場に行くときの態度を、われわれは国家としてとる」とも言っている。2016年9月15日、加藤氏の葬儀で氏の親友だった元自民党副総裁の山崎拓氏は次のような弔辞を読みあげた。

2年前、君がミヤンマーに旅立つ直前に天ぷらそばを食べましたね。そのとき、僕はずっと懐疑的に思っていたことを思い切ってききました。それは、「君は本当に憲法9条改正に反対か」という問いでした。君は「うん」と答えました。「一言一句もか」と、またききました。「そうだよ、9条が日本の平和を守っているんだよ」と断言しました。振り返ってみると、これは君の僕に対する遺言でした。まさに日本の政界最強最高のリベラルがこの世を去ったという思いです。

 

日本会議の正体 青木理

日本会議という団体の存在を知ったのは安部内閣が発足して間もなくの頃だった。内閣の7割が日本会議のメンバーだという。その後、安全保障関連法案が審議されているとき、法案の違憲性を訴えた小林節氏が日本会議内閣だとして危機感を募らせていた。中央のことだろうと思い調べてみると地方まで組織は広がりを見せている。ここ佐賀では佐賀空港へのオスプレイ配備計画が進められており、テレビや新聞を見ると、推進派として日本会議の佐賀支部の談話が報道される。いまや堂々と所属を明かしどこへでも登場する。最近話題の森友学園についても、日本会議の名を聞かない日はない。本の帯には簡潔に「日本最大の草の根右派組織」と書かれている。

日本会議については、日本メディアがほとんど報じていなかった段階から、外国メディアはかなり詳細な分析記事を東京発などで何本も打電していた。欧米メディアのインターネット版をざっと探してみるだけでも、そうした記事がいくつも見つかる。

1968〜1970年頃、各地で大学紛争が起こり、学生運動の全盛期だった。このとき学生だった人々を全共闘世代とも呼び、左派学生が自治会を牛耳り、活動を主導した。60年安保闘争から全共闘運動へ向かう端境期の1966年10月、九州の長崎大学で異変が起きた。教養部の自治会選挙で、左派学生のストライキに反対を唱える右派学生の有志会が一般学生の説得に成功し委員長の座を獲得した。右派学生が自治会のトップを奪取するのは主要大学で初めてのことで、これを主導したのが2年生の椛島有三、1年生の安東巌などのメンバーだった。当時の長崎大学の学生数は3000人でスト側の学生が400人以上、そして殆どの学生がスト支持であったが、スト反対の有志会は椛島を含む8人からの出発だった。

組織を作りあげるには核となる人間の養成から始まり、拠点サークルを結成し、それらを糾合し組織化する。そこから自治会奪権を図り、奪権後は自治会をバックに学内マスコミを確立し、一般学生への啓蒙活動を展開する。まるで革命のような手順だ。現内閣が最初にNHKやマスコミを懐柔したもの、総理一人の知恵ではないはずだ。

オルグのやり方も徹底していた。学生の下宿先や自宅を軒並みにあたり、およそ1学年1000人くらいの人間をほとんどすべて個別訪問するというやりかたである。その中から多少でも関心を示した学生をリストアップして、幹部が再度アプローチをかけた。

左派の手法をよく研究し踏襲し地味かつ執念深く運動を組織化した。最盛期には約200人の活動家を擁し、教養・経済学部の2自治会を制し7〜8つのサークルを持つに至った。この中心となった椛島有三は現在、日本会議の事務総長として同会議の実務作業などを中心的に取り仕切っている。こういう活動を支えるにはなにがしかの宗教的薫陶が必要になる。長崎大学では彼らが「成長の家」の活動家であったことが強力な支えとなった。現在、「生長の家」とは袂を分かっており関係も途絶えている。当時は左翼の勢力が強く、革命が起こるかも知れないとの危機感から宗教者が立ち上がり、国会へ代表者を送ろうと考えた。創価学会の公明党をはじめ様々な宗教団体が政治結社を作ったり、政治家の応援を始めた。政治家は信仰の有無とは別に、宗教票は確実に票が読めるため宗教関連の門戸に身を寄せる。

日本会議は1997年5月に「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合流し誕生した。国民会議は昭和天皇在位50年記念の奉祝行事や元号法制化運動に成功し、引き続き活動するため、財界や政界、学会、宗教界などの代表が中心となり結成された。守る会は右派系の宗教団体を中心に結成され、「成長の家」が大きく貢献した組織である。日本の右派運動には成長の家と神道系の宗教団体が源流に脈打っている。

この「基本運動方針」に記されたとおり、1)皇室の尊崇、2)憲法の改正、3)国防の充実、そして、4)愛国教育の推進--日本会議に結集した右派の共通目標は、この4本柱に集約されるといっても過言ではない。もうひとつつけ加えるとするならば、5)極めてアナクロで復古的な--彼らに言わせれば「伝統的」な--家族観の重視、であろう。

戦前回帰、大日本帝国復活とも評され、くだんの幼稚園では教育勅語や五か条の御誓文を園児に暗唱させ軍歌を歌い、日の丸行進を強いる。こういった教育は基本運動方針に基づくもので、教科書や歴史の見直しを策動し、リベラルな言論には過敏に反応する。2015年4月の会員数は約3万8000人、正会員の年会費は1万円、維持会費、篤志会費又大口の寄付もあるが、主に資金豊富な神社本庁や明治神宮などの宗教団体がそれなりの形で支えている。美しい日本の憲法をつくる国民の会・「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会・明治の日推進協議会・みんなで靖国神社に参拝する国民の会・平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム・・・等々と個別の時局問題に各々運動団体を立ち上げたり、立ち上がった団体を支援し、事務局の一端を担う、すそ野はヘイトスピーチで知られる在特会にまでひろがる。たゆまぬ草の根活動の結果、2012年ついに安倍内閣という極右政権を樹立し、日本会議に属する国会議員の数も与野党合わせて約290人まで膨れあがった。

日本会議の中枢にいる人びとを知る関係者は、その執念や粘り強さの背後には「宗教心」があると指摘した。新興宗教団体・生長の家に出自をもつがゆえの「宗教心」。また、日本会議そのものが神社本庁を筆頭とする神社界などの手厚いバックアップを受けているため、その「宗教心」に裏打ちされた運動や主張は、時に近代民主主義の大原則を容易に逸脱し、踏み越え、踏みにじる。

「日本は世界でも稀なる伝統を持つ国だから、国民主権や政教分離などの思想はふさわしくない」といい、祭政一致への回帰を堂々と主張する。権力を掌握し、国会議員の数も確保したいま、彼らは最大の目標とする憲法改正へと歩を進める。2014年10月、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が設立され3つの目標が掲げられた。1)憲法改正の早期実現を求める国会議員署名及び地方議会決議運動を推進する。2)全国47都道府県に「県民の会」組織を設立し、改正世論を喚起する。3)美しい日本の憲法をつくる1000万人賛同者の拡大運動を推進する。美しいという憲法の草案を読むと「幼稚かつ粗野」で現行憲法の気高さに比すべくもない。篭絡された日本のメディアは死に体で毎度50%以上の内閣支持率を捻出する。しかし、外国のメディアは違う。

第2次安倍政権の誕生後、国内メディアの沈黙をよそに、外国メディアは日本会議を「極端な右派」「反動的グループ」(米CNN)、「極右ロビー団体」(豪ABCテレビ)、「強力な超国家主義団体」(仏ル・モンド)などと評し、安倍政権との関係については「(日本会議)が国策を練りあげている」(豪ABC)、あるいは「安倍内閣を牛耳り、歴史観を共有している」(米BBC)と分析した。

国民はこのような政権を本当に望んでいるのだろうか。自民党政治を知り尽くした小沢一郎氏は先月の記者会見で次のように語った。

「安倍政治は歴史に逆行し、民主主義を否定する考え方だ。旧来の自民党は、富の国民に対する配分を政治の一つの前提、哲学として持っていた。そこが全く違う」
「強いやつが勝つから仕方ない、という考え方で、自分の国家観に合わないものは権力を行使してでも排除するという感覚だ。(安倍政権は)非常に反国民的な反民主的な政権だ。かつての自民党政権とは全く異質のものになってしまった」

政治への不平不満を吐露し、自民・公明の政治を非難はするが、いざ選挙になると地元の与党代議士へ一票を投じる。国会はもちろん地方議員に至るまで、このような行動が自らの首を締めつつある。日本会議はいままで蓄積してきた手法や組織を総動員し安倍内閣と目的を一にして突き進む。2012年の政権発足以来の主たる動きは以下のようなものだ。

2013年12月 秘密保護法案強行採決
2014年4月 武器輸出3原則撤廃
2015年9月 安保法(戦争法)強行採決
2016年12月 通信傍受法改定施行
2017年3月 共謀罪閣議決定

次に控えるものは言わずもがなの憲法改正だ。いままで衆議院で勝てば参議院で負け、その逆もあり、与党の思うがままの議決はできなかった。これは独裁を許さない国民の知恵であったように思う。いまや与党からも異論が出ない一人独裁の様相を呈している。著者は安部氏の素顔など追跡するため同級生や知人、恩師、会社員時代の上司、同僚に片っぱしから話を聞いた。政界入りするまでの安部氏に現在の政治スタンスにつながる気配を感じとった人は皆無に等しく、政治的知性を鍛え上げた様子も、政治史などの知識を積みあげた形跡もほとんど見られなかった。会社員時代の上司は安部氏を次のように評した。「子犬が狼の子と群れているうち、ああなってしまった。僕はそう思います」

政治家にしても、文化人や学者、メディア人にしても、排他や不寛容を煽るような言説を吐く者は掃いて捨てるほどいる。隣国やマイノリティに公然と差別的言辞を吐きつける愚か者が多数派になったとまでは決して思わないが、日本は他国よりも優れた「特別な国」であるかのようなムードを振りまくメディアの記事、ニュース、番組、書籍等々は枚挙にいとまがない。これが「美しい国」を称揚する安倍政権や日本会議の主張にうっすらとした共感をひろげてもいる。

戦争を知らない世代の国会議員がほとんどを占め、戦争の悲惨を身をもって知る人々は90歳を超えた。左派やリベラル派が減り、安部政権的なもの、日本会議的なものが許容され、「力で叩き潰せ」、「やられたらやりかえせ」、「制裁だ報復だ」といった声が日常茶飯事聞かれるようになった。戦争がゲームやスポーツ観戦と同列に語られてはいないか、排他的、不寛容の風潮が広がり自制を失った社会はどこへ向かうのだろう。

 

悪癖の科学 リチャード・スティーヴンズ 藤井留美訳

--人間は苦しい時代に多くの必需品をあきらめるが、最後にあきらめるのは悪習である--

人が生きていることを実感するのは、リスクを選ぶときだ。それもわが身はある程度安全で、なおかつ最大の利益が得られそうなリスクだ。リスクをいとわず行動する人は、無責任な悪いやつと見られることも多いが、そうした行為にも実は隠れた利益があり、その恩恵は本人だけでなく、もっと広い範囲におよんでいることがある。

よくないことは分っているが止められない。自己管理のできない人という烙印を押されるが、悪癖には隠された利点があり、そこを科学的に探ろうという試みだ。人迷惑な輩の「居直りの根拠」にされそうな懸念は十分にあるが..

【酒】モルヒネを与えクスリ漬けにしたラットを、ケージと快適な飼育場の2群に分けた。いずれも(水)と(モルヒネ水)、両方を選べたのだが、ケージのラットは快適飼育ラットの2倍のモルヒネ水を飲んだ。ケージに押し込められた環境がモルヒネに手を出させたと考えられる。モルヒネ等の薬物を一度体内に入れると不快な離脱症状のため摂取を止められないというのが従来の説であった。依存が薬物等の物質によって引き起こされるとすれば、ギャンブル、ショッピング、ネット等物質を介さない依存は説明ができない。若いときに薬物依存と判断された人の3/4は自力で立ち直りその後クスリと無縁の生活を送っている。社会にしっかり根をおろし、生きる意味を見いだしたことで薬物に手を出す必要性を感じなくなったのだ。依存性物質の生物学的な作用を見直す動きもあり、アメリカ精神医学会はアルコール依存症という診断名を廃止し、飲みすぎて問題を起こすことを嗜癖性障害と呼ぶようになった。適度な飲酒は心身の健康に寄与する研究も報告されている。正しい評価はランダム化比較試験の結果を待たねばならないが、長期におよぶ試験の参加者が確保できず、いままで一度も行われたことがない。したがって、問題となる飲酒行動については生物学的な側面ではなく、心理学的な観点から取り組むことになった。

酒は人間の注意力を鈍らせるが、それがかえって人づきあいには有益であることがわかった。適量の飲酒によって、自分自身も他人も魅力的に思えるし、とくに男性は相手との距離を縮めることができる。

酒の効用として広く語られることだが、過度の飲酒が健康を損ねることも間違いない。過度の飲酒に対しては二日酔いというストップボタンも用意されているので、飲みすぎに注意して酒を楽しもうというのが結論だ。あまりに常識すぎてがっかりしないでもない。

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【侮蔑語・卑猥語】一人の人間が1日に話す言葉の0.3〜0.7%を占めているという。1日の言葉の総数は1日平均15000〜6000なので、だいたい60〜90語が悪態になる。これはつぶやきも含めたものであろうか、それも入れるともっと多いのかも知れない。悪態をつくと自らの意志に関係なく特定の情動反応が起こる。通常の言語中枢とは一線を画すため感情の高揚を適確に表出したり、激しい疼痛や情動に際し悪態をつくことで痛みや怒りへの耐性が高くなる。墜落した飛行機のフライトレコーダーに残されたパイロットの声は極限状態にあって侮蔑語・卑猥語を叫んでいた。しかし悪態は文脈に依存し許される状況とそうでない状況がある。

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【恋愛】人は恋に落ちると心臓がドキドキし体が震え、食欲がなくなる。性的なものも含め感情が喚起され、天にものぼる心地になり愛しい人のことが頭から離れない。恋は喜びや甘美よりか強迫観念や欲求不満を伴う重荷なのだ。

脳内には「恋愛中枢」のような場所があるわけではなく、恋をして活発になるのは脳の報酬経路だ。これは恋愛に限らず、人が「気持ちいい」と感じるさまざまな行為や経験に反応する。

報酬経路が活発になるのはアルコールやお金やコカインなどと同列のもので、薬物のように望ましくない有害な副作用もある。精神科の診断で用いる質問票でうつと不安のレベルを調べると、恋愛度が高い被験者ほど、うつと不安の傾向が強く現れた。自分の感情だけでも厄介なのに、他人の感情にも対処し、情熱、興奮、思い入れ、嫉妬など複雑な精神的負担が待ちうける。負の側面があるとしても、恋は人類普遍のもので人間である以上、恋は絶対にするし、恋を避けるのは無理な話だ。恋にはつらい感情や負担もついてくるが、どん底に落ちてこそ、絶頂の喜びを満喫できる。

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【危険スポーツ】バンジージャンプ、スカイダイビング、スキージャンプ、オートバイレース、ハンググライダー等々、一歩間違えば死と直結の競技や遊びに、なぜひかれるのか。高所に立つだけで足はすくみ顔からは血の気が引くというのに、恐怖の代償となる利点は何だろう。生きるか死ぬかの緊急事態に遭遇すると、主観的な時間の流れが遅くなる。実験によると遅くなる感覚は事後の回想に基づくある種の幻覚ではないかと示唆した。社会がいろいろ慎重になりすぎて息が詰まる。息苦しさを打破するため危険を冒すストレスを欲求のはけ口とすることが考えられる。スカイダイビングなどの極限のストレスは記憶などの思考能力を鈍らせ、情報処理能力が失われる。はなはだしきはパニックに陥りパラシュートを切り離したり、開くことができなくなる。ストレスにさらされるとコルチゾールとともに血中のエンドルフィンも増える。このエンドルフィンが脳内麻薬として多幸感をもたらす。

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【死】人間の根源に関わる問題で、自分がいつか死ぬと認識しているのは人間だけだ。あやうく死を免れた人は、その記憶がないのがほとんどだが、少数は「臨死体験」として語る人々がいる。死が迫っているのに気持ちは穏やかで、トンネルをくぐったり、花畑や川岸にたたずみ、亡き家族や友人と出会い、人生が走馬灯のように蘇る。こういった人々を体系的に分析した研究では半数以上の人が好ましい体験だったと答え、臨死体験の多くに共通していたのは幽体離脱だ。

肉体を出たり入ったりするのはとても簡単で、瞬間的にできるということ。また、肉体を離れた自分の「身体」は、実際の体重よりうんと軽いものの、大きさは変わらない。ただし耳が聞こえないとか、手足が失われているといった障害は消失している。回答者のほぼ全員が、離脱後の自分は自由に動きまわれたが、肉体から数メートル以上離れることはできなかったと話している。

科学派の研究では戦闘機のパイロットに下向きの大きな加速度が加わると脳に血液が流れなくなり、視野や意識を喪失し臨死に似た体験をするという。また、てんかん患者の発作中や脳のさまざまな部分に弱電流を与えても起こることがある。ショックや刺激でエンドルフィンが多量に分泌されたとも考えられる。臨死体験を詳細に思い出すのは蘇生処置の途中で意識が戻る瞬間があり、その時のことを夢うつつ思い起こすのかも知れない。

臨死体験は未解明ながら蘇生措置を受けた人の10〜15%に起こり、人生を大きく変えるという。体験者は非体験者に比べ死をあまり恐れなくなり、死後の世界を信じる人が多い。また、人生の意味を追求し、愛情豊かで他者を受け入れることをいとわない。臨死体験はわずか数分だが、影響は長きに及ぶ。死には暗いイメージがつきまとうが、臨死体験の研究から推察すると死ぬ瞬間は逆に明るいものかも知れない。

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本書は8章にわたり、悪癖、悪習、顰蹙行為の効用を説くもので、そのいくつかを紹介した。いずれも常識では分かっているし、身に覚えのあることだ。こんなことを研究するのが学者の楽しみなのか、導き出した答えは言い訳やこじつけの域を超えたであろうか。考えあぐね試行し、回り道して常識に辿り着く。悪癖を科学しようという試みも、また悪癖に違いない。

 

宗教消滅 島田裕巳

野球ファンにとってPL学園の名を忘れることはないだろう。甲子園出場の名門で、かつ数多くのプロ野球選手を輩出してきた。PL学園はPL教団が創設したもので、この野球部が廃部の危機にあるという。部員の暴行事件が取り沙汰されたが、教団の衰退も大きな要因となった。文化庁の宗教課が刊行する「宗教年鑑」によれば、平成2年版のPL教団の信者数は181万2384人、平成26年版では92万2367人と24年間でほぼ半減した。組織には拡大も衰退もあるが、PL教団にとどまらず天理教が2/3、立正佼成会が半減、霊友会は半分以下に減少した。創価学会は世帯単位で公表し、信者の数は不明だが世帯数は827万世帯でまったく増えていない。新興宗教は戦後急速に拡大し、衰退についても社会の変容が影響する。

衰退の兆しは仏教や神道などの既成宗教にも見られる。2015年、真言宗は開創1200年の法会が営まれたが、参拝者数は60万人で1984年に比べ4割も減少している。神道では2013年、伊勢神宮で20年に一度の式年遷宮が行われ参拝者は1400万人に達し、14年も1000万人を超えたが、15年は1000万人を大きく下回った。この年の正月三が日の参拝者は約41万8000人で、前年より20万人近く減少している。世界に目を向けると、衰退の兆候も見える一方、地域や国によっては宗教が盛んになっているところがあり、古い信仰が衰え、新しい信仰の台頭も見られるが..

政治と経済の問題が深くからんでおり、状況はかなり複雑である。何より、資本主義のあり方と宗教の興廃とは、密接な関係をもっている。宗教の今を考えることは、資本主義の今を考えることでもあるのだ。

創価学会は戦後急速に拡大し、巨大教団となった。この背景には日本経済の大きなうねりが関係した。戦前4000人程度で世帯数は1000軒程度だったが戦後10年目の1955年には30万世帯、60年には150万世帯を超えた。折伏(しゃくふく)という布教活動が拡大の要因とされるが、強引かつ戦闘的な勧誘が有効だったのも、いまだ戦争の傷跡から立ち直っていなかったからだ。高度経済成長に伴い第一次産業から、鉱工業の第二次産業、サービス業の第三次産業へと比重が移り、第二次、第三次産業の中心となった都市部では大量の労働力を必要とした。農家の次男や三男は中卒、高卒で都会へと出て行った。臨時夜行列車での集団就職が1954年から21年間続いた。彼らは学歴が低かったため、労働組合が組織されているような職場へ入ることができず、寄る辺のない生活を送らざるを得なかった。そうした人々を吸収していったのが創価学会であり、ほかにも立正佼成会や霊友会などの日蓮系、法華系の新宗教が大量の会員を増やし巨大教団へと発展した。

都会に出てきたというだけでは、地方の村にあった人間関係のネットワークを失ってしまっているわけで、孤立して生活せざるを得ない。ところが創価学会に入会すれば、都市部に新たな人間関係のネットワークを見出すことができるのである。

高度経済成長は急速に豊かさをもたらすが、同時に経済格差も拡大する。創価学会に入れば社会的に恵まれない階層や地方から出てきた人に仲間意識が生まれる。彼らは座談会という集まりを開き、信仰を得ることによって、いかに幸福になれるかの体験を発表し互いを励ましあう。現世利益を掲げ、信仰や折伏(しゃくふく)の実践による功徳を宣伝した。また会員の多くが社会福祉の対象となるような貧しい階層だったため、政治的な力を獲得することで豊かな生活の実現を願った。創価学会は巨大化し、政党を設立し政権をも担うようになった。このように経済と宗教、政治と宗教の密接な結びつきは世界の宗教を見るうえでも、重要な鍵となる。

キリスト教の信者の数は、世界全体でおよそ20億人と言われ、人類全体の3分の1を占めている。ところがキリスト教の勢力がもっとも強いとされているヨーロッパにおいては、戦後、その力が次第に衰え、近年になると、急激な教会離れば進行しているのである。

ヨーロッパでは移民が増加し、現地の社会に容易に溶け込めない人々がイスラム教の信仰を深め信者数も増加している。都会へ出て行った地方の人々が創価学会に入会したのに似ている。宗教の世界的凋落傾向に逆らい信者数を延ばす宗教は、このような事情が見て取れるが、やがて日本の戦後社会やキリスト教が辿った道を歩んでいくことになるかも知れない。

近代以前は宗教の影響が圧倒的で、生活のあらゆる分野を占めていた。しかし、経済が発展し先進国になると社会や文化が宗教の支配から離脱する方向へ動き出す。これを世俗化と言い、人々は教会や寺院や神社へ来なくなる。地方では深刻な人口減少が進み村落の崩壊も起こる。宗教施設は訪れる人の喜捨や寄進によって維持されてきたが、信者の減少で僧職者の生活は厳しくなり、寺院の維持も困難になった。

資本主義の社会では、資本の蓄積ということが自己目的化され、経済規模の拡大が続いていく。市場を拡大し、生産力を高めていくことが至上命題となるが、そのためには労働力を確保しなければならない。移住者や移民は、それを満たすために故郷を捨てていくのである。そうなればどこの国においても、どの地域においても、地方の共同体の弱体化や崩壊という事態が生じる。

市場原理主義又は新自由主義ともいい、マルクスが予言したように現代の資本主義社会ではひたすら資本の自己蓄積が続き、抑圧という事態が恒常的になる。資本主義の発展は地方の共同体を破壊し、農村共同体に残っていては社会の流れに取り残され、豊かな生活を実現するための収入も得られない。経済発展が続けば現金支出がますます増える反面、グローバル化により海外から安い農産物が輸入され価格は下がり、農家の収入は減少する。新宗教は都市部で発展したが、伝統的宗教の基盤は地方の農村部にあった。秋祭りや葬儀の際の炊き出しなど宗教は集落・家族で受けつがれ習俗化した。新宗教は集団就職の若者など強い動機をもって入信するが、第一世代から子供である第二世代への継承は進みにくい。熱意に根ざす信仰は活動や金銭の負担を強いることになるからだ。しかし既成宗教では親の宗教が習俗化し受け継ぐだけで、信仰の熱意がないため子供へも伝えやすい。信仰は個人のものであるが、宗教は必ず共同性を伴う。一人で信仰活動を続けることはほとんどなく、教団や儀式に参加するための共同体が存在する。資本主義はこの共同体を破壊していく。

高度経済成長期までの日本人の多くは農村部にいて、農業や漁業や林業などに従事し、村という共同体を形成し、人々は共同体に伝わるしきたりに従い生活を営んできた。そのなかで葬式はもっとも重要なもので、死者がでると集落の人々が集まり葬儀や埋葬の手筈を整えた。無料の共同墓地があって古くは土葬のための墓堀組、食事の炊出組など分担・協力し、少ない費用で葬式を出した。都会で生活する人が増えると埋葬の場所がなく、急速に火葬へと移行していった。都会でも一戸建てなら自宅で葬式が出せるが、マンションやアパート暮らしだとそれもできない。次第にセレモニーホールや葬祭会館などの利用が一般化し業者への委託が進む。

都会暮らしの第一世代が葬式を行うには場所とともに僧侶の必要性に迫られる。死者が出ると、寺との付き合いがないため突如降りかかる葬儀に狼狽する。数年前くらいから「お坊さん便」というサービスが始まった。Amazonでは一回の派遣で交通費込、3.5万で引き受けるという。戒名が必要だったり通夜、葬儀の際は追加料金を必要とするが、寺へ30万〜50万、なかには100万〜をお布施として払うのに比べればなんと明朗なことか。このサービスについて仏教会は早速、抗議の声明を出したが、いっぽうで「派遣僧侶の登録」を申し出る寺もあったという。寺との付き合いは葬儀や法要に限らない。一生一度の葬儀と年に1〜2回お経を詠んでもらうために、年会費を払い、ときには補修や新築などのためのお布施を求められる。檀家数が少ないと1軒で100〜200万円も稀ではない。経済格差が広がり年収300万円以下の世帯が2014年で41%にもなった。寺への寄進どころが自分の生活の維持さえ困難だ。

合理的に考えれば7日ごとに法要を行い49日で成仏するなど、なんの証拠があるのだ。1回忌、3回忌、7回忌..など執りおこなうのは寺の生活の糧であり、いまでは業界の糧でもある。故人を偲ぶというのは理解できるが、死してあの世へいくというのは確認のしようがない。あの世があるように思わせて死者の弔いを習俗化してきたのだ。葬送にともなう行事の煩わしさや費用を考え簡略化しようという動きは急速に広がっていく。その代表が家族葬で田舎でもこの動きが出始め、葬祭会館にはパンフレトも用意されている。高齢者であれば医療や介護に金がかかり、そのうえ葬儀に多額の費用はかけられない。通夜、葬儀、告別式を行わず火葬場へ「直葬」というケースもある。墓も費用がかかり、管理する遺族がいないなどの理由で自然葬という散骨や、ゼロ葬といい火葬場で遺骨を持ち帰らないやり方がある。

資本主義は行きつくところまで行き着いた。さらなる市場の拡大は、現実的に不可能なところまで来ている。その中で、伝統的な社会システムは解体され、個人が共同体とは無縁な生活を送る状況が生まれている。資本主義はそこまで貪欲に資本の蓄積を行ってきたとも言える。

資本主義が破壊したものは多岐に及ぶ、大店舗の進出で駅前商店街はシャッター通リとなり、街から人々の姿が消えた。巨大資本のスーパやショッピングセンターだけが一里塚のように点在する。彼らとて安穏としているわけにはいかない、永遠に無限に地上の富を食い尽くし滅亡するまで成長するよう呪われている。このまま経済を優先すれば、人類は経済によって終焉を迎えるだろう。

 

日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか 矢部宏治

憲法改正せずとも日本は戦争ができる。憲法が公布された3年後に朝鮮戦争が勃発し、これを機に警察予備隊が発足した。自衛隊の前身になるが、この頃から戦争ができる国へと変貌する。「日米密約」といい、密約だから国民は知らない。外務省の超エリートも知らず、元総理だった鳩山氏も知らなかった。国は巧妙にも国民を自由だ平和だと思い込ませコントロールしてきたのだ。

東京を中心とした首都圏の空域は米軍の管理空域になっており、日本の民間機は自国でありながらそこを飛ぶことができない。東京、神奈川、埼玉、栃木、群馬、新潟、山梨、長野、静岡の上空7000mもの巨大な空域を避けるため、羽田を離陸した飛行機はまず千葉の方向へ飛び、そのあと西へ無理な急旋回、急上昇をする。羽田へ来るときは空域を回り込んで南側から着陸する。この空域が太平洋側の洋上から日本海近くまで、米軍に管理されているため、どのような飛行機が飛んでいるか日本政府はまったく分からない。この空域の下には横須賀、厚木、座間、横田という米軍基地があり、軍用機で日本上空まで飛んできた米軍や米政府関係者は日本政府が知らないうちに基地からそのままフェンスの外へ出ることができる。日本政府はいまアメリカ人が国内に何人いるのか、まったく把握できていない。

国家という概念を成立させる3つの要素とは、「国民」「領域(領土)」「主権」だといわれています。日本という国には、たしかにわれわれ日本人が住んでいますから、国民はいる。しかし、事実上、国境がないわけですから、領域(領土)という概念は成立していない。また首都圏の上空が外国軍によって支配されているわけですから、もちろん主権もない。ですからこの時点でもう、日本は独立国家ではないという事実が、ほとんど証明されてしまうんですね。

いまだに戦後の占領が続き、隷属は一層強化されたとみるべきではないか。世界中にこのようなケースは稀である。これに一切気付かせず任務を遂行する日本人がいるのだ。国民がまったく知らないうちに憲法さえ飛び越えて決めてしまう「ウラの最高決定機関」が存在する。著者が日本の「闇の奥」と呼ぶ「日米合同委員会」だ。本来、日本に駐留する米軍や米軍基地など、軍事関係の問題について協議する機関だが、扱う分野はありとあらゆる範囲に及ぶ。この委員会は米軍のエリート将校と日本の高級官僚たちが35の部会に分かれ毎月2回、さまざまな問題を協議する。協議された内容は外部に公開する義務がなく、公開されても当たり障りのないものばかりだ。過去60年にわたって秘密の会議が開かれ、ときには日本の憲法を機能停止さえしかねない重大な決定がなされてきた。

例えば、1953年9月29日に日米合同委員会で合意した取り決めがある。

「日本の当局は(中略)所在地のいかんを問わず合衆国軍隊の財産について、捜査、差し押さえまたは、検証をおこなう権利を行使しない」

「米軍基地内において」なら分かるが、「所在地のいかんを問わず」とはどういうことか。つまり、日本全国を米軍が占領し、米軍の軍用機が墜落しても、移動中の車両が事故を起こしても、日本の警察や消防などの関係者を立ち入らせない法的権利を持っているのだ。先月、沖縄でオスプレイが墜落大破した。メディアはなにを配慮してか「不時着」と報道した。大破した機体のどこを見て不時着だというのか、アメリカ当局でさえクラスAの重大事故と位置付けている。問題はここからだ。基地ではなく沖縄の海岸に墜落したのに、警察や報道陣は遠巻きに眺め、不時着などと寝言を垂れる。沖縄の人々は日本に主権のないことをよく知っている。知っているからこそ10万人規模の抗議集会が開かれ、米軍の配下たる与党の国会議員は一人もいない。沖縄のみならず日本全土が米軍の支配下にある。

日米合同委員会での取り決めの一例をあげると、「米軍の犯罪について特別に重要な事件以外は起訴をしない」、「米軍機はどんなに危険な飛行をしても許される」など、他に無数の事項が国民の目から隠され合意されている。

この日米合同委員会というシステムがきわめて異常なのは、日本の超エリート官僚が、アメリカの外務官僚や大使館員ではなく、在日米軍のエリート軍人と直接協議するシステムになっているところなのです。

このような異常なシステムはどんな国にもなく、アメリカの国務省の関係者からさえ異常さを指摘する声が何度もあがった。アメリカ大使館がまだなかった占領期間中に出来上がった米軍と日本の官僚との異常な関係がいまだ続いている。日本政府がとくに変更を求めている事実もなく、米軍側は「それなら、このままでいいではないか」ということだ。日米合同委員会の官僚のなかから検事総長を出すという権力構造ができあがっており、司法という正義は機能しないどころか、立ち向かえば米軍関係者と日本の官僚、検察が一体となって総攻撃をくわえ潰してしまう。先月、最高裁が沖縄の辺野古訴訟の上告を棄却し、沖縄県の敗訴が確定した。こういう理不尽は2009年、民主党・鳩山政権でも起こっている。メディア、評論家、学者、政治家が加担し、身内の協力も得られず孤立無援の鳩山氏を国民は「無能」とあざ笑った。当時のことを鳩山氏は次のように語っている。

政権交代で国民が望んだのは、これで日本の政治が変わるということではなかったのでしょうか。そして、その多くの声に応えるために、最もしなければならなかったことは既得権との戦いであったはずでした。既得権により身動きが取れなくなっている政治、経済の現状を変え、国民の皆さまが主人公になって、もっと不公平感なく豊かさを感じて生きていけるような世の中にしよう、というのが我々の主張であり、官僚任せの政治から政治主導へ、それも国民が主導する政治にしようということでした。そのために総理大臣にまで押し上げて頂き、国民の圧倒的な支持の下、既得権に甘えた集団にメスを入れる努力をしました。しかし、米国の意向を忖度した官僚、財務官僚、大手メディアなど既得権側の抵抗は凄まじいものがありました。その力に十分抗し得なかったのは私の不徳の致すところと申し訳なく思っています。私が目指した方向は決して間違ってはいなかったと今でも思っていますが、その後の政権が、私を反面教師にして、「官僚、米国に抵抗したからうまくいかなかったのだ、そこをうまくやればいいのだ」と180度民主党の進むべき方向が転換されました。何のために政権交代がなされたのか、という憤りを強く感じています。(2012/6/26)

日本のリベラル派はいままで憲法9条を盾に抵抗し、自衛隊の海外派兵だけは何とか阻止してきた。憲法9条は日本が再び戦争を起こさぬため非武装・中立を誓うもので、マッカーサーもそれを望んでいた。しかし朝鮮戦争を契機に方針を180度転換するに至る。1950年、38度線を越えて金日成が南進し始めたとき、米軍基地を守るため急遽警察予備隊が創設された。朝鮮に出撃した米軍部隊が居なくなった基地に日本の軍事部隊を配属し後方支援するためだ。米軍は釜山まで追い詰められたが、なんとか持ちこたえられたのは対岸にある日本からの補給のおかげだった。この時大きな憲法破壊がおこっていた。仁川上陸作戦にともなう機雷除去を海上保安庁の掃海艇部隊が担った。日本では知られていないが事実上の参戦である。警察予備隊は保安隊と名を変え、さらに1954年に自衛隊という軍隊の創設に至る。この時、すでに戦力の保持と参戦という重大な憲法違反を犯すことになる。

結局、歴史をふりかえってみると、こうした占領中の朝鮮戦争への協力過程で生まれた米軍への完全な従属関係が、その後の2度の安保条約によって法的に固定され、現在まで受けつがれることになったからです。

米軍との密約で基地や自衛隊を指揮し自由に使うことは早々に結ばれた。密約には基地を自由に使う基地権密約と、自衛隊を自由に使う指揮権密約がある。しかし、自衛隊を米軍の指揮下で自由に使うことは時期尚早と考え踏みとどまっていた。それを踏み出そうとする動きが集団的自衛権と呼ばれるものだ。ついに2015年9月19日、参院本会議において安全保障関連法案の採決が行われ、自民・公明の与党と元気・次世代・改革の野党3党の賛成多数により可決成立した。

憲法9条を、日本政府というよりも、むしろその背後にいる米軍をしばる鎖として使ってきた。そして米軍をしばることによって、同時に日本の右派の動きもおさえこんできた。おそらくそれが日本の戦後70年だったのだと思います。

しかし、その鎖は何年も前から周到に準備された計画のもと、再登場した安倍晋三氏という政治的プレイヤーの手で、すでに引きちぎられてしまいました。その結果、大きな矛盾を内側にかかえながらも、長い平和な暮らしと経済的な繁栄、そして比較的平等な社会を半世紀以上にわたって実現した「戦後日本」という政治体制は、ついに終焉のときをむかえることになったのです。

自立を果たそうとした民主党・鳩山内閣は支持率が20%まで落ち込み退陣に至るが、現政権を国民の50%が支持し、80%を超える人々が米国に親しみを感じるという。メディアが見識を有しておれば、安倍内閣は半年も経たずに終わったはずだ。世界には独立と自由を命がけで勝ち取ろうとする人々もいるのに泰平の眠りから覚めぬ、これこそ平和ボケではあるまいか。

【追記.1】密約は単にあるだけでなく密約を守ることで相互の利権も温存され、国民が眠っている間に静かに密かに遂行し、ツケは国民へ降りかかる。密約は司法をも支配した。

先月、沖縄・翁長知事による名護市辺野古の埋め立て承認取り消しを巡り、国が県を相手に提起した不作為の違法確認訴訟で、最高裁第2小法廷は20日午後、上告審の判決を言い渡し、県の上告を退けた。国の請求を認め、承認取り消しは違法だとした福岡高裁那覇支部の判決が確定した。判決を受けて翁長知事は年内にも承認取り消しを「取り消す」見通しで、国は年明けにも埋め立て工事を再開する構えだ。一方で、翁長知事は辺野古への新基地建設阻止の姿勢を堅持する方針を示しており、新基地建設を巡る県と国の対立は新たな局面に突入する。(琉球新報)

あらゆる手段を講じて建設を阻止しようとする翁長知事に対し政府は知事権限を無力化する検討を始めた。

政府が、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設で沖縄県の翁長知事による移設阻止に向けた権限を無力化する検討に入ったことが20日、分かった。翁長氏は辺野古移設をめぐる訴訟の判決確定後も抵抗を続け、設計変更承認など3つの知事権限で移設を阻止することを想定。政府の無力化は対抗策となり、攻防は第2ラウンドに移った。翁長氏は移設を阻止するため(1)設計変更(2)サンゴ移植(3)岩礁破砕−で権限行使を念頭に置く。政府が申請をしてきても、許可や承認を拒否することで移設工事を遅らせたり、阻止したりできると強調している。それを踏まえ、政府は対抗策の検討に着手した。(2016・12.21産経ニュース)

【追記.2】佐賀空港にオスプレイの配備が検討されている。密約の内容から、基地も自衛隊も米軍が使うのは当然ともいえる。試験飛行や住民説明会などの手続きを踏んではいるが、知事や議員、県職員はすでに肚を決め、公表の日まで芝居を演じているのだろう。もし、知事が断れば知事権限を無力化できる。県への予算を減らすこともできる。ここ佐賀では自民党が圧倒的な支持を集め、県議など地方議員に至るまで自民党の息がかかる。農業が潰されようとしているのに農家は自民党議員を応援する。医療崩壊が迫っているというのに医師会や薬剤師会は自民党議員の推薦人名簿を組織をあげて集める。

【追記.3】政治に対する不満や批判は巷にあふれても、政権に批判的な論客やキャスターはテレビから一掃され、朝鮮中央テレビと変わらず。プーチン大統領との首脳会談は待ちぼうけの時間まで中継し、成果は金を取られただけなのに歴史的と賞賛。真珠湾訪問は初の歴史的訪問と称えるが、すでに幾人もの総理が訪問していた。一転、米大統領と一緒の初の訪問だと言う。時計がわりにNHKを見ていると、朝の忙しい時間にその様子をつぶさに実況する。チャンネルを変えると民放まですべてNHKに右へならえ。仕方なくEテレの子供番組に甘んじる。メディアは見ザル、聞かザル、言わザルで政権の広報機関に堕した。

 

 

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