【読書録(19)】-2022-


属国民主主義論
国賊論
日本外食全史
指揮権発動 -検察の正義は失われた-
「副作用」ゼロの真実
大人のいじめ
「廃炉」という幻想
検証 コロナと五輪
プラセボ効果
炎上するバカさせるバカ
自民党 失敗の本質
「エビデンス」の落とし穴

属国民主主義論 内田樹・白井聡

まず、二つの話から。先月初旬の1週間ほど、選挙報道と開票速報が続いた。海の向こう、アメリカの中間選挙を微に入り細に入り伝え、共和党が勝てば、民主党が負ければ..と識者は語る。前大統領のトランプ氏も出演し、膨大な時間が投じられた。テレビが他国の選挙を、これほどまで取り上げた記憶はいままでになかった。日本はアメリカ51番目の州と揶揄する人もいるが、州ならまだまだ良いかも知れない。

「日米合同員会の研究」という本を読む。この委員会は米軍と日本の官僚で構成され、国会を通すこともなく、憲法をも超えた密約により、米軍は日本国内で傍若無人の振る舞いが許される。沖縄、横田、岩国など国内には多くの米軍基地が点在し、ここに思いやり予算という莫大な日本の税金が投入される。密約では自衛隊の基地は米軍も使えることになっている。ここ佐賀では佐賀空港へ自衛隊のオスプレイの配備が計画中だ。前知事が衆議院議員へ転身するとき自民党の推薦欲しさに受け入れを表明した。次の知事も同じように再選の際、推薦欲しさに受け入れを進めることを容認した。佐賀空港は広大な農地を潰して難産の末に開港した。先人の洞察力と知恵は優れたもので、開港の条件として協定書に「自衛隊と共用しない」という一文を入れた。自衛隊を入れることは即、米軍を入れることに繋がる。日本の法で裁けない米軍の振る舞いは国民にとって、迷惑極まりないものだ。この一文は知事の受け入れ発言に先立つ大事な約束であり、知事の判断は信義に反する。2014年の前知事の受け入れ表明から現知事へと受け継がれ、膠着状態が続いているかのように見えたが、水面下では着々と協定を見直す動きが謀られていた。11月、有明海漁協はついに協定の見直しに応じることを決めた。

アメリカに関わる11月のニュースから二つ、本のタイトルを如実に物語る出来事だ。

2015年、安保法案に賛否両論あったものの、公正に見て反対が多数を占めた。安倍政権はわずか20人足らずのイエスマンを集めた閣議で憲法解釈を変更し、安保関連二法案を国会に提出した。「安全保障関連法案に反対する学者の会」は1万4000人の反対署名を提出し、日本の憲法学者も98%が違憲と考えている。反対に一顧だにしない自民党の動きは、2012年8月にアメリカ人が発表したアジアの安定のための日米同盟という「アーミテージ・ナイレポート」に追随するものであった。

憲法違反が指摘され、国民の多くが反対している安保法案に対して、国民の賛否を問うこともなく強行採決に走るその姿勢を見ると、まさにアメリカの言いなりであり、「属国化はますます加速している」と改めて思わずにはいられません。

アメリカ人というのは元国防長官アーミテージと元国防次官補ナイのことで、彼らの肩書は民間人にすぎない。アメリカの国家に比べ取るに足りない勢力によって日本は適当にあしらわれ、それに自発的に隷従する。米軍が日本に巨大な基地を維持するのは、日本のためではなく世界秩序を守るためでもない。戦後80年になろうというのに、いまだ米軍が駐留し日本は軍事属国のままだ。実のところ在日米軍が守っているのは自民党政権という傀儡政権であり、自民党にとっては最強の番犬といえる。互いの利権を守るため、犠牲を国民に強いる。ソ連崩壊後、東西冷戦構造そのものが消失し、この時点で日本の米軍基地は戦略的意義を失い基地の縮小は可能だったはずだ。ところが中国や北朝鮮の脅威を煽り、基地の存在理由を新たに作り出した。

民主党政権に変わるとき、鳩山氏は「最低でも県外」と米軍移設を公約に掲げ、小沢一郎氏も「在日米軍のプレゼンスは第七艦隊だけで十分」と発言した。米軍と番犬たる自民党は狼狽し、総力をあげ阻止に動き人格攻撃まで行った。鳩山政権を潰し、小沢氏を無実の裁判へと貶めた。恐怖に身震いした民主党政権は、国民との約束をかなぐり捨て自民党と変わらない政権に堕す。これが国民の支持を失い、もう二度と信用しないというトラウマになった。その後の民主党は合従連衡を繰り返し、そのたびに支持率は下落する。昔、金丸信が言った「馬糞の川流れ」だ。

属国としての立場を受け容れ、「この仕組みに同意します」と宣言した者だけがこの国の支配層を形成することができる。それが戦後70年経った日本の支配構造として安定してしまった。

日本の首都空域を支配する米軍・横田基地には飛行機などろくに配備されておらず、広大な住宅地にはほとんど人気がない。この圧倒する無用のプレゼンスが、日本の宗主国はアメリカだとアピールする。1974年フォード大統領以来、いく人もの大統領が訪日し、彼らは日本の空の玄関である羽田空港から入国した。しかし、トランプ大統領は違った。横田基地に降り、そこから自国のごとく都内へ移動した。次のバイデン大統領も同じく横田基地を使った。大半の人びとは気にも留めないと思うが、行動の意味することは屈辱的なものだ。属国扱いを自発的に選ぶ自民党が「アメリカの押し付け憲法ではなく、自主憲法を..」と口にするのは片腹痛い。先の安保関連二法案同様、自民党の憲法草案は低俗でアメリカ隷属を謳うものだ。

安倍、橋下といった、昔だったら決して政治の世界に出てこられないような人たちが表舞台に浮かび上がってきているのは、政治を取り巻く歴史的条件が決定的に変わったことの反映でしょう。

二人だけではなく、ほとんどの政治家の劣化・変質は地方議員に至るまで広がる。知性や礼節を失い、己の住みやすい環境作りに勤しむ。汚職、暴言、嘘をつき通しても退場せず、「職を全うすることで責任を果たす」と居直る。国民はバカだからそのうち忘れるだろう。確かにその通り、なんど騙しても次の選挙も勝つ。劣化した政権が高い支持率を得て続いていくのは、宗主国アメリカが「自国の国益にとって有利な政治体制」として評価しているからだ。知日派の代表、マイケル・グリーンは「日本の総理はバカにしかやらせない」と語っている。安倍政権が8年も続いたのには訳があった。日本人も同じく劣化しているのだ。

見てくれは老人なんだけれど、中身は中学生程度という老人が増えてきている。この老人の幼稚化は彼らのアンチ・エイジングをめざす自己決定によるわけではなく、市場からの要請によるものなんだと思う。

購買層を生み出すためのマーケーットの広告や煽りが思考・行動を幼稚化させる。老齢化し欲望も衰え羽化登仙されては消費活動も低下する。幼稚化はネットウヨを生み出し、考えも浅く攻撃するだけの言説を垂れ流す。彼らの中には70歳代の高齢者も多く、良識あり思慮深い老人のイメージとは異なり、猛々しい若者と見まがう。「正論」などの右翼雑誌の読者は99%が男性で購買層の平均年齢は70歳台だという。では、若い世代はどうか。

わかりやすい指標が、大学生の顔つきです。2010年代の大学生と90年代ぐらいの大学生、さらに70年代、60年代の大学生とで、みんな違う顔をしています。とにかく年代を経るごとに、どんどん幼くなっている。これは実に強烈な傾向です

若い世代の幼稚化も深刻だ。顔つきは若返り、足は細く長く身長も高く体躯はスリム、ときに男女の区別がつかないこともある。昭和世代からすると軟弱さは否めず、そういう昭和世代も昭和ひとケタ、大正、明治世代から軟弱と言われた。人類の歴史が始まって以来、軟弱化は止まらないことになる。顔つきや体躯の変化は食の欧米化という考えもあるが、思考・行動に関しては情報や物の氾濫で選択の巾が広がる半面、浅く短く変化した。国民の幼稚化により、属国であることが見えず、日米同盟という美辞麗句に酔い不平等な民主主義を甘受する。アメリカ軍が横暴に振舞うのは軍事産業という経済の下支えがあるからだ。

資本主義的な観点で言えば、兵器産業こそ理想の産業なんです。「自動車産業は裾野が広い」とよく言われますが、兵器産業も同じで、その下に鉄鋼、プラスチック、ガラス、コンピュター、石油、ゼネコンと、ほとんどすべての産業がぶら下がっている。

兵器が他の商品と違うところは市場に投入されればされるほど、市場が拡大していく。兵器の役割は破壊であり、そのため兵器や爆弾を消費する。消費という経済原則を満たし、破壊によって需要を作り出す。目先の利益にとらわれた「死の商人」が「戦争をやろう、兵器を売ろう」というのは当然の帰結だ。他所の家に火を付け、騒ぎ出せば正義の味方を装い、武器を売り込み、時には兵を出す。世論調査によると日本人の80%がアメリカを友好国と思っているらしい。そのアメリカが「パクス・アメリカーナ」の覇権主義のもと、世界中に紛争の種を撒きちらし、他国の主権を蹂躙する。日本は属国の良き見本とも言えよう。戦前・戦中に言われた「鬼畜米英」はいまも間違ってはいない。

 

国賊論 適菜 収

真偽定かならぬ発言があり、溜飲を下げた人もあれば、憤慨する人もあった。自民党・衆議院議員の村上誠一郎氏が国葬を欠席するに際し、安倍元首相を「国賊」と呼んだ。「なにも間違っていない、よくぞ言ってくれた」、しかし「国賊」のことばが独り歩きを始めた。当の村上氏は「国賊なんて言っていない」と弁明するが、文書で明確に発言を否定していないということで党紀委員会は村上氏に、党の役職の1年間の停止処分を全会一致で決めた。統一教会の歯車となって密接に関わり便宜を計り、噴飯ものの弁明を繰り返す議員こそ処分すべきではないか。統一教会と関りある自民党議員で処分された者はいまだ一人もいない。国賊と言ったくらいで全会一致で処分を下すなど、そのことが統一教会と同じカルトの所作ではないか。「国賊」とは、もともと安倍氏やその取り巻き連中、評論家、学者そしてネット右翼が頻繁に吐き捨てることばだ。天にツバするように安倍氏自身に降りかかったともいえよう。人を「国賊」と貶めた者たちこそ真の「国賊」であることを皮肉る本だ。表紙と帯には以下のフレーズが..

安倍晋三と仲間たち 活動的なバカより恐ろしいものはない 
バカがバカを担いだ結果わが国は3流国に転落した・・・
これは「第2の敗戦」だ!

著者が新聞、雑誌に寄稿した文章を集め、「国賊論」として出版されたものだ。国賊とかバカなど、感情を交えたことばは議論を危うくするため避けたいが、アジテートとガス抜きには効果的だ。著者もまえがきで「国賊」ということばは安易に使うべきではないと断ったうえで次のように言う。

私は安倍を罵倒するために「国賊」と言っているのではない。事実として、国を乱し、世に害を与えてきた者について考えていく上で、正確な言葉を選んだだけである。

「国賊」を使う理由と「国賊」への怒りに共感する。権力をおもちゃの如く振りまわす前代未聞の首相が出てきた原因のひとつが小選挙区制にある。制度の生みの親である小沢氏は今だもって小選挙区制を信奉し、「国民の意識が制度まで達していない」というが、彼自身が小選挙で落選し比例復活するまでに力を落とした。2度の政権交代を果たしたものの結果的に政権交代と言えるものではなかった。制度導入以来、30年になるというのに政権交代は見果てぬ夢であり、選挙のたびに自公政権が勝つ。そもそも選挙区で落選し、比例で復活当選するなど制度の欠陥に他ならない。二大政党制の下地も風土もないまま、強引な制度導入が間違いだった。

1994年の小選挙区比例代表並立制の導入と政治資金規正法の改正で、国の運命はおおかた決まってしまった。小選挙区制度は、二大政党制に近づく。死票は増え、小さな政党には不利に働く。政治家個人の資質より党のイメージ戦略が重要になるので、ポピュリズムが政界を汚染するようになった。また、政治資金改正法により、党中央にカネと権限が集中するようになる。

「時代にそぐわないから改革だ」とあたかも改革が正義であるかのように嘯き伝統やルールを破壊する。中選挙区では自民党の議員同士が公約を主張し論戦を交えた。総理になるには才腕を鍛え上げる暗黙のシステムがあった。当選回数とともに重要閣僚と党の三役をいくつかこなすことでようやく総裁候補としての足ががりを得た。小泉総理誕生の時からこのルールがなくなり、安倍氏に至っては幹事長と官房長官のみの役職で総裁に選出された。小選挙区制で党中央の権限が高まると、党内の政策論争より公認を得るため党に媚びる。国賊発言で処分を受けた村上氏のように盤石な地盤を持たない議員は飼いならされた羊だ。権力におもねるものが重用され、選挙に勝てばトップダウンの権力行使は当然という考えが広がった。その総仕上げで、国も経済も官僚も道徳も破壊し尽くしたのが安倍氏であり、それ以後の総理も負の遺産を踏襲して憚らない。飼いならされたのは議員だけではなく、官僚、学者、評論家、メディアへと広がった。

結局、目の前で発生している現象が見えないボンクラが国を滅ぼすのだ。政治の腐敗、権力の集中、小選挙区制の弊害。平成30年間の「改革」のどんちゃん騒ぎの末路が、今の安倍政権であるとしたら、これからはその報いを受ける時代になる。自業自得。これはメディアも含めて、日本国民の責任だ。

安倍氏はただ長く居座ったというだけの記録を残し、2020年8月28日総理を辞任した。その後も暗然たる影響力を温存したが、銃撃による死去を契機に汚物の蓋が外れ腐臭が漂い始める。自民党の構造改革により、平成の30年間で国の解体が進む。政治に寄生し、複数の宗教団体や外国の勢力を利用することで自分たちの利権を確保しながら日本を乗っ取った。戦後の日本が積み上げてきたものはわずかな期間で完全にリセットされた。

安倍は、ポツダム宣言を受諾した経緯も、立憲主義も、総理大臣の権限もまったく理解しないまま、「新しい国」をつくるという。

国会でも外交の場でも安倍は平気な顔で嘘をつく。漢字も読めなければ、政治の基本もわからない。政策立案などに使われる「基幹統計」もデタラメだった。

大事なことは、安倍には悪意すらないことだ。安倍には記憶力もモラルもない。善悪の区別がつかない人間に悪意は発生しない。歴史を知らないから戦前に回帰しようもない。恥を知らない。言っていることは支離滅裂だが、整合性がないことは気にならない。中心は空っぽ。そこが安倍の最大の強さだろう。

なぜこのような政権が長く続いたのか、著者によれば「日本を破壊したい」という悪意を持って支持する者は一部だが、現実を見たくない人や無知で愚鈍で思考停止した多くの大衆が支持するからだ。支持者はネット右翼と呼ばれる人々で右翼でも保守でもなく、ただの「ネットウヨ」だ。難しいこともわからず現実も見えないため、「安倍さん以外に誰がいる」、「野党よりマシ」、「批判するなら対案を示せ」、などのフレーズを得意満面に繰り返す。日々の生活の不満解消のため「呪いの藁人形」を叩くことで満足する情報弱者だ。これらのフレーズに巻かれた立憲民主党の泉代表は「政策立案型の政党を目指す..」と定例会見で述べた。「野党よりマシ」と言われる意味が分かっていないようだ。

夫婦で連れ立ち頻繁に海外旅行を楽しむことを安倍信者は「外交の安倍」と評価する。海外でも評価は高い。しかし現実は対米、対ロシア、対韓国、対中国、対北朝鮮...すべて外交で失敗している。ロシアのプーチン大統領とは27回もの会談を重ねお金も貢いだが、2019年版・外交青書では「北方四島帰属」の文言を削除させられた。これはロシアの圧力によるもので「北方四島は返さない」というメッセージだ。27回もの会談は日本をたたき売る旅に終わった。海外の評価が高いのははまさに金を貢ぐ者へのリップサービスだ。海外の首脳たちは安倍氏の退陣を嘆き、銃撃死を悼んだことだろう。

無見識、無知、支離滅裂、嘘つきが安倍氏の最大の強さと著者は書いているが、それをいかんなく発揮したのが集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法だ。正当な手続きで法案を通さず、仲間だけ集めた有識者懇談会の結論を上書きし閣議決定した。「憲法解釈の基本論理は全く変わっていない」、「アメリカの戦争に巻き込まれることは絶対ない」、「自衛隊のリスクが下がる」など子供騙しのデマを流し、法制局長官の首をすげ替え、強行採決した。さすがにこの時は支持率も大きく低下するが、国民は安倍氏より無見識で支離滅裂だった。やがて支持率は回復し次の選挙にも勝ち続けた。

要するにこの時点で日本は法治国家から人治国家へと転落していたのだ。安倍は改憲による一院制の導入も唱えている。この際、右も左も保守も革新も護憲派も改憲派も関係ない。日本人ならタッグを組み、カルトによる危険な改憲を阻止すべきだ。

集団的自衛権の次は憲法改正を窺っている。憲法記念日に開かれた日本会議系の改憲集会に安倍氏はビデオメッセージを送り、「2020年の新憲法施行」への意欲を表明している。それから2年が過ぎており、幸い憲法改正はまだ俎上に乗っていない。日本会議は安倍氏銃撃以来、明るみに出た統一教会や勝共連合と通底するカルトだ。統一教会の教義が新憲法に酷似するという指摘もある。また元祖カルトの創価学会を母体とする公明党と連立する自民党。まさにカルト漬けの政権に国の舵取りを委ねていいのか。カルト同様に国民から重い税金を搾りとり、取り巻きの大企業やお仲間へ手厚くバラまく。福祉目的の消費税がなにに使われているか知っているだろうか。それとも知るのが面倒だろうか。カルト・統一教会の報道が2か月、3か月と続き、「けしからん」と憤慨している人々も来春の統一地方選では「自民党」へ投票することだろう。統一教会とおなじく、自民カルトに洗脳され逃れ得ないのだ。統一教会とともに自民党にも解散命令を出すべきである。

安倍氏の銃撃現場に献花する人々、国葬の日、献花会場へ向かう人々の列は善意の市民と思われる。インタビューを受ける彼らのことばは優しく偽りのないものだ。もし彼らが生活苦や生きづらさを感じているなら、誰によってもたらされたのか思いを巡らすべきだ。銃撃事件は痛ましく、あってはならないことだが、いままでの安倍氏の行いは国民にとって痛ましいものだった。

女優がスポーツを語り、服飾専門家が政治を語るのは、「大衆性」が世に浸透しているからこそ。では、一方の「庶民」とは何か。「庶民」とは日々の生活を大事にし、身の程をわきまえ、己の人生を精いっぱい生きる人々のことです。

社会の気分や空気に流されやすい人たちが「大衆」であり、「庶民」とは一線を画す。選挙のとき改革に抵抗するものを守旧派、抵抗勢力とよび「敵」を作ることで世情に訴える。国民の多くは、「改革を進めると理想社会が到来する」という気分に流された。1994年の小選挙区制が契機となり、ポピュリズムが蔓延り、政治の劣化がすすみ安倍政権という廃墟へ行き着く。安倍氏の数々の悪事は、過去の汚職事件とは決定的に異なる。例えばロッキード事件やリクルート事件などは政治家が逮捕されてから追及が始まった。安倍氏については前代未聞の悪事を働き、件数も疑惑のも多く、証拠もそろい法治国家であれば逮捕の案件が殆どだが、なぜ逃れることができたのか。

頭の弱い「幼児」が「ボク、負けていないもん」と開き直り、周辺のいかがわしいメディアや乞食言論人を使って逃げ切ろうとしてきた。そして嘘に嘘を重ね、それが国民の目の前で次々とばれていった。

著者の指摘では汚職事件というより、オウム真理教事件に近く、国や社会に対する「テロ」だという。国会における野党の追及に対し、資料は出さず、はぐらかし、嘘をつき、揶揄する。安倍カルト信者は版で押したように「時間の無駄遣い」、「他にもっと大事な議論がある」、「野党は不甲斐ない」などと、ひとつ覚えのフレーズで応酬する。醜悪な統一教会の報道が3か月以上も連日繰り広げられている。公明党は口をつぐみひと言も触れず、わかりやすい対応だ。自民党は地方議員までカルト汚染が広がり、支持率も票も激減することだろうと思った。しかし、テレビ、新聞で地方の首長や議員の選挙結果を見ると、自民党系政治家の再選、連覇が伝えられる。国民は「けしからん」と怒りつつ、票は自民党へ入れる。国民も自民カルトにどっぷり浸かり、終わってしまったのか。コロナ、経済、福祉、貧困対策など、野党は不甲斐なく、なんでもかんでも自民党にお願いするしかない。

【追記】《#自民党に投票するからこうなる》ツイッター上で、こんなハッシュタグをつけた投稿が多数おこなわれ、10月に入ってから複数回トレンド入りしている。

前日におこなわれた政府税制調査会で、『消費税の引き上げについて議論すべき』という意見が相次いいだため、不満が噴出したのです。ほかにも、さまざまな負担増について抗議の声が上がっています」

  • 「消費増税」を検討
  • 「国民年金」の納付期間が5年延長
  • 「ガソリン減税」はおこなわず
  • 10月から「雇用保険料」の負担が労働者・事業者それぞれ0.2%値上げ
  • 勤続20年を超えた場合の「退職金」の控除をなくし、一律にすることを検討

「ほかにも政府は、車両の走行・重量・環境に応じて課税する『道路利用税』や、株式の譲渡益や配当から得られた所得に対する『金融所得課税』の見直しなどを検討しています」
10/28 Yahoo!ニュース

 

日本外食全史 阿古真理

半世紀前までは外国の料理を食べたことがなく、外食をしたことのない人が多く、1970年の大阪万博がファーストフードや外国の食べ物に触れるきっかけとなった。少し前、1964年の東京オリンピックの頃は「日本人にパンが作れるのか?」とさえ言われた。

1970年(昭和45)は、「外食元年」と言われる。それはこの年以降、既存のレストランより格安な、チェーンのレストランやファーストフードの店が次々とできて、庶民の外食が日常化していったからだ。そして、国民的外食デビュー体験と言えるイベントが、この年に開かれている。日本万国博覧会(大阪万博)である。

1970年、3/15〜9/13の半年間で来場者数6421万8770人、のべ人数ではあるが、国民の2人に1人が行った計算になる。64年の東京オリンピックから続いた高度成長期も終盤を迎えた頃だ。会場に開かれた食堂は143店、席は1万5114席、売店は267店、どこも大混雑を極め、あふれた人は屋台でホットドッグ、焼きそば、タコ焼などの簡単なものしか食べられなかった。運よく食堂で食べた人のアンケートでは41%がおいしかったと言い、まずいと答えた人は少なかった。初めて食べるホワイトアスパラガス、生パインスティック、キリンレモン、サンドイッチ、セイロンティー、ホットドッグ、フランスパン等々、インド館のカレーの辛さに驚き、イタリア館のピッツア、リゾット、ラザニアを珍しがる。フランス館はフルコース料理を出し、ソ連はボルシチー、パキスタンや香港はブッフェ形式の料理を提供した。万博は食の博覧会の役割も果たし日本人に多様な食文化と外食の楽しみを伝えた。

とりわけ目を引いたのはアメリカン・パークに店を構えた米国の外食店だ。ハワードジョンソンが日本のロイヤルと組んでカフェテリア、ステーキハウス、エスニック料理店を開いた。これに群がる人々を目の当たりにした日本の飲食業界は凄まじいカルチャーショックを受けた。この年以降、日本で外食チェーン店が次々と登場する。1970年すかいらーくが府中市、フォルクスが大阪・中津、KFCが名古屋・名西、1971年マクドナルドが東京・銀座三越、ロイヤルホストが北九州・黒崎、ミスタードーナッツが大阪・箕面、1972年モスバーガーが東京・成増、ロッテリアが東京・日本橋高島屋など、次々に1号店をオープンし外食産業の黎明を告げた。

食材の納入から調理まで一括して行い、冷蔵・冷凍して各店へ運び、店内で解凍して仕上げるセントラルキッチンシステムを導入した。調理は効率化し多店舗展開が可能となり、プロの料理人である必要はなく、人件費も安くなる。

ロイヤルが先鞭をつけた産業化は、外食業界を変えた。「板前を中心とするギルド社会が壊れ始め、単純化、マニュアル化、システム化により、素人でも調理できる」世界になったのだ。

たとえば下積み10年の寿司職人は回転寿司チェーンに席巻され、短期研修を受けた調理員が寿司をにぎる。他の外食産業も事情は変わらず昨日入社の新人でもすぐに戦力になる。こうして1976年には10兆円の市場規模に膨らみ、10年後の1986年には20兆円を突破した。昭和後期に身近になった「外食」は平成で馴染み、違和感のない日常となる。昭和後期に育った現在の40〜50代は、よそ行きを着て、家族で百貨店食堂へ出かけた最後の世代であろう。彼らは「ハレ」の外食と、週末に普段着で出かける「ケ」の外食の両方を知り、長じて外食のトレンドを盛り上げていく。

主としてフランス料理の食べ歩きを楽しむ人たちによるグルメブームが始まったのは、1970年代の終わり頃から。ブームを支えたのは、子どもという世話が焼ける存在なしに外食できる人たちだった。家庭ではお父さん、お母さんをしているかもしれないが、子ども抜きで、あるいは夫や妻も抜きで遊べる人たち。シングルもいただろう。今なら「フ−ディー」と呼ばれるだろう、おいしいものに目がなくそれなりの出費も厭わない層である。

普段着で気楽にいけるファミレスは、週末にお母さんを炊事から解放する家族の風景となった。外食産業によって追われた食堂もあるが、職人料理が復活するかのように輝きだす。「外食の楽しみ」に様々なスタイルが生まれ、小規模の飲食店は専門化し多様化していく。1970〜80年代は高級フランス料理店が次々と開業し、雑誌やテレビがそれを伝えた。80年代終りから90年代になると人気はイタリア料理店へ移っていく。フランス料理店は料金も敷居も高いと思う若者たちの使いやすい店となった。「美味しんぼ」、「Hanako」、「dancyu」、「料理の鉄人」などメディアが80年代のグルメブームを支えたが、1991〜92年のバブル崩壊で経済停滞期に入る。その少し前からエスニック料理というアジア飯の流行が起こり、激辛ブームが時代を風靡した。「辛味」というトレンドの灯火はいまも消えない。

1970〜1980年代は、男女合わせて4分の1程度が4年制大学へ進学し、1990年代半ば以降は3割を超えて上昇していく。若者の4人に1人が大学に通う時代になり、コンパやデートのため、安くて気軽に入れる店を求めた。つまり、女性が抵抗なく入れる居酒屋が必要な時代に入ったのが昭和後期で、そういう変化に対応したのがチェーン店だった。

80年代前半、東京で暮らしたことがある。ひとりで、ときには知人と居酒屋を利用した。当時、国電や私電の駅前に赤い提灯の架かった「養老乃瀧」という居酒屋チェーンがあった。1954年、横浜に1号店を出した日本最初の居酒屋チェーンである。大きめの日本酒徳利が200円台で提供され、かなり飲食しても割り勘で払う額は少なくて済んだ。当時、都会の居酒屋は狭く、小さなテーブルを4〜5人で囲み、相席さえ珍しくなかった。

いまある居酒屋チェーンの原形を確立したのはテンアライドで、1969年、西池袋に「居酒屋天狗」1号店を開いた。明るく清潔な店づくりと、明朗な料金体系、メニューの工夫と快活なサービスを謳う新しいタイプの居酒屋だ。1号店は約50坪、80席、内外装は白木を用いた和風づくり、ひとり客用のカウンター、4〜6人のテーブル、大人数でも利用できる大型テーブルを備えた。チェーン展開のため板前の採用を止め、自前で調理人を育成し、セントラルキッチンを導入した。1986年には居酒屋として初めて株式の店頭公開を果たしている。1980年代は居酒屋チェーンの出店競争が激化し、この頃、低アルコールで安価、女性でも飲みやすい「酎ハイ」が考案された。イッキ!イッキ!のかけ声で飲み干し、急性アルコール中毒で亡くなる若者が相次いだ。

従来の居酒屋は敷居が高く、カウンターには常連客と思しき人がいて、その空気になじめなかった。寡黙な店主であれば陰気になり、饒舌な店主は鬱陶しい、居酒屋チェーンはこれらの不満をすべて払拭するもので、少なくとも私にとっては貴重な存在だ。新型コロナは飲食店を直撃した。いままで外食の楽しみを享受していた人々から、手放しの楽しみを奪った。宅配、テイクアウトなど飲食は人と接したり、集合を避けるスタイルへと変貌する。しかし黙食、孤食を楽しみとするグルメにとっては快適な世相かも知れない。

クライマックスは、五郎が黙々と食べる場面だ。軽快なBGMと五郎の心の声を表す松重豊のナレーションが、食べる幸福を伝える。微笑みながら、あるいは無表情で、背筋を伸ばしてパクパク食べる姿勢が上品だ。このドラマのヒットがきっかけで、いくつも食事がメインのマンガがドラマ化されたが、食欲をそそる力では他の追随を許さない。

和洋中華多国籍、選ぶ店は多彩だが、定食屋や居酒屋など和食が多く、高級店はない。店では必要最低限の会話しか交わさず、独りで食事を楽しむ。ドラマの原作は久住昌行、1994〜1996年に「PANJA」でマンガとして連載された。谷口ジローのマンガが秀逸で想像力を掻き立てる。それから18年後の2012年にテレビドラマとして放送が始まり、2022年、シーズン10まで回を重ねた。五郎が酒を嗜まない設定がドラマの品格を高めている。

大勢は美食を楽しむ方向にあるが、料理研究家の土井善治の著作に「一汁一菜でよいという提案」がある。外食は「ハレの食」で三食はおろか二食続けば飽きてくる。毎日食べても飽きないのが「ケの食」だ。食は楽しみとともに命を繋ぐ大切なものであり、伝統的に受け継いできたものが一汁一菜だ。毎日三食続けたとしても元気で健康でいられ、手間も費用も少なくて済む。主食のご飯は活動のためのエネルギーとなり、汁にたくさんの具を入れると多種の栄養素が摂れ、味噌汁と漬物という発酵食品で腸内環境をを健やかに保つ。外食の反証として記憶に留めておきたい知恵だ。メディアは数々の料理やグルメの特集を組み食は楽しみからエンターテインメントに昇りつめた。とりわけ、大食い、早食い、激辛食い、罰食いの番組は見るもおぞましい。こういった風潮の陰で子ども食堂の存在がある。

東日本大震災をきっかけに、助け合いの大切さを実感する人がふえ、担い手のすそ野が広がっていることも、子ども食堂の拡大につながった。食事を提供する場所は、人との触れ合いの場所であって、そこから何かが生まれることもある。何より、食べて命をつなぐ場所である。

2009年、当時民主党の長妻厚生労働大臣が日本の貧困率が15.6%であることを公表し、貧困者の改善に取り組むことを宣言した。これがきっかけで、2012年、東京・大田区に子どもが格安または無料で食べられる「子ども食堂」が最初にできた。この動きはあっというまに全国に広がり、2019年には全国に3718カ所、年間利用者数は延べ160万人にのぼった。その国の文化水準、生活水準と比べ困窮した状態を相対貧困といい、テレビ、携帯電話など必需品は持っていても食事が満足に摂れない子どもが6〜7人に1人いる。1970年、外食、グルメブームのスタート時には戦後の飢餓が解消され、ほとんどの国民が家庭で飢えることなく食べられた。この半世紀で日本は本当に豊かで幸福になれたのだろうか。

 

指揮権発動 -検察の正義は失われた- 小川敏夫

国の機関は選挙という民主的基盤を持つ議員と、基盤をもたない役人で構成され、議員は国民に選ばれるがために数々の特権を与えられる。指揮権とは個々の具体的事件の取り調べや処分について、民主的基盤を持つ法務大臣が検事総長に対して命令し従わせる権限をいう。民主的基盤を持たない検察官の暴走を防ぐためのチェックと牽制が指揮権発動である。自衛隊で例えるなら制服組に対し背広組を優位としたシビリアンコントロールに似ている。大臣を任命・罷免できる内閣総理大臣はさらに絶大な権限を持ち、選出を間違えると国がたちまち独裁国家同然になることはすでに見ての通りだ。知恵を結集し再発防止策を講じるべきかと思う。

著者は民主党政権時代の法務大臣で、かつて検察庁の検事を務めた。10年前に出版された本で事件の発端は小沢一郎氏の陸山会事件だ。小沢氏の資金管理団体「陸山会」が世田谷区の土地を3億5000万円で購入、この事実を04年分の政治資金収支報告書に記載しなかった。単なる期日ズレを針小棒大に騒ぎたて、西松建設の違法献金事件と絡め、小沢氏の秘書であった大久保氏や石川氏を逮捕した。期日ズレについては記載日か登記日かというだけで何ら問題はなく、修正さえ可能なのものだった。秘書逮捕から2か月後の2009年、5月11日、小沢氏は党のイメージダウンを心配し、民主党代表の辞任を表明した。裁判の結果は無罪、検察審査会による強制起訴という執拗な攻撃が2012年4月まで続いた。その2か月後、小沢氏は民主党に離党届を提出し、5か月後には指定弁護士が上訴を断念し、小沢氏の無罪は確定した。

当時も言われていたが、振り返ると次期総理が確実視されていた小沢氏が民主党代表を退いた時点で黒幕たちの思惑は成功したと言えよう。西松建設の違法献金については偽装までした自民党議員の名も挙がったが、口を拭って終わりだ。東京地検特捜部とは戦前の特高と変わらず、権力側の番犬だ。モリカケサクラを始めとし、明々白々な証拠が揃った元首相の不正を山ほど見逃し、守り通した。

ICレコーダなどで会話や電話の内容を録音し書き起こしたものは「反訳書」といい、裁判の証拠として認められる。本書の半分は石川知裕氏の取り調べ反訳書に割かれ、生々しい会話の流れが記されている。硬軟織り交ぜ、雑談よろしく、特捜はシナリオに沿って虚偽の物語を創作していく。こうして無実の罪を着せられたのが厚労省の村木厚子事件だ。特捜は権力で人を蹂躙し、有能な政治家を失脚させ、悪辣な政治家の汚職を見逃す。

指揮権の発動については、公正であるべき捜査を政治が介入して歪めてはならないという見地から努めて抑制すべしとするなど様々な見解があるが、検事が虚偽の捜査資料を捏造するような検察内部の事件について検察が消極的対応に終始し、このような対応が検察に対する信頼回復を願う国民の期待に背くような場合、国民の声を代表する法務大臣は、検察の信頼を回復するために指揮権を発動して適正な対応をするよう検察に求めることが真の職責であると判断し、本日、指揮権を発動しました。

2012年6月5日、指揮権発動のため準備された文書だ。「指揮権」発動の前日、当時の総理大臣、野田氏に伝えたところ、逆に法務大臣を解任され発動に至らず、幻の文書となった。野田氏も小沢氏を失脚させたい黒幕の一味か、もしくは小沢封じで利を得る人物だった疑いが残る。退任の記者会見で小川氏が「指揮権の発動を決意したが、総理の了承を得られなかった」と吐露すると、場の空気は一変し法務省の職員は慌て、記者の表情に緊張がみなぎった。故意に虚偽の捜査報告書が作成されたことは現物を見れば明らかであることを語り、法務省を去った。

検察当局はすぐに小川氏への反撃を始めた。虚偽捜査報告書の問題が大きくなならいように、それには一切触れず、官邸も含めた官僚組織の総力をあげ、マスコミへ働きかけた。従順な記者だけに情報を提供し、異論を唱える記者は排除する。アメとムチで飼いならされたマスコミは一斉に小川氏の指揮権発動の誤りを報道した。「慎重さ欠く指揮権発言」、「指揮権発動発言、あまりに軽すぎる」、「法相の指揮権、見識欠く危うい発言だ」、と切り捨て、以後一切の報道を止めた。ほとんどの国民は事の真相どころが出来事さえ知らないままだ。マスコミもまた黒幕の一味か鼻薬をきかされた受益者である。もともと根無し草のマスコミが正義を貫くことに期待はできない。当時の民主党は小沢氏も小川氏も守るどころか放逐を選んだ。褒めるわけではないが、権益をわきまえた自民党は民主党のように仲間を背後から撃つようなことはしない。モグラ叩きのように湧き出る不正や疑惑にはマスコミを懐柔し沈黙させ、特捜の捜索は権力でつぶす。

翌々日の1月7日、反訳書の現物が提出された。検察は驚いたであろう。反訳書によって明らかになった実際の取り調べの状況が、捜査報告書に記載されている内容とまったく違うからだ。

2011年1月5日、虚偽捜査報告書が表面化した。東京地検特捜部が石川知裕氏を取り調べた際の状況を石川氏が「隠し録音」していたことが明らかになる。しかし、法務検察当局は、「記載の齟齬は取り調べ検事の記憶の混同から生じたもので犯罪性はない」と判断し、捏造の関係者を懲戒処分として処理した。この処理は部内処理として当時公表はされていない。虚偽捜査報告書は、「誰が読んでもすぐに虚偽だと断言できる代物であった」と小川氏は言う。

強力な捜査権限を有する検察が、人を逮捕し、捜索し、有罪立証する捜査資料を捏造することになれば、人は何の理由もないのに逮捕され、捜索され、裁判にかけられ、有罪に陥れられることになる。

警察でも、検察でも、嘘の証拠を作り始めたら、誰に対しても自由に捜索し、逮捕することができるのだ。ある日突然、強制捜査を受けて社会的信用を奪われ捏造された証拠によって有罪にされるかも知れないのである。

彼らにとっては標的が無実であっても一向にかまわないのだ。マスコミをそそのかし騒ぎ立てるだけで国民は祭りの輪に入り、訳もわからず「けしからん」と口々に囃し立て断罪する。いわゆる人物破壊工作だ。地検特捜部だけでなく法務省、総理大臣、マスコミなど多数を巻き込む黒幕に戦慄を禁じ得ない。そして、検察や警察が一般の国民へ権力の刃を向けた時、個人にいったいどんな抵抗ができるというのだ。

指揮権発動がされたのは過去に一回だけあった。1954年の造船疑獄事件で、当時の自由党幹事長・佐藤栄作に対する逮捕状請求を無期限に延期するように、犬養健法務大臣が検事総長へ指示した。犬養法相は翌日大臣を辞任するが、政権が政治家への捜査をつぶしたと見られ、指揮権の行使は控えるべきだという空気が生まれた。

民主主義の下で、国民の声を代表する法務大臣が検察の誤りを正すために指揮することは当然のことであり、法務大臣は、国民の代表の立場から指揮すべき事件は、指揮する職責があるというべきである。

政治家は検察と向き合い国民の正当な声を伝えなくてはならない。長く続く自公政権が培ってきたものは国民を無視して自分たちの利権を守ることではないか。人事を振りかざし、介入し、汚職や不正を働く政治家を守り、捜索や起訴をつぶした。検察は元総理の疑惑や証拠の揃った犯罪になに一つ手を出さなかった。自民党は元総理の陶燻を受け、嘘をついて悪びれない議員が蔓延し、居座り続ける。退場させるには国民が選挙で鉄槌を下すほかない。しかし、多くの国民は選挙の意義を軽視し、地方議員に至るまで与党に投票する。腐敗した政権を支持する者は独裁国家の民と変わらない。

 

「副作用」ゼロの真実 近藤 誠

新型コロナワクチンは日本で2億7000万本以上(2022年4月時点)打たれ、副作用死は1例もないことになっている。なかったわけではなく、ワクチンの副作用を検討する厚労省の審議会が「ワクチンと死亡の因果関係」を認めないからだ。接種した医師の側からは「副作用死と考える」、「副作用死を疑う」のケースが厚労省へ1600件以上も報告されている。超過死亡とは、「過去の日本のデータから予測された死亡数」と「実際の死亡数」との差が多いものをいう。仔細は省くがワクチン接種が始まった2021年2月から超過死亡が観察され、2回目のワクチン接種がほぼ終了した11月まで超過死亡が続く。

超過死亡の発生期間とワクチン接種時期とが一致しており、他に原因も見当たらないので、超過死亡のほとんど(最大5万人)は、ワクチンの副作用死と推察されます。

2021年末までのコロナ死は約1万8000人なので、約3倍の人がワクチンで命を落としたことになる。ワクチン接種は基礎疾患のある高齢者から始まったが、免疫力の落ちた高齢者ほどワクチン死が増える。注射後数分から数十分で突然意識を失い心臓が止まるのをアナフィラキシーショックと言う。免疫細胞からサイトカインが多量に分泌されて起こるが、適切な対応をとれば救命できる。血小板減少を伴う死亡は、血小板を破壊する抗体と集合させるる抗体が生じることで、血小板が減少し脳出血を起こす。死亡原因のもっとも多いのはワクチンが作り出す「スパイク蛋白」による免疫反応だ。スパイク蛋白をを作り出すナノ粒子が全身を巡ると、ヒトの免疫細胞である「T細胞」はスパイク蛋白が入った内皮細胞を攻撃する。そのとき生じた傷を修復するため血小板が集まり凝固して血栓を形成する。心筋梗塞、脳梗塞、肺梗塞、下肢の静脈血栓などが生じ死亡を引き起こす。このようなリスクを上回るほどワクチンは効かない。接種が進んでも感染者数は減らず、死者も続く。

ワクチン接種はコロナ対策の根幹とされ、日本人の8割が2回の接種を終え、65歳以上の高齢者は92%まで接種が進んだ。これでよしと思っていると3回目の接種が始まり、高齢者の接種率は84%まで達するが、若い世代では全人口の50%止まりだ。この状況で4回目の接種が始まり、5回、6回と続くかも知れず、噂では7回目までワクチンを確保しているという。ワクチンの副作用は先に触れたが、効果は頼りない。医学的には第三相試験のデータがいちばん信頼される。ファイザーのワクチンは第三相試験で「有効率95%」と報告され、2022年は、全世界で11兆円を超える売り上げを記録した。有効率95%というのは初めに数字ありきのトリックで、被験者100人を想定すると未接種群で1人発症するが、接種群ではほぼゼロという程度。言い方を変えればワクチンを100人に接種して1人効くかどうか。治験におけるコロナ感染の判定は不確かなPCR検査であるため、実際に感染したか否かは不明だ。

コロナ死も含めて、プラセボ群の総死亡数が「14人」。対するワクチン群は「15人」。死因の内訳で目立つのが、接種群で「(突然の)心停止が増えていることです。プラセボ群の心停止が「1人」だけなのに、ワクチン群では「4人」もいます。

製薬会社にとって不利益な内容の報告で、それが反って論文の信頼性を高めている。コロナウイルスのようにRNA(リボ核酸)でできている遺伝子は変異しやすく、新たな変異株による流行が次々と生じる。製薬会社はワクチンを変異株に合わせて作り変えることはしていない。製薬会社もRNAウイルスの感染を防げないことはよく知っており、それでも競ってワクチンを開発したのは、「ビジネスチャンスを逃すな!」ということだ。恐怖を煽り、捏造まがいの有効性を示すことで、万人への販売が可能になる。

2021年9月、イギリス・ロンドン大学で人を対象とした「新型コロナウイルスの接種実験」が行われた。被験者の同意を得て慎重な計画のもと実施されている。18〜29歳の男女36人に野生型(武漢株)の新型コロナウイルスを接種した。感染させるに十分なウイルス量の10倍を鼻内に投与したところ、36人中すでに2人が新型コロナウイルスに感染していたことが判明し除外。残りの被験者34人中、18人(53%)が接種後5日目にかけて鼻内のウイルス量が急増し感染を判定した。感染した18人中、16人(89%)が接種後2〜4日目に鼻水、頭痛、のどの痛みなどがあり、いずれも軽度〜中等度、残り2人は無症状だった。10倍量のウイルスでも約半数の被験者に感染が成立しなかった。著者は新型コロナは基本的に「普通の風邪」だという。

新型コロナでは、虚弱高齢者が多数、死亡しているわけですが、従来はどうだったのか。これまでだって虚弱高齢者は、「ただの風邪」をきっかけに肺炎を起こし、よく亡くなっていました。それがコロナに代わっただけではないか。

「新型コロナで死にやすそうな人は、ワクチンでも死にやすいから、ワクチンはやめたほうがいい」

ワクチンの効果に比し、重い副作用や危険性を考えると、ワクチン接種で新型コロナと二重のリスクを抱え込むことになる。新型コロナで死ぬ覚悟を決めれば、敢えてワクチンのリスクまで負う必要はない。100歳以上で亡くなった「百寿者」42人を解剖すると、敗血症16人、肺炎14人、窒息4人、心不全4人、脳血管障害2人、栄養失調2人で、老衰死の3/4は敗血症・肺炎といった感染症が原因だ。いまは死者にPCR検査をして陽性と出たら、死亡原因がなんであれ「コロナ死」と判定される。

人口100万人あたりのコロナによる死者数は、イギリスとアメリカがそれぞれ1900人強であるのに対し、日本は129人でした。

オミクロン株は弱毒性なので、それ以前の死者数だ。日本の死者が欧米よりひとケタ少ない。ノーベル賞の山中教授は「日本人には死亡率を低下させるファクターXがある」と言ったが、まだ見つかっていない。著者が言うには、「日本はもともと平均寿命が世界一で健康度も高く、日本人を基準とし、欧米人の死亡率が高くなる『ファクターZ』を探すほうが妥当ではないか」。それらしきものが見つかった。イギリスのコロナ死亡統計で標準体重の人たちに比べ、ビア樽型肥満者の死亡率が高く、体重が増えるにつれて死亡率が右肩あがりで上昇することが分かった。日本のビア樽型肥満は人口の4%だが、イギリスでは26%、アメリカでは40%になる。

近年の研究で、人の体に備わる「脂肪」は、種々の物質の「代謝」にかかわる「一種の臓器」のようなものだと考えられるにいたっています。肥満者では、代謝と内分泌の機能が障害され、全身の脂肪組織が「軽度の炎症」状態におかれることになる。この変化が、糖尿病、喘息、種々のがんなどの頻度を上げているというのです。

注意すべきは基礎疾患が新型コロナを悪化させるのではなく、処方されているクスリが原因で悪化させる可能性が高い。利尿剤、抗凝固剤(血液サラサラ薬)、抗うつ剤、解熱剤、コレステロール低下薬、降圧剤、血糖降下剤など。高血圧、糖尿病、高コレステロール血症は一般にクスリで数値を下げると「総死亡率が高くなる」ことがわかっている。

新型コロナも、いずれ「普通の風邪」になるのではないか。否、すでに「普通の風邪」になっている可能性が高い。

SARSやMERSが登場し小規模な流行後、まもなく消えたのは症状が重く死亡率も高かったからだ。重症で感染者が入院又は死亡すると、ウイルスは他人に感染する機会を逃す。また症状が顕著であれば感染者を厳重に隔離ができる。ウイルスが人間社会で生き残るには重症度を下げ感染力を高めることが理に叶うし、そのように推移しているように思う。コロナがニッチを求めているなら、人類はこれからコロナと共存していく必要がある。コロナは空気感染(エアロゾル)だからマスク、手洗いはムダで換気こそ重要だという。異論はないが、マスクが必要な場面はいくらでもある。コロナ以前は食堂や居酒屋の料理人は飛沫をまき散らしながら調理をした。私たちは飛沫の降り注いだ料理を「絶品・濃厚・ジューシ..」などと愛でて食べた。飛沫を飛ばして会話や飲食を楽しむ、「口角泡を飛ばす」ともいう。勢い余って唾や食い滓が顔や料理や飲み物に降りそそぐ、そんな食事会や宴会には二度と出たくない。

日本では2度目のワクチン接種を終えた後に、コロナ感染者が増え、ワクチンを打つ回数が増えるほど感染しやすくなる。それでも国はテレビ・新聞を使ってワクチン宣伝に余念がない。「和を以て貴しとなす」というのか、大勢の流れに身を任せ、無難かつ安心な道を歩く。テレビ・新聞は国の方針に一斉右習いだが、週刊誌や本やネットを開くと、別の専門家がワクチンは有害無益であることを指摘している。マスク、手洗い、密の回避、ワクチン接種を対策の柱としてここまで来た。新型コロナの感染者数のグラフを見ていると、対策とは無関係にコロナ自身の都合で波を形成しているようにも見える。

【追記】先月下旬、国は最初のワクチン死を認定した。副作用ゼロの砦を死守するも、あえなく陥落する。よくぞいままで知らぬ存ぜぬを通したものだ。いままで認定されなかった死者やそのご家族は痛恨の極みであろう。薬害事件の始まりにもなりかねない。クスリはリスクと肝に銘じて利用すべきところ、テレビや新聞に出る専門家はほぼアテにならず、正しくリスクを伝えたのは週刊誌、本、ネットで発信する専門家だった。

新型コロナワクチンの接種後に亡くなった91歳の女性について、厚生労働省の審査会は25日、ワクチン接種との因果関係を認定しました。コロナワクチン接種後の死亡で一時金の支給となるのは初めてです。厚労省の疾病・障害認定審査会は25日、新型コロナワクチンを接種後に急性アレルギー反応と急性心筋梗塞で亡くなった91歳の女性について、因果関係を認定しました。新型コロナワクチンの接種後の死亡で因果関係が認定されたのは初めてです。女性には脳虚血発作、高血圧症、心肥大の基礎疾患があったということです。女性が接種したワクチンのメーカー名や何回目の接種かなどの詳細は明らかにしていません。新型コロナワクチン接種後の死亡についてはこれまで12件が審査されて11件が保留となり、認定されて死亡一時金などが支給されるのは初めてとなります。(7/25 Yahoo!ニュース)

【訃報】がん医療 独自の主張でベストセラー 医師の近藤誠さん死去
独自の主張でがん医療の在り方に一石を投じた医師の近藤誠さんが13日に亡くなりました。73歳でした。近藤さんは1948年に東京都で生まれ、慶応大学医学部を卒業後、慶応大学病院でがんの放射線治療を行い、乳がんの治療で乳房全体を手術で切除することが多かった1980年代に、乳房を温存する治療法を提唱しました。その後1996年に出版された著書『患者よ、がんと闘うな』はベストセラーになり、独自の主張でがん医療の在り方に一石を投じることとなりました。一方で、近藤さんの抗がん剤治療などに対するスタンスには、がんの専門医から科学的な根拠に基づいていないなどという批判が多く出されていました。関係者によりますと、近藤さんは13日、出勤途中に突然体調を崩し、搬送された都内の病院で虚血性心不全のため、亡くなったということです。
(2022/8.14 NHK webニュース)

つくづく思うのは、人の免疫システムって素晴らしい、ということ。新型コロナのような、未体験の病原体に対しても抵抗力を発揮してくれるので、人は心おきなく活動できます。もし免疫システムに瑕疵があったら、この歳まで生きられなかったことは確実です。そんな素晴らしい免疫システムを持っているのに、人びとは、どうして自分の体を信じることができないのか。それどころかワクチンという「劇薬」に頼ろうとする。それによって免疫システムを混乱させ、死者を増やしているのだから、本末転倒です。

人間にとって、消極的な、逃げ隠れする人生はダメ。もっと楽しい人生を送らなければ。今日という日を充実させて生きることが大事です。万一免疫が働かなくなったら、それは寿命がきた、ということ。新型コロナに感染したっていいじゃないか。もしそれで死ぬようなら、もともとお迎えが近かったということ。それは僕の運命でしょう。いさぎよく甘受するつもりです。(終章・結語)

 

大人のいじめ 板倉昇平

子供の虐待については警察の他、法務省の子どもの人権110番や厚生労働省の児童相談所へ通報するよう啓蒙がなされる。未熟で力も弱く一人では生きられない子供へ、親による虐待や暴力が加えられるのは耐えがたい。目を閉じ耳を塞ぎ、ないものと思いたい。一方、大人のいじめや虐待については力も能力も対等、もしくは勝っていても何故逃げられないのかと思っていた。

2019年、神戸の市立小学校の事件は大人のいじめがクローズアップされる契機となった。20代の男性教諭を主たる標的にし、同僚の教諭4名が激辛カレーを無理やり食べさせ、羽交い絞めにし唇や目の下にまで塗りつけた。後に行われた調査委員会によると他にも125に及ぶ多様ないじめが確認された。

校内の物置小屋に閉じ込める・プロレスの技をかける・鞄に空き瓶や氷を入れる・プール清掃時に石を投げつけたり、バケツで泥水をかける・髪の毛や服をボンドで固める・児童の前で拳で肩を殴り、尻を蹴り上げ腹を殴る・・・こんなことが125も確認され、浴びせる暴言もすさまじい「カス、クズ、消えろ、死ね、キモイ、使えん、ダボ、うんこ、はげ..」、およそ人が人に対していうコトバではない。子供を教え導くべき教師がなぜ?と思うとともに、加害者をたしなめ、被害者を助ける教師はいなかったのか。

職場に長時間労働や過重な労働があり、それに対応する適切な人員が確保されていなかった。これが、いじめを止められないばかりか、いじめを生み出す構造を作り出していたのではないか、という指摘だ。そして、この構造が、この学校だけでなく、日本全体に共通する職場いじめの背景としてあるのではないだろうか。

職場のいじめで精神障害を発症した件数が、この11年で10倍に増え、命を絶つ人もいる。そうなる前に誰かに助けを求めるか、逃げ出すことはできなかったのか?と誰しも考えるが、他人ごとではない。労働相談件数の一位はいじめ・嫌がらせに関するものでいつでもどこでも起る。そして約5割の会社がいじめを放置するという。トヨタ、三菱など大企業での相次ぐ自殺が大きく報じられた。一例をあげると、三菱で起きた新入社員の自殺は、配属先の教育指導者からのいじめによるものだった。「次、同じ質問して答えられんかったら殺すからな」、「お前が飛び降りるのにちょうどいい窓があるで、死んどいた方がいいんちゃう?」、息子や娘がこのような扱いを受けたなら、私はこの教育指導者を殺す。ことばだけでなく、暴力もある。鉄パイプで殴る、足で蹴る、クレーンで吊るす。人はどこまで残酷になれるかの見本市だ。自殺や精神障害に追い込んだ加害者の言い訳は至ってあっさり、屈託がない。それどころか、加害者も被害者であることやあったことがある。人たるもの人間関係や職場環境によって神にも悪魔にもなる。

ここで、疑問がわいてくる。ハラスメントの「放置」は、企業の対策の「不足」や「失敗」によるものなのだろうか。実は「不足」や「失敗」ではなく、むしろ職場いじめがくりかえされる状態のほうが、会社にとって何らかの理由で「合理的」なのではないか。

2021年の厚労省、「職場のハラスメント実態調査」によればパワハラを知ったあとの勤務先の対応は「特になにもしなかった」が47.1%で、ほぼ5割が放置している。なぜなのか著者は3つの仮説をあげる。

  • 厳しい労働環境で働かせ続けるために「いじめ」を容認する。
  • 上司はもちろん、一般労働者である同僚までも「自発的」にいじめを行うことが根付いてしまった。
  • 労務管理のシステムとして「いじめ」が機能する。

組織を維持するため人の心や命を犠牲にするなど許されない、というのは正論だが、いじめを放置する企業側の理由を知らずして解決の糸口は見えない。まずは解決にかかるコストの問題がある。会社として職場のいじめに丁寧に対応すると調査や被害者への謝罪、補償など手間と費用がかり、放置するほうが面倒がない。しかしこれは短期的なもので、放置するほうが結果的によりコストがかかり、企業の評価も低下する。過酷な労働環境は働く人の意識に大きな影響を及ぼす。人員不足による膨大な仕事、低賃金などの劣悪な環境でストレスを抱えた社員が、いじめの加害者となっていく。いじめが「ガス抜き」の役割を果たすため、会社はいじめを見て見ぬふりをする。周囲の同僚は傍観し加害者側に加わることでストレスを発散する。

会社からすれば、いじめのおかげで、社員から不満の矛先を向けられる恐れが減る。加害者が自分の職場ストレスを発散するために無自覚に行っていたいじめが、会社にとっては、過酷な職場の「統治」に役立っていたというわけだ。

近年の職場いじめのケースの多くに見られる傾向で、過酷な扱いを受けることで被害者は心神を喪失し「思考停止」に陥り、職場環境への疑いを失くし黙々と働くようになる。いじめがの報告が最も多いのが医療・福祉・保育の職場である。これらの職場は利用者へのいじめや虐待もあり、いちがいに加害者だけを責められない事情もある。不満やストレスの発散が「ガス抜き」として横行するのは多くの職場に共通するが、サービスの品質を維持するためにも起こる。新入社員が理想の介護や保育を実践すると、現場を引っ掻き回す「厄介者」となり、現状を守るための排除にかかる。施設は利益を優先し、従順な職員に育てるため「いじめ」を利用する。いじめで排除したり、いじめを他の職員に見せつけることで「反面教師」として、ルールを暗黙のうちに自覚させる。

保育・介護職場のいじめの多くは、職員の間のコミニュケーションの問題が本質ではない。福祉がビジネスの手段に成り下がってしまったことと、利潤を第一に考える経営者の方針に「適合」するように、職員の思考や働き方、人間関係が変容させられた結果として、いじめが蔓延しているのだ。

「経営服従型いじめ」と言い、経営の論理に従順でないと見なされた労働者を「いじめてもよい」、「人として扱わなくてよい」と標的にし、他の労働者たちは「反面教師」を通して自分が会社に有益な存在だと思う。この手の「いじめ」は80年代から90年代にかけ本格化し、日本の産業構造と企業の労務管理の変容が一因となっている。製造業の大量生産・大量消費という経済成長が行き詰まり、外食や小売チェーン、ITなどのサービス業が台頭してきた。介護・保育や公共のサービスも規制緩和で企業が利益を求めて参入すると、従来の日本型雇用である「年功賃金」、「終身雇用」の必要がなくなった。労働者を「できるだけ安く、長く」働かせるため、入社まもなくから長時間労働を強い、ついていけない者を早期に選別する。生き延びた労働者も、心身の限界まで働かせ「消耗品」のごとく使い捨てる。

日本の産業や社会構造を変えることも必要だが、もう後戻りはできない。規制を設けて法で守る対策もしばしば議論されるが、大企業に有利な法案を次々と通したのは他ならぬ与党の政治家たちだ。彼らの支持層は皮肉にも被害者と一致する。危機や事件が起こると正義のナタを振りかざし、切りつける先は国民だ。先月の13日、刑法の侮辱罪が厳罰化され、懲役や罰金刑の対象となった。このおかげで政府や政治家は、国民の批判を委縮させるツールを手に入れた。「いじめ」を見せしめに企業を守る経営者と変わらない。政治家に任せると国民のためとうそぶき、自分たちの住みやすい環境を築き利権を温存する。

学校で起きる子ども同士のいじめの対策には、直接の「加害者」や「被害者」のほかに、「傍観者」の役割が重要だという。そのいじめを知った傍観者が仲裁したり、外部に通報したりすることで、いじめの回避や早期発見、問題化につながるというものだ。大人のいじめにおいては、この「傍観者」の役割を果たすのが、広義の「仲間」といえるのではないだろうか。

様々ないじめの相談を受け対処してきた著者の提言は至って常識的だ。わかってはいるがいうほど簡単ではない。警察や相談所へ駈け込んでも、そこでの対応が適切に行われず命を落とした人もいる。しかし、現場で対処を続ける著者のことばは重い。対処ではなく、「闘いだ」と結ばれている。私は一人薬屋でいじめに疎く、「なぜ逃げられないのか」と考えたが、自分や家族の生活をかけ、自己のアイデンティティを取り戻す「闘い」でもある。

 

「廃炉」という幻想 吉野 実

復興五輪が終わればあたかも復興を成し遂げ、震災も原発事故も忘れ去る。今はコロナとウクライナでそれどころではない。これらもやがて色あせていく。ヒトの記憶の属性たるや仕方のないことだ。しかし、問題意識の鮮明さゆえ、記憶を生き生きと維持し続ける人もいる。著者は民放テレビの記者として発生初日から現在まで、一貫して福島第一原発の取材を続けている。原発推進にも反対のいずれにも与しないとの断りを入れ、話はすすむ。

これまでの10年間で、燃料プールに残っていた4号機、3号機の使用済み核燃料を取り出したが、1、2号機からの取り出しは未着手である。高い放射性物質であるデブリ取り出しについては、これまで、わずかなサンプルの取り出しもできず、技術的には全く見通しが立っていない。

880トンとも推測されるデブリのわずかさえ取り出せていないのに、大量のデブリを取り出せる保証はない。政府と東電は廃炉まで30〜40年かかると言うが、すでに事故から10年が経っているのにこのありさまだ。仮に取り出したとしてデブリや原発解体に伴って発生する膨大な廃棄物を安全に保管する場所がない。福島県は県外への持ち出しを求めているが、最終処分場はどこにも存在しない。廃炉を阻む最大の障壁は高い放射線量である。10年前に比べると作業環境は改善され、96%のエリアで普通の作業服に不織布マスクでの作業が可能だ。しかし、1号機から4号機の建屋内とその周辺の線量は非常に高く、格納容器内部や容器の真上は致死的レベルの線量である。原子炉内は高い放射線のため遠隔操作のロボットさえ機能しない。誰も近づけないのでデブリの取り出しから原子炉の解体、建屋と関連施設の解体は現在の科学技術レベルではほぼ不可能だ。

取り出し開始は、当初より10年遅れの2027年、もしくは2028年度着手予定になるとしている。使用済燃料の取り出しだけでも少なくとも10年遅れているのに、今後、最大で「30年以内に廃炉を完了する」とする政府と東電。このことだけでも、廃炉工程表がいかに根拠のないものであるかわかると思う。

原子力村の隠蔽体質は改まることなく続く。事故直後は、「メルトダウンを起こしているという証拠はない」といい続け、2か月近く事実を認めなかった。メルトダウンの定義を尋ねても「メルトダウンを定義するマニュアルは存在しない」と説明した。これは真っ赤なウソで、5年後に「じつはマニュアルありました」と自ら認めた。今更ではないが、なににつけ無責任、いい加減で嘘はつくし隠蔽もする。

東電のやることは、この手のことが本当に多い。しかも、何度聞いてもきちんと回答せず、のらりくらりとはぐらかす姿勢が散見される。その日の会見で話すことの範囲が事前に決められていて、アドリブでの回答などはほとんど期待できない。

著者はこういった会見を足かけ10年以上見てきて「事故当時よりかは少しはマシになったが、あまり成長の跡は見られない」と言う。現場での作業は圧倒的多数の協力企業と呼ばれる二次請け、三次請け、四次請けの人々が行い、机上で計画を作る東電や経産省が最前線に来ることはない。彼らの空理空論のため、作業者は日々、被曝や様々な労災リスクを負わされる。

年間被曝限度は1ミリシーベルト以下とされているが、空間線量が毎時80ミリシーベルトでは、わずかな時間で3〜4ミリシーベルトを浴びてしまう。2号機格納容器の内部は、これまで最大で43シーベルトを計測した。ミリではない、ミリに換算すると43000ミリシーベルトという桁違いの線量だ。技術者の中には人が近づけないなら「全部遠隔操作でやる」という者もいるが、遠隔操作のロボットでさえものの3mも進まないうちに堆積物に乗り上げ動かなかった。

科学的、技術的に「不可能なことを求め、求められている」ということについて、経産省や廃炉機構はもちろんだが、筆者は特に「デブリを取り出せ」と主張する知事以下の福島の方々にも聞いてみたい。このような、およそ人命と健康を守れないような作業を強いてまで、本当にデブリの取り出しを望むのだろうか。感情論では済まされない、人命がかかるかも知れない話なのである。

著者は原発推進にも反対にも与しないとの断りを入れている。反原発派の舌鋒はすさまじく、嘘や隠蔽を繰り返し安全管理を怠った責任のすべては政府と東電にある。「腹を切ってでも詫びよ」と迫る人も少なからずいる。しかし、現場は嘘や隠蔽とは無縁の人々が命と危険にさらされている。東電はデブリを取り出すため現場で働く作業者の健康と命を守り切る覚悟があるのか。「ある、というのなら自ら防護服を着て最前線に立て」と著者は言う。使用済核燃料の表面線量は数万〜10万シーベルトで近づくと即死するが、キャニスタに封入されているため遠隔操作で別の保管場所へ移せる。しかし、デブリは違う。溶け落ちて固い部分と柔らかい部分が大小混在し、形状も重さも異なる。これを仮に削り取ったとしても、安全に炉外へ出すのは桁違いのリスクだ。東電のサイトを見ると、あたかもヘドロでも掻き出すかのような安易な記述である。

差し迫っているのは、来春から始まる汚染水の放出である。福一原発の敷地に並ぶ1000基のタンクには汚染水を処理した水、約129万トンがあり、約860兆ベクレルのトリチウムや他にもセシウム、ストロンチウム、ヨウ素129、プルトニウム、カドミウム等が大量に含まれている。これを海水で薄め、約32年かけて少しづつ日常的に放出するという。地元福島県漁連は強く反対し、福島県の自治体や市民からも反対や懸念の声があがり、国内はもとより中国、韓国、台湾、オーストラリア、アメリカ等の市民からも批判と憂慮が表明されている。10年以上も現場で取材を続けてきた著者の話は驚きを超えて夢物語だ。

129万トンに含まれるトリチウム水の量は、わずか17ミリリットル(17g)程度である。試験管1本にも満たない量だ(処理水の中では水分子の一部となって存在するため、「トリチウム水」と呼ばれる)。そして今のところ分離する技術はない。

研究室レベルで「分離できる」と主張する者もいるが、129万トンの水からわずか17gのトリチウム水を分離することについて、具体的な方法を提示した例は聞いたことがない。

2021/4/1、東電の発表でもトリチウム水換算で約15gとあるが、放射線量は約780兆ベクレルになる。従来からトリチウム水は、世界各国が定めた放出基準以下の濃度に希釈して海洋放出されており、「健康と環境への影響は、過去、世界のどこからも報告はない」と著者は言う。さらに、科学的・合理的に考えても「海洋放出一択」である。処理水が片付かないと廃炉もできないのに経産省や自民党政権はこの問題から逃げに逃げ、結論を先送りしてきた。処理水について、2013年12月という早い時期に検討会がスタートしたが、2021年4月の関係閣僚会議でようやく了承され、処理水は海水で1リットルあたり1500ベクレル以下に希釈され、沖合1キロの海底から放出することになった。

人の健康への影響、環境への悪影響は、世界的にも報告例がない。

日本のみならず世界の原発、核関連施設から、トリチウムは放出されており、半世紀以上にわたって異常は報告されていない。結局のところ、科学的・合理的に議論を詰めていけば、処理水の処理方法は「希釈海洋放出」しかあり得なかった。

現場10年、調査と熟慮を重ねてきた著者の確信に満ちた意見に反論するだけの材料も力もないが、容認しがたい結論だ。

それでも「わからない」と言っている人の中には「わからない」のではなく「わかりたくない」人が一定数いるということに注意するべきだ。

わかりたくない一定数の人とは熱心な反原発派を指して言うのだろう。「そうした人々に、どれだけ説明しても議論は平行線となり、共通理解を得る日は来ない、科学的方法で理解を求めても、理解が得られないなら、科学を超えた手法で安心を担保しなくてはならない」。そして「一歩引けば相手の要求はよりエスカレートして延々と要求に応えることになる」と著者は言う。

「わかりたくない」人々も、東電や政府に同じ思いを抱いている。一歩引けば、相手は2歩も3歩も詰め寄り、権力を持つだけに破壊力はすさまじく、何度、裁判を起こしても上級審で覆り、裁判の結果に従おうという素振りさえ見せない。理論や科学が通じないのは政府や東電も同じである。原発推進のためどれほど非科学的な嘘をついてきたかよく考えるがいい。政府や東電こそ科学を超えた手法の元祖ではないか。しかし、著者の言うこともわかる。嘘を流布し、ミスを重ねた東電を完膚なきまでに非難することはたやすいが、そこからは憎悪しか生まない。

命の危険と健康を脅かす環境で黙々と作業を続ける人々のことを考えてみた。誰が彼らの代わりをしてくれるのか、そしていつまで続くのか。日本原子力学会は2021年7月、廃炉のシナリオを発表した。

たとえデブリが取り出せたとしても、あと30年で「廃炉にする」などということはあり得ず、最低でも約100年、長くて300年はかかること、さらに大量の廃棄物が生じることを明らかにした。

政府も官僚も東電もここに触れず、曖昧なまま放置してきた。100年〜300年の間に地震や津波などの災害も懸念され、武力攻撃の標的になる恐れもある。命の危険と健康を脅かされながらの廃炉作業は、まだ生まれてもいない未来の子供たちが担うことになる。

 

検証 コロナと五輪 吉見俊哉 編

2020年東京五輪は2021年に猛暑とコロナ禍のなかで開催された。今年2月、コロナが終息しないなか北京冬季五輪も終わった。開催中、メディアは総力をあげて祭りの感動を伝え、呼応するかのように五輪後は開催を肯定する人が増えた。待っていましたとばかりに、2030年札幌冬季五輪誘致の話が沸き起こった。1972年の札幌冬季五輪は45年かけて借金を返済し、1998年の長野冬季五輪はまだ返済が続き、今回の東京五輪の借金返済は100年以上かかるという。たった2週間の感動の代償はあまりにも大きい。アスリートは優遇されすぎていると思うのは早計だ。元警察官僚で元自民党代議士の亀井静香氏は次のように評している。

「五輪で飯を食っている巨大な利権集団、金をもうけるための集団がある。今の五輪はスポーツの祭典ではなくなっている。メディアまでがこれに乗っかり、飯のタネしている。」

4月13日、北海道新聞は札幌市が目指す2030年冬季五輪の招致について、市民を対象とした世論調査の結果を報告した。市は北京冬季五輪の感動冷めやらぬうちにと意向調査で「賛成」に誘導し、少しでもいい結果が出るようにと、調査票にキレイゴトを並べたパンフレットを添えた。結果は賛成42%、反対57%と市の努力とは真逆の結果が出た。誘導のため知恵を絞り、汗を流した市職員はかたや札幌市民でもあり、巨大な利権集団とは無縁のはずだ。黒幕は薄々想像できるが、麻薬中毒のごとく祭典を止められぬ理由がある。西では2025年に開催される大阪万博や跡地に予定されるカジノもすでに議会を通ってしまった。維新の会は身を切る改革を党是とするが、切られるのは府民のほうだ。

東京五輪は無観客のためチケット収入はほぼ消え、莫大な赤字が残った。この穴埋めに一体どれくらいの税金が投入されるか明らかになっておらず、推定で3兆円を超えるという。それで終わりではなく、新たに建設された施設の維持のため累積的に赤字が生まれる。たとえば神宮外苑の新国立競技場は、年間の維持費が旧国立競技場の3倍、毎年約24憶円かかるとされる。社会学者の上野千鶴子氏は「五輪の虚構がこれだけあきらかになった日本が、この先の将来、ふたたび五輪を誘致することは二度とあるまい」と述べているが、北海道出身の橋本聖子大会組織委員長はパラリンピック閉幕直後の9月6日、2030年の札幌大会にレガシーとして引き継いでいく提案は非常に重要だとの意欲を示した。札幌市の幹部も同じようにコメントし、此岸の住民でないことは明らかだ。

戦後日本は、1964年の東京五輪以来、ほぼ10年ごとに夏季ないし冬季のオリンピックを開催しようとし続けてきたことがわかる。これは単なる偶然ではない。戦後日本社会では、中央省庁や大都市自治体、経済界やスポーツ界の仕組みのなかに、オリンピックを開催し続けることがシステム化されてきたのである。

日本では聞きなれない用語がある。カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインは戦争・災害・テロ・政変などの惨事で人々が茫然自失のときに乗じ、大胆に規制緩和をおこない、経済政策、大規模開発を実現させることを「ショック・ドクトリン」と言った。日本では五輪や博覧会など国民的な「お祭り」に乗じ、経済政策や大規模開発を実現させる「お祭りドクトリン」が繰り返され、これからも続くであろう。2030年札幌冬季五輪も反対の声など押し切って開催するはずだ。反対はあっても、アスリートの活躍や感動のドラマを画面いっぱい見せつけるとやがて人々も五輪を讃えるようになる。このような国民の習癖は与党政治家や五輪関係者の間で共有されているのかも知れない。五輪開催直前の国会で菅総理は質問には答えず1964年の東京五輪の思い出を滔々と語った。五輪開催後の調査では開催してよかったの声は増加したが、内閣支持率は回復せず退陣に追い込まれた。新型コロナの感染が彼らの思惑を打ち砕いたともいえる。しかし、総理を変えることで秋の国政選挙は手堅く勝利し、与党は生き延びた。戦後80年も続いてきた政治体制は国民の嗜好と生活に染みつき変わらない。このままいけば夏の参議院選挙も与党が勝利し、永遠に自民党政権が続くような気がする。いっそう巻かれて安穏に暮らすほうが良いと考える野党も出てきた。

1964年から、見込みでは70年近くにわたり、戦後日本で「お祭り」ドクトリンは連綿と機能し続けてきた。この「連綿」とした反復を通じ、自民党政治家や財界、マスコミ企業、各地の有力者の間で、このドクトリンの信頼度は相当なレベルに達してきた。

日本政府が五輪候補地として手をあげれば中央省庁内にも自治体内にも、開催誘致から実現までの流れを支える体制ができあがり、その組織体制は公共事業のように同じことを遂行する力学で動く。ひとつの五輪や万博が終わると、その翌日から次の開催候補地の模索が始まる。大規模な公共用地取得や都市整備のための大型予算を引き出す大義名分を「お祭り」ドクトリンに求めてきた。

復興五輪のネーミングは「コロナに打ち勝った証としての五輪」に変わった。2011年、東京都が五輪開催地に再立候補し、石原氏が都知事4選を果たした。東日本大震災の直後で「五輪どころではない」の批判をかわすため「復興五輪」を掲げた。もちろん批判も巻き起こり、間違いなく復興の足を引っ張ることになった。石原氏は後に次のように述べている。「復興五輪なんてネーミングの問題だ。最初に五輪があって、災害がその後、起きた。ちょっと気の利いた人間なら、だれでも考える」

復興五輪という「ちょっと気の利いた」スローガンでその後、どれだけのものが蹂躙され失われていったか計り知れない。震災とともに起きた原発事故は永遠に終わりがなく、放射能から身を守る活動も続いている。

「復興五輪」の掛け声が広まっていくと、同時に東北は「復興に頑張っている」とのイメージが広がり、福島の苦しみは終わったと思う人がいる。時間とともに困難は増している面がある。

被災地への経済効果はほとんどなく関心は五輪へ向かい、逆に被災地は忘れられる。IOC総会における日本のプレゼンテーションで、「お・も・て・な・し」と安倍氏の「状況はコントロールされている」の発言は鮮明に記憶している。"TOKYO2020"の発表の瞬間、雀躍し抱き合い狂喜乱舞するアスリートや関係者の姿も...

被災地の人々は五輪が復興に及ぼす影響を懸念した。東京で五輪のため始まる建設・工事ラッシュのため被災地から作業員や資材が引き上げられるのではないか。不安は現実のものとなり、資材も作業員も賃金条件の良い東京へと移動していった。この東京と東北の関係は、明治以来の繰り返しだという。

近代的な中央集権国家は、必ず周辺に食糧や資源の供給場所を設けてきました。明治以降の東北地方が、まさにそれです。寒冷地に適さない稲作が奨励され、石炭や銅など鉱山資源が掘り出され、多くの農家の子弟が旧陸軍の師団に入隊させられた。あるいは出稼ぎ。戦後は集団就職で東京へ向かった。労働力と資源の供給源であった東北は、置かれた意味からして植民地の扱いだった。

2020年3月11日WHO(世界保健機関)は新型インフルエンザのパンデミックを宣言し、五輪も転換点を迎えた。全国すべての小中高校に対して臨時休校を要請し、大学もリモートでの講義が主流となる。各国のオリンピック委員会や選手、メディアからIOCや日本政府への批判の声が高まり、1年ほどの延期を発表せざるを得なくなった。「五輪は完全な形で開催する」と繰り返し伝えられるが、スポーツ大会や各種イベントの中止や延期、規模は縮小され、日本だけでなく世界の国々から五輪の開催を懸念する声が高まっていく。

コロナ禍の対策と東京五輪の報道が並行して報道されたことによって、五輪がスポーツの祭典、アスリート・ファーストではなく、巨大な資本に支えられている営利主義的なイベントであるということが明らかにされた。

2020年3/16、テレビでのG7首脳会議を終えた安倍首相は会見で「人類がコロナに打ち勝つ証として、東京オリンピック・パラリンピックを完全な形で実現することについて、G7の支持を得た」と語った。その後、IOCの態度は二転三転するが多方面のからの批判を受け、3/24、1年ほど延期の決断に至る。「コロナに打ち勝つ五輪」への転換がなされ「復興五輪」は置き去りにされた。延期決定から5か月後の9月、安倍総理は2度目の「政権放り出し」辞任をし、その後、菅総理の就任によって復興五輪はさらに後景へ退いた。開催が迫るなか新型コロナの感染拡大は収まる気配がなく、各地で緊急事態宣言が出され、五輪の開催、再延期、中止の世論は渦巻くが、政府や関係者のコメントは「安全・安心」、「人々の絆を取り戻す」といった精神論であった。元アスリートやメダリストたちを2分する議論も巻き起こった。開催に反対するアスーリートに比べ賛成者は精神論に収拾し、コロナが人となりをあぶりだした。

東京五輪はついに無観客で開催され、巨額の赤字を残し、これから累積的赤字も待ち受ける。戦後から続く「お祭りドクトリン」をコロナが打ち砕いたともいえるが、すでに「お祭りドクトリン」は前世紀の遺物であり意義を失った。五輪をめぐるIOCのえげつなさにも辟易させられた。編著者はあとがきで、「この戦後的呪縛に対し、今度こそ遅すぎた決別の意志を、未来へのビジョンの熟議とともに告げるべきなのだ」と記している。

【追記】2021年夏に開催された東京オリンピック・パラリンピックの大会経費は、国と東京都、大会組織委員会の3者がそれぞれ負担し、総額約1兆4530億円となる見通し(同年12月時点)だが、この巨額経費の全容について国民が妥当性を検証するすべはない。このうち組織委が負担した4割超については、情報公開制度の対象外だからだ。国を挙げての一大行事にもかかわらず、支出の裏付けを確認できないまま組織委は今月下旬に解散する予定だ。2022.6.21 毎日新聞

 

プラセボ効果 メディカ出版

プラセボ、プラシーボは読みの違いで意味は同じ、いままでしばしば取り上げてきた。書物ごとに意義ある内容を得てプラセボへの興味は尽きない。本書は解説者・医学監修者・漫画家の共同作で目を休めながら肩の凝らない話に仕上げられている。癒しに関わればプラセボ問題は必然的に絡んでくるが、治療家によって意識を占める割合は異なる。治療や投薬、施術に対する自信と成果には乖離もみられ、どこまでが真の効果かそうでないかを俯瞰することで、プラセボを生かすことができる。

「これはプラセボであり、薬効成分は含まれていません」とわざわざ説明して投薬しても少なからず臨床効果が発揮される。

治療家の心得として意義あるものだ。プラセボをポジティブに説明し、印象をよくすることが肝要だ。体験談や検査値の提示など前向きなほど患者は納得するし、陰陽や五行説であっても滔々とよどみなく語るほうが評価される。ただの紙切れでも「おまじない」の儀式によりパワーを秘めた護符に変わる。しかし、プラセボ効果による体調の改善は自覚症状の軽減であってあくまでも患者の主観によることが多く、検査値まで変化することは少ない。臨床検査や画像検査ができない代替医療の治療では患者の「気分」による評価が中心となる。患者が「楽になった」といえば、それで「効いた」ことにする。いっぽう、西洋医学では数値に異常がない、治療によって数値は改善したが体調は悪く、苦痛は相変わらず残る。ここに代替医療の役割があるのではないか。

アスリートが有益な処置を受けていると信じていれば、それがプラセボであったとしても、個人差はあるもののパフォーマンスが高まる。

プラセボは医療だけでなく、裾野の広がりは大きい。アスリートを患者、子供、会社員に、処置する人を医師、教師、上司に置き換えても成り立つ。プラセボは望ましい効果をいい、逆に副作用や望まない効果をノセボ(nocebo effect)という、信じる者は救われるが、騙されもする。騙されないためにも可能な限り裏付けが必要である。たとえば宗教には妄想が入りこみ、スポーツや教育は精神主義へ走るなど各々に陥穽が待ち受ける。

切開したり注射したり刺入したりする侵襲的な偽治療は、偽薬(プラセボ)の錠剤や液体を飲むだけといった非侵襲的な治療よりも臨床効果が大きくなる。

プラセボを有効に発現させるため幾つかの条件が知られている。そのうちの一つは視覚、痛覚などの感覚を通して心理的なインパクトに訴えることだ。錠剤などを飲むとしても無味無臭より香りや苦味のあるものが効果を発揮する。活性プラセボといい、何らかの刺激が改善への意欲を高める。ただ薬を与えるだけでなく、時間をかけて治療家と対話・交流することで満足感が生まれる。鍼灸、整体など手技を伴う治療ではさらに満足感は高まる。無意味な刺激でも、感覚や心理への訴えを治癒の兆しだと感じるのだろう。薬や治療には「効果」と「行為」が伴い、人によっては飲むという「行為」を満たせば納得するケースがある。「これは偽薬です」とタネを明かして投与する活用法だ。

プラセボ群でみられる改善はいわゆる「見かけ上のプラセボ効果」であり、無治療群(プラセボも無投与)でもみられる自然軽快、平均回帰、ホーソン効果などを含んでいるので、効果が大きく見えます。(ホーソン効果:治療家に対して、期待に応えたいと思う患者の心理効果)

自然軽快とは症状を体調の揺れと捉え、時間の経過とともに自然に回復するこという。平均回帰とは検査値や成績の高い低いが極端であれば、次に測定すると平均に近づくという現象である。これらを排除したものが真のプラセボ効果になる。厳密に定義するなら、プラセボ群でみられるすべての改善をプラセボ反応といい、脳内の神経生理や心理的メカニズムで生じるものをプラセボ効果という。先に述べたノセボという負の効果も同様に生じる。プラセボやノセボは治療家の言葉や所作にも反応する。治療家の思いと裏腹に思いやりがノセボを、冷淡がプラセボを誘発することもある。

ノセボ効果はどのような人に生じやすいのでしょうか。今までにわかっているのは、不安傾向が強い人、暗示にかかりやすい人、うつ症状のある人、強い心理的苦痛を抱えている人などです。

「医療情報は可能な限り患者へ伝え、信頼関係を構築し共同して疾病を克服する」との指針が厚労省から示されている。しかし、人によっては、伝えた副作用や負の情報がノセボとして発現することがある。患者を知り共同関係を築くことが治療のたてまえではあるが、ある人に名医であっても別の人にはヤブ医ともなりかねない。大袈裟だが治療家と患者は運命的な邂逅でもある。

「副作用はありません」と嘘をつくことなく、説明の仕方で副作用の軽減ができるいくつかの方法が提案されている。

  1. フレーミング効果:「10%の人に発生します」よりも「90%の人には発生しません」と良い面を強調したほうが、実際に副作用は起こりにくくなる。
  2. 背景・状況を踏まえたインフォームドコンセント
    ・治療特有の副作用は必ず伝える一方、どんな治療でも生じやすい有害事象(眠気、疲労感、嘔気、頭痛など)は伝えず、発生した時点で検討する。
    ・患者個別の有害事象体験や感受性を考え、伝える情報量を調整する。
    ・疾患の重さとその治療の重要性・非代替性を踏まえ、相対的に重要性の低い副作用は伝えない。
  3. 患者に対するノセボ効果の教育:ノセボ効果によって有害事象が起きる可能性やその仕組みについて順序だてて丁寧に説明する。

日本ではプラセボを偽薬と訳しているが語源を踏まえると中国語の「安慰剤」が的確である。もしくは治療を取り巻く環境や雰囲気、治療家の立ち位置を考え、「祝詞(のりと)薬」、「癒しの儀式」という解釈も可能だ。医者のような教祖、教祖のような医者もいて、宗教性は癒しに関わる大きな要素といえなくもない。真の治療にもプラセボ効果は介入する。しかし、プラセボ効果に頼る治療は「ハッタリ効果」であって真の治癒へとは向かわず、ニセ科学やインチキ治療、呪術の落とし穴に嵌る恐れがある。

東洋医学の五行や陰陽論が科学的かといえば、そうではない。ときどき代替医療家が説明に使う量子力学や波動も情緒や物語の域を出ない。それでも癒しの儀式としては成り立ち、納得してついていく人々がいる。代替医療が廃れず命脈を保つのは理論や科学ではない。プラセボは治療のあらゆる行為に関わり、この機序は医療のみならず仕事や生活の営みにも関わる。上司の叱咤が組織に好結果をもたらしたり、魅力ある友人の感化にあって高みへ向かう、これらも広義のプラセボといえよう。プラセボの研究は疑似科学やオカルティズムへ陥らないためのストッパーともなり、人の内なる迷宮への旅でもある。

 

炎上するバカさせるバカ 中川淳一郎

一般人には超リスクほぼノーリターン。SNSという「凶器」を今すぐ手放せ!

帯カバーにはこのように大書されており、分かっているから私は最初からやっていない。ネット草創期の2000年頃はパソコン通信を起原としたニュースグループやメーリングリスト、掲示板が盛況を呈した。学術交流を基本とし商利用は厳しく戒められ、少しでもそれに触れるとネチケット違反だと非難された。現在、ネチケットもしくはネットマナーという用語はあっても、かってほどの厳しさはない。ダイアルアップからブロードバンドへの移行期でメールのサイズは小さく定められ、添付ファイルや画像は禁じられた。いま、瞬時に受信する画像が、当時は15分もかかり相当なストレスだった。

便利になったのは良いが、多くの決まりや礼儀が形骸化し、忘れられた。2004年頃からプローフィールを明かし会員の招待で加入するmixiがスタートし、Twiter、Facebook、LINE、Instagram..と続く。これらは以前とは逆に個人情報を収集して商利用する広告会社が提供・運営するものだ。当然のこと個人情報をさらしアカウントを作成・利用するもので、総称してSNS(Social Networking Service)という。ネットはタダだと思い利用しているが、メーラー、ブラウザ、検索エンジンなど、多くは金銭につながる情報の収集が目的だ。気にもとめない人、分かって利用する人、思い思いの人々が集まり、日本の月間アクティブユーザー数はLINEの8900万人を最高にYutube 6500万人、Twitter 4500万人、Instagram 3300万人、Facebook 2600万人に達し、メールやブラウザ、検索エンジンはネットユーザーのほぼ100%が利用している。利用者の一部はSNSを軸に自分も周囲も世界も回っているように錯覚し、没入し「炎上」の果てに悲劇も起こる。

炎上については、社会正義的に批判する面に加えて、愚行や失言を徹底的に叩くことによる正義感の発露といった面もある。あとは「人の不幸は蜜の味」で、とにかく常時誰かを炎上させたくなるメンタリティが今の日本のネット空間には存在する。

ひとりが引き金になるかも知れないが、多数の燃料があって炎上する。ターゲットに狙いを定めると彼らはスクラムを組んで攻撃を加える。ターゲットが燃え尽きると、またゾロ、次のターゲットを探す。ネット草創期からその萌芽があり、当時はフレームといい、ネチケットで戒められた。さらなるネットの普及や成熟に伴い、誰かの失言や失態を虎視眈々と狙い炎上の消費者になる。炎上によるアクセス数の増加で、広告収入が増えるための利点はあるが、炎上のほとんどは意味もなく単に閑人の一瞬の爆発快感にすぎない。とはいえ、ときに社会を変え、人間関係を変える問題へ発展することがある。

記憶に新しいのは東京五輪にまつわる、エンブレムパクリ騒動、障害者いじめ、女性差別発言..など辞任や解任が続き、コロナ禍と相まって五輪の意義さえ疑問視され、中止の声が多数を占めるに至った。著者は「インターネット人事部」とよび、次の経過を辿るという。1)テレビが火を付け、2)ネットが関連したネタを出したり、ネットの声を伝える、3)それを見たネット民が炎上させる、4)炎上を「非難殺到」のネタとしてテレビとネットニュースが報じ、人事介入まで成し遂げる。たとえば..

東京都の歴代知事はインターネット人事部により次々と辞任に追い込まれた。猪瀬氏は徳洲会グループから5000万円を受けとった件で、5000万円サイズのブロックをカバンに詰めるパフォーマンスまでして見せたが、冷や汗だけ流れ上手くいかなかった。彼は極悪人のような扱いを受け、嘲笑と罵倒の中で辞任した。後任の舛添氏は猪瀬氏とは異なり、小さな出費を政治資金として積み上げ、会議費と称して公用車で家族旅行をし、クレヨンしんちゃんの漫画本や中国の美術品も購入していた。「セコイ」の嵐に翻弄され辞任に至る。

次なる後任は「築地は守る、豊洲は生かす」といい、華々しく登場した小池氏だ。公約として「7つのゼロ」を挙げたが、達成されたものは一つもなく騒動と混乱を残して立ち消えた。テレビで派手なアピールを重ねるだけで、なんとか4年間持ちこたえ、2期目の選挙を待ち受けるように、学歴詐称を取り上げた「女帝 小池百合子」という本が話題になる。しかし、これもクリアして2期目がスタートした。コロナ対策ではたびたび緊急事態宣言を発動し、テレビに向かい、ステイホーム、三密などのフレーズやフリップを駆使して喋るだけ。猪瀬氏や舛添氏は知事の座を追われたが、小池氏はなぜ続けられるのだろうか。

ネットで批判の声が噴出しないのは、テレビが報じないからである。猪瀬氏、舛添氏は叩きがいがある存在だった。それはネット民が共感してくれるからだ。だが、小池氏については、叩いたら女性蔑視だと見られることを恐れてか、滅多に叩かない。

果たしてそうだろうか、他人を自殺にまで追い込むネット民が、女性蔑視を恐れるだろうか。テレビなどのメディアの追及が、いつのまにか「打ちかた止め」になる事がしばしばある。メディアに人々が扇動される手前で、メディアが権力の大きさと背後の人脈に恐れて「打ちかた止め」にする。小池氏とおなじく、テレビばかり出てなんの実績もない大阪府知事は男性であるが叩かれず、大阪では人気さえあるという。テレビ局も新聞社も叩かないのは、叩いて報復されることを恐れるからだ。維新の会は他人や他党は口を極めてののしるが、自分たちに降りかかる非難には訴訟だ裁判だと騒ぎ立て、報復する。厄介な相手とは誰しも関わりたくない。そういった政界の大御所が安倍元総理だ。モリカケサクラと韻を踏む疑惑から、国会での嘘、捏造や隠蔽、その他もろもろの疑惑のど真ん中にいて、疑惑のままで、検察は犯罪とはしない。10年の長期にわたる氏の言動が政治家や権力者のスタンダードになってしまったように思う。

本書はネットの小史や紳士録、事件簿としてまとめられており、SNSをしない人にとって新しい見聞が面白いかも知れない。著者はネットニュース編集者を2020年で止め、東京から当地、佐賀・唐津へ移住し、ときどき地方紙・佐賀新聞に--「なんもなか」の真実--というコラムを寄稿している。唐津の海の幸を肴に宴を催し、田舎での人脈をひろげ、至って楽しそうだ。氏のコラムを辿って本書を読み、他のネット記事を読んだ。

日本を覆う「マスク信仰」このエビデンスなき“おまじない”とどう向き合うべきか--マスクを外せばコロナは終わる。

これは昨年末のネット記事の見出しである。新型コロナ対策については特異な意見をお持ちのようだ。ウイルスがマスクをすり抜けることは分かっているが、飛沫はブロックされる。マスクを付けることでいかほどの不利益があるというのだ。コロナを巡っては一家言あるらしく、様々な人との対立や炎上を引き起こしており、ついに薬剤師である義姉への反論とともに「縁を切る宣言をした」という。

今後、私は義姉と会う気はないし、彼女も私には会いたくないだろう。ネットというものは、こうして親戚とはいえ、意見の相違により、容易に人間関係をぶっ壊してくれる。

ネットがある以上炎上はついてまわる。それはそれで割り切って、「現世での人間関係を大事にしてください」と書いているが、ネットでの本音は人と「縁を切るリトマス試験紙にもなる」とも書いている。移住した佐賀・唐津での暮らしや人々との交流に炎上のない事を祈る。

 

自民党 失敗の本質

石破茂、村上誠一郎、内田樹、御厨貴、前川喜平、古賀茂明、望月衣塑子、小沢一郎(敬称略)2021年8月下旬〜9月上旬にかけ、上記、8人の取材を経てまとめられた本である。取材を受けた時点で自民党の失敗を認めた人々だ。美しく、力強く、世界に誇れる日本になったと賛辞を送る人々もいるが、本の帯には漫画のような「悪政」がなぜ続いたのか?と書かれている。

私たちの目の前の「与党・自民党」は、見る影もなくやせ細っている。「一強体制」といわれた安倍・菅政権の9年を経て、異論を許さず、議論を求めず、ひたすら上意下達、官邸主導で決まった物事に唯々諾々と従う"株式会社"自民党ができあがってしまった。

権力が官邸に集中すると、霞が関にも同様の空気が蔓延り、異論を許さず唱えたものは「冷や飯」を喰わされる。権力者が戒めとすべきアメとムチを、ためらいなく振るう幼児性が政治を人を劣化させた。野党の質問は虚偽答弁ではぐらかし、国会の開催要求さえ黙殺する。野党が「だらしないから」という出所不明の流布を真にうけて、街の若者、会社員、農家、隣のおじさんまで自民党を支持し、ほぼ毎年のように行われた選挙で毎回勝ち続けた。これほど勝ち続けた政権も珍しいと御厨貴氏は言う。選挙で勝てば官軍、嘘も不正も雲散霧散し、野党や国民に謝罪も説明もしない。「お答えは控えさせていただく」、「指摘には当たらない」というだけで記者会見は空疎化し、望月衣塑子氏のように追及を緩めない記者は恫喝され排除される。

自民党が政権に返り咲いた2012年末の総選挙で、民主党が負けすぎたというのが大きい。公示前の約4分の1、わずか57議席しか民主党は獲得できませんでした。2009年に自民党が負けたときでも(自民党は)119議席は残していましたから、これは党が崩壊するほどの歴史的な大敗北だった。(御厨)

自民党が選挙に勝ち続けるのは民主党の崩壊により、野党が力を失ったことにある。崩壊へ導いた野田氏はじめ10人くらいの議員は、大敗の総括もせず相変わらず生き延び党内で隠然と力を保っている。「自民党の勝ち過ぎは良くない」と、仕方なく野党を支援する国民もいるが、大勢は政権を担う与党に巻かれてしまう。民主党は「増税の議論さえしない」というマニュフェストのど真ん中を簡単に破った。消費税を払うたびに思い起こされ、この裏切りが「野党はアテにならない」として与党の増長を許した。

国民の約5割は投票しない。だから、全体の3割の支持を受けられれば選挙では圧勝できる。今の選挙制度でしたら、3割のコアな支持層をまとめていれば、議席の6割以上を占有できる。(内田)

多くの国民の支持など必要ない、3割の支持層だけに「いい顔」をし、無党派層や反対派、いわゆる「こんな人たち」は放逐したほうが政権基盤は盤石になる。彼らはこのことを9年間で学習してきた。選挙制度に欠陥はないのか。小選挙区制の生みの親である小沢氏は、しばしば小選挙区制の理想を語っているが、始まって26年もたつのに、うたかたの夢を2回見ただけで一向に定着する気配はなく、むしろ遠のいていく。中選挙区制では自民党内で政権交代もどきが行われ、それが見せかけの政治刷新として国民を欺いた。それでも現在に比べれば国民の選択肢は広く、人物が重視された。

小選挙区制度の弊害は私が幹事長の時代からずっと指摘していることです。2012年の政権奪還選挙の時、私は幹事長として選挙の指揮をとったけれど、あの日からずっと言い続けています。野党がダメだから消極的支持としての自民党、という選択で選ばれた自民党は決して強くありません。(石破)

有権者や野党と向き合わず、議論も尽くさず、「野党には任せられない」と言っておけば、消極的支持が得られる状態が続いた。自民党内では上のお達しに従っておれば自分の地位は安泰で、いずれ順番が来ればポストが貰える。政権を任された民主党の迷走と瓦解をみると、自民党が利口で政権に慣れている。しかし、その慣れが徐々に組織を蝕んでいく。

本来、政策決定のプロセスというのは、官僚も政治家も、さまざまな意見を自由に出し合うべきなのです。例えば官僚からA案B案C案と具体案を出してもらって、それを最終的にわれわれ政治家が判断すべきところ、ここ数年は常に官邸の言うとおりの政策になってしまいました。内閣人事局が人事権を行使して官僚からの意見を封じ込めました。一方、政治家に対しては選挙の公認とポストの人事権で党執行部に対する党内の批判も押さえ込みました。(村上)

官邸は官僚の答弁が気に入らないと撤回・訂正させ、人事で追い込む横暴もいとわない。理不尽で常識も通じない。まるで発展途上国の独裁政権である。小選挙区制では党の公認と比例名簿の順位を決める生殺与奪の権限を党の執行部に握られている。党内の自由な議論も消えひたすら官邸を窺う空気が蔓延する。中選挙区制では自分で組織をつくり、支持者とともに戦ったため党の力を大して頼りにしなかった。小選挙区制では能力のある人や汗を流した人は報われず、気の合う仲良しやお友達が登用され、それが政治家の劣化を招いた。自民党に緊張感がないのは野党側に人材がいないことも影響する。おしなべて政治家全体の劣化と人材不足が顕著だ。

内閣人事局によって、中央省庁の部長・審議官以上の600人を超える官僚の人事を一括管理するようになりました。その結果、局長以下の中堅官僚にも官邸の意向を忖度する文化が広がったということはいえるでしょう。

菅さんは結局、政治主導の実現ではなく、自分の権力を維持・拡大することしか頭になかったのではないかと思います。(前川)

内閣人局が安倍・菅政権の官僚支配を強めていく以前から官僚集団が菅氏の私兵として動いていた。菅氏は「自分の言うことを聞く人間だけを取り立ててやる、言うことを聞かない人間は飛ばす」という人事を繰り返し行い、官房長官のポストに長くいたため実効を伴った。菅氏の著書にも至る所、「わたしは人事で官僚を支配してきた」と自慢げに書いている。かつての自民党は「権力は暴走する危険がある」ということを常に意識しながら権力を行使していた。最たる暴走である戦争を経験した政治家が居なくなり、自民党は変質してしまった。歴史を学べば「権力の行使は抑制的でなければならない」ことは分かるが、逆に教科書を書き替えようとする。

安倍政権になってからは、きちんとした反論ができなくなります。まず、安倍さんが、テレビ局や新聞社のトップを抑えました。安倍さんは、頻繁に会食して、すぐに携帯電話の番号を交換します。するとトップは「総理から電話がくるんだ」などと舞いあがってしまう。ジャーナリズムの矜持など、あったものではありません。

安倍・菅の9年間は、派手なことをやっている印象だけはありましたが、実際は何もかもがほとんど進んでいないんです。(古賀)

最初は政権側もあからさまな圧力で上手くいくとは思っていなかったが、やってみるとメディアは想像以上に臆病で、政権になびいてきた。こうしたやり方を2年くらいかけて完成させた。やがてテレビ局に対して、高市総務相が「放送法違反で停波を命じる可能性がある」と脅し、消費税増税の際は新聞社に対し、新聞の軽減税率を餌にして、丸め込むようになった。第二次安倍政権は第一次同様、短命に終わると思ったが、予想に反しメディアの扱いを学習していた。

経済成長の芽となる産業・企業がまったく育っておらず、儲かるビジネスも生まれず、労働者に高い給料を払えない。労働者の4割が年収300万円以下でここから税金、社会保険費など引かれると手取りは240万円前後になる。結婚できない若者が増え少子高齢化にも歯止めがかからない危機的状況だ。安倍氏が自画自賛するアベノミクスについて簡潔にコメントされたものを引用する。生活の党代表であった小沢一郎氏が記者会見で述べたものだ。

「アベノミクスという言葉で以て世間・国民のみなさんに期待を抱かせましたけど、実際の政策の中身は何もなかった。現実に行ったことは、日銀が際限なく国債そして今度は民間の債務まで買い入れるということで、お金をジャブジャブ印刷しているのですが、その結果は株が上がったが、為替がどんどん安くなっている。株のことについては特定の人の損得という面があるが、為替の場合は、輸入に頼っている日本の経済においては、食料品をはじめとして、原材料がどんどん高くなるという結果をもたらすだけになっている。」(2014/11/17)

この頃から7年間、アベノミクスは修正されることなく継続し、止められるものは自民党にも居らず、交代した新首相は「新しい資本主義」というお題目を唱え始めた。

安倍政権のタガの外れ方は、2015年の安保法制の時に加速したと思います。あの時、強引に安全保障法制改定法案を採決したことで、一時期、内閣の支持率は30%台まで落ちました。ところが、しばらくすると何事もなかったかのように支持率はV字回復したわけです。(望月)

国会や民意を軽視しても政権を維持できることを学んだ。「人の噂も75日」というのは昔の話で、いまでは翌日の芸能スキャンダルで、次の話題に移る。菅政権も同じ手法を踏襲した。菅氏は官房長官の任期が長く、徹底した質問コントロールをおこなった。記者会見の質問を事前に提出し、それには一応答えるものの、すべて官僚が用意したものを読みあげるだけで、なにひとつ自分のことばがなかった。かつては質問事項の事前提出もなく、自由に質問に応じた官房長官もいた。ひとえに政治家としての資質の問題だ。

仁徳天皇は、皇居の高殿に登って、民のかまどから煙が上がっているかどうかを見たうえで租税の判断をしていた、というものです。かまどからまったく煙が上がっていなければ、民が食べるにも困る状況だということで、行政費用を減免し、民の生活を守った。「民のかまど」をいかに豊かにするか。これが政治の原点です。(小沢)

8人の取材をとおして「国民の生活」を語っているのは小沢氏のみだ。民主党代表の時も「国民の生活が第一」を掲げ、民主党からたもと分かっても、これを党名に掲げた。陸山会事件で蟄居させられたが、これは単に帳簿の日付のズレを針小棒大に報じ、有罪かのように騒ぎ立てた。結果は当然無罪だが、検察審査会は執拗に強制起訴し、それも無罪となる。政権交代が確実視され、総理の椅子を前にして代表を辞任した。政治家として円熟した頃を狙って検察は小沢封じを謀った。安倍政権で「モリ・カケ・桜」、証拠の揃った汚職は見逃し、無罪の小沢氏を締め上げた。これが民主主義国家にあって検察のやるべき仕事だろうか。「民のかまど」を語る小沢氏が総理になっていたらどんな国になったのか興味は尽きない。小泉内閣の頃から新自由主義と言って自由競争第一、市場原理第一の弱肉強食の考えが蔓延し、彼らの理屈では強いものが儲かればそれが国民にも滴り落ちるという。それまでの政治哲学をひっくり返すもので、滴り落ちるどころか、企業は内部保留を増やしていった。企業が史上空前の利益をあげる一方、国民所得はどんどん減少しみるみる格差が拡大した。いまや新型コロナに翻弄され失業や廃業でさらに厳しい状況に追い込まれつつある。

日本はいまだに金がないの一点張りで、定額給付金や持続化給付金などの一時金は支給したものの、全体として社会保障をとにかく切り詰めるという方針に変わりはありません。しかし日銀を見てください。いまもまだ何十兆円もの規模でジャブジャブと市場にお金を流しているでしょう。お金がないなんていうことはないんです。それをどこに流すのかが問題なのです。

つまり「お金はある」のです。コロナ禍で疲弊してしまった社会をしっかり立て直し、セフティーネットを構築するための大胆な政策と財政出動が必要なのは言うまでもありません。(小沢)

国の借金1200兆円と聞かされるが、これは財務省の強烈なマインドコントロールだという。EUも赤字をGDP比3%以内に抑えるという財政規律でやってきたが、コロナ禍で規律を撤廃し、国民の生活を回復させることに向けた。赤字国債がダメというのは戦前、膨らむ軍事費を赤字国債で調達したことの反省から一定の制限をかけたものだ。日本の場合、95%近くが国内で保有されており、国債が国内で消化されている限りは経済の崩壊はなく、暴落してハイパーインフレに陥る心配もない。

小沢氏は小選挙区制について問われ、政治家の劣化を制度のせいにするのは短絡的だと述べている。政治家と国民は合わせ鏡ともいう。国民も同じく劣化が著しいのではないか。メディアの影響は大きいが、情報はテレビ・新聞以外にも得るところはたくさんある。どんな政治が行われ、どんな不正や汚職が行われているか国民はよく知っている。漫画のような「悪政」が10年も続いたのは、やはりおかしい。選挙制度だけではなく、開票の瞬間に当選確実が出てしまう選挙そのものを疑ってみるべきではないか。

 

「エビデンス」の落とし穴 松村むつみ

2000年頃からEBM(Evidence-Based-Medicine)、訳して「科学的根拠に基づいた医療」ということばが聞かれるようになった。健康食品や一般薬の広告、健康情報番組などでは検査や成分分析を経た数値を掲げることで努めて科学的であろうとするが、エビデンスと言えるものはほとんどない。半可通の知識では専門家でも騙されやすいとの報告もあり、「落とし穴」にもはまりやすい。とくに曖昧な領域が広い医学や心理学等の研究は科学用語の衣をまとって相反する情報が行き交う。たとえば糖質制限食のように、いままでエビデンスを示して穀物食を推奨していた医師が突然、穀物食を悪しきものと罵り、患者に肉食を強要する。科学知識が存分に備わった人でも、迷妄が生じるのはなぜか?

一般人が情報に振り回されるのはよくわかる。何を情報源とするかの調査では、重複するが80%の人がテレビのニュース、50%の人がネット、40%の人がテレビの番組、30%の人が新聞や雑誌の記事をあげ、公的機関のwebサイト、SNSや口コミが各20%、専門家の発信情報が10%ほとだ。いかにテレビの影響が大きいかが分かる。その中でも医学情報は健康や命に直接関わるため、より正しく見極める必要がある。

医学の情報を理解し、読み解くのに、「エビデンス」への理解は欠かせません。一方で「エビデンスあり」が必ずしも科学的真実とは限ららないことは、知っておく必要があります。典型的なところでは、正反対の二つの結果に対して、それぞれが「エビデンスあり」と打ち出していることがあるからです。

医師によって治療法や予防法が異なり、同じ病気を診ても医師間で意見の相違が生じる。また時を経て医師や専門家の意見の変容がある。そして各々エビデンスを主張し、エビデンスの変化も起こる。エビデンスは科学的根拠と訳されるが、たったひとつの真実ではなく、より真実に近づく階段と捉えるべきで、ある段階での真実らしいことを診断や治療の根拠とする。エビデンスと聞いただけで真実だと誤認してはならない。  

  1. エビデンス=真実とは限らない
  2. 「エビデンスあり」は、必ずしもその診断法・治療法が正しいことを意味しない
  3. エビデンスも玉石混交

エビデンスにはレベル1〜6のランクがあり、真実度と信頼度が異なる。一番低いレベル6は具体的データに基づかない専門家の意見だ。健康食品や代替医療の治療家に多く見られ、彼らのいう「治った」は自己の成功体験や師匠の口伝であることが多い。医学の専門家の意見であってもレベル6に変わりはない。意見に症例の報告や考察が加われば論文や学会発表が為されるレベル5だが、「使った、効いた」の域を出ない。症例数が増えると信頼性は高まり、数千人〜数万人の疫学調査をコホート研究ともいう。例えば肺がんを発症した人を集め「タバコを吸っていたか」などの生活習慣を調べ、現在「肺がんではない人」と比較分析する。過去にさかのぼるため「後ろ向き研究」といい、一定人数を集め喫煙者、非喫煙者に分けて、何年か後に観察し肺がんになる人がどれくらいいるか比較・検討するのを「前向き研究」という。レベル4になる。患者を対象とした研究でもっとも信頼性の高いものが「ランダム化比較試験」だ。患者を二つのグループに振り分け、一方に新薬を他方に偽薬を投与し比較する。グループの割り振りに人の判断が介入すると「非ランダム化比較試験」といい、レベル3で、人の判断が一切入らないランダム化の手法を用いると「ランダム化比較試験」といいレベル2になる。レベル2では参加する患者もどちらのグループか分からず、投与する医師も自分が投与する薬がどちらか分からない事から二重盲検法とよぶ。これはプラシーボ効果という「心理作用」を排除し真の薬効をあぶりだすためだ。信頼度の最上位、レベル1は「システマティックレビュー」、「メタアナリシス」といい、複数の研究を統合して結果をだす。

信頼性の高いランダム化比較試験でも、研究によって「効いた」「効かなかった」と正反対の結果が出ることもあります。複数の研究を統計的な手法を使って統合して、「効いた」という結果が出たとしたら、それはかなり信頼できる結果=エビデンスと言うことができるでしょう。

正反対のエビデンスが生まれる理由のひとつは、研究の条件だ。小規模であったり、研究の方法によって信頼度も変わる。Aという新薬について大規模研究の結果と動物実験の結果では天と地ほどの差があり、専門家がどのレベルのエビデンスを主張しているのか見極める必要がある。1〜6のエビデンスレベルはその指針ともいえよう。

EBM(科学的根拠に基づいた医療)を短くエビデンスといい、2000年頃から診断や治療において重視され始めた。この考えに大きな影響を与えたのがイギリスの軍医でアーチー・コクランである。1972年に出版した「効果と効力」という本で、「医療においては医師の個人的な経験ではなく、信頼性の高いランダム化比較試験に基づくべきだ」と主張した。1992年、コクランの弟子が「コクラン共同研究」という組織を作り、世界中の研究を精査し要約するプロジェクトを開始した。様々な分野のエビデンスを集めて要約した成果が多くの医師の診断や治療に利用されている。これを基に各学会の専門家がエビデンスを検証し診断や治療の指針となる「ガイドライン」を作成した。

エビデンスにもとづいた、客観的なガイドラインが作成されていることにより、医療者の間にひとつの治療に関するエビデンスが共通認識として広く共有されることが可能になっています。また、ガイドラインは何年かに1回、新しいエビデンスを検証して、改訂されています。

標準治療ともいわれ、多くの医師がこれを参考に診療をを行い、これに外れると異端扱いさえされかねない。代替医療に見られる奇抜な治療から身を守ることはできるかも知れないが、論文を読みこなし自らエビデンスを求める医師にとっては目障りなものだ。ガイドライン作成に学会の重鎮や医学部教授が関わり、そこへ製薬会社のお金が流れる事件は後を絶たない。製薬会社の捏造・隠蔽・改竄の3点セットはルーチンですらある。エビデンスが意欲的で有益な治療の足かせにならないとも限らず。著者の言を借りれば、「落とし穴」にならんことを肝に命ずるべきであろう。

現場の医師は5つのステップでエビデンスを捉え実践するという。

  • ステップ1:疑問の明確化・定式化--どんな人にどんな治療や検査をしたら、他の治療や検査と比べて、どんな結果になるのか。
  • ステップ2:情報収集--疑問の整理ができたら、エビデンスの収集にとりかかる。
  • ステップ3:情報を批判的に吟味--集まったエビデンスの研究デザインや信頼性をエビデンスレベルを基に精査する。
  • ステップ4:情報を個別の患者さんへ適用--個別の様々な事情を考え診断や治療を行う。
  • ステップ5:フィードバック:1〜4のステップを振り返り、より改善できるところはないか検討する。

論文を探すのも読むのも時間と手間がかかり、一般人は簡単に読みこなせない。専門家でさえ論文解読に慣れないと難しい、そのうえ時間的余裕も必要だ。以下、一般人にもわかるエビデンスに乏しい情報のパターンである。

  1. 誇大表示:健康食品や一般用医薬品で絶対治る、100%効いた、がんが消えたなど、ありえない誇大広告は信頼できない。健康食品や食品については薬効の標榜は法律で禁じられている。100%の効果はあり得ない、コロナワクチンでは90%の効果アリとされているが、数値をいじっただけで実際は違う。
  2. 免疫力:免疫というのは正しい医学用語だが免疫力といえば怪しい健康食品や代替医療の常套句だ。免疫力を高める食品というものに十分なエビデンスはない。
  3. 恐怖を煽る:・・・すると・・・になる、・・・しないと・・・になる、検診や治療をはじめ一般薬や健康食などの類まで、関係があるようでも、相関関係(なんらかの関連性)と因果関係(原因と結果の関係)は違う。
  4. 専門家の推薦や個人の体験談:まさに健康食品の折り込み広告そのものだ。体験談はたった一人の話かも知れない。
  5. 自然派を強調:自然・天然品だから体に優しい、西洋医学のように副作用も侵襲性もない。
  6. ○○学会公認:実在しない学会やトンデモ団体がある。医学は専門分野が高度に分化しているため、専門家でも他の分野については不明だったりする。ちなみに専門家でさえ無邪気に信じている事がある。たとえば肉より魚、肉より野菜、食塩・油脂は控えめに..

では、科学的・医学的に正しい知識を得たら人はそれに従って動くのだろうか?

正確な情報は、人間の論理的な部分に訴えかけますが、「怪しい情報」は、感情を含めた、人間の全体に訴えかける。

エビデンスが言われ始めて約20年、古今東西正確な知識で人が動いたことはなかった。感情を含めた全体が理性をも包括して行動を起こしてきた。不断から「自分は騙されない」と豪語する人が振り込め詐欺にかかる。人はもともと信じたいものだけを信じる傾向があるため専門家でさえ奇妙な治療に走る。代替医療の治療家は独自の理論を真実と信じて疑わない。このことは西洋医学の医師についても同様だ。薬草売りとして思うことは、エビデンスの考え方がなかった頃成立した漢方薬は利用に値するのか?現在も代替医療や民間療法の生息地があるのは間違いはないが、エビデンスとの乖離は否めない。漢方はおおよそ効かないが感情を含めた全体で考えると、いくらか捨てがたい効果がある。漢方の仕事は古代の医療文化を伝える学芸員のようなものではないかと思っている。

 

 

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