【百味箪笥】


百味箪笥(W・H・D/95.5×88.5×23.0):宝暦14年(1764)に作られ、箪笥の裏に大工と制作を依頼した漢方医の名前・住所・製作年が記されている。骨董に詳しい知人を通じて入手し、店舗のディスプレーとして、ネットの普及に際してはホームページの表紙として利用した。

1764年に京都で制作され京都の漢方医が使っていたものだ。同じ頃、京都では古方漢方の吉益東洞が活躍していた。このような箪笥を使っていたのかもしれない。

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時々お客様から「代々伝わるものか?」と聞かれるが、「先祖は農家で医療とは無縁、これは骨董屋で買い求めた」と答える。天板と背板が杉材で修復された以外は、桐材を竹釘を用いて作られ、ほぼ原形をとどめている。湿度が上がると桐材が膨張し密閉状態になり、湿度が下がると収縮し通気が良くなり、生薬の品質が保てるという。

しかし、密閉とはいえ、たかが知れている。現在のガラス容器やポリ容器に比べると密閉の度合いは天地の差だ。虫、カビが発生すると容易に隙間を移動し、他の生薬まで被害が及ぶので、もっぱら薬袋やポリ袋等、資材の収納に利用している。

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箪笥を引き出すと、側面のいくつかに薬効・薬能のメモが見つかった。写真の箪笥の中身は川弓(センキュウ)だと思う。手垢の付いた桐材に先人の息吹を感じる。

 
【注】:吉益東洞(1702〜1773)、安芸の国(広島)出身で名は為則、、はじめ東庵といい、のちに東洞と改めた。代々、刀傷及び産科専門の医者であり、先祖は遣唐使に随行し唐に渡り医学を学んでいる。吉益東洞は古今の医学書を隅々まで読み、「病源」及び「千金方」以下劉、張、李、朱の学説は役に立たないと考えた。また、名古屋玄医と後藤艮山の影響を受け百家の医学書を広く読み、当時の医者がただ温補を施し、陰陽、五行に拘泥して病因を論じ、師匠の教えを受け継ぐのみであることに憤りを感じた。1738年吉益東洞一家は同郷の儒医堀正超の所をたより京都に出る、そこで吉益東洞は古医道の研究に没頭した木の人形を作ることで生計をたて、「傷寒論」の研究に取り組んだ。

1746年、吉益東洞は質屋で質入れをする時、偶然質屋の主人の母親への処方を見て一言「石膏をのぞくと良い」といった。このとき処方を行っていた当時朝廷の名高いご典医だった山脇東洋は、質屋の主人によって伝えられた東洞の言葉をきき感服した。このことで山脇東洋の推挙を受け、吉益東洞は名をあげた。自ら調べ実証することを堅持し、陰陽、五行、脈象、本草、病因を否定し仲景の古方のみを用い、日本漢方の「方証相対」という特色と伝統を築いた。

吉益東洞は「医術を学ぶには、方が一番大切だ…方と証は相対関係にある」として病因のことは論じていない。「万病はすべて毒によって生じるが、多くの薬も皆毒物なので、毒によって毒を攻め討ち、毒が去れば病を治療できる」と述べている。吉益東洞は30歳で「万病一毒」ということを悟り、50歳で「類聚方」を著している。東洞は、現在、古方派の漢方家から無条件に賞賛されているが、江戸時代は、むしろ今より冷静に観察、評価されていたようである。現在でも中医や五行を重視する漢方家からの評価はそれほど高くはない。

 

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