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関
ヶ
原
の
戦
い |
時は慶長5年(1600年)9月15日当時徳川家康が一番強い力をもっていましたので、石田三成は、家康の力を何とかしておさえようとして居りましたので、とうとう戦いになりました。大谷吉継は石田三成の親友でしたのでこの戦いに反対しましたが、力を合わせて徳川陣と戦いました。必死の戦いが始まり、この時小早川秀秋が石田三成を裏切ったので家康に勝利がついて、天下の権力をにぎる事が出来ましたので、天下分け目の戦いと言われました。 |
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五人絵の武者幟は、上から順に
石田三成 大谷吉継 西田行長 徳川家康 小早川秀秋
が描かれています。 |
宇
治
川
の
先
陣
争
い |
治承1年(1176年頃)この時 柏原景季と佐々木四郎高綱は、お互いに宇治川をまっさきに渡ってやろうと、心に期していたのである。柏原の馬は、宇治川を渡るには申し分のない黒くりげのすばらしい馬です。佐々木の馬ははるかにおとっておりましたが、佐々木は一計を案じて、柏原にむかって馬の服帯がゆるんで居ると言って注意したので、柏原は馬の服帯に気を取られている隙に、佐々木はこの時こそと追いぬいて一番乗りの栄誉を自分のものにしてしまったのです。このあと畠山重忠は馬を背にからい、いつもお前にはお世話になるからと言って渡り、ほかに和田・江崎・数十名の先陣争いの場です。 |
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五人絵の武者幟は、上から順に
佐々木四郎高綱 和田八郎 畠山重忠 武蔵坊弁慶 梶原景季 です。
三人絵の武者幟は、上から順に
佐々木四郎高綱 畠山重忠 梶原景季 です。
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川
中
島
の
戦
い |
時は永禄四年(1561年)9月 こんどこそ武田勢を全滅させようと、上杉勢はたけだの本陣めがけて総攻撃しました。両軍入り乱れての血みどろの戦いだったので、武田信玄の弟信繁は戦死するほど、どちらもたくさんの死傷者が出ました。この時 上杉謙信は、愛馬に乗ってだだ一人、敵 味方をかきわけて、武田の本陣に近づきました。そこにははげしい戦いのため、近くに守る者もおらず、信玄一人がいすに座っていました。謙信はこの時とばかり、刀を持って信玄にきりかかりましたが、信玄は手に持って居た軍配で、これを防ぎました。謙信は、なおもきりつけようとしましたが、こんどは信玄の家来に、馬のしりを槍でつかれ、信玄をうち取る事が出来ませんでした。この合戦でも勝負がつかず、両軍とも引きあげました。 |
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五人絵の武者幟は、上から順に
小畑山城 横田備中 上杉謙信 武田信玄 武田信繁 です。
三人絵の武者幟は、上から順に
横田備中 上杉謙信 武田信玄 です。 |
大
坂
夏
の
陣 |
時は元和元年(1615年)四月徳川家康は難攻不落の大坂城を攻撃しました。前の冬の陣のとき攻めあぐんだ家康は淀殿をはじめ場内に厭戦派が形成されてきたのにつけこんで講和を結び諸大名を動員して全部の濠を埋めてしまいました。こうして裸同然になった大坂城は守る真田幸村らの敢闘にもかかわらずついに五月八日徳川家康が勝ちました。 |
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三人絵の武者幟は、上から順に
真田幸村 徳川家康 大久保佐衛門 です。 |
太
閤
・
加
藤 |
伏見大地震の折、伏見城が大きな被害を受けました。加藤は伏見城修復の為、一番にかけつけて見事に修復しましたので太閤に大変感謝されました。絵は修復の指揮をとる太閤・福島・加藤です。 |
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三人絵の武者幟は、上から順に
太閤・加藤清正・福島正則 です。 |
太
閤
と
佐
久
間
玄
間 |
時は戦国時代、大阪夏の陣の直前の事です。佐久間は非常に剛力無双で、太閤の方は能力がさえておりました。佐久間は何としても秀吉を地上より無き者にしようと思い、ある時一人で馬にむち打ち三十貫の鉄の棒を振り廻して、陣内へ飛び入りましたが、あまりにも太閤の目のするどさに驚き、討ち取る事ができなかったのです。ねらみ太閣とはこの事です。その時、側にいたのが若い頃の加藤清正です。 |
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三人絵の武者幟は、上から順に
太閣 加藤清正 佐久間玄馬 です。 |
加
藤
清
正
の
虎
狩
り |
安土桃山時代で室町幕府の力が無くなって戦国時代に入りました。加藤清正は、虎狩りを思いつき、清正の槍は片鎌の槍を特別に注文して作り出したのです。この槍で虎を見事に狩り取ったので、敵兵もその事で大変におそれをなしたのです。そばに家来のように居るのは、横田五郎で剛力で知恵者で清正に大変つくした。その後槍は、清正の息女瑠林院様が、紀州頼宣に嫁した時に持参したのである |
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三人絵の武者幟は、上から順に
横手五郎 加藤清正 虎 です。 |
牛
若
丸
弁
慶 |
平治十三年(1171年)牛若丸 母は常盤御前、この頃鞍馬寺にあづけられて居りましたが、なかなかのあばれん坊で天狗を相手に毎日剣術を習って居りました。飛切りの術など、木をバネにして飛び上がり、大変な腕前に成長しておりました。ある時 五条の大橋で弁慶に出逢い、弁慶は牛若丸の名刀に目をつけ、子供だと思って、其刀を私に下さらんかと言いましたが、牛若丸は私を取りおさえたら、刀はあげようと言い、一勝負やりますかと、牛若丸は身構えました。子供のくせにと怒った弁慶は、なぎなたでふりはらおうとしましたが、牛若丸はひらりとらんかんに飛び乗り、目にもとまらぬ早わざで、弁慶のひたい目がけて鉄扇をなげつけ見事命中したので、弁慶は負けたと思ってあやまりました。 |
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二人絵の武者幟は、上から順に
牛若丸(義経) 武蔵坊弁慶 です。 |
価格
※幟の巾や長さによって金額が変わります。
ヤール巾には8.2m 7.5m
大巾には7.5m 6m があります。
※金箔・金銀加工の商品も取り扱っております。
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付属品 小旗・リング(5個)・さる・フレンジ・化粧箱に入れてお届けします。
小旗は、幟の一番上に竹の棒を差し、取り付けます。
さるは、“身代わりざる”と言い、災いさる、病さる、汚れさるの語呂合わせで、昔から伝わっている厄よけです。
フレンジは、幟の下に縫いつけ、幟の豪華にしてくれます。 |