「オメガ・バンドの夜」(後編) ぼくが頷いて微笑むと、白い湯気を立てるコーヒーカップを手渡してくれた。 「凍らないうちにどうぞ。」 「ありがとう。」 ところで、カナダの冬と言うのは冗談でなくて寒い。死ぬほど寒い。お湯でもあっという間に凍る。コ ーヒーもバナナも豆腐も凍る。 眉毛も凍れば鼻毛も凍る。鼻水も凍ってしまうので、嫁入り前のお年頃には非常につらい場所であ る。 「どうしてこの場所を選んだの?」タマラが聞く。彼女が言っているのは、なぜここでオーロラを見るこ とにしたかということだ。 確かに、あまり人が選ぶような場所ではない。なぜなら、オーロラを見たいのであればシベリアの 方に行ったほうが、よっぽど良く見えるからである。 でもだからって、ここでオーロラが見られないというわけではない。ぼくは、タマラにそう言った。 「それはそうだけど。でもなんか不思議ね。はじめにここに来ようと言い出したのは誰なの?」 「部長って事にしておいて下さい。」本当はぼくだ。 「そうね。」 そこで会話が途切れた。 右手の方で、何かが動いた。ぼくの手が自然に動いて、2、3度シャッターを押した。 がさがさと茂みが音を立てて、正体不明の小動物は永久に正体不明になってしまった。手の中の カメラが、ジーッと言う音を立てて、フィルムが切れたことをぼくに知らせた。 「なんだったの?」 遠慮しているのか、タマラが小声で説明を求めてきた。 ぼくは首を振り、新しいフィルムを懐から取り出しながら、「さあ。でも、いい絵が撮れたと思います よ。」 「どうしてわかるの? 被写体が何かもわからないんでしょう?」 「カンです。」 「凄いなぁ、ショーヘーは。」 そこでまた、会話が途切れた。 極寒の地、音はない。空気は突き刺さるように冷たいが、だからと言ってどうするわけでもない。 テントに入るほどでもない。寧ろ今は、これがとても心地よい。 ミントー湖面に、位置の低い月が映っている。まったく揺れず、まるで月が二つあるように思える。 このまま歩いていき湖畔に立って水面を見下ろせば、ぼくとまったく同じぼくが映るだろう。二人の ぼくが、そこには存在することになる。 湖面のぼくか、ぼくのぼくか。本当のぼくはどちらなのか、もしかしたら、湖面のぼくが本当のぼく なのかもしれない。 しかしきっと、今の自分にはどっちでもいいことなのだ。どちらのぼくも、今このとき、この瞬間は獲 物を狙う獣だ。 カメラという凶器を手に、獲物を虎視眈々と狙うハンター。この突き刺さるような寒さが、今のぼくに は針のような緊張感を生み出させてくれている。 ……普段のぼくにとってはこの寒さは恐怖なんだけどね。 「カメラとタマラって、似ていると思わない?」 突然タマラが言うので、ぼくは呆気にとられてしまった。擬態語で表すと、”ぎょっ”となるといったと ころだ。 「どうしたんですか、突然。そりゃあ、似ているとは思いますけど、それが? ……もしかしてギャ グ?」 今日はどうも驚かされることばっかりである。湖面に映った月を凝視しながら、しかしタマラはまった く意外な答えを返してきた。 「昔、夫が言っていたのよ。もう死んじゃったけどね。」 すぐ隣にタマラがいるのに、そちらを見ることが出来なかった。ただずずっとコーヒーを啜った。 ぼくは、「ふうん。」としか答えることが出来なかった。 「夫は考古学者でね、エジプトの方で発掘作業をしていたんだけど、その発掘した遺跡が突然崩れ て、死んだわ。その当時はもう……小さい子供を抱えてどうしたらいいのーなんて嘆いていたけど、 実際問題としてはいつも以上に忙しくなっただけで、普通にやっていけることに気がついたの。」 タマラは既にカチンコチンに凍ってしまったコーヒーを両手で弄びながら、続けた。 「まったく……あの人は一つのことにのめり込むと周りが見えなくなるタイプだから、気をつけろと口を すっぱくして言っていたのだけれど。周りを見なさ過ぎだからああいう事になったのね、きっと。」 「タマラさんは……。」ぼくは躊躇いながら聞いた。「ぼくがその旦那さんと似た……猪突猛進タイプ だから、一緒にいてくれるんですか?」 「うーん。」 タマラは眉間に皺を寄せて苦笑いする。 「それはそうかもしれない。なんかほっとけないって感じ。ユミコが君を気にするのもわかる気がする のよね。」 「何を言うんですか。」 部長もタマラも……まったく。 「でも、夢を追う男って、やっぱりカッコウイイと思うけどな。オーロラをひっそりと狙うカメラマンなん て、クールでいいじゃない。」 「……。親父も、そうだったから。」 「そうなの。」 と、タマラが白い息を吐きながら微笑んだとき。 ――しゃらんしゃらん。 サンタクロースが赤ッ鼻のトナカイで空を飛ぶ音を、確かに聞いた。 顔を上げずとも分かった。心臓の鼓動が以上に早く、高鳴っている。顔を上げなくても体が興奮して いる。 オーロラだ。 「ショーヘー!」 タマラが立ち上がって叫んだ。 ぼくももう、我慢なんて出来なかった。勢いよく立ち上がって、貪るようにシャッターをおしまくった。 テントの中から天文部の人たちが次々に出てきて、歓声を上げる。優美子がバカみたいに口を開 けっ放しにして隣に走ってきて、叫んだ。 「祥平くん、オーロラだよ、オーロラ! 見てるのッ?」 「オメガ・バンドだよっ。」 必死にシャッターを押しながら、手短に答える。もう、口を開くことさえもどかしかった。喋ることに気 力を使うよりも、右手の指先だけに神経を集中してしまいたい。 「凄い……本当にΩ(オメガ)の形をしている……。」 自然に、そんな言葉がぼくの口を突いて出ていた。 そして、記憶がフラッシュバックする。あれは確か、ぼくが大学に入ったばかりの頃だったと思う。 父が半年振りに家に帰ってきたので、一緒に酒を飲みに行ったときだ。 父は、ほろ酔いだったのかもしれず、いつもはしない昔話をぼくに聞かせてくれた。 母と出会って間もない頃のことだ。 母は父に、いつかオーロラが見たいと言ったらしい。カナダ極北部でしか見られない、オメガ・バンド というオーロラを。 そのとき父は大した興味も湧かずに頷いたのだが、母に去られてからは頭の片隅でずっと響いて いたとか。 そして、このミントー湖へ行くことを決めて、死んだ。 父をそこまで駆り立てたオメガ・バンドという魔物を、ついにはぼくも見たくなってしまったのだ。 オーロラは魔物だ。 所詮は自然現象に過ぎないはずなのに、ぼくを捕らえて離さない。 ぼくはオーロラに魅せられてしまった。 ――しゃらんしゃらん、しゃらんしゃらん……。 その音が再び聞こえて、ぼくははっとした。 タマラの涙に濡れた横顔が、薄青いオーロラの閃光に照らされてとても美しく見える。 そしてその脇に、興奮隠せないようにいきり立つ優美子の横顔も、言いようもなく美しかった。 ぼくはゆっくりと後ずさりながら、オメガ・バンドをバックにタマラと優美子を撮りまくった。 フィルムが切れたら交換して、また撮りまくった。寒さで指の感覚がなくなっても、撮りまくった。ど んなに体が凍えようと、何度も撮りまくった。 そして遂に最後のフィルムが切れたとき、ぼくはようやく、ファインダー越しでないオメガ・バンドを目 にした。 これがオーロラだった。 頭上で光を放つただのネオンサインは、群青の寒空に青い閃光を走らせ、ぼくを魅せる。白い息ま でもオーロラに変わる。 父が導いたカナダの大地は、素晴らしいものをぼくに見せてくれた。 次から次へと涙が溢れて止まらなかった。きっと、次から次へと凍ってひどい顔になっているに違い ない。 オメガ・バンドの夜。 ぼくは不意に、今度のコンクールに出展しよう――そう思った。 了 written by, 姫皇子
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