十四、信仰告白

 
 
 
  信仰告白

人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である

 
 
 
  宗教は

いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである

しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである

 
 
 
  感謝と呪い

人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている

人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている

しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある

 
 
 
  信仰・宗教・学問

信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません

学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します

神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します

 
 
 
  祈りと叫び

いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから

 
 
 
  信じて信じて

一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば山上の垂訓から
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない

 
 
 
  神とキリスト

神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません

もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです

主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました

全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない

 
 
 
  絆(きずな)

どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない

痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって

あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか

心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり

 
 
 
  去り際の願い

いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう

願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを

 
 
 
  人の季節

うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい

許さない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
忘れたのだが
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりして
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく

ひょっとしたら
許さない、ではなくて
許されない
許されるものか
であったかもしれない

熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
許していただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに

 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)

病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない

病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で

負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない

長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う

聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと

 
 
 
  耐えてひるまず

虐げられたという怒りの前に
なだめるように墓標は立つでしょう
虐げたことは一度もないと言えますか
そして哀しげに見回すでしょう
恨みを晴らしたいのですか
それとも不正をただしたいのですか
恨みを晴らしたいのなら
怒りに身をゆだねるのが早くたやすいこと
しかしもし不正をただしたいのなら
いかなる闘いにおいても
人が人を切ることの恐れと罪を知り
義を足場として固く立つべきでしょう

怒りは怒りを生むだけだから
いかなる不幸を前にしても
最後まで耐え忍ぶべきことがあるはずです
あらゆる理不尽と不正と
差別と犯罪に対して闘うことを
勇気と呼ぶために

主イエスは言われました
「心の柔和な者は幸いである」
そして命を賭した柔和さを示されました

この身はたとえ死の谷を歩もうとも
墓標の石板に
それら勇者の名は刻まれる
人には悲しい戒めのように

ディスクリミネーション
クライム


耐えてひるまず




  キリストの神格と人格

父・子・御霊(みたま)の三位一体でも
神が遣わされた神の子でも
いいのです所詮は聖書の解釈に過ぎず
全知全能の神は
全知でも全能でもない人によって
規定されるようなお方ではないのです
キリストは人か神か
キリストの神格を否定はしません
しかし
キリストが救いを人に述べ伝えるとき
神のレベルで話して人に伝わるでしょうか
神性は人間性から見ると
しばしば理不尽でさえあるのです
人間に理解できるキリストは
あくまで人間のレベルで
語りかけてくださるキリストです
神格が人格の低みに
身を下ろしてくださったとき
キリストはメシア以上の
イエス・キリストとなられました




  小屋から

小屋から屠殺(とさつ)場まで
死ぬのは一瞬で
死んだあと食われること
など分からないから
殺されるとも知らずに
飼葉(かいば)をのんびり食(は)んでいます
涎(よだれ)を垂らして何度も何度も
反芻(はんすう)しながら

小屋から刑場まで
飼葉桶(かいばおけ)から十字架まで
殺されると知りながら
血と肉の
ブドウ酒とパンの福音を
罪人とされた人々に述べ伝えながら
来し方・行く末を何度
反芻されたのでしょうか
民族も人種も違う東の国の
家畜以下の怠け者が一人
深い罪の淵(ふち)で
あなたに こだわっています
気の遠くなるような時を超えて




  言質

何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ

いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか

神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か

(聖なる立場で物を言うべからず)

されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか

 
 
 
  罪と許し

思い切って言ってみます。
「罪は決して許されることはない」
 もちろんこの命題は逆説であり、それを通り越してむしろウソというべきかもしれません。罪は許していただく以外に救いはないのです。では何故こんなことを言うのかというと、「許す」ということについて少し考えてみたいのです。素朴にまず人を例にとって、あくまで人の知恵で考えてみます。
 Aという人がBという人に、窃盗でも侮辱でも何でもいいのですが、罪を犯したとします。Aは罪を悔いBに謝り許しを乞います。BはAに言います。「Aよ、私はあなたを許す」。この場合Bの記憶の中にAについて何が残るでしょう。「Aは罪を犯さなかった」「Aは罪のない人」ではないはずです。「Aは罪を犯したが罰することをしなかった」という記憶のはずです。つまり「許す」とは「罪をなくす、消す」ということではなく「罪を罰しない」ということになる。しかもそれは罪を犯した者が罪を知り悔いているから起こりうることなのです。「罪が許される」とは「罪が消える」ということではないのです。
 さて神に対してはどうでしょうか。やはり同様に考えるべきではないでしょうか。ただ神様は人が自らの罪のために本当に苦しんでいるならば、これを憐れみ「罪を罰せず、さらに慰めを与え正しく生き続けることを勧められる」かもしれません。実際に神様がどう考えておられるかはわかりません。人の知恵では神の知恵は計り難いからです。神の立場で考える愚は避けたいものです。たとえば神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神はすべてを常に知っておられると考えるべきでしょう。人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで人の知恵で想像しているに過ぎないということをわきまえるべきだと思うのです。
 人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔もその中にある嘘と本当を見抜かれる全知全能の神様に対しては偽りを向けてはならないはずです。また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない場合もあるでしょう。信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性を押し殺すようなことをするべきではない。特に神様の前ではどこまでも正直な告白と祈りができるように努めたいものです。
 少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は許された」という言葉は命をもって与えられます。「告白すれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して許されることはない」。

 
 
 
  異教徒

私はクリスチャンである
それにふさわしい生活はしていないが
自称クリスチャンの端くれである
キリスト教は人格的唯一神信仰である
神様のことは知らない
我が主イエス・キリストについて言えば
私の信仰は排他的である
異教の神々を認めるなど以ての外である
私は縁あってイエス・キリストだけに
望みを託すものである
だからキリスト教と異教の
共存・和解ましてや融合など考えない
彼らと仲間になる気などさらさらない
では彼ら異教徒についてはどう言うべきか
地獄へ落ちる者か人でなしか
あるいは悟らない恵まれない者と言うべきなのか
無神論者を含めて彼ら異教徒
血も涙もある人間であることに変わりはない
(中にはそう思えない者もいるようだが
そういう事情は人間共通のものだ)
尊敬に値する優れた人物もいる
紛れもない事実として異教徒が
人間として存在する
同じ人間なのだから
ただ同じ人間・人格として尊重して
苦難の時代をともに生きるべきである
言うまでもなく彼らは
クリスチャンより上でも下でもない
クリスチャンもただ人間に過ぎないからである
私もただ人間に過ぎないからである
軽んじてはならず哀れむべきでもない
と書いたのはそのためである

しつこいようだが
私の信仰は排他的なのである
クリスチャンの人々にさえ
理解してもらえそうにないのである

 
(関連→「ウソの国」→「信仰と希望と」→「選ばれた民」)
(関連→「ウソの国」→「信仰と希望と」→「人間宗教」)

 
 
 
  できることを

たまに訪れる
小冊子・パンフレットを持って
キリスト教系の新興宗教
彼らの多くは金持ちではなさそうだ
ぎりぎりの貧しい生活に耐えながら
暇を作って布教活動をしている人を
少なくとも一人は知っている

昔見たことがある
粗末な服を着て列車の中
揺られながら何か手帳にメモしていた
大きな荷物を傍(かたわ)らに置いて
ひたむきに祈るように
これもキリスト教を名乗る新興宗教

彼らの主張や聖書の解釈は
私にはとうてい受け入れがたい
はっきり言えば間違っていると思うのだが
ふとキリストの言葉を思い出す
「彼女は自分の出来ることをしたのだ」

彼らが駆り立てられて暴力に走るなら
明確に否(いな)と言えよう
しかしもし彼らが一生涯を
清貧のうちに貫(つらぬ)くなら
神様は裁き・憐れみ・御国へ至る道を
ただ単に宗旨(しゅうし)や解釈の
違いや正誤によって決められるだろうか
神様が人を見て顧(かえり)みられ
憐れまれるのは・・・
私は恥ずかしさに項垂(うなだ)れ
またキリストの言葉を思い出す
「先の者が後になり、後の者が先になる」

 
 
 
  どっちを選んでも罪

 仮に極端な話ですが、既に百人を殺した者が目の前にいて自分を殺そうとしたとき、彼を殺すのが正しいかどうか。殺せば理由がどうあれ人殺しをしたことになるのだから、それは罪です。決して正義ではありません。
 では殺さず殉教のつもりで殺されたとしたらどうでしょう。彼はさらに千人を殺すかもしれません。その中には愛する家族や隣人・友人も含まれるかもしれないのです。隣人を愛さなかったという、これも罪です。たとえ殉教であってもです。逃げたとしたら殉教でもなく、やはり同様に罪なのです。
 つまり殺す・殺される、どっちを選んでも罪なのです。では実際どうしたらいいのか、語る口を私は持ちません。しかし何(いず)れかの行動を人はすることになります。これは極端な場合の話です。
 しかし今の世に生きる限り、このような極端な場合でなくても何かを選びながら何かを切り捨てながら人は生きていくのですから、どっちを選んでも罪ということがむしろ多いように思います。罪を免れる世渡りの方法などない。
 義人はいない、一人もいない。キリストは罪については厳しい見方をしておられた。罪を認めない者にはあくまで厳しかった。罪が許していただくほか救いがないように、認められていない罪は許しようがないのです。
 人という罪にまみれた創造物は、神の前においては裁かれるだけの存在であるということではないでしょうか。ここにおいて私が言いたいのは人が天国というところに行けるとすれば、それは人が正しかったからとか義とされたからではない。人間は、創世記が示すように、全(まった)き正義に生きることができる存在として創られてはいない。
 人は神の裁きの場において、神に憐れまれることのみによって御国・天国へ行くことを許される。それ以外に御国へ至る道はない、というのが私の妄想的排他的確信の核心であります。

関連→「ウソの国」→「信仰と希望と」→「勇敢な兵士」

 
 
 
  イエスの教え

 イエス・キリストの教えの中にある到底守れそうにない、無理難題としか思えないもの。前にも述べたが代表的な三つの教えを再びあげてみる。
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 一は心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれない。限度はあるだろう。二は十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理だろう。私はその方面は恵まれない者であったが性欲自体はごくノーマルだと思う。欲求不満がようやく枯れつつあるが、それでもやはり無理難題である。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。三になると死を覚悟しなければならない。これがまず難しいことである。守れるクリスチャンがどれだけいるだろうか。私はもちろん自信がない。さらにそこまでしてこれを守ることが他の人のためになるだろうか。この教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのである。極言すればイエスの教えを完全に守れる人はイエス御自身だけではないかとさえ思うのである。
 教えを守れる人がいるとすれば尊敬に値するし実際殉教した人たちがいるわけだから教えを無視することはできない。しかし教えを守れない人は天国に行けないのであろうか。イエスは罪を知る者には許しと癒しを与えた。イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の話を思い出す。犯罪人でさえ当然の報いだと罪を認め救いを求めた者には「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたキリスト・イエスであるのに何故あのような厳しいことを教えられるのだろう。
 イエス・キリストはやさしかっただけではなかった。戒め・律法を守っているがゆえに罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦している。律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのではないか。
 罪を知り、悔い改める者が天国へ行ける。この教えはヨハネに通じる。しかし悔い改めたら改まるのであろうか、もはや罪を犯さなくなるであろうか。目覚めて勇敢な使徒となった人たちは別として、私のように悔いても悔いても罪を犯し続ける人間もまた憐れむべき罪人として見抜かれて主イエスの視野の中に入っていたと思いたい。罪と告白と悔い改め、その繰り返しの中でキリストの前に悲しみと喜びをさらけ出しながらともに歩む人間を求めておられたし求めておられるように思えてならないのである。

 
 
 
  コリント一・十三・愛の賛歌

寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
とうに「愛」は死んだが
ここにおいて
まだ「愛すること」は死んでいない
守れる者が一人もいないからである

 
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 コリント人への第一の手紙・第十三章、聖書では有名で「愛の賛歌」とも呼ばれる。この章の最初にパウロは、どれだけ厚い信仰を持っていても愛がなければ全ては空しいことを説いている。次に前述の言葉を全て肯定形にした愛のあるべき姿を示す。さらに愛はいつまでも絶えることがないが、預言は廃(すた)れ異言はやみ知識は廃れるであろうという。
 異言とは宗教的恍惚・忘我状態において発せられる言葉のことである。預言は聖書においては未来に起こることを言う予言というより、それら予言や先見を含むこともあるが神から託された言葉を啓示として述べることをいう。
 確かに預言も異言も今の時代では、いかがわしいものとして廃れたと言ってよいだろう。そして愛も、依然として憎しみも絶えることがない。
 パウロには元々キリスト者を迫害していて後に改宗したという負い目があったと思う。それ故であろうか殊更に熱心な伝道者であった。伝道者であるから、この章においても信仰について語っているのである。
 しかしここで私の思い込みについて述べておこう。愛は男女・親子・人間愛の全てを含んでいるように思えてならない。愛は、特に愛するということは、男女の愛(セックスという意味ではないよ)も親子の愛も信仰上の愛も全ての愛は本質的には同じものだと思っている。恋愛の愛は性愛を孕(はら)んでいて複雑で見えにくくはあるが愛と呼べるものが残るとすれば他の愛と変わりないものだと思う。
 そしてここにおいてパウロが述べているのは人が人を愛しているという状態としての愛だけでない。それよりももっと愛するという行為を賛美するとともに、その難しさ・厳しさを説いていると私は受け取っている。
 興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。愛という言葉が殆ど死語に近いので表現しにくいのだが、人間の信仰は人間の持っている暖かい感性に響くもの即ち人間としての愛がなければあり得ない、そこから離れたものになってはいけない、人間の信仰は人間離れしてはいけないと言っているよう思えるのだが如何だろうか。

関連「ウソの国」→「信仰と希望と」→
「光の子」
「人間離れ」
「人間宗教」

 
 
 
   偶像

 カトリックとプロテスタントの違いの一つとしてよく言われることに偶像の有無ということがあります。確かにプロテスタントの教会にはキリストの磔(はりつけ)像もマリアに抱かれたキリスト像もありません。カトリックの人はイメージとしてだから構わないというかもしれません。しかしキリスト像やマリア像のかもし出す独特な雰囲気には怪しげなるものを感じます。大仏や美しい仏像・神社仏閣を見たときに感じる荘厳な雰囲気に似たものがあるかもしれません。しかしここで述べたいのは眼に見えるイメージとムードだけの偶像のことではありません。プロテスタントには偶像はないのでしょうか。私はそうは思いません。カトリック・プロテスタントを問わずキリスト者(クリスチャン)にはもっと警戒しなくてはならない偶像があります。それは目に見えない心の中の偶像です。
 キリスト教の教典は言うまでもなく聖書です。しかし聖書は神様が自ら筆を取ってかかれたものではありません。聖書は様々な時代の様々な複数の著者、つまり紛れもなく人間によって書かれた書物です。それを教典・聖典とするのは人格的唯一神であるキリスト教の神様とその御子なるイエスキリストについて書いてあるからで、また聖書のほかにそういう書物がないからです。したがって著者たちの霊感つまりインスピレーションに信頼して神と人との契約について書かれた書物としてキリスト教の唯一の教科書として聖書と呼び学ぼうとするのでしょう。
 しかしながら聖書は易しいようで難しく難しいようで易しい不思議な書物だと思います。その一行によって救われる人もいれば一生を費やしても知識だけが増えていくだけということもあるでしょう。聖書を読めば読むほど信仰が深まるという保証は私の知る限りありません。言い換えると聖書をたくさん読んだ人の信仰が一行しか読んでない人の信仰より深く正しいというものではないのです。もちろん聖書を読むなと言っているわけではありません。信仰というものは誰のがより良くて誰のがより悪いあるいは間違っているなどと比較することは人間にはできないということです。聖書を読み、その言葉に触れることが全くなければ信仰に至ることはないのですから聖書を読むことは大切です。また信仰生活の中心でもあります。キリスト者も洗礼をまだ受けていない求道者も聖書を読み聖書についての解説書や参考書を読みます。また牧師や神父から説教を聞き解釈を学びます。時には感動したり感心したりすることもあり知識として身についていくこともあるでしょう。しかしある時の感動や蓄えられていく知識は、それはそのまま信仰と言えるでしょうか。聖書の解釈は人間がすることです。だから様々な解釈があります。私は文献的考察を視野に入れた伝統的な解釈を信頼します。しかしそうではない解釈をする人たちもいます。また伝統的な解釈にも細かい部分では語る人によって違いがあるのです。人間のすることだから間違いや不十分なところや分からないところは必ずあるとみるべきでしょう。しかしわかったと思っている部分については解釈は往々にして排他的です。
 そこで本題に入っていきたいと思います。心の中の偶像とはなんでしょう。聖書の言葉、ある時の感動、解釈とその知識という自分が知ったことを人間は受け入れ、しばしばそれが信仰だと思っているということです。感動は既に失せてしまった知識さえ理屈のように辻褄を合わせて信仰と思い込んでしまいやすいということです。信仰は知識でしょうか。物の考え方・思想・倫理観でしょうか。そうではないはずです。信仰は神と人との契約に基づいています。神様が関わっている以上、神様から与えられるものだとみるべきでしょう。人間の方から神様に契約を結びに行くことはできません。人間が人間の知恵だけで作ったり勝ち取ったりするものではないはずです。キリストとの出会いは理屈だったでしょうか。いつのまにか知識や理屈・倫理観にすぎなくなっているもの、ときには思い込みや掟や戒律のようにさえなっているものを信仰として守らなければならないと思わせている心の働きを心の中の偶像と呼びたいのです。キリストとの出会い・絆(きずな)によって与えられ自分をキリストから離さないでいる信仰は理屈ではありません。生きていくのには知識も倫理観も思想も必要でしょう。しかしそれと信仰を混同してはいけないと思います。ここで一つの命題をあげておきます。本質的なところでは、
 信仰に
 信条はない
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように片方の合意がなくなれば消えてしまうというものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしてもキリストがその絆で捉えて離しません。何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。推測ですが、その「くびき」は人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるといったような部分に結び付けられているからではないでしょうか。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しかし言葉に尽くせるものではありません。
 それでも自分の信仰は百%ピュアであり自分には心のうちに偶像などないという人には私も何も言うことはありません。自分の心の中に偶像がある、あるかもしれないと思う人にだけ話を続けましょう。では心の中の偶像を少しでもなくし純粋な信仰を持つためにはどうすればよいのでしょう。ここでもう一つ逆説的な命題をあげます。
 信仰を純粋なものとして守るために
 人間の方から積極的に取りうる唯一の手段は
 信仰を捨てることである
悪魔は人の心の中に偶像ができることを喜びます。それは人にキリストとの絆を見えにくくするからです。内省して偶像だけをなくそうと思っても人には難しく人よりは強い悪魔が容易にそれを妨げるでしょう。神様がそこで助けてくれるかもしれませんが御心は計りがたく、その保証はないかもしれません。しかし人が信仰のすべてを捨てようと思ったらどうでしょう。信仰のすべてを捨てるなら悪魔は喜び邪魔をしないでしょう。そして神様はこの最終的な危機においては、もはや御子との絆を固くして契約を守られるでしょう。神様が守られるのだから神様にはかなわない悪魔はそこまで手を出すことはできません。これは神様を試みることではないかと思う人もいるでしょうが、純粋な信仰に立ち返りたいという人の気持ちと危機感が本気であるならば神様を試みることにはならないと思います。信仰の悪いところだけ取り除いてなどという甘い考えではいけません。信仰のすべてを否定してみるだけの覚悟が必要です。しかしこの段落では「神」と「人」と「悪魔」の関係について知識に基づいて話を単純化しすぎたので話が観念的で詭弁くさい感じにさえなっていることを反省します。それほど信仰というものは言葉では尽くせないものなのだと思います。
 信仰を捨てる、捨てにかかるというのは聖書を読むのをやめるとか教会に行くのをやめるということではありません。聖書を捨ててしまっては信仰を守るどころではないでしょう。具体的な方法を明示することは私にはできません。私は体験を語るほかありません。私は「基督の歌」の中で起こりうる最悪の状況を設定してそれで否定できる信仰なら捨ててしまおうという一種の思考実験を詩という方法を用いて試み自分の信仰を問い直してみたつもりなのです。その結果いかなる悲惨な姿であってもどうしてもキリストのイメージだけは消えなかったのです。思考実験・詩という方法、苦肉の策というべきでしょう。それほど迷っていたということですが、それでもまだ十分とは思えません。主の導きにより我が主イエスキリストとの絆の固からんことを祈るばかりです。
 人格的唯一神はその御子イエスキリストによって呼べば人間の持っている感性のレベルで答えて下さる神様です。人がキリストに近づくのではなくキリストが人のレベルに近づいて下さるのです。したがってキリストとの絆は強くそして暖かい絆です。決して人間離れした超越的な感覚を要求するものではありません。最後にあと一つ命題をあげて終わりたいと思います。
 信仰が恐怖によって人を駆り立てるとき
 その信仰は偽物か偶像である

 
 
 
  偶像イズム

イズムがあふれている
思想ならばいい
倫理でもよかろう
人には考える自由があるのだから
人の知恵であることを知る限りは
それゆえ間違うこともあると
知っている限りは

私は主イエスを慕い
我が主と呼びながら
腹の中にある
偶像の腐敗を
まだ消化しきれずにいる
それに気づいていながら
まだ気づかないもののために
私は癒しと恵みを受けながら
主を裏切り続けている

思い上がってはいけない
主の御名をみだりに唱えてはならない

信仰が
限りある人の知恵と知識を振り回し
神の御名の下に命令を掲げるとき
その信仰は
思い込みか偶像である

本質的なところでは
信仰は
○○イズムになるようなものではない
多くの宗教人が信仰の名の下に、そして
間違うことのない絶対者の名の下に
間違っている

 
 
 
  科学・歴史と信仰について

 例えば仮に、極端な話ですが、科学的に歴史上イエス・キリストは存在しなかったことが証明されたとしましょう。それはショッキングなことです。受け入れがたいことでもありますから反論を試み期待するでしょう。しかしそれが間違いなく科学的事実であるならば、私はそれを認めるでしょう。歴史上イエス・キリストは存在しなかったと。しかし一方でつぶやくでしょう。それでも私はイエス・キリストに出会ったと。ちょうど数世紀前に高名な科学者が宗教裁判でつぶやいたように。
 宗教的歴史観やそこから生まれた世界観・人生観・哲学・教義・戒律が信仰ならば、歴史観が崩れれば信仰も崩れます。前述の仮定に戻ると私を含め多くのクリスチャンが動揺するでしょう。懸命に反論した末に思い込みを強くする人もいるでしょう。信仰を捨てる人もいるでしょう。私はむしろ、それで捨ててしまえる信仰なら捨てたほうがよいとさえ思います。そういう信仰は思い込み・偶像に過ぎないと考えるからです。しかし何を言われても泣きながらでも信仰を捨てられない人がいるはずです。
 私たちは二千年近く前に完成された聖書によってイエス・キリストを知ります。しかしクリスチャンは二千年前のイエス・キリストを信仰するのでしょうか。少なくとも私は違います。私は私の人生の中で出会って今の自分を見つめ支えて下さるイエス・キリストを信仰しているとしか言いようがありません。したがってキリストは、目には見えず耳にも聞こえないけれども現存するイエス・キリストなのです。実存と言ってもいいでしょう。そしてそのお方を人生の永遠の友・同伴者として、救い主・飼い主として必要としているからクリスチャンになり今も自称しているのです。だから二千年前がどうあったにせよ自分が出会ったキリストを否定することはできません。肯定し疑わないのではなく、疑うことのできない信仰上の出来事・真実だから否定できないのであります。
 いかなる宗教も科学的事実を変えることはできません。同じように、いかなる科学的事実も個人の信仰上の真実を変えることはできません。

 
 
 
  神の非存在証明?

この世で人は見えざる神・聞こえざる神に祈りを捧げることができます
ある日死にました そしてあの世あるいは天国へ行きました そこで神に会いました もうこの世を離れ聖なる領域に召されたのだから神に会っても何の不思議もありません しかし神に会っているその場において さらに見えざる神・聞こえざる神に祈ることができます それゆえ今会っている神は偽者ということになり その世界に死があれば死んで 経緯はどうあれ さらなるあの世・さらなる高次の世界へ行ったとします そこでまた神に会います しかしそこでもやはり見えざる聞こえざる神に祈ることができます この神も偽者 と さらに高次の世界へ でも同じことの繰り返し どんなに高次の世界へ行っても本物の神に会うことはできません 本物の神の姿を見ることも声を聞くこともできず それゆえ神の御旨・真意を知ることもできません これは実質的に神は存在しないことと同じではないか
もうお気づきと思いますが、以上述べた神の非存在証明モドキは明らかに詭弁です。何故ならこの世にいたときと同じ意識で考えることを前提としているからです。死後にあの世や天国があるとしても、そこで人がこの世と同じ意識や思考を持ちうるという保証も法則もないのです。「それは御使いのようなもので・・・」というキリストの言葉もあります。
死後の天国 もし在るとしたら そこでは何も疑う必要がなく それゆえ疑うなどということを忘れてしまうような世界なのかもしれない そのような世界をこの世で垣間見ることができたらいいな などということを考えてみたりもします あくまで未だこの世の人として ぽぁ〜んとした夢見心地の気分で首を傾げながら 夢想して遊んでいるに過ぎませんが・・・

 
 
 
  知識と視野

 知識が乏しくて視野が狭いと思っている人、一面的な知識しか持っていないために視野が狭いと思わざるをえない人は幸いです。何故ならこの世には自分の知らないことがたくさんあると思わざるをえないが故にこそ自分の視野の外に無限の未知の空間・キャパシティを残しているからです。
 全知でも全能でもない人の知識・知恵・視野などたかが知れています。人の視野の狭さを指摘する者の心の中には、相手より自分の視野が広いという思い上がりのようなものを感じます。少しでも自分の視野が広いと感じているときには、その視野の外にあるものに目を向けようとしないためにキャパシティ全体は狭くなっている。人より自分の視野が広いと思うことは、人の知恵は自分の傘の中にあって、その外に目を向けることのできない状態なのです。
 視野は
 その狭さを痛感しているとき最も広く
 少しでも広いと思ったり
 狭さを自覚しないとき最も狭い

 専門バカという言葉があります。私はといえば、キリスト教バカになることを切に願っています。そして何よりもキリスト教バカであることを自覚できる人間でありたいと切に祈るばかりです。私に誇れるものがあるとすれば、それは
 私の知恵と知識の乏しさであり
 私の視野の狭さであり
 私の愚かさであり
 私の信仰であり
 私の不信仰である

 
 
 
  わかる

わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう

私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学のお勉強を時々していた
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さ
X軸回転体の表面積
1‐(1/2)+(1/3)‐(1/4)+…
など高校の時に考えもしなかったことが
解けたとき似たような感じを覚える

数学は独特の感覚的理解を要求する
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない
詩にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない

理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の開放感
を必ず伴なう
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない

 
 
 
  耐える

もちろん聖書
キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか

いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない

あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか

ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか

耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う

神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる

人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う




  地獄について

 地獄については、もっぱら肉体的苦痛を与えられる所として絵画などにも描かれているようです。
 あくまで想像〜空想に過ぎません。仮に地獄という所は私にとって一番恥ずかしい・怖いと感じることや、これだけは嫌だと思う場面が延々と繰り返され続く場と考えてみる。だとすると肉体的であっても精神的であっても、これは実に耐え難い所だと思います。
 キリスト教では前世や輪廻という考え方はない。でも敢えて空想してみます。私は何度も自殺したのではないか。つまり自殺者は天寿を全うするまで生まれ変わって人生をやり直させられる。そして同じあるいは似たような試練によって試みられる。
 たとえば自殺して死んで聖なる領域に行くと御使いか誰かに「お前もう??回目だぞ。今度は天寿を全うして来い。天国はお預け。」と宣告される。そのときは何度も自殺したことを自覚できて悔いもする。
 しかし生まれ変わったときには、もうそのことは忘れている。そして未来にどんな試練が待っているかも知らないで、ある時までは元気に育って生きてゆく。そしてまた・・・
 この繰り返しが天寿を全うするまで続くのです。あくまで空想なのですが、それが地獄だと考えると自殺だけはしたくない。それだけは勘弁願いたい。




  悪魔と基督

悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる

基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さない
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ

肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない

このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難である
父・御子・御霊の大いなる導きだけが頼みであり
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である

 
 
 
  ヨブ記とお叱り

ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。

 
 
 
  信仰と条件

空に向かって
口をアパ〜ンと開けて
奇跡が降って来るのを待つ
というのも確かに変だが

戒律でもない
境地でもない
信仰に
条件をつけてはいないか
ならば云々
すれば云々
果ては
ねばならない

祈りましょ
休みましょう
少し元気があるなら
遊びましょ
学びましょう
地から涌き水を
天から恵みの雨を
光を
与えられるものだけ
必ず与えられると知りなさい
注がれる 胸に
恵まれる 膏肓(こうこう)に
病膏肓に入るとも
恵み膏肓に入る
無条件に

 
 
 
  悲劇と希望

クリスチャン・キリスト者の希望
「最後まで残る」という聖句にもある
希望とはいったい何だろう

試練とも導きとも
人には説明できない悲劇が
実際に起こっているという現実
天災であれ人災であれ
生き残った人々にとっては
試練となりうるかもしれない
でも死んでしまった人々は
もはや悲劇を試練と呼ぶことはない

突然のように襲ってくる
そういう悲劇から
キリスト者だけは守られている
悲劇を免(まぬか)れるなんて
とても思えない

キリスト者に残される希望とは?

人が理解できるできないにかかわらず
人が納得するしないにかかわらず
あらゆる人の期待や思惑を超えて
生死さえ超越して
神の御心は必ず成就するということ
そして
いかなる悲劇においても
悲劇の意味を理解できない人間とともに
永遠の友として傍にいてくださり
血を流し苦悩してくださるキリスト
としか今は言えないのです

 
 
 
  祈り・知情意

知が恵まれ
情が感じて
意が欲するとき
人は動く

知・情・意
は連動し
分かれてはいない
むしろひとつである

ただひとつの
いちばん大切なものだけ
お与えください

 
 
 
  ある人に

引くに引けない柵(しがらみ)の中で
無理に無理を重ねて働いて
過労で倒れることが
予め定められた神の御旨であるのなら
私のサタンは退き
人のことを思わず神のことを思い
あなたが天に積むであろう宝
に想いを馳せるでありましょう
しかし私は生きている限り人であり
しかも不信仰な怠け者であり
人の思いから離れられません
あなたのことについて私は
まだ悟ることができません
だから私は人として
あなたの健康を祈るばかり

引きっぱなしで籠もる明け暮れの中で
惰眠と不眠を重ねて貪って
日毎の目覚めに仰天することが
私であるなら
祈るがいい
信仰の薄い私よ
しるしも証も導きも悟らぬ者よ
人の健康を祈りながら
自らの不信仰告白によって
失うであろう数多(あまた)のもの
に気づくとき私の不幸とは
比べものにならない
沈黙のうちに愛されて
なお愛すべき栄光の
無償の賜物を知るだろう

 
 
 
  委ねるとき

たとえば癒しの御言葉
「思い煩うな」が
ときに無理強いの「してはならない」に
否定の「べき」になってはいないか
自分で自分に強いてはいないか

すでに思い煩っているのだが
思い煩え
と試しに言ってみる
思い
わずらってみる
すると思い煩うこと
に耐えられない自分しか残っていない
そういう時ではないかと・・・

いかなる優れた言葉も
自分の持ち物のように使えば使うほど
持ち物のように磨(す)り減って
死んでゆく性質を持っているようです
そういうときには
そのたびに改めて
新品として頂くしかないようで・・・

 
 
 
  祈り・恐れてはならないもの

生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている

♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ

この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも

♪世の友われらを捨て去るときも

たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように

 
 
 
  最後の逃げ道

神様は必ず逃げ道を
用意してくださる
最初に聞いたのは映画でした

この世の富を得て幸福な者は
不老長寿を追い求める
一方で富から見放されて
幸福からも見放されたと
死ぬことを考える人がいる

今の世にあって
逃げ道があることを知り
祈り求める人は幸いです

しかし人には
富める者にも貧しき者にも
悪しき者にも正しき者にも
逃(のが)れることのできない
定められた時が来るのです
しかもそれは必ずしも
納得のいく訪れ方をする
とは限りません
生きるのが辛(つら)い人はいても
死ぬのが大好き
という人はいないでしょう

だからこそ知る人は幸いです
逃れようのない時にも
最後の逃げ道は
用意されているのです

御子を信じる者が
ひとりも滅びることのないように…

それは御国へ至る道
穢(けが)れた肉体が壊され
塵に帰るときも
御使いに「ごくろうさま」と
言ってもらえるかどうか知らないが
肩や首筋に溜まった
凝りが解(ほぐ)されるように
重荷は解(と)かれ
軽やかに安らかに
引き上げてもらえる
最後の逃げ道

死が美しいと
思ったことはありません
けれど賜る死が必ずしも
悲しみだけではないことを知り
言うは易(やす)く
行うは難(かた)けれど…
祈り願います

御心は必ず成就するから
神様との約束は
必ず最後まで果たされるから

 
 
 
  イザヤ書53

これは…まさに
キリストそのものではないか
これこそ預言の中の予言
先見とも言うべきものではないか
と驚嘆する

参考書はあっさりと述べている
イエス様もこの預言書については
当然すでに読んでおられたはずです
あれ?…そうか…そうだな…
なんだそういうことか

まてよ…と考える
イザヤ書を読んでおられたとしても
その通りに実行すること
成就させるということが
いかに苦しく困難な茨の道であるか
それに主イエスの偉大さは
死に様だけではなかったはず
癒し・慰め・知恵と知識・預言…
それゆえ世々の聖徒も今の信徒も
(私のような者でさえ)
主イエス・キリストと仰ぎ
その名によって祈り願い
唯一の希望・頼み・避け所・
拠り所としているではないか

さらに驚嘆する
イスラエル人が
期待していたメシアは
ダビデの再来ではなかったか
つまり武勇と知略によって
イスラエル統一国家を再興する
政治的宗教指導者
なのに預言者イザヤは
虐げられた末の
弱気でもあるかのように
屠(ほふ)り場に引かれてゆく小羊
の道を説いている

もしメシアがダビデのように現れ
敵を粉砕し王国を成していたなら
(少なくとも私という)
クリスチャンは今この世にいない

神の御旨によって
侮られ捨てられ打たれ
砕かれる悲しみの人を
敢えて預言したイザヤ
それを成就し
人の不義と罪を負われ許される
主イエス・キリストゆえに
主の打たれた傷によって
癒された人々の一人として…

今一本の蝋燭(ろうそく)を灯し
小皿に立てて祈るだけの
クリスマスを過ごす
(私という)
クリスチャンの端くれがいる

 
 
 
  聖霊のとき

聖霊というものについて
眼を閉じて祈り求めながら
独り静かに想いに耽っていた

いかなる悪意もなく
憎しみも嫉妬も消える
裸体の体さえない忘我と
恍惚の安らぎ
至上の優しさに内も外も溢れており
もはや痛みも苦しみもなく
負うべき何物もなく
そのままで満たされている
ここは既に聖なる領域なのか
聖霊が満ちているのか
独りなのに独りだとは思えない
眼を開ければ御国にいるかのような
いかなる富をもってしても
買うことのできない
至福のとき

この想いのうちに
どこにいたか
思い浮かべてしまったのは
磔刑に打ち付けられて
血まみれの死を迎える姿なのだ

最初で最後の
最も大いなる艱難のとき
最初で最後の
最も聖なる時が訪れる

 
 
 
  だまらっしゃい

全てを明け渡して委ね自分で自分に苦を強いることをやめるという考え方も
ある程度分かります。
聖霊体験については直接理解できているとは言い難いが目指す理想については共感できるところもあります。
しかしそれは基本的にイエスを主・キリストと仰いでいるという共通の素地があり加えて幾度かメールや投稿を拝読した上でお互いの信仰(観)を尊重するという認識の上に立てるようになって初めて可能になることです。
キリスト教初めてという求道者や一般の人に対して同じような言い方をすれば
前者は「頑張ってはいけないのですか?」
後者は「自我に死んで?土の器になって?聖霊様に考え行動していただく?カルトじゃないの?」ということにもなりかねませんから
そういう人には聖句の引用などから始め言葉遣いにはそれなりの配慮が必要であることは言うまでもありません。
つまり信仰観について話すとき我々の言葉は相当に特殊な言語になっている。
さりげない言葉が、ある人には特別な意味を持つことがある。
一般には馴染みのない言葉が当然のように使われたりしている。
しかもそういう特殊な言語と普通の日常会話的言語が殆ど意識されずに混ざって使われているという現状を自覚しておくことが必要でしょう。
ですから説明や返事を書くときには相手の立場を考え尊重し自分が納得できる範囲で相手にも分かりやすく…

ええい、だまらっしゃい!
あ、失礼。これは冗談です。というより私の頭に向かって怒鳴りました。
……………私は鬱っ気(け)もシゾっ気(統合失調症の傾向)もあって幻覚体験もありますが、今特に幻聴が聞こえたわけではありません。
私は詩のようなものを投稿していますが、説明文となると表現に気を使うだけではなく理屈を整えなくてはならず詩のようなものを書くのとは全く違う思考で違う思路を辿(たど)ることになるようです。
先走る理屈に耐えきれず「私の頭に渦巻く理屈よ辻褄合わせよ屁理屈よ黙れ。」ということでした。

詩は詩に感動できる人が愛する世界で詩の読み書きには詩心・感(受)性・センスなどと呼ばれる知的資産が要求されます。
信仰は前提条件として人間性以外のいかなる資産も要求しません。
この全く異なる二つの事柄ですが、奇(く)しくも共通した部分があります。
どちらも「理屈ではない」ということです。そしてどちらも独特の言葉の世界だということです。
かくして旧約聖書には詩篇があり、旧約にも新約にも心に残る聖句・御言葉があります。
しかし好きな聖句というのも人によって違います。
それは人それぞれが異なる道のり・人生経験を経て、信仰観も微妙に違うからでしょう。
そういうことで
今まで幾度か「全てを委ねる」お勧めを頂戴してきましたが、
そんなに委ねていないと思われているのだろうか…
というのが正直な感想でございます。
例えば「自分を責める」という行為ですが、
これは罪を自覚するときには自然に伴なってくる行為〜現象のようなものであって自分で自分に苦を強いているわけではない。

自分を責めることなくして
どうやって悔いるのだろう
悔いることなくして
どうやって罪を認めるのだろう
罪を認めることなくして
どうやって許されるのだろう

しかし自分を責め続けることは精神衛生上よくない。
それより前に責め続けることに耐えられない。
それより前に耐えられないと分かっているから、
いつまでも責めることはしない。
ある時点で罪を悔い許しを乞い願い祈り
ボロボロの私をそのまま運んでください導いてください
と委ねるのでございます。

罪を認めてから委ねるまでのタイムラグの違いなのでしょうか。それとも明るい面よりも暗い面を見てしまう私の体質の所為(せい)なのでしょうか。私は自分をいつまでも責めてくよくよしている哀れな人ということになっているような気がいたします。
どう思われようとも、ちょっと遅れて委ねるという繰り返しはこれからも続くだろうと思います。
そういう前提の上で
今の私にとっては
自分を責めるということが
人間であり続けるための最低条件なのでございます。
それができなくなったら私は人間ではない、人間性を保ち得ない。私の信仰は妄想か狂信に過ぎなくなるとさえ思うのであります。

以上
提供は肥後の国
びっくり交信局でした。

 
 
 
  狭く細い道

近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭い狭い道

素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる

辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
違うからといって
どうして否むことができようか

日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて

どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
栄光に包まれるという希望を

 
 
 
  捨て去る

(捨て去る
 という行為もまた
 許されて与えられる
 賜物(たまもの)
 以外であってはならないのだから)

最初に命を与えられた時から
与えられることなく
できることなど何もない
結果が悲しみであれ喜びであれ
多くを与えられ
与えられたものは
いずれ命よりも先に
お返しすることになるだろう
日々の営みの中で
捨て去るものや
捨て去るべきものが
どんなに多くても
たとえ自分自身が
捨て去られたと感じるときも
定められた時まで
奪われることなく
壊されることなく
許されることなく
捨ててよいものなど何もない

 
 
 
  祈りを知る

祈ったからといって直ちに
悲しみが喜びに変るとは限らない
苦しみが消えうせるとも限らない
でも奇跡的に変るかもしれない
でももっと奇跡的に
悲しみや苦しみが
それだけではないものに変る
祈る相手がいるという幸い・・・!

この世の人はそれを気休めと言い
心理的効果と言い捨てるかもしれない
聖なる働きと解釈するのも
否定し無視するのも
人の自由だ勝手だ
どちらも証明は出来ない
でも祈りは
生きた働きをもって返されるなら
証(あかし)としては
それだけで十分である
だから信じる
祈りが聞かれていることを
だから信仰する
すべては御心のままに

 
 
 
  信仰観と信仰の間

信仰観などクソ食らえである
品質表示も賞味期限もない
信仰の干物(ひもの)である
ついに与えられ
到達したのだとしても
人は理屈にいつまでも
心を震わせていられるものではない
この世の日常の瑣事(さじ)だけではなく
信仰においてさえ
人は自らに囚(とら)われているのだ
干物を餌にして
安住しようとすれば打ち砕かれ
ゆえに打ち砕かれたそのときにこそ
主イエスの生き様・御言葉・死
そしてその目的を
キリストに縁付いた者は
思い起こさずにはいられない
信仰観は変わっても
信仰は何も変わっていない
信仰は変わることなく
最後まで残るものである
信仰が喧(やかま)しい鐘や
騒がしい鐃鉢(にょうはち)にならないために
血と肉を賭した愛であり続けるために
信仰観は試され
ときに壊され砕かれるのである

いつからか私は信仰について
糧(かて)と干物を区別したくて
理屈で考えることを控えるようになった
忘れてはならないと自戒する
これもひとつの信仰観なのである
思いで納得しなければ
何も語ることのできない人の性(さが)
この矛盾を孕(はら)みながら
総てが既に知られている所から
日々の糧は与えられている

 
 
 
  クソ食らえの

クソ食らえの信仰観である
大方「??べき」か理想の
集まりか体系か理屈である
聖句由来であってもなくても
出来ないことは出来ないのである
あり得ると常にあるとは違うのである
それにしても
神様は大した御方である
道理を求める者には
格別の理(ことわり)を教え
道を示し契約を与えて下さる
情や意気に感じる者には
絆(きずな)を縁(えにし)を
軛(くびき)として絡(から)ませ
離れようとしても
放さないでいて下さるのである
それにしても
わけが分からないのである

内なる傷(いた)みは
長く隠れていても
いずれ表に現れ
汚れた肉を衣を貫いて
触れる手に
明らかな出血を示す
・・・やめた

わけが分からないのである
痔が悪いのである
出血したのである
誰が罪を犯したので・・・(痔?)
神の栄光が現れるため・・・(?)
いかなる試練・・・?
などと考えると場所が場所だけに
吹き出してしまいそうなのである
そのくせ心は泣き暮れる毎日なのである
痒(かゆ)みのために
居ても立ってもいられず
気は殺(そ)がれ
薬を塗って一時は治(おさ)まっても
今の痒みが痛みに変ったら・・・と
結局いっそう気鬱(きうつ)に沈み
無為の床(とこ)に就(つ)くこと
屡々(しばしば)なのである
泣け泣け笑え
御心のままになるだけの
クソ食らえの私なのである
わけなど分からなくてよいのである

 
 
 
  祈る

祈りたい

祈るべきだ

祈るしかない
との違いは



微妙だ
願望・義務・不可避
と分けてみても
渾然(こんぜん)としていて
判然としないが
総ては御心のままになるのだから
祈るしかない
ん?やはり
しかない
ということか?
などと
なおもモヤモヤした気持ちながら
主は総てをご存知です
この罪人をお許しください
母をお守りください
(愛する人々をお守りください)
我が魂を御手に・・・
などと微妙にはっきり祈って
車のキーを回す

 
 
 
  裸の信仰

感謝します
 ↓
すべては御心のままに
 ↓
導いてください
 ↓
お救い下さい!
 ↓
助けてください!!
 ↓
なぜ黙っておられるのですか!
 ↓
(イスラエル人のように)
なぜあのとき死ななかったのか
 ↓
 ↓
我が…魂を…御手に…
 ↓
 ↓
(まだ生きておれば再び)
感謝します
 ↓
………

幾多の苦難の後
ひとつの気づきに至る
それは人を変え
これこそは…と思えるほど
救う力を持っている
人はそれを忘れたくない
ゆえにいつでも思い出せるように
信条として蓄(たくわ)えられ
信仰観が築かれてゆく
キリスト者なら誰でも
信仰観や理想
こうありたいという願いを持つ
しかし多くの信仰観は
それが実行できるなら
聖人か預言者以上ではないか
というほど理想化されやすい
そして人が作れば作るほど
力は乾燥してゆく
実際
凄(すさ)まじい危機に際して
救いは
金科玉(ぎょく)条のような
(動かない偶像のような?)
条文の類(たぐい)ではなく
叫びにも似た
裸の信仰によって
与えられるものである

クソ食らえの信仰観
食らわずに生きては行けない
人の常(つね)
主を慕(した)いながら
罪を犯し転げまわり
こぶだらけ傷だらけになって
この罪人をお許し下さい
何度祈りを繰り返したら
この世の人生の終末
最後の逃げ道の
恵みに与(あずか)れるだろうか
我が魂を御手に…
この祈りは重い

「このようにしてあなたがたは
 わたしが主であることを
 知るようになる」(エゼキエル書)

 
 
 
  祈り・矛盾

主よ
あなたが主であることを知っています
あなたが主であることを教えてください
主よ
あなた以外に私に主はいません
あなた以外に主がいないことを
教えてください
主よ
導いてください
お許しください
この矛盾律の中で祈っている私を
この罪びとをお許しください

 
 
 
  へりくだる(謙る・遜る)

あまりに へりくだられると
自分などは どのように
へりくだればよいのだろうと…
ときに人間とさえ呼びたくなくなる

豚(は肉として食べられる)
虫(は有害なら駆除すればよい)
(食えぬ男を何と呼ぼう)

生ゴミ(からはアルコール燃料が
作られると聞いたことがある)
石ころ(は邪魔なら退(ど)ければよい)
糞便(は浄化槽から下水へ流れるだけ)
(この三つは何も食べない消費しない)

しかしこれらは あまりに…
謙遜というより卑下ではないか

天に宝を積むことのできない
この弱く低い命が
くだらない命がへりくだるには
ときに家畜や下等動物や
命なきものに喩(たと)えて
卑下してみても結局
それでも滅びないと
言ってくださる御方の約束によって
主の
僕(しもべ)と呼んで ええい
へりくだったことにするんだい!

 
 
 
  殺されて

事故か病気か殺人か
どれも嫌だが それでも
自殺ではなく
殺されて死にたいと思うのです
人を殺し自分を殺すことが殉教だ
と信じて実行する者もいるようだが
いかなる殉教にも
殺すことは含まれていない
殉教と言うのは烏滸(おこ)がましいが
ひとりの宗教人の たとえ
誰にも知られることのない
無名の死においても
神が定めた時に召され
天寿を全(まっと)うするというのは
人の哀れみではなく
神様の一滴の憐れみによって
許されて御国に至るために
命の沙汰(さた)を神様にお任せすること
切に 自殺ではなく
実際に 必ず来るその時に
何かに殺されて死にたいと思うのです

 
 
 
  聖書抜粋

詩篇8:4−6
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧(かえり)みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉(ほまれ)とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治(おさ)めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。

詩篇19:12−13より
だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。
どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
また、あなたのしもべを引きとめて、
故意の罪を犯させず、
これに支配されることのないようにしてください。

詩篇22:1
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

詩篇23:4
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

詩篇31:5より
わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。

詩篇34:18
主は心の砕けた者に近く、
たましいの悔いくずおれた者を救われる。

詩篇39:4−6より
主よ、わが終わりと、
わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、
わが命のいかにはかないかを知らせてください。
見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために
騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません。

詩篇49:7
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価(あたい)を神に払うことはできない。
同10−11
まことに賢い人も死に、
愚かな者も、獣(けもの)のような者も、ひとしく滅んで、
その富を他人に残すことは人の見るところである。
たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
墓こそ彼らのとこしえのすまい、
世々彼らのすみかである。

詩篇51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。

詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。

詩篇88:11−13より
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに
宣(の)べ伝えられるでしょうか。
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。

詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
同141
わたしは取るにたらない者で、人に侮(あなど)られるけれども、
なお、あなたのさとしを忘れません。

箴言30:8−9より
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。

伝道の書7:14−17
 順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。

イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。

イザヤ書53:すべて(省略)

イザヤ書54:7−8
「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、
大いなるあわれみをもってあなたを集める。
あふれる憤りをもって、
しばしばわが顔を隠したけれども、
とこしえのいつくしみをもって、
あなたをあわれむ」と
あなたをあがなわれる主は言われる。

イザヤ書57:15より
わたしは高く、聖なる所に住み、
また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、
砕けたる者の心をいかす。

イザヤ書60:15
あなたは捨てられ、憎まれて、
その中を過ぎる者もなかったが、
わたしはあなたを、とこしえの誇(ほこり)、
世々の喜びとする。

 
 
 
  お詫び・隠れキリシタン

 隠れキリシタンは明治以降、もう隠れる必要はないのだから、カトリックに吸収されたものと思っていたことがありました。あるときテレビの番組で隠れキリシタンを取り上げているのを見ました。今も隠れキリシタンとしての信仰を守っているのか、あるいはカトリックだけれど伝統だけ残っているのかは知りません。小さな仏壇のようなものを拝んで、祈っておられるのです。その祈りというのが何というか念仏か呪文のように聞こえて、これがキリスト教かと、かなり違和感を覚えました。最初は教会の牧師から聞いたことなのですが私も「これはどう見ても土着宗教だ」と思い、そう書いてしまいました。
 しかし禁教令・迫害の時代、見つかれば殺される状況で信仰を守った隠れキリシタンについて改めて考えさせていただく機会がありました。そのときに私は愚かにも大変なことを見落としていたことに気づきました。あの時代は聖書、なかったのでした。聖書なしで専ら異国の宣教師から教えられたものによって命懸けで信仰を守り、しかも代々伝えていく困難と苦労を想うとき「土着宗教と化してしまった」だけでは済ませることのできない苦悩と歴史の重さを感じないではおれません。
 ここに改めて反省し、隠れキリシタンとその子孫の皆様に心からお詫び申し上げます。拝。

関連→「ウソの国」→「信仰と希望と」→「キリスト教の国」

 
 
 
  永遠の友・人格宗教

(人格は
 人格を超えるものを
 理解できない)

(人間の心を動かせるのは
 あくまで人間的な体験であって
 人間を超えるものではない)

イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエスに絆(ほだ)された者だからである

 
 
 
  祈り・死の希望

不老は叶わぬことだが願ってもいい
不老長寿も分からぬではないが
なぜ不老不死を願う人がいるのか
家族が死に、友人が死に
隣人が死に絶え
人類が滅亡してもなお死ねずに
自分だけが生き続けることの
どこが人間として幸福なのか
それはともかく
死ぬこと以外に希望がない
両価性だとしても
この世は嫌いだ
人間も嫌いだ
自分が一番嫌いだ
主よ、この虚しい人生において
あなたに出会えたことは幸いです
いかなる苦悩の時にも
そうでない時にも最後があり
死ぬという希望があります
この世を去って
天国の片隅にでも休めるところを
用意していただけるなら
至福の安らぎを得るでしょう
願わくは自殺する前に召されんことを
主よ今になって
力を、しからざれば死を
と願っている心は
自殺ではなく飢渇(きかつ)
あるいはそれに伴う病死まで
いかなる死に方であっても
耐え忍ぶ力をお与え下さい
という祈りと希望です
主よ、いつの日か御許(みもと)へ…

 
 
 
  祈り・フリー

過ごし
見過ごし
死に損なってゆく一日一日に
意味も喜びも見出せずにいますが
長年の柵(しがらみ)からは
フリーになりました
フリーです
自由です
自由契約です
要するに無職です
ワァーォ
過去の罪は消えないとしても
少し肩の荷が下りた気分があります
と同時にカウントダウンが始まりました
(数年後の経済状態
 を考えるのだけは…やめよう)
主よ、あなたが成就し実践された
愛するという使命も果たせないまま
じっと黙って心臓が止まるのを
待つだけの人生になりそうです
自殺は、どう考えても
御心に適(かな)っているとは思えないから
できるだけしないように努めますが
自力では運べません
運んでください できれば
許されるものなら
気の遠くなるところへ
肉の遠くなるところへ
何もかも無意味だったから
元々意味も名前も持たない遠くへ
遠くへ…

 
 
 
  私はキリの切り

「きりがない」の「きり」は
「切り」と書き
際限・果てを意味する
長いあいだ誤解していた言葉がある
「ピンからキリまで」
「ピン」は一級品・一品料理の「品」
「キリ」は「切り」だと思っていた
大きな間違いだった
「ピン」も「キリ」も外来語で
私が使っている辞書には
当てる漢字は載(の)っていない
「ピン」は「点」の意から
数の一・第一・始め・最上のもの
「キリ」は「クルス」(!)
即ち「十字架」から転じて
「十」を表すというのである
それで「ピンからキリまで」は
「一から十まで」
「始めから終わりまで」
「最上級から最下級まで」
の意味になったらしい

私はクリスチャンのつもりである
古い言い方をすれば
切支丹(きりしたん)
ちょっと弄(いじ)って
切支端(きりしたん)=
切り+支(=枝)+端=
端(はし)くれの端(はし)っこ
さらに勝手ながら
切支人(きりしと)=
切り+支+人=人間の端くれ
少し変えて
切支徒(きりしと)=
切り+支+徒=信徒つまり
クリスチャンの端くれ
「し」と「す」を
間違えてはいけない(!)
キリストには既に
基督という漢字が当てられている
私は切支人かつ切支徒のつもり
ピンではなくキリの切り
上級でも上等でもない端くれだが
「キリ」=「クルス」=
「十字架」の下(もと)に
希望を寄せる人たち
の端くれなのである

 
 
 
  祈り・永遠の命

過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです

 
 
 
  満たされるとき

人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している

 
 
 
  祈り・最後の誘惑

最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ

未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束(つか)の間(ま)に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰(つぶ)さないために
死を視(み)ること帰するが如(ごと)し
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
悲しみだけではない時を
知るでありましょう

 
 
 
  生きるとは?死ぬとは?

「生きる」とは?
恥を曝(さら)すことだ
穀潰(ごくつぶ)しの恥曝し
と思われようとも
その生き恥を曝すことだ
それが仕事だ役目だ
それが暮らしだ生活だ
唯一負うべき義務だ
恐れることはない
崖っ縁をさまよっているなら
崖から身投げするのではなく
神様のほうを向いて
その懐(ふところ)に身を投げるのだ
しかし悪意や怒りがあってはならない

「怒り」を一度も覚えたことはないと?
言えないだろう だから
怒りのときには怒りに任せず
与えられた思慮によって
限りはあっても真実を求めることだ
何が「然り」で何が「否」であるか
そして言うべきことは
怯(ひる)まずに語り叫び記すのだ

「死ぬ」とは?
時が来たということだ
自ら定めることのできない
また自ら定めてはならない
納得できるとも限らない
どんなに逃れようとしても
決して避けられない時が来るのだ

「死後の世界」とは?
生きている間は
わからないことだ しかし
許されて御国へ至る道がある
という希望を信じて
待っているのがキリスト者だ
ゆえに背教も不信仰も罪も
そのまま告白し
祈り願う日々があるはずだ

「御国」すなわち「天国」とは?
わからない けれど
キリスト者なら少なくとも一度以上
垣間見ているのではないだろうか
キリストに出会ったと思ったとき
キリストに想いを馳せるとき・・・
疑いだらけのこの世と違って
ひょっとしたら疑うということを
忘れてしまうことのできる
そういう国なのかもしれない

「生きる意味」「死ぬ意味」とは?
こじつけるなら教理から
いくらでも出来るだろう
でも決め付けや思い込みは嫌いだ
尤(もっと)もらしい意味など
この世には無いのかもしれない
わからない 少なくとも
わかっていると今は言えないけれど
日がな一日釣り糸を垂れて
何も釣れなくても
海を眺めて満ち足りて
帰るべきところへ帰る人のように
この世のいかなる収穫に与れなくても
目に見えるものでも理屈でもなく
人間らしさも人間らしく理解するだろう
いつか全てを理解するだろう
理解するだろう

 
 
 
  最後の軛

もはや正気を失って
祈りとも願いとも付かず
泣くように笑うように
心のうちに呼ばわることが
小さな呟(つぶや)きとなっては
次から次へと揮発してゆく
もう思い出せない
思い出しても実体がない

生きながら悪魔に身を売って
罪に罪を重ねるよりは
身売りする前に自ら命を絶って
悪魔に利用されないほうが
まだ増しではないのか

身を売るのではない
身を捨てよ
屍(しかばね)でも 生ける屍でも
廃人でも狂人でも
神様に向かって身を捨てよ
悪魔のほうを向いてはならない

正気を失った肉体を
最後の軛(くびき)だけが
引き止め 抱き留めている

 
 
 
  証しとして

神様のほうを向いていなかった
順調なときは思い上がり
忙しいときは忘れ
うまくいかないと慌てふためくばかり
寄る辺なき身になって初めて
悔いること多く
努めて祈る
たまらず召してくださいと呼ばわれば
わがままな告白の罪を悔いる繰り返し
もはや信仰と不信仰が
異質でも反対でもなく
祈りと告白の場においては
同質になっている明け暮れ
悲しみだけではない日々を知るために
祈りよ
神様の前に唯一最も明らかな証しとして




  告白と放心

わが神、わが神、何故われを造り給ひ
何故われを見捨て給ひしか

賛美も感謝もできません

総ては御心のままに
・・・私には・・・何も・・・
解りません
判りません
分かりません
わかり・・・
・・・ません

・・・あはあ・・・
・・・ハレルヤ
ハレルヤ?
ハレルヤ
父なる神は総てをご存知です
好きなようにしてください!
ハレルヤ、御心のままに、ハレルヤ
・・・・・・




  エゼキエル三十三

わたしは生きている
わたしは悪人の死を喜ばない
むしろ悪人が
その道を離れて生きるのを喜ぶ

義人の義は
彼が罪を犯すときには彼を救わない
わたしが義人に
彼は必ず生きると言っても
もし彼が
自分の義を頼んで罪を犯すなら
彼の総ての義は覚えられない

と主は言われる

正しいと思ってすることも
それが自分の義か
主の義であるか
を考えることは大切である
それを考えれば答えは
「わからない」 よって
もし自分の義に過ぎないのならば
主の義に導いてください
もし罪を犯したのならば
お許しください という
祈りに至るから

私は主の羊
主の牧場(まきば)の羊
心安らかに荒野(あらの)に住み
森の中に眠りたい




  御国への希望

来世に寄せる望みは儚(はかな)い
見えない何かは やはり見えない
天国は見えない
地獄は見たくもない
今度生まれてくるときは・・・
この世には生まれてきたくない
しかし
召されて死んで
御国に至る希望に生きる
ほかにない それでよい
死後の世界など分からない
御国がどんなところか
知らない しかし
希望は抱(いだ)かれるとき
常に現在形である




  保守的

人工妊娠中絶は罪です
同性愛は罪です
同様に
売春と買春は罪です
不倫と浮気は罪です
離婚は罪です
生涯に二度以上
結婚することは罪です
生涯に二人以上の異性と
肉体関係を持つことは罪です
主の御言葉
「情欲をいだいて女を見る者は
心の中ですでに姦淫をしたのである」
情欲を抱いて女を見ることは罪です
罪を犯さずに
生きられる人がいるでしょうか

神様は
みだらなることを最も嫌われる
同性においても
異性においても
罪の軽重は神様がお決めになります
全知全能の
父なる神様は全てをご存知なので
正しく裁かれるでしょう が
ひとりひとりの人間の
詳しい事情も知りえない罪びとが
他の罪びとを裁こうとするなら
目の塵と梁の譬えに似てきます

人の罪を責める前に
自らの罪を省みれば
ねたむ神の怒りを恐れます
神様は永遠に
変わることがありません
人の中で
人が変えてしまうものがあるから
保守的であることを
貫くために
心と口に
神様への恐れと慎みが
与えられるように祈ります




  旧約聖書・申命記より抜粋(口語訳)

9−4: ・・・あなたは心のなかで「「わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲(え)させられた」」と言ってはならない。・・・
9−5: あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。・・・
9−6: ・・・あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民(うなじのかたい民:新改訳)である。
9−7: ・・・あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。
10−12: ・・・今、あなたの神、主があなたに求められることはなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
10−13: また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
10−14: 見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。
10−15: そうであるのに、主はただ・・・あなたがたを万民のうちから選ばれた。・・・
10−16: それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない(心の包皮を切り捨て:新改訳)、もはや強情(うなじのこわい者:新改訳)であってはならない。
10−17: あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし(偉大で、力あり、恐ろしい神。:新改訳)、人をかたより見ず(かたよって愛することなく:新改訳)、また、まいない(わいろ:新改訳)を取らず、
10−18: みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。




  旧約聖書:ハバクク書より抜粋

1:2−3(口語訳)
主よ、わたしが呼んでいるのに、
いつまであなたは聞き入れて下さらないのか。
わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、
あなたは助けて下さらないのか。
あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、
何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。
略奪と暴虐がわたしの前にあり、
また論争があり、闘争も起っている。
1:12−15(口語訳)
わが神、主、わが聖者よ。
あなたは永遠からいますかたではありませんか。
わたしたちは死んではならない。
主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。
岩よ、あなたは彼らを懲らしめのために立てられた。
あなたは目が清く、悪を見られない者、
また不義を見られない者であるのに、
何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。
あなたは人を海の魚のようにし、
治める者のない這う虫のようにされる。
彼はつり針でこれをことごとくつり上げ、
網でこれを捕え、
引き網でこれを集め、
こうして彼は喜び楽しむ。
2:4(新改訳)
見よ、心のまっすぐでない者は心高ぶる。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
2:5より(口語訳)
高ぶる者は定まりがない。
彼の欲は陰府(よみ)のように広い。
彼は死のようであって、飽くことなく、
万国をおのれに集め、
万民をおのれのものとしてつどわせる」。
2:15(口語訳)
わざわいなるかな、
その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、
彼らの隠し所を見ようとする者よ。
2:20(口語訳)
しかし、主はその聖なる宮にいます、
全地はそのみ前に沈黙せよ。
3:2(口語訳)
主よ、わたしはあなたのことを聞きました。
主よ、わたしはあなたのみわざを見て恐れます。
この年のうちにこれを新たにし、
この年のうちにこれを知らせてください。
怒る時にもあわれみを思いおこしてください。
3:16(口語訳)
わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、
わたしのくちびるはその声を聞いて震える。
腐れはわたしの骨に入り、
わたしの歩みは、わたしの下によろめく。
わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に
悩みの日の臨むのを静かに待とう。
3:18(口語訳)
しかし、わたしは主によって楽しみ、
わが救の神によって喜ぶ。




  枕する所

忘れてはいけない
ユダヤは散らされ
キリストを殺した民と蔑(さげす)まれたが
キリストはユダヤに生まれ
キリストの教えも
ユダヤから始まったことを

主は知っておられたのです
十字架の後も
人が罪を犯し続けることを

集まれば噛み合わず
散れば孤独で
また集まれば諍(いさか)い啀(いが)み合い
また散ればまた孤独で
愛しながら傷つける相手を
求めて止まない人の罪を

もううんざりして
この世に疲れたとき
御国を求めることが
死を求めることにならないために

忘れてはいけない
狐には穴があり
空の鳥には巣がある
人に枕する所があるために
神の子には枕する所がなかったのです




  強さ・弱さ

強い者を私は
あまり好きになれない
弱い者を蔑(さげす)むからだ

弱い者を私は
あまり好きになれない
信仰の力を信じていないからだ

弱い弱い私を私は
あまり好きになれない
信仰の強い強い力に
与(あずか)ろうとしないからだ

弱い弱い私を私は
あまり嫌いになれない
信仰以外の強い強い力に
頼ることができず
信仰に向かうしかないからだ

弱ければ弱いほど信仰は強くなる
されど痛みがなくなるわけではない
刺されればやはり痛い
痛みが強ければ強いほど
信仰は強くなれるだろうか

元々の強さ弱さと
信仰の強さ弱さとは
原因・理由・根拠・経過・結果
いずれも少しばかり
あるいは著しく異なってはいないか




  完璧な敗北

徹底的に負けて
完璧な敗北者となる
負けて負けて
負け尽したとき
老いても若くても
余生は
与えられるもののみによって生きる
負け尽した者のみが知る
その一途な悦びは
この世の人々からは
鬼畜に見えるかもしれない




  罪を重ねて

罪に罪を重ねて
裁かれることを恨んで
憎しみに憎しみを重ねて
憎みながらぼろぼろになる
憎しみはぼろぼろになる

罪に罪を重ねて
許されることを信じて
悔いに悔いを重ねて
祈りに祈りを重ねて
安らかにぼろぼろになる
ぼろぼろは安らかだ




  祈りとお呪い

折りに触れ祈ってはいるが・・・
祈り祈りとこだわると
お呪(まじな)いになってしまいそうで
本当に必要があって願いがあって
神様に向かって祈っているのか
されど祈らなければ
あるいは祈りたいときだけでよいなら
いつか祈りを忘れ信仰を忘れ
神様から離れてしまいそうで・・・
いやきっと
神様は離さないでいてくださる
祈らずにはおれない気持ちも
神様のほうから
忘れないように
時と心を
思い出させて下さる
与えて下さる
神様との約束を
信仰を忘れない限りは
神様は忘れないように導いて下さる
・・・・・・?
また分からなくなった




  神・信仰・人

神様は人を顧みて民として選ばれる
人は自ら必要と感じて信仰を求める
神様の憐れみと導き
人の信教の自由意志
神様が与える試練
耐え忍ぶ人
神様が与える恵み
賛美して自らの知恵とする
信仰を与えられること
信仰によって与えられるもの
信仰によって目指し求めること
信仰が人に求めるもの
全能と無力
信仰と不信仰
神は人に・・・
人は神に・・・
人は人に・・・?




  集いと孤独

集いが団居(まどい)であっても
何か頼りなくて
本物なのかどうか
あやふやであるのに
孤独はいつも
きっぱり孤独だ
さらに
ときに集いはいっそう孤独だ
だから
どこへ行っても帰っても
孤独によって
死に誘われることのないために
行ってきっぱりと
あやふやな団欒を悦び楽しみ
帰ってきっぱりと
自らの拠るべき関わりにおいて
ひとりの人であれ




  神と人の立場

神の立場で物を言うな
裁くな
「人をさばくな。
 自分がさばかれないためである」
神の立場で裁くな
しかし
個人的感情から裁判まで
人を裁いている
捌(さば)いてさえいる
裁かねばならないこともある
耐えて怯(ひる)まず
悔いて恐れず・・・
神の立場で「裁くな」と言うな
・・・? そのときはいつも
自分も裁かれているのだ
その罪を知るなら
裁きは
神の立場と人の立場の違いである
神と人の関係である
罪と許しである
祈りである




  ヨブ・伝道者・キリスト

真昼の空にある星たち
真冬の海に降る雪たち

かけがえのない
孤独の夜に散る命
孤独の昼に叫ぶ命

どこかで過ぎる
この世の時
どこでどのように送られ
過ごすのでしょう
あの世の時

ヨブほどに栄えることもなく
ヨブほどに悲惨なこともなく
試されているとき
キリストほどに孤独でもなく
キリストほどに語られることもなく
主よ
空の空
伝道者よ
楽しめる取り分は
目の前に
明日に
昨日に?
見ようとしても
見えないものたち
どこにありますか




  私の終末

世の巷(ちまた)は
聞こうともしないか
聞くには聞くが知ろうとしないか
知るには知るが
わきまえようとしない者たち
ばかりではないか
聞き耳を潰さず
万軍の主を恐れ
いつくしみ深き主を喜べ
神の前にひれ伏し
主の御名によって祈れ
沈黙の神におののき
流血の主に嘆き悲しみ
罪の深さを知れ
そして血を惜しまれることのない
主にあって楽しめ
ひそかに終わりは近づいてくる
その日までを取り分として受け取り
主の血と肉に与(あずか)れ
悦び楽しめ
そして聞き耳を立てて
しずかに目を覚ましていなさい




  私の祈り・召命

キリストの声
キリストの顔
キリストの姿
天国と地獄
絵画、彫刻、映画・・・?
心に思い描いても
いかに思いを馳せても
違う
それらは心のプロセスに過ぎない
キリストのために賜る苦しみ
主イエスを愛するが故の苦しみ
召命による苦しみならば
もっと召命と呼ぶに足る証明を
しるしを欲しがってしまう・・・
自らの駄目ぶりや失敗や
自分のことばかりで
些細なことに戸惑い振り回され
生活とさえ言えないような明け暮れ
そのまま・・・あるがままに・・・?
祈る私の声・顔・姿を
見守っていて下さい
主よ
私の時まで見ることのできない
その御姿で




  宗教方言

クリスチャン同士なら
時々訳の分からないことも
あるにはあるが
ある程度
共通の用語があり
共通の禁句もある
曇りでも雨でも
ハレルヤ
時々訳の分からないときには
ハレルヤ・ハレォャハ・・・?
クリスチャンだって
やけっぱちになることはあるさ

クリスチャンでない人に
無宗教や異教の人に
禁句を平気で使う人たちに
どう説明したらいい
喧嘩はごめんだ
ええい黙らっしゃい!
とは言えない
(言ったことあるけど)
議論は苦手だ
と感想を書いても
やはり批判的になる

生まれて初めて
壁に貼り付いて
人が間近に来ているのに
逃げようともしない蜘蛛の足に
触ったとき
蜘蛛は数歩退いて
それでも逃げようとしない
こちらを見て
「な、なにしはりまんねん」
なぜか関西弁だが
そう言っているようだった
蜘蛛を殺さなくなった頃の話だ

関西弁は気持ちを和らげる
喧嘩になりにくいかもしれない
角が立ちにくいかもしれない
いっそ関西弁で書き込もか
情に過ぎまっか
知に乏しうおすか
いかんぜよ
よう分からんばってん
方言がばらばらや




  ワープ

相応しい役割が果たせていないとき
容易に安易に願う
天国にワープします
そのときワープしているのは
自らの心だ信仰だ
楽になりたい
ということだ
無為が好褥を欲するなら
食って出して
いつまでも寝ていろ
今日は夜眠れた
今日の排便は直腸からストレートに
スポーンと気持ちよく出た
直腸の分だけ腹が軽くなったようだった
それさえも奇跡のようなものだ
食えること出せること眠れること
見えること聞こえること
触れること動けること
今息をしているということ
全て奇跡的に起こっているのだ
それに感謝することも忘れて
これ以上どう楽になりたい
地獄ではなく
あの世でもなく
たぶん疑うことを忘れるほど
とても良いところなのだろう
天国にワープしたいと願うとき
心はワープしています
信仰はワープしています
ウォープしています
WARPしています
SFのワープはSFだ
空間の歪みを夢見るより
おのれ自身の歪みを知れ




  十分な一度

一生に一度
わけも分からず選ばれて生まれ
一生に一度
わけも分からず召されて死ぬ
というより
生まれてから死ぬまでの
すべては一生に一度だ
一生に一度ほど
わけの分からないものはない
とどまることを許さないものに
始まりから押されてゆき
終わりへと引かれてゆく
その前もその後も知らない
知ると言えば信仰の話になるが
信仰と言えば
信仰は生前よりも死後よりも
生きている間こそ意味を持ち
生ける命と切り離せないものだ
だから生まれる前も死んだ後も
人には隠されていて知る由もないが
すべては知られていると
言えるだけの信仰があれば
生まれてから死ぬまでの
すべての一生に一度は
すでに知られている
だから人が知り
生きるのに十分なだけの
一生に一度は常に与えられているが
与えられたほんの一部にさえ
気づくことは試練である




  写真

惚れた腫れた
も疾うに過ぎ去って
老いと病と貧しさの果てに
罪を犯したような人相

 貧しくもなく、また富みもせず、
 ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。
 飽き足りて、あなたを知らないといい、
 「主とはだれか」と言うことのないため、
 また貧しくて盗みをし、
 わたしの神の名を汚すことのないためです。
 (箴言三十より)

ぬるい信仰が長びくばかりで
生き残るほどに醜くなる顔の

 わが目はあなたの救いと、
 あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
 (詩篇一一九より)

若き日とは違った
あたかも白内障の内側のように
わずかに残された仮定の視野で
望む御国は
あの世ともこの世とも付かず
まるでエロスのように
肉体のある限り切々と求め
打ち寄せては戻る波のようでありながら
衰える狭窄から祈りへの
二度と戻らない緩やかな渦に任されてゆく




  朝の空

まだ寒い春の朝まで
根を詰めても
孤独の論理は情けない
隘路(あいろ)はどこに開かれるか
空は雲に覆われているが
雲が雲だと分かるのは
光が満ちているということだ
春の便りもちらほら
固陋(ころう)の身にも舞い降りる
光が光だと分かるのは
目が見えるからではなく
心が開かれているからだろう
小さく開かれた
心の隙間を満たす分だけの
光は常に与えられていて
底知れぬ闇をうっすらと照らす
闇の底が見えるわけではないが
闇が闇だと分かるのは
光のプロセスが幾筋か
さらなる徒労への兆しとして
朝を告げているからだろう
時は今
今は思い
肩をすぼめて見上げれば
日は隠されているが
地の上には果てしなく
空は覆われているが
雲の上には果てしなく
天と点
昇天の日には会えますか




  作り物

「時間」は実体のないもの
人の頭の中にだけあるものだ
生きていて夜が明けたり
朝と昼と夜があったり
季節が移ったりするものだから
月や太陽から
暦と時刻というものを考え出し
「時間」というものを想定して
便利に使うことを覚えた

実体がなく人の頭で作った物として
「数」も自然数さえ世界のどこにもない
2つのリンゴといっても
リンゴ1つ1つは同じではない
先ず似たものを
類型や種類に括ることを覚え
別の物か何かの印に置き換えた
それだけでは不便なので
印を記号に置き換えて
「数」というものを想定し
便利に使うことを覚えた

「人類の英知」であるそれらのものは
元々人だけのものである言葉とともにあり
作られていった

「時間」も「数」も現代数学や
それを用いる現代物理では更に
日常感覚からも離れたものになっている
私の場合は数学で
実数までは何とか感覚が
ついていけるものだったが
虚数を習ったときから
日常感覚の世界から離れたと感じた

もし五感を失ったら
特に視覚・聴覚・触覚を失ったら
どんな世界として感じるのだろう
後天的に失えば
考えることだけは残るだろう
しかし入力のない世界で何を考えるだろう
記憶だけを反芻して
独自の世界を持つようになるのだろうか
先天的に失ったらどうだろう
知能があっても言葉の学習も困難になって
はたして考えることが可能だろうか
五感があるということは奇跡的なことだ

「今」はともかく
「過去」と「未来」そして「数」は
人を縛り隷属を強いて
思考を奪うことがある

私は教会に行かないクリスチャンだが
宗教にも信仰にも似たものを感じる
神にも現世の実体がないから信仰であり
クリスチャンだから神を信じており
神を否定することはできないが
どう信じるかは人が考えることだ
つまり信仰観は人それぞれ微妙に
ときには甚だしく異なるものになりうる

「時間」と「数」そして
「私の信仰観なるもの」について
常に疑って問い直し
考える気持ちを忘れるべきではない




  クリスチャンの自殺

うすうす知っていたことではあるが
「クリスチャンも自殺することがある」
改めて訃報に接すると
「神様はクリスチャンが自殺するのを
止めてくださらないことがある」
自分も例外ではない

自殺者を次から次へと
偽者・偽クリスチャンと決め付けて
「クリスチャンは自殺しない」
と辻褄合わせで思い込むのか

「神は神の都合により
人には理解できない計画によって
あらかじめ天寿を全うする人と
自殺する人を定めおかれる。
したがって
自殺者は使命を果たして天国に行く」

「神は存在であり
存在こそが神であり
それがすべてである。
それを知るかどうか
知ってどう行動するかは
人の意思に任される」

「神は人に自由意思を与えた。
自殺するか生き続けるかどうかの
瀬戸際の選択において
神は人の自由意思に任せて
敢えて沈黙する。
生きることを選択した者のみが
神の都合によって守られる」

「御子を信じる者が一人も
滅びることのないように」
という聖句は何なのか
自殺者の人生と苦悩は
何のためにあったのか
クリスチャンが信じている神様は
「呼べば答える神」ではないのか
新約の主イエスの御名によって祈る
その祈りに
神は答えてくださらないというのか
神様は
民となることを告白した者の信仰を
育ててくださる神ではないのか

御心、測りがたし・・・されど

神様が沈黙するとき
神様は
苦難のときにこそ
人が自由意思によって
神様のほうを向いてくるのを
期待しておられる
ように思えてならない




  死ぬ気・死んだ気

「死ぬ気になれば
 何でもできるじゃないか」
本当に死ぬ気になったら
死ぬことしかできないのではないか
他に何もできないと感じるから
死ぬ気になってしまうのではないのか

「死んだ気になれば
 何だってできるじゃないか」
「死んだ気」とは何なのか
誰が死んだ気になれるというのか
死んだ人だけではないか・・・
いや死んだ後に「死んだ気」など
残り得るのか・・・そんなこと
誰にも分からないではないか
それに死んだ後に
「死んだ気」になったところで
意味がないではないか

この二つの言葉は
本当に「死ぬ気になる」前の
まだ「死」について
考えることのできる人の言い分
またそういう人に対する言い分
と言うべきだろう
だから
「死ぬ気」に捕まってしまう前に
「逆境の日には考えよ」
(伝道の書七章十四節)




  ある時の賛歌

災いなるかな
生きながら自殺した者のように
この世に面と向かえる友はなく
愛する妻も子もいない
もはや私の命は
神に任され委ねられた
導かれ運ばれ
裁かれるだけの身となって
幸いなるかな
明日も今日も今も私のものではない
これからずっと私の時まで
生きながらそうでありますように
定かに知り得ず
何の頼りにもならない私の過去も
そのようでありますように
沈むときも動くときも
昇る時が来る魂の日まで
神の揺籃(ゆりかご)に乗って
そこで眠りそこで目覚め
見る空は青空も曇り空も
空の果ても神のもの
見る町も土地も
地の果ても神のもの
出会うすべての人も神のもの
さすらいもさまよいも
神に任された
すでに死んだ者のように
息のように過ぎ去り息絶えて
すでに土でありながら人であるのは
神が定めた祝福の時へ向かうため
あらゆる時も私の時も
もはや私のものではない
取り分は過ぎ去って
幸いなるかな
神の時が来て私の時は空しくなった
私の時は空しくなった




  空しさの整形

「取り分として楽しめ」
「逆境のときには考えよ」
「生まれてこなかったほうが
 ・・・よかったであろう」
取り分と試練と定めを区別できないよ
キリストの教えを守れと言われれば
守れない自分に直面するだけだ
あるがままでよいと言われれば
自分を受け入れる自分に
嫌気が差してうんざりするだけだ
キリストにあって許された者として
過去や未来や他者に囚われずに
今を懸命に生きること・・・しかし
夜眠れないとき悶々としているのは
昼虚ろに取りとめもなく物思うのは
今を懸命に生きていると言えるのか
最も空しくなるとき
残っているのは自らの未熟な
祈りの言葉だけ

それは最も・・・ではない
いずれ自らの言葉も消え失せ
最後に最も空しくなる時
空しさは光になる

その時を待ちわびて
未熟な自分を許せない未熟な自分を
耐え忍ぶ一条の
一途な光を
本当の空しさを




  ヨブ記と沈黙

ヨブは、たとえ叱られても、
神様が直接声を掛けてくださるのを
待っていたのではないか。

待って、待って、
待ち侘びていたのではないか。
神様の沈黙の試みに耐えられなくて
ついに神様に悪態をついて
友の説得にも納得できず自己正当化し
神様の無慈悲を嘆くという罪を犯した。

叱られても、叱られても、
試練と分かれば耐えられるだろう。
最後に
神様はヨブに声をかけて下さり
神様はヨブを叱り戒めたのち
ヨブの祈りを受け入れて
罪を赦して下さった。

現代では、少なくとも私には、
神様は直接声をかけて下さらない。
主イエスも声をかけては下さらない。
今は聖書から学ぶしかないのだろう。
導きと思えることがあるとしても、
思うに任せぬ現実にあって、
ときに沈黙に耐えられず
信仰と不信仰のあいだで揺らいで、
それでも赦される信仰を
信じている・・・?




  知性と信仰

感動がなければ
救いにはならない
神様の創るものは
時宜に適って美しいけれど
神様の創るものは
個々によって様々です
悪意がなければ
正しいと思いますか
正しければ
誰にとっても正しいと思いますか
大真面目に説教されても
そう言われることが私にとって
救いになると思いますか
知性と論理が
かえって「うなじをかたくする」
  (新改訳聖書的表現)
すなわち強情を生む
  (口語訳聖書的表現)
交わりというのは難しいものだ
譲り合えるところと
譲れないところ
通底するところと
それも望めない基本的相違
角が立つだけですよ
救うつもりなのでしょうが
傷つけています
私の考えを変えさせたければ
私を感動させて下さい
私が大切にしているものを
いきさつも知らないで
むげに踏みつけないで下さい




  交わりの立場

交わりというものは
互いに相手の立場の違いを尊重し
互いに人間であることを
認め合うことで成立する。
従って異教徒とも求道者とも
哲学者とも無神論者とも
交わりは成立しうる。
しかし神を恐れることを知らぬ者が
たとい有神論者であっても
神の立場で物を言うとき
恐れを知らぬ者は
一個人としての
人間という立場を離れるがゆえに
人格からも乖離する
理屈のみによる押し付けが
目立ってくるようになる。
人間性があれば簡単であるはずの
最低限の気配りや思いやりや
相手の立場を尊重する柔和さ
さえも持てなくなり
嘆きや悲しみや
不快や苦痛を与えていることに
恐ろしく鈍感または不感になる
ゆえに平気で人を傷付ける。
血も涙もなく
人間としての温もりを失った
人間離れした人間
の特徴であり
宗教人としては
とても危険な状態である。
血も涙もあり慈愛に満ち
人の弱さも欠点も全てご存知の
神を信ずる者にとって、
たとい有神論であっても
冷たい理屈を述べるだけの神は
受け入れられず
そういう傷付けるだけの神に
頼ることは出来ない。
神を信ずる者は
愛する神の前に心を開くが、
冷たい理屈だけの神の前に
壁を作り距離を置くことはしても
決して心を開くことは出来ない。
救いにならないからである。
痛みを与えるだけの
風の冷たさに開く胸はない。




  一対一

私が所有し
またかつて所有したものを
すべて捨てて
一人の精神障害者と認定され
老後の生活の安定を図れ
と言われても・・・

仮に人の手を借りてでも
悪戦苦闘の末に
そのようにして
老後の生活が保障されても
私は自分のことを
生ける屍だとは言っても
神様に救われた
とは言わないでしょう

もしそれが御心であるなら
神様は私に力を与え
私は悦びのうちに
それらを行い
感謝とともに
結果を受け入れるでしょう
たといそれが生であっても
病であっても死であっても

私が医者であったこと
私が書いてきた詩のようなもの
すべてを
人に言われて捨てることは
私が歩んできた人生を
自ら全否定することです

これらは必ず
神様のみによって壊され
神様のみによって奪われ
神様に対してのみ残らず
お返しするものです
私が望もうと望むまいと
神様の御旨ならば
必ずそうなります

だから他の誰が何と言おうとも
たとい他のすべてを忘れ去っても
他のすべてを失っても
祈りによる
神様と自分との
一対一の関わりを
決して忘れてはなりません
そこにすべての知情意は捧げられ
そこはただ一つの聖なる墓場であり
神殿であり
永遠の命であり
御国であるからです




  闇のトンネル

無力でも幻滅でもいい
失望でも絶望でもいい
いつかいずれ
潜り抜けねばならぬ泥沼の闇だった
闇のトンネルは
この世のいたるところにあって
ユビキタスの闇は
ユビキタスの光を
垣間見るチャンスとして
神の恵みと
信仰の希望を知る機会として
与えられる試練
与えられる賜物
ひとつの死の陰の谷を前にして
無力におののき
幻滅せよ
失望せよ
絶望せよ
血迷ったかのように
どん底に落ちて
汚れに汚れても
泥濘のトンネルから
一縷の光を求め
それを浴びるだろう
ゆえに
主の栄光と祝福と愛の前に
涙ながらに
肉体ではなく
神を恐れよ
光に闇が勝たないことを知るだろう




  完全と自然

完全な人間は一人もいないが
完全数と名付けられた数がある
その数を含まず
1を含む全ての約数を足すと
その数になるという
しかも完全数は1から
ある一定数までを足した数でもある
6と28が代表的で
不思議な数だが
よく知られているらしく
電子辞書にも偶数の完全数を
求める公式が載っている

自然界に数はない
自然は数えられるために
存在しているのではない
数は人間の頭の中にだけある
と書いたことがあるのは
数というものに対する不信と
自然数が自然に存在する
と思い込んでいたら
虚数に至って
つまずいたからだが
数にも
偶然とは思えない美しさがある
自然数にも不思議の謎は尽きない

改めて
「神様のなされることは皆
 時宜にかなって美しい」
   (伝道の書3:11)
という聖句を思い出す

人間の頭の中にだけあるものも
神様が造られたものだ
人間の心の中にだけあるものも
神様が造られたものだ
数学だけではない
芸術だけでもない
考えることも感じることも
神様が造られ
人に与えられた賜物だ
ありとあらゆるところに
神様の御心は行き渡っている

不完全なものとして
人間は造られている
神様の摂理に従順なものとして
自然は造られている
自由意思を与えられながら
神様に反逆するのは人間だけだ

御心は人にも自然にも行き渡り
求める者には惜しみなく
注がれる用意がなされている
導かれる用意がなされている

どんなに意見が違って
今は噛み合わなくても
どんな疑問や批判や不満や
いさかいが今はあっても
唯一完全な御方によって
無条件に導かれることを
無条件に賛美できるだろうか
問われ続ける
人は




  神と人・沈黙

人の沈黙は
無視であるかもしれず
気遣いであるかもしれず
不快であるかもしれず
偶々であるかもしれず・・・
いずれにせよ
疑いと孤独を伴う
しかし人の沈黙に対しては
沈黙をもって返す
という凌ぎ方がある

神の沈黙は
神を唯一の拠りどころとして
崇める者にとって
沈黙をもって返すことは出来ず
耐え忍ぶこと以外に
結果が表される術はない

沈黙は
この世の人に囲まれながら
誰よりも孤独な道を
主イエスが歩まれたことによって
沈黙と祈りの対話として結実した

したがって
キリスト者の忍耐の
祈りによる癒しは
主イエスとともにあって死に
そして生かされる沈黙である




  ヤベツの祈り

「ヤベツの祈り」と呼ばれる箇所と、
箴言から(旧約聖書口語訳)・・・

 歴代誌上四章九節と十節
ヤベツはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。
その母が「わたしは苦しんでこの子を産んだから」と言って
その名をヤベツと名づけたのである。
ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った、
「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、
わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、
わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。
神は彼の求めるところをゆるされた。

 箴言三十章七節から九節
わたしは二つのことをあなたに求めます。
わたしの死なないうちに、
これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてはならぬ食物で
わたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。

どちらもこの世のことを祈っているが
後者は宗教人らしい祈りである
前者のヤベツの祈りは
少々贅沢な祈りで虫がいい ?
詳しい話は書かれていないが
ヤベツの祈りには何か
叫びたくなるような
苦しい状況を思わせるところがある
どちらが正しい祈りか
という比較ではない

この世の幸福でもいい
何を祈ってもいい
むしろ祈りを忘れてはいけない
しかし結果として
祈りが願いどおり叶うかどうかも
却って試練が与えられるかどうかも
神様に任されることであって
人が人に都合のよい約束を
教えたり信じたりするのは
御利益宗教である

私はひどい病気だ
心も乱れて手に負えないが
心は・・・手に・・・負うもの?と
ぼうっと考えてしまうほど
頭が悪くて悪くて仕方がない
と言っても仕方がないのに
ひどい信仰と不信仰だ
死にたくなりそうなほど沈没して
生きてしまいそうなほど浮いている
だから今すぐにでも
御国に運んでください
と祈りながら一方では
こそこそと
金の虫の息についても祈っている




  ハレルヤの鬼

車の運転をしていて
頭がぼうっとするときに
ハレルヤ、御心のままに、ハレルヤ!
と思わず口に呟き
心に叫ぶことがあるのは
賛美の言葉でありながら
神様の好きなようにしてください!と
やけくそのようでもあり
ときに真面目な鬼のような面相で
決意と必死の願望の
意思表示を志している
たとい此処で死んでも
神様を呪ったりはしません・・・!
されどどうか
人を殺すことだけはありませぬように・・・?




  クリスチャン
   ‐‐‐死んだらどうなる

死は美しくない
生はそれ以上に醜い
老はさらに見苦しい
としか思えない気分のとき
死んで風になんかなるものか
一神教も汎神論も無神論も
死後のことなど誰にも何もわからない
ならば死んだら無か零か
霊か天国か地獄か
無とか零とか言われたって
わかりようがない
霊とは?天国とは?地獄とは?
それさえもわからない
しかしわからないということは
すべての可能性を
否定できないということだろう
だからクリスチャンにとっては
生にあっても死と死後についても
わからないことをすべて
神様に委ね任せて生きることが
生ける者の神である生ける神を
信ずるという希望だろう
神様に出来ないことは何もないのだから
神様が風になれと言えば
風にだってなるだろう
見守れと言われれば見守るだろう
それを希望することを
誰も責めることはできないはずだ
希望の祈りは神様に向かっているから




  偶像崇拝者

主よ、私は
また夢をみました
そして気づいてしまったのです
私が青年期における性愛の問題を
卒業できなかったことに

長い間、私は
それを否定しようとし
祈りもしてきました
しかし私は
主の御前においてさえ
自分を偽ってきたことに
気づいてしまったのです

長いこと私には
自分の年齢に相応しい心を
持っていないという
違和感がありましたが・・・

私は今も若き日に恋した
ただ一人の女性を
忘れることができません
私が最後に彼女に会った
あの日あの場所は、また
私が私の心に
偶像を作った日でもありました
自分を偽ることは
主を偽ることゆえ
もはや私は自分に正直に
生きてゆくしかありません
私は自らが
でっち上げた女神のような
偶像とともに
死ぬ時までを過ごすでしょう
ときに呼びかけ
ときに肩を抱きさえするでしょう
わだかまった悪夢に逃避し
酔いしれることでしょう
さらに私の信仰といったら
そのことを祈りのうちに
告白することでしかないのです

ああ主よ、私は
神様が最も忌み嫌われる
偶像崇拝者
永遠の地獄の炎に
投げ込まれる身となりました

私には否みようもなく
主がおられるゆえ
私に否みようもなく存在する
私の偶像について
ここに告白いたします

主よ、主よ、私は
もはや今から私の時まで
偶像とともに裁きを待つのです
主よ、主よ、私は
病気よりも罪深く、いつでも
この狂気と背信の椅子に
坐しておりますから




  私の偶像

ねえ、君
私の偶像よ
私の女神よ
私の愛する人よ
本当の私は此処にはいない
今も、最後に会った
あの駅前に突っ立って
君を待っている
もう三十年以上そこに
ぼろぼろになりながら
突っ立ったままだ
だから愛する人よ
早くあそこへ行って早く
私を殺してやってくれ
そうすれば此処にいる私は
一瞬のうちに消え去るだろうに・・・
愛する人よ
偶像よ、悲しいよ
お前は微笑むだけで
何も出来はしないのだ




  前と後ろ

私の後ろに私の死はないが
私の前にはいつも死がある
手を伸ばせば届く物品のように
ぼんやりと黒っぽい袋のように
中は底知れぬ闇かもしれぬが・・・
一方で、まだ私の前にはパンがある
そうやって今までパンを選んで生きてきた

死なずにいるだけの食って出して寝る
動物よりも下等な繰り返しに
私はいつまで耐えるのだろう
いつまでも耐えられるものではないだろうに
いつ黒っぽいものは私に手を伸ばすのか
神様は教えてくれない

今しばらくは動物以下でいるとしても
いつか最大の罪を犯すかもしれない
されど主よ、私は
たとい私から手を伸ばしたとしても
主の御前に、その時に
決して自らを肯定することはないでしょう

私の後ろに主はおられ
私の前に主はおられ
永遠から永遠に
それは比べようもなく・・・
私の上に主はおられ
そして今まさに私に
狭き門から招いておられる
生きて至れと




  礼賛

偶像礼賛
愚草礼参
空想乱山
空疎散乱
空手 退散

ねたむ神の
みこころ

偶像退散
かなわずとも
祈り 告白

 人は思いのうちに
 偶像を捨てられましょうか

父なる神の
めぐみ

人の子の子の
民よ
祝福とともに
低みにあれ
神は民を求められる

 乱山の
 ふもと
 谷間に
 青息吐息

青く
遠い

から・・・?




  ヨハネの黙示録

当時の迫害という時代背景もあり
黙示録を読み解くのは難しいのだが
キリスト教の通念から生まれた疑問
神様にサタンは勝てないと知っていて
なぜ最後の決戦を挑むのか

サタンは単独では
神様に勝てないことを知っていても
神様が造られ
自由意思を与えられた人間の
その自由意思に巣食うことで
人間の自由意思を支配し
人間の破壊本能を促し育んで
神様vs悪魔の直接対決よりも
人類の勝手な自己崩壊→破壊→滅亡を
導くことで悪の勝利を狙っている
つまりサタンは人間の意思を奪い
人類の破壊力を利用することによって
人間が まさに
神様から与えられた大切な自由意思で
神様に背き 滅びの道へ向かうように
企む以外になくなり そのように導く
サタンは失楽園からずっと
そうしてきたような気がするのだが

ハルマゲドン(アルマゲドン)という
最終決戦が本当にあるのかどうか
そんな未来の終末よりも
今の世に目を向けるべきではないか
黙示録の読解は慎重でありたい

(関連→「危険思想」→「アルマゲドン」)




  旧約聖書について

なんでこんなに殺すかな・・・
と読んでいて思うことがある
イスラエル人に
異民族をたくさん殺させ
イスラエル人も背けば殺す
恐るべき大量殺戮の神様?

「主を恐れよ」で貫かれている
という考え方も出来ようが
少し別の見方をしてみる

荒地の多い陸続きの中東の地に
多民族が住んでおれば
領土を巡る戦争は
元々絶えなかったのだろう
その残酷さと
何より
それが無秩序であることに
耐えられない人たちがいて
創世神話と歴史を
唯一神信仰の立場から
預言書その他も含めて
解釈したものが旧約聖書
そうやって
警鐘を鳴らさざるを得なかった
つまり
ここは神話
ここは歴史と分けるのではなく
聖書全体が壮大な神話

 誰が史実を正確に知りえようか
 また正確な史実を知らなければ
 信仰は生まれないと誰が言えよう

その神話に
そのように書かざるを得なかった
著者たちのインスピレーション
そして
真実を見出すかどうかは
個人の信教の自由ではあるが

大量殺戮者は
つまるところ
人間に他ならない

そういう恐ろしき人間というもの
それゆえ
それ以上に最高の
恐るべき神を想い慕い
信じて頼みとするしかなかったから
信仰が生まれ
神話が生まれてきたのだろうと




  初夢

天に光はあれど
地は霧に覆われ
霧には塵も煙も
混ざっているかもしれず
視界は悪く
進退も目標も
目処が立たぬ

形あるものより
形なきもののほうが
よっぽど壊れやすいから

視界が悪いと分かるのは
天にも宙にも地にも
光が注がれているからだろう

天・宙・地
三位一体(トリニティ)の
ひとつの譬えの形だったのだろうか
しばしばH2Oの三態
水蒸気・水・氷などに
譬えることもあるらしいが
三位一体は科学でも記号でもないから
科学的な物質の三態に譬えられても
分かるようで分からない

形のない
痛々しくも
脆いものを大切に




  うつしよ

音信は彼方よりも来(きた)るとはいえ
スクロール スクロール ・・・
しだいに揮発するかのように
見えなくなる現世(うつしよ)を
空の空とも 無常とも
有為(うゐ)とも 奥山とも
思し召せ 音信は彼方より
胸に迫り 胸に落ち
胸に刺して傷む個を
個は否みようもなく
ともに 束の間 祈り
仰ぎ見るほかに何が出来よう

互いに朽ち果てる肉体を抱えて
御国にて再会 しばし疑い
いずれ 互い も 途絶えて
隠世(かくりよ)に消え去るというに
その時までの ひとときを
弱々しい音信を頼りに
心を揺らしているしかない

だから恩信の友よ
音信の友よ
信仰の友よ
孤独の友よ
友よ あなたは
友よ わたしは
友なのか




  スパムの風景

どこの誰が
どんな顔をして
書いている
夢を見せようと必死な
夢のないペンたち

出会い系 いったい
どんな目に会わせようとしている
一攫千金・お金儲け系 誰よりも
自らが金を攫(つか)むために
人を食う
ドラッグなど物売り系
「浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず」
(「いろは歌」より)

すさんでゆく世界の
すさんでゆく私に
すさんでゆくメールの数々
今日も まとめて消して・・・
この荒野に
きっと彼らは飢えている
きっと私も 飢えている

父なる神様 彼らと私を
お赦しください
彼らも 私も
自分が何をしているか
分からずにいるのです




  若い頃・我思うゆえに

ろくに本も読まないのに
ニヒルを気取った独り善がりが
何ものも存在しない まず
自分が存在すると仮定して・・・
などと幼稚に考えていた若い頃
「我思うゆえに我在り」
という言葉に接して
ああ確かに 何かを感じ
何かを思う意識の主体
という自分の存在だけは
どうしても否定できないと理解した
しかし ここから何か
展開できるだろうか
自分は存在しても
周りの他者や
周りの事物の存在は証明できず
感じているだけの
幻影に過ぎないかもしれない
だとすれば
人を殺しても 殺さなくても
意味に違いはない
というより意味自体が存在しない
行為においては何のルールもなく
「どうせ死ぬんだ根性」から
「何をしてもよい刹那主義」
というのと大して変わりがない
しかし主体は考えている
まさに そのときも今も
常に考えている
科学に戻れば
最初の言葉から離れてしまう
自分という主体に
意識と思考を与えている存在
というものを
何故 という問いとともに
考えることになる
それを偶然の産物と
割り切って済ませてしまえば
底なしの恐怖と虚無が待っている
何らかの意思を持つ
より高次の
別の存在と受け取れば必然的に
主体の存在には基盤があり
行為全般に規範が生まれてくる
刺す針は痛くないが
刺される針は痛いから
傷つけるとき
傷つけられることを考える
その存在を絶対者
神と呼ぶべきか
悶々・・・
聖書の言葉に初めて出会ったのは
それから何ヵ月後のことだったろう
思い そして想い・・・
悟らない者としての悩み苦しみは
むしろ そこから
始まってゆくのだったが・・・




  くりかえす

「すみません」は
「済みません」なのに
「すみません」で
くりかえし済ませてきた

自分の立てた計画も予定も
全然うまくいかないのに
ふと・・・気が向く
ということが度々ある
「不図」と書くのは当て字らしいが
くりかえし図らずも
奇しくも救われたと感謝しながら
・・・限りある命
いつまでも同じように
くりかえすものではなく
むしろ
くりかえすことこそが失敗に思えて
くりかえし祈るくりかえし

「すみません」は
文字通り済まないのだが
済んでも終わってもいないことが
今の私には多過ぎるから
くりかえす

わが罪をゆるしたまえ




 1+1からハレルヤ

1+1=2ではない
二進法なら10だ
なんてこと言わなくても
1で まとめられるもの
2で まとめられるもの
など頭の中の作りごと
空も風も海も波も山も峠も
まとめられる1も2もなく
吹き荒れて乱れて険しくて
いかにか君が独り越ゆらむ
絡み合って入り組んで
まとめようもなく
心は頭の作りごとではない
1でもなく2でもなく
等号でもなく不等号でもなく
答えは幾らでもあり
問いはさらに多く
悩みは尽きないが ホサナ
求めよ さらば与えられん
隠れているもので
明らかにならないものはない
答えも問いも連なり
永遠に連なり ハレルヤ
開いて向けられた心にだけ
狭き門は開かれる
運ばれるままに
まとめようもなく
一も二も無く
空しく空しく悦び称えよ




  運ばれるもの

現実的には
しばらく様子を見る
全ての真実が明るみに出た上で
全部返そうと思っても
貯金では足りない
母のお金には手は出せない
生命保険か・・・
死ぬのは怖いが
三十年以上封印し
抑制してきた自殺念慮
処分対象者死亡によって
義務消失の可能性・・・
何とも情けない
オートマチック
(トランス)ミッション
現実的だが機械的で短絡的な
最大の罪であることよ
皮肉なところで
病気が役に立つ・・・?

笑止!
肉体の生死を恐れるとは
肉体の生死を求めるとは

信仰に拠るならば
神様が救うなら
どんな形であれ
誰が何を言い 何をしようとも
必ず赦され 救われて
御国へ至るであろう
また逆に
神様が地獄行きと定めるなら
どんなに うまく立ち回り
どんなに足掻こうと
自ら何を言い 何をしようとも
必ず地獄へ落ちるのである

在って在る御方に比べれば
人などは
在って無きが如きものではないか
神様に運ばれて
運ばれるままに
身を任せる以外にないのである
神様は必ず運ぶ
それに抗うことも
逃れようとすることも無意味である

肉体の生も死も恐れなければ
神様が必ず運んでくださるのだから
知る必要もない 成り行きを
案ずることは無意味であり
知る必要もない 行く先を
恐れることも無意味である

魂を生かし
魂を滅ぼすことの出来る御方
神に全ての栄光は帰されるのだ
神様以外のものを恐れるな

肉体の生死を恐れるな
自ら歩けない者よ
塵に等しい者よ
神に任せよ
何処へでも
背負われ
運ばれてゆけ




  無理と有理

無理が溢れている
しかも無理だということが分かりにくい
ある程度の理が分かっていても
ある程度の理が定められていても
既に無理を踏んでしまったのだから
曖昧な理と無理の境界線上に
真っ直ぐに理を進めることは出来ない
真っ直ぐ歩むことが出来ないのだから
「真っ直ぐ」も無理も有理も
委ねてお任せするしかないのだと
分かっていたはずだ・・・
考えることは大切だとしても
最後に残る向きは一つしかない

無理と無為の日々は
空手も空拳もないほどに無力になった
運び導く御方に
運び導かれてきたように
与えられるものを受けるしかない
何をしてもよい
何をしなくてもよい
何を忘れてもよい
最後に残る向きは一つしかない

受けるものが何であれ
それを賜物と感謝できるかどうか
賜物に人の無理も有理もない
与えられたほうを向いて
祈りのうちに窮極において求める道
致命的な線上に救いを・・・!




  言葉と数

言葉はしばしば嘘を吐くから
言葉を信じられずに
数は裏切らないからと
数を信じる人がいる
作為があれば
数も嘘を吐くのに・・・
数は
素朴な学びと遊びなら
嘘は吐かない
でも間違いはしばしばだ

言葉も数も嘘は吐かない
嘘を吐くのは人間だ
裏切るのも人間だ
間違えるのも人間だ
罪を犯すのも人間だ
まさに人間以外の
何が嘘を生み出し得ようか

自らをよくよく見よ
眼は何かを睨んではいないか
唇が密かに歪み
腹は何かを企んではいないか
自らの腹で癒そうとしてはいないか
よくよく自らを見よ

なくてはならぬものゆえに・・・
言葉も数も
人も




  趣味とネット

自分の頭や心を
いくら検索しても見つからないのに
癒しの言葉や趣味のテーマが
思いがけず
ネットで見つかることがある

迷惑メールもトラブルも多い
荒野のようなネットとPCだが
自分の必要と趣味に合うサイトを探して
欲しい情報が手に入れば
何の利益にもならなくても
考え行動するテーマを与えられて
自分にとってだけちょっと嬉しい
時々ささやかな達成感も・・・?

使いこなせば楽しめるネットだが
これは赦され与えられた私の
取り分と言えるのでしょうか・・・?
馬鹿と鋏は使いよう・・・と言うが
はたして私は使いこなされて
いただいているのでしょうか・・・?

今日も無益としか思えないことに
現(うつつ)を抜かしております
生きることに疲れながら憑かれたように
少しばかり夢見心地で・・・




  何をやっている

私は何をやっているのだろう
便利というわけでもなく
ただ素朴に面白くて
数字と記号で遊んでいるつもりが
逆に数字と記号に頭を痛めて
便利というわけでもないのに
もてあそばれ振り回されているようだ

じっと見つめると数字も記号も文字も
馴染んできたはずの意味を失い
壊れた模様に見えてくる

ああ私は何をやっているのだろう
しんみり素朴に真剣に
祈っているつもりが
毎日同じことばかり祈っている
文言まで殆ど同じではないか
これではお呪(まじな)いではないか
祈りがお呪いに振り回されて・・・?

少し違うと感じるのは
祈り求め願うことが
限られてきたということ

どんな繰り返しでも
私は数字ではありません
私は記号ではありません
私は文字ではありません

数字や記号や文字以上に
肉体は壊れてゆくが
精神は壊れてゆくが
それを包む世界の景色は
こちらの都合などお構いなしに
変わることなく
変化し続けているから・・・




  世界観妄想

プラスとマイナス
陽と陰
NとS
光と闇
世界の本質は
「対」をなしているのか

しかし次に
滑らかな円が
無限個の三角形であり
錐体は柱体の三分の一であり
さらに「三位一体」
世界の本質は「三」で
トリニティ・トライアングルか

しかしここで
黄金分割である
しかも正五角形に表れている
三角形を含んでいる
世界はペンタゴン界!?

さらにさらに
オイラーの公式と等式
こうなると狂おしくなってきて
しまいに世界は虚数だなどと
ルナティクに叫びかねない

要は数学的才能の乏しさを
絶叫しているに過ぎないのだが

人の思考にも
神の意思は行き届き
行き渡り
様々な英知と不思議を
与えている

しかし陰陽も
「光と闇」も
「三位一体」も
(黄金律というのもあるが・・・)
「この世は虚」も
宗教的な響きを持ってきて・・・
乏しさと貧しさと
絶叫と奇声と狂気には
神の如何なる意思が
隠され?顕れている?

いつか虚しい思いの内に外に
乏しく満たされており
貧しく富んでおり
絶叫は賛美し
奇声は祈り
狂気は信仰する
ゆえに五は二であり
体と心と魂は
賜る霊とともに在り
ゆえに三は一であり
虚は否めず分からず
慕わしくとも逃れたくとも
生は死へ昇天し
死は生へ昇天し
ゆえに二は一であり
一は無限であり永遠であり
虚は聖へと昇天し続ける




  祈り・空しくて

主よ
傍(そば)に居てくださいますか
この世に負け
人に負け
己自身にも負けた老いたる白髪頭の
傍に居てくださいますか
主よ
我が主よ
聞いてくださいますか
昔話のように曖昧な
呆けた白髪頭の愚痴を
数々の悔いの話を

人に また己自身に頼ることの
如何(いか)に空しかったか
また一方 人に 己自身に
頼れないことの
如何に空しく苦しかったか
人に話すことが
伝えようとすることが
如何に空しい徒労であったか

 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
 わたしは造ったゆえ、必ず負い、
 持ち運び、かつ救う。(イザヤ書四十六章四節)

主よ 我が主よ
かくも空しき来し方と明け暮れを
大切に思ってくださるのでしょうか




  瞬間まで

信仰は死に打ち勝てるだろうか
死がどんなに迫ろうとも
その瞬間まで
死の実感を理解することはない
生身の人間は結局
死に打ち勝てるのではない
死の瞬間に何らかの叫びがあり
それは信仰によるものかも知れず
苦痛と恐怖によるものかもしれないが
その叫びとともに信仰は掻き消える
その先は
もはや信じるという
不可思議な行為は存在しない
もはや信じる必要はないのだから




  ある日の祈りから

神様は人を試み
人は高慢や思い上がりを
神様に打ち砕かれることによって
神様を知るようになるのですが
人は大それた望みでなくても
望みの叶うのが長引くと悩み
悩み続けると絶望して病むのです
神様
打ち砕かれることが重なりすぎると
人は壊れてゆくのです
与えられた一日を支えてください
私は壊れてゆくのです

もし私が今夜眠れるなら、おやすみなさい。
もしも明日、目覚めるのなら、何かを考え
何かを見、何かを知ることができますように
明日一日を支えてください。
私は壊れてゆくのです。




  私の祈り(寄せ集め)

私は
与えられたゆえ、奪われ、
得たゆえ、失い、
恵まれたゆえ、お返しする。
栄えたゆえ、衰え、
健やかであったゆえ、病んでいる。
しかし私が
与えられたもの、
得たもの、
恵まれたものは
それほど多くはなかったのに
奪われ、返し、衰えるのは
あまりにも速やかだ。
それほど栄えたわけでもなく
健やかだった日々は短いのに、
衰える日々、
病む日々に至るまでは
あまりにも早く、
あっという間だった。
今朝、目覚めなければ
今日傷つくことも苦しむこともなかったし
この薄い胸を痛めることもなかったであろうに
不条理とは何だろう。
夢も希望も奪われながら
生きてゆくことだろうか。
まだ辛うじて奪われていないもののために
感謝することだろうか。
不条理の中に
夢や希望を見出すことだろうか。
また不条理とは・・・に帰ってしまう。
永遠回帰でもなく輪廻でもなく、
人生は一度だ。私の
信仰は死に打ち勝てるだろうか。
いかなる信仰や哲学をもってしても
生きているあいだのぎりぎりまで
死の実感を持つことは遂にない。
信仰は死に打ち勝てるのではない。
叫びとともに掻き消えるのが信仰・・・
その先には
死の実感はない。
信仰という不可思議なものもない。
不条理という言葉さえない。
もはや信じる必要すらないのだから。
今誰かのために祈れるとしても
それは
その先のためではない。
祈りが気休めで、
願いが掃き溜めであっても、
霊的が心理的で、
真心が悪魔的であっても、
あたかも肉欲のように貪欲に
祈り願うのは
夢や希望が掻き消えてもなお
信じたいという不条理の
泡吹く毒の晩餐(ばんさん)を
肝胆に秘めて漏らさず、
せめて涙に濡らしながら、
自らの牙を折ってゆくときの
唯一の薄い揮発の間としてだ。




  学説と事実と信仰の呪い

私は汝よりも先に死に
地獄の入り口で
汝が死ぬのを楽しみに待っておるぞ

学説ならばまだ許されたであろうに
「神の事実」を思い上がって語る者よ
学術の難しい言葉を並べながら
浅はかで当たり前のことしか言わぬ者よ
汝は多幸的で浅ましく
立ち直るがゆえに罪深く
汝は人を狂わせる天才である
今のまま汝が神の祝福を受けるのなら
私は目も耳も口も
首と頭と命とともに
切り取られてしまったほうがましである

私が吐いた呪(のろ)いについては
既にお分かりであろう
私が地獄へ落ちたのなら
地獄の中にいるのであって
地獄の入り口にはいない
私が天国へ召されたのなら
これもまた地獄の入り口などにはいない
即ち矛盾であり嘘である

私の名前は「ウソ」
ありきたりの狂気である




  幸福と希望

共感できる好ましい人間関係のない人は
恐らく多くは幸福ではないだろう
しかしそういう人に「希望はない」
と言ってしまうと
それは孤独な人への死刑宣告にさえなりうる
共感できる好ましい人間関係があるからといって
それゆえに「ない人には希望がない」と
他者の事情も知らずに断言してしまう権利は
他者の人格と尊厳を全否定する権利は
いかなる論理過程を経ていても
誰にもない

命題にもアドバイスにもならない
崖っ縁にいる人の背中を押すだけの
不用意な発言に過ぎない

どんなときでもところでも
希望はあるだろう
信仰でも
妄想に過ぎなくても
希望はあるだろう
たといそれが弱者の怨念の
負け犬の遠吠えの
最後っ屁に向かっていたに過ぎなくても

必要なのは口を閉ざすことでも
忘れることによって
言わなかったことにすることでもない
必要なのは
その都度の訂正と謝罪と
赦しの祈りである

省みることなく
忘却と気晴らしで立ち直るところに
見せかけ以外の前進はない




  神についての、あるコメント
 
神は、
存在であり本質であり真理であるが、
存在者(≒概念化できる既知のもの、譬えれば、見えるもの)ではない。
 
神は他のものを必要としないという意味では
自立存在のような気もしますが
そういう存在だとしても、人の立場で考えるとき、
神は、人にとっては、人が
関わられることの中でしか、その一部さえ、知り得ない御方であり、
神からの、人との関係で、自らを顕す御方であり、
人から論理的に、こういうものだというふうには、
神との関係も存在も、概念のようには、
説明することは出来ないと思っています。
説明できたら、それは神ではなく存在者に過ぎない、
というくらいに。
 
神から顕されたことによって
人は、人の言葉で、ある程度は神について語れるが、
人の言葉で神を語り尽くすことは出来ないと思っています。
そしてその追究されるべき未知の最大値「ある程度」が人にとっては
とても大事であり不可欠ともなりうるような気がします。
 



  悲しみの論理
 
キリスト教は「自律と他律」の、
また「肉と霊」の、二項対立の二元論だという。
「いかなる定めを持って造られたか分かっているのか」と
神様に叱られているような気がする。
死に臨んでは、「自」のつくもの、
自律も自立も自力も消え失せる。
祈りと叫びだけになる。
その相手は神様だけだ。
生きている間についてはどうだ。
生きるということは、死に行くということだ。
生きるということは、長いつもりでも
一瞬の「息」に過ぎない。
霊はよく分からないもの、
安易に分かったと言えないものだが、
肉は、いずれ必ず、消え失せる。
二元論が消滅するベクトルを内在し、
それを生きている今自覚しながら、
賜物あるいは取り分として楽しめる「息」の時間を
二元を真理の実存として費やすのか。
一元を真実の実存として希望を持って受け取るのか。
二元と一元の二項対立とでも言うのか。あれ?
そもそも「論」で進められるものなのか。
私の人生における、また信仰による、束の間の「息」の
悲しみと喜びは対立しようがない。
どちらも与えられるもの、与えられて私にあるものだ。
賜って私の血となり肉となっているものに
どうして私が対立軸を定められようか。
「定め」は「恵み」として常に唯一のものではないか。
永遠は一瞬に等しく、ともに命である。
ただ一本の灯火(ともしび)に火を点(とも)せ。




  平安
 
がっかりして
神様に祈って嘆いたり
駄々をこねたり・・・(嘆息)
 
信仰がもたらす平安とは
いつも安らかな顔をしていることではなく
悟りきった顔をして
笑顔を見せることではなく
 
気持ちを隠さず訴える相手が
いつもいるということ・・・
 
それだけでも
なくてはならぬもの・・・
私は救われている
 
(2010年10月18日)
(もちろんそれだけではないとは思うが・・・
 ・・・信仰薄い者より・・・)
 
 
 

  在る・祈る

あの頃に戻りたい
という あの頃が
どこを探しても見当たらない

人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今

かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々

感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし

コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる
愛と呼ばれるものの
実相が浮かび上がる

賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世に在って
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ祈りへ




  魂の讃美歌

心の奥の奥
その深みにあって
限りなく命に近いもの
と表わしても
実体に半歩も近づいたとは言えない

荒野に呼ばわる声がして
求めてやまないもの
弱い肉体の
心を熱してやまないもの

死にかけた肉体や
死にかけた心においてさえ
まだ燃えることのできるもの
求めることをやめない
望むことをやめない

人間の持っている
力に類するものの中で
最後まで耐え忍ぶ源

誰も作れない
誰も飾れない
しかし与えられて
人にあるもの
人を人にするもの

見るところ人には空しく
辻褄の合わない
あらゆる矛盾を孕(はら)むかのようで
果てもなく切りもなく
それでいて肉体に関わり
心に近しい

滅ぼされて滅びない
殺されて死なない

やさしい言葉から
激しい言葉まで
涙ながらに尽くしても
あらゆる形容と
定義をやすやすと拒んで
逆に以上のすべてを
生み出すもの

分けられず
分かれず
わからず
別れない




十五、ウソの国U風の便箋・あとがき

 
 
 
  履歴

(さとし元年)
何も覚えていない
この年初代ゴジラ生まれたらしい
(さとし三年〜五年)
最も古い果物の記憶
食後一つのりんごを四つに分けて食べた
味も、誰のが一番大きかったかも覚えていない
小犬と遊ぼうと近づいたら小犬じゃなかったらしい
ワァワァ泣きながら運ばれた(泣き虫・顔の傷跡元年)
自転車に撥ねられること三回
鏡で流れる血を見て泣き出す(顔の傷跡二年〜三年)
(さとし七年〜八年)
関節痛くて母に背負われて病院あっちこっち
大学病院、胸にペタペタ聴診器、白衣
お医者さんになりたいな(リウマチ熱元年)
(聡九年〜十二年)
体育はずっと見学
しばしば予感を伴って鼻出血
(聡十三年〜十八年)
マラソンは見学、青白く勉学、初恋は失恋
つたの絡まる校舎で同じように絡まっていた
夢多かりしあの頃、独り書いた絵日記
(リウマチ熱改め弁膜症十二年)
キリスト教の洗礼を受ける(クリスチャン元年)
(戸田聡十八年〜二十六年)
初恋の人は結婚、うつ状態〜ウソ状態
中原中也を読む(私のポエム元年)
初めて死体を見る、階段教室、留年、やっていけるのか
教会へ行かなくなる(クリスチャン七年頃)
車とバイク中型の免許取得(バイク元年)
入門書・現代詩文庫など読み始める
(戸田聡二十七年〜三十九年)
一応「先生」と呼ばれていた(ドクター元年〜十二年)
パソコン始める(元年)、不眠症始まる
バイクで事故、骨折、手術、嫌なことまとめて味わう
(戸田聡四十年〜)
スクーターに乗り換える(バイク十四年〜)
(顔の傷跡三十五年〜)(弁膜症三十二年〜)
(教会へ行かないクリスチャン十四年〜)
(パソコン十年〜)(ドクター改め不眠症患者七年〜)
ゴジラ死す、私まだ生きている
(satosi@・・・元年)
端末から顔突っ込んでキョロキョロ

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※ これは一九九六年の秋頃の作です。

 
 
 
  大病院

 私は医者であるよりも患者であった期間の方が長い。
 ずいぶん昔の話である。大学病院のような大病院には床に色分けしたレールのような線が引いてあって目的の科あるいは検査室に行くのにどの色の線をたどって行けばよいかがわかるようになっている。説明されたとおりにレールをたどっていくと必要な検査なり診療が受けられるしくみである。それでもけっこう人間は間違えるものである。何の検査が先だったかわからなくて馬鹿みたいに元の所へ行って看護婦さんに聞いたりすると最初のときと同じように説明してくれるのだが、さっき説明したばかりでしょうと言わんばかりの表情で怒られてしまう。たくさんの患者を相手にして看護婦さんはお疲れなのである。
 今度は大丈夫と目的のレントゲン室に行って検査伝票を決められたボックスに入れる。それでも人間はけっこう間違えるものである。早目に行って待っていたつもりなのにお呼びがない。もう昼近く私より遅くきた他の患者さんが全部終わって誰もいない廊下にぽつんと独り腰掛けている。非常に心細い気分でいると、技師さんが出てきて私を見て何の用か尋ねたので事情を話すと、しばらくして伝票がどういうわけか床に落ちてしまって私は順番からもれていたらしい。黙って馬鹿みたいに待っていた私は忙しくなかったが、たくさんの患者さんを相手にして技師さんはお疲れなのである。

 詩の入門書に載っていた一節、谷川俊太郎の詩だったと思う。

病院には肉体の秘密がない。したがって精神はますます多くを秘密にする。

 曲がりなりにも精神科の医者として約十二年働いてみて感じたことがある。

精神の秘密さえ守れなくなると、肉体をもって守ろうとするしかなくなるのかもしれない。

 患者になった医者ほど扱いにくい患者はいない。自分で自分を扱えない私は今とっても厄介な患者なのである。

 
 
 
  シンプルに

私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします

 
 
 
  行きます

その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
私は行きます

私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ

 
 
 
  死んでいます

私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています




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  著者略歴

 昭和29年1954年2月24日長崎県長崎市に生まれる。高校は佐世保、大学は福岡、就職は熊本。現在、熊本市近郊に在住。本来は精神科医。現在、不眠症・鬱等々にて休業中。戸田聡(戸田 聡(とだ さとし))は本名。
(平成14年2002年5月5日現在)

 平成19年2007年8月30日現在。熊本(自宅)と長崎県諫早(実家)を行ったり来たりだが、諫早に居ることが多いです。


   以上