六、 基督(キリスト)の歌

 
 
 
  序

自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ

 
 
 
  呪いの丘

晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという

彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った

人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された

誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている

 
 
 
  悔い改め

キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける

それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ

 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)

私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ

 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか

私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である

 
 
 
  自殺について
     (「自殺は最大の罪」とは
     「自殺者は最大の罪人」の意ではない
     これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
     死者を呪うための言葉ではない)

自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない

 (神が生ける者の神であるように
  罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
  最大といわれる自殺の罪が
  果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)

もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる

人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる

 (基督は確かに生きよと言われるだろう
  だが その理由によって生きている人間は
  思ったほど多くはあるまい)

死ぬ ということは
もう出会わないということ
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない

残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない

 (もともと基督など信じていなかったのだ
  ということにすれば辻褄は合う
  だがどうしても合わないものがある)

自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
生きたかったと

 
 
 
  臨終

見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして

賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと

 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた

彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ

「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」

去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある

こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り

彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った

 
 
 
  衰弱

ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった

 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ

さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた

 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ

ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった

 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・

 
 
 
  基督像

誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない

どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と

彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に

 *

息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ

「主よ 私です
 私は来ました」

信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について

 *

礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった

人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像

たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう

何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから

 
 
 
七、 信仰と希望と

 
 
 
  諦(あきら)めてはならない約束

神様は救うと約束されました
それは神様との新しい契約
生にあっても死に臨んでも
命の全ては神様の手の中にあるのだから

諦めるのは捨てることではなく
諦めると言えるのは
それで穏やかな目覚めを望むときだけ

ひとつの夢が断たれたからといって
諦めてはならないのです
多くの努力が報われなかったからといって
諦めてはならないのです
まだ心があり体があり
動かす手足もある
今できることから考えてごらんなさい

体が病んだからといって
病人と思ってはならないのです
まだ心がある
戦おうとしています
感覚し反応する
清流を求めてごらんなさい

心が病んだからといって
努力さえできなくなったからといって
全てを失ったと思うことはないのです
まだ体があり目があり耳がある
残された心が願うものを探してごらんなさい

身も心も病んだからといって
何もかも終わったと思うことはないのです
病んでいることは生きていること
まだ命がある
何かが動いている
動けるものを見つめてごらんなさい

起きてもいい
寝ていてもいい
何をしてもいい
何をしなくてもいい、でも
諦めてはならないのです
忘れてはならないのです
神様との約束だけは

 
 
 
  「それ」からの手紙

光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた

ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる

影によって光を知る
病気によって健康を知る

絶望によって希望を知る
希な望み
誠に希望を本当に知る人は少ない
欲望は派手な花々を求めてやまないが
希望はただ生きる魂を求めるのみである
それを知っているかぎり希望は
あきらめの中にさえなお存在しうるのです
探し続けてごらんなさい今ある力の限りを尽くして
絶望とあきらめの中にいる今こそ
                 生ける屍より

 
 
 
  迷える信徒

隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ

手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう

つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために

隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか

 
 
 
  聖なるあした

明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに

聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか

 
 
 
  主の光

怪しげなる光の
赤いワインの晩餐よ
光の子らよ
血よ
主の御言葉に通うだけの
耳をいくつ持っている
主の光を
受ける目を持っているか
放つ目を持っているか

裏切りをいくつ重ねて
此処にいる
十字架の
主の
御心の
聖なるところ
嘆きの光
皿に盛る
此処に

 
 
 
  地の塩

人をすなどろうとは思いませぬ
人をあやつるなどは以ての外
されど狭き小屋から眺むるに
物はあふれ
口から厠へ落ちるばかり
やがて商うことも
贖うこともできなくなりましょう
渇ききった
飢えたる魂のあるところ
何処の海を二つに分けて
何処の山へ
国へ
祭壇へ
導かれようというのでしょうか
荒れたる狭き庭を眺めては
地になりたし
塩になりたしと
思うこの頃

 
 
 
 ユダ

私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を

私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を

 
 
 
  悪魔

悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。

 
 
 
  バベル

こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです

 
 
 
  悪魔の臨終

軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」

 
 
 
  感動

山の頂に立って
そこから空を飛べとは言わないし
山を移せとも言わないが
もう少し感動させてくれないか
目頭を焼いて楽園を追われ
いや捨てて日没へ去れと言うのか
選民を押し潰した被愛の傀儡よ
伝わらないことを誰のせいにする
読み方が悪い
書き方が悪いはよしてくれ
賛美も聞き飽きた 十字架を
重い荷物にたとえる愚は
異言を放つ教祖様方
溢れるほどのブドウ酒
産みの苦しみに快感を束ね
満腹の上に飽食を重ね
発酵しすぎた唇が
開く赤い闇が
パンのみにて生きるものにあらずと
ずいぶん酢を噛んでいる
異臭の迷路から
生まれた詩の永遠が
死の永遠へ昇天する刹那
信仰は迷いさまよい漂いただ酔いながら
久しぶりに口ずさむ
古い讃美歌に泣いて
復古、復古と愛人を呼ぶ
素直すぎる狂気の沙汰だ

 
 
 
  罪のらくだ

「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・

主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか

主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです

 
 
 
  敬虔な

ケーケンなクリスチャンが
祈りをささげる場所になじめず
憐れみの眼差しに胸がいっぱいで
胸くそもいっぱいで
悟らない下等動物は
居場所を求めて
いい場所を求めて
あとずさりを始めた
ここでもない
そこでもない
気がついてみると後ろは崖で
もうあとずさりはできない
まわりには誰もいなかった
あざける者もいなかった
風がヒューヒュー吹いていなかった
教会はどこにあるのか
十字架はどこにあるのか
悟らない下等動物は
陰険なクリスチャンになって
祈りをささげた
ああこんなにも人畜無害であるのに

 
 
 
  真実

宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに

子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている

地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく

宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように

面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように

 
 
 
  クリスマス

昔、赤い服を着て
空を駆けるトナカイに乗って来る
白いお髭のサンタが見えたかね
リンリンと鈴の音が聞こえたかね

今夜も靴下を用意するんだね
今度は子供たちのために
プレゼントを入れてくれるのが
お父さんならまだいいけどね
もっと悪いことだってあるかもしれない

クリスマスにはサタンがUFOに乗ってやってきて
イエス様の誕生を呪うために
汚れた革袋や箱の中に
拳銃や自動小銃を入れてまわるんだ

クリスマスを祝う国
聖書の国
イエス様の国に
人殺しが絶えないから
神様が放っておかれるあいだ
悪魔はますます好きなだけ種をばらまくんだ

悪魔はイエス様の生誕を知っていて
神様に勝てないことを知っていて
少しずつ居場所が減っていくものだから
残った隙間に上手に入っていこうとするんだ

それは子供の靴下よりも
大人の袋や箱よりも恐いもの
悪意や誘惑のプレゼントを配っては
心の中にキーンキーン
キーンキーンと響きを忍ばせて隠しておくんだ
見えない足跡を残しておくんだ

 
 
 
  落ち込み

先の目処がない
見通しがない、見込みがない
人生の先に
何も見ることができない者が
見ているものは何なのでしょう

本当に落ち込んでいるときに
楽しい歌を聴くとよけい落ち込んでしまうもの
むしろまず悲しい歌でも聴いて
涙が湧いてくるような気持ちになって
気持ちが少し落ち着いてから
充分に休んだのち
少しずつ体を動かしたり楽しい歌を聞いた方が良いのです
軽い落ち込みなら元気づけでもよくなるでしょうが
本当の落ち込みは緊張と不安を伴っていて
こころゆくまで泣くことさえできないもの
だから涙の有無にかかわらず
十分な「泣き」を通して初めて
安らぎに似たものが生まれるのです
悲しい人よ
どうか許されて
こころゆくまで
力が全部抜けてしまうまで
泣けますように

横たわる
この身の中にせせらぎの
川の流れを聞かしめたまえ

うなだれて
見つめる先とて無けれども
目頭に知る
かすかなぬくみ

諦めも青き炎か
見つめては
心の底の残り火にさす

 
 
 
  自殺した少女

やわらかい羽毛の
あたたかいベッドの上で
少女は目を覚ました
そばに白い衣を身にまとった
白髪の老人が
穏やかな表情で立っていた
「ここはどこですか
天国なのですか」と
少女がたずねる前に
大きなディスプレイの画面に
映し出された光景は
家族の狂ったように泣き叫ぶ様子
恋人が悲しみのあまり酒を飲み
暴走している姿
そして自らの惨たらしい死体
些細な誤解が生んだ
少女の自殺がもたらす数々の悲劇・・・!
誰にも秘密にしていた見苦しい思い出
画面は延々と続く
少女は泣き出して言った
「お願いです
どうか私を地獄へ落として下さい!」
老人は哀しげな目で答えた
「娘よ
気の毒だが
ここが地獄なのだ」

 
 
 
  幻

私が勧めて
畑の中にいる人
でも土を掘り
野菜を作る人たちと離れ
何もせずに立っている
あれは私ではなかったか

私が幻を打ち消すために
あれこれとしゃべり
説いたつもりの人
でもふってはわいてくる幻を
しょっちゅう見ていたのは
私ではなかったか

死を思う人に
安らかな生き方が
必ずあると
生きてみなければわからないことだと
苦しみはやがて過ぎ去るのだと
説得しながら
実は祈るような気持ちで
説得されていたのは
私ではなかったか

今 畑の横に立って
幻の夕陽をみながら
何もせずに立っている
生きた方がよかったか
死んだ方がよかったか
それは生きてみなければわからないこと
うそを言ったつもりはなかったのだと
独り言をする
幻の明日をあきらめて今
どうしようもない力で
崩れていきそうな自分を哀れんで
神のような慈愛で
私の世界をやさしい色に染める
そんな夢を見ながら

 
 
 
  列

いつか加わるであろう
同じ列に
とりとめのない思いを抱き
通じない言葉を話し
散乱したベクトルを持ち
悪しき者には
容易に切り捨てられ
しかし団結することのない
ひとつの群れ
やがて口を閉ざし
あきらめて並んでいる
長い長い列
いつか加わるであろう
同じ列に
曲がった背中と
突き出た口唇の影に
疲れを残しながら
ゆっくり歩いてゆく
列の先には
さびしげに横たわる
聖者が居るだろうか
青い霧の中に
道は向かっている

 
 
 
  わからないと

わからないと
なぜ言えない
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
わからないと
なぜ言えない
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
食道も塞がってしまうのだ
わからないと
なぜ言えない
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ

 
 
 
  わかったと

信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
わからない私は黙っていよう
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を喉に残したまま
吐き出さないでおこう

 
 
 
  神と私(わたくし)

真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる

真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる

言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる

人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる

そうではありませぬのか
主よ

そうではないのか
ことば、よ
泣き顔の
わたくし、よ

 
 
 
  余言?

過去百年と、その前の百年を比べてごらんなさい
過去五十年と、その前の五十年を比べてごらんなさい
人類は急速に肥大している
人間の精神性は同じスピードで追いついているのでしょうか
今や人類は片手に自殺の道具、核兵器を握り
もう一方の手で完全に解明されないまま
遺伝子に手をつけようとしている、そういう時代なのです
人類は自らを殺す能力を持ちました
神様の御心はわかりません
しかし少なくとも自然は
急速に肥大した人類に
人類がしでかしたことの
責任をとることを迫ってきているのです

人類は滅びるのだろうか
いつかはね
人類の滅亡は近いのだろうか
自然が人を育んできた時代や
剣と鉄砲だけで争ってきた時代に比べれば
すでに自滅の手段を持ってしまったのだから
ありえないとは言えないが
それほど馬鹿ではないだろうと思いたい

彼ら、次の時代を担うべき人々は
今の時代を動かしている人々が
心配するほど愚かではなさそうだが
安心するほど賢くもなさそうだ

未来は
彼らが彼らの責任において
変えていくほかはないように用意されている
彼らを教育し
道を用意して
その上を歩ませようとすれば道を誤り
彼らを指導し
指さして
引き連れようとすれば離れるだろう
変えていかなければならないものは多いけれど
変え方を知っている者がいるだろうか
できることは努めて道を整えること
でもどう整えたらよいものか

あってはならないことだけれど
仮に人類滅亡の時が来るとして
隣人がみんな死んでいくのに
自分だけ助かろうと思うべきだろうか
むしろ自らの命を失っても
愛する人々が助かるように祈るべきではないだろうか
「命を得ようと思えばそれを失い、」…聖書の言葉だね
あるいは「天に宝を積む」ということか

救いであれ怒りであれ
神の力が人に及ぶことはあるかもしれません
人が人の都合で神を選ぶのではありません
神が神の都合で人を選ぶのです
人が神に近づくのではありません
神が人に近づくのです
だから神の知恵は人にはわかりません
人の知恵はどこまでバランスをとり
どこまで片寄ってしまったのでしょうか

不安と希望に伴われて努める人々
心も体も人間である
百%でもなく0%でもなく
その間にさまざまにいて
その間を揺れ動く人間である

いつの世にも
世の終わりまで
彼らとは呼べないほどに
彼らも我らも愛すべき
ただ 人 である

 
 
 
  解脱

解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること、とある。
単純にそういう意味として考えてみる。
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
主イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。

全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい
人の知恵にすぐれていればできることであろう
不全なる人に完全を教えても無駄であろう
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
何故にこのようなことを私は言うのか
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲を見るからである

 
 
 
  勇敢な兵士

勇敢なる兵士諸君
あるいはすべての戦う者たち
あなたがたは義によって立ち
あるいは仕事と割り切って
戦いの場へ向かい
祖国のため正義のため
殺された仲間のため家族のため自分のため
うまくいけば生き残って凱旋し
多くの人々にたたえられ
胸に輝く勲章を与えられるかもしれない、しかし
あなたがたは喝采を浴びせる人々から受けるようには
神から祝福を受けることはないだろう
いかに平和を勝ち取るという目的を持っていても
極悪人を殺すときも
人殺しを殺すときも
殺さなければ殺されるようなときも
人を傷つけ殺したならば神の前に
あなたがたは裁かれる身であり
決してたたえられる身ではない
天国に勲章も名誉も持ってはいけない
ただ裁きの日に裁きの場に立たされるであろう
そして情状酌量の余地を問われるであろう、それほどに
人を傷つけ殺すことは正義ではない
しかし心の底まで
裏の裏まで
すべてを見抜かれる神が斟酌されるとき
その計らいは限りない哀れみであり
永遠の生命へ至る道である
神の前に明らかにならないものはなく、もし
あなたがたが天国へ招かれるとすれば、それは
あなたがたが正義であるからではなく
あなたがたが、ただ
父なる神によって哀れまれた
という理由のみによるのである
何故なら御国に至る道はそれ以外になく
あなたがたを見送った私たちも
それ以下ではない罪によって裁かれるからである

 
 
 
  友

あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである

あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである

 
 
 
  才ある者

たたえるべきか
あわれむべきか
ともかくも彼は選ばれて
その若き日に
赤い靴を履かされたのだ
神は彼を知っているが
彼は神を知るだろうか

彼をして神を知らしめよ
さもなければ
神を知らない赤い靴は
一つの時代を駆け抜けて
大急ぎで駆け抜けて
駆け抜けて駆け抜けて
駆けるだけで去っていく
屍には禿げ鷹が群がる

今はどんどん新しくなり
人はどんどん古くなる
彼をして神を恐れさせよ
才と命の限りを
持てる者は出し尽くさずにおれようか
主の恵みを知らしめよ
持たざるものは満ち足りるであろう
一つの使命を与えられ
一つの時代を駆け抜けて
定められたときに召されても
蒔かれた種は芽吹き
天の宝は光り輝き
地に恵みとなって降り注ぐ

たたえるべきか
あわれむべきか
神の用意された道に選ばれた者
駆ける

 
 
 
  心情的矛盾律、体験宗教・人間宗教

まず一つの命題を考えてみよう。

私は偽キリストである。あなたは私を信ずるか。
私は偽預言者である。耳ある者は聞くがよい。

これは論理的矛盾律ではない。
しかし心情的には、
偽キリストが自分を偽キリストと名乗ったりはしないだろうし、
本当のキリストなら、これまた偽キリストと名乗る必要はない。
よってこれは心情的には矛盾律であって、
つまりどちらも成り立たない、どちらでもないのである。
本物ではないのだから、この矛盾律をもって
私は「偽キリスト教」なるものを展開しようと思ったのである。

しかしこれは誤解されやすく、
また悪用されるかもしれない。
わざと偽キリストを名乗って
本物でないことをよいことに
好き放題に謎めいたことを言い(まさに私か?)
人々を惑わし
結局、利をあさる者が出ないとも限らないのでやめた。

私はあくまで人間として
俗人として
人の知りうる神あるいは信仰とは何かを考えていきたいのである。
神の存在も不在も証明することはできない。
だから信仰なのであり宗教なのであろうが、
人の知恵で測れない神を信じることには危険が伴う。
恐ろしい思い込みに陥ることさえある。

信仰に至るとは信じることではない。
人の知恵からみれば聖書によって
人生において否定することのできない「このうえない同伴者」、
すなわちキリスト・イエスに出会うことである。
それが神を知ることの始めであり終わりである。
限りであり、全てである。
神とその知恵を直接神様から知ることはできないから
信仰に至る過程で神の導きがあったとしても
それを同定することは人間にはできないから
キリスト・イエスを知ることで神を知るほかはない。
そういう意味で信仰に至るとは信じることではない。
永遠をともにするに足る同伴者に出会った、言い換えると
一生の付き合いになりそうなお方に出会ったという
精神生活上の宗教的霊的体験を持つ者をキリスト者(クリスチャン)という。
その体験は劇的に感動的に起こることもあろうが、
いつの間にか忘れられず考えてしまっているようなあり方もあると思う。

この、体験に重きを置き、人間としての限界を知るキリスト教を
体験宗教・人間宗教と呼びたい。

 
 
 
  偽物

真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです

人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです

 
 
 
  聖書

 一般に紙は薄く、頁はめくりにくく、ボールペンで線でも引くと裏から透けて見えること多く、にじんでくることさえある。一般に分厚く、途方もないと思えて、なおかつすべての一行一行に涙流れるわけでもない。メモでもしておかないとすぐどこだったか忘れてしまう。これに一生を費やす人がいるわけだ、と他人ごとのように思う。
 聖書、バイブル。旧約聖書、新約聖書。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、共同訳聖書、リビングバイブル。
 永遠のベストセラー、というより永く買わされてきたこの書物を全部読みこなせた人がどれだけいるのだろう。たとえそらんじたとしても信仰に保証はないのだ。
 開こうとするたび、無数の異国の怪人が現れ、白髪の老人であったり、真黒な眉毛と髭の間にこわそうな目がにらみつけたりする。
 こりかたまりの戦争の話であったり、道に伏した栄養失調の嘆きであったり、熱くなって爆発しそうな顔であったり、こちらが爆発しそうになったりする。
ただときどき、ふだん嫌いな憐れみが命がけで迫ってきて、荒野や砂漠が潤ったりするので、海が割れたり死人が生き返ったりしてこんな頭持ってないと破り捨てたくなるのを、笑えなくする。

 
 
 
  宗教

 私は宗教は嫌いである。できれば最小限の道徳とヒューマニズムをもち、宗教に関しては無神論というよりは無関心でいたかった。多くの日本人がクリスマスにはケーキを食べ、大晦日には除夜の鐘を聞き、年が明けると初詣に行く。しかして三つの宗教のどれも本気では信じていない。私はそれさえも面倒くさくてしないですませたいと思う。
 キリスト教だけでも百を越える教派があると聞く。キリスト教を名乗る新興宗教などを加えるとその数の多さにまず疑問を抱く。さらに宗教人の哀れみの表情や態度に、悟らない下等動物をみるような蔑みの目を感じてしまう。それでも悪意がなければ、苦い吐き気を隠しながらも何とか耐えられる。
 私は愚か者である。と言ってみてもしようがないが、加えて人に言えるほどの何の才能もない。無能と言ってもいい。自らは悪意をもち、あるいはもったことがあるにもかかわらず、自らに向けられた悪意・作為には耐えられず逃げるほどに気は弱いようだ。それを神様にお祈りしても勇敢な正義の味方になるわけでもなく有能になるわけでもない。その気の弱さと社交性の乏しさのせいであろうか、私は独りでいることが多く、独りで考えることが多い。独りで存在することの耐え難い不安が私をキリスト教に向かわせたのかもしれない。そして聖書に表わされた人のような神のような生き方と死に方をしたイエスキリストのへの想いが断ち切れないために今も聖書を少しずつ読むという生活になっているようである。
 イエスは常に貧しい人たちを訪ね彼らとともにあり慰めと励ましを与え、どういう癒しかはよくわからないが病気を癒したという。広く(旧約)聖書に通じていて、それを人のために生かし、終生富を求めず、私利私欲を求めず、最後には抵抗も言い訳もせず、十字架につけられ死んだ。福音書はキリスト・イエスの肉体をもった復活を説いている。しかし肉体をもって復活されたのなら、忙しくはなるだろうが時々天から下りてきて困っている人々を当時のように助けに来てくださればよいのにと思う。
私についていえば復活は聖書を通じての霊的な精神生活以上には起こっていないので、それ以上を無理に信じる気にはなれない。今でも私は宗教は嫌いである。あまりお近づきになりたくない。しかし私は全く個人的にイエスの存在を必要としており、イエスを主と呼ばざるをえず、キリスト(救い主)と呼ばざるをえず、それよりも存在することの孤独と不安を癒してくださる同伴者・永遠の友として頼みとせざるをえない。

 
 
 
  誤解

 彼がどんな不幸を背負っていたか知らない。日曜日の教会での礼拝のときだった。彼が私の横に座った。膝を閉じまるで長いすからはみ出しそうな格好で小さくなって腰掛けた。先に座っていた私はそのとき長いすの真ん中で大股開きでふんぞりかえっていたので(おやおや、ちと場所を取り過ぎたかな)と思って姿勢を正して場所を空けたつもりで少し彼から距離を取った。
 すると軽蔑されたか忌み嫌われたとでも思ったのであろうか、彼はすっと席を立ち出て行こうとした。数人の信者が彼を引き止めようとする。私は黙って座っていた。どうしたらいいのかわからなかったのである。(「どうぞ、場所あけましたからこちらの方へお座りください」と言えればよかったけど、そういうのって俺は苦手なんだ。それにしても席を立たなくてもいいじゃないか。どういう事情かは知らないが少し被害的なんじゃないの。知らない、ああ知るもんか。)恥ずかしさの反発で腹立たしく、一方で思うのであった。(こういうことで罪を犯すこともある。受け取る側の問題はともかく受け取らせ、その弁明も償いもしなかった私に罪はあるのだ。)
 昔、牧師さんから「生まれつき人を傷つけないではおれない性格の人もいる。」と聞いたことがある。自分のことか。人を傷つけないではおれないということは多かれ少なかれ誰にもあるのかもしれないが、子供の頃よく小動物をいじめて遊んでいたし無頓着で気配りのセンスもないし根はけっこう残酷なのかもしれない。
人を傷つけ、傷つけることで自分も傷ついた。自分が怖くなった。その後、いつからだったかは忘れたが、私は教会に行かなくなった。昔、静けさを求めて通っていた教会に私は向かないと思うようになっていた。あの時の彼がどうなったのか知らない。思い出すと彼が救われるなら今死んでもいいという気持ちになることがある。

 
 
 
  復活についての疑い

 まず最初から疑ってみる。イエスは「三日目によみがえる」と本当に言われたのかどうか。三日目かどうかはともかく、復活については本当に言われたのではないかと思う。イエスがそれを言われたのでなければ、無学な漁師であったペテロをはじめ師を裏切り師を失って打ちひしがれていたはずの優秀とは言いがたい弟子たちが勇敢な使徒となっていくことが理解しがたい。少なくとも、死んでもよみがえり常にあなたたちと共にいるから福音を述べ伝えなさい、というようなことは言われたのではないか。
 しかしあえて復活の預言もなかったと仮定してみよう。復活はどこから生まれたのかを物語的に考えてみる。絶望していた嘆きとため息ばかりの弟子たちの集まりの中で、まずマグダラのマリアが口を開く。「主は死んではおられません。十字架につかれ息をひきとられても、主は滅びず私の中に永遠に生きておられます」と彼女は胸を熱くして語った。その言葉に弟子たちは目を見張る。特に泣き顔のペテロがいちばん驚く。弟子たちの目覚めが始まる。弟子たちの中にも預言書や律法を知っていた者はいたはずだから、そこから復活の成就という概念が生まれ育っていく。そしてついには福音書へと発展する。復活の預言があったとしても似たような場面を想像してしまう。
復活については、遺体や墓石のこと・亜麻布の話などもあり、福音書はみな主イエスキリストが肉体をもって復活したことを説いている。不信仰な私は肉体をもって復活したことについては少なからず疑いをもってしまうので信じているとはいえない。ここではそれについては否定も肯定もしないでおくことにしよう。

 
 
 
  イスカリオテのユダとイエスについての想像

 律法や預言書を熱心に学び律法学者の話を聞きしばしば質問ぜめにしている若者がいた。父は大工であったが息子はあまりその仕事を好まなかった。父ヨセフは彼が熱心に学問をしていたので彼をとがめることをしなかった。若き日のイエスの姿である。
 荒野で厳しい苦行の生活を続けていた洗者ヨハネの群れの中に、のちにキリストと呼ばれるイエスの姿があった。イエスは聖なる書によく通じ、何を聞かれてもすぐに聖句を引用し答えることができた。イエスのずば抜けた明晰さにヨハネもいちもくおいていた。ヨハネはイエスを後継者にしたかったが、彼の話を聞いているうちにいずれは出ていって新しい伝道者となるかもしれないことをすでに予測していた。
 同じ群れの中にイスカリオテのユダがいた。ユダはエッセネ派に近かったがヨハネの強い教えにひかれて加わっていた。しかしユダは熱心党の考えに最も近く、荒野でいつまで苦行を続けても仕方がないと思うようになっていた。ユダも預言書などについては学んでいたが、イエスの語る言葉からその卓越した能力に魅力を感じ、この人ならユダヤをローマ支配から救う指導者になるかもしれないと考えた。ユダは群れの中でも、またイエスからみても目立たない存在であったがイエスはすでにユダの期待とその眼差しを感じていた。ユダがまだイエスの弟子ではなかったころのことである。
 イエスの弟子となったのちユダは同じ弟子たちの中に漁師のペテロや取税人のマタイなど無学な者たちがいることに不快を感じていたが、一方では優越感をいだいていた。ガリラヤ周辺での布教はしばしば困難と危険を伴った。他の弟子たちがうろたえるときもユダはうろたえることなく、やがてユダヤの王となるはずのイエスにつき従った。しかしイエスがパリサイ人や律法学者と公然と対決するのを見て、もっといい方法がありそうなものだ、と疑念をいだくようになった。パリサイ人も反ローマをかかげていたからである。
 イエスはヨハネから独立して布教活動を始めたころはイスラエル全土に福音を述べ伝えることで正しい信仰へ導こうと考えていた。しかしパリサイ人・律法学者・サドカイ派・ヘロデ党など反対する勢力があまりにも大きく布教が困難と危険をきわめるにつれ、死を覚悟するに至りエルサレムへ向かう決心をした。イザヤの預言書(第五三章)に従いそれを成就するほかはないと思ったからである。弟子たちはそれを知らなかったが、ただ一人イザヤ書に従おうとするイエスの意図を知る者がいた。イスカリオテのユダである。ユダは裏切られたと思った。そして、そんなに死にたければ思うとおりにしてやろう、と裏切りを考え始めた。しかしイエスはユダの気持ちをすでに見抜いていたのである。
 最後の晩餐の席でイエスは「この中に私を裏切る者がいる」と言った。弟子たちがどよめく中でユダがいちばん驚いた。ユダは言った、「それは私ですか」。イエスは言った、「そのとおりだ。ユダよ、お前が私について一番よく知っているはずだ」。ユダの憎しみはつのった。
イエスを裏切ったユダはイエスが死刑になることを知って後悔した。「あのお方がいったい何をしたというのだ。病人や罪人をいやされた。悪いことなど何もしていないではないか、イザヤの書に従ったからといって、私にそれができようか、あのお方はすべてを知っておられた、私は呪われた者なのか」。ユダはイエスを売った報酬を返しに行ったが相手にされず、その金を神殿に投げつけた。こうして復活を信じることもなく許しを乞うこともできず、主イエスキリストにかかわった多くの人々の中でただ一人イスカリオテのユダだけが首をくくり自ら命を絶ったのである。

 
 
 
  ユダについてのもう一つの空想

 ダビデが築きソロモンが栄華をきわめた統一イスラエル王国は、その後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂する。やがて北はアッシリアに、次いで南はバビロニアに滅ぼされる。世界史に有名なバビロン捕囚。イエスの時代はそれから約六百年後である。
 さらにはるか昔、ユダヤ人の祖とされるアブラハム、イサク、ヤコブ。そのヤコブの十二人の子は十二部族の名前といわれているが、その中にユダ部族という大きな部族が記されている。
 部族名のユダ、王国名のユダ、そしてイエスを裏切ったイスカリオテのユダ、と紛らわしいが混同するほどではない。前二者は恐らくつながりがあるだろう。問題は三番目の人名ユダである。
 「キリストの十二弟子」というが、聖書において「七」と「十二」という数字はくせものというか特別な数としてしばしば登場する。「七」は創世記に始まり、しばしば「世界」をあらわす。「十二」は十二部族からきた数字でユダヤ民族を象徴する。
 イエスの弟子は十二人ではなく多数のユダヤ人であった。その中の幾人かはのちに名が知られることになるが、イエスが生きていたときには無名であった。イエスが捕えられてから大部分の弟子は逃げ去った。つまり裏切ったのである。そしてイエスを十字架にかけたのも紛れもなくユダヤ人であった。ユダヤ人がイエスを裏切り殺した。しかも場所はかつてのユダ王国の首都エルサレムである。十二という数、ユダを含む十二の部族、ユダ王国の首都エルサレムでのイエスの処刑、と考えていくと疑問は空想をよぶ。本当にイエスは多くの弟子の中から十二人を選んだのかどうか、「選ばれた十二弟子」というのは本当にあったのかどうか。さらに裏切り者のユダは実在したのかどうか。イエスを売った密告者がいたかどうかにかかわらず密告者がイエスの弟子であったか誰であったかにかかわらずユダという名の弟子がいたかどうかにかかわらず「裏切り者ユダ」は、「神の子イエスキリストを裏切り殺したユダヤ民族」の象徴として描かれたのではないか。前に述べた三つのユダは三つともつながっているのではないか。
 ちなみに「ルカによる福音書」では十二弟子の中にイスカリオテのユダのほかに、もう一人ユダという弟子の名が記されている。ここで思い起こしてしまうのは旧約聖書の中で何度もくりかえされるストーリー、すなわち神はユダヤ民族が堕落し裏切れば罰し滅ぼすがすべてを滅ぼさず悔い改めれば許し救う、というパターンである。呪われた裏切り者ユダがいれば悔い改めて救われた使徒ユダもいる。
しかしイエス自身が旧約聖書の「十二」という数にこだわって十二人を選んだことは考えられる。また「ルカによる福音書」はユダヤ人向けに書かれたものではなくもう一人の「使徒ユダ」について強調していない。ユダヤ人のために書かれたとされる「マタイによる福音書」ではもう一人のユダの名は出てこない。ここが空想の限界である。真相は牧師先生か聖書学者に聞いていただきたい。

 
 
 
   宗教と狂気と堕落

 長い歴史をもつユダヤ教を母体としているとはいえ、キリスト教も成立当時は紛れもなく新興宗教であったはずだ。
 ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教である。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟をもつ。律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのだがイエスの時代には形式主義をかたくなに守っていた人たちがイエスの敵となった。
 その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったわけで、そのために福音書をはじめとして異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていった。聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのであろうか。
 宗教は古い新しいを問わず狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていると考えるべきであろう。
 宗教だけから戦争が起こるということは、少なくともキリスト教においてはありえないことのように思われるのだが、利害関係や政治的な争いに宗教がからむと戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなる。
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで「社会のお邪魔にならない」影響力の乏しい人畜無害のような印象を覚えてしまう。確かに宗教が社会に有害であってはならない。しかしキリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ない。

 
 
 
  二人の背教者

 神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が狼狽しつまずいた。
 裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。「あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれをした。
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。」

 
 
 
  二人のはぐれ者

伝道を志しながら心を病んでしまったキリスト者がいた。少しばかり財産があったので当座の生活には困らなかったが、毎日気がふさぎ寝込むことが多く「自分など死んでしまえばいい」と思うこともあった。そのキリスト者の家に盗人が入った。彼は何をやってもうまくいかず失敗の繰り返しで自暴自棄に陥っていた。刃物をキリスト者に向け「金を出せ」と迫った。キリスト者は、
「盗人にやる金など一銭もない。欲しければ私を殺して家の中を捜せ。」
「命が惜しくないのか。」
「逃げられるものならば逃げる。だがまわりには誰もいないし、あなたは力が強そうだ。どうやら、かないそうもないゆえ観念した。それに・・・もうよい。」
キリスト者は目を静かに閉じた。キリスト者は目を閉じたまま盗人はキリスト者をにらみつけ刃物を握ったまま黙っていた。
長い沈黙が続いたのち、盗人が言った。
「い、命を粗末にするな。」
「あなたがそれを言える立場かね。」
「本当に命が惜しくないのか。」
「もう・・・・どうでもいいんだ。」キリスト者は少し悲しげに言った。
「ちっ」と盗人は舌打ちをして刃物を床に捨てた。「やめた。何て野郎だ。全部でなくても、ちょっとばかりまとまった金さえ出せば済むものを。お前、少し変なんじゃないか。」
「他人の金を盗んでどうするつもりだ。それに生活のための金を得る道なら他にもあるだろう。」
「どうするって、まとまった金があれば天国さ。何だってできるじゃないか。」
「金をいくらか持っていても私のような者もいる。いちばん大事なものは金ではない。」
「じゃ何だって言うんだ。」
「大切なものは多くはない、むしろただ一つだと書いてある。私もよく理解しているわけではないが、今あなたに刃物を捨てさせた何ものかだ。」

 
 
 
  宿業と運命

性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり

運命は天にあり
宿業は我にあり

我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し

あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり

 運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 後者の場合自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが運命論を説いてはいない。
宿業という言葉は仏教用語なのでよくは知らない。前世の因果を考えているわけではない。しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき運命という言葉は使いたくない。勝手な解釈ではあるが今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。

 
 
 
   キリスト教の国

 あまねく世界のはてまでも述べ伝えられるべき主イエスキリストの教えは日本には十分に伝わっているとはいえない。
 十六世紀に日本に伝わったキリスト教は、その後の迫害によって途絶えた。わずかに残った隠れキリシタンは土着宗教と化してしまった。見事に殉教した人たちは世の終りまで帰ってくることはあるまい。明治以後に様々な教派のキリスト教が日本にも伝えられた。戦争と迫害を経て今なお少数派である。しかし日本のキリスト教が少数派であることを恥じる必要はあるまい。多数派であればよいというものではない。
 ローマで大迫害の後キリスト教が公認されたことをもってキリスト教の勝利と見なすことは、その後の中世の教会の犯した過ちを思えば受け入れがたい。
 また現在、世界のキリスト教の国と呼ばれている国々をみるがよい。それらの国に犯罪の絶えたことがあったか。人殺しの絶えたことがあったか。戦争の危険のなくなった国があったか。それらの国々のキリスト者を侮辱するつもりは毛頭ない。どの国にも尊敬すべき指導者はいるだろうし、彼らを慕う信徒も多いだろうと思う。

しかし天国は未だ来ていない。天からも来ていない。地上にも実現していない。宗教的に「キリスト教の国」と呼べる国はまだ一つもこの世には現れていないのである。

 
 
 
   日本

 この国は狭い国土ながらも亜熱帯から雪国までを有し、四季に富む緑豊かな国である。島国であり異民族に蹂躙され支配された歴史をほとんどもたない。
 イスラエルは長い歴史の中で独立国家を維持していた時期は約五百年くらいであり、異民族に何度も支配され蹂躙され散らされた苦く長い歴史をもっている。
 日本は異国の技術を取り入れ加工し発展させることが上手であり、異国の文化を本質よりも風俗習慣として取り入れる特徴をもつ。日本の文字は中国から、ローマ字は欧米から、宗教にいたっては先進国ではめずらしくいまだに多神教が残っている国であり、一方では仏教の影響を強く受け、またキリスト教の影響も受けている。しかしそれらは宗教というよりも文化・風習となってしまっていて、御先祖様を敬う心はあるけれども、熱心に宗教を求める者は少ない。変化に対する適応能力に優れているがゆえに、熱しやすく冷めやすい、拾いやすく捨てやすい、流行りやすくすたれやすい。
 荒野と苦難の中に育ったユダヤ教から生まれたキリスト教の本質を日本人が理解するのは難しく、望みがあるとすれば同じ喜怒哀楽をもつ人間であること、そして日本には日本の苦難があり、これからも来るであろうから、宗教を求める人々はいるということであろう。栄えた国はやがて衰えるときが来るからである。
 キリスト教は日本において必ずしもメジャーな宗教となる必要があるかどうかは疑問でもある。メジャーであればあるほど慣習に堕してしまいそうで、むしろマイナーであるからこそある程度純粋性が保てるという部分もあるかもしれない。

荒野に乳と蜜の流れる国を夢見た異国の民に向かって
この国に荒野はない、見ることもなかろう、と言えるだろうか
緑と水に恵まれた国は
海に限られた土の上で
それ以上に人と文明にあふれ
緑と水を汚してゆく
それゆえ自らの狭い領域を守ろうとしながら崩れ
つまずく者たちにとって川ではない
結びつきのうすい人々の流れ、緑ではないそのざわめき
人波は嵐のように彼らをおびやかし
怒りと災いがふりかかる中、乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる

 
 
 
  求めよ

求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ

無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である

偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるであろう

 
 
 
  選ばれた民

キリスト者(クリスチャン)は神によって選ばれた民である
それを否定するつもりはないが
選ばれた、とはどういうことなのか
恵まれた、とも言えるかもしれない
しかしこういう言い方は誤解を招きやすい
選ばれた、とは優劣を意味しない
また特別に善いことをしたから選ばれたわけでもない
キリスト者でなくても優れた人はいるし
また尊敬に値する人格者であり
キリスト教についても知識を持ちながら結局
信仰には無縁なまま一生を終える人もいる
強いて言うなら助けが必要なほど愚かだから
神の憐れみによって選ばれたのかもしれないが
ことさら卑下する必要もないだろう
無理な謙譲は陰湿な思い上がりの住みかである

主イエスが弟子として選んだのは
人格や知識の優れたものではなく
多くは無学で愚直でありながら
人間的な感情の豊かな人々のようであるが
詳細は明らかではないはずだ

少なくとも選ばれるということは
選ばれる人々の都合によってではなく
秘められた神の都合によって選ばれるのである

だから選ばれたことは縁のようなものであって
選ばれた民は異教徒や無宗教の人々を
軽んじてはならず憐れむべきでもない
人の憐れみはしばしば陰湿な軽蔑の住みかである

キリスト者はただ神の都合により選ばれた民である
そして父なる神から甘くなさそうな盃を与えられた者である
人間としての喜怒哀楽を経て、離れようとしても
盃の縁のゆえに、たとえ苦くとも
盃の宴に立ち返るほかにない人間をキリスト者という

 
 
 
  光の子

 心の真っ直ぐな人、愚直なほど素直な人、教えられたことを受け入れるほかにないほど心寂しい人は幸いである。仮に光の子と呼ぶことにしよう。
 しかし光の子は真っ直ぐであるがゆえに道を誤れば悪い方向へ猪突猛進してしまう危険を持っている。しかもいったん信じてしまうとなかなか改めるのが困難である。今の世にまれな宝を持ちながら導くもの・信じていく過程の善し悪しによって義人ともなり悪人ともなりうるほどに危うい人である。
 人は一生に二度以上親を持つことがある。最初は肉親の親あるいは育ての親である。二度目以降は人生を根底から変えてしまうような感動的体験である。後者はその後の人生を決めてしまうほど大きな影響を持つ。
 原体験ともいえる二度目の出会いを親と呼ぶのは、人は最初に乳を与え抱き育ててくれた肉親を親と認識するのと同じだからである。成長してから苦難や悩みに直面したとき最初に救いの手を差し伸べてくれたものを親と認識するのである。それは宗教であるかもしれず思想であるかもしれず人物であるかもしれない。それらは多かれ少なかれある種のしがらみのようなものを伴っているものである。気をつけなければいけないことは今の世に生きているという現実の中で、その親となるものが必ずしも常に善いものであるとは限らないということである。悪いしがらみに取り込まれる危険は誰にでもある。
 人は無人島にでも住まないかぎり、しがらみというものから自由にはなれない。しかし人生の父として母として自分を取り巻き支配するしがらみを選ぶことはできるかもしれない。よいしがらみに出会った人は幸いであるが、善いしがらみか悪いしがらみかを区別するのはたやすいことではないと思う。そして始めは善いしがらみでも悪くなっていくことだってあるだろう。
大切なことは自分が良心を持った人間・人格であることを常に自覚して内省することであろう。いかなるしがらみの中にいても人間離れしないことを深く強く心に刻み付けておくことである。人間離れした親は人間離れした子を育てる。人間離れしたしがらみは人間離れした命令を下し隷属を要求する。そして光の子はその純粋性のゆえにしばしば誰よりも先にその犠牲になるのである。
三度目の親を持つことがあるとすれば、その出会いは二度目の親との出会い以上のものであるはずだ。それは二度目の親との決別を決心させるほどに人間的な感動を伴う、あるいは否定することのできない、あくまで人間的体験である。物や肉体に起こった奇跡はやがて忘れ去られる。魂に起こる奇跡は決して忘れることはない。

 
 
 
  天国とは

 天国といえば一般に考えられているのは死んでから行くところだろう。雲の上のような世界で恐らく着物は白い衣でエンジェルがひらひらと舞い戦争も争いもない永遠に平和な世界、といったところか。
 聖書によれば主の言葉に「御使いのようなもので」「嫁ぐことも娶ることもない」とある。これと前のイメージを合わせてみると、何とまあ退屈なところでしょう、遊ぶことも働くこともないのかしら、ということになってしまう。
 さらに主の言葉に「天国はあなたがたのただ中にあるのだ」。これでますますわからなくなる。死んでから行くところではないのだろうか。しかし自分たちのただ中にあるといわれても頭は混乱するばかりで、これはまいった。天国は神の国、聖なる領域であるから人の知恵で理解できるような性質のものではないのだ。結論として、わからないとしか言いようがない。
 しかし後者の言葉を考えているうちに、ふと思うのである。洗礼を受けているいないにかかわらず聖書とキリストに関わり今も関わり続けている人は少なくとも一度以上、天国を垣間見ているのではないだろうか。もちろん目で見たのではない。宗教的にいえば霊的体験である。一般的な言い方をすれば「癒された」「慰められた」「励まされた」あるいは去り難い縁のようなものを感じた、といった精神生活上の出来事としての体験である。それは幻覚や超常現象のような人間離れしたものではなく、あくまで人間的な暖かい感性に響くものとして体験されている。だからそれを体験した人は今も聖書を読みイエス・キリストの教えを知りたいと願い続けているのではないだろうか。
天国がどこにあろうと、どんなに理解し難いものであろうと、一度は垣間見ている。今はそんな気持ちで神の国を待ち望んでいるのである。

 
 
 
   人間離れ

 宗教がそして信仰が人間離れしていくとき、それは宗教が最も危険な状態に陥ろうとするときである。そしてそれは宗教が宗教であるがゆえに最も日常的に直面しやすい問題でもある。偶然のように突然起こった不幸を無理やり神の意志・計画として辻褄を合わせようとする心の働き、飲めないものを無理に飲み込もうとして力んで平静を装おうとする姿は信仰を持つ者にしか起こりえないであろう。それは耐える姿ではない。人間離れした力をわが身に強制する姿である。人間離れしたものを立派なものとして求めようとする恐怖に駆り立てられた行動である。
 悲しみを悲しみとして受けとめれば、泣き怒り時には背教の念さえ抱く。そういう裸のありのままの姿の自分を見て神の前にさらけ出し認め自覚することによって隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることによって初めて耐えるという愛するためのきびしい忍耐の行為が生まれるのである。
 聖書には旧約にも新約にも現代でいえば超常現象・超能力としかいいようのないような奇跡物語が描かれている。それを否定も肯定もしない。それはつまり奇跡そのものを歴史的事実として信じることがキリスト教を信じることではないということであり、例えば福音書にあるキリストの奇跡を信じなければキリスト教徒になれないということではないということである。
 物や肉体に起こった奇跡はやがて忘れ去られる。しかし魂に起こった奇跡は一生涯忘れ去られることはない、といったのはそのことである。主イエスは人間的感情の豊かな者たちを弟子として選んだ。無学な漁師であり愚直ともいえるほどイエスを信じながらイエスの真意を理解するだけの能力は持たずキリスト受難の時には主を裏切り逃げ去ったのち自らの裏切りを悔い激しく泣いたペテロがその代表であろう。
 人間でありながら人間的でない者がどれほど溢れていることか。人間として人体を持ちながら平気で非人間的なことをする者がどれほど多いことか。人間でありながら人間離れしたがっている者が多いのが今の世である。
イエス・キリストの奇跡を人間離れした欲求の成就としてではなく、あくまで人間としての感情によって受けとめ、肉体よりも自らの魂に起こる奇跡に人間的に感動する宿命のような縁を持って生まれた人。人間離れした優れた何者かになろうとするのではなく、より人間になることを求める人。自分の視野の限界とその狭さを知っている人。そしてよく喜びよく悲しみよく笑いよく泣きながら主のもとにあって耐えることを覚えていく人をキリスト者・クリスチャンという。

 
 
 
人間宗教(キリスト教について)

 百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教がある。それが今の世である。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。守ろうと努める者であり、守れないことを魂の底から最もよく知る者のことをいう。そうでなければどうして罪を知りえようか、どうして救いを知りえようか。キリスト者はキリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうる。

 イエスキリストは神であり神の子である。そして神は聖書により、またその人個人の人生において人をいやし慰め励まし導かれる。そのことを否定しようとは思わない。個人的に否定できないからである。
 ではいったい人は何者なのか。感じることも考えることも人の自由である。しかし神の導きを知りうるものではない。聖なるもの、例えば神の導き・聖霊・神のお告げ・預言などは、人があれはそうである、あるいはそうであったと決められるものではない。
 喜怒哀楽・思想・行為がいかに信仰に始まるものであっても、それらはすべて人間としてのものであることをわきまえるかぎりにおいて人に許された自由であり信仰である。
 いかなる修道も信仰生活も伝道も人が聖なるものに近づくためにあるのではなく、また人が聖なるものとして高められるためにあるのでもない。信仰は、ただ人を人間として高めるためにある。

 何よりも神の前に正直であれ。疑いをもったならば、それを正直に告白せよ。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白せよ。神などいないと言いたくなったら、そう言いたいわけを正直に告白せよ。キリスト者はそのために祈りという情緒的で人間的な手段を与えられている。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を与えられており、またその義務を知るべきである。

 真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違う。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりである。さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるであろう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのである。
魔術を捨てよ。悪魔に住みかを与えてはならない。神秘の力から離れよ。聖なる答えを探してはならない。聖なる答えを口にしてはならない。聖なるものを自らに擬するのをやめよ。それらは神の持ち物である。人間は生きている限りどこまでいってもどれだけ修道しても人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りである。

 
 
 
八、祈りの章

 
 
 
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるなら
なぜ戦争で多くの人が死ぬのでしょう
私の中の詭弁は答えます
戦争は人が起こしたものだから
人が責任を取らなければならないと
戦争を起こすのはごく少ない人々
でも死んでいくのは戦場に駆り出された兵士だけではなく
武器も持たない女や子供や老人も死んでいくのです
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ地震や災害で多くの人々が死んでいくのでしょう
成人になったばかりの若者や
これからという働き盛りの人々や
逃げることのできない体の不自由な人々や
数多くの人々が死んでいくのは何故でしょう
私の中の詭弁は答えます
日頃の準備や行ないが悪いからだと
しかし人々は精一杯生きていたのではないでしょうか
一生懸命生きている人々がなぜ死ななければならなかったのでしょう
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ病のために多くの人が苦しみ
苦しんでも甲斐なく死んでいくのでしょう
なぜ体の病のために家族を残して死んでいくのでしょう
なぜ何も知らない病気の子供が死んでいかなければならないのでしょう
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ心の病のために自らが苦しみ
周りをも苦しめなければならないのでしょう
そしてなぜ人間の一番大事な精神を奪われてしまうのでしょう
なぜ自分のしていることがわからなくなるのでしょう
父なる神よ
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるなら
なぜこれらの不幸が訪れるのでしょう
なべて私の中の詭弁は答えます
試練であると
でも試練は生きて悔い改めるためではないのでしょうか
私はただ人の知恵では神の知恵はわからないと答えるほかないのです
父なる神よ
私はあなたに触れることの畏れのために
あなたを恐れるのです
全知全能の
父なる神よ
私は全知全能に耐えられないので
あなたを恐れ
いちじくの葉をもって逃げ惑うようにあなたを恐れます
父なる神よ
人の知恵では到底あなたの知恵を理解できないので恐れるのです
天国の何たるかを知らずさまようのです
父なる神よ
御心の天になるごとく
地にもなさしめたまわんことを
目に見るように
耳に聞くように
幼子のように裏切らない言葉を与えたまわんことを
一日も早くその日の来たらんことを
主の御名によって祈ります。アーメン。

 *

父なる神よ
私はあなたに触れることの恐れのために
あなたを恐れます
あなたは火のように強く
私は火にかざした一本の髪の毛のように縮み上がり
それほど無力であるがためにあなたを恐れます
私は罪深く
私の知恵は乏しく
父なる神よ
あなたの御心ははかりがたく
それゆえに私はあなたを恐れます
罪の深さを知るほどにあなたを恐れるばかりです
私はやさしい父を呼ぶようには
あなたを呼べず
「私を見たものは神を見たのである」という主の御言葉にすがり
ただ主イエスキリストの御名にすがるのみです。アーメン。

 *

父なる神よ
あなたから与えられた命は
あなたが定めるときに
あなたによって召されることを知っています
神のものは神に返すべきことを知っています
すべてを与え
すべてを奪いたもう父なる神よ
それでもあなたから与えられた命を
自ら絶ってしまう人たちがいるのは何故でしょう
そして彼らは悔い改めることがなかったために
天国に入れず地獄に落ちるのでしょうか
彼らは誰よりも苦しんだのではないでしょうか
少なくとも私よりも苦しんだはずです
それに病気のために自殺する人もいるのです
自殺はそれがまとまって起きないかぎり
人々はそれを話したがらず
むしろ隠そうとすることの方が多く
ときには軽蔑さえしがちです
彼らが人の知恵の及ばないところへ行ってしまったから
残された人にはどうすることもできないからでしょうか
彼らが何を言いたかったのか聞くすべはありません
もはや彼らを導くすべも人にはありません
ただ父なる神の愛にすがるほかはないのです
願わくば彼らの魂が御手にありますように
彼らが苦しみから解き放たれ
あなたのもとで安らかでありますように
主の御名によって。アーメン。

 *

父なる神よ
若い身空で癌を病んでいる女性がいます
彼女は生きる欲望と熱意にあふれており
仕事熱心で能力もあり
貧しく心病む人のために働いていたのです
私は癒すものとして力なく才乏しく
いつ召されても悔いはありません
何ゆえ彼女にかかる不幸を与えたもうたのか
父なる神よ
あなたの御心、その知恵のはかり難さに
私はおののくばかりです
どうか御心ならば
彼女の病に「去れ」と命じてください
どうか御心ならば彼女をお救いください
御心ならばわが命にかえて
彼女を守りたまえ
主の御名によって。アーメン。

 *

父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。

 *

父なる神よ
私はかつて
キリスト者に捧げる歌と題して
詩のようなものを書き
自己の信仰を暴きました
しかしその思考実験も逆説も
理解してくれる人はいなかったのです
読み方が悪いというのは簡単です
しかしその前に書き方が悪いのではと考えてみるべきでしょう
私は背教を犯したのでしょうか
私は罪に罪を重ねたのでしょうか
私は嘘をついたのでしょうか
はじめに言葉ありき、言葉は神なりき
真実の言葉を語りたかったのです
しかし言葉が人に渡ったとき嘘が生まれ
人の中で言葉がもまれればもまれるほど
それは踏みつけられ、互いにむさぼり
言葉は人の中で死んでいくのです
父なる神よ
人の言葉を
我が言葉を
父の言葉のごとく
生かしたまえ
人が言葉を裏切らぬよう
人の言葉が人を裏切らぬよう
人の言葉があなたを裏切らぬよう
見守り
守りたまえ
主の御名によって。アーメン。

 *

父なる神よ
私は曲がりなりにも
十二年間仕事をしてきました
しかし夜は眠れぬこと多く
昼は気力もなく
体はだるく気はふさぎ
記憶力も思考力も集中力もなく
人間関係も考えれば考えるほど
疑心暗鬼か妄想か
試練なのか裁きなのか運命なのかさえわからず
人を疑えば自分を責めるばかりで
信仰を疑えば救いもなくなりそうで
私はただ怠けているだけなのでしょうか
私は病気なのでしょうか
やがて何も感じなくなる病気なのでしょうか
感じているうちにと思い
この祈りを捧げています
これも御心なのでしょうか
この道を照らしたまえ
いつになったら目で見るように御国を見ることができるのでしょう
いつになったら耳で聞くように御心を聞くことができるのでしょう
待つことは許されるのでしょうか
待つことは裁かれるのでしょうか
すべては御心にままになりますように
すべての魂があなたの手のうちにありますように
この罪人をお許しください
主の御名によって。アーメン。



(ただ私は、人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、限りある命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを体験したことを福音として受けとめるほかはなく、永遠の同伴者・永遠の友・主イエスキリストによって表わされた父なる神の愛にこの魂を委ねるほかはないのである。)

私という矛盾があなたの手の中にありますように
私というウソがあなたの手の中にありますように
あなたの真実が私の中に与えられますように
私の病気があなたの手の中にありますように
私の健康があなたの手の中にありますように
私の命があなたの手の中にありますように
私の寿命があなたの手の中にありますように
私の生も死もあなたの手の中にありますように
私におとずれる幸いも災いもすべて
あなたから与えられますように
私の不幸と幸福があなたの手の中にありますように
私の喜びも悲しみもすべてあなたの手の中にありますように
あなたのお叱りと救いが私とともにありますように
私の信仰と希望と愛があなたによって導かれますように
私の受けるべき盃が
たとえ苦くても甘くても
あなたから与えられますように
いつの日かあなたの御手にいだかれて
眠ることができますように
わが魂を御手にゆだねます
主の御名によって、アーメン。

 
 
 
  一つの嘘

お前(私)は祈りの中で嘘をついたな
御心ならばわが命に代えて、などと
お前は確かに嘘をついた
もしお前が健康で有能で仕事がうまくいっていたら
わが命に代えて、などと祈れたか
仕事がうまくいかずに
やけを起こしていたからだろう
命と引き換えに奇跡が起こって
聖人にでもなるつもりだったか
お前のやけに彼女を引き合いに出すなんて
知らないうちに、一週間も前に
もう死んでしまった人を引き合いに出していたなんて

さっきから煙草を吸ったり握ったり
煙草の箱をくるくる回したり
パソコン周りの空き缶や書類やごみ
下の方を見回したり何をやっている

馬鹿野郎

 
 
 
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  あとがき

本書は私が二十歳の頃から現在四十二歳に至るまでに書いた作品をまとめたものである。四十歳一区切りという気持ちもある。そういう意味では個人史でもある。そのときどきの感情表現でもあり遊びでもある。私なりの精一杯の信仰告白でもあるし宗教観・人生観でもある。個人史というには断片的で作品の順序も作成された時期とは前後するものも多い。作品の中には少なからず人に見せることに抵抗を覚えるもの・恥ずかしいもの・くさい作品もあった。いろいろと悩んだが結局「これが自分という人間だった」という思いが否定できず、蓋をすることができなかったのである。

1996年5月原稿完成、8月に非売品・私家版「ウソの国」自費出版。


  「ウソの国」という題名について

 ウソの国とは何だろう、どこだろう。この国つまり日本のことだろうか、人間社会・世間のことだろうか、人間関係・人間そのもの・人生のことだろうか、心・精神世界のことだろうか、宗教・信仰のことだろうか、言葉の世界のことだろうか、病気あるいは私自身だろうか。
 「ウソの国」は高校時代、確か二年生のときに学校の生徒で作る文集に出す作品を書かなければならなかったとき何げなくふと思いついた言葉であった。
 中学時代、ある尊敬すべき先生が生徒が間違った答えを言うとよく「それはうそ!」と言う癖があったのを思い出す。しかし「ウソの国」という題名と直接結びついているとは考え難い。
 高校二年の頃には私はすでに強迫的なほどに自分の進路を決めて思い詰めていた。そのためにはある程度以上の成績を上げなければならない。私は典型的な青白き点取り虫であった。勉強することに迷いはなかったように思う。いつも成績・点数を気にしていた。でもそういう他人の成績を気にしながら勉強に追いまくられている生活をどこか本当ではないという気持ちがあったのかもしれない。
 ちなみに初恋・片思いの経験も高校二年から三年の頃である。キリスト教のプロテスタントの教会に通うようになったのも同じ頃ではなかったかと思う。最初は聖書を無料でくれるところがあるという話を聞いて訪ねたことから始まったと記憶している。やがて学校にはない静けさを求めて通うようになっていった。洗礼を受けたのは高校三年の大学受験を間近に控えた頃である。
 静かな雰囲気を求めて教会に通ううちにだんだん聖書とそこに書かれているキリストとは縁がありそうだ、一生の付き合いになるだろうという気持ちになっていった。キリスト教が御利益宗教でないことはすでに知っていた。洗礼を受け、受験に際して祈ったことは合格することではなく少しでも安らかな落ち着いた気持ちで試験を受けたいという気持ちと落ちてもめげずに努力できるようでありたいという願いであった。
 以来ずっと心に引っかかってきた「ウソの国」という言葉、結局は私が一生引きずっていく言葉・テーマなのではないかと思っている。
 「天国はここにある、そこにあるというものではない。天国はあなたがたのただ中にある」という聖書の言葉がある。必ずしも天国との対比で考えてきたわけではないのだが、今のところ敢えて次のように言っておこう。
 ウソの国はここにある、そこにあるというものではない。しかしわが身・わが心の内と外のいたるところにある。まずは自分の中に潜むウソを見つけることから、ウソの国への果てしない旅が始まる。


  以上