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鯨体利用の欧米と日本のあらまし
(福岡市総合図書館 鳥巣学芸員の考察)

 

益冨組の当主様・鳥巣学芸員

さる、2010年11月10日、西海捕鯨の研究にお詳しい
福岡市博物館(金印の発掘で有名)の
鳥巣学芸員が当店に来店されました。

生月古式捕鯨の総網元、益冨組の現在の当主様と
ご一緒に、東彼杵町の鯨のセリをご覧になられての
帰りにお立寄り下さいました。

福岡市博物館では来年(2011年)秋に
鯨に関する展示が大々的に行なわれるそうで、
私も楽しみにしています。

益冨様(左)・店主(中)と鳥巣学芸員(右)

四方を海に囲まれた日本は、大昔より鯨も他の魚と同様に海の恵みとして利用してきました。

鯨を食料や骨器の材料として利用しだしたのは、縄文時代からでした。当時の漁撈用具や漁船では積極的な捕鯨は無理とみられ、「寄鯨」(死んだり、傷ついて漂着したもの)、「流鯨」(沖に漂流しているのを引揚げたもの)等の利用に限られていました。縄文時代中期に編年される土器群の底に鯨の背椎骨を回転台、あるいは製作台として使用した痕跡があるものが多く確認されています。土器底に鯨の背椎骨の圧痕を有することから、その背椎骨を縄文中期において回転台として使用して土器製作を試みたことが窺えます。

弥生時代には、鯨は食料としてはもちろんであるが、壱岐の原ノ辻遺跡から鯨骨製骨剣(あわびおこし)、鉾先、紡錘車などが出土しており、鯨骨の利用が広まっていたことがわかる。その後、「寄鯨」や「流鯨」などの消極的な捕鯨から、鯨を発見して捕獲しようとする積極的な捕鯨へ変わっていった。

江戸時代になると、銛突捕鯨法、掛網捕鯨法といった方法が考案され、積極的な捕鯨が行なわれるようになり、鯨の捕獲頭数も漸次増大していきました。江戸中期、八代将軍吉宗の時代に、鯨油駆除法(水田の蝗害防除)が発案され稲作の必需品として需要が増大しました。化学薬品がない時代には、鯨油が農薬として重宝されました。さらに、鯨が動物性食品としての需要も急増し、鯨組の経営規模は巨大化していきました。江戸時代の鯨体七十ヶ所の部分の調理方法と食べ方が「鯨肉調味方」(天保三年刊の“勇魚取絵詞”の付録)に書かれています。食べ方としては、鍋焼、あるいは、揚げ物がほとんどでした。鯨肉の保存法としては、塩蔵しかなかったので、このような食べ方が適していたのでしょう。

このように、鯨は捨てるところがないといわれるほど利用の途が多く、鯨肉と軟骨(松浦漬や玄海漬など)は食用、鯨髭・歯は笄(こうがい)・櫛などの細工、髭毛は鋼に、鯨皮は膠(にかわ)や鯨油に、筋は弓弦などの武具に、鯨骨は鯨油や肥料に、血は薬用に、脂肪は鯨油に、糞は香料(竜涎香(りゅうぜんこう)に用いられました。これに対して、欧米では鯨油、鯨髭、鯨歯のみを利用し、鯨肉をはじめとする他の部分はほとんど廃棄していたのです。

江戸時代鯨組経営のピークは、十九世紀前半でした。1826年シーボルトが弟子の高野長英に提出させたレポート『鯨ならびに捕鯨について』には、「この水域(西海)では、年間平均して約三百頭を捕獲し、一頭の大鯨の値は四千両に及ぶ」とのべています。

幕末期にアメリカを中心とする欧米列強の捕鯨船が、ベーリング海峡、アリューシャン、千島沖、日本近海へ進出し活動するようになりました。このため日本近海に回游する鯨の頭数は急速に減少し、いきおい日本の捕鯨業は不振となりました。その後捕獲高が激減し、大半の鯨組が廃業においこまれていきました。

世界の海から鯨がいなくなったのは一体どこの国のせいだろうか。日本というより、欧米列強の鯨の乱獲にありました。そこで欧米の鯨体利用についてみてみましょう。

鯨髭は、傘の骨、鞭、婦人のコルセットやペチコートの細長い骨などの材料でした。鯨髭は、熱して形をかえ、冷やしてその形を整える事ができ、その適用から今日のプラスチックにあたるでしょう。欧米の、とくに女性には髭鯨の髭は大変重宝がられました。例えば、貴婦人がエレガントに持っている傘は、鋼鉄製の骨ができるまでは鯨髭製の骨でした。また、フランスのベルサイユ宮殿に行かれた方はわかりますが、同時代の西洋宮殿にはトイレがなく、パーティに出席した婦人はパニエを着ていました。パニエ(仏語で鳥かご)とは、婦人のスカートをふくらませるために用いられた輪骨入りのペチコートで、形が鳥かごに似ていることからこの名前がつきました。パニエのドレスを身に着けた婦人は、木陰などですまして用を足していました。日本でも鹿鳴館時代に舞踏会、園遊会などで日本女性もそれを着用したと言われています。

次に鯨油については、1859年にアメリカのペンシルベニアで石油が発見されるまでは、鯨油が灯油やローソクの原料となっていました。とくにアメリカは、ニューヨークやワシントンからフロンティアと言う事で西部開拓を行なった時、現在のように電気の灯はないので、鯨油の灯油(ランプ用)が必需品となりました。しかしそうした開拓が内陸に行けばいくほど、馬車輸送に便利なローソクに取って代わられました。このローソクの原料がマッコウ鯨の油でした。そのためアメリカの西部開拓イクオール鯨(特にマッコウ鯨の捕鯨)だったわけでした。極論すれば、鯨を殺してなしえた西部開拓といっても過言ではないでしょう。

<捕鯨規制の経緯>
1937年の国際捕鯨取締協定などが骨子となったこの条約が、現行の国際捕鯨取締条約です。なお、この会議で国際捕鯨委員会(IWC)が設立されました。この委員会は、技術、科学、財政運営の三分科会から構成されています。特に科学分科会は、鯨の資源に関する生物学的情報を集め、科学的に検討して鯨資源の保存に助言することを任務としています。

第二次大戦後、捕鯨に関する規制は強化されていくことになります。1982年の国際捕鯨委員会年次会議で、「沿岸捕鯨は1986年度漁期、南氷洋捕鯨は1985/86年度漁期から、商業捕鯨をゼロにする。ただし、最良の科学的助言を基礎に、遅くとも1990年までに資源の包括的評価を行ない、新たな捕鯨頭数の設定について検討する。」という商業捕鯨モラトリアムを票決により採択しました。

これに対して、日本、ソ連、ノルウェー、ペルーは「異議申し立て」を行ない、IWCの制度として、この決議に拘束されることなく捕鯨が続行し得る立場をとりました。しかし日本は、アメリカと協議を行ない、南氷洋捕鯨が1987年3月、沿岸捕鯨が1988年3月で商業捕鯨を中止しました。

皆様のご感想をお聞かせいただけましたら幸いです


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