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スクリムショーについて
<アメリカ・マサチューセッツ州の鯨の歯の伝統工芸>

皆さんは、スクリームショーについて知っていますか?

ほとんどの方は、知らないと思います。私も、玉川大学の池田 智教授にお会いするまでは、全く知りませんでした。しかし、実際そのスクリームショーを目にして、その美しさ、完成された技術、奥深さに驚き、そして、非常に感動しました。それから、ぜひこれは、多くの人に見てもらいたい、知ってもらいたいと思い、お忙しい中、無理を言って、紹介していただきました。

池田 智教授のプロフィール

池田 智(いけださとる)1944年、東京・大森生まれ。玉川大学大学院文学研究科・州立イリノイ大学アーバナ・シャンペイン校大学院修了。現在玉川大学文学部大学院文学研究科および国際言語文化学科教授。専攻はアメリカ文化研究。
著書に『アメリカ・アーミッシュの人びと』(明石書店)、『早わかりアメリカ』(日本実業出版社)、『英和アメリカ史基本用語辞典』(アルク)など。共著書に『アメリカ文化ガイド』(荒地出版)、『アメリカ文学ガイド』(荒地出版)、『写真で見る英語百科KeeP』(研究社)など。訳書に『アーミッシュに生まれてよかった』(評論社)、『ロシア・ソヴィエトのユダヤ人100年の歴史』(明石書店)、『ユダヤ人の歴史地図』(明石書店)、『ワスプ(WASP)の教育――人種・宗教・女性差別に挑んだ記録』(明石書店)、『私はアメリカのイスラム教徒』(明石書店)、『マーキー――ダウン症の少年とハモンド家のいとこたち』(三省堂出版)など。主要論文に「アーミッシュ・セツルメントの言語」、「民族的・文化的少数派ケイジャン(Cajun)と綿織物」、「多民族国家アメリカの文化多元主義的側面」など。

 

スクリムショー(Scrimshaw)について

※各画像の上をクリックすると、大きい画像を見ることができます。

左から@・A・B・C・D
@捕鯨風景(本物)・Aその裏側・Bマッコウクジラの歯に線彫りした作品(但し、模造品)・Cその裏側・Dマッコウクジラの歯に線彫りした作品(本物)


マッコウクジラの歯に捕鯨風景を線彫りしたもの


マッコウクジラの歯に戦艦を線彫りしたもの。
値段は30万円くらい


マッコウクジラの歯に鯨解体の風景を線彫りしたもの


鯨の歯の模造品に帆船を線彫りしたもの。
アメリカではfake(模造品)として扱われているが資料としては利用できる


本物を模して作られたスクリムショー。
マサチューセッツの博物館などでお土産品として売られている


ナンタケッタ島のスクリムショー専門店に陳列されていた
スクリムショー


マッコウクジラの歯に波止場の風景を線彫りしたもの


1. スクリムショー(scrimshaw)とは何か?

 scrimshawの語源は未詳だが、アメリカ東部マサチューセッツ州ナンタケット島にあるヒストリカル・アソーシエイションのスクリムショー展示室に展示されている捕鯨船ポカホンタスの乗組員ウィリアム・H・ウォルターが1836年に書いた日誌に次のような一節が見られる。
 「船長Bが乗組員にまじって骨や歯を分け合った…… みんながスクリムシャンディングをやっていた。スクリムシャンディングとは、先住民のことばで骨を加工して小さな装飾品などを作ることだ……」
 この日誌から判断すると、アメリカ先住民族のことばに由来しているようだ。しかもその意味は「骨を利用して装飾品を作る」といった意味である。
 しかし、スクリムショーの研究家ノーマン・フレイダーマンによると、本質的にヤンキーのことばである scrimp という語と saw/sand という語の合成語ではないかという。つまり、scrimp には「切りつめる、節約する」といった意味があり、ヤンキーの生き方の一面を表しているというのである。saw あるいは sand はそれぞれ「鋸で引く」とか「磨く」という意味があり、scrimpsaw あるいは scrimpsand が訛って scrimshaw といつしか表現されるようになったとすれば、後に述べることになるがスクリムショーがニューイングランド人によって始められたアメリカ独自の文化遺産という考え方の一つの裏付けになる。
 マサチューセッツ州ロチェスターのオライオンという 99トンの捕鯨船の船長オベッド・ルースの航海日誌に、1821年3月14日の日付で、次のように記されているところがある。
 「この24時間、最初のうちも途中も波穏やかなり。後半にかけてそよ風立つも天気晴朗なり。乗組員全員スクリムションティングに夢中のまま一日が終わる。鯨、姿を現さず、耐え難い一日」
 この日誌に使われた scrimpshonting という語は、基本的に「装飾を施す」という意味をもつオランダ語の scrimpshoning の誤記と考えられている。
 この時代の船乗りの多くは教育がない上、多様な民族的出自のため、発音上の違いなどからさまざまな綴りがされたようで、schrimson, schrimpshong, scrimsharn, scrimshorn, scrimpschoning, scrinshorn, scromschonting, skrimshontering, skrimshonting, skrumpshunk, squimshon などが見られる。
 また、海軍用語に「仕事をさぼる」という意味の scrimshank がある。スクリムショーをつくり上げるのにずいぶん多くの時間が要したことを考えると、たしかにこの語を面白半分に当てた鯨捕りがいたとしても、それはそれで鯨捕りらしいことばの遊びであったと考えられる。
 いずれの説にもうなづけるところがある。scrimp + saw/sand という説はヤンキーの特質のなかでも質素・勤勉の二面を把握した上で出された語源説で、「ヤンキーはものを無駄にしない」といったヤンキー気質を評価していると同時に、「スクリムショーはアメリカ独自の文化遺産だ」という感情が込められているように思える。
 しかし、先住民族と移民との接触という歴史的観点から見た場合、先住民の表現にその語源を求めるというウォルターの日誌に見られる考え方も捨てがたい。なぜなら、アメリカ先住民の道具や衣装には、確かに動物の骨がよく利用されているからである。また海洋に食料を求めるイヌイットやエスキモー(最近「エスキモー」を差別語だと断定する向きがあるが、アラスカでも西の方の先住民は自らをエスキモーと称していることが明らかにされている)は、流木以外に利用できる材木を手に入れることができなかったため、さまざまな道具や装飾品などを鯨の骨や歯あるいはセイウチの牙などで作ってきているからだ。


赤い部分がニューイングランド

 結局、鯨の歯や骨、あるいは鬢を主たる材料にする以外にセイウチ、オッセイなどの歯や骨などを利用して作った装飾品や日常生活用品などをスクリムショーと呼ぶことができよう。だが、スクリムショー愛好家のなかにはセイウチやオットセイの歯、あるいは骨を利用したものはアメリカ人が作ったものではないとして、スクリムショーの対象にすることを避けている人たちもいるようだし、その定義をするにあたって、ウィリアム・ギルカースンは『スクリムシャンダー』において、スクリムショーにたいする非常に狭隘な考え方をするウェイリング・ミュージアムの館長が多いことを次のインタビューによって紹介している。
 「スクリムショーってなんですか?」
 「スクリムショーというのは19世紀、もしくはそれ以前に鯨捕りがその航海中に、さまざまな材料、その多くは鯨ですが、捕鯨船上で作ったものを言います。現代ではスクリムショーは存在しません。捕鯨が禁止されていますからね」
 「鯨捕り以外の船員、たとえば水兵とか商船の船員が作ったものはどうですか?」
 「鯨捕りが作ったものでなければスクリムショーではありません」
 「それでは今世紀にはいってから捕鯨船上でつくられた比較的新しいものはどうでしょうか?」
 「捕鯨船で作られたものでしたら定義の範囲内にはいると思いますね」
「引退した鯨捕りが陸にあがって作ったものはどうでしょうか?」
 「そういう状況でも19世紀に作られたものであればスクリムショーと言えるしょうね」 「それでは引退した鯨捕りが今世紀にはいってから陸で作ったものはどうでしょう?」
 「それはスクリムショーとは言えません。スクリムショーというものは19世紀末までで、しかも海で作られたものなんです」
 「つまり、1900年前のものじゃなければならないんですね?」
 「その通りです。こうしたものにはきちんと一線を引いておかなければならないんですよ。私の言い分が多少狭量に聞こえるかもしれませんがねぇ……」
 ギルカースンはこのインタビューを引用したあと、一般に受け入れられる定義を、スクリムショーを研究する者にとっては必読の書と考えられているフレイダーマンの『スクリムショーとスクリムシャンダー ― クジラとクジラ捕り』から、引いている。
 「スクリムショーとは、鯨捕り、水夫、あるいは海にかかわる職業の人が、利用価値があるか装飾になるものを彫ったり、作ったりする技術である。使用する材料は、基本的には鯨から採れるものであるが、その他に海洋生物、貝殻、あるいは船舶が立ち寄る地域で入手できる木片、金属など通常船上に持ち込み、利用されるものも材料として考えられる。できあがった作品は以下の一つあるいはそれ以上の要素の点で航海を連想させるものでなければならない。その要素とは、作った人、モティーフ、作製方法、あるいは材料である」
 フレイダーマンの定義では、木片あるいは金属までスクリムショーとして捉えているが、これはスクリムショーと考えられる作品のなかにステッキや箱などが存在し、その一部に鯨の歯や骨が装飾的に添えられているものがあるからだろう。


ザトウクジラの骨に鯨取りの風景を
線彫りしたもの。値段はおよそ150万円



ザトウクジラの骨に
線彫りした作品


セイウチに線彫りした
エスキモーの作品



ヘラジカの角を細工して
作ったスプレッド・イーグル



2. スクリムショーの種類

 スクリムショーは大きく二つの範疇に分類されると言ってよい。その二つとは、フレイダーマンの定義にあるように、一つはもっぱら装飾品として用いられるものであり、もう一つは実用品として用いられるものである。
 前者に属するものは、その多くがもっぱらマッコウクジラの歯から作られたものであり、後者はセミクジラなどの鬚や骨を利用したものである。
 マサチューセッツ州セーラムのピーボディ・エセックス・ミュージアム、ナンタケット・ヒストリカル・アソーシエイション、ケンドール・ウェイリング・ミュージアム、コネティカット州ミスティック・ウェイリング・ミュージアムの展示品、あるいはニューイングランド諸州のアンティークショップで見かける品々、それにクリフォード・アッシュリーがその著書 『ヤンキーの鯨取り』 であげているさまざまな品を以下にあげてみよう。
 鳥かご、バスケット、道具箱、チェッカー盤、ドミノ牌、チェスの駒、ジャックストロー(積み上げた棒状のものを他のものを動かさずに取り去る遊びの道具)、梳毛機のシリンダー(かせ枠車)、パーレル(マストの上部の軽帆桁をマストに寄せつけている索)、バスク(コルセットの胸部の張り枠)、ステイ(コルセットの芯)、編み針、千枚通しなどの把っ手、麺棒、洗濯バサミ、指輪、腕輪、塩振り容器、ナプキン・ホルダー、ステッキ、ジグ・ブロック(工作用の固定具)、ビレーピン(索具を巻きつける棒)、洋服掛け刺繍フレーム、写字台、クリベッジ盤(2〜4人でするトランプの得点を記入する板)、額、ペン立て、ペイパーナイフ、バターナイフ、カフスボタン、糸巻き立て、スカーフ留め、くさび、罫書き針、針箱、名刺受け、橇、
乳母車、(玄関先に置く)泥落とし、ドアストップ、ドアノブ、蝶番など。


鯨の骨で作った箱(模造品)


鯨の骨で作った箱(模造品)。


鯨の骨で作ったコースター
(模造品)


左より
鯨の骨で作った、ルーレット。
こうした日常品もよく作られていた
鯨の骨で作った、糸巻き機
(かせ繰り機)



 こうした様々な実用品があげられるが、そのほとんどが鯨の骨と鬚から作られている。骨や鬚を利用する文化は英国およびヨーロッパにもあったが、マッコウクジラの歯を利用した装飾品はマッコウクジラの捕獲に熱心だったアメリカ特有のものと言って差し支えないようだ。

3. スクリムショーはアメリカ本来の文化遺産

 クジラの歯や骨あるいは鬢を利用した工芸品はアメリカに限らず捕鯨産業が盛んに行われた国によく見られるものである。日本でも和歌山県太地や宮城県気仙沼などにおいてマッコウクジラの歯を利用した工芸品が作られている。しかし、捕鯨船の長い航海中に作り出されたという意味でのスクリムショーは、ギルカースンが引いているインタビューにあるように、アメリカにおける捕鯨産業の副産物と見なすのがスクリムショー研究家の一般的な見方のようである。その意味でスクリムショーはアメリカ独自の文化遺産と言ってよいだろう。
 アメリカにおける初期の捕鯨は、日本のそれと同じように沿岸に近寄ってくる鯨だけを捕獲するものであった。それが17世紀中葉あたりから沖合に船を出してホッキョククジラやセミクジラを捕獲するようになったが、もっぱら鯨油採取が目的の捕鯨であった。18世紀初頭に沖合遥かかなたでマッコウクジラを捕獲できることがわかると、遠洋捕鯨の技術開発が盛んになった。これはマッコウクジラの油が質のよいものであることが発見されたからである。
 18世紀も後半にいたってアメリカが独立を遂げると、捕鯨にたずさわっていた人びとはそれまで以上の大型の船に乗り込み太平洋やインド洋にまでマッコウクジラを追って航海するようになった。
 1812年に米英戦争が勃発するとともに、アメリカの捕鯨は本格的な時代を迎えるにいたった。鯨がいるところであればどこへでも船を向かわせたのである。リチャード・C・マリーによれば、1850年代後半には捕鯨船の数は700隻を数えるほどになっていた。1857年にはマサチューセッツ州ベドフォードだけで329隻を数えたという。また、1825年から南北戦争が終わる1865年までの40年間に捕鯨にかかわった人の数は2万人に及んだ。またウォルター・K・アールは、「捕鯨の黄金時代」には15万人以上の男が捕鯨にたずさわったと、『スクリムショー ― 鯨捕りの芸術』のなかで推定している。
 しかし、乱獲による鯨の棲息数が激減したこと、南北戦争(1861-65)の間に多くの捕鯨船が破壊されたこと、鯨油に代わる燃料、たとえば石炭ガスや石油が登場することなどによって捕鯨産業は急速にすたれてしまった。
 それでもファッショッン界においては、コルセットやカラーに鯨鬚を利用しようとする傾向があったが、捕鯨産業が復活することはなかった。

4. スクリムショーが捕鯨船で作り出されたのはなぜか?

アメリカ捕鯨産業の拠点はニューイングランドでもマサチューセッツ州とコネティカット州に置かれていた。多くの捕鯨船はマサチューセッツ州のセイラム、ニューベドフォード、ナンタケットの港やコネティカット州のミスティックやニューロンドンの港から出航し、鯨を追った。
 この時代の捕鯨船は、現代とは違って、いったん港を出ると2年から4年という長い歳月を経なければ母港へ戻ることはなかった。その理由は単純であった。船倉一杯に鯨油が貯まらなければ帰港しなかったのである。捕らえた獲物が高価な鯨蝋や高級な鯨油が採れるマッコウクジラであっても、価値の低い鯨油しか採れないホッキョククジラやセミクジラであっても同じことであった。一頭のクジラを捕らえたあと次のクジラを捕らえるまでに数ヶ月が過ぎることもままあったようだ。
 ハーマン・メルヴィルは『モビー・ディック』のなかで、こう書いている。
 「大部分のアメリカ捕鯨船は、港を出るとほとんど同時に、―― まだ目的の漁場にゆくまでには1万5千カイリも、もっと走らなければならぬという時から檣頭に見張りを上げる。また、その3、4、あるいは5年の航海の後、故国に近づいてもまだ少しでも空の容器があったならば、―― たとえそれが空瓶1個であっても、その檣頭には最期まで見張りを上げ、……」(第35章)
 ちなみにもっとも長期間母港に帰らなかった捕鯨船は、ギルカースンによれば、コネティカット州ニューロンドンのナイルという船で、南北戦争前の1858年に出航し、母港へ帰ったのが南北戦争が終わって4年後の1869年であったという。すなわ11年間もの間、母港へ戻らなかったのである。
 その間、あちこちの港に薪炭や水、あるいは食料の補給のために寄港することがあったにせよ、来る日も来る日も同じような仕事が続いたのではたまったものではなかったろう。
 確かに、南米南端のティエラ・デル・フエーゴやハワイ諸島、インド洋、あるいはアラスカなどを季節の変化にしたがって航海していたから、ときには北極に近く、またときには南極に近いところに身を置き、またときにはトロピカルの気候に身を置くことになったので乗組員にとっては気分転換になることもあっただろうが、捕鯨船内での生活や仕事は想像を絶するほど単調で、辛いものであったことは想像に難くない。
 また多くの捕鯨船はこぶりにもかかわらず、いったん鯨が捕獲できれば人手の必要な作業が多いだけに常に定員以上の人間を乗せていた。99トンほどの捕鯨船でも、少なくとも55人の男が乗り組んでいた。したがってプライバシーなどあったとは考えられない。また食事は冷蔵庫などない時代だったため、ほとんど三食とも塩漬けの肉を中心にしたものと、いわゆる乾パンであった。波に揺られ、何日も何日も広い海原に鯨を求めてさまよう男だけの生活では、ちょっとしたことがきっかけで命を落とすことになりかねない雰囲気が捕鯨船のなかに漂うことがあった。そのため船長の多くは腕力が強いだけではなく、海上生活のあらゆる点で優れた脳力をもち、常に船員の尊敬を得る度量と同時に独裁的な面を備えていなければならなかった。
 『モビー・ディック』に次のような場面がある。
 「鯨捕りが知りたい? お主はエイハブ船長を拝んだこたあないか」
 「エイハブ船長さんとは?」
 「ふんふん、そんなことと思ったわい。エイハブさんとはこの船の長じゃ」
 「失礼しました。ぼくは船長さんと話してるのかと思った」
 「お主はピーレグ船長と話しとるのじゃ ― それがお主の相手じゃ、わかったか。ピークォドの航海準備はできたか船乗りどもは集まったか、ちゅうことをビルダド船長と二人で世話しとるんじゃ。仲間うちで船を持ち合って代表しとるんじゃ。が、元に戻せばじゃ、お主はさっき鯨捕りの味が知りたいとこういうたが、仲間に入ってもう引っ込みがつかんようになる前に、どんなもんじゃか見せてやるわ。若いの、エイハブさんを拝んでみな。一本脚なのじゃわい」(第16章))
 こう評されるピークォッド号の船長エイハブのような人物でなければならなかった。逆に言えば、船員は、全員が船長にたいして絶対服従の姿勢をとることが暗黙のうちに要求され、よほどのことがなければ船長と乗組員とが相談をしながら捕鯨のための航海を進めるといったことはまず考えられなかった。
 そのため、鯨捕りは鯨が海上に姿を現し、短艇を出して鯨との格闘が始まるまでは気晴らしの方法を見つけなければならなかった。
 1843年に日本近海を航行していた捕鯨船の船員が次のように日記に書き記している。
  「早くマッコウクジラが見つかればいい。見つからなければ、よくわからんが自制心を失いそうだ」
たった一人の日記だけで判断するわけにはいかないが、この時代、狭い船内にいかなる楽しみがあっただろうか? 鯨が見つかれば血潮が沸き立ったであろうが、内心では常に死と直面していたに違いない。捕鯨は本船そのものからすることは少なかった。多くのスクリムショーに彫られた図から判断すると、鯨の影を見つけると、本船から小型の木造舟に乗り換え、水中に潜ったり海上へ現れたりする鯨を追いかけ、最後には銛を打ち込んで直接格闘するという危険きわまりないものであった。
 メルヴィルの表現を借りるなら、
「それからどうする?」
 「短艇を降ろして追うんだ!」
 「どんな調子で漕ぎ出すか?」
 「鯨を殺すか短艇に穴があくかだ!」(第36章)
「短艇に穴があく」ということは「不滅の霊にまで昇進するってわけだ。この捕鯨って仕事は、命取りのものだろうさ -- 有無をいわせず人間を束にして、またたくひまに小突きまわして永劫の世界にぶちこんでしまう」(第7章)ことなのである。
 その上、鯨を捕獲すればするで、捕獲した鯨を解体し、油を取る仕事をしなければならない。クジラのその大きさから言っても牛や豚を屠殺し、解体するようなわけにはいかなかっただろう。自分の体はもとより船のなかまで鯨肉、鯨油の臭いが充満し、慣れるまでは吐き気に襲われる毎日であっただろう。
 こうした環境のなかではどんなことでもいいから気晴らしになるものが必要であったはずだ。
 捕鯨船内で簡単に見つかる気晴らしの方法と言えば、食料が入っていた木箱や樽を壊して得た木片を利用して何かを作るとか、船には必ず積んであるロープをいかに装飾的に利用するかを考えたりもしたであろう。ロープの装飾的な結び方がその実用面とともに現代にまで伝えられてきていることは周知の事実である。

5. 廃棄物の利用

 しかし、食料の木箱や樽にしても、ロープにしてもその量にはおのずと限度がある。数ヶ月の航海ならいざ知らず、何年にも及ぶ航海でそれだけでは気晴らしとしてすぐに底をついてしまうことは誰にでも想像がつく。
 1844年、チャールズ・フェルプスという捕鯨船の船員だったガードゥン・ホールは、日誌に「船長をはじめ乗組員が鯨の骨を鋸で小さく切ってはステッキなどを作っていた」と記している。
 こうした自分でイメージした形を切り取り、最終的な作品を作り上げる作業は膨大な時間がかかるため、もてあます時間、体力を消費し、鬱積するストレスを解消するにはうってつけの仕事になったのである。
 スクリムショーはそうした効用性に加えて、自分の手元に作品として残ることになった。多くの作品は、自分が携わっている危険きわまりない職業がいかなるものであるか、乗っている船がどのような船か、寄稿した港がどのような港かを物語っている。あるいはまた故郷にいる恋人や妻、あるいは子どもを思う気持ちが彫りつけられているものもある。
 また船内で利用する道具、たとえば滑車や網を編む道具なども鯨の骨から作り出すようになっていた。そうした道具作りがきっかけで、故郷への土産としていわば調理道具や食器、あるいはコルセットの一部となるバスク(胸部の張り枠)なども作るようになった。そうしたものの多くにも丹念に幾何学模様や船、あるいは風景が彫りつけられていることが多い。
 人物や船、あるいは模様が彫られているばかりでなく、時には思いを寄せる女性に次のような詩が彫りつけられていることがクリフォード・アッシュリーをはじめ多くのスクリムショー研究家によって報告されている。
 「ねぇ、受け取っておくれよこのバスク
 僕の卑しき手で彫ったのさ。
 マッコウクジラの顎からね
 陸から一千マイルも離れた海原で」


鯨の骨で作ったバスク
(コルセットの胸部の張り枠)

鯨の骨で作ったバスク。
詩が興味深い。

出典:McManus,Michael.
1997.A Treasury of
American Scrimshaw:A
Collection of the
Usefull And Decorative.
New York:PENGUIN Books
USA Inc.


鯨の歯と骨で作った
さまざまな品



 「この骨はマッコウクジラのなかにあった
 今では女性の胸への贈り物。
 愛するひとよ、ぜひあなたの身につけて欲しい。他人には貸して欲しくない」

 この時代の捕鯨船がもっとも好んで捕獲した鯨はマッコウクジラとセミクジラであった。その理由はこの二種類の鯨は殺したあとも海上に長い間浮いている性質を備えていたため回収が比較的楽だったからである。
メルヴィルはさまざまな鯨についての蘊蓄を『モビー・ディック』の第32章「鯨学('Cetology')」で傾けている。そのなかからスクリムショーに重要なマッコウクジラとセミクジラについて重要なところをここに引いてみよう。
 「抹香鯨はまぎれもなく地球上最大の住民であり、鯨のうちもっとも恐ろしきものであり、またもっとも壮麗な外観を呈し、最後に、商品として群を抜いて有益であるということは、この鯨からしてのみ、あの尊い鯨脳油が採れる」
 「背美鯨は人間に絶えず追い求められた最初のものだったところこの鯨は、ある意味においてもっとも由緒ある鯨といわねばならぬ。これは世に鯨鬚といわれる物を産み、またとくに「鯨油」といわれる下級油を産む」
 質の善し悪しにかかわらず油が採れるという点と、殺したあとも海上に浮いているという点、でこれら二種類の鯨が捕鯨船に追われる運命にあったことは鯨にとっては不運だったと言わなければならない。
 しかし、「虎は死して皮を残す」の譬えではないが、この二種類の鯨も油を採られ、捕鯨船上で肉の一部が船員の腹を充たした後、現在にいたるまでその一部が残っていることは、捕獲された鯨にとって、ある意味では救いかもしれない。
 その一部とはスクリムショーそのものである。
 マッコウクジラは歯を備えており、またセミクジラはバリーンと呼ばれる鬚、つまり餌を海水とともに吸い込んだあと餌だけを口内に残し、海水を外へ放出するときにフルイのように機能する歯の代わりになるものである。この二つのものと骨とが捕鯨船員の海上でのてなぐさみ、すなわちスクリムショーの材料になったのである。
 メルヴィルは『モビー・ディック』の第57章でスクリムショーについて次のように述べている。
 「太平洋の各地、またはナンタケットやニュー・ベドフォードやサグ港のあたりでは、人は、鯨捕り自身が抹香の鯨牙に彫ったところの鯨と捕鯨との図を見たり、背美鯨の骨から造った婦人胸当てその他の、鯨捕りらの呼ぶところの鯨骨細工品(スクリムシャンダ)、つまりは彼らが洋上の暇つぶしとして、粗雑な材料から念入りに刻み上げたところの無数の工芸細工品を見たりするだろう。そのあるものは、歯医者用品めかしい小箱だったりするが、それはただそういう鯨骨細工がつくりたかったからつくったというものだ。何にしても、多くのものは、あの水夫にとっての万能器具のジャック・ナイフ一つで労作したものであり、船乗りの創造力のゆるすかぎりでは、およそありとあらゆるものがそこから生まれるのである。
 キリスト教と文明から、ながくへだてられて生きるものは、神の御手によっておかれたままの、あの状態、すなわち野蛮と称せられる状態にもどるようになる。本物の鯨捕りどもは、イロコイ・インディアン同様の蛮人となる。私自身だって蛮人であって、食人種王以外の何ものにも奉仕せず、同時にいつでも彼に反逆するのだ。
 さて野蛮人が家にこもった時の一大特性は、そのおどろくべく辛抱強い仕事振りにある。古いハワイの戦棒槍櫂は、その複雑入念きわりまる彫刻において、人間の勤勉力の勝利を示すことラテン語字典と匹敵すべきものがある。つまり、貝の破片とか鮫の牙の一片とかだけをもって、あの奇蹟のごとく複雑精妙な木彫細工の網目がつくり成されるのであり、それには、うまざる勤労のながい歳月が費やされているのだ。
 白人水夫蛮族も、このハワイ蛮族と同じことだ。同じ奇蹟的忍耐と、同じ鮫牙の一片というべきジャック・ナイフ一つとをもって、彼が製作する骨彫刻は、技芸の妙には欠くるところがあるとしても、その錯綜せる模様の細密さにおいては、あのギリシャ蛮人アキレスの楯に似その蛮夷精神の奔騰においては、あの古オランダの蛮人アルベルト・デューラーに似る」
 デューラーのエッチングの素晴らしさは言うまでもないが、たしかにメルヴィルが賞賛するに値するスクリムショーがあることは間違いない。スクリムショーを作る人をスクリムシャンダー(scrimshander)と言うが、スクリムシャンダーが作り出したものの中でもっとも芸術品に近い、いや芸術品と称してよいものがマッコウクジラの歯の彫刻であろう。 彫刻といっても象牙を加工するように鯨牙の本来の姿を変えてしまうような彫刻ではない。一般的にはつるつるに磨いたマッコウクジラの歯の表面にさまざまな模様を刻んだものである。メルヴィルは「ジャックナイフ一つをもって」と書いているが、実際にはジャックナイフのほかに先端を鋭く磨いた釘や風でいたむ帆を繕う針を使っていた。彫られた模様や絵はまさしくエッチングを目の前にしている印象を与えるものが多い。模様や絵は具象的なものが多い。自分が乗っている捕鯨船であったり、鯨と格闘する短艇であったり、寄港先の灯台であったり、故郷に残してきた女性の姿であったり、格闘した鯨そのものであったりする。
 彩色を施されたものもあるが、鯨牙の本来の色を利用して黒だけを刻んだ溝に入れて絵や模様を浮き出させたものが多い。黒い色は船内で使っていたランプやロウソクの油煙、イカのすみあるいはいわゆる墨汁を使ってつけたようだ。イカのすみを使った場合は黒というよりもむしろセピア色が後に残ることが多い。
 細い線が多いため、多くの場合は表面全面に色をつけ、乾かない内にぬぐい取ると刻まれている部分だけに色が残る方法をとっていた。この方法は現在でも利用されている。
 初期のものはずいぶん粗雑なものも多いが、時がたつにつれてルーペを利用し、刻む道具や彩色を工夫してまるで写真が焼き付けられているのではないかと思えるほどの作品が生み出されるようになった。
 いくつもの作品を眺めていると、鯨捕りが自らの勇気、冒険心、乗っていた船への愛着心、故郷を思う気持ちなどが伝わってくる。
 おそらくスクリムシャンダーたちは長い航海を終えた後、故郷に待つ妻や子供あるいは恋人へのお土産にするつもりで鯨牙や骨や鬚を暇にまかせて刻んでいたのであろう。

6. アメリカ民芸の原点としてのスクリムショー

 スクリムショーは、現在、その多くが博物館に所蔵されている。ただアメリカの場合、多くの博物館がそうであるようにコレクターが私財を投じて博物館化していることが多いため、実に興味深いことに気づくことがある。シカゴにあるフィールド・ミュージアムのような巨大な博物館にはイヌイットや先住民、あるいは太平洋諸島の先住民の手によるものがいくつか展示されているだけで、ヤンキーが作ったスクリムショーは一つも展示されていない。ところが、ケンドール・ウェイリング博物館にはすべての類のスクリムショーが展示されていた。しかも、館長のスチュアート・M・フランク博士によれば、展示しているものは所蔵物の10パーセントにしか過ぎないという。とすれば、スクリムショーは好事家の対象にしかならないものなのだろうか?
 確かに、歴史的には、マサチューセッツ州やコネチカット州に捕鯨産業が始まり、その副産物としてスクリムショーが生まれた。したがって、この両州に鯨にかかわる博物館が集中しているし、他の州のアンティーク・ショップではまず見られないスクリムショーがマサチューセッツ州やコネチカット州のアンティーク・ショップでよく見かけられるのだろう。ナンタケット島のシルヴィアというアンティーク・ショップは、あたかも博物館になるのではないかと思えるほどスクリムショーを陳列していた。値段は目が飛び出るほどだが、一般の博物館に展示されるほどの価値はないのだろうか?
 どう見てもスクリムショーには民芸的価値が潜んでいる。なぜなら古いものになればなるほど作者不詳だからである。スクリムシャンダーの名前が刻まれていないのである。スクリムショーはまったく自らのために作ったものであって、いわゆる芸術家としての意識をどこかに感じながら作っていたわけではない。
青森県の一部に見られる「こぎん刺し」などもかつては野良着をより強力なものにするために名もなければ、それほど高い教育があるわけでもない農家の女性たちが夜なべをして刺していたものだという。しかし、時代を経てみるとそこには言いしれぬ美が潜んでいて、あらためて芸術的な価値が見いだされることになる。
 スクリムショーについてはクリフォード・W・アシュリーが、その著『ヤンキーの鯨取り』において、スクリムショーは「先住民のものを考慮に入れなければ、アメリカが生み出した唯一重要な固有の民芸である」と言っている。アシュリーがここまで言い切っているのは他の民芸と呼べるもの、たとへばアパラチアの地域によく見られる木工品、あるいはダルシマーなど楽器にしても、その多くはもともとヨーロッパ起源をたどれるものが一般的だからである。しかも、スクリムショーを「民芸」と称したのは、それが捕鯨という、人間の生活と労働の場から芸術を志向することなく副次的に作り出されてきたものだからである。
 確かに当時でも、スクリムシャンダーたちは、寄港した先で自分たちが作ったスクリムショーが現金になることは知っていたらしいが、アメリカン・パッチワーク・キルトと同じで換金できるとしても一つのスクリムショーあるいは一枚のパッチワーク・キルトを仕上げるのにかかる時間と労力を考えると、決して収入を目的として作ってはいないことは容易に理解できることである。
 またこのこともスクリムショーとパッチワーク・キルトに共通することであるが、いずれも自分自身のためか、親しい人あるいは家族を対象として元来作られていることである。したがって例外がないわけではないが、既に述べたようにスクリムシャンダーやキルターの名前が彫られたり、縫い取られたりすることは基本的になかったのである。
 日本の「こぎん刺し」や「刺し子」にしても、英国のフェアアイル島の編み物にしても民芸と呼ばれるものは、一般に特別な教育を受けた人たちがたずさわっていたわけではない。名もない人たちが自らの家庭で利用するものとしてさまざまなものを作っていたのである。そうした点ではスクリムショーについても同じことが言えよう。しかも、そうした人びとの手によって生み出された作品には、いわゆる芸術家と呼ばれる人びとが作り出すものには見られない稚拙さと、素朴さとが絶妙な美を構成している面が見られるのである。 リチャード・C・マリーはスクリムショーを民芸と呼ぶに値する理由を次のようにあげている。
 @スクリムショーを作る道具自体がスクリムシャンダーによって作られている。たとえば模様を彫りつける針や帆を修復するための針にしても、扱いやすいように木片や鯨の骨を加工して取っ手として取り付けている。
 Aスクリムショーを作る動機が創造心よりも、むしろ長い航海の気晴らしにある。このことは大海原で大揺れに揺れる船のなかで繊細な模様を彫りつけるという状況を想像すれば容易に理解できることである。
 どこの国においても同じことが言えると思うが、民芸は文明が進むにしたがって衰退し、その姿を日常レベルで見る機会が失われていくが、民芸にこそその作品を生み出してきた人びとの心意気と彼らが寄って立つ土属性とをかいま見ることができるものである。

7. 作り方と染料

 私の手元にマッコウクジラの歯が一個ころがっている。和歌山県太地のみやげ物屋の片隅にあったのを購入したものである。何年くらいたったものなのかわからないが、実に硬い。こんなに硬いものを18世紀、19世紀にどのようにして芸術品ともおぼしきものに仕上げたのかという疑問をずっとかかえていた。
 ナンタケット島のサウス・ウォーフにある「スクリムシャンダー・ギャラリー」でスクリムショーの文化を維持しようと努力している人に会った。彼は、歯医者が使うような電動の彫刻刃と切り紙細工に使う小刀を使っていた。かつて作られたスクリムショーのレプリカを作るにしてもその方がいいものが作れるという話だった。ところが、これではできあがった作品に民芸独特の稚拙さが、手の跡が見られないのだ。古い民家の柱には手鉈の跡がくっきり残っている。手鉈の刃が削りとった不揃いの刃跡には大工の手の跡が、体温が、大工の一振り一振りに込める細心の心意気が感じられる。18世紀あるいは19世紀に捕鯨船上で作られたスクリムショーにもそうしたものが感じられる。
 それでは当時どのようにしてスクリムショーを作っていたのだろうか。
 ギルカースンの『スクリムシャンダー』に、岸壁に座ってスクリムショーに夢中になっている少年の写真が載っている。鯨の歯があたりに散らばり、歯がまだついた状態の鯨の顎がころがっている。この写真を見るだけでもわかることだが、捕鯨船上では、いわば採れたての鯨の歯がごろごろしていたはずである。彼らは乾燥しきっていない歯を加工したのである。
 ギャラリーの主人の話では、当時は捕獲した鯨の歯はできるだけ空気にさらされないように塩水に漬けておいたらしいとのことであった。
 マリーによれば、歯を塩水に漬ける方法は実際に当時採られた方法で、鯨を捕獲した後、早ければ早いほど、鯨の歯が硬化するのを防ぐうえで効果的であったという。そのため時代を経ても、スクリムシャンダーは経験があるなしにかかわらず、この方法を採用していた。したがって、歯が比較的柔らかい状態のうちにジャックナイフやヤスリで表面を削ったあと、さらに軽石や鮫皮をつかって彫刻しやすい滑らかさを出すのが常であった。
 表面の滑らかさが彫刻を施しやすい状態になると、何を彫刻するかを考え、そのイメージを鉛筆などで書き付け堀り始めることになる。この方法は絵心のある鯨捕りにとっては別に問題はなかっただろうが、絵心のない者は「ピン・プリック」(pin-prick)と言って、雑誌や新聞、あるいはポスターなどを歯に直接はりつけて彫る方法も取られていた。
 道具はジャックナイフ、突きぎり、帆布針が一般的であったらしい。また釘を研いで先端を細くしたものも使った様子は博物館に陳列されていた。
スクリムショーの多くは彫りつけた部分が黒いものが多いが、これは鯨油精製の時にでる油煙、ランプのスス、中国から入ってきていた墨などを使ったものである。
 その他の色をつけるにもさまざまな工夫をしている。青は大方インディゴ(藍)を使っていたようだが、茶色は鉄の錆、煙草のニコチン、イカの墨、緑は真鍮などにつく緑錆などを使ったことがわかっている。そのほか、寄港先で入手できる染料も使われていた。

8. スクリムショー文化の衰退と維持

南北戦争が終わった1860年代後半になると捕鯨業は衰退の兆しを見せ始めた。その理由は、多くの捕鯨船がこの戦争の間に破壊されたこともあったが、石炭ガスや石油に目が向くようになったからである。しかし、それでも鯨の鬚の柔軟な性質が傘の骨や女性のコルセット留めなどに適していたためにしばらくは捕鯨が続いたが、20世紀に入ると急激に衰退してしまった。
 しかし、スクリムショーの文化を維持するための努力は続いている。現在でもナンタケット島の南桟橋、そのほかの場所にスクリムシャンダーが店を構えている。捕鯨は既に禁止されているため、新しい鯨牙やバリーン、あるいは骨を入手することはできないが、禁止前に捕獲された鯨の歯、バリーンなどを利用している。また実に興味深いことは、マンモスの化石を利用したりトナカイや鹿の角を利用してスクリムショーの文化を維持しようとしていることだ。しかし、かつてのようにナイフ一丁や釘、あるいは針というわけにもいかず、紙切り細工に使うような切っ先の鋭い工作用ナイフや歯医者が使うような電動グラインダーを利用しているのが実状である。 

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