【勿誤薬室方函口訣について】
ふつごやくしつほうかんくけつ
漢方の学習のため様々な本を読み話を聞くうちに、先哲医家の話が登場する。そのうちの印象に残る話が「勿誤薬室方函口訣」の著者・浅田宗伯である。 明治十二年宗伯六十五歳の時、明宮(のちの大正天皇)が生後間もなく全身痙攣をくり返し、危篤の状態に陥ったとき、宗伯の治療が効を奏したという話である。詳細は忘れてしまったが、その時、羽織袴に短刀を差し、いざ首尾を得なかったなら、その短刀で自害する覚悟であったという。矢数道明先生の近世漢方医学史によれば次のように紹介されている。 宗伯の著述の膨大さは、他に類をみない。その数は八十種類二百余巻 この「勿誤薬室方函口訣」は中国の医書はじめ日本の歴代の漢方家の経験方まで網羅され、すべて浅田宗伯の親試実験を経たものが記述されている。流派を問わず採用されているため「折衷派の大家」と呼ぶ声もあるが、本を読むと、諸々の処方を古方派的に運用しているようにも感じられる。現在と違い検査機器もなかった時代。もちろん病気や病名の認識も今と比較する事は出来ないが、過去の医家がどのように病を認識し診断し治療に取り組んだかを知る事は貴重な学習になる。特に漢方に於いては、先人の経験無しには語ることも出来ない。 この当時から更に積みあげられてきた漢方の臨床経験や理論、そして現代医学の理論や技術を基礎に読んでみると、また違った輝きが得られると思う。薬局では診断は許されないし、客観的に診断できる手段が何もない。重病を見逃さないよう慎重であらねばならないが、素人判断の許される軽度の不調や、検査で異常の見つからない病気の苦痛に対して利用すれば、時に思わぬ効果を発揮してくれるだろう。 この口訣集の中で治療法が薬方名になった部分は興味を惹かれる。参考にいくつかの要所を紹介すると以下のようになる。 |
【治血狂一方】当帰・芍薬・川弓・地黄・乾姜・紅花・大黄・桂枝 産後の狂症を治す。婦人の多く血に病む。其の人、痴の如く 狂の如く、或いは大便黒く、或いは痛処あり。皆オケツの証なり。 凡そ一証を見さば血を以って治す。 【治酒査鼻方】黄連・大黄・梔子・芍薬・紅花・甘草・地黄 【治打撲一方】川骨・樸そく・川弓・桂枝・大黄・丁香・甘草 【治頭痛一方】オウゴン・黄連・大黄・半夏・枳実・乾姜・呉茱萸・甘草 【治喘一方】茯苓・厚朴・桂枝・杏仁・蘇子・甘草 【治迄逆一方】半夏・粳米・竹じょ・茯苓・胡椒・乾姜 【治狂一方】厚朴・大黄・枳実・オウゴン・黄連・芒硝・一角 【治水腫鼓脹一方】厚朴・枳実・茯苓・附子・蒼朮・木通・甘草 【治骨硬一方】縮砂・甘草 【治癬一方】忍冬・樸そく・石膏・芍薬・大黄・甘草・当帰 【治頭瘡一方】忍冬・紅花・連翹・蒼朮・荊芥・防風・川弓・大黄・甘草 【治肩背拘急方】青皮・茯苓・烏薬・沙草・莪朮・甘草 |
このような、口訣を以って処方の勘所を覚えてゆくのが、医術を身に付ける修行でもあった。技術や業は書物だけで学ぶ事は出来ない。漢方理論の学習と併せて実践の場で磨かれるものである。口訣集が読めれば素人でも初心者でも、とりあえず何らかの薬方が使えるだろう。そして一定の効果が得られるなら「当たるも八卦・八割漢方」で書いたように、専門家と言って素人を笑うことは出来ない。しかし、また素人でも一定の効果があげられる、と、専門家を笑うことも出来ない。実践と学習と思索と失敗を重ねて仕事を続けて来たいくばくかの重みはある筈だ。傲慢にも専門家だとして素人を排除する事こそ戒めとしなければならない。 |
【参考図書】 勿誤薬室方函口訣 復刻版 /勿誤薬室「方函」「口訣」釈義 長谷川弥人 |