少年時代

・・・兄を超えることが目標だった・・・
 祖父がフィリピンで戦死してしまい、乳飲み子をはじめとして幼い子供4人を抱えた祖母は、生活のために止む無く農地の多くを手放してしまった。夫に先立たれた祖母は、女手ひとつで大変苦労し、農地を売っては生活費の足しにしていたという。ただ、”借金だけはしてはならない”というのが持論で、父の代に借金を残さなかったのが救いであった。

 父の代になると農家経営の拡大を図るため、借金をして農地を買いを広げていくようになった。そのため両親は早朝から夜遅くまで農作業に明け暮れていた。

 そんな昭和40年、3人兄弟の末っ子としてこの世に生を受けたのが私である。

 幼い頃、仕事に追いまわされていた両親に遊んでもらった記憶はほとんどない。しかし、5歳上の姉や3歳上の兄とともに、自然の中で過ごした楽しい記憶だけはたくさん残っている。

 小さな頃は、とにかく毎日のように農作業の手伝いをさせられていた。平日の夜はミカンやメロンの選別、休みの日はミカンの収穫やメロンの苗作りなどで、ほとんど毎日である。ミカンの収穫とメロンの苗作りが重複する冬休みなどは、手伝いをしないのは元旦だけという状況であった。
 サラリーマン家庭の友達が羨ましくてたまらなかったが、今になっては仕事の大切さを知る貴重な経験となっている。

 小・中学生時代は3歳年上の兄の影を追い続けていた。兄は小学校のとき児童会長、中学生では生徒会長、クラブ活動の野球部でも主将を努めていた。いわゆる優等生であった。
 小さな頃から兄にくっついて遊んでいたこともあり、今思えば”兄を超えることが自分の使命”とでも勘違いしていたのであろう。兄に負けてなるものかと、小学校の児童会選挙では立候補したものの見事落選。中学校でも当選はしたものの生徒会の副会長(得票順で役が決まっていた)、野球部でも副主将であった。成績も悪くはなかったが、兄には勝てなかった。
 唯一負けていないのは口数だけであったが、なんとか兄と同じ県立のU高校に入学することができた。ちなみに兄はこの高校以外は受験する必要がなかったが、私は滑り止めで私立高校を2校も受験していた。



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