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・・・あの頃に戻りたい・・・ |
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◎ 高校時代 U高校は遠かったが3年間汽車(ディーゼル)で通学した。 朝6時半に家を出て駅まで自転車で25分。汽車に乗ること35分。下車駅から学校まで自転車で更に10分もかかった。課外授業(ほとんど強制であった)のある日は朝5時50分頃家を出ていた。3年間黙って弁当を作ってくれた母に、ただ感謝である。 帰りも汽車の本数(2時間に1本)が少なかったため、まっすぐ帰宅しようとしても帰り着くのは夕方の6時30分頃であった。 こんな毎日だったので、それまで続けていた運動系のクラブにはとても入れず、考古学を勉強するクラブに入部した。もちろん考古学に興味があったわけではない。私と入れ替わりに卒業した兄がそのクラブに在籍していたため、単に兄の真似をしただけの事である。 入部の動機はいい加減であったが、一緒に入部した同級生にSという考古学少年がいたことが後の私の人生を大きく変えることになった。Sは考古学を勉強することだけが目的で、家から遠く離れたU高校を選んだという筋金入りの考古学少年である。ただ、このSは曲者で、私たちが知らない専門的なことばかり話題にし、考古学的に無知な私たちを小馬鹿にしたようなところがあった。最初は我慢していたが、こんなやつに馬鹿にされてたまるものか!と、意地で考古学を勉強するようになった。 学校では英語の授業に大変苦労した。中学校以来、英語は大嫌いで高校受験の際にすら全く勉強したことがなかった。英語のハンデは他の教科で稼げば良いと思っていた。 言い訳になるがそれには大きな理由がある。 中学2年生の1学期のことである。ある日、英語の宿題をクラスのほとんどの人がやってきていなかったことがあった。それに激怒した先生から、学級委員であった私が代表でビンタを食らう破目になった。先生はビンタの後で皆に言った。「授業を舐めていると、おまえ達も次からこんな目にあうぞ!」と。皆には効果的であろうが、代表で叩かれた私はたまったものではない。そのとき以来、英語の授業中は一番後ろの席(席替えの度に女の子に替わってもらっていた)で推理小説や恋愛小説を読むことにしたのである。 そんなことで、高校の授業にはとてもついて行けず、成績は赤点のオンパレードで、決まって1か2であった。3年生時の授業では、1年間ついに1度もあてられ(指名され)なかった。何で私だけ当てられないのか不信がったクラスメートが、英語の先生が持っていた出席簿を覗いたところ、私の名前には黒い取消し線が引かれていたそうである。そのことを知ってから、英語授業中は堂々と部室で昼寝をすることができた。(朝が早かったので大変助かった。A先生に感謝しなければならないかも・・・) 高校の成績と言えば、進学の役に立たない理科と社会系だけが良く、国語と数学は並、当然英語はメタメタであった。大学受験では、中心となる英数国の3教科がボロボロのため苦労したが、日本史・国語・英語の3教科で受験できる地元の私立K大学になんとか進学することができた。ちなみに、3年では国立文系の進学コースに入っており、クラスのほとんどが国立大学を目指して共通1次試験(今のセンター試験)を受験し、途中から私立大学志望に切り換えた者が、滑り止めで受けるのがK大学であった。しかし私はこのK大学1本であった。それでも、大苦手の英語を含む3教科の試験で合格できたのだから個人的には大満足であった。 ◎ 大学時代 苦難の末?入学したK大学の4年間は夢のような時代であった。 2年から友人Mと二人でアパート暮らしを始めることにし、まず覚えたのが麻雀である。2DKの超汚いボロアパートではあったが、台所が4畳半で麻雀をするには絶好のスペースであった。雀荘でアルバイトしていた友人から、中古ではあるが椅子式の麻雀卓を貰ってから、このアパートが無料で遊べる雀荘と化した。 麻雀には4人のメンバーが必要であるが、普通はこの4人を揃えるのがなかなか難しい。しかし、無料雀荘には既に二人のメンバーが揃っているので、麻雀をやりたい人は誰か一人見つけて来れば、一番中楽しめるのである。 そんなことで、毎晩どこからとも無く仲間が集まり麻雀が始まるのである。ときには10人以上のメンバーが集まり、コタツも使って2卓でやることも多かった。平均して月に25日ほどはやっていたように思う。ひどいときは、家主の二人が留守中に窓から侵入した友人達が麻雀をやっていたこともある。なんでも許される時代であった。(ご近所の方には大変ご迷惑をお掛けしました。) 本業が麻雀とパチンコで、コンビニでのアルバイトが副業。授業はほとんど受けなかった。 3年の時などは、1年間で受けた講義の総時間数が20時間ほどであり、昼に起きてパチンコに行き、5時から9時までコンビニでアルバイト、それから徹夜で麻雀するのが日課となっていた。こんな毎日だったから4時間目に受講していたゼミにも寝坊する始末で、当然ながら必修の英語(早朝1時間目の講義であった)ですら1時間しか受講できなかった。 大好きな英語を温存していたため4年次は大変苦労した。しかし、講義が午後からであったことと、教授が理解のある人だったのが救いであった。出席して一番前の席に座れば試験の成績プラス◎点、英文を読み上げれば◎点、先生の質問に手を上げて答えればプラス◎点という有難いシステムを採用してくれていた。これには助かった。試験は0点でも、単位取得の道が拓けているのである。さすがに質問に答えることはできないが、一番前の席に座ることは誰だってできる。また、恥ずかしながら一人では英文を読むこともできなかった(単語の発音が全く分からないため)のだが、後輩を捕まえてカタカナでルビを打ってもらう事でこの問題も解消してしまったのである。 遊びに遊んだ4年間ではあったが、麻雀仲間の半数以上は"まだ遊び足りない?"と学校に残った。しかし、私は受講科目を厳選(出席を確認しない教科だけを選択)していた甲斐あって、正規の年限で卒業することができた。尚、卒業式には徹夜麻雀明けで寝坊してしまい出席していない。 ただ大変な問題がひとつ残っていた。卒業後の就職である。 卒業を固辞していた友人達と遊びすぎる余り、就職活動をするのを忘れていたのである。冗談ではない。本当の話しである。バブル直前の売り手市場で、大学には各企業からの社員募集の要項がたくさん届いていたそうであるが、私がそろそろ探そうかと思ったのが後期試験の終わった2月の中頃であった。どうしようもない”バカ学生”であった。 |