|
・・・遊びのツケで仮就職・・・ |
|
就職も決まらないまま大学を卒業したが仕事のあてなど無かった。探そうにもどうしたらよいのか全く分からない。こうなったら最後の頼みは親である。 全く就職活動をしない私を見ても、両親は何も言わなかった。どうも地元の町役場に入れたかったらしいが、あいにく採用試験がなかったために黙っていたようである。両親の持論は「兄弟は近くで暮らすのが一番」というもので、就職して遠くに行かせたくなかったらしい。しかし、田舎のため近くに大きな企業はなく、そのうち役場にでも入れれば”御の字”と考えていたようである。 そして親の力?で、4月から臨時職員として地元の町役場に勤務することになった。 最初は教育委員会で町史(町の歴史をまとめた本)編纂の仕事をした。歴史は最も得意な分野で、考古学をかじっていたこともあって、知識的には役場の担当者より遥かに豊富であった。臨時職員なので大した責任もなく、その上、得意な歴史に関連する仕事ができたのであるからやり甲斐があった。 しかし、その町史編纂事業もちょうど最終の年度であったため、僅か1年で臨時職員の身分のまま配置換えになってしまった。 2年目は、大型船舶免許の講習を行う町立学校(教習所みたいなもの)の事務員となった。仕事に対しての思い出はとくに残ってないが、免許更新の講習で鹿児島のトカラ列島などへも行くことができた。旅行はどちらかといえば嫌いだが、一生かかってもまず行くことのない離島である。いい経験をさせてもらった。 この年の秋、町議会で職員採用についての質疑があった。ちょうど公務員の定年制が57歳から60歳に引き上げられた頃であり、これに向けてどのような対応をするか?との趣旨である。町長の答弁は「今後数年間は職員採用を行わない」というショッキングなものであった。 大学を卒業以来約1年半、役場以外の仕事は考えたこともなかった。数年臨時で我慢すれば試験はあっても正規職員になれるとばかり思っていた。お先真っ暗な状態でかなり悩んだが、臨時のままアテもなく我慢することなど到底できず、役場入りを諦めて就職することに決心した。 両親は猛反対だった。近いうち必ず職員になれるから、とにかく辛抱しろの1点張りであった。 しかし、もともと我家は町長とは反対派で、おまけに親戚の大半も反町長派である。都会に住む人には理解できないかもしれないが、田舎役場の職員採用では政治的な駆け引きに大きく左右される。辛抱すればどうにかなるとは思えなかった。 その頃、町では農地の大規模化を図る圃場整備事業を推進していた。ただ、クリアできていない問題が多かったこともあり、地主の中には賛同しない者もかなり残っていた。その中心的(ちょっと大袈裟かな?)な存在が父であった。 我が家は、その計画の10年以上前から自力で農地の大規模集中化や土壌改良などに取り組んでおり、それがやっと完成した時期で、ミカンから転換したビニールハウスによる施設園芸(イチゴ・メロン)が軌道に乗りはじめた時期でもあった。 事業そのものの趣旨は良いのだが、計画が”行政の都合ばかり”と常々聞かされていた。国・県からの補助金の関係で一気に工事を終わらせたい町と、収入が途絶えないように小ブロックに分けて実施してほしいという父達の意見は平行線のままであった。 もしこのまま役場に残ったら、父は不本意ながら圃場整備事業に賛同せざるを得ない。自分の就職のことで信念まで曲げさせることはどうしてもできなかった。 幾度となく話し合った結果、最終的には渋々納得してもらった。 |
