【飢えで死ぬ人間がいる間は..】
朝日新聞 取材ファイル記事より抜粋 (1992年12月8日) 詩人・石垣りんさんの新著「詩のなかの風景」(婦人之友社)は、薄いが親しみやすく中身の詰まった本で、一夜これを読んで心足る思いがした。これは石垣さんが好きな詩に寄せてそれぞれ1千文字前後の文章を書いた雑誌連載を、当該詩ともども五十余編集めたもの。 主に自分の事を語りながらそこに生活者の目がとらえた作品への感動と敬意がにじみ出ていて、共感を呼ぶ。しろうと読者にも、詩がずっと近づいてくる感じだ。同じ形式の本で2年ほど前出た今道友信氏の「詩と展景」(ぎょうせい)も楽しかったが、こういう本がもっと多く専門家の手で書かれれば、詩の財産はずっと深く私たちの生活に入ってくるのではないか。石垣さんの本では、幾つもいい詩に出会えたけれど個人的には「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」という二行を最後に置いた中桐雅夫の「やせた心」に一番強い印象を受けた。 ここで中桐雅夫は、自分が年を取って腹を立てやすくなったことをまず言い、次いで酒や人間関係もやたら甘く、学問にも商売にも品がなくなってきた時代への違和と嫌悪を言う。その後に、断ち切るように先の強い二行を続けて、十四行詩を閉じている。石垣さんは「折にふれ、私を呼び止める」という言い方で、この二行への感銘を語っている。この詩を読んで、相似た精神が生んだずっと以前の朝日歌壇の一首を思い出した。遠い記憶で字句に違いがあるかもしれないが、こういう歌だった。 「戦いに病み飢えし子が画面にいるせめて酒盃を置きたまえ父よ」。 他国の悲惨に目をふさぎがちな怠惰な中年男の胸にも、清らかな抗議の声はしみ通るようで、こういう風にしかってくれる娘さんを持つ親の幸せを思ったりもした。あれから十年以上も経つのに、戦火は今なお地上の現実だ。酒盃も並ぶ我が家の夕食時のテレビの画面に、今日も、枯れ枝のような細い手首に目ばかり光るアフリカの子らの姿が映し出されている。(松) 【寸評】 世界の人口の20%を占める先進7ヶ国が、60%の食料を消費し、逆に80%の人が残り40%の食料を巡って争奪をする。先進7ヶ国にはもちろん日本が含まれる。1996年の資料になるが、人口1億人以上の国の穀物のカロリー自給率を調査した表がある。 |
国 名 | 人口(億) | 自給率(%) |
アメリカ | 2.7 | 138 |
パキスタン | 1.4 | 104 |
インド | 9.6 | 100 |
中 国 | 12.4 | 94 |
ナイジェリア | 1.2 | 94 |
ロシア | 1.5 | 93 |
インドネシア | 2 | 91 |
バングラデシュ | 1.2 | 89 |
ブラジル | 1.6 | 85 |
・・・・・ | ・・・ | ・・・ |
日 本 | 1.3 | 29 |
国連食糧農業機関統計資料より
悲しくなるくらい低い数字である、穀物は人の生命の基本をなすものであり、その必要性や自給の重要性が解っていながら、国際競争力と言い続け、より安いものを求め続けた結果の数字である。もう一つは食の洋風化にもある、その割合は正確には知らないが、人口に対する米の消費量が減少しつつある事から推測できる。米作農家でさえ朝はパンと牛乳で、、という家庭が多くなってきた。29%、この数字は先進国中、最低で、世界178ヶ国・地域のうち135位となっている。 食生活の殆どを輸入に頼り、世界中から食材を買い集め、グルメ大国日本を謳歌しているが、必要なら仕方もない。しかし、過剰な食料を貪っているのである。「ぜいたく栄養」と言われるものだ。農水省系研究機関である財団法人・日本農業土木総合研究所の調査(1996年)では日本全体で約715億キロカロリーのぜいたく栄養を海外から輸入していると試算している。どんな数字かといえば、このカロリーで世界の栄養不足人口の13.5%に相当する約1億500万人が飢えから解放されるという。 この「ぜいたく栄養」は飢えに耐えて生産された国から運ばれるものも含まれる。これを胃袋に納めるならまだしも、多くの食料が捨てられているのである。ぜいたく栄養の一部は「廃棄栄養」でもある。人ばかりでなく、家畜やペットの食料までかき集めている国の闇の部分である。1997年の資料によると、年間ご飯3560トン...5万人が1年間に胃袋に入れるのと同じ量が、コンビニエンスストアの一つの会社から捨てられる。一つの会社でこれだけの量を捨てているのである。この他、ホテルや料理屋、家庭、、、様々なところから廃棄栄養が産みだされる。1995年厚生省の調査で、日本人1人1日当たりの供給熱量2637.8キロカロリーに対し、摂取熱量は2042キロカロリーという。その差の約600キロカロリーが廃棄栄養のカロリーになる。私は食べ残しや食物の廃棄はしない、しかし家庭からの廃棄も相当ありそうだ。京都大学環境保全センターの調査では、京都市内の50世帯の家庭ごみの中身を分析した結果。37.5%が食べ残しで、うち14%が買った姿で捨てられていたという。 そんな食料を飢えゆく国へ回せば、という話はすでに書いたが、こんな議論は必ず起ってくる。心ある人の説得力ある議論にも関わらず、そんなことを実際に行えばどうなるであろう?大いなる無駄の上に成り立っている経済の歯車が狂い始め、日本に飢えゆく人が生じてくる。失った自給率は戻らない、戻そうと言いつつ国際競争力を口にする様では頼りにならない。同じく、手に入れた豊かさも後戻りができない。共産主義も社会主義も破綻しているし資本主義も同じ事である。虹の向こうに完全な社会などある筈もなく、仮に実現したとしても退屈で鬱陶しいものであろう。食は飢えぬほど、住まいは濡れぬほど足りて、不平不満を言っているうちがまだ幸福なのかも知れない。 食に限った事ではない、1万キロも走らないうちに車を買い換えたり、毎年、海外旅行を愉しむ人が、更により良い生活を求める必要があるのだろうか?欲望の大海で漂流し続けるかぎり後戻りはできない。 |