【今月のコラム】


【ローズマリー】

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日本近現代史入門 広瀬 隆 集英社文庫

-- 続 --

沖縄が占領軍アメリカから日本へ返還されたのが1972年、3年後の1975年には敗戦から30年になる。新聞は太平洋戦争を知らない戦後生まれの若者が増えていることを伝えた。第二次世界大戦後のドイツ人はナチスの時代について徹底的に学び、ナチスがおこなった残虐行為を現在でも映画化しているのに対し、日本の映画界やNHK、民放など正確な映画化を一度も試みていない。戦時中を描くものといえば日本の軍人を正義の主役にして英雄に祭りあげる。平頂山の虐殺、南京大虐殺、重慶無差別爆撃、731部隊、強制連行・・など戦争犯罪を日本人自身が戦後一度も深く学ばなかった。戦後一貫して学校で教えなかった文部省の責任も重く、NHKを始めすべての報道メディアが国民を無知に導いてきた。明白な日付のある歴史的事実をなかったと言い、やむを得なかったと言い、世界で最も好戦的な軍事国家であるアメリカと手を握り危険な領域に踏込みつつある。

アメリカに軍事占領され、戦後日本として再スタートを切る。当時7200万人の日本国民は想像を絶する飢餓と生存の危機に立たされていた。アメリカ人の占領下に置かれたからではない、国民がまともな生活を取り戻そうとするのを邪魔する日本人がいたからである。当時、廃墟となった日本は最初にしなければならないことが三つあった。

  • 第一は、食べ物を確保し、空襲を受けた焦土を復興して、国民が生き延びること

  • 第二は、敗戦によって海外に取り残された日本人を日本に帰還させること

  • 第三は、戦時中の悪業を清算すること

1941年12月8日、日本が真珠湾を奇襲攻撃した翌日、アメリカは日本に宣戦布告し翌年2月には「戦後の対外政策に関する諮問委員会」を発足させた。日本が真珠湾の戦勝に歓喜し日の丸を打ち振っているとき、アメリカはすでに「戦後」の計画を練っていた。

1945年8月15日に、日本は無条件降伏を受け入れた。その後は、国民が飢餓とインフレに襲われ、闇市時代がはじまった、とすべての歴史の本に書かれている。しかし、水に恵まれた緑豊かな国、日本で飢餓が起こるのは奇妙なことであった。この原因から戦後史の第一歩を探る必要がある。

戦争に惨敗しても責任者たる支配階級は、庶民の生活など眼中になかった。敗戦が間近に迫っても腐敗しきった将校達は女を招き入れ、連日連夜酒を飲み明かしているという噂が流れた。配給制度を取り仕切る官僚たちは立派な服を着て歩き回った。無条件降伏の8月14日から、鈴木貫太郎内閣の悪事も始まる。彼らは占領軍が進駐してくれば軍需品を没収されると察知し、米軍が来る前にすべてを隠匿又は軍人に与えるほうが良しとして軍需品の放出命令を出す。本土決戦に備え全国に分散備蓄した燃料、アルミ、銅・・金銀ダイヤ、米、みそ、醤油などの食糧を醜悪な軍人のつかみ取りに任せた。最終的に放出された軍需品の量は当時の価格で2400億円相当といわれ、2000年の時価で45兆円にも達する。全国民が1年を楽に暮らせるだけの国の資産が戦争関係者達の懐に流れた。米軍が進駐してくる日まで軍人だけでなく、戦時中に官吏と裏でつるんでいた商人も払い下げという大強盗を働いた。明治維新における薩摩・長州の維新の志士たちが、幕府の巨大な財産をくすねたのと同じである。物資を預る軍需省の次官だった岸信介や、次の内閣で軍需大臣となった中島飛行機の中島知久平たちによって膨大な国民資産が盗まれ、戦後の政界へも流れた。

次に政治家と官僚、軍人がおこなったことは、戦争中に自分たちが手を下した「犯罪の証拠隠滅」である。8月15日、東京市ヶ谷の参謀本部では軍部が大虐殺の証拠を消すため、一斉に膨大な資料の焼却が始まり、幾筋もの黒煙が立ち昇った。満州では731部隊本部を、石井四郎らが徹底的に破壊し、中国人捕虜たち400人余りを殺したうえ、大虐殺の証拠隠滅を図った。

日本の政府と官僚と軍人は現在も、誰の目に隠れもない犯罪があろうと、自分に不都合な事実について公正な記録を残さない。一朝暴露せんかという事態になれば国民が迷いから覚めないよう、ひたすら迷彩をほどこすという、文明国家として最も卑劣低俗な伝統を守ってきた。

歴史家やジャーナリストが日本史を知るにはアメリカの国立公文書館で資料を探さねばならない。それが時折、スクープとして雑誌や新聞で流れるが、本来なら日本の国会図書館で国民の誰もが普通に閲覧できて当然だ。

降伏2日後、東久邇宮が総理大臣に任命されるが、皇室と縁戚関係にあるというだけで政治能力はまったくなかった。実際は副総理格の近衛文麿や緒方竹虎が閣僚の人選をし、おこなった仕事は国民の救済ではなく軍需産業の救済である。敗戦時の軍事総額は歳出総額約1000億円のうち軍事費が72%を占めた。戦争が終わっても再び巨額の特別会計が組まれ、軍人・軍属の退職金、軍人の復員費用、さらに軍需品の未払い代金や注文打ち切りによる企業への損失補償金として浴びるような大金が用意された。1945年11月、GHQ指令で臨軍予算が禁止されるまでのわずか3か月で266億円に達する莫大な額が軍部と軍需産業に支払われた。降伏前から天文学的な軍事支出でインフレが始まっていたが、食料不足に伴う社会不安でさらに物価上昇が加速する。国民は食べものを買う事もできず、飢えで生死を目前にするほど犠牲を強い、かたや軍需産業は巨大な利得をもたらした。

日本政府は屈辱的な敗北と降伏を国民に隠すため占領軍を進駐軍と呼びかえ、日本国民も進駐軍と呼ぶようになる。占領軍やアメリカの軍隊を迎えるため2つの組織が生まれた。軍人組織の「対連合軍陸軍連絡委員」とGHQと日本政府との折衝をおこなう「終戦連絡中央事務所」である。この組織は日本を支配するGHQと直接折衝するので、ここを握った彼らが戦後日本最大の経済支配者となる。敗戦国として占領軍の莫大な維持経費を負担しなければならず、初期には一般会計の半分を占領軍の経費で占めた。東久邇宮首相は占領軍到着の日、記者会見で昭和天皇や重臣には戦争に敗れた責任はなく、国体護持のために全国民総懺悔を、と言いだした。戦死者の半数が飢餓で亡くなり、特攻で子供を失った遺族もいる。一億総懺悔すべき責任がどこにあるというのか。

日本政府が大衆の立場にたって民主化をおこなう意志がまるでなく、ポツダム宣言の条文も履行しないことが明かになり、GHQと外国の記者たちから怒りをかった。外務大臣の吉田茂が「治安維持法の維持と、共産党員の釈放取り止め」を画策したためGHQは吉田茂を完全に無視して、以下の指令を出す。

「天皇に関して自由な討議を許す...政治犯を釈放する...思想・言論規制の法規を廃止する...思想警察を全廃する...内務大臣・特高警察全員を罷免する...国民の自由を統制する法規を廃止する」など、当然すぎるほどの内容であった。

終戦直前に特高警察に捕まった哲学者の三木清が独房で死亡したことを知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走により、敗戦後も政治犯が獄中で過酷な弾圧を受けている実態を暴露した。GHQが人道的指令を出したのは、アメリカの高官や兵士たちが町で日本人と接するにつれ、日本人がおかしいのではなく、日本政府がおかしいことに気づいたからである。占領軍兵士による犯罪は後を絶たなかったが、ほとんどのアメリカ兵は純良な人間が多く、子供たちは遠巻きにして眺めていたが、やがて兵士の差し出すチョコレートやチューインガムを喜んで受け取った。

戦災のため、親兄弟も身寄りも失い、ボロをまとって"浮浪児"と呼ばれた幼い子供たちは、電車のガード下や地下道に寝起きしながら、通行人やアメリカ兵の袖を引き、その日の食べものを求め、見るも悲惨な日々を送っていた。道端の至る所に片腕や片脚を失った傷痍軍人が坐って、彼らもまた物乞いをしていた。

餓死寸前の日本人を救ったのは無能・無策の日本政府ではなくアメリカ人だった。GHQは飢餓の混乱を避けるため、食糧、衣類用の綿花、石油、塩などの生活必需品について最小限の輸入を許可し、米軍はフィリピンから残存食糧を緊急輸送し、日本人家庭に配給を始めた。1946年春を迎えても寒冷地では穀類が2日分しかない状況であった。アメリカの奉仕団体から食糧や医薬品、学用品が送られ、北海道へ7800トンの小麦粉が放出されたが、それでも食糧不安は頂点に達していた。

このような国内危機のとき、海外に取り残されていた日本人はどのようにして帰国したのか。ソ連の侵攻で退路を断たれた満州と北朝鮮では膨大な数の日本人がシベリアに抑留され重労働を強いられ、命を落とした人や帰国できない人がいた。しかし、軍人の帰還を保証したポツダム宣言と中国の蒋介石の寛大な政策で大半の日本人の帰国が叶った。敗戦国日本に対するアジア全土の憎悪の嵐をかいくぐって、日本人を故国へ運んだのは日本人の海員たちであった。

まず第一に、老人・女・子供を救い出し、弱い者の帰国を見届けてから最後に軍人が帰還するのが、どこの国でも人間の情である。ところが、日本の武士道は、軍人がわれ先に争って帰国する手順をとったのだ。最近の日本人は、いい加減な物書きによって賞賛される武士道やサムライを立派なものだと思い込んでいるが、実際の武士道とはこれほどぶざまなものである。

それを聞いたGHQが特権を発動して、外征部隊より優先して一般人の引き揚げをおこなわせなければならなかったのである。敗戦に及んでも、民度は最も低い集団が、日本の政治家と官僚・軍人であった。

真珠湾攻撃の翌年から海運業界は船も海員も国家に強制的に徴用され、魚船にまで及んだ。徴用された海員は延べ10万人にも達し、軍人から激しい差別を受け、十分な食料も与えられず危険な任務を命じられた。戦時中の物語では戦艦大和など軍艦ばかりが登場するが、敗戦までに1万5518隻もの民間船舶が撃沈され、戦没した海員は15歳の少年から60歳まで6万331人を数え、ほぼ半数が撃沈と飢餓と遭難で亡くなったのである。日本が降伏したとき、船舶運営会が所有する外洋航行可能な船は、氷川丸と高栄丸と聖川丸のたった3隻のみであった。朝鮮半島に90万人以上の日本人が残っており、満州からの避難民も朝鮮に向かった。いままで虐げられた朝鮮人に襲われることを恐れた日本人は、現地から一斉に逃げ出し釜山港へ集結し始めた。そこで国鉄の興安丸と関釜連絡船の徳寿丸を船舶運営会の指揮下に移し帰還輸送が開始された。終戦しているにも関わらず、樺太からの引き揚げ船の小笠原丸、泰東丸の2隻がソ連船と思われる潜水艦から魚雷を受けて沈没し、第二新興丸、浮島丸なども爆沈している。命がけで航行した海員たちの働きで、敗戦から翌1946年末までの1年余りで5000万人以上が日本に引き揚げ、最終的に帰国した日本人は博多港と佐世保港にそれぞれ約140万人、舞鶴港に約66万人など計630万人近くが帰国したとされる。

第二次世界大戦後は人類全体が未曽有の凄惨な大殺戮に打ちのめされていた。最後の降伏国家が日本だったため、全世界が二度とこのような戦争を起こさせない保証を日本国憲法に求めたのは当然である。日本が制定した憲法はポツダム宣言の要求内容として日本政府が受け入れた「民主主義」と「日本から軍国主義者を完全かつ永久に排除」して「再軍備を禁止する」という条項を取り入れただけでなく、国連憲章が定めた「基本的人権と人間の尊厳」と「国際平和と安全」、「言論と宗教と思想の自由」などの民族を超えた崇高な理念を謳いあげた。ここには日本人、アメリカ人の他、戦勝国の様々な人々が関与し条文の骨格が練り上げられた。人類の良識の結晶ともいうべきものである。

この戦後の新憲法は、GHQの手で、つまりアメリカ人によって押しつけられた憲法であると、長いあいだ多くの日本人のなかで語られ、歴史修正主義の「日本会議」や、ポツダム宣言もまともに読んだことがない安倍晋三がそう主張してきた。

日本国憲法に倣ってすべての国が憲法を書き換えなければならないほどの人類的財産である。第二次世界大戦直後という短期間の偶然の幸運がなければ日本国憲法は結実しなかった。無条件降伏した1945年、日本国憲法誕生に向けていくつかの大きなグループが動き始める。初めに声をあげたのは文化人グループで辰野隆・正宗白鳥・山田耕作・村岡花子たちが「文化の民主主義化を促進する」として日本文化連盟発起人会を開き憲法誕生の起爆剤となる。これに続いたのが近衛文麿グループで憲法学者佐々木惣一・高木八尺らと連絡をとり憲法草案の作成に着手した。しかし近衛文麿は総理大臣となってすぐに日中戦争を起こした重大戦犯であり、GHQが「近衛に憲法改正を頼んだ覚えはない」と関係を断ち切った。第三の松本烝治グループは、新総理の幣原喜重郎がマッカーサーから憲法の自由主義化と人権の確保を求められ立ち上げた委員会で、単なる調査であって明治憲法を改正する意志は全くなかった。第四の鈴木安蔵グループが最も重要な動きを果たした。1945年11月5日、文化人グループの高野岩三郎のほか、杉森幸次郎、室伏高信、岩淵辰雄、馬場恒吾、森戸辰男が加わり7人で「憲法研究会」を結成し、言論の自由、男女平等、生存権、平和思想など民主主義国家の屋台骨となる思想を具体化するための議論を開始する。何度もの議論を経て12月25日、鈴木安蔵の執筆により憲法草案が完成し、これがGHQの憲法草案の土台となる。第五のグループは共産党草案で最も早く出たが「天皇制の廃止」を求めたため、当時の日本の世情では支持される可能性は低く、実現は困難であった。

アメリカでは、1945年12月26日にGHQの弁護士で民政局の法規課長だったマイロ・ラウエルが「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」を提出していた。そこに日本人の急な動きが出てきたので、連合軍翻訳通訳部は鈴木安蔵らの憲法研究会草案の翻訳にとりかかった。あとひとつアメリカ以外の連合国グループも動いていた。日本を占領するうえで、アメリカ主導を警戒し、日本を管理する政策機関として11か国で構成される極東委員会を発足させた。しかし、この段階で民主的憲法の骨格は鈴木安蔵草案で決まっており、この草案を骨格にしてGHQ草案を日本政府へ突きつけた。

情けないのは、日本の国民に自由を与えようとするそのGHQ草案に、吉田茂と白洲次郎が口を出して、民主化を妨害し続けた態度であった。マッカーサーはアメリカ上院軍事外交委員会で、日本人は「12歳の子供」であると語ったが、まさにそのような振る舞いであった。

最終的には1946年3月5日、GHQとの交渉で大幅に修正された日本政府の確定草案が採択され、翌日6日に緊急記者会見で「憲法改正草案要綱」が発表された。そこには鈴木安蔵たちが求めた通り、主権在民が明記され天皇制は維持されるが、単に国家の象徴とし、統治権は否定された。最近になって注目される憲法9条、戦争放棄の条項の発案者は誰か?これは押し付けではない、「首相の幣原喜重郎が、憲法に戦争放棄の条項を入れたいと言った」とマッカーサーがアメリカ上院委員会で証言した記録が残る。鈴木安蔵らの憲法草案の欠点をGHQのブレーンが補い、議会で広く国民の声を取り入れ、1947年5月3日に日本国憲法が施行された。憲法の口語化に尽力したのが路傍の石を書いた小説家・山本有三である。

世界に誇る憲法が出来たからといって、すぐに日本が変わるわけではない。12条には「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と謳われている。本書では戦後30年までの歴史が書かれており、東西冷戦、朝鮮戦争、国鉄三大事件、日米安全保障条約、ベトナム戦争、水俣病、ヒ素ミルク事件、炭鉱事故..そして東京オリンピック(1964年)、大阪万博が開催された。光があれば闇もある。復興、高度成長の奔流に流され闇の部分は広く流布されることはなかった。戦後日本も膨大かつ一方的な情報に戦前と変わらず右へ倣えしてきた。国家ぐるみで文書の改竄、隠蔽、破棄の動きがある。教科書を政府や一部の者に都合の良いお伽話に作り変える動きもある。しかし、いままでの教科書でさえ十分過ぎるほどお伽話である。

国会を見ればよい。戦後に生み出した、日本史の中で最もすぐれたものを、平然と現代人が破壊し、倫理観を失った政治家の登場に拍手する者がいる。一体、日本人はどうしたのだ。自衛隊の参戦に反対する人間をつかまえて拘束する。マイナンバーをつけて国民を監視しようとする。治安法まがいの法律を画策する。沖縄戦で軍人に強制された集団自決を、歴史教科書から抹殺しようとする。その戦時中の大日本帝国の象徴だったからこそ日の丸・君が代の強制に反抗する教師がいれば、それを弾圧する。果ては、日本人が守ろうとしてきた平和憲法に泥靴を乗せて、米軍と共に殺人をおこなう集団的自衛権の行使と、特定秘密保護法の制定と、安全保障関連法案の強行採決と、辺野古基地建設によって、戦時中の愚かさをきわめた時代に戻そうとしている。

 

 
 

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