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<栄養>の誕生 巽 美奈子 新曜社 |
ラーメンを年間400杯食べる人、カップ麺とおにぎりで1日の食事を完遂する人、菓子やパンを主食とする人など、「大丈夫か?」と健康を案じる。一方、野菜中心の一汁一菜、玄米・菜食といえば健康的なイメージを抱くが、これも栄養的に問題がないわけではない。食には「ハレとケ」、「よい食事と悪い食事」など善悪の道徳観が伴い、その規範となるのが「栄養学」だ。
栄養や健康について科学的知見が出始めたのは20世紀に入ってからで、ようやく100年ほど。食べたいときに手に入るものを食べる。のどが渇けば水やお茶を飲む。栄養の前に「食べる飲む」が生きるための基本であり、そのための経験的知恵が食文化として伝承されたきた。1912年、ポーランドの生化学者C.フンクによるビタミンの発見が栄養学の端緒となる。原因不明であった「脚気」が、ある栄養素の不足で起こることを突き止めた。その1年前、鈴木梅太郎が脚気に効く物質を米糠から抽出し「オリザニン」と名付けたが、日本語論文だったためフンクの「ビタミン」が採用された。明治以降、日本ではビタミンB1欠乏で年間1〜3万人が脚気で亡くなった。軍隊内でも兵士が次々と亡くなり戦傷者より多い部隊もあった。海軍軍医の高木兼寛は白米に注目し麦飯を導入した。しかし陸軍はドイツ医学を学んだ森鴎外が細菌説を堅持したため、日清戦争で4000人、日露戦争で27000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡した。一方、海軍兵士の脚気による死亡は日清戦争でゼロ、日露戦争では3人である。この後、新たなビタミンが次々と発見され、原因不明だった病気が特定の栄養素の欠乏で起こることが判明した。ビタミンC(壊血病)、ビタミンD(くる病)、ナイアシン(ペラグラ)、ビタミンA(夜盲症)、ビタミンB12(悪性貧血)など。カロリーゼロでエネルギーとはならないが、体内ではほとんど合成されないため、食品からの摂取が不可欠である。 飢えと渇きを癒し、ときに滋養あるものを摂るというのが従来の食行動だった。そこに科学という説得力を持つ栄養学が登場すると、よりよき食が達成される希望と、その規範による呪縛が生じる。奔放な食行動には報いがくるという呵責から、健康を害したとき因果応報との批判が出てくる。2021年に策定された食育推進基本計画の第4次の重要課題として「健康寿命の延伸」が掲げられた。国が示す重点課題の多くが、個人へ還元する努力目標となっている。
栄養を学び耳を傾け、健康のため何をどれだけ食べ、何を食べないか気配りをしながら食行動をとる人は多いと思うが、栄養学の発祥以降どのような経緯で現在に至ったのか。 1894年、高峰譲吉がでんぷん分解酵素のジアスターゼを発見し、消化酵素剤として用いるようになった。続いて1904年、佐伯矩(さえき ただす)が大根からジアスターゼを発見し、これにより一般人へ大根の利用が広まる。佐伯は医師であったが、世界に先駆けて医学から栄養学を独立させたので、栄養学と栄養士制度の草分けとされる。日本ではビタミン発見より先に栄養学の黎明を迎えていた。
当時、急増する人口と食糧との均衡がとれず、食糧不足が大きな問題であった。1920年、内務省栄養研究が設立され、佐伯は初代の所長に就任し、それから20年務めた。佐伯の栄養改善活動が国策としてスタートし、実践ツールとして開発したのが「献立」である。当時、日常的な食事の準備は主に女性であり、裕福な家庭では女中など使用人の仕事だった。男性が食に口をはさむのはあるまじき行為として蔑視された。医学者が食に介入したり、逆に女性が栄養の科学に携わることもなかった。最初に取り組んだ佐伯はまさにパイオニアである。それまでの健康観や食事観は前近代的な養生思想の影響下にあり、貝原益軒の養生訓にみられる経験や観察から得た知恵であった。従来の食行動には健康で適切な数量の目安はないが、佐伯の食事実践法は科学的知見に基づき食事量の数量基準を設定し、それに向かって食物摂取をコントロールした。 一般女性がおこなう日常の調理に栄養科学は馴染みが薄く、「献立」を提案することで調理に盛り込んだ。「経済栄養献立」といい、献立に理論的・科学的な根拠を持たせ、栄養価とともに食材価格もあげ、安価でも健康が保てると主張した。大正期は上流階級やそれを模倣する人々が西洋由来の料理や新しい食品を嗜む傾向にあった。これは現代も変わらず、美食に対する栄養学からの禁欲的提言は続く。当時は「経済栄養献立」を実践した主婦層から苦情や批判が殺到した。理由は手間と時間がかかる、半端に食材が余り、反って不経済だという。しかし、1922年9月の関東大震災で全く別の展開を見た。死者・行方不明者およそ105000人という被害で、多くの人が生活難に襲われた。困窮する被災児童を対象に食事支援が為され、この活動を通して「経済栄養献立」が受け入れられていく。
「手間がかかる」との主婦層の意見に調理従事者を動員する。大量調理をおこなうため、「材料が半端に余る」ことはない。欠食児童が対象のため、「個人の自由な食行動」は問題外で、まずは飢えをしのぐ。限られた予算で飢えに苦しむ児童に食事を行き渡らせる必要があった。安価ながら給食を継続すると児童たちの体重は増加し、他の学校の児童と比較しても給食を提供した児童の方が栄養状態が改善した。こうした公的実践が「経済栄養法」の普及を促し、他校からも給食を要望する声が出始めた。1924年、給食事業拡大のため「日本栄養協会」の設立に至る。もともと貧困児童を対象の給食であったが、児童全員へ有償でも構わないという声もあがった。教師も生徒も栄養に配慮した同じ給食を食べ、食物に関する知識を高め、食わず嫌いも矯正できる。ここに食育の萌芽を見る。生活格差が顕在化する社会状況と関東大震災という偶発的災害が、栄養学による食事実践の道を切り拓いた。佐伯は家庭での栄養改善の必要性も繰り返し唱えたが、女性たちは依然として「経済栄養法」を支持しなかった。
女性が栄養学的な知識に欠けていたわけではなく、家庭における食事の担い手として、家族を満足させることに気を配り、調理過程や「出来栄え」に注意を払った。合理的な栄養学もさることながら、食事には作り手と食事者との関係や嗜好があり、佐伯の食事観とは乖離していた。戦前、炊事場は男子禁制とされ、炊事は女、食事者は男といったジェンダー構造があった。女性は家庭での役割から栄養科学や調理教育を冷ややかに見ていたのではないか。一方、男性中心の料理人の社会は、ハレの日の料理を提供する「料理文化」の興隆が見られた。料理人は男性しかおらず、女性が作る家庭料理は男性が築いた「料理文化」を基に発展していく。戦前唯一の婦人向け料理専門雑誌、「料理の友」に毎号、中流階層の女性たちの調理実践の記事が掲載された。発行元は大日本料理研究会といい、料理人、美食家、文化人、女子教育に携る女性など専門家の組織だ。有識者の専門知識とともに栄養の語彙も登場し始めた。
しかし、栄養学の知識を基礎として調理するまでには至らなかった。1925年、「料理の友」の誌面に「家庭科学欄」を設け、科学的知識を積極的に取り入れ料理に生かそうと試みた。医学者などの専門家が三大栄養素の他、新たに発見されたビタミンという微量栄養素を取り上げた。不足することで起こる様々な病気や、子供の成長を妨げるリスクを喚起した。都会の中流以上の人は多量のカロリーは必要とせず、種々のビタミン、ミネラルや酵素の摂取に努めるべきで、逆に栄養障害や病人の食事は栄養学の知識を基に調理するほうが好ましい。医学者らが調理の仕方に言及したことは栄養学上の大きな転換点になり、1927年からは病人料理の記事欄が設けられた。しかし、佐伯の「経済栄養法」までには至らず、女性たちの調理法は、より多くの栄養素を摂取することに腐心した。男性文化人や料理人からは「料理文化」の観点から食事者の嗜好に配慮すべきとの異論も出た。料理人は食事者を肉体的にも精神的にも満足させるのが仕事であり、食事を栄養素の塊で捉えるなら薬のような殺風景な食事になるとの懸念を示した。食嗜好を優先する「料理文化」に対峙する「経済栄養法」はまだ家庭へ普及しなかった。佐伯は集団給食を通して得られた疫学的エビデンスと新たに発見された生理学的エビデンスを武器に栄養学にもとづく食事実践の推奨を再開する。科学的エビデンスには普遍性があり、食事者の好みや食習慣こそが栄養学を基軸にして変わるべきと考えた。女性たちは「経済栄養法」、「家庭料理」、「料理文化」などの潮流から、次第に病人料理に不可欠な栄養学の知識を調理技術に取り込んでいく。
唐突に出てきた「体力」の概念は従来の栄養理論にはなく、欧米人と対比させる身体的コンプレックスから生じたものだ。当時は国民の健康や身体を改善するという国策のなかで体力が注目されていた。時流に乗り佐伯は「単位式献立法」をアピールする。1932年、内務省衛生局長が「栄養の改善」という政策を打ち出した。佐伯は小学校給食におけるデータをとり、給食の有・無による児童の体格や握力増の成果を示した。国力・兵力になりうる子供の体位や体力の増進に栄養改善の必要性を説くことで、国家の後ろ盾を得た。「経済栄養法」に基づく食事では結果的に健康がもたらされるとしたが、五大栄養素を取り入れた「栄養理論」では健康は食事によって「自ら獲得する」ものとした。しかし、個人としての嗜好や食の実態については配慮しなかった。
1925年の栄養学校の学則の骨子には栄養学校は男女共学だったと記され、栄養料理実務科と家庭栄養料理実務科に分け、男性と女性の役割を区別していた。女性の大半は卒業後に仕事に就かなかった。彼女たちの多くは高等女学校卒業後、花嫁修業のキャリアとしたため、戦前期に女性栄養士として働くものは一握りだった。栄養学校に入学してきた女性の中には医学専門学校、高等師範、日本女子大、専門学校などを卒業した者や教育免許状や看護婦免許状を取得した者もいて、学ぶことに貪欲であった。初期の栄養士は向上心が旺盛で、専門家として社会貢献の使命も抱いていた。しかし階層文化の時代にあって、女性の社会進出や貢献は困難を要した。まず栄養士は一施設に一人、男性であることが多く女性栄養士は無給で働くか、就職の声がかかるのを待つ。就職しても現場では事務方や炊事員との葛藤が生じ、使命感は打ちひしがれた。
栄養士が誕生した時代は栄養学的な専門知識は普遍的ではなく、科学と無縁の人々への啓蒙、実践は大変な苦労があり、栄養学の科学的知識をかみ砕き広めるエージェントの役割を果たした。震災被害者への食事、学童給食の提供を通して健康状態をなんとか改善したいとの思いで努力を重ねた。ビタミンやミネラルの発見や欠乏症の知見は家庭料理にも新たな方向性がうまれた。女性は栄養科学に関心を高めていくが、科学的な調理実践を前面に出すと、食事者たる男性たちは「料理文化」が損なわれると反発を示す。女性たちは料理人料理を手本に家庭料理に創意工夫を重ねる。とくに都市の新中間層の女性たちは嗜好と栄養の二つを配慮した家庭料理を実践し、男性もそれを受け入れていく。
佐伯は嗜好の赴くままの食事を「よくない食事」とし、非日常にある外食料理を栄養学の観点から逸脱したものと位置づけた。栄養研究所設立当初、料理人との接触も試みているが、途中で介入を断念している。理由はあきらかにされていないが、逸脱的食行動が人々の自己自制を喚起するとの仮説もある。日常食や病人食に対峙して饗応食や外食料理があったからこそ栄養学も存続したのではないか、との仮説を以て著者は結語としている。 |