【今月のコラム】


【彼岸花】

  薬物依存症 松本俊彦 ちくま新書

1978年にサイモン・フレーザー大学のブルース・アレクサンダー博士らが行った、「ネズミの楽園」と呼ばれる有名な実験がある。32匹のネズミをランダムに16匹づつ2つのグループに分ける。一方のネズミは1匹づつ金網の檻に隔離され、他方は広々とした場所に雌雄一緒に入れられた。後者を「楽園ネズミ」といいネ、ズミ同士の交流を妨げず隠れたり遊んだりする箱や缶が置かれ、床には巣を作りやすいウッドチップを敷き詰め、いつでも好きなときに好きなだけ食べられる餌が用意された。

この両方のネズミにふつうの水とモルヒネ水を与え、57日間観察した。檻のネズミの多くが頻繁かつ大量のモルヒネ水を飲み日がな1日酩酊していたのに対し、楽園ネズミ多くは他のネズミと遊び、じゃれ、交尾したりしてなかなかモルヒネ水を飲まなかった。檻のネズミは砂糖を抜いた苦いモルヒネ水に変えても依然とモルヒネ水を飲み続けた。

この実験結果こそが、「なぜ一部の人だけが薬物依存症になるのか」という問いの答えではないでしょうか。それは、自らが置かれた状況を「檻のなか」--孤独で、自分の自由な裁量を剥奪された環境--のように感じている人の方が、「楽園」と感じている人よりも薬物依存症になりやすいということです。

檻のなかでモルヒネ漬けになったネズミを1匹だけ、楽園ネズミの中へ移すと、広場の中で楽園ネズミたちとじゃれあい、遊ぶようになった。薬物依存症に限らず諸々の依存症にも普遍性を持つ実験結果ではないか。酒、煙草、性、ギャンブル、パチンコ、浪費、ネット、DN(暴力)、ストーカーなど様々な依存症が知られ一人又は周囲が悩み、迷惑し時には犯罪に手を染めることもある。メディアが報じる依存症はニュースに資するほど特異で先鋭化したもので、実のところ依存症など馴染みが薄い。酒や煙草、パチンコが止められない人は居るにはいるが、多く見かけることはない。

薬物依存症対して私たちが抱くイメージは人格崩壊、意志薄弱、快楽主義、反社会的、人間失格..などテレビや新聞を通して得たネガティブなものが多い。麻薬撲滅キャンペーンで「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」といった知識や、薬物事件で逮捕された芸能人やスポーツ選手などの週刊誌記事やワイドショーの番組が主たるものだ。欧米諸国に比べると日本での薬物問題はさほど深刻ではなく、多くの国民は無縁である。無縁であるのに薬物依存症の伝聞的知識やイメージがひとり歩きすることで薬物依存症患者の社会復帰を妨げたり、薬物依存の当事者や家族を絶望に追いやる。その最たるものが「1回でも薬物を使ってしまうと依存症になってしまい、人生がおしまいなる」というものだ。

覚せい剤、麻薬、危険ドラッグなど様々な呼び方があるが、脳に対する作用は3つに分かれる。脳の働きを抑える中枢神経抑制薬は「ダウナー系ドラッグ」といい覚醒度を下げるもので、代表にはアルコールがあり、抗不安薬や睡眠薬、モルヒネ、ヘロイン、大麻などがこれに分類される。大脳皮質の高度な意識領を抑制することで、不安や緊張を和らげる効果もあるが、大脳皮質が抑制されることで相対的に辺縁系の活動が高まる。ブレーキとアクセルを同時に踏んで車を運転するようなもので、ブレーキを踏む力を抑制することでスピードはあがる。睡眠薬の副作用の項目には、痙攣発作、せん妄、振戦、不眠、不安、幻覚、妄想などが書かれているが、これも薬理作用の一つだ。2つ目は中枢神経興奮薬といい、アクセルを踏むことで脳の働きを活性化させ覚醒度を高める「アッパー系ドラッグ」だ。覚せい剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)とコカインがこのカテゴリーになる。覚せい剤の原料であるエフェドリンも規制の対象になる。これらに比べると作用はかなり弱いが、カフェインやニコチンも中枢興奮作用を持つ習慣性薬物だ。3つ目は幻覚薬で、LSD、MDMA、5-Meo-DIPT、マジックマッシュルームや一部の危険ドラッグがこれに分類され、抑制や興奮よりか知覚の変容という質的な影響が中心となる。幻覚薬の問題点は、薬物の種類や使用する人の体質や性格、使用する状況によって作用が予測できない。極端な場合はたった一回の使用で深刻な健康被害を呈したり、錯乱状態や精神病状態が長く続き暴力事件や交通事故などを引き起こすことがある。

昔はアルコール中毒、ニコチン中毒などと同列に、「薬物中毒」という用語を用いた。これは薬物が体内にある状態で解毒で解決するとの誤解を招く。薬物依存症は止めようと思っても、何度も失敗し薬物の使用を自分の意志ではコントロールできないことを言う。

薬物依存症とは、「薬物が体内に存在すること」が問題ではなく、薬物をくりかえし使ったことで、その人の体質に何らかの変化が生じてしまった状態である。

アルコールで考えてみると、最初少ない量で酔っていたが慣れると徐々に量が増え、耐性が生じる。さらに人によっては飲まないと熟睡できないようになる。飲まないと眠れないのを離脱といい、こういったアルコールに対する一種の体質変化を身体依存という。しかし、身体依存は薬物依存の本質でない。常習性が生じるのは最終的に脳内にある快感の中枢部位をダイレクトに刺激することで精神依存が起こり、これこそが薬物依存症の本質だ。

中枢神経興奮薬と中枢神経抑制薬のいずれも、作用の方向性に関する違いはあっても、様々な方法を介して最終的には脳内のドーパミン活性を高め、報酬系回路の神経細胞を興奮させる、という点で共通しているのです。その結果、薬物を使った人は快感を体験し、「薬物を使う」という行動を学習し、再びその体験を求めてその行動をくりかえすようになるわけです。

酒や煙草をいつのまにか止めた人の話によると、血気盛ん、体力も好奇心も旺盛な青年期はそれらに快感を覚えるが、歳をとり体力や気力が下り坂に差し掛かると、ニコチンやアルコールの摂取が体の不調をもたらすことがある。煙草や酒による快感が次第に吐き気、頭痛、不眠、脱力などの不快に変わる。こういった人は自然になんら努力なしに止めることが可能だ。薬物についても同じことが考えられるだろう。

一般に薬物依存症を見かけることはめったにない。著書の所属する研究センターは全国一般住民を対象とした薬物使用経験に関する調査行った。規制薬物を一回でも使用したことのある割合を次のように報告している。シンナーなどの有機溶剤1.1%、大麻1.4%、覚せい剤0.5%、MDMA0.2%、コカイン0.3%、危険ドラッグ0.2%で、これらいずれかの薬物の生涯使用経験率は2.4%であることが分かった。芸能人やスポーツ選手だからニュースになるのであって、多くは自然にやめ、依存症も自力で克服していく。

見逃せないのは2000年以降、急速に売りあげが伸びた睡眠薬や抗不安薬の乱用と依存症だ。自殺対策の一環として「うつ病の早期発見、早期治療」のキャンペーンが効を奏し、より多くの人が精神科へ足を運ぶようになった。精神科の薬物使用は常軌を逸するものがあり、覚せい剤に次ぐ第二の乱用薬物となっている。医師は軽症にも手厚い医療を施すことがあり、覚せい剤や危険ドラッグの使用経験率が減少傾向にあるのに比べ、睡眠薬や鎮痛薬の使用経験率は倍増の勢いだ。

依存症治療のため入院、服役における治療プログラムを受ける。たとえば刑務所内でプログラムに参加しても、出所後3年以内に約78%が再び逮捕された。しかし、出所後に地域のプログラムに継続して参加した人の、処遇終了後3年以内の再犯率は21%であった。この歴然とした差をみると冒頭で述べたネズミの実験のように、閉鎖的な施設内より、開かれた地域でのプログラムがより有効である。取り締まり、規制も大切だが薬物依存症の治療・回復支援が必要となる。

薬物依存症は「治らないが、回復できる病気」と言われています。実は、世の中に存在する病気の多くが、「治らないが、回復できる病気」という性質を持っています。

糖尿病や肝炎の診断を受ける、コレステロールや血圧が高いと注意される、甘いものも酒も止め、養生の結果、数値が安定すると「治った」と勘違いし、酒も飲み肉も魚もお菓子も食べ、再び病気へと引き戻される。とくに老化に関するもの、言いかえればおおむね40歳以降の病気の多くは老化が関与する。これは治るのではなく回復するか症状を沈静化するかしかない。治るという幻想で養生を怠ると次々と不調が噴出する。著者は薬物依存症からの回復プロセスを「脳の酔い」と「心の酔い」との2つに分ける。脳の酔いは脳が薬物の影響を受けた状態で、覚ますのは薬物を止めることで1〜2週間のうちに完全に回復する。しかし、「心の酔い」を覚ますのは時間がかかり容易にはいかない。長い時間「気分を変える」物質に酔った状態で生きるのが習慣化すると自分でも気づかぬうちに物の考え方や感じ方に独特の変化が生じる。

入院や刑務所の中では物理的に薬物から離れるため、この環境では薬物を止めたことにならない。依存症が最も再発しやすいのは退院直後や刑務所を出た直後だ。本当の治療は外来通院ということになる。3か月間、通院治療を継続した人の中で1回も覚せい剤を再使用しなかった人は96%だった。しかし、7割の人が3か月の間に通院を中断してしまった。おそらく、覚せい剤を再使用したことで医者から叱責されたり、警察に通報されるのが嫌で通院を止めたのだろう。いうまでもなく助けるべきは7割の人々である。ネズミの実験から考えられることは..

この7割の人たちが薬物依存症から回復するためには、安心して覚せい剤を使いながら通院できる場が必要だ

7割という数字について次のような報告もある。アメリカ依存症医学協会が公開している調査データの中で、薬物依存症を克服した人の75%が専門の施設や治療を行うことなく、薬物依存を抜け出せたという。75%の人が専門の治療に頼ることなく回復できたという事は、「薬物中毒が精神疾患の中で最も回復しやすい病気である」とも言える。覚せい剤に限ってはこうはいかないかもしれないが、薬物依存症の回復に向けての希望の数字でもある。

 

 
 

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