【今月のコラム】


【葛・くず】

おもてなしという残酷社会 榎本博明 平凡社新書 

かつてNHK紅白歌合戦の常連だった三波春夫がいつの頃からか「お客様は神様です」といい始めた。調べてみると1961年頃、三波春夫と宮尾たか志の対談の際に生まれたという。それから客の神様扱い、客の神様振る舞いが広がり、客を神様のごとくもてなすことが常識かのようになった。「善」だという価値観が確立すると異論は差し挟みにくい。三波春夫の真意は異なるところにあり、言葉だけが独り歩きしているようだ。三波が言う「お客様」は、商店や飲食店などのお客様、営業先のクライアントなどではなく、聴衆・オーディエンスのことだ。生前の三波春夫はオフィシャルサイトで次のように語っている。

「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです」

「お客様は神様です」は三波の真意とは逆に、誤解され拡がった。人々は「客は金を払うのだから丁寧に、神様を扱うようにすべき」と思うようになり、増長した客は「神様だから、何をしてもいい」と考え、クレーマまで生み出した。外国ではうかつに「すみません」など謝罪に通じる言葉を使ってはならないという。謝罪が責任に直結し賠償責任がかかってくるからだ。しかし、日本ではクレーマに対してさえ、まず「すみません」といって話を始める。

日本人の心の深層には、自分の非を認めずに自己正当化するのは見苦しく、みっともないといった感受性が根付いている。そのため、自分の非を認めずに自己正当化に走る人物は自分勝手な未熟者とみなされ、軽蔑される。さらには、私たち日本人の心の深層には、非を認めて謝っている人物をそれ以上責め立てるのは無粋であり、みっともないといった感受性がある。そのため、自分の非を認めて謝る人物は、その潔さが評価され、寛大な対応がなされるのが普通である。

日本は謝罪が責任に直結しない文化であり、謝罪は「お互いさま」という人間関係の潤滑油として機能する。この麗しき文化が欧米の価値観を取り入れたことで、過剰なお客様扱いへと変貌し、客の勘違いを助長した。人たるもの甘やかされるとつい調子に乗り、過剰な期待や理不尽な要求をする「困った客」になる。いままで我慢できたことにも我慢できない、順番も待てない、些細な振る舞いに怒る。忙しい店員を捕まえてサービスが悪い、態度が悪いと責め立てる。第一次産業の時代から第二次を経て第三次産業の時代になり、サービス業の比率は高まり過剰な「お客様扱い」を当然とみなす風潮はあらゆる労働へ広がっていく。経済産業省によれば、現在サービス産業は日本のGDPの約70%を占め、従業員数でも約75%を占める。多くの消費者の中で「お客様扱い」を当然とする観念やサービスの要求水準が高まっていった。低廉、なおかつ「顧客満足度」などの評価を気にしながら働く側は常に緊張と苦難を強いられる。第三次産業の従事者が増えるにつれ、肉体労働、頭脳労働とは別の感情労働という問題が生じた。

感情労働に従事する職種として、かつては旅客機の客室乗務員が典型とされていたが、現代では看護師などの医療職、介護士などの介護職、コールセンターのヘルプデスク、官公庁や企業の広報、苦情処理、顧客対応セクション、マスメディアの読者や視聴者応答部門などが幅広く注目されるようになってきた。もちろん従前のホスト、ホステス、風俗嬢などの風俗業、秘書、受付係、電話オペレーター、百貨店のエレベーターガール(1990年代からは各社とも廃止の一途を辿っている)、ホテルのドアマン、銀行店舗の案内係、不動産営業等のサービス業も感情労働に該当する。-wikipedia-

企業が接遇講座を設け、従業員に客扱いの訓練を施す。感情労働の技法が二つあり、表層演技は客に対する不都合な感情を抑えたり、職務に必要な感情を偽装したりする。もう一つは深層演技といい、表層演技で見かけを取り繕うのではなく、感情や気持ちを客に同調させ自分を変える努力をする。例えば結婚式などお祝いの場で仏頂面はそぐわない。店員が客の前で機嫌よく振る舞うのはいままでもやってきが、「おもてなし」が肥大化するにつれ、感情の抑制や演技が過大なストレスを強い、耐えきれずバーンアウトする。バーンアウトとは臨床心理学の概念で、情緒的消耗感、脱人格化、個人的達成感の3つで構成される。

情緒的消耗感とは、無理して頑張ることで心が消耗してしまった感じのことである。脱人格化とは、感情が枯渇し、気持ちのこもらない非人間的な応対をするようになることである。そして個人的達成感の減退とは、職務に対する有能感や達成感を感じなくなることである。

いままで顧客の評判がよく、模範的な従業員が、突然、顧客に対してキレたり、いつも笑顔で感じの良い店員が、無表情でうわの空の応対をするようになる。客がいれば応対する店員がいて、店員もあるところでは客にもなる。威圧する客もあるところでは平身低頭で頼もしい店員かも知れない。電話やメールでは悪態をつくが、会って話すと優しく思いやりのある客だったりもする。互いに立場が入れ替わるなら、お互い想像力を働かせ「おもてなし」はほどほどでよい。日本はもともと相手の感情に適切に対応する文化的素養があった。

研修などで、客を尊重するように促す教育は、欧米などでは必要だろうが、日本にはそれほど必要なかった。それなのに、もともと文化的に自己中心的に振る舞わず、相手(客)に対する配慮がある日本で、わざわざ「お客様の尊重」を吹き込むことで、客への配慮が過剰となり、おかしくなってきた。

感情労働の負担に耐えかねて心を患う人、自ら命を絶つ人まであり、接客業に限らず、むしろ多くの仕事が接客業のようになった。ネット社会の広がりで、この傾向は酷くなり殺到する苦情で廃業に追い込まれる例もある。苦情処理係を設け、ここでの対応が事業を左右することもあるという。国が一億総活躍社会といって給料よりも「やり甲斐」や「自己実現」などを煽ると、労働者はなんとなく「自分のため」に働いているかのように錯覚する。

心理学者として内発的動機づけの効用を説くこともある者として、その考えを悪用して、従業員を酷使する事例が多いことに戸惑いを覚えざるを得ない。だが、そのような風潮を後押ししているのが、政府が主導する「総活躍社会」とか「女性が輝く」というような、自己愛を刺激することでひたすら働くロボットのような人間を生み出そうという戦略である。そうした風潮のなか、多くの人は長時間労働を強いられ、感情を殺してロボットのように働くことになる。

最近は定年を延長し「老人が輝く」という議論まで出始めた。政治家の意図は明白だが抑圧されればされるほど人々は強い権力者に寄り添うという。過酷なおもてなし現場の例示のあと、過剰・感情労働時代のストレスとの付き合い方として著者は以下の提言をする。

何らかの新たな枠組みを設定することによって、うんざりする気持ちや腹が立つ気持ちを同情心に変えることもできるし、切羽詰まった緊張感から解放され、気持ちが楽になる。事実は変えられなくても、フレームを変える、つまり物事を違った枠組みのなかに置いてみると、その事実のもつ意味が違ってみえてくる。腹が立って仕方がなかったことでも、そのように、みる枠組みが変わると、感じる意味が変わり、そんなに腹も立たなくなる。

著者は「心理学者として内発的動機づけの効用を説くこともある者として、その考えを悪用して..」とも述べている。「自分で折り合いをつけろ」、「がんばれのかけ声で走れ」ということか。自分の枠組みではなく社会の枠組みを変えることは心理学者にとって苦手な領域なのかも知れない。「きずなと思いやりが日本をダメにする」という社会学者の対談本もあわせて読んだ。社会学者は次のようにいう。

大事なのは心がけを説くのではなくて、制度設計をすることなのですが、それが今の日本ではたいへんおろそかになっているんです。

制度設計で社会をよくするのは政治や行政の役割で、国民は選挙や社会運動によって、わずかに参加が可能だ。厚い壁でもあり、挫折感や無力感も重くのしかかる。かといって黙っていては変わらない。社会運動に身を投じる人々は願いや祈りだけで解決されないから抗議行動を起こす。それも無益に終わるかも知れないが少しづつ変化が起こるかも知れない。それが叶わぬ時は、ひとまず心理学者の宣託に習い、自分の枠組みを変えてみる。自分への説得はイソップ童話の「酸っぱいブドウ」と「甘いレモン」の話そのままだ。

先月、新聞でネット炎上の記事を読んだ。ネットユーザ2万人へのアンケートで炎上に参加したことのある人は1.1%にとどまった。そのうち2度以上書き込んだ人は1度きりの人の半分以下であった。率でいえばわずか0.05%のヘビーユーザが複数のアカウントを利用したり、複数の書き込みをしていることになる。炎上については文化庁の調査も報告されおり、炎上に自分も参加したり拡散したいと思う人は3%にとどまった。炎上が起こり、それをメディアが伝えると、ネットユーザ全てが批判しているように錯覚するが、実際には少数であることに驚く。「おもてなし社会..」、「きずなと思いやり..」などの本も学者が特異な少数を誇張して論じているのかもしれない。客として利用するとき「俺様は神様だ」と思う人がどれくらいいるだろうか、またそのように振る舞う人が続々いるとも思えない。客対従業員のやりとりで多少の齟齬が生じるのはいままでもあった。モンスターとかクレーマと呼ばれる人はニュースになるほど少ないのではないか。私はいまだ実物を見たことがない。

 

 
 

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