【今月のコラム】


【決明子】

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日本近現代史入門 広瀬 隆 集英社文庫

-- 続 --

植民地主義拡大の起源は江戸時代にさかのぼる。初代薩摩藩主の島津家久が琉球王を捕らえて武力併合して以来、江戸時代全期を通じて、薩摩藩は琉球密貿易のため琉球民に対して蛮行ともいうべき過酷な奴隷労働を課した。ここに徳川幕府は関わっておらず、薩摩藩単独で奄美大島・徳之島・喜界島から強制労働による甘藷栽培で砂糖を独占した。密売したものは死罪とし首枷の刑、足枷の刑などの刑罰で縛った。琉球国は日本と清国の両国に位置していたが、明治5年、日本が一方的に琉球藩として日本の領土にし、明治12年、廃藩置県に伴い沖縄県とする布告を出した。日本はこうして琉球を強奪・侵略したのだ。現在、日本政府は沖縄の辺野古で機動隊を導入し強引に建設を進めており、沖縄県民からは「第二の琉球処分だ」と激しい怒りの声があがっている。

「古事記」や「日本書紀」の架空の伝説をもとに、古代日本は朝鮮半島に支配権を持っていたというデタラメの妄想を主張したのが、長州藩の"維新の志士"育ての親・吉田松陰であった。長州萩藩(山口県)に松下村塾を開いた吉田松陰が「朝鮮、満州、台湾、中国、フィリンピンを手中に収めて日本を豊かにせよ」と門下生に強く説いたのだ。

朝鮮半島は豊臣秀吉の朝鮮出兵以降、江戸時代の260年間は平穏であった。鎖国政策をとってはいたが釜山に近い対馬藩(長崎県)は朝鮮との親善外交を密かに進めて成功させていた。ところが明治新政府に君臨した長州藩の木戸孝允が岩倉具視に「朝鮮に鎖国の無礼を詫びさせ、謝罪しないなら兵を送って攻撃しよう」と、侵略をけしかけた。その後、旧士族が起こした佐賀の乱を経て征韓の暴挙は幕を閉じたかのように見えたが、2年後の明治8年、日本はついに朝鮮へ出兵する。日本の軍艦が無許可で釜山へ入港し、朝鮮近海で射撃演習などのあからさまな示威行動を激化させていく。現在のソウルの西の沖合にある江華島に侵入し朝鮮側から砲撃を受けると、待ってましたとばかりに艦砲射撃で応じた。江華島事件といい、軍民を殺傷し、民家を焼き払い、軍需品と兵器を略奪した。続いて翌年、薩摩藩の黒田清隆と長州藩の井上馨が朝鮮派遣特命大臣として軍艦で朝鮮に乗り込み、「開国しなければ軍事攻撃を始める」と威嚇した。

江華島条約といい明治9年、韓国は清国との属国関係を断って開国通商条約を締結させられた。日本は自分に極めて有利な通商権を獲得し、のちには首都・京城に兵士を駐留させる権利や鉄道、電線の敷設権も獲得し侵略への足掛かりを築いていく。苛酷な不平等条約のもと、日本の通貨を持ち込み貨幣の製造を口実に朝鮮の金採掘業者と農民から狡猾な手法で安価に金を略奪し、日本の金輸入量の7割は朝鮮から入るほど莫大な量に達した。不正が横行し朝鮮民衆の生活は極度に圧迫されるようになり、明治15年、日本の横暴に耐えかねた朝鮮兵が反乱を起こした。壬午事変と呼ばれる反日暴動は民衆のあいだにみるみる広がり、李朝・閔妃が中国清朝に援軍を求めた。朝鮮市場に再び中国人が迎えられ、日本人と激しく競争が繰り広げことになり、朝鮮の利権確保のため山縣有朋は軍事費の増額を要求し日清戦争の構えに入る。

福沢諭吉も、壬午事変後ただちに「日本人は重税その他あらゆる犠牲に耐えて、軍備拡張に全力をあげ、清国との戦争に備えるべきである」と主張し、山縣有朋と歩調を合わせて軍国主義を煽った。

日本が清国に宣戦布告して日清戦争が始まると、どさくさにまぎれて沖縄と台湾に隣接する「尖閣諸島」を日本の領土に編入した。日清戦争に勝利すると下関条約を締結し、敗れた清国は台湾を日本に割譲し、沖縄県の日本領有権を認めた。この戦争で日本軍人の死者は1万3825人、戦費総額は2億3240万円。明治28年の日本の歳入が2億7935万円だったので、9か月の戦争にほぼ1年分の国家予算をつぎ込んでいる。日本は朝鮮に対して大々的な経済侵略をおこない、朝鮮貿易から朝鮮・清国の商人を一掃し、大豆、金の地金を求め朝鮮を荒らし回った。当時は金本位制だったので金があればあるだけ通貨が発行できた。福沢諭吉は日清戦争について「これは文明と野蛮の戦争であり、文明国日本にとって清との戦いは正義の戦いである」と新聞に書き、アヘン戦争でイギリスがとった植民地化の戦法を使えとまで教唆している。1万円札の見方も変わろうというものだ。

日清戦争の日本勝利から半年後、朝鮮の国民がとりわけ強烈な、決定的とも言える反日感情を抱いたのは、「閔妃暗殺事件」であった。閔妃がロシアと組んで復権してくると、朝鮮とロシアの連合を恐れた長州藩出身の朝鮮駐在日本公使・三浦梧楼が首謀者となり、熊本藩の安達謙蔵らが加わって、1895年(明治28年)10月8日に閔妃を暗殺したのだ。

朝鮮国民が王朝に不満を抱いていたとしても、自国の顔でもある妃が日本人によって蹂躙された恥辱を、胸に深く刻む事件だった。その後、激しい反日抵抗運動が続いたことを日本人の手による歴史にはまともに記録されていない。日清・日露戦争で日本が一方的に領土権を主張した尖閣諸島や竹島も、日本政府はじめ日本のテレビや新聞などの報道界、文化人、知識人も日本が侵略したという史実を一顧だにしない。本来国家の領土はそこに長く人間が住んで生活している必要がある。尖閣諸島も竹島もただの島で人間が居住して生活する場所ではなく、日本の領土でもなく、どこの国の領土でもない。領土権の争いは1970年代から始まり、漁業権や石油・ガスなどの海底資源の所有権が重要な問題となった。戦後の日本の領土権を定義する基礎となるものは、1943年のカイロ宣言である。

「1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本が奪取しまたは占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに満州、台湾および澎湖島のごとき日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」

これに依り、日清戦争で植民地にした台湾を戦後に返還した。また、日清・日露戦争で日本が一方的に領土権を宣言した尖閣諸島や竹島についても主張は通らない。この夏、終戦75年の日に次の談話が発表された。

村山富市元首相は8/15日、戦後50年の「村山談話」発表から25年となったことを受け、談話を発表した。歴史検証や反省の取り組みを「自虐史観」と捉える動きがあることに触れ、「過去を謙虚に問うことは日本の名誉につながる。侵略や植民地支配を認めない姿勢こそこの国をおとしめる」などと記した。村山談話の作成をめぐっては、「肝心なことは歴史的事実を明確にして謝罪の意思を示し、二度と侵略や植民地支配を繰り返さない決意を表明することだと強く指示した」と回想した。
2020年8月15日【時事通信社】

日露戦争勝利から2年後の1907年(明治40年)7月24日には、韓国統監・伊藤博文が「第三次日韓協約」を締結して、韓国の内政も日本人統監の指導下に置き、大審院長と大審院検事総長などの司法権力や、各部の次官などに日本人を採用させ、韓国軍隊を解散することを規定した。これによって軍事力と裁判権も日本が掌握した。ついにここに韓国(朝鮮)を完全な日本の持ち物としたのである。

日本は日清戦争では中国ではなく台湾を、日露戦争ではロシアではなく朝鮮を戦利品とした。台湾と朝鮮はまったくいわれのない侵略を受けたことになる。朝鮮総督には日本の陸海軍大将をあて、朝鮮の行政権と軍令権を与えた。朝鮮半島全土に蟻の這い出る隙もないほど憲兵網が張りめぐらされ、朝鮮半島の人々を恐怖で支配した。悪魔伝説とまで言われる大日本帝国による恐怖政治が始まった。朝鮮支配を成し遂げた日本は、日露戦争以後に本格的な満州の利権獲得に進出し、さらに中国全土の支配という危険な道へ踏み出す。日露戦争の末期、すでに日本軍の弾薬は底をつき、疲れ果てて敗北直前であった。形ばかりロシアに勝利し、かろうじて戦争に幕を引いたことを日本国民は知らなかった。この戦争のため増税が断行され10万人近い死者を出したが、講和会議でロシアから賠償金がとれないことに日本の民衆は激昂し、3か月近く全国で暴動がおこり戒厳令が布かれた。しかし日本は、南満州で長春〜旅順の700キロの鉄道と5つの支線や沿線の炭鉱の採掘権、南樺太を獲得した。満州は、満州民族の生活の地であり、ロシアと日本は関係のない土地で殺し合いを展開したのだ。

日露両軍は、中国人男子を見つけると、強制的に軍用労働者に徴用した。さらに中国人から馬車などの家財を取りあげ、日本軍は、ロシア軍に協力する中国人の首を切り落とすなどして、殺戮の限りをつくしたのである。この戦争を賛美して、満州を植民地化した日本人の犯罪をまったく「なかった」ことにしたのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」である。

「日清戦争・日露戦争までの日本はよかった」と語った司馬遼太郎ほど、日本史を誤った記述で埋めた人間はいない。

日露戦争後、新たな戦争の嵐が襲ってくる。1912(明治45年)明治が終わり、大正の時代に入った2年後、第一次世界大戦が勃発した。戦火がヨーロッパ全土に広がると、ヨーロッパ諸国からアジアへの輸出が止まり、代わりに日本が綿布や雑貨を大量に輸出し始めた。日本はこの戦争景気によって軍需製品の注文が増え、外貨収入はみるみる蓄積され、財閥集団は手にした資金で近代的な工場建設に邁進した。産業は一気に活気を取り戻し、製鉄と造船などの重工業が急速に回復し、それまで輸入に頼っていた化学工業が生まれ莫大な富を得た。日本は大戦景気に乗じ、中国大総統・袁世凱に「対華21箇条要求」を突きつけた。ドイツが山東省に持っていた権益(関東州の租借権・満鉄の権益・鉄道敷設権)など膨大な要求を認めさせ、あたかも2度目の日清戦争の勝利者のように振る舞ったことで、中国人に決定的な反日憎悪の感情を抱かせることになる。日本の工業生産額は5倍に増大し、またしても造船、海運業界をはじめとする戦争成金が誕生する。驕れる日本に対して、朝鮮で「三・一独立運動」が起こり、京城や平壌などで朝鮮独立宣言が発布され、日本の植民地支配に抵抗する激烈な民衆運動が拡大した。日本の憲兵隊による弾圧と虐殺もすさまじく、朝鮮人7500人が殺され、逮捕者は5万人ほどに達した。

不思議なことに、これほどの蛮行が日本の一般庶民には見えなかった。第一次世界大戦の戦後処理で日本はアメリカ、イギリスに次ぐ第三の強国として認められ、太平洋のミクロネシア諸島、マーシャル諸島、北マリアナ諸島、カロリン諸島などの統治を委任され、事実上の植民地を確保した。強国となれば、ますます軍備の充実を図らなければならず、国家予算の半分以上の65%を軍事に投入している。

政府が軍国主義集団だったとき、国民は一体どんな暮らしを営んでいたのか。軍事費が最大規模になった1920年(大正9年)3月に東西の株式相場が暴落し、戦後恐慌が始まった。株価の暴落で成金が急速に没落し、米価の暴騰により米騒動が全国に広がった。農地における小作人争議も2年間で3258件にも達し、江戸時代の百姓一揆とは比較にならぬほど大きな数になった。元々労働者は農業で食えなくなり極度な貧困のため仕事を求め都市へ流れ込んだ人たちだ。労働者たちは手を結ばねば生きていけないとの自覚から、1920年5月2日に我が国最初のメーデーを上野公園で開催し、1万人をこえる群衆が集まった。それまでの軍需景気は軍艦を柱としていたので造船所の争議が非常に多いのが特徴である。

この時代に造船所から追い出されたどん底の労働者が要求した失業の救済は、軍需産業に取りこまれた下層階級が、「軍備の縮小に反対し、戦争で息をつなごうとする」大衆のきわめて危険な動きであった。

「背に腹はかえられぬ」ということか、一度、大戦争をはじめた国家は、頂点から底辺に至るまで、果てしなく軍国資本主義に没入しなければならない。軍事費の比率は1919年の65%から、1920年の58%、1921年の53%から1923年に30%台に落ちた。何故か?この年、マグニチュユード7.9の関東大震災が起こり、死者・行方不明者14万2807人を出す史上空前の被害を受け、産業界や金融界の深い傷跡がその後の日本経済の根幹を揺るがすことになる。

大蔵省によれば100億円(2000年時価:3.6〜5.2兆円)とされたが、後遺症を考えれば、実害はその2倍にも達した。ヨーロッパ大戦の終焉による世界的恐慌と共に、日本に大不況が広がってきたところへ、大震災が襲いかかり、東京市だけで一挙に7万人の失業者を出したのである。

このあと、昭和2年恐慌→財閥の肥大化→1931年(昭和6年)の満州事変へと、この連続する流れの中で、日本全体の国民感情がファッショの嵐に巻き込まれていった。

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