【今月のコラム】


【ヒメコブシ】

なぜ日本人は間違えたのか 保阪正康 新潮新書

2022年末の改定安保三文書の決定を受け、タモリはテレビの徹子部屋で「新しい戦前」と言った。このことばが、最近頻繁に聞かれるようになった。先駆けること2015年、安倍政権は憲法学者らの「違憲立法」との批判を黙殺し集団的自衛権の行使を認める安保法制を成立させ、武器輸出も緩和した。その後の岸田政権では殺傷兵器である次期戦闘機の輸出解禁へ踏み込んだ。2026年、年明けの不意打ち解散で空前の巨大議席を得た高市政権はタモリの発言を彷彿させる動きを見せ、リベラル派の心胆を寒からしめている。戦争反対を党是としている共産党・社民党・れいわは壊滅状態で10人にも満たぬ議席数になった。「日本を強く豊かに」とアスリートのような威勢で語る首相は爽やかさと希望をふりまき、支持率も高い。野党が批判すると「悪口ばかり」、「対案を出せ」、「馬鹿!」とまで罵る人々もいる。一党に巨大な議席数を負託することは独裁国家へ導く恐れがあり、避けるべき投票行動であった。すでに始まった独裁・形骸化した国会は見ての通りだ。

日本社会は江戸時代の270年の時間と現代史(戦後)の80年は戦争とは無縁であった。この間に挟まっている近代史77年間が戦争の歴史だったのだ。

近代史77年間の初めの26年間は戦争をしていない。つまり日本は明治27年、28年の日清戦争から太平洋戦争の終結までの50年間に限ってあまりにも慌ただしく戦争を続けたということになる。

この50年間と江戸時代の270年間の非軍事意識や戦後80年をどのように見つめるかが、日本人の歴史観の特徴になる。徳川の武家政治に代わった明治政府は自らの正当化に、古事記や日本書紀を前面に持ち出し天皇の権威と権力を高めた。日本は天皇を中心とする国家を天皇が作り、支配し人民を動かしてきたという皇国史観であり、これが昭和20年(1945年)8月まで続いた。皇国史観とは日本独自のもので経済学の唯物史観とはまったく異なる。戦争に負けたことで皇国史観も帝国憲法も否定された。これにとって代わったのがアメリカ流の民主主義で現在までの日本国民の歴史の見方になった。アメリカの文化や価値観が怒涛のごとく押し寄せるが、天皇を敬う思いは完全に失せたわけではなく、教育勅語や大日本帝国憲法を復活させようという人々も勢力を温存する。戦争の反省から昭和の後期には左翼的な歴史観が教育やマスコミを席捲した。リベラルの誕生と多様化が始まる。左翼系の大学教授たちは、江戸時代の封建制の下で農民は生きるか死ぬかの苦しい生活をしていたという。しかし、過酷な面はあっても対外戦争が一切なく、生まれてから死ぬまで共同体の中で普通に暮らしていける社会文化は稀有なものだ。アカデミズムの側は歴史を調べるジャーナリズムに対して「歴史観もないのにあれこれ言うな」と軽侮する。

そもそも史料を残すのは国家など何らかの力を持つ者だ。しかも昭和の戦争で国家は自分たちに都合の悪い、記述の正確な多くの史料を燃やしてしまった。逆に言えば、少ない史料で繋ぐぶんだけ、唯物史観に都合の良い歴史も書きやすい。

ジャーナリズムの側からみると学者は史料でしか歴史を書かない。史料として形で残ったものだけではなく、現代史は資料として証言者がたくさん存命している。著者は「記憶を父として、記録を母として」、あの戦争について何千人もの声を聞いてきた。生の声を聞いていると、その声が目前にいる一人ではなく何人もの声を代表し、死者の声までも聞こえてくる。元兵士は自分のことを語りつつ、所属した部隊、戦友などの戦争体験を胸の内で消化し、複数の声が入り込む。生者は死者であり、死者は生者であり真剣に話を聞けば死者のことばが必ず入ってくる。しかし、その時その後の記憶が曖昧で、後から起きたことを前に重ねたり嘘をついたりする人が1割ほどいた。

日本は中国に侵略した、満州国という傀儡国家を作った、日中戦争は短期で決着がつけられずに対米英戦争にまで進み、日本は軍事的に完全敗北した、という三つに絞られる。

満州事変(1931年)から太平洋戦争終結(1945年)までの15年戦争について、様々な認識や呼称はあるが、この三つがどの立場も認めざるえない骨格である。中国侵略を辛亥革命にさかのぼって考えると、中国の混乱状態のなかで、日本に二つの勢力が台頭した。人道的立場から支援する者と資金的・軍事的援助をすることで中国での権益を拡大しようとする者。日本の軍人から見ると中国の国家は混乱していても広大な土地と人間を抱え経済市場としての価値は巨大であった。やがて西洋文明の覇者たるアメリカとの戦争を予想し、日本は満州を後方の兵站基地にしておく必要があった。当時、中国では毛沢東の共産党派と蒋介石の国民党派が対立し、いずれも日本の軍国主義という巨大敵を作ることで国家統一を図る戦略があった。日本は中国への侵略を明確な国策や国家意思として持っていたのではなく、その時々の事態の推移に沿って目先の選択をした結果、「侵略」してしまった。国家統一を図るため共通敵を必要とした中国の戦略に優柔不断な日本は組み込まれていく。

3000年の歴史を持つ中国と、日本の軍事的衝突について考えると、彼我の間に大人と子どもほどの開きがあったことに嫌でも気づかされる。確かにアジアの中では軍事面の近代化が進んでいたが、知略、政略、戦略という面では日本はまるで小学生のようであり、一方で中国は、国家の力こそ弱っていたものの、やはりどの組織でも知略智謀に長けた者がトップに立っていた。

著者はイギリスの歴史研究者に「日本の軍国主義は恐るべきほどに拙劣で幼い。それは、歴史を見れば誰の目にも明らかです」と言われた。中国進出では日本に先んじていた帝国主義国家イギリスが、なぜ植民地として支配しなかったのか。イギリスは冷徹な原価計算をおこない中国の奥地まで軍隊を送り、何十万人もの兵隊を駐留させ支配するコストに見合う利益があるかを考えた。その結果、天津、上海など要衝の地に租界を作り、イギリスの法律で支配することを選んだ。イギリスは有史以来の中国の戦争をすべて調べ、中国がおこなった戦時の残酷さが極致に達していたことを知った。彼らが敵兵や捕虜に対してどんな仕打ちをするか歴史が物語る。三国志に見るような智略、陰謀や凄惨な殺戮や死体をも切り刻む残虐は騎士道精神のイギリスを脅かした。膨大な人と広大な面積を擁する中国の奥地へ入るなどありえなかった。南京へ侵攻した元日本軍人の証言によると、20〜30人の作戦部隊を送り、捕らえられるとほとんどが殺される。その後、両腕、両足が切られダルマのような死体を20〜30m間隔で道端に並べ、中には死体から切り取った性器が口に突っ込まれたものがあり、行軍する日本兵はそれを見て気がおかしくなった。後進国日本はイギリスのように分析も研究も怠り、満州事変から敗戦までの15年間、日本人の思考能力のマイナス部分がすべてが露呈した。古来、中国は華北の北京から上海と南京へ下り広東までの南北のラインを重視した。日本の軍人は無謀で不可能であるにも関わらず広大な中国全土に兵を送り、中国を侵略しようとした。日中戦争では北京から上海、南京まで侵攻した日本軍を中国軍は成都から昆明まで意図的に奥地へ引っ張っていった。侵略する軍隊はひたすら前進するもので、中国兵は逃げ日本兵はそれを追いかけた。逃げる中国兵を追いかけるうちに分断され、孤立した日本兵は徹底的に攻撃された。広大な中国の奥地へ引っ張り込まれ、消耗戦で兵力も国力も使い果たした。

政治と軍事における日本の錯覚と不合理、それ自体が中国にうまく利用されたのだ。むろん、侵略を認めないということではない。侵略自体は認めるが、その分だけ日本のお粗末さが際立つのだ。と同時に、やはり中国の歴史を踏まえた攻略と戦略の巧みさは、日本とは子どもと大人ほどの違いがあったという事実を知っておかなくてはならない。

当時の蒋介石と毛沢東の大きな戦略はいかにしてアメリカとイギリスを抗日戦争に引きこむか、そのために日本と対立状態を作っていく必要があり、見事に嵌った日本は対英米戦争へと突入していく。日本は江戸時代の270年間一度も対外戦争をしなかった。3500万人の国民のうち武士はわずか1.1%に過ぎないが、彼らは戦争をせず、ひたすら学問と武芸に励んだ。武芸を武道として究め、武士道という高度な思想と人格を涵養する精神的価値観まで高めた。武士道とは家系を通じて伝えられるのだが、昭和十年代の軍事指導者は陸大の成績優秀者ばかりで、中国の歴史を学ぶこともせず、武士道という高度の軍事思想も持たなかった。

日本は江戸時代の精神文化の蓄積を失った。歴史としてみる日中戦争がそれを露呈している。あれほど広大な土地に何十万もの兵隊を送ったにも関わらず、中国からは何の利益も得られず、聖戦の名の下に多くの兵隊が死んだ。他方、中国は日本を孤立させるべく、日独伊三国同盟をテコにアメリカやイギリスなど支援国を本格的に戦争に組み込むべく策をめぐらせた。

真珠湾が日本軍に攻撃されたとき、ルーズベルト大統領は戦いの始まりとゆくえ、そして決着という全体の戦略の一つとして組み込んでいた。彼は演説で「日本とドイツが永遠にアメリカに刃向わないようにする。戦争途中の講話はない。最後まで戦って、徹底的にこれらの国を壊滅し私たちに従わせる」と語った。そのとおりになり、戦後80年を経ても独立を果たせていない。それまで日本は植民地になることはなかった。かつてイギリス、フランス、オランダなど帝国主義的打算から日本を狙ったが、日本は何も資源がなく、せいぜい捕鯨船の寄港地くらいしか役に立たなかった。アメリカの戦略に嵌り真珠湾を攻撃した日本は全面戦争に入る。アメリカが進めたマンハッタン計画で原子爆弾の実験に成功したのが1945年7月だ。この時すでにイタリアもドイツも降伏し日本だけが世界何十カ国との戦争状態であった。原爆投下は、開戦時のルーズベルトの二度と刃向わないようにするという言葉が伏線になっている。

最もこれに貢献したのが、徹底抗戦と本土決戦を唱えた日本軍の強硬派である。国家の将来を見据えて戦争中止や降伏を唱えるような政治指導者がいれば目算は狂ったはずだが、軍事指導者たちは本土で最後の一兵までも戦うと言い続けた。それがアメリカへの最大の援軍になったのである。

日本は明治維新(1868年)という近代史の始まりからアメリカに同調し友好関係を結ぶが、中国をめぐる軋轢から険悪になり戦争で壊滅した。戦後はアメリカの力で民主主義国家となって現在に至る。日本人の意識や考え方、制度や文化のすべてがアメリカの手の内に組み込まれた。世界戦略の下僕としての日本に対抗措置があるだろうか。日本人の対米親近感を問えば近年80%ほどで推移している。ロシアの戦争は非難してもアメリカの戦争は支持する。歴史的教訓として、経済、文化、思想までも占領を続けるアメリカへの見方を変えるべきではないか。

一つだけ強調しておきたいのは、昭和10年代に戦争を進めた軍人たちは正統的な日本の軍人ではなかったことだ。正統とは、先に述べたように武士道という倫理と、明治以降の戦略と戦術をきちんと理解して戦った軍人たちだ。大正、昭和の初めには存在した彼らが表舞台から消え、続く世代は戦術しか知らず、一つの戦闘に勝てば戦争に勝ったと思いちがいするような自己満足に溺れていた。

田中角栄は「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」と語った。武士道や軍人の事ではないが、戦争を実体験した人々の意識や考え方は尊い。そういった人々から戦争の実体験を聞いた人々も貴重ではあるが、年月とともに少なくなっていく。戦争を知らない世代の総理や大臣が政権の中枢にいる。高市総理はかつて「自分は戦後生まれだから、戦争責任など問われる立場にない」と公言している。こんな人物に権力を与えた国民は後々、「あの時の間違が..」と気づくだろうか。すでに国会では独裁政治が進んでいる。野党がどれほど抵抗しようと、与党は一瞥もくれない。弱小野党は乱立し、固まる前に砂のように崩れ落ちる。もう政権交代は無理かも知れない。実際の投票率30%で80%の議席を獲得し巨大与党ができてしまった。選挙マジックともいい、小選挙区制の弊害として死に票が多く出てしまう。自民党の党首選で林氏が「中選挙区制へ戻しませんか」と問いかけていた。小選挙区制産みの親の小沢氏は国民の意識がまだそこまで達していないと強弁するが、1996年から30年経つのに政権交代可能な2大政党は夢のまた夢、金権腐敗もひどくなった。人々のコメントには自民党の独裁を嘆く声もあるが、野党に対し「非難ばかり..」、「消えてなくなれ..」とまで評する人々がいる。野党の議員の大勢を失い茫然となるが、失ったことを嘆く人々より、巨大与党を支持する人が多く、声も大きい。新しい戦前はどこへ向かって漂流するのだろう。

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