【今月のコラム】


【泰山木】

医者の本音 中山祐二郎 SB新書

「いわぬが花」ということわざもある。本音は語らぬほうがいいのかもしれない。10万部のベストセラーとのことなので、秘密を覗きたい人があまたいることが分かる。私もそのひとりだが、ありふれた裏話で時間つぶしの読み物に終わった。しかし、最終章の死と老いについての話は一読すべきものがあった。「治療を何歳まで受けるか、という問題です。これは、私のそして多くの医者の頭を悩ませる問題です」。91歳の大腸がん患者の症例をもとに、がんを治すか延命するかの選択を迫られたとき次の3つを考えた。
  1. 手術で大腸がんを取る
  2. ステントを入れて狭いところを広げる
  3. がんは取らず人工肛門を作る手術だけをして、腸閉塞を回避する

1)はがんを取り除くので「治る」治療で、2)、3)は閉塞を予防する「その場しのぎの」治療になる。年齢から考えて手術は術後の合併症も含め危険をともなうため、傷を最小限に留める腹腔鏡でおこなう。もし縫合不全が起こるとそれが命取りになる。多くの外科医は根治手術を躊躇し、おこなうとしても人工肛門をつくる手術になるだろう。2)ステントを入れたとして、がんが発育するとステントのすき間から内部に進出し再び大腸が狭くなる恐れがある。3)人工肛門は管理が難しく、少し認知症もある患者自身が管理するのは困難だ。

家族とも協議を重ね、1)手術で大腸がんを取ることにした。手術は成功し、術後一度は様態が悪化したものの1か月程度で退院の運びになった。うまくいったからよかったものの、一か八かのような手術であり、失敗すれば患者は数日で死亡する。手術をするか否かの検討は「技術的あるいは医学的レベルを超えた生命倫理的な問題」である。結果がうまくいかなかったとき、もっとも外科医を苦しめるのはスタッフの冷たい目や患者家族からの厳しい罵りではなく、自身に対する深い悔恨だという。

治療の方策もなく苦痛も耐えがたい、迫る死の恐怖で精神的にも疲れ切ってしまった。ここに安楽死の問題が浮上してくる。安楽死には治療を放棄する消極的なものと薬物の投与など積極的なものがある。とくに積極的安楽死については許容されるための要件として、裁判の判例がある。

  1. 患者に耐えがたい激しい苦痛があること
  2. 死が避けられず、かつ死期が迫っていること
  3. 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に手段がないこと
  4. 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

この判例が示す事件当時はまだ緩和ケアの実践的知識がなく、「楽にして欲しい」という患者や家族の懇願に苦心して応えたのかも知れない。裁判に発展したのは医師と何らかの齟齬が生じたからであろう。時に臓器移植等の問題が絡むと、事は一層複雑さを増す。先月、1回3349万円の白血病治療薬の保険適用が決まった。今後、高価な新薬の開発が続けば、命に金の問題まで絡むことになる。

人のいのちを左右することは、医者が手出しをする領域ではない

しかし、場合によっては、命を少し短くする心配があったとしても、痛みや苦しみを取る治療を優先することがある。ここには無治療という選択肢もあるが、「積極的安楽死を選択する場面はほとんどない」と著者はいう。医者はどのような死生観を持っているのだろうか。臨床医は人の臨終に接することが多く、死の判定は医者の専権事項でもある。死がどれだけ不安かという度合いを測定した「死の不安尺度」というのがあり、それによると看護学生の不安が最も強く、反対に医者の不安が最も弱かった。死を知れば知るほど、死をみつめればみつめるほど、死にまつわる迷信や迷妄が払拭され、死の恐れが少なくなっていく。医者は患者の死に慣れなければ、続けられないし、患者を客観視しなければ治療が困難になる。

医者にとって患者は肉親ではありません。しかし、医療という仕事は「他人事」でも絶対うまくいかないものです。これを私は「2.5人称」の距離と呼んでいます。2人称は肉親などごく親しい人「あなた」、3人称は他人「だれか」です。その間の距離感でなければ。患者--医者関係は良好にならないのです。

著者はがんの専門家で多くの患者さんの診療に携わってきた。人間の死ぬ確率は100%で、がんを完全に予防する方法はないという。がんは遺伝子の異常によって起こるもので、一番多い原因は加齢である。高齢者が増加することでがんも増えるため、ふせぎようがない。禁酒・禁煙、野菜を食べる、塩分を控えるなどの養生法は山ほどあり、危険性がへるというデータもあるが半減さえしない。がんだけでなく、この世にはふせぎようのない病気や、原因もわからず突然発症する病気もある。さらに病気だけではなく事故など加えた死者総数は昨年の統計で130万人を超えた。

あなたの生命や健康は、思うようにはコントロールすることができない

命や健康は偶然に左右され、人が亡くなる本当の理由もわからない。例えば「がんが全身に転移して死亡」と一見明確な説明がついたとしても、なぜ全身に転移したのか、なぜその患者さんがそのようながんになったのかなど、現代科学でも根本的には分からない。そのため宗教や運命論などにその回答を求めようとする人もいる。人の死をたくさん見てきた著者はどう死にたいと思っているのか。

  • 肝臓のがんや肝硬変などで、肝不全になって逝く
  • 事故で一瞬にして逝く

どちらも苦しまず旅立てるからだという。いわゆる「ピンピンコロリ」願望だが、私はこういった死に方だけはしたくない。痛みはコントロールできる、痛みに耐えてでも旅立ちの準備を整え、近親者や友人にはお別れのことばを残したい。多くの人々は笑いながらピンピンコロリで死にたいというが、残された近親者の混乱を考えると、ピンピンコロリで死ぬためには天涯孤独でなければならない。がんで死ぬのが一番いいという医者もいるので、それぞれ死に方に思いがある。

死や病気に接することで、人は健康観や死生観を醸成する。その観念は他人とどこまで共有できるだろうか、言葉を尽くしても伝わらず伝わったかに見えてもどこかで乖離し、他人とは共有できない個人特有のものだ。終末期医療で「癒されて最後を迎えた」、等の麗しい話を見受けるが、死にゆく人の思いやりで、家族や治療家自身が癒されているのではないか。死して戻ってきた人は一人もいないので真実はわからない。「眠くなったから寝よう」、くらいの思いで1日は終わり、同じく生も終わるのではないか。死ねば記憶は消滅し、短命も長命もなく、過去も未来もない。29歳で刑死した吉田松陰のことばだ。

十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。

 

 
 

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