【今月のコラム】
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効かない!?漢方薬Q&A 高橋晄正 ラジオ技術社 |
| 1976年に41処方54品目の漢方薬が保険収載され漢方ブームが始まる。80年頃は「漢方薬は副作用もなく西洋医学が治せないものまで治す」と言われ、漢方の専門家もそのように公言して憚らなかった。当時、新薬の開発に携る薬学者と知遇を得て、漢方に話が及んだ。「漢方にEvidenceはない」と一蹴され、その意味が呑み込めないまま薬局を開き、薬草や漢方薬の販売を始めた。それまでEvidenceの意味を深く理解することはなかったが、その時初めてEvidenceの何たるかを知る。1990年代にいよいよEBM(Evidence
Based Medicine)の潮流が巻き起こり、Evidenceが本格的に語られるようになった。漢方薬Q&Aの初版は1990年でEvidenceの先駆けとなる。著者は本書より20年前の1969年、「漢方の認識」という著書で鍼灸と漢方薬のEvidenceを問うている。漢方で生計を立てる専門家にとっては耳の痛い内容だが、著者は漢方の専門家でもあり漢方を科学した先駆者だ。開業して間もない頃、この本に触れそれ以来、効くのか効かないのか本当に治ったのか自問自答しながら仕事が続く。 漢方は薬価収載以前、代替医療の一分科であったが、保険が適用され西洋医学の病院でも使われるようになる。明治維新に西洋医学の試験に合格した者だけに医師免許を与えるとされ、医師の資格がなければ医業は許されなかった。しかし、医師や鍼灸、薬系の漢方家の伝承により命脈を保つ。その間、生薬や漢方薬は一般薬として流通するが許可基準は保険薬ほど厳密なものではなかった。1976年、漢方に熱心な医師たちの政治活動等が実り保険薬に収載された。西洋薬の薬効再評価の動きのさなか、2000年も使われ続けてきた漢方薬は薬効も安全性も問題なし、という超法規的解釈で医療現場に登場した。次々に処方が追加され150種ほどに増えるが、使用量は全医薬品の1〜2%ほどしかない。生薬は100種は必要だが、処方は150種も要らず、せいぜい30〜50種で足りるだろう。そのためには300種くらいの処方と400種くらいの生薬を学ぶ必要がある。古代医療は中国だけでなく各地域で発生し衰退していくが、なぜ現代まで中国古代医学が生き残ったのか。
精緻な解剖学の確立が外科の発展を促し、細菌に対する消毒薬や手術における麻酔薬の発見により、ヨーロッパでは19世紀に古代医療は消滅した。1800年頃には化学反応論が確立し、その50年後には解熱鎮痛薬などの合成医薬品の時代に入る。伝承や古文書に基づく本草学より、合成医薬品の効果のほうが確実性があり、古代医療は次第に衰退していく。代替医療としてインド、チベットなどの古代医学が残っているが、漢方と同じく、それで間に合う範囲内での活用だ。
科学では現時点で確定した理論だけが裏付けとなる。古代人が認識した当時の理論は科学の発展とともに是正されてきた。物質が分子で構成され原子や陽子、中性子があるなど想像さえしなかった。古くは自然や現象の観察から人体へ敷衍し、気・血・水の要素を陰・陽に分類し、さらに五臓に配当することで「臓腑論」を構築するが、現代医学の解剖・生理・生化学に比すべくもなく稚拙だ。実体を理解しない「妄想」の産物といえなくもない。漢方では脳・神経系の認識が欠落しているが、注目すべきはそれを心臓や肝臓に持たせている。最近の研究では、考える臓器として「腸」が第二の「脳」とも言われ、将来は心臓、肝臓が第三・第四の脳といわれる可能性がある。解剖学や生理学の研究から実体を伴う打診法や聴診法が生まれた。観察と思弁による漢方の病邪論に対し、西洋医学では代謝、ホルモン、ビタミン、細菌、出血、変性、腫瘍などの実証的病理学が確立した。漢方は四診(望・聞・問・切)といい、切診で患者に触れ脈診、腹診などおこなうが、その結果がどんな病態なのか経験との対比と思弁に頼り、たまたま観察と治癒が一致したことを証拠にしてしまう。これが治療家毎に様々な診断と治療の流儀を生み対立も起こる。現在では西洋医学の知識を頼りに説明を試みる漢方家もいるが、整合性の取れないことが多い。漢方は証とされる症状に対して処方し、症状が改善すれば方法はどうであれ「それで良し」とする。
漢方家の医案集に記されているものは「使った、治った、効いた」の羅列で、少しばかり漢方理論や西洋医学の解説を加味する。漢方理論も流派によって異なり、混然として普遍的な見解に辿り着かない。実験・実証による近代科学としての発展の契機を失い古代医療文化のまま運用される。効いた症例の中には自然治癒や心理効果が影響し治療の真の効果を錯覚・攪乱させる可能性がある。東洋思想はタオともいう道教を源流とし、多面的機能を持つ要素が互いに複雑に絡まり、矛盾なく完結する。陰陽が共存・消長し、曖昧さゆえ多様な説明が成り立つ。五行論は五角形がそのまま森羅万象や宇宙を意味し、相生・相克の概念で矛盾の余地を残さない。この思想体系のもとでは矛盾を突破口として新しい思想や科学の成立が難しく、このことはヨーロッパで科学が発展した反証にもなる。 漢方・鍼灸の思想は古代中国の自然観を基礎としているため古典の学習が欠かせない。陰・陽という大概念に表・裏、寒・熱、虚・実が配当され八綱といい、8×8で64の事象が生まれる。「あたるも八卦..」の易占いと同じもので、いまでも八綱だけを発展させ実践する流派がある。さらに病因や臓腑を関連づけると、より詳細な説明が可能になるが、迷宮も待ち構える。症状を「証」として処方を決定する日本漢方に対し、中医では病理・病機を挟んで治法を決定する。弁証論治といい、中医派は一段階の思考を経るため対症療法ではないと自負する。いずれの漢方理論も古典と経験を基にする限り曖昧さの回避は難しい。
気・血・水の血について、「於血・血於」は漢方の捨てがたい特性だと思っているが、於血の症候を一元化するには問題がある。打撲・捻挫などの外傷、心臓・脳血管障害による内出血、血液の停滞による肝腫・脾腫、証として把握する小腹急結、顔色、舌色、肌膚甲錯、クモ状血管腫、譫妄、狂騒など病態生理学的に全く異なるものまで於血でまとめることはできない。血行障害というコトバは西洋医学でも他の代替医療でも病因として説明しやすく簡便に使われるが治療は特段優れたものがなく、漢方のほうに特性と利点がある。
新薬の許可に際し、1970年代後半から二重盲検法が要求されるようになった。本書に先立ち著者が1969年に出版した「漢方の認識」において、二重盲検法で漢方を評価したのは画期的なことだ。1992年からはイギリスでコクラン計画がスタートし、信頼できる研究を集めて評価するようになる。本書の出版が1990年で、二重盲検法より上位のEvidenceまでは及ばなかった。コンピューターの発達でより高いEvidenceが得られるようになるが、費用も時間もかかる。また、高次のEvidenceを集めてどれを採用するか新たなバイアスも懸念される。漢方家や利用者は漢方に有利で、批判的な人は不利な情報をとるだろう。コクラン計画の基礎となる二重盲検法での漢方の評価は意義深い。
西洋医学で不定愁訴、更年期障害、自律神経失調症などの診断は病気の実態が不明で医者が便宜的につける。したがって明確な治療法がなく症状に対処する薬を処方する。この領域に漢方薬の出番が期待される。 1)肝うつ、2)気虚、3)血虚、4)陰虚、5)水滞、6)心脾両虚、7)陽虚、これらの中医の「証」に西洋医学で見られた61の症状を配当していく。
上記に若干の修正を加えることで中医学の「証」への対応が可能だ。漢方処方は「証」対しての適用が整っており、治療に直結し体調を見ながらフィードバックも可能だ。「証」との対応の結果が有効か否かは二重盲検法での検証を待つ。本書では17種の病気や症状について考察している。
他に西洋薬とほぼ同じかわずかに良いといえるのが急性胃炎、糖尿病に伴う諸症状、過敏性腸症候群。慢性肝炎によく使われるが酵素系には効いているように見えるが、タンパク質系には無効で悪化の場合もある。効きそうで十分なデータが得られていないものに、カゼ、慢性関節リウマチ、起立性調節機能障害、痛み止め、老人の免疫機能改善、アレルギー体質改善がある。漢方家にとっては不本意な結果で、「漢方は証に随って使えば効く」との議論も出てくる。そこで不定愁訴症候群と診断された264人について陰・陽、虚・実の「証」に分け、二重目かくし法で片方に証に合う漢方薬を、対照群には1/10量の漢方薬を2週間処方した。その後2週間方剤を交差させ結果を観察した。
証に随っても随わなくても変わらないのであれば、一般人が症状だけで漢方を選ぶことの朗報ともなり、専門家との差異が問われる。本書から10年を経て出版された「EBM漢方 寺沢捷年・喜多敏明編集」ではA〜Eまでランク付けし百分率でEvidenceが示されている。まだコクラン計画の評価までは至っていないが、高橋晄正氏の頃より希望の持てる数字がでている。高橋氏は新薬も含め薬を用いることに慎重なスタンスのため、漢方にも厳しいバイアスがかかるのかも知れない。
漢方薬が効かないときの処方の誤りを「誤治」といい、症状は方剤の変更で改善する。「誤治」を認めない漢方家もいるが、「誤治」と関係なく効かない漢方薬は多い。効かないならまだしも症状の悪化が起こることがある。副作用はないと考えられていた頃は「瞑眩」といい、回復に向かうときに起きる一過性の現象とされた。漢方薬局・クリニック等のサイトを閲覧すると旧態依然とこれを歓迎する記述がみられる。瞑眩との遭遇はまれで、副作用や薬害を糊塗する用語ともいえる。1996年、慢性肝炎に処方された小柴胡湯による間質性肺炎で10人の死亡が確認された。漢方の安全神話は崩壊し、これを機に副作用の認識と警戒が高まっていく。
生薬は多種の成分からなり未確認・未解明のものが多く、薬効成分にもその他の成分にも副作用やアレルギーの原因となる物質を含む。多くの方剤で食欲不振、発疹、発赤、かゆみなどの報告がある。人参や甘草による浮腫、甘草は1日7.5g以上の服用に注意が喚起される。麻黄は動悸と不眠の副作用が知られ、心疾患の人や就寝前の服用は避ける。下剤として処方された大黄での下痢や腹痛はしばしば起こる。下剤は分量に個人差があり、通常の量で効かない人と効きすぎる人があり、一律に規定量を配合した製剤では加減が難しい。生薬の副作用では肝障害、腸間膜静脈硬化症など報告されている。例えば肝臓の薬として健康食品に広く利用されるウコンは逆に肝臓に悪影響を及ぼす報告もあるが、助言しても頑なに飲用する人がいる。薬草は少量とはいえ多種の化合物を含み、肝臓を通して代謝されるため、肝臓に負荷をかける。薬味数の多い中医薬や後世方の処方、漢方家が信念で多種・大量に処方する方剤は百害あって一利なしと断言する。服用量や回数、分量、薬味数を減らすことは肝臓や胃腸、その他の臓器の負担を軽減し副作用の予防になる。今の医療には体に負荷をかけるものが多く、治療をしないことが良い治療であることが多々ある。
漢方家からは、「漢方は東洋思想に則った独特の医学体系であり、二重盲検という西洋医学の方法には馴染まず、解明できない」との異論が発せられる。西洋医学も古代においては体液説など漢方と類似した体系であり、科学の進展とともに解剖学、生理学、細菌学の知識が加わり現在の診断や治療が確立した。戦前までは西洋医学の「症状」と漢方の「証」は薬を選択する手段として相違はなかった。その後、西洋医学は理化学的検査で数値や画像という診断技術を獲得した。漢方はいまだ古代思想の門徒のごとく経典を崇める。東洋医学のいう有効性や独自性は、自然治癒と心理効果の中にある。漢方が専門性と技量を主張する「証」は、症状を集めた症候群であり、漢方家の識見で異なる。それを基に陰陽の判断から臓腑弁証さらに論治に至る過程は哲学のようでもあるが、技術は西洋医学の診断に比すべくもない。では、漢方に利益も希望もないのか。
漢方が得意とする分野は西洋医学で診断のつかない不定愁訴とされる。漢方家はさらに広い領域の効果を主張するが、彼らが言うほど広くはなく限定的だ。漢方が占める医療費の割合は1〜2%ほど、効果もこれくらいで多くて5%。今後伸びるとは考えられない。しかし、病気の起源をビタミンやホルモンのアンバランス、自律神経失調、神経症、炎症、変性、増殖などに大別すると、症状から類推される「証」は臨床検査のデータと対応可能であり有効な治療法の発見になる。漢方の副作用は7〜8%くらいと推定され重い骨髄障害、神経障害、アナフィラキシーショックなどが少ないのは利点だ。本書の出版当時は間質性肺炎、肝障害、腸間膜静脈硬化症等の重篤な副作用は知られておらず、今後の注意と警戒は必要だ。多成分の生薬は使用目的が異なると主作用以外のものは副作用になる。 EBMと同じく1990年代に提唱された概念でNBM(Narrative Based Medicine)がある。EBMを補完するもので、データ主導で、ともすると冷徹で心を置き忘れる医療を戒めるものだ。NBMとは「物語と対話に基づく医療」とも言われ、患者が語る「物語」を手掛かりに患者の背景や人間関係、生活環境を考慮した医療である。真のEvidenceを得るため捨象された自然治癒力や心理作用の部分だ。症状を聞き取り、長時間の対話を是とする漢方であれば問診を通して自然治癒力を促すかも知れない。細胞やホルモンや神経や免疫等の専門的な説明より、血流障害、水分の停滞、気の巡りなど漢方の概念で語る方が理解が容易で癒しのイメージを喚起するだろう。真の効果ではないとして、心理効果や自然治癒を軽んじてはならない。それを生かすことができるなら漢方や代替医療、西洋医学への活用が可能だ。 漢方処方は生薬が多数配合されるため、Evidenceを明らかにすることは困難を極める。しかし、個々の生薬については成分、化学構造、薬理が明らかなものがある。生薬から単離されたいくつもの成分は確かな薬効を示し、新薬のモデルとなったものもある。未知の領域が広い生薬だからこそ、「使った、効いた」から自然治癒と心理効果を篩い分け「真の薬効」に辿り着く可能性がある。漢方や他の代替医療、そして西洋医学でさえ、正しいEvidenceで診療を行なってはおらず、Evidenceがあってもなくても「治った」という実感や経験こそ薬や治療を続ける希望だ。Evidenceというコトバが脳裏をよぎるとき「使った 治った」だけではダメ、というフィードバックが起こり、「効いた」というEvidenceへの道のりは哲学者ソクラテスのいう「無知の知」であり、自らの無知を知ることが真の認識へ至る道である。 |