【今月のコラム】


【石 斛】

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健康禍 P.シュクラバーネク 大脇幸志郎 訳 生活の医療社

「人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭」という副題が付されている。普遍的知識や思想に対して、少数ながら批判や対項の言動は必ず生じ、「斜めに見る」という形容もされる。しかし、耳を傾けると常識は意外にもろく根拠が薄かったり、逆に常識の深淵を見ることもある。健康というイデオロギーは幸福や自由という価値を掲げ、政治や商業主義に利用されてきた。いまコロナ禍で国家の思惑に沿って国民が動きだしたのではないか。健康のため、家族や友人のため、国民皆のためといった言説が受け入れ易くなった。

健康の追及は不健康の症状である。健康の追及が個人の切望にとどまらず国家のイデオロギーの一部となるとき、つまり健康主義(healthism)が醸成されるとき、健康の追及は政治的な病の症状となる。

国から発せられる健康情報は膨大なもので学者、メディアが科学と善意をまとって旗を振る。健康的生活習慣という目標のため国家が情報や教育を提供し規範と生活の実践を求める。人間の活動を良いものと悪いもの、健康なものと不健康なもの、指示されたものと禁じられたもの、責任あるものと無責任なものに二分し、ついには差別や隔離まで行きつく。なんの問題もなく生活している者に検査を受けさせ数値だけで投薬や入院を促す。検査の網にかかった健康人を集めて医療を施す。これを止めれば病棟も空き、医療者は本来必要なものに力を注ぐことができる。不健康の烙印を押された健康人に対して食や不健康な生活習慣をあげつらい、健康管理が道徳的で公共の責務だという。定期的に検診を促す通知が届く、受けないと脅迫するかのように善意の再通知。健康主義は非宗教化した社会で心の隙間を埋めるイデオロギーとなり、幅広い支持を得ている。目下の関心事に「健康管理」を挙げる人は多く、食やサプリメント、医療情報を求め、安心をくれる治療家を探す。

医師が癒すことはほとんどないか、まったくない。我々は生理作用を変え、炎症を止め、組織を取り除く。しかしいくつかの感染症と欠乏症を除けば、原状回復という意味での治癒は、あるとしてもごくわずかだ。

健康は目に見えない商品で誰にとっても必要なため、売りやすくどんな対価を要求しても受け入れやすい。健康サービスが複雑になるにつれ医師と患者の間に第三者が割り込む。ヘルスケアを謳う健康産業の台頭だ。洗練された宣伝技術と独占状態の相乗効果で健康消費者の移り気に対処し、安定した利益を確保する。健康のための製品やサービスは無数にあり、ジョギングひとつをとってもシューズ、ランニングスーツ、歩数計、心拍計、家の鍵を留めておくリストバンド、夜走るときの反射板等々。市場拡大のため、健康だと感じていることと健康であることは同じではないといい、健康な消費者を不安に誘い込む。顧客のニーズより健康産業や専門家自身のニーズを優先する企業官僚主義を敷く。医療の進歩に逆行し、病人が増える要因の一つだ。歳をとれば人は死ぬという覚悟がないと死の恐怖に駆られ、健康つくり論者が利得と権力を得る。

人間は健康という概念を「ものごとの個人的、社会的、または世界的に理想的な状態を指す約束事」として使う必要がある。かつて医学と魔術的宗教的儀式はひとつの世界観の中に溶け込んでいた。その体系は健康、病気、強さ、多産、不死を説明した。

現代医学は宗教とは無縁であるが、健康については宗教性が残り、疑似宗教的で、精神や文化的視点が欠かせない。心を扱うターミナルケアは宗教や心理学などの協力が不可欠だ。宗教や信仰文化の衰退で死の恐怖症がはびこり、健康な人は病気の早期発見と健康管理に取り組めば死を追い払うことができると信じ、病人は医師に希望を託す。医師に任せておけば病は癒え、死はいつまでも先延ばしできる。太古の昔から人は死を恐れ、不死を求め魔法や祈り、食事や薬に関心を示した。現代の健康論者は生活習慣という用語を生み出した。食事や運動、日々の行動や身の回りの危険因子を避け減らすため、指標としての健康診断を欠かすな。

1986年に、欧州委員会の委託による研究は、すべてのがん死亡のうち3分の1は喫煙に、3分の1は飲酒を含めて食事に、残りの3分の1は他の因子によることを報告した。他の因子とは、性・生殖行為、職業活動などである。

3つの行為を避けるとがんにかからない、がんは不健康な行動で起こる自己責任ともとれる。3つは人々の愉しみ、嗜好ともいうべきもので、健康論者は極度に禁欲的養生や守らないことの罪意識を煽る。ここに独特の教義を掲げる食や養生の集団もしくは教団が生まれる。穀物や野菜、果物は良いが肉など脂質の多いものは好ましくない。医学はそのための指標としてコレステロールや飽和脂肪酸の検査へと導く。1930〜40年代、高脂肪食は医学の専門家が健康食として勧めるものであった。1950年頃から乳脂肪や肉が心臓病の原因と疑われだした。しかし、最近では再び脂肪を評価する動きがみられる。

1970年頃から専門家による反コレステロール運動が始まり、成人のみならず乳児や妊婦、高齢者も対象とした。細かなガイドラインを発行し、すべての食物が「いいもの」と「悪いもの」に健康と不健康に分けられた。バター、チーズ、牛乳、卵、牛肉など栄養になる食物を排除することで寿命が延びる証拠はどこにもなかった。それでも飽き足らず数値を下げるために、新薬を処方する医療サービスが根付いた。

食事キャンペーンが国民全体のコレステロール値に少しでも影響したであろうか?国民食事調査の結果によると、イギリス人は卵を食べなくなり、バターは10年前の半分になり、砂糖も減り、低脂肪乳を飲むようになり、多価不飽和脂肪酸の割合は増えた。洗脳されてご苦労なことだが、それでも全人口平均の血漿コレステロール値は同じだった。

発展途上国では人口過剰、飢餓、貧困、飢饉、戦争にさらされているのにWHOは健康主義者が唱える「賢い食事」を全世界に広げるべきだという。WHOの提言は科学的でも現実的でもなく「健康ファシズム」に等しい。飢餓を癒すものがベジタリアン食でないことは常識で分かる。少量でも牛乳や卵、肉が必要であることは論を待たない。食を始めとし、がん死の因子とされた煙草、酒、性など、健康主義者や国家は科学的根拠を欠く提言をまとめあげ、それを元に支配体制を築く。国家にとって社会管理は非常に重要で、そのため医学の専門家と協力関係もしくは支配関係に置くことに腐心する。

医師は使命感にあふれ人々の病と対峙し健康に寄与する。一方、国家も及ばない絶対的な権力もそなえ、ときに政治や経済、司法など体制管理の担い手でもある。患者について雇用に足るかどうか、結婚や出産、死ぬことやその時期について、犯罪については医師の判断が刑の有無を分かつ。こういった医学判断は政治的に中立で科学に沿ったものでなければならないが、危険も胚胎する。医師は権威主義的判断を下し、管理・監視の絶大な権力を持つ。ハンセン病の隔離や強制不妊手術など医師が国の手先となった例はいくつもある。

健康診断の目的は、病気を防いで命を延ばすというものであって、一見善意から出ている。だからこそ特に危険なのだ。健康診断のより不吉な側面が気づかれないままになるのだから。大勢の健康な人を対象に健康診断をすることで悪い結果のリスクを減らせたという証拠はない。

健康診断の不吉な側面として検査結果が差別に結びついた例はいくつもある。雇用、医学的ケア、医療保険、社会的評価の低下など、検査によって発見されるのは曖昧な危険因子であって病気ではない。しかし、病気もしくは病気予備軍、健康ではない等の烙印が押される。健康は権力や奴隷化とは無縁に思われるが、「健康」の名のもとに国家権力が人々の自由を侵略する恐れがある。人々がその脅威を感じないうちに、説得力や権威をもつ専門家と結びつき利用を謀る。邪魔な専門家は権力で威圧する。例えば、日本学術会議任命拒否という前代未聞の問題は政権の脅威を学者に見せつけ、萎縮する学者がいるかも知れない。人々の意識や行動をコントロールする目的は少数の者たちの権力と冨の独占だ。もし武器を持つ少数者が権力を握れば、ミヤンマーのように明日から命は軽く扱われ、暴力や殺戮にさられる。著者は序章で、この本は医学の本ではなく、医学の理想の曲解についての本だと言いつつ、それでも理性的な核を持つ医学は西洋医学しかないと記している。

 

 
 

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