【今月のコラム】


【山茱萸】

身体知性 佐藤友亮 朝日選書

ものごとを知り、考え、判断する能力を知性といい、人の3つの属性である知情意の1つだ。日常生活は知情意が混在し境界も実態も曖昧だが、西洋医学では基本姿勢として自然科学の知を重視する。東洋医学や代替医療は科学を語り利用するものの、科学の俎上に乗せ十分な検証がなされたものは少ない。

西洋医学は、分析を通して「分かったこと」と「分からないこと」を明確に分けます。そして西洋医学は、「分かったこと」が何なのかを曖昧にさせないために、使用する言葉の定義を厳密にしています。また安易な推論によって断定することを避ける傾向があり、言葉の選び方が慎重です。西洋医学が持つ、語義と言葉選びへの厳しい態度は、西洋医学の言葉遣いと、患者(非医療者)の生活する一般社会の言葉遣いとの間に、見えない壁を作っています。

西洋医学のすべてが明不明をはっきり分け、定義を厳密にしているのではない。これは理想であって誰もが厳しい態度で臨むことはできない。分からないことの多い医療において、「分からない」で済めばいいが、患者は納得しない。ありたけの知識を動員して平明かつ医学常識を逸脱しない説明が必要になる。それに比べ代替医療の治療家は気や経絡、波動や背骨の歪みに原因のすべてを求め、「西洋医学とは違った体系でやっている」とさえ言えば事足りる。

目の前の患者に対して二種類の「分からないこと」がある。科学的に分析し理解できないことと、予測が不可能ということだ。そのうえで医師は過去の臨床経験や臨床研究から、患者の状態や予後を説明しなければならない。

端的に言うと西洋医学は分析性の隙間を、生身の人間としての医師の存在、あるいは、医師の身体性によって埋めているのです。

科学的分析に基づく医学的判断は普遍性と再現性を有し、どの医師が診ても同じ判断を確実に行う。しかし医療現場の臨床判断は科学的分析だけでは太刀打ちできない。そこで一個人としての医師の身体性が需要になる。著者のいう「身体性」とは医師の経験や感情という個別の歴史のことだ。西洋医学は科学的分析とともに経験に基づく実践法が複雑に絡み合う体系であり、医師は身体の中に詰め込んだ医学的スキルを駆使して医学的判断を積み重ねる。

臨床現場における医師の思考や判断は、病歴、身体所見、血液検査などを組み合わせて瞬時に行うパターン認識だという。経験に基ずく「近道思考」と言いかえてよい。熟達した職人や料理人、あるいは芸術家の仕事にも似ている。昔、昭和漢方を代表する名医の勉強会に出席したが、「漢方はアートだ!」と熱く語られた。初学者の私にとっては神のごとき存在であったが、トイレ休憩のとき偶然並んで用を足すことになった。「きょうは寒いね」と声をかけられ、神様も小便をするのかと妙に安心したことを思い出した。近道思考では分析と判断の間にショートカットが起り、早い決断には便利であるが慣れると分析に基づく論理的思考が疎かになる。近道思考のリスクを回避するには自覚的な臨床判断を心がけ高位から俯瞰するように観察・認識する。これはソクラテスが賢者の思考とした「無知の知」というメタ認識に通じる。

東洋医学は科学的背景が乏しいため、名医をして「漢方はアートだ」と言わしむるほど身体感覚を重視する。気や経絡という独自の物語を持ち、体を観察し病気の診断・治療を行う。たとえば西洋医学による腹診は皮膚の下に収まる臓器の状態を、医師の頭の中にある解剖学的知識と照らし合わせ臓器の状態を分析するが、東洋医学では臓器と病態を全人的に把握する。

西洋医学的な立場だけに立って、「東洋医学は、科学的に証明されていないことを行う乱暴な医学だ」というような批判をするのはお門違いでしょう。西洋医学も、分析が十分には及ばない疾患に対して、絨毯爆撃のように全身に抗がん剤を投与したり、役に立たなくなった臓器を他人のものに換えたりと、ものの見方にによっては十分に乱暴な医学なのです。

著者は合気道を通し、武道と医療における身体感覚の意義を語る。多くの武道には段位があり、精神性も含めた熟達度の指標となる。段位の高低にも関わらず、修練を積んでも、快心の技が発揮できるとは限らない。人によって時によって相手によって、とうとう納得の技を繰り出せないまま終わることもある。武道は精神性が重視され、とくに合気道は他の武道と異なり試合を行わない。心法武術といい、心のコントロールがパフォーマンスの質を高めると考える。外部刺激に反応した身体が中枢的命令を介さず、自律的に動くことを非中枢的身体といい、この境地に達するように稽古を積む。

荘子の寓話に庖丁という料理人の話がある。梁の文恵君のために牛の解体を行ったところ、庖丁は舞う如く牛刀を振るい、牛は曲を奏でるかのごとく音を立てた。これに感動した文恵君が技の巧みさを讃えると、庖丁は牛刀を置いて答えた。「私がやっていることは道というものであって技よりも一歩進んだものです。解体を始めたころは牛の姿が目についていましたが、3年すると牛の姿が目につかなくなりました。いまでは心を以て牛に向かい、目で見ることを致しません。手足は自然に動き、すべての動作を心にまかせています」 。これに似た寓話は春秋左氏伝の「病入膏肓」や史記の「扁鵲」にもみられ、「技は頭で習って覚えるのではなく、体得せよ」という教訓の原典だと考えられ、著者は「非中枢的身体」という。

私は、臨床医として過ごしている間に、漢方などの東洋医学を先入観だけで否定する医師たちに何度か出会いました。現在では進行がんの診療などの場面において、漢方や鍼灸といった「補完医療」が重視されるようになっていますから、かつてのように、東洋医学を先入観だけで否定する医師はあまり見かけなくなりました。

私はもっと違った身体論を期待して本書を読み進んだが、医療者の心身のコンディショニングに注意を払うことの意義が論点だった。再認識はできたが、分かりきったことを難しく回りくどく繰り返し聞かされてしまった。技は盗め、経験を積め、体で覚えよ..など、あらゆる職種に普遍的に語られることで、ことさら科学と対置して論じることだろうか。一歩先を歩く先輩のアドバイス、有り難く拝聴致しました。

私が期待した身体論というのは、いままで脳が体をコントロールする中枢と考えられてきたが、最近、肝臓や腎臓、胃腸など臓器が脳をコントロールするのではないかとの報告を耳にする。東洋医学の五行説で語られる仮説と錯誤しかねないが、興味は尽きない。

代替医療が科学らしき装いで語る理論がある。ホログラムといい、部分に全身の縮図があると考える。東洋医学の腹診では腹部に全身が表象されるとして、丹念に按圧し、全身の情報を得る。虹彩にこれを求める虹彩診断、手掌や足裏、耳、指..あらゆる身体パーツに全身の情報があるとして診断・治療をおこなう。脈拍や指、腕の力で診断する方法もこれに列伍する。理屈は難解なので、「こんな説があるらしい」くらいの説明しかできない。診断が終われば、その部分を刺激して全身を治す。耳針、足裏マッサージ、珍しいのでは生きた蜜蜂の針でツボを刺す治療もある。代替医療の根拠というのは怪しさに満ちている。無計画な疫学のようなもので、使った治ったの数をカウントするだけで真の効果など闇の中だ。経験による身体感覚、身体知性では済まされないが、済ましているのが現状だ。

 

 
 

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