【食と文化(3)】


食は時代と共に変容していくが、江戸末期までの食はさほどの変化もなく延々と継続してきた。それまでの食は1日2回で、午後3時頃(八つ時)に間食の習慣があった。これが「おやつ」の由来と言われている。現在のように3食になったのは明治以降である。とはいえ、一般家庭の食生活に劇的な変化があったわけではない。農業を営み、自ら食べるものを自ら生産しそれを食卓へ供するなら、変化のありようがない。職業の多様化、分業化によって農から離れると、やがて金銭と「食」を交換するようになる。国内であれば、まだ日本の食材から遠く離れることはない。大きく変わったのは戦後の事だ。食糧の絶対量が不足すれば、どこからか持ち込まねばならない。持ち込みが増加を続けるとその食材に基づいた、新たな食生活が定着を始める。時代の変遷と共に食は工業化され分業化され、暮らしも農を中心としたものから、商工業、金融などを中心としたものへと変容する。

食を扱う学問は栄養学であるが、長期間の経験済みの伝統食から学ぶこともひとつの方法である。飢餓や食の変化を超えてヒトという種が生き延びた事実は栄養学より重い。栄養学を満たしていればもっと良い食生活ができたかも知れない。しかし、栄養学は存在しなかったのだ。日本の伝統食は、米を中心に穀物・芋類で主食を、野菜、豆類、魚などを副食とした。現在の主要食材である乳製品や卵、鳥獣の肉類が常時食卓に上ることはなかった。

次の表は一般家庭でのある1日の献立である。戦前、終戦直後、そしてやっと必要なカロリーを賄えるようになった頃をあげている。

 

昭和2(1927)年頃

ご飯・みそ汁・ヒジキ煮・かぶ・京菜浅漬け
ご飯・高野豆腐・ゆば・しいたけ煮物・ネギとアサリのみそ汁
ハムライス・切干大根漬け・すまし汁・昆布佃煮・梅干
間食 みかん・クッキー

昭和20(1945)年頃

雑穀雑炊・大根おろし・小松菜
だんご・芋・春菊
豆スープ・明日葉・大根漬け
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昭和38(1963)年頃

ご飯・みそ汁・納豆・たくあん
ご飯・コロッケ・ポークビンーンズ・たくあん
ご飯・鱒塩焼き・なす焼き・たくあん
みかん

(昭和の食より抜粋)

戦後、きわめて食糧事情の悪かった頃は、まず食糧の増産こそ至上課題であった。増産に増産を重ね、昭和30年代に米の生産は歴史的な最高量まで達し、昭和37(1962)年には、米の一人当たりの年間消費量が過去最大、117kgになった。そこから徐々に減少し昭和の終わり頃には70kg程度まで落ち込んだ。米に代わってパンが主食を制圧した訳ではない。確かにパンの普及はめざましいものであったが、お菓子やおやつの延長または忙しい朝の代用食として食べられてきた。米の消費減少は、おかず(副食)の増加によるところが大きい。豊かになったとはいえ胃袋が倍になるはずもなく、食卓に上る魅力的な副食を食べるうちに主食である米の行き場所がなくなってしまった。また、蛋白質の摂取を促す時代の潮流に乗り、健康であるためには副食をしっかり食べようという栄養指導にかりたてられた。副食の増加はゆっくりと享楽的な食へと変容していく。やがて蛋白や脂肪の摂取量が必要量を超え始める。健康を維持するための限度を超えるようになると「生活習慣病予防」というキーワードでさらに何かを食べることで健康を維持しようする。生存の為の食から、飢餓や飢餓の危機を忘れた食生活に変貌する。

四季のある日本は古来から豊富な食材に恵まれていたが、主食の量を超える肉類を常時供給できるものではなかった。鳥獣肉を食べた記録はあるが、現在と同じように賄うには到底不可能なことである。戦後、食に余裕が生じ始めると世界中の食が集められ、時には日本風にアレンジされ、日本の食文化に溶け込むかのように感じられた。食材の多様性は健康を排除するものではなく、望ましいことであるが、その量と比率には考慮を要する。日本の食文化の利点は食材ではなく、その摂取比率にあるのだ。ついに主食と副食の比率は逆転する。享楽的な食の誘惑に歯止めをかけるのは経済的な要因以外にはない。健康や病気への不安も要因にはなりうるが、金銭に余裕があれば健康さえも買えるような錯覚に陥る。ヘルシー、ナチュラルなどと宣伝されるものを食べたり、薬や健康食品に頼るようになる。しかし、これは本質的解決にはならない。

食材を揃え、家庭で調理をすることは伝統食への回帰の糸口になる。コンビニ食や外食の回数が増えてくると、蛋白質や油脂の比率が上がり、主食の割合は減少する。ついでに本来必要のない添加物まで摂取しなくてはならない。自然食やスローフードを謳っていても外食に変わりはない。一工夫された料理店でつかの間の健康を感じ満足するなら、時にはそれも悪くはないが、基本は延々と日々食べ続ける「ありふれた食」によって為されなければならない。

 

年 代

食を巡る出来事

社会の出来事

S20(1945) 戦後の飢餓時代 東京大空襲・原爆投下
S25(1950) 小学校でパン給食 朝鮮戦争
S29(1954) 魚肉ソーセージ・電気トースター NHK・民放・テレビ放送開始
S33(1958) 日清チキンラーメン テレビ受信契約台数100万台突破
S35(1960) 味の素・核酸系調味料・インスタントコーヒー  
S38(1963) 加工食品 スーパーマーケットの急増
S40(1965) レトルト食品・大豆蛋白食品 東京オリンピック-S39(1964)
S46(1971) カップヌードル・冷凍食品・マクドナルド1号店 ドルショック
S49(1974) コンビニエンスストア(セブンイレブン)  
S51(1976) LL・低脂肪牛乳 ロッキード事件
S54(1979) 豆乳・ダイエット食品 東京サミット
S55(1980) 低塩醤油・スポーツドリンク  
S59(1984) アミノ酸系甘味料・チューハイ  
S61(1986) 宅配ピザ・バイオ野菜・激辛食品 チェルノブイリ原発事故
S63(1988) 食物繊維・ミネラルウォ−ター ソウルオリンピック・青函トンネル

(昭和の食より抜粋)

飢餓時代からの流れを俯瞰すると食の工業化と分業化が見て取れる。ありふれた日常の食の中に加工食品や輸入食品が入りこむ。家庭での調理の分業化は外食産業を生み出す。ときに外食を楽しみ、弁当店を利用するようになった。昭和の終わりに外食産業は20兆円規模に成長し、外食費支出の全国平均は一世帯で年間15万円を突破した。全食費の10〜15%を占めることになる。外食では主食を重視することは少ない。最後に申し訳程度にご飯が出てきたり、ご飯があっても比率的に少なく副食と主食が逆転している。民俗学の用語でハレ(祝い)食というのは伝統食においても主食の量が少なく、蛋白、脂肪の比率は高い。外食はさしづめ現代のハレ食に値する。外食が頻繁になると、外食のスタイルが食卓にまで延長され、通常食との境を曖昧なものにしてしまう。レストランや料理店と同じ食材やメニューで日常食を楽しみ、主食が置き去りにされた食となる。2000年度の米消費量は64.6kgと、昭和30年代のほぼ半分になってしまった。

情報化時代と言われて久しいが、さらに加速しあらゆるものが自己主張を繰り広げる。その中でテレビや雑誌、そして料理店も含めた食の業界が新たな食文化を演出していく。食が贅沢になり楽しみが増えた分だけ、欲望という後戻りのできない苦の種を蒔くことになる。幼い頃の食の風景が鮮明なまでに浮かびあがる。みんなが貧乏だった時代を経て飢えが解消された。誰もが裕福になり、食もサービスも等しく享受できるようになった。そして人権も尊ばれ命の値段も上がった。しかし、貧しい弁当を隠すようにして食べた思いは戦後を過ごした人でないとわからない。その原体験こそ日常の食を物語るものである。

栄養士は不満を漏らすかも知れないが、長いあいだ食べ続けてきた食は優劣を超えて一定の実のある評価ができるのではないか。食材の調達から、調理法、作法など伝統食として培ってきたものは生存の知恵が凝縮している。日本人の多くが農を営み、貧しいなかから築き上げた伝統食の知恵に学ぶことは、次世代の存続に向けての有効な処方を示してくれるだろう。形だけのオーガニック、その場限りのスローフードから得るものは少ない。農の営みの感じられない食...手を汚さず汗を流さず継続しないものは伝統食とはいえない。

 

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