【雑記帳(医療)】


小さな漢方薬屋など、隙間産業のさらに泡沫みたいなものかも知れません。しかし
医療産業に関わっていることには違いない。思ったこと、感じたこと、話題などを書
き留める雑記帳です。

 

健康情報
薬副作用死
痴呆症薬効果なし
癌検診の有効性
天寿癌
X線診断の放射線

 


健康情報

書店で健康雑誌の幾つかを開くと、まさに多彩な健康情報が百花繚乱の趣である。テレビの健康番組もほぼ似たようなものである。これらの話の展開には一定のパターンがある。良くある病気や難病に使ってみたら驚くほどの効果があった。というものである。その理論的背景をどこかの大学病院や研究所の学者がコメントをする。簡単な実験もご披露する。学生アルバイトみたいな人を2群に分け、比較検討される。本当に作為のない実験であったとしても、結果を信頼することは出来ない。薬効の検定はもっと厳密かつ困難なものなのだ。

さて、こうして実証されると正に気持ちは期待へと向かう。どんな療法でも一定の効果がみられる人があるし、どんな薬でもなんらかの効果がみられる人が居る。それは必ずしも薬効や薬理作用と関係があるとは限らない。

テレビや活字の恐いところは、嘘も本当のように信じてしまうことである。メディアの情報で薬草を買いに見えられるかたは、どんなに説明してもテレビでやってたから、、とこちらの説明は聞いてくれない。今は、徒労に帰する説明はしないで、まずお客様の求められるものを渡すようにしている。

やはり、テレビで見たようには効かないのか、治ったのか、引き続き飲む人は殆どない。一週間ごとに紹介される次の薬草に移る人もある。健康などと考えないで、話題のネタ程度に考えて楽しんで飲んで行けば良いのかも知れない。しかし奇想天外、飲尿療法の時はさすがに驚いてしまった。一体こんな療法をどうすれば思いつくことができるのだろう?

言論の自由は保障されているとはいえ、あることないこと、嘘や作り話もある。情報の受け手である我々は、健康情報を流す人達の目的をはっきり認識しておかねばならない。言わずと知れている。雑誌なら雑誌が売れるように情報を流すのである。テレビなら視聴率をあげスポンサーに喜ばれるように情報を流すのである。1日毎の健康法や1週間毎の健康法に振り回される事こそ、そして健康を気遣い過ぎる事こそ不健康ではないか?

中には本当に役に立つ企画もある。しかし嘘や話題だけの企画に対し、学者や研究者の側から何の反論や意見も出ないのは悲しい。正の情報も負の情報も読み解いてこそ本質が見えてくる。

 

薬副作用死

1998年米国の報告である。正しく(正しくである..)処方された医薬品の副作用による死者は米国全体で年間166000人にのぼり、心臓病、癌、脳卒中に次いで死因の第4位を占めているとの推計をカナダトロント大の研究者らがまとめ、米医師会雑誌へ報告。推計には過剰投与などの人為ミスは除かれている。あくまでも適正な使用によるもので、投薬を受け副作用で入院する人の割合も15%にものぼり、死亡する患者も約0.3%いることが判明した。これでも、「副作用かも?」という曖昧な報告は除いて計算された控えめな数字であるという。

副作用が絶対無いとされていた漢方薬でも副作用が報告された。漢方家からは証に基づいた使い方をすれば絶対起らない事だと、悟ったコメントが出された。しかしアレルギーなど、通常の食品でも死を招くケースが起りうるわけだからこの世に絶対安全なものはないと思っていたほうが間違いない。

これを直ちに日本に当てはめる事は出来ないが、日本は米国の4倍もの医薬品を消費している。米国では4種以上の薬を処方するのは犯罪行為といわれるらしい。私の経験で最高に処方量の多かったケースは、体重40kg位80歳代の女性に通常の大人の分量で、Rp.1) 6種 Rp.2)7種 Rp.3)2種 Rp.4)1種 Rp.5)2種計18種が配合されていた。1回の分量は湯呑み1/3位、食事も咽喉を通らない患者にこれを食後3回、それと朝、夕、寝る前に服用させるのである。この他に注射剤の投与もある。

症状に対応するだけの薬理知識しかない医師は、訴えられた症状全ての薬を処方する少しでも病の本質に迫れば、必要のない薬は減らせる。複数の医師の勤務する病院数ヶ所で働いたことがあるが、同じ患者でも医者によって処方と処方薬の数は違う。1種類から2種類になると数ヶ月で肝臓障害を起こすという、これが3、4種類になると2〜3週間で肝障害を引き起こす。全ての薬物は肝臓を通過し代謝、解毒、排泄されるからだ。死亡や重篤な副作用までは行かぬまでも、検査で解らない程度の肝障害は誰にでも起っている筈だ。医師の仕事は本当に心身を消耗する困難な仕事である。治療の手立てを検討する以上に、薬を減らす検討もしなくてはならない。

医師の処方をチェックするための処方箋調剤も、まだまだ門前薬局が多く、処方箋を発行する医療機関に経済的依存をしている限り、適確な指導がなされているかどうか疑問である。10種類もの薬を処方された相談客がしばしばあるが、「調剤された薬局の薬剤師に尋ねましたか?」と聞くと、「医師の治療方針です。安全な薬が処方されています。きちんと服んでください。」と言うのが決まり文句らしい。これが現在の大部分の薬剤師の服薬指導という仕事である。どんなに勉強しても「臨床では?」と言われると、絶句するしかない。医師の愚かな処方を毅然として否定できるような法整備も必要ではないかと思う。患者さんのためにも..

報告された冒頭の数字は、正しく処方された医薬品に関するものである。正しくない処方の医薬品は一体どれくらいあるのだろう。そのほうがはるかに多いような気がしている。今まではただ「運が悪かった。」で済まされていたことであろう。「手術は成功しましたが、患者は死にました。」という笑い話もあるが。些細な副作用や、異常に、敏感になりすぎても良くない、副作用に比べそれ以上の利益があるから医療を受けるのである。激しい苦痛のさなか、麻薬の副作用を拒むだろうか?

患者さんにも言いたい。薬をくれない、注射をしない医師を「ヤブ医」呼ばわりしてはいけない。注射さえすればすぐ良くなる。よ〜く効く薬を下さい。とか、こんな無知が悲劇を引き起こしているのだ。誰しも自らの身を守るための知識や情報を収集し、正負の情報いずれにも虚心坦懐に耳を傾けてほしい。早期発見しないと手遅れになるとか、単なる、軽い疲労を重病の兆候ではないかと、異様に怯えたり、さらにそのために病院の門を叩き、重厚な検査を受けたりしてはいないだろうか。なんら不都合な症状もないのに、検査を受けたばかりに異常が見つかり手術まで進んだ知人を複数知っている。そして検査や手術で死亡した人も知っている。但し注意もいる、体調の異常があるにもかかわらず、検査に異常がなかったからといって平然とはしていられないだろう。車検のように義務的に検査を受けるのは考慮もいるが、微妙な違和感や不調は、最初に自らが気づく適確な診断であることも多い。

私は病院が恐くて殆ど行かない。ある程度の不調は漢方薬や、時に新薬を使い対処しているがいよいよ困ったら、漢方医や代替医療の治療家のところへは行かない。やはり西洋医学の医者に頼るだろう。それまでは「苦痛が始まってから病院へ行っても、遅すぎる事はない」と、考えている。検査もず〜っとやっていないし、市が行う結核予防法に基づく、X線撮影もやった事がない。手遅れの病気に罹患したとしても後悔はしないつもりでいる。人生、一度は生まれ、一度は死を迎えなければならない。「十歳で死ぬる者には、自ら十歳の中の四季あり」、確か吉田松陰の言葉だったと思う。

 

痴呆症薬効果なし

田辺製薬にホパテと言う痴呆症の薬があった。ここのMRは、「薬理や効能ははっきりしないが服んでいると何故か効きます。」などと訳のわからぬ事を言っていた思い出がある。ボールペンやメモ用紙をもらったので追求は諦めたが、他のメーカの噂によれば、異常に高価な薬価は、実は政治薬価らしいと聞いた。やがてこの薬は無効の判定が下った。それからは効く薬が出ているのだろうと思っていると1998年に4種類の痴呆症薬が効かないという再評価結果が出た。脳代謝改善剤というジャンルになるが、この中に田辺の別の痴呆症薬も含まれている。ホパテに懲りずに随分な事である。

ホパテは脳代謝改善薬開発の対照薬として薬効評価の標準薬に使われていた。偽薬と比較しても効能に差のないホパテだが、それと比べ、同等の有用性?があれば、それ以降の新薬が許可されていたのだ。偽薬同士何を比較できると言うのだ。ところが副作用は偽薬どころではない、ホパテの副作用で11人の死亡が報告されている。

医薬品治療研究会代表、別府宏圀医師のコメントだが、「承認時の臨床データを詳細に調べたことがあるが、いずれもお話しにならないものだった。なぜこんな薬が厚生省の審査を通るのかと感じた」。

厚生省(当時)は言うまでもなく、承認申請された医薬品を追試しない。メーカの報告を鵜呑みにして、文書の書式や手続きをチェックする。データの作為や完全な嘘も見抜けないのである。メーカの倫理や道徳、社会使命に頼るしかないのだ。

現場の医師からの有効性を疑問視する声もありながら、副作用が少なく薬価が高ければ、差益収入も大きく、漫然と使われていたようである。痴呆薬の市場規模は年間1300億円そして今までの総売上額が8000億円という。副作用まで出してこれだけのお金をドブに捨てていたことになる。正に製薬会社のための滋養強壮剤であった。

 

癌検診の有効性

1996年近藤誠医師の著書「患者よ、がんと闘うな」の出版と同時にがん論争がくり広げられた。近藤先生の本は以前から読んでいたし、新聞の論壇でも、がんの治療や検診に対する疑問をしばしば投げかけておられた。厚生省(当時)の研究班の1998年の報告である。報告書では6種類の癌検診のうち、癌の種類によって検診の有効性に差があるのは明らかで、肺、乳、子宮体がんについて「がんの死亡率を下げるのに有効だとする根拠が薄い」と結論づけた。

検診の有効性は、以下

1)検診によって、がんの死亡率が減るか
2)見逃し、見間違いがどの程度あるか
3)検診を受けた人の利益が不利益より大きいか
4)費用と効果のバランスは妥当か

今回は 1)の検診によって死亡率が統計上、明らかに減るかどうかを重点的に調べられた。

すでに述べたように肺、乳、子宮体がんの検診は意味がないとされ、胃がん、大腸がん、子宮頸がんの3種類は有効とされたものの、見逃しや見間違いは避けられない事を、充分に説明する必要があると指摘した。参考資料として。

【部位別の検診受診者、がんの見つかった人数】

部位別 受診者 精密検査対象者 発見された患者

全体の死者

426万

57万

6087

50185

670万

17万

3144

48041

大腸

435万

32万

6527

32630

乳房

313万

13万

2762

7963

子宮頸

384万

3.8万

2556

4963

子宮体

22万

4219

238

(子宮頸に含む)

単位は人、死者は厚生省「人口動態統計」による1996年の数。
ほかはいずれも95年度老人保健事業報告による。

 

そして専門家のコメントがいくつか載せられていた。ある大学教授は「一人でもがんの患者が見つかれば国の事業としての意味はある。」そして近藤先生のコメントは全ての検診の有効性なしと、、「大腸がんは検診を受けても受けなくても総死亡数が変わらないのに有効としている。胃がんのX線被爆の量は、何度も撮影するので報告書の数値よりずっと高い。精密検査では組織をとる生検をしたり、肺に内視鏡を入れるのもつらい」という話。

このような報告がでたあと、自治体は検診を見直したり、中止したり、定着しているという理由で引き続き行ったりと様々。

 

天寿癌

人は生老病死から免れるものではない。しかし病気になるなら痛みの激しい癌はいやだ、ボケて家族に迷惑をかけないためにも、死ぬなら心筋梗塞や脳卒中であっさり死にたい。こんな話はよく聞かれる。たとえ100まで生きたとしても、これで満足です。ということは絶対ないはずであろう。100歳と1日を目指し生きてゆくのである。近年、自殺者が増え交通事故の3倍もの死者を記録している。1日でも長く生きたいと願う人がいる中で、生きる事が辛いと死を選ぶ人の闇を想像する事は出来ない。死を急がずともゆっくり最後の時に向かって歩き続けている。今生まれた子供も、病室の老人も、、

話は変わって、雑木林を散策すると朽ちかけた老木に、大きな茸を見かける。所謂サルノコシカケと言うものだ。これは考え方にもよるが、植物に寄生する癌であると考えても良い。弱った樹木に寄生するがすぐには倒さない、ゆくりゆっくり共存してゆく。民間薬で茸が癌に応用されるのは、このような同種のもので治そうという発想によるものと思われる。

一方、人の体に寄生する癌にも天寿癌と言うのがあるらしい。これは癌研究者や医師の間でも知られている事である。高齢で癌に罹患しても進行が遅く、それほど苦痛もなく自然死に近い進行を辿る。この事を認識していれば、高齢で癌が発見されたとしても濃厚な治療や、侵襲的な治療を避ける事ができる。治療そのものが命を縮めることが往々にして起る。また生活の質を落としかねない事にもなる。もし苦痛があれば積極的治療はしないで、それを取り除く程度の治療が望ましい。

案外、若い人にもこの天寿癌があるのではないか?と思う事もある。10年も20年も再発しない癌は元々進行が遅く、癌を持っていてもそれほど問題はなかったのかも知れない。「悪いものは切り取る。」という発想の元で悪くないものまで切り取ることがありはしないだろうか。病気は放置しておくという選択肢もあるのだ。

だれしも死に対する観念はあるだろう、理想とする、とはゆかぬまでも、これはいやだということはあるかも知れない。しかしこの天寿癌であれば、選択肢のひとつとして考えておいても良くはないだろうか?尤も、選択などできるものではないが。

 

X線診断の放射線

国際放射線防護委員会が1990年に示した放射線の年間被曝限度は1mSv(ミリシーベルト)である。99年、東海村の核燃料施設で発生した臨界事故で核分裂をおこしたウランはわずか1mgであったといわれる。広島原爆の100万分の1である。ところが、すさまじい被害をもたらした。現場から80mの距離にいた人が翌日の臨界終結まで居たとしたら、被曝線量は最大160mSvまで達したと試算されている。そして最も重症の人の被曝線量が17000mSvである。わずか1mgのウランがこれほどの被害をもたらすというのに、日本には毎年1トンもの放射能を生み出す原発が50基もある。JOCの事故は専門家が恐れる事故の10億分の1の規模に過ぎなかったという。日本人は対岸の火事程度にしか考えなかったのかも知れないが、外国からの来日を取り止めた人もあった。原発や放射線に関する情報の少ない日本人には、奇異に映ったのではないかと思う。

トイレのないマンションと形容される原発からの灰は、大気圏中に撒き散らされ、放射線のガス室の中で暮らしているような状態なのである。

病院へ行くとまず検査。X線はお決まりのメニューである。日本は欧米諸国の2倍の被曝量を記録するくらいX線に依存している。再検査で転院すれば、再び次の病院で同じメニューでX線検査が行われる。日本放射線技師会の資料によると脇部X線撮影2回で0.5mSv、胃の写真10枚で3mSv(3年分の被曝線量)胃の透視で数10mSv(10年分以上の被曝線量)という。これを1回で被曝してしまうのだ。現場の技師の話では、「実際のX線診断には被曝の上限がない...」と言う。一体どれくらい被曝しているのだろう

検査を重ねてゆけば当然被曝線量は増えてくるわけだ、X線写真を数枚撮影すればほぼ年間の被曝線量を超えたと思ってよい。限度値は架空の数字ではない、健康被害を及ぼす限度値でもあるのだ。ところが被害より診断や治療の利点が大きいという前提のもとに、際限なくX線を浴びせるのである。500mSvくらいで急性の白血球減少が起きる。ところが問題は、将来的な危険である。10年後、20年後に癌などをひき起こす可能性があるのだ。

再び原発の例だが、チェルノブイリの事故の死者は31人とされている。その時の重傷者512人がどのような運命を辿ったかは明らかにされていない。さらに事故処理や周辺地域の除染作業に関わった人は数十万人になる。最近の報告で、これらの人たちの5万人がすでに亡くなっており、他の人も多くの障害をもって暮らしているという。

放射線にはもっと敏感に臆病になるべきではないか。現場の医療従事者の無知も嘆かわしい。「大した線量ではありません、ついでに胸部X線も1枚とっておきます」などと平気で言われた経験がある。再検査なら、すでに撮影したフィルムは使えないのか?胃透視と胃カメラなら、カメラの方を選びたい。健康で暮らしているのに年中行事のように検診を求め、敢えて被曝する必要はない。

 

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