【ニセ医者に学ぶ】


レアンドル: なんなら医学用語を5つか6つ、お教え願いたいもので。そうす    ればもっともらしい口も聞けますし、学者らしくも見えますから。

スガナレル: いや、そんな必要は全くない。服装だけでたくさんだ。わたし      だってきみと同様、べつに医学の心得があるわけじゃない。

妙な間違いがパッと世間に広がって、誰もかれもが私を名医扱いする始末。--- いつまでもこんな調子で行くんなら、一生涯お医者稼業をつづけてもいいと思いますね。こんなありがたい商売って、あるものじゃない。だってそうでしょう。病気がよくなろうと悪くなろうと、どっちみち謝礼にはありつける。--- この商売の面白味は、死人がみんなこの上もなくおとなしく、黙りこくっている点にある。殺した医者に文句をつける死人なんて、見たこともありませんからね。 
モリエール戯曲: 「いやいやながら医者にされ」

 
医者の仕事を揶揄するつもりはないが、飲んだくれで夫婦仲の悪い木こりが、医者に仕立て上げられる話である。奥さんの奸計で強引に、ある資産家の娘の診察を要請される。そのうち医者の所作が身に付き、それらしく振舞い始めるという喜劇。

医者らしく振舞えば医者らしく見え、治療効果も上がれば願ったり叶ったりである。では医者らしくとはどのようなことなのか?患者には「良い医者」「有能な医者」などの一定のイメージがある。しかし普通に仕事をこなしている医者に求める医師像と難病を克服する医師像には違いがありそうだ。時々報道される医療詐欺やニセ医師事件、また代替医療の治療家について学べば、期待される?又は治療効果を上げられる医師像がおのずと描けるのではないかと思う。再度、モリエールの戯曲から...

何人かの医者が、いろいろ手をつくしたけれど、さっぱり駄目。だけど世の中には、秘伝とか霊薬とかを持っている人がいて、他人にできないことをやってのける先生もないとは限らない。

霊薬とか秘薬、有効率90%などのフレーズには専門家さえ惑わされる。漢方薬の勉強を始めたころ、漢方薬で何でも治るような気がしたり、どこかに素晴らしい効果を発揮する薬草があるはずだと思っていた。しかし、未知のものの輪郭が見えるようになるとそれは大いなる迷妄であることに気付く。見えないようにすることで霊薬や秘薬の効果が高まることになる。本など著している漢方家が不思議な水やサプリメントを用いて治療に取り組む。他の治療家がやらないことをやることが大切なのだ。目には見えない極微量のミネラルやイオンを帯びた水に薬効などあろうはずがないと思うのが常識だが、偉い先生が医学用語や科学用語を交えて説得にあたると、もともと解らない患者はなんとなく納得し有難く思うようになる。理屈よりか霊薬、特効薬という言葉こそ重大な関心事である。広告に「驚くべき治癒率」「ガンが治った」、、、とあれば、それだけで注目してしまう。学習効果がないのか相手が巧みなのかは知らないが、繰り返し繰り返し騙され続ける。人間の健康に対する欲望や願いは全てに優先されるだけに、治癒への期待をくすぐる言葉は良い医者、良い治療家の条件である。

偉いっていうものは、すべてどこか気まぐれなところがあって学問のなかにちょっぴり気違い水がまじってる。

命や人の運命を握る職業の人には傍若無人の傾向が見られる。「仕方がない」と周囲が妥協して容認する。段々普段の感性が麻痺して、世間離れした人格ができあがってしまう。「あの先生は変人だが腕は良い」という噂をどれほど数多く耳にしたであろう。振る舞いに「気違い水」がまじるのは優れた証拠のように解釈し、一層帰依することを惜しまない。芸術家で奇人の話も頻繁に登場するが、医者と似たような理解があるものと思う。奇妙な振る舞いは、ある種名医の雰囲気を醸しだすのかも知れない。そして治療の奇妙さや宗教性は同じく常人を超えた能力を暗示させる。代替医療の治療家と宗教家は判別が付きにくい事がある。とくに「気」を扱う治療家は宗教家にも似ている一定程度の神秘性を満たすと、その治療の如何にかかわらず患者は大挙して訪れるのである。

何度も神業みたいに病人を治した先生ですよ。6カ月前、ある女が医者から見放され、死んだらしいと見られてから6時間、そろそろお墓に埋めようとしていると、例の先生を誰かが力ずくで引っぱってきた。すると先生は女を診て、口の中に得体の知れぬ薬を、ひとしずく流しこむ、そのとたん女はベットからむっくり起きあがり、部屋のなかを歩きだすじゃありませんか、まるで何事もなかったみたいに。

寓話みたいな話で実際にこんな事が起こるなど考え難い。しかし、これに近い話がまことしやかに語られたり、宣伝に使われたりすることは幾らもあるのではないか?人の評判、噂というものは如何なる伝達手段よりも強固に印象付けられる。評判を聞いて遠方へ....たとえば超能力、心霊治療を求めインドへと向かうツアーもある。一般の医療機関にしても、人は自宅近くの病院には行きたがらない。そして遠方の人が押しかけるのを不思議がる。遠ければ評判に磨きがかかり有難くなるのかも知れない。一方近隣であれば、慣れて、知りすぎて期待も薄れる。ここにも神秘性が顔を覗かせる。遠方の評判は過大評価、近隣の評判は過小評価され、悪い噂は逆に遠方が過小評価され、近隣は針小棒大に語られる。

わたしの考えでは、舌の運動の障害は、ある種の体液よってひきおこされる。この体液を、われわれ学者のあいだでは悪性体液と呼んでいる。悪性、すなわち・・・悪性体液。かるがゆえに、患部より立ち上るさまざまな発散物によって形成される蒸気が・・・つまりその・・・かのところから出てまいって・・・あなた、ラテン語はおわかりかな?・・・カブリキアス、アルキ、トウラム、カタラムス、シングラリテール、ノミナティヴォ、ハエク・ムーサ、ボヌス、ボナ、ボヌム、サンクトウス・エスト・ネ・オラティオ・ラティナス?・・・

得体の知れない用語、概念はむしろ現在のほうが氾濫している。漢方用語などその最たるものであろう。再現性のある数字や画像での検証も不足しがちである。気や血や水などの動態で身体や環境、宇宙を解釈し、病の発生、治療までも対処出来るわけがない。気・血・水の単純概念で森羅万象を解釈するのはそれほど難しくはない。五経、五臓とてこの概念を繋げ複雑に分類したものなのだ。この学習は技術研鑽に不可欠なものであるが、現場で説明される患者にとっては念仏に等しい。難解なので逆にうなずき納得する。説明は難解で複雑なほうが効果的な事もある。ホルモンや免疫や分子生物学、量子論などの用語を駆使して説明する一部の代替医療は、その難解さにおいて「今までと違った医療」を演出する。実はそれほど難しいことをおこなっているわけではなく、時に民間療法にさえ劣るものがある。代替医療にまともな理論と証拠を備えたものが少ないのは残念だが、医者又は治療家として学ぶべき点は多くあり、医者よりも医者らしく優れた資質を開花させている人が見られる。

この戯曲は、所謂「恋煩いの娘」とその相手を取り持つことで終わる喜劇である。方々の名医にも治せぬ病というのは古今東西おおよそ決まっている。(笑)

ニセ医者(quack=クワック)とは山師、いかさま師などと同列の意味があり、言い換えれば偽物、贋物、如何物、食わせ物、まやかし、インチキ...と形容される。明らかに医療資格のない者、医学教育を受けていない者が行う場合はニセモノと言えるが、諸々の療法に関しては一概にニセ物と断定するわけにはいかない。漢方や鍼灸など現在、曲りなりにも一定の評価が与えられ通常医療の現場に取り入れられているが、以前は迷信、無害無益と揶揄されたものである。また、現在、怪しい療法と呼ばれるものでも将来において科学的有効性が確立されるかも知れない。

しかし、ニセ医者、ニセ治療家が実は医療の本質を体現する事が大いにあるのだ。本物の医者にサジを投げられ、理念と情熱と確信に満ちたニセ医者に頼る例はしばしば見られる。科学的に検討して無価値で根拠のない療法であっても、治癒への切なる願いを抱く患者にとっては信じることで、そして治療家の信念とが呼応し自然の治癒力が発動されるのである。このようなニセ医者をきっぱり「ニセモノ」と断言するのはいささか躊躇される。明らかに欺く目的の医者をのみニセ医者と呼ぶべきであろう。戯曲に登場するニセ医者は、でたらめな理屈や用語で周囲を煙に巻くが役割を果たし終える。

ここで注意すべきは、重篤な疾患でなかったからこそ喜劇なのだ。信念に治療家みずからが酔いしれて方向を見誤るなら、改めてニセ医者といわざるを得ないだろう。そしてこのようなニセ医者の排除は社会をあげて取り組まなくてはならない。正当な医学知識で鍛えられた本物の医者がその旗手となって啓蒙し、機会あるごとに患者と自由に語り合える環境を築く必要がある。

 

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