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【健康について】


古代の人々は血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液という4体液のバランスの崩れが病気を引き起こすと考えた。当時は血液が循環することが知られておらず、よどんだ血液を抜き取る「瀉血」という方法で病気の治療を図った。古代ギリシアから伝来し、その後何百年もの間ヨーロッパ全域で通常医療として採用され、新大陸の発見と共にアメリカへも渡り19世紀半ば頃まで続いた。長い間、瀉血の理論と症例は説得力を以って受け容れられていたのだ。古代理論での治療は「治った」という事実だけを見ていたため、多くの要因を見逃していた。瀉血は風邪をはじめ多くの病気に用いられ失血死さえ招いていたのだ。1809年、ハミルトンが行った信頼性のある臨床試験で、瀉血を受けた患者の死亡率は瀉血を受けない患者の10倍にのぼることがわかった。これを機に瀉血に対する批判が広がり、徐々に通常医療から退場して行った。現在は代替医療において針を刺して血を絞り取ったり、ヒルに血を吸わせたり、吸玉を用いたりする瀉血が見られ、古代理論と治った症例のみが治療の根拠として生き残っている。治ることと治らないことの多くの要因を検討し排除し、広く多数の患者を対象に行う臨床試験でなければ、薬や治療の「真の効果」を確定するには至らない。これを欠いたため、長く続いた瀉血は多くの被害者や死者を出し続けた。

EBM(Evidence-Based Medicine:根拠に基づいた医療)という言葉が生まれて20年ほどになるが、それ以前の医療の質と内容は現在と異なっていた。ではそれ以降、質は向上したのだろうか、医療現場の現状や意欲ある医師の発言等から察し、EBMが普遍化したとは言えない。学んだこと、経験したこと、大勢の医師と同じであることがEvidenceの実態であろう。一般の人々はすべての医師が正しく診断し、適確な治療を施してくれるものと考えているが、人体は意外性と神秘性に満ち人知を超える部分があまりにも多い。病気との関連など迷路を探すに等しく、そこを知識と訓練とEvidenceと言う武器で迫っていく。いうまでもなくすべてが核心に到達するとは限らない。武器の一つ、Evidenceのありかたは有益かつ無駄のない医療に不可欠のものだ。医療の進歩はめざましく、器械も増え、医薬品は開発に行き詰まるほど出尽くした。私達は飢餓や感染症などを克服し、長寿を得た。目前の死や病の危機から解放されたが、反して将来の死や病を恐れるようになった。衣食足りて健康病は始まる。昨年(2010年)の人間ドック学会の調査では、人間ドックを受けた308万人のうち、検査値に異常なしの「健常者」はわずか8.4%で、この割合は年々減少しているという。ということは検査値病人が年々大量生産されていることになる。私達は早期発見、早期治療と言うEvidenceの疑わしいキャンペーンに乗せられて病気の量産に邁進しているのではないか。早期発見で助かったという例は、冒頭に書いた瀉血で治った症例と同列のものかも知れない。通常医療でEvidenceに基づく診療が必ずしも行われているとは限らない。そこには医師の体験や資質、製薬会社の思惑、周囲との協調、経営戦略など多くのバイアスが絡んでくる。

健康について考えるとき、代替医療の内容や手法は示唆に富むものがある。古代思想、疑似科学、いずれも科学的証拠に欠けるものの市場規模は巨大である。効果があるからではなく、需要があるから巨大なのだ。自然、伝統、全体医療というフレーズに惹かれるのは健康と通常医療に対する暗黙の不安と不足を感じるからだと思う。通常医療で行われる事すべてが理に叶い科学の裏付けがあるわけではない。古代医療の「瀉血」に等しい診察や治療がないとも限らない。医療がEBMという一つ高いグレードに昇りつめたいま、それに応じた対処も必要になった。ネット以前は図書館へ向かい、古ぼけた資料を探した。新刊を求めるにもその情報さえ事欠いたが、現在、良質の情報に瞬時に触れる事が可能になった。反面、スパム情報も氾濫し、無益で危険な療法へもまっしぐらだ。生きるため、良質の知恵を得ることがいままで以上に求められている。一方、異常即治療という対処も一考すべきときが来た。苦痛や不安を耐えよ、ということではなく、放置してもやがて治る病気、老化や体質由来の治らない病気は当面の苦痛や数値を誤魔化すに過ぎない。最後には、死から逃れ得ない事を直視すべきではないかと思う。

【ホームページ開設10周年に寄せて/2011.Sep.】

温心堂薬局 店内

訪れたお客様から「生薬の香りであふれている」と言われるが、
ここに年中居ると全く香りを感じない。倉庫然とした店内では
あるが最も落ち着く居場所である。開業当時は、新薬、健食、
紙おむつ、粉ミルク等々扱ったが、2年ほどして生薬と漢方薬
の専門店になった。

<コラム> 未病とは?

上医は未病を治し、中医は病まんと欲する者を治し、下医は既に病む者を治す。これは中国の千金方と言う医書の言葉です。名医は病が未だ生じないうちにそれを見極め治すと言う意味です。他にも、上医は声を聞き、中医は色を察し、下医は脈をみる。このような言葉もあります。名医は鋭い洞察力で病を診断し治す。職人とも呼ぶべき「技の領域」の話です。

今は洞察力もさることながら検査機器の発達で未病の診断が一定程度可能になりました。中性脂肪やコレステロール値で動脈硬化、心臓病の警告を発したり、血糖値で糖尿病の予防措置を講じたりします。早期発見、早期治療の呼びかけに、何の疑いもなく、病気を未然に防ぐためにと、医療機関への診断を求めに行くわけです。なんら不具合もないのに医療機関を訪れ、改めて医師に科学的な健康の判定を仰ぐようになったのは、何時からなのでしょうか?

健康とは辞書には次のように記載されています。
1.体の状態。体の良い状態に重点をおいて、異状があるかないかという面からいう。
2.(形動)体のどの部分にも悪いところがなく、元気で丈夫なこと。精神の面につい
   ていうこともある。

体の良い状態とは?何を基準にそう言うのでしょうか?検査値で異常なし。これも健康と呼べるのかも知れませんが、検査値と裏腹に体調は極めて悪く、逆に体調良好で気力充分なのに、検査値では険悪という場合もあるでしょう。不調ながらも、虚弱ながらも今日は調子が良いという日もあるでしょう。健康とは?ますます迷路にはまる哲学のようでもあります。

健康とは100%を軸に均衡している状態である以上、完全な100%の健康はありえない事になります。著しく均衡が崩れた時を病とするなら、振り子のように揺れて戻す健康状態は常に未病の可能性を孕んでいるわけです。検査機器が全くなかった時代の医師は、正に五官と経験で病気や未病の判定をした事でしょう。これは西洋医学でも同様です。検査を病気の拠りどころとするようになったのはそれほど古い事ではありません。検査医学で得たものは大きく、同じく失ったものもあるでしょう。物事に正負の面は必ずあります。

医療人類学の本では、人と病との関わりが興味深く記述されています。昔、医者にかかるのは、大怪我や大病で死ぬ時くらいだったと言われます。国民皆保険制度が施行されてからの事です。医者も増え、それに伴い医療費も、、、皮肉にも医学研究の発展に伴い病気(病名)までも増えてしまいました。医学の研究が全て健康に寄与するわけではなく、むしろ被害をもたらす事もしばしばあります。

巷に溢れる、垂れ流し状態の健康情報に翻弄されるのを、「健康病」として注意を促す書物も目にするようになりました。未病を恐れるあまり、健康産業の罠にはまる人も数知れず。健康であることや未病を予防する事が当面の目的としても、やがて避けられない老いや死が目前と迫った時、自らをどのように納得させうるでしょうか?

【ホームページ開設にあたって/2001.Aug.】

健康とは?心身ともに良好と思える状態が100%を軸に均衡している事、とでも言えるかも知れません。ヒポクラテスの西洋医学序説にも100%の状態は好ましくない、100%の状態なら少し率を落とすよう記述されています。漢方でも似たように考えます。治癒率80%で治療を打ち切る、と言うことです。このことにより自然の治癒力を生かしより良い状態に持っていけるのです。80%の見極めは難しいところですが、大方の苦痛がとれ更に改善しない拮抗状態の時、思い切って漢方薬を止めてみると、意外に早く残りの苦痛もとれてくる場合があります。おおかた100%と思えるとこを軸に揺れ動いている訳です。漢方薬はじめ諸々の治療が体の負荷になっている事は往々にしてありうる事です。生活に余裕が生じると、健康に対する関心は高まります。玉石混交の健康情報にさらされテレビで報道される1週間単位の健康法を繰り返す。しかし今一度冷静に考えると、放っておくという選択肢もあります。薬や食物など摂収するという考えよりむしろ服まず、食わずという事で解決できる病気は多くあります。薬害や生活習慣病、アトピー等、とくにこのことが当てはまるかもしれません。命あるものはやがて死ぬ、これは私も先人達もそして未来の子供達にも等しく与えられた宿命です。生きる間に食べられる食の量は個人差はあるとしても、大方限られています。偉くなっても胃袋が二倍になる事などなく、必要最低限のところで体を維持していけば、そこそこ健康的ではあるかもしれません。(生きがいを感じるか否かはさておいて...)生きがいの為には体を犠牲にしても、と言う方も沢山知っています。享楽的に人生を愉しむのも人生観です。完全な健康状態など空想であって、現実は半病人か重病人であって一病息災で生きてゆくものだと考えています。完全健康を指向し振り回され、それにエネルギーを注ぐあまり健康そのものが目的となっている事もあります。何のために健康が必要なのか、そこに人生の目的や愉しみがなくてはならないと思います。

【参考図書】
健康という病 米山公啓 /人はなぜ治るのか  アンドルー ワイル /医療人類学入門 波平恵美子 
命の文化人類学 波平恵美子 /病と死の文化 波平恵美子 /代替医療の医学的証拠 米国医師会編
代替医療ガイドブック バリー・R・キャシレス /医学判断学入門 久道 茂 /心の潜在力プラシーボ効果 広瀬弘忠
タオ自然学 F・カプラ /奇妙な論理 M・ガードナー

  

<コラム> 病気が治ること、症状を和らげること。

例えば、変形性膝関節症。老化してゆけば関節面が磨耗し歩くたびに激しい痛みに襲われます。水が溜まり、その水を抜くとさらに痛みが増すこともあります。病院では鎮痛剤が処方され、痛みは和らぐ。しかしこれは抑えているだけで治った事にはなりません。このような例はいくらでも挙げられます。一般薬の栄養ドリンクなど、中枢を興奮させ疲れを忘れさせるだけで疲労は相変わらず改善されないし、忘れていた間の疲労は重いツケとなって後で襲ってきます。抑え、忘れさせ、一時を凌ぐ薬の代表が鎮痛剤、鎮静剤、催眠剤、鎮咳剤、、、限がありません。抑えている間に自己治癒力の発揮を助け治癒に導くというのが医薬品適用の目的ではありますが、なかなか治癒が得られないと、つい漫然と使い続ける状況になってしまいます。しかし決して治ったのではなく抑えているだけであって、そのための注意を払うこともなく不養生を続けていけば、いずれ困った事態を招く場合もあります。新薬のみならず漢方薬や薬草でも同じ事です。

一方、風邪をひいて、やがて治る。転んで骨折、やがて治る。このような病気は完治と言っても間違いはなさそうです。古傷が痛むと言う事があっても当面、完治です。また肝機能の数値、糖尿病の数値、色んな異常値が正常になり、苦痛も改善すればとりあえず完治として良いでしょう。しかし、無垢の状態への完治ではありません。養生や注意は要ります。

完治する病ばかりではありません。ゆっくり悪くなり進行する病気もあります。どのような療法にも応じない難病もあり、苦痛を軽減する治療のみに収拾する場合もあります。まとめると完治する病気、完治しない病気、完治しないが苦痛を抑えられる病気が考えられます。どんな病気でも治癒への希望は持ちたい。完治しないとしても苦痛を軽減したり進行を遅らせることは出来ないかと願うものです。しかし治療家の側は相当困難な悩みに直面します。病気の行方が知れているだけに苦しい選択と説明が求められます。

容易に治る。病院で見放された病も治せると豪語する治療家もいます。安心と希望を求め患者は殺到するのですが、抑えているだけの状態を治癒と勘違いしたり。希望と期待で心が癒されただけで、体はなにも好転しないこともあります。心が癒されただけでも「救い」ではあるのですが。

温心堂薬局 調剤室 

開業時は借家のため、畳部屋を板張りに改装し調剤室とした。自宅敷地に
移転後は思うままの調剤室を手に入れた。生薬のほこりが舞い1日で薄っすら
棚が白む。掃除はこまめに行うが、ラベルは手垢にまみれて文字の消えかか
ったものがある。

 

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