漢方雑感/健康について/食の考え方/農業について/生薬10選/生薬価格表
休日の愉しみ/民間薬/養生訓の話/薬草写真/雑記箪笥


【漢方雑感】


初めて漢方に触れ、恐る恐る薬を使う、慣れと試行錯誤の中で漢方に対する考え方や仕事のスタイルは変化を遂げた。漢方初学の頃、とにかく早く使えるように、一般向けの漢方入門書で、症状と処方を覚えた。五行理論や古典から入門した漢方家に比べると甚だ情けないものだ。次にやや詳細に書かれた解説書で幅を広げる。そこには漢方の権威者とされる医師の治験と意見が記され、古典の解釈も為されていた。いくつか古典を読み漢方理論の概要がわかり始めると自信も生まれた。慣れるにつれ、知識や経験が増え確信や印象は強固になり、そこに予断という錯誤が生まれる。初心の頃、わずかな知識を振り絞り対処したものが、次第に特異な処方や加減方へ傾倒する。処方は多様化し、基本処方や素人の希望する処方などあり得ないとさえ考える。権威者の本や報告は治癒例の満艦飾だ。出版バイアス、発表バイアスとよばれ失敗や無効例など不都合なものを排除する心理が働くという。医療者や治療家の作為や無知は病める人を誤った行動に駆り立てる恐れのあることを心しておきたい。

開業して2年目に高橋晄正の「漢方の認識」という本を手にする。これは漢方の考え方を変えるに十分なものだった。薬や治療の「効果」は、複雑な検証を経なければ断定できない事を知る。「治った」という厳然たる事実の影には多くの要因が絡み、薬効以外の力が働くことが多い。その要因を排除してこそようやく薬効が見えてくる。「効いた」だけでは、後から幾らでもそれらしい説明がつく。その説明を積み重ねた伝統を漢方では証という。

10年前にホームページを開設した折、漢方がプラシーボと同等か、それ以下かも知れない事を書いた。こんなことを念頭に仕事を続けることは辛くもあったが、「治った」、「効いた」という事実は仕事の支えだった。「本当は効かない漢方」の仕事を続ける事は自己欺瞞に等しく、それでいて廃業も転職もできないほど能力や勇気を欠いた。本音を申し上げると漢方の仕事は面白く、やり甲斐があり快適さに恵まれた。ここに弱さと怠慢さを反省する点はある。運命の書となった「漢方の認識」には漢方薬の思想的優劣などが記述されていたが、Evidenceに基ずく治療は現代医療の潮流となり、漢方もその洗礼を受けた。通常医療で漢方薬も使われてはいるが、系統的レビューにより無効であることが明らかになり、通常医療の中の代替医療という逆説的な立場にある。

【Evidenceのタイプ分類】-EBM漢方 寺沢・喜多共著より-

レベル

Evidenceのタイプ

Ta ランダム化比較試験のメタ分析
Tb ランダム化比較試験
Ua よくデサインされた非ランダム化比較試験
Ub よくデサインされた準実験的研究
V よくデザインされた非実験的記述研究
W 専門家委員会の報告や意見、権威者の臨床経験

 

この10年、EBMに対する意識は高まり、Evidenceについても6段階のレベルで分類されている。以前は古典の記述や権威者の成功体験さえEvidenceとして認められていた。相も変わらず古典の規矩を踏襲しているようであればレベルWだ。これに比べ科学的な薬理実験を経たものはよりEvidenceレベルは高くなるが、臨床応用に耐えるものではない。漢方薬はTb、Taの段階で無効とされている。しかし、医療や薬局の現場では低いレベルのEvidenceを頼りに運用が続いている。せいぜいVかUbが限界であろう。Tbレベルでさえメタ分析の俎上に乗せられ信頼に足るかどうかが検討される。

 

薬祖・神農
(35×27cm)


神農 石印
(1.7×1.7cm)

気まぐれ工房 「あしあ島」氏作

「高倉国光」氏作、焼締め神農像
民陶の里、小石原の陶工。神農図を参考に、製作を依頼する。
 
漢方は神秘の薬効を秘めたものと信じて仕事ができれば幸せなのかも知れない。処方や生薬を求め、分量や配合比を変え、あるときは品質や産地を吟味し、そのための研鑚に励む。自分の仕事に自信と誇りが持てればプラシーボ効果も高まるはずだ。しかし、ここにはプラシーボであるがゆえの限界と危うさが潜む。初回に目を見張る効果が得られるのはプラシーボである可能性が高いという。段々効かなくなり、処方を変え、生薬を変えるなどの対処が続く。手詰まりに陥れば継続を勧め、自然治癒に期待を寄せるか、漢方原理主義者でない限り、漢方で治らないことに気付き通常医療への受診を勧めるだろう。漢方で改善しても、そうでなくても漢方がプラシーボであることを知っていれば、さらに良い薬や治療法がないか、もっと費用のかからない方法がないかの智慧が生まれる。ときには漢方の必要性さえ見いだせない事もあるだろう。漢方処方と異なり生薬については科学的根拠が明らかにされ、有効成分が判明し、単離されたり合成されたものがある。古代理論を規矩とした漢方療法と薬草療法は似て非なるものだ。複数配合された漢方処方の科学的検証はほぼ不可能であるが、生薬の薬理を基にした薬草療法は一定の根拠が認められる。単独もしくは数種の配合によって費用対効果のうえでも期待が持てる。逆に漢方処方で証拠の乏しい生薬を抜き去り骨格を残すなどの試みがあっても良いと考えている。ただし、薬理作用がすなわち病気の治癒に結びつくとは限らない悩みもある。

「漢方はプラシーボかも?」と疑い始めてから仕事の内容は変貌した。そもそも効かない薬を売って糧を得ることが許されるだろうか。世に根拠不明な癒しの道具は氾濫している。首輪やブレスレット、磁気リング、、つづいて漢方薬や健康食品、ホメオパシー薬など同列のものだ。漢方薬でなんでも治せると豪語しそれに努める漢方家と、プラシーボかも知れないと疑いながら仕事をする者と、客はどちらに好感を抱くだろうか。私の疑心暗鬼がお客様を遠ざける要因になったかも知れない。したがって仕事は凋落傾向にある。後継者もなく転職にも踏み切れぬいま、「家は洩らぬほど、食は飢えぬほど」を以て是としている。いずれ薬局を閉める日が来るだろう、余力のあるうちに無難な着地点を見出さねばならない。【ホームページ開設10周年に寄せて/2011.Sep.】

【追記】漢方薬を使うことが漢方家の仕事であってはならない。多くの漢方家は細かな病変に対応できると豪語し、薬系に至っては高額な健康食品や食養のための食材まで勧める。ついでに、併設した鍼灸院での治療コースも準備する。ひととうりのコースを終えたお客様から相談を受けることがしばしばある。その不調が一カ月200円の民間薬で解決したり、簡単な食養や養生で改善すると、漢方に対する考え方を変えざるを得ない。漢方はその技術より、思想に価値と実践のヒントがある。漢方薬は養生や食養なども含めた東洋思想のひとつであり、漢方薬を使わないことも選択肢といえよう。

 

百味箪笥/薬研(手前)/押切包丁(上)


薬研 石印
(3.0×3.0cm)

気まぐれ工房 
「あしあ島」氏作

江戸後期から明治初期に作られたと思われる箪笥。はがれかかった文字
や直接書き込まれた文字を見ると、幾人もの職人に愛用されたことが解る。
あるときは漢方家の薬箪笥であったり、家具職人の小道具入れだったり...

手前の薬研は生薬をすり潰す道具。漢方屋の店先の必須アイテムだが、
今は殆ど使う事がない。

 

<コラム> 病院の漢方薬と薬局の漢方薬はどう違うのか?

医師の資格があり知識があれば、あらゆる治療行為が可能で。法律でも認められています。ところが薬局の薬剤師に治療行為は認められておらず、脈診や腹診、血圧測定でさえ違法行為とされています。薬局を開業するには薬剤師の資格が必要ですが、薬剤師に出来る事は、医師、歯科医師、獣医師の処方せんに基づいて調剤するのみ。これが治療に参加できる精一杯の役割です。

医師の使う漢方薬は保険診療をしているかぎり、薬価が認められているものでなければなりません。漢方エキス顆粒、錠剤(ツムラ、カネボウ、、、など)さらに生薬が200種余り認められています。これらを使って漢方治療をすすめます。一方、漢方薬局では処方せん調剤以外、漢方薬を治療として投薬することはできません。あくまでも漢方相談と言う名目で、お客様の判断の力添えという役割しか認められていません。医者のような薬屋がいても医者ではありません。相当程度勉強していても問診だけを頼りに病気の本態にせまることが出来るでしょうか?緊急の場合、新薬を併用する必要もあるでしょう。その判断や診断が問診のみで出来る訳がありません。このような「差」は常に付きまといます。自信過剰の漢方薬局の危険性がここにあります。

完璧に漢方一本を貫き通す医師もあります。また雑誌でよく紹介のある怪しいその他の療法と漢方を兼用する名医(迷医)も少数ながら居るようです。治療行為が認められている特権を駆使し、患者の同意も曖昧なままどんどん、治療?が進められると、これも相当危険です。

薬局で販売する漢方薬は、メーカーが一般用に一般の人が表示を読み自己判断で服用できるようになっています。もう一つは薬局医薬品製造業の許可のある薬局が製造する薬局製剤の漢方薬、以上2種類です。販売する時には、すべて成分分量、効能効果、用法用量、使用上の注意、、、など表示されなければなりません。家伝薬とか独自処方とか秘伝の・・と言う余地はありません。しかし、これを守っている漢方薬局は少数だろうと思います。反って、客の求めに対しても、「処方は秘密」とばかりに拒む薬局が多いかも知れません。治療行為ではないので保険も効かず、薬代も薬局ごとに違います。

軽い病や不調、病院でも原因不明とされ治療方針の立たない不定愁訴、、、これらに対し一定の西洋医学的管理のもとで漢方薬を服用するなら、治療の幅は相当広がるし、西洋医学の侵襲的治療から離れることができます。このような治療の選択を病院で医師が行っているところもあります。

法律でも現実にも、医師の漢方薬は医療行為であり、薬局の漢方薬は民間療法の域を出ないのではないかと思っています。真剣に漢方に取り組んでおられる薬局の方から怒られそうですが、少なくとも、温心堂は民間療法の手助け薬局として、細々と営んで行きたい。

 

【ホームページ開設にあたって/2001.Aug.】

漢方に取り組んだのは、薬学を卒業後数年たってからでした。生薬学の講義は苦手で、更に漢方など興味さえ湧かなかったのですが、たまたま天職?を求め東京に出かけ、なかなか職も見つからずオロオロしてるとき、漢方煎じ薬専門の薬局に拾われました。「漢方の知識があれば損はないよ。」と言う事だったけど、いつのまにか20余年が経ち、今やライフワークとなってしまいました。漢方に対する思い入れは幾分減退していて、これで食べていくしかない、といふ諦観でやっている面もあります。はじめた頃は漢方で治らないものはないと、錯覚するほど熱中したものです。しかし読書を重ね講演会や勉強会に出席し、漢方相談をこなすうちに、どうやら漢方の守備範囲はそれほど広くはないのじゃないか、と考えるようになりました。症状から病態を捉え病機を分析し弁証論治すると、あらゆる病態に対応できる処方は可能です。それを守備範囲とするなら確かに広い。しかしどれだけの病が治るのか...と問われたら、自信はなく、治らない病気も多くあります。西洋医学や他の代替医療、補完医療との組み合わせで、治癒率を高める事は出来るもののそれを以ってしても治らない病気は多い。治らない病気の一つに老化があります。生あるものは生まれた時から死に向かって歩み始める訳で、若者は執行猶予期間がいくらか長いだけに過ぎません。医学の夢として不老長寿を描いても、絶対に到達できない目標です。死は誰にでも、今誕生したばかりの子供にも等しく与えられた宿命です。死をどのように扱うかは、医学に限定されない、人が人として生きるための究極のテーマでもあります。死の認識のある医療と、死の認識を忘れさせる医療は、治療の方法に違いが生じてきます。死せるものを生きているという狂気のカルトもあります。一般に代替医療系は死の現実を忘れさせる傾向があります。これさえ服んでいれば何時までも健康でいられる、病気が治らないのは服む努力が足りないのだ、服む量が足りないのだ。こうなると侵襲性の高い西洋医学よりも侵襲性が懸念されます。代替医療は侵襲性のある治療から遠ざかった分だけ有効性が認められると、よく言われますが、その為逆に有効な治療から遠ざかるという危険性もあります。漢方薬はじめ代替医療系のセラピストは、このことを考えている人の方が多いと思っていますが、西洋医学への批判が高じ、西洋医学を絶対悪として全否定するセラピストも少なからずいます。常識的な医学情報を収集する事は容易です。少なくとも自分の病気くらいは、医者と話せる位の知識は短期間にえられます。これを基に判断がなされるなら、自ら最も有効で期待の持てる養生が可能だと考えます。漢方薬は西洋医学的検査で異常が認められず、にもかかわらず苦痛があると言う場合、治療の手立てをもっています。漢方が有効か無効か、あるいはプラシーボ程度しかないという議論はさて置き、これによって治癒力が発揮できれば、苦痛が除去できれば、存在価値もあろうかと思います。漢方は長く服用しなくては効かないという俗説もありますが、これは一部の漢方屋が長く利益を温存する為の方便です。体に感じる反応は早いもので、喉を通過したとたん現れるものもあるし、遅いものでも数十分から数時間で現れます。また顕著な反応がないにしても、数日単位で体調を比較してみると、変化を感じ取れる筈です。1〜2週間経っても全く感じられない場合は、まず薬の不適応を疑って見なくてはいけません。薬効を確認修正しつつ体調を管理していく訳です。しかし治る期間は不明です。反応時間と治癒の時間は違います。治癒までの時間を、長く服まないと効かないと言うなら漢方に限らずどんな医療にも共通する事です。さらに全ての療法にいえる事ですが、老化や食生活、生活環境に由来する不調は、如何ともし難いものがあります。20代の若者と80代の老人では免疫能力で10倍の差がありますいくらかでも侵襲性の少ない療法や薬で助ける事は可能でも、特に老化は克服できたり治癒できたりするものではありません。食事由来の病気や不調は食事を正すこと、生活環境に由来する不調で可能なものはそれを正すことができます。容易に実践できる事ではありませんがこのことは配慮が必要です。知っているか否かで養生の質に違いが出てきます。実践できない人がいる、治らない病気がある、それでもその苦痛に折り合いをつけていくその一つの方法として私は漢方を位置つけています。一時期は西洋医学を批判したものの、では漢方はどうかと言われるとそれほどでもない、ただ守備範囲を認識し、徒に万能観を抱かず。謙虚にやっていきたいと思います。卑屈な雑感で、漢方を熱心に取り組んでいる人の顰蹙を買うかも知れませんが、これは今、私が漂着した小さな島でもあります。

【参考図書】
漢方の認識 高橋晄正/効かない!?漢方薬Q&A 高橋晄正/養生訓 貝原益軒/中医学概論 張瓏英 
中医学各論 張瓏英/伝統医学の学び方 長沢元夫/中国医学の思想的風土 山田慶児
東洋医学の時代 代田文彦/漢方の主張 
成川一郎 /東医雑録(1)(2)(3)山本 巌
中国医学は現代医学を覆すか 林一/EBM漢方 寺沢・喜多共著

 

 

漢方読みの漢方知らず 吉田荘人 ー2007.11月のコラムよりー

一方、西洋薬もすべてがすぐれているわけではない。かってアメリカ医師会薬物委員会の会員であったゴーシェン氏は、医者が処方する薬の約2/3〜3/4、大衆薬の95%は気休め投薬と推定している。

漢方業界に棲息していると、業界そのものを世界であると錯覚することがある。漢方は医薬業界の小さなテリトリーに過ぎず、医薬費総額の1.22%程度しか使われていない。冒頭の引用では、医療用医薬品でさえ気休めが多く、大衆薬は殆どが気休め薬と言う。漢方薬の売り上げを結集しても、新薬の高血圧薬1品目にも届かないのが現実である。漢方がブームかのように囁かれることもあるが、数字の上からも、日々店番をしていても実態は厳しいものだ。また、医薬品業界とて大きなものではなく、食料品販売額の3%にも満たない。まさに漢方は鴻毛のごとき存在といえよう。いささか自虐的な切り口であるが、ここで自我を拡大させたところで所詮、蟷螂の斧である。漢方を貶めるつもりはないが、全体から業界を見渡さないと、見なくてはならないものが見えなくなる。見えなくなることこそ「漢方読みの漢方知らず」であろう。熱意と精力をかけ病と戦っている人々にとって、薬の殆どが気休めという話は断じて納得のいくものではない。なんの為の研究か学習か自信を失ってしまう。著者は外科医で医学史の専門家でもある。本は漢方の歴史や薬草・健康食品、中医学の事情を逸話や伝説を交えて紹介する。全体に肩の凝らない読み物だが、随所で語られる著者の主張に共感を覚えた。

日本が世界にならぶ医療の発展をとげたのも、明治以来西洋医学しか認めなかった医療制度に負うところが大きい。

これは明治7年の出来事になる。明治政府は西洋医学を採用することとし、明治9年に西洋医学による医術開業試験を実施した。当時、医師の8割が漢方医であったが、この制度改革で漢方は壊滅的な打撃を受けた。漢方業界では今でも稀なる悪制と糾弾するが、漢方が禁止されたわけではなく、医師として開業するには漢方教育のみではなく、西洋医学の素養も身につけよ、というものだ。その後、西洋医学を修めた医師や薬系・鍼灸系の漢方家を中心に脈々と継承されていく。余談になるが、採用された西洋医学はドイツ医学で、これに佐賀出身の相良知安【注】が関わった。以後、第二次世界大戦後まで日本の医学はドイツ医学が中心となった。漢方を西洋医学と対等もしくはそれ以上のものとして実践するなら医師の資格を取るべきだと思う。薬学も鍼灸も患者を診察し病理・病態を診断するには限りなく素人に近いものだ。明治政府の判断は賢明なものであった。テレビや雑誌の癒し特集で語られる漢方は、景気の良いものだが、漢方の本場、中国や台湾、またアジア各国の伝統医学は凋落傾向にある。

中国の薬物学は、古くからかなりの基礎ができていた。王朝を追うごとに薬草の種類が増えていったが、薬効については実験的な裏付けを重んじなかった。代々の医家はこれらの欠点を批判しながらも、伝聞したままに踏襲して誤謬を重ねて来たものが多い。

利用する人が減少するのは、確固かつ普遍的な信頼を勝ち得ないからだ。軽医療や方策に尽きた時の気休め医療として、隙間を埋め続ける存在であろう。その大きな理由は限りなく素人療法に近く、理論と実証が曖昧なところにある。薬効は経験や観察を主とした伝承によるもので、古典医書の数々を調べると薬効に微妙な、ときにはかなりの相違がある。生薬の薬理は近年、有効成分の同定を経て認められたものがあるが、それを配合した処方の薬理は混沌のままだ。さらに中医理論について、余厳の「医学革命論」を引用し次のように述べている。

西洋医学では空想哲学がすでに消滅し、科学実験が発達して日ごとに新しくなった。中国は往古を高言し旧法を墨守するため、今日にいたっても一歩も進まず、なお昔の空想哲学の域を脱しえない。--- 中 略 ---中医薬による治療効果は、先人の経験に基づいて偶然症状に合致したにすぎない。効能と空想哲学理論とはまったく関連がなく、正確かつ科学的に証明することはできない。

偶然の合致にしては出来すぎた理論だと思う。漢方を学べば見事なまでの理論体系に驚かされるが、これも普通に考えれば昔の空想哲学の残渣なのだ。この理論をもとに診断・治療を行い結果を再度、解釈し医案として残す。科学の目で見るなら偶然の合致を以て証明されたとはいえない。いくつかは科学的検証を経たものもあるが、数例の成功からすべてを敷衍することはできない。業界に棲息していると、漢方が世界の中心であると錯誤し、効果にも将来にも過大な期待を抱きかねない。そのことで失うものは漢方の利点そのものである。できることと、できないことを正しく理解し、できないことについての対策を考えうるなら、漢方は限定的ではあるが医療や健康に有益な貢献ができるだろう。

欧米でも植物薬や生薬製剤はよく使われている。とくに、伝統的なドイツの植物療法や、アメリカの栄養補助食品としての利用率が高い。これは漢方エキス製剤とはまったく内容が違うが、混淆されやすい。---中 略---生薬で治療できる病気であれば、べつに漢方薬を用いなくてもよい。漢方薬は、経験に基づいて使用されている。未知数であるがゆえに、世評ほどの効果が期待できない。

漢方の学習や研鑽の重点は漢方処方の運用に置かれている。2000年も前に成立した処方が現代の医療現場で使われているのは一種、奇妙な現象である。生薬については研究が重ねられ有効成分とその薬理作用が知られている。厳密に臨床応用を図るなら比較試験は欠かせないところだが、処方についてはこの段階以前のままだ。配合生薬の作用の和を以て薬効とすることはできない。現在、薬効とされているものは2000年に及ぶ治療家の観察経験に依るもので、大きなバイアスがかかっていることは否めない。ときには思い込みで...ということがあればそれは呪術に等しい。漢方家であるがゆえ処方を重視し、薬理作用の明確な生薬や民間薬を軽視・蔑視してはいないのか。漢方家のwebページを覗いていると、多くのところで、「ドクダミ、ゲンノショウコは漢方薬に非ず。漢方は治療理論に則り、数種以上を配合して用いるものだ」、という趣旨の記述が為されている。この根拠なき自尊心こそ漢方が抱える危うさでもある。この点で、私も長いあいだ間違いを犯していた。いくつかあげると、防已だけで効く神経痛・筋肉痛に防已黄耆湯を使う。センナだけで効く便秘に麻子仁丸や大黄甘草湯を使う。十薬や金銀花だけで効く皮膚病に十味敗毒湯や消風散を使う...もちろん生薬を単独で使うときの分量は大切な要件になる。反応を見ながら常用量の2〜3倍ときには5倍くらいに増量する。生薬には多種の有効・有害成分が含まれ、これを配合したものの相互作用は全く不明の限りである。にも関わらず漢方家からの発言は無責任極まりなく、「配合することにより効果は増し、被害は緩和される」と、まるで本質が見えていない。配合することで余分なものまで服んでしまう恐れがあり、実際、配合剤には濃厚さゆえの胃もたれや悪心、発疹がしばしばみられる。さらに、加減・合法を重ねると実際の経験則からも離れ、困った相互作用にさらされることがある。10種もの生薬を配合した場合、その化合物数はおびただしいものになるはずだ。中医に至っては20種を超える配合も行う。類似薬能の生薬を思いつくまま重ね、エキス漢方に至っては処方を2方も3方も配合する。薬漬け医療はまさに漢方療法が発祥の地といえよう。治療家は証を検討し、処方を考え調剤をすることで、計らずも壮大な空想哲学の迷宮を漂流するのかも知れない。

病気は治るもので、治すのではない。小さな傷は放っておいても、そのうち跡かたもなく消えてしまう。つまり、生体には自然治癒力が備わっているのである。そして、薬はその薬理作用を介して、プラセボは精神を介して、自然治癒力の回復を促すのである。それゆえに、気休め薬を与えただけで30数%の治療効果が得られ、それに自然治癒力を加えると50〜60%の効果が現れる。

ここで、冒頭の引用に返り点を付したい。漢方薬のみならず西洋薬についても、あるいは各種治療法についても気休めが多くを占めているのではないか。療法と治癒の偶然の一致が治療家に自信と誇りを与えているのかも知れない。人が備えている治癒力の発揮を手助けし、できることと、できないことを知り、気休めやプラシーボを有効に活かした治療こそ「漢方を知ること」につながるだろう。

【注】相良知安(さがらちあん・1836年 〜1906年)は佐賀藩出身の蘭方医。オランダ人医師ボードインにより医学を学ぶ。明治初期の医療行政において文部省医務局長などの役職を経験し、明治政府にドイツ医学の採用を進言しその説が採用された。墓は佐賀市寺町城雲院に建てられている。現在の東京大学医学部の学長も務めたので、付属病院の寄宿舎裏手に記念碑が立てられていたが2006年、同病院の創設150周年記念事業の一環として新入院棟の玄関付近に移された。

相良知安については、医師で小説家でもある篠田達明著「白い激流-明治の医官・相良知安の生涯」に詳しく書かれている。その晩年は恵まれず、占師として糊口を凌いだ。私は血族ではないが、相良知安のご子孫と縁戚になる。厚意をもって紹介した次第。

中国における「中医存廃論争」について ー2008.3月のコラムよりー

少し前のコラムでアジア各地の伝統医学は凋落傾向にあることを書いた。しかし、癒しという人の営みは、現代医学だけで完結するものではなく、寸毫であっても希望を支え、医療の隙間を埋める伝統医学が終わることはない。漢方は圧倒的な現代医学の陰で、そのあり方を模索し結論を先送りしながら、いくばくかの実を得ているのではないだろうか。結論というのは「漢方が再現性のある科学足りうるか」ということだ。そして、先送りしているのはとりもなおさず漢方家たちではないだろうか。結論が蓋然性の乏しい希望であっては頼りない。私は自分なりに漢方の役割を心得ているつもりだ。多くを望まず、諦めもしない。しばらくでも漢方の仕事を続けていると、手に負えない病気、治らない病気のあることに気付く。それは自らの力不足として研鑽に励む動機になるが、やがて「日暮れて道遠し」の焦燥に囚われる。神のごとき治療家でさえ治せない病があることを直視すると、漢方に限らず医療の限界が見えてくる。そこから、出来ることを積み重ねていかねばなるまい。

「和漢薬」という生薬メーカーの業界紙で中医学の現状シリーズという特集が組まれ、中国における「中医存廃論争」について掲載された。漢方メーカーによる過大な漢方宣伝は腹いっぱい聞かされるが、負の情報の発信は奇特なものだ。存廃論争の発端は2006年春のこと...中国の雑誌・医学与哲学に甲南科技大学教授・張功耀氏の「告別中医中薬」という論文が掲載された。以下に要旨をまとめると..

  1. 中医中薬は、人々の病理と生理に対する理解を滞らせた。中医学は、現在まで科学化もできず、復古もできない状況にある。
  2. 中医中薬は、経験基礎を欠き、理論的基礎も欠いている。経験から発展してはいるが経験科学の段階まで達していない。
  3. 中医薬は、有効性を証明されずに濫用され、生物学的多様性を破壊している。
  4. 現在までに人類が勝てない疾病は多くあったが、中医中薬は、全部「弁証論治」できるとし、毒物・異物・汚い物を薬品として使い、患者さんのお金と時間と生命を消耗した。

この、4つの論点について、激しい論争が巻き起こったが、結論となりうるものは見出せなかった。漢方の学習は、昔も今も陰陽の概念や五行説の理解から始まり、古代の哲学を頼りに治療体系を構築する。たまたま思想に合致したかのような現象や科学で裏付けられた少ない証拠をよりどころとして、「古代科学」と呼び礼賛する。しかし、これはあくまでも哲学や思想にすぎない。このことが、現代科学の病理や生理の理解を妨げているという。いわゆる「別体系の..」という入口を持った疑似科学と同列のものであろう。解剖学ではなく、機能体として臓器をみるため「肝」ひとつを見ても肝臓や腎臓の働きを備え、脳神経や精神作用まで付与されている。イライラなどの精神症状を「肝が高ぶる」と説明すれば、それを証明したかのように錯覚し納得してしまう。ときには、現代医学の生理や病理の概念を都合良く借用するので、古代哲学にも徹し切れないでいるのだ。

古代医学や民間療法は経験の積み重ねを基礎として成り立つと思われるが、経験科学の段階まで達していないという。経験科学については勉強不足なので、多くを語ることはできないが、薬効に対する統計学的淘汰を受けないまま、3た論法(○○を使った、治った、ゆえに効いた)を根拠とした有効性は経験の集積段階で足踏みし、検証されることなく使い続けられてきた。現在の薬効検定が確立したのはそう古いことではなく、西洋薬も近代までは3た論法で使用されたであろう。漢方家は漢方的な病理・病態があるため新薬と同様の薬効検定には馴染まないという。たしかに、処方決定には治療家の感性や思惟がバイアスになる恐れがある。漢方薬の統計的薬効検定は、症状から大まかな病態の分類を行い投与後の結果をみるというものだ。薬効があるならプラシーボ群より有為性がなければならない。ないことを証の把握の適否で逃げることは許されない。日本で行われた大がかりな試験ではプラシーボのほうに高い有効率が確認された。初学のころは漢方的診断に慣れるまで資源を浪費しながらの練習になるが、熟達者と比べ、どれほどの違いがあるだろうか。利益の得られない治療のあることは医療に付きまとう宿命だが、漢方はとりわけ無駄に顕著なものがある。体に優しい自然薬は貴重な生物資源の浪費の上に成り立つというジレンマから逃れえない。

漢方では、すべてあらゆる疾病・症状に対する弁証論治が可能である。この便利さこそ古代哲学の為せるところであるが、生身の体には克服不能な壁が厳然として存在する。老化や治らない病気についてさえ治療法の提案ができるが、そこまでだ。提案が無駄とは言えないが、そこからは心の隙間を埋める作業になる。漢方家や治療を求める患者は意義を強調するが、排斥論者は無駄でお金と時間と生命を消耗するという。毒物・異物・汚い物とは生薬のことであろう。難病になるほど珍奇な生薬が使用される。アブやゴキブリ、蛇、ミミズ、蛆虫、動物や人の糞尿まで...挙げれば限がない。これらの生薬が医薬品としての証拠があるか?と問われるなら「ない」と答えるしかない。

この論争で中医廃除派の論客たちは、すべてが医学分野以外の人であるのに対し、保存派は、中西医学の学者が多く、中医学の欠点やトラブルを除くことには賛成するが、中医廃止には反対する点で一致している。

論争の意義はこれだけではない。特に中国の知識階層の人々、最も重要なのは政策を立案する専門家や政府職員に対して、この論争は「医学体系の違い」、「価値体系の違い」に限らず「科学を信仰として評価する」ことを吟味することも必要なのではないかと示すこととなった。この点から見ると、論争は中医学の存廃と運命などの意義を超えたものとなった。

中医又は漢方が民間療法であるうちは科学的でなければならない意味はそれほど重くはないのかも知れないが、医療や医学の一分科としての地位を確保するためには、科学的裏付けは必要となる。しかし、なにごとも科学だけで動いているわけではない。科学で明確な線引きをして適否の判定ができるものは限られる。とくに医療など科学で未解明な要素が多く、心が関わるものは科学的判断よりか、希望を抱かせる治療家が好まれる。人の活動は文化や哲学など混沌とした要素の集合体でもある。科学はあくまでも再現性や客観性などの一面を現出するものだ。科学は精緻なものかもしれないが、信奉し他を排除することは科学的とは言えない。

冒頭で私は「自分なりに漢方の役割を心得ているつもりだ」と書いたが、能力の限界と先の少なさから、今後追及していく姿勢は放棄した。物足りないのはお許し願いたい。それでも、仕事を続けるのは生活のためと漢方が好きだからだ。科学的ではないが、漢方ならではの利点を感じることが、支えとなっている。解表、補腎、和解、於血この4つは私が最初から西洋薬より漢方薬を選び、またお勧めするものだ。解表:風邪の初期に用いる葛根湯や銀翹散、補腎:腎機能の異常や免疫力が低下したときに用いる六味丸や八味丸、和解:風邪など長引いて微熱が続く時の柴胡剤、於血:血行障害に用いる桂枝茯苓丸。「うまいものを食べて休養せよ」と言うしかない西洋医学に比べ、一定の成果が得られるものだ。他の漢方薬は捨ててもいい、この4つだけは持っていたい。漢方の科学的な位置づけは困難だし、一層のこと位置づけしないまま実利も不利も合わせ呑むことで居場所を見つけることができないだろうか。私は学者でもないし、講演をしたり表舞台で論戦を挑む力もない。「服んだ、治った、良かった」の3た論法で、お客様に喜んでいただければ十分である。敢えて、漢方が効いたなどとは言わず「3た論法」で愚直にやっていきたいと思っている。

 

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