【病と文化(1)


健康を語り続けるうちに、理屈どうりにはいかない様々な考えや行動に気付かされる。最新の検査器機の示す診断結果に納得しながらも、なぜか煮え切れず別の治療を求めたり、もっと奥深い理由を探し祈祷所を尋ねたりすることがある。難しく考えるまでもなく水の流れが低きに向かうように「なるようになる」のが世の常である。ここでは健康に対する「なるようになる」ものの正体を考えてみたい。体に不調が起こるとまず混乱とストレスにさらされる。それが軽い症状であったとしても、大きな危機の前触れではないかという疑念が払拭されない限り不安は続く。医師の診断であれ、知人の経験談であれ、異変についての納得がいけばひとまず安心だ。納得には確かな診断や正しい実態の把握でなくても構わない。病気は人生に生起する多くの問題や困難のなかで最大のものかも知れない。時には死の淵を垣間見ることで生そのものに対する気付きをもたらすことがある。正しい現状の認識も大切であるが、生きていく上では誤認し紛らわすことのほうが多く、そのほうが有益に機能する。科学的に現状を把握したつもりでも、人類が培ってきた文化としての身体観や健康観に暗黙のうちに支配されているからだ。例えば病因として白血球やリンパ球の働きを引き合いに説明を受けるより、血液ドロドロとか血行障害などの言葉が理解や納得がしやすい。また、医師もそれを心得て平易な説明を試みる。これには共通の文化的土壌が不可欠である。ある民族では霊や魂を病因と看做しそれに基づく癒しの技が受け継がれている。ここに代替医療の原点が認められる。

ヒトとしての病理や生理現象は一様でも、文化が異なると、それに対する反応や行動、感じ方も異なる。大枠の文化圏又は限定された地域、さらに個々人の性格や生活環境でも異なってくる。この多様性をひとくくりにして効率と再現性を重視するのが西洋医学である。その利点と功績は大きいが、非合理、迷信として切り捨てたものの中には学ぶべき「癒しの文化遺産」が横たわっている。科学的根拠は乏しくとも代替医療で治癒する症例はいくつも知られている。伝承された疾病観と癒しの技法は各々の文化圏に於いてのみ有効なものもあれば、人類共通の土壌を持ち地域や民族を超えた普遍性を備えているものがある。現代医療の主流となった西洋医学は西洋文化を背景に科学技術と結びついて体系を築き上げてきた。再現性や実証可能な方法論が説得力を以って医学を席巻する。一方東洋医学は思想と結びつきその思弁性を高めることで方法論を練り上げ、徹底的な観察で臨床例を積み上げてきた。

数値や画像として確認可能な西洋医学は明快で解りやすい。実証という方法論は人の思考の基本的素養を為すものである。文化によって色合いは異なるものの、理知が第一に選択するものとしての資格は十分である。多くの人々が西洋医学の医療機関へと足を運ぶ。保険制度の恩恵で費用の点でも有利に機能し、ケガや病気が治癒し管理されていることに疑う余地はない。にもかかわらず、費用対効果さえ覚束ない代替医療になにを求めるのだろう。ここに歴史や風土に培われた人の健康観を見る事ができる。病気を知識で理解するのとは別に、病気にかかった意味を求める人々が居るのだ。白血球や免疫細胞ではなく、神や霊魂または前世の因果を病因の筆頭に置く文化があるし、人々が居る。何事もない日常が淡々と流れていく、今日もまた同じような一日が過ぎ去ろうとするとき、突如、心身の不調に見舞われる。現状を医学的に説明できても、その理由に納得がいかない、あるいは医学的原因が不明である。なぜ突然に...なぜ私の身に...と、思いを巡らすうちに、彼岸の墓参りを欠かしたこと、あるいは川に塵を捨てたことに気付く。これは先祖の霊の仕業ではないか?水神さまの祟りではないか?と祈祷師に伺いを立てる。まさにそれらしき解答が得られ、「お祓い」という儀式をもってパトスは解放へと向かう。祈祷師の技は代替医療の治療家の技に通底するものがある。このように心の在り方は大きく治癒に関わり、多少の不安などそれだけで治ってしまう。最先端の技術を誇る現代医療とは裏腹に、祈りや伝承による癒しの文化が並存し続けていく。科学技術の進歩の反面、精神文化は古代のままである。これは劣っていることではなく、むしろ癒しの遺産として輝けるものだ。様々な代替医療の技から、現代医療に欠落した部分が朧気ながら浮かび上がってくる。癒しは人類の文化が関わる心のケアーでもあるのだ。

西洋医学は圧倒的力で他の追随を許さないが、代替医療が消滅することはない。西洋医学の反証として求めるほかに、伝統的な身体観とそれに基づいた癒しには根強い快適さがある。西洋医学は分子や原子レベルまで究明し、病気の説明は可能となった。しかし、それを統括する神を失ったため、一歩踏み込み「病気に罹った理由」について無力な説明しかできない。病には理由が、治療にはイメージが大きく関わり、癒しには技術や知識とともに「心」が問われる。西洋医学は病因と疾病の因果関係の明確なものについて最大の効果を発揮する。手術によって病巣を切りとる、薬物によって病魔を駆逐する。また古びた血管や関節を交換することで、生まれ変わるイメージを与える。ところが慢性病や生活習慣病、老化に伴う障害、原因不明の病気については治療方針さえ示すことができず対症療法に収拾する。代替医療や癒しに関わるさまざまな宗教には、この分野での回答が用意されている。

不明な原因を「気の流れ」「血液の汚れ」「神の気付き」...とすることで病因も治癒も明確なイメージとなる。人は科学や理知をこえて「不安解放」の方策を持つ治療体系に依存する。そこで、他の医師へのはしごや代替医療、宗教への歩み寄りが始まる。また、元来の価値観からファーストチョイスを代替医療や宗教に頼る人々も見受けられる。治癒のイメージは健康のイメージでもある。健康の定義は明確ではなく、苦し紛れに不健康ではない状態と言い替えることさえある。健康と不健康の間を揺れ拮抗す体調を想像すると、病気の状態はやがて健康に、健康状態は病気へと揺れ戻すことがわかる。代替医療が重視する丁寧な問診や診察や手技は揺れ戻るバランスを認識させる。苦痛が軽減し快さを感じたならそれは治癒のイメージであり、治癒そのものでもある。このように自覚症状を聞き取る問診は病的状態を患者に認識させ、治癒を感じさせる効果を持っている。問診に頼った頃の西洋医学に比べ近年では検査や画像診断が発達し、問診は軽視されがちである。救急医療や重篤な疾患は例外として、慢性病については問診を通した治癒や健康のイメージを患者に示しにくくなっている。数値や画像での改善より、自覚症状の改善こそが生き生きとした治癒なのだ。しかし、ここにも問題はある。症状の改善や快適さの反面、病状が進行しつつあることは充分考えられる。代替医療や民間療法において指摘される脆弱性でもある。では、西洋医学に代替医療や宗教を取り入れた医療機関は盤石なものであろうか。ホリスティックとか統合医療などと標榜する病院があるにはあるが、いまひとつ大きな広がりを見せるまでには至らない。高額な費用負担や施設の少なさばかりではなく、患者は、もう一歩、もっと良好、まったく新しい...などの希望を「他の別なもの」に求めるのだ。別の医療ばかりではなく別の未知の施設での生まれ変わりに期待を寄せる。癒しはトランスパーソナルといわれ、自己変容の境地を求める冒険でもある。しかし、生まれ変わるのにも限度がある。

慢性病や生活習慣病の多くは老化現象と言っても過言ではない。病気が増えたわけではなく病名が増え、病気と看做されなかった症状が、検査数値の導入やその基準の引き下げで新たに病気として作り出されたものだ。その恩恵も大きいが、恩恵ばかりではないはずだ。一見逆なようであるが、医療機関や医療従事者が増えると医療費も病気も患者も増大する。検査数値や老化現象を指して「境界域の病人」として予防医学の必要性を啓蒙する。引き下げれた病気のレベルと、引き上げられた健康のレベルの狭間で否応なく健康を希求し病に恐怖する風潮が蔓延する。健康病とさえ言われるように、健康でありながらも病気(老化)に怯え不健康な観念と行動に駆り立てられる。些細な症状を気遣い病院へ行く。日々の養生にと食を見直す。環境の清浄さに潔癖になる。健康情報を徹底的に収集する。適度な運動のためにと街を徘徊する。日常生活に向けられた病因と理由により、健やかな生活さえしておけば老化しないような錯覚を抱くことがある。時間と経済的余裕が情報と結びつき形成されたものが「健康病」である。

1961(S36)年に国民健康保険が導入される以前は滅多に医師にかかることはなかった。費用の点もさることながら医師も少なかった。助かる命か否か、費用対効果などあらゆることを苦慮した挙句、しかるべき決定をくだしていた。今ほど重厚な検査も無く医師の見立てで病名が決定され、現在なら異常ナシとされるものを病気とし、病気であるものを見逃したかも知れない。またあるときは、費用や家庭の事情で病人とはせずただ養生の指示にとどめることがあったかも知れない。検査機器がない時代の病気の判定は観察と自覚症状と勘に頼ったが、そのための利点も大いにあった。検査数値は集団の平均値を示しているだけで絶対的基準とは言えない。また、老化現象による不調や数値の変動は生物であれば当然出てくるもので、画期的な治療効果が得られるわけではない。このことを解っていながら「老化」から目を背け抵抗しようとする。健康や病気、死のイメージさえ描けないのだ。生きていくことは老いることでもあり、老いは不調を抱ながら生を全うすることでもある。40歳より50歳そして60、70と歳を重ねると日毎どこかに違和感を覚え完璧な体調のないことに気付く。40には40なりの、70には70なりの不調や障害が見られる。苦痛は積極的に除かねばならないが、根本的な解決は「若返ること」に他ならないのだ。加齢による不調は認めたくないし認めても、乗り越え生まれ変わる希望を抱き続ける。不老長寿の見果てぬ夢を追い新しい治療や医師を探し、代替医療を転々とする。「ポックリ死にたい」と言いながらも苦痛に耐えることはできない。40代で20代の健康を、70代で50代の健康を求める必要はないしできもしない。

古くは家族や狭いコミニュティーの仲間が病人の介護をし、死を看取った。死者を送るために祭壇をあつらえ炊き出しをする。看護から見送りまでの過程を通して病や健康や死をイメージし現実を直視してきた。子供の頃から死を身近に見聞し、成長するにつれ世話をし、やがて世話になり、周囲に看取られて終わる人生の縮図が描かれていた。農業などの村落を中心とするコミニュティーがいつの間にか機能しなくなり、病院や施設を利用し、葬儀は丸ごと業者任せが多くなった。医や食の文化の一部は「農」という共通、共同の作業をつうじて培われたものではないか。過ぎ去った文化は当時の社会の価値観や生活を反映するもので、いまは陳腐なものかも知れない。しかし、いくらかは学び、またいくらかは脈々と通じるものが残ってはいないだろうか。医療情報が複雑化し高度になればなるほど専門家と素人の知識の差は広がり、単一の説明では困難に直面する。健康や病気に対する考え方や行動は随分変ってしまったが、その意味を求める根源的な行動様式は変らない。繰り返しになるが、病気を分子や原子レベルで語る人もあれば、血液ドロドロや血行障害で納得する人もある。また霊や魂の気付きとして受け入れる人もある。だが、科学用語と霊界用語にいかほどの差があるというのだ。知識は複雑で高度になっても、意味を求める人の本質はなんら変っていないのだ。科学的証拠ばかりが治癒をもたらすものではないことは治癒のメカニズムを知ればすぐにわかることだ。個々人の医療行動の複雑さや意外性、不条理さは本人も気付かないうちに、大きな枠組みでのヒトの深層や文化や価値観に支配されている。この遺産の中からより良い癒しを模索することが西洋医学にも代替医療にもまた一人一人の養生にも意義をもたらすだろう。人の欲望や価値観は「まだ足りない」と思うところに最上のものがあるのだ。まだ満たされない状態で少しだけストレスを抱き、より良いものや、より良い状態を求め右往左往し続けることが、健康の実体であり、人生そのものではないだろうか。

 

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