【プラシーボの癒し(1)】


偽薬のミステリー パトリック・ルモワンヌ著 小野・山田訳 -2008 Aug.コラムより-

そんなにまでも屈辱的なことなのだろうか?患者にとって、病気が治ったのはそのすべてが薬の薬理作用に原因があるのではなく、患者が医師に対して抱いている信頼感にも起因しているのだということを実感することが、本当に不名誉なことなのだろうか?

「病気は医者が治すのではない。治るのを手伝うだけだ」という言葉がある。まことに謙虚なことで、公の場ではこれくらいの挨拶をしなければ治療家として好感をもたれない。一方、患者が治癒力が発揮されたと言えば、不快を隠さない治療家もいるだろう。いずれも治療現場では言わなくてはならないことと、言ってはならない事である。治療に心理的影響が一部でも貢献したことを認めるのは治療家にとって自己矮小化につながるため、虚心坦懐には受け入れ難い。私が治療家と書くのには訳がある。医師だけでなく治療を決定できる人々には少なからず普遍的に医師に見受けられる社会的な態度やプライドを備えている。彼らをひとくくりにして治療家とするほうが話がしやすい。治療には父と子あるいは母と子、師匠と弟子のような主従関係が伴う、「患者と協力して」というのはあくまでも儀礼上のことで治療家の方針に従えないなら治療家を変えるしかない。治療家は父や師匠、時には神のごときプライドを備えているからこそ偽薬効果(プラシーボ効果)を発現させることができる。しかし、普通そのことを認識している治療家は少ないだろう。どのような病気についても治癒には偽薬効果を伴うものだ。偽薬効果とは人の心のメカニズムでもあり、癒しの領域だけでなく生活の多くの側面に登場する。それはそうだろう、治療家と患者の関係に生じるものなら、父と子、先生と学生、社長と社員、店員と客などの関係にも存在する。

科学が解明したことは尊いが、それを墨守するなら、医療には冷たい風が吹きすさび時には不都合も呈するだろう。これは現場の人々がもっとも痛感していることでもある。たとえば治験薬や新薬の処方、新たな治療法の適用について、科学だけで運用されるわけではない。そこには治療家の願望、著者に言わせれば「はったり」による偽薬効果(治癒力)が秘められている。「ムンテラ」という医学用語がある、いまではインフォームドコンセントと言われるが、語源はMund Therapyというドイツ語で「口の治療」とう意味だ。これが「はったり」とか偽薬に近いものであろう。

医師のはったりはうまくいくものだろうか?それがうまくいくのである!強壮剤はよく効くし、静脈強化剤もとりわけ御婦人方の脚を強くする。血管拡張薬は記憶をよくする。その効果は長期間持続しなくとも、勇気を失わない程度にちょっとだけ効けばよいのである。
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近代医学は偽薬の秘密をもっともよく知っているのに、その効果に比して偽薬を蔑視するのはなぜだろうか?

付された疑問符はあきらかに反語表現である。著者の思いは偽薬効果に期待を寄せるのは不名誉ではなく、蔑視せず積極的に利用すべきだ、というところにある。治療家は知らず知らずのうちに偽薬効果を生かしつつ、そのことを気付かないか疎んじている。科学的証拠を集めるのと同じく、偽薬効果の研究を行うならばもっと生き生きした治療が実現するかも知れない。偽薬効果の蔑視や否定では科学的証拠さえ曇ってしまう恐れがあるのだ。科学的証拠を重んじるようになったのは古いことではなく、半世紀も前までは、伝統や伝説又は希望で薬を用いた。民間薬や漢方はその最たるものであろう。これをさらに純化したものがホメオパシーである。確実な薬効は曖昧なまま伝承や観念で「薬の心霊体」を創出する。そのための手続きは古典であったり、仰々しい手数を踏んだ薬の調整であったりする。しかし、その根本は単純な考え方が支配する。不足したものを補う、病因を遮断する、治癒を象徴するものを服用する、、など。この系譜は現代の健康産業に色濃く体現している。水ビジネス、健康食品や機器、代替医療や一部医療施設までもが、疑似科学まがいの落とし穴に陥っている。しかし、ここには多くの原石が埋蔵され、磨くことで癒しの輝きを発するかも知れない。

偽薬効果を生みだすための3つの要素は、1)治療の本当の力または見かけ上の力、2)医師の信念、3)患者の参加、この相互作用だという。珍奇な漢方薬や薄めすぎたホメオパシー薬、金箔を施し桐箱に入れられた高貴薬はおそらく見かけの力を演出するものであろう。これを治療家がevidenceの有無を疑いながら使用しても要素を満たすことは出来ない。そしていかなる舞台装置か話術かは不明だが、これに患者が感応する必要がある。一連の手続きが自然な流れで遂行されていくなら期待を裏切らないだろう。しかし、遂行されなくても、又、3つの要素に欠けるものや反するものがあっても偽薬効果は発現すると私は思う。知識や熟練、あるいは治療家の人間性に関係なく起る治癒を何度も見てきた。その中には、到底「薬の本当の力」といえないものが数多くあった。

未熟であれば、治療効果への盲従が信念になり、熟練すれば今までの成果が自信になる。オールラウンドな治療家は存在せず、ある分野での成功の積み重ねが自信の背景になり、やがて治療家は患者を選び、患者も治療家を選ぶ。こうして得意科目や専門家が生まれる。たとえば、私は漢方の特質を「於血と補腎と和解」と考えている。今までの仕事を振り返ると、こう思うに至った症例や信念が混沌として沈殿している。病態を錯誤して、和解法を勧めたかも知れない。於血ではないのに於血剤で著効を得たかも知れない。こうして自分の感性と根拠なき経験の積み重ねが漢方のイメージを作りあげ、次にイメージに基づいて漢方の特質を押し売りしているのかも知れない。治癒のメカニズムに不思議なものがあるように、治療家の観念にもそれはある。著者の言葉のように「偽薬効果に期待を寄せることは不名誉なことではなく、蔑視することなく積極的に利用すべきだ」ということを素直に実践できるだろうか。理知に目覚め風通しのよいところから俯瞰するより、目隠しのまま自信を肥大させていくほうが、治療家によっては利益があるのかも知れない。著者はフランス人だ。東洋人は理知を志向するものの理知に徹しきれず、西洋人は理知から霊性を志向するものの理知の縛りから逃れえない。私たちが癒しと呼んでいるものは霊性を彷彿とする響きがあり、ことさら意識するものではない。おそらく西洋人はここに理知のメスを突き付けるのであろう。科学で理解可能なら再現性があり、もっと深くもっと広く応用できるはずだ。東洋人の語る東洋より西洋人が語る東洋のほうに圧倒的迫力を感じるのはこのあたりに理由があるように思う。

医学はたえずふたつの傾向、化学的な考え方と錬金術的な考え方の間で揺れ動いてきたことが分かる。化学的な考え方は演繹的な方法であって、自然が犯した誤りを対立の原則を拠り所にして正していこうとする。そのためには有害なプロセスを妨害しなければならない。

自然を最上の摂理とする考え方は根深い、ただの現象でしかないものに法則を適用したり、不都合なものを容認したり、それに従うべきと諭したり。この傾向は東洋思想に多く見られるものだ。老子、荘子にみる無為自然を語るまでもない。この両極の考え方は実は遠く隔たったものではなく、一なるものの要素でもある。免疫療法やワクチン療法など自然哲学を体現する科学の分野は確実に成果をあげている。偽薬には人類の叡智が息づき次なる発展を待ち望んでいる。興味深いだけの知識に終わらせるべきではない。

礼儀正しさと社会的な平和とは、多くの場合、小さな嘘の積み重ねの上に成り立っているものである。
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治療に関する人間関係は、契約という枠組みの中にあるからである。病気の症状に苦しむ人物が、専門的知識と公式の免状を手にする別の人物に相談し、金銭を渡す。両者の間で暗黙のうちに契約が交わされるが、これは結果を保証するものではなく、手段を保証する契約である。

施した薬や治療で治らない場合がある。老化などの病気については治らないことこそ当然であろう。「治らない」、「老人病」..などと言えば患者を失望させ怒りさえ買うことがある。私は薬の販売で糧を得て現在に至っている。この間、効かなかったから「金をかえせ!」とは一度も言われたことがない。実はあまりに気の毒で返金したことは何度かある。このことについて不思議に思っていた。薬が効かなかった人は、なぜ金をかえせ!と言わないのだろうか。「手段を保証する契約」という著者の言葉で疑問が氷解する。いままで随分、ばかばかしいことに悩んでいたものだ。たとえは悪いが馬券、株券を買うのと同じく、先の保証がないことは暗黙の了解事項である。近年、医療訴訟が増加する傾向にある。ミスのなかには明らかなもの、灰色のもの、不可避なものがある。医療とはそれほどリスクの大きいものだ。患者の権利が守られるようになった代わりに訴訟の多い、外科系の医師が減少しつつある。医師も治療家も「結果を保証する契約」を突きつけられたら困惑を隠せないだろう。

 

 

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