【プラシーボの癒し(2)】
プラシーボの治癒力 ハワード・ブローディ著 伊藤はるみ訳 -2010 Oct.コラムより- |
神秘で始まり神秘で終わる--冒頭に記された言葉は癒しやプラシーボを語るキーワードでもある。努めて科学的であろうとしても癒しにつきまとう神秘の影は拭えない。神秘とは「解らない」の婉曲表現でもあるが、未知の領域をを追求する道程において科学と神秘の風景は繰り返し現れる。癒しを目的とする医療では感性で語る部分が多く、この「語り」がプラシーボの治癒力にも関わってくる。理屈や経験をはるかに超えた出来事を奇跡と言い、私たちもしばしば耳にするし、医療では「奇跡的治癒」として語られる。科学的根拠が希薄な薬草や食品で起った治癒は一般にプラシーボか自然治癒とされるが、難病が治れば「奇跡」や「神秘」といった表現がとられる。治癒の実例は、強い説得力を有し、病が重篤であればあるほど、薬や療法には神秘の評価がなされる。そこに多くの人々が殺到するが、誰しも一様に可能なわけではない。薬や療法の評価の困難さを科学で克服し、再現性を計るのがいわゆる新薬であり西洋医学であろう。 新薬の評価はプラシーボ効果や自然治癒力を排除した試験が遂行される。排除して残ったものが真の効果とされているが、果たして完全に排除できるであろうか。プラシーボについて考えれば考えるほどその神秘に打たれる。普通プラシーボといえば、小麦粉や乳糖、またはそれを詰めたカプセルや錠剤を想像する。更に凝ったものは、試験薬と色や臭気を似せたものがある。緩やかな作用を持つ物質を治療に利用したり、治療目的と異なる薬物を用いるのもプラシーボと考えられる。著者によるプラシーボの定義は以下になる。
希望、信念、期待を抱くことがプラシーボ効果の要件であることに異論はないが、プラシーボで起る害作用にはさらに別の意思も働く。プラシーボとは物だけでなく、物も含めた出来事に心と体が反応する現象である。定義を広くすると、日常生活の多くの場面にプラシーボ的なものが見受けられるが、ここでは癒しに限定して話を続けたい。同じプラシーボでも人によって違った発現をするし、悪しき結果をもたらす事がある。プラシーボは人によってシンボルの意味が異なるのだ。到底ありえない作用の薬物で胃痛や吐き気や下痢が起ったり、薬で治すはずの症状が発現したりする。本物の薬さえ、シンボル的意味が潜み又は投影することでプラシーボ反応が起こる。 薬効の検定ではプラシーボ効果と自然治癒力が排除された。プラシーボを考える時には自然治癒力を排除する。病気の自然な経過による治癒、放っておいてもやがて回復に向かう力が私たちには備わっている。たとえば風邪をひいてもやがて治ってしまう。治る時期と治療や投薬のタイミングが合えば、薬は効いた、名医だ、という話になる。プラシーボが関与し、自然治癒力を励起させるとも考えられる。著者によれば、プラシーボ反応には治癒力を引き出すシンボル的な意味が必要であり、それによってプラシーボと言う特効薬が体内で製造される。プラシーボというのは所謂「偽薬」で、これとプラシーボ反応とは必要に応じ使い分ける。プラシーボ反応はプラシーボなしでも発現するし、むしろプラシーボから離れた動作に本質がある。実際、乳糖や小麦粉で起るプラシーボ反応はわずかであった。 プラシーボが知られるようになった当初、心理的影響の強い疾患に用いられた。現在でも明確な診断がつかない不定愁訴などに用いられる。プラシーボが効きやすい性格があるのかも知れないが、研究の結果プラシーボ反応を起こす性格的要素は見つからなかった。偽薬で病が治ることを軽んじ嘲笑する傾向もあるが、誰しもプラシーボ反応の恩恵を受ける可能性がある。調査によると強い不安を感じている状況でこそプラシーボ反応が起きやすいことが分かった。また、プラシーボだということを正直に告げても反応が起ることがある。
砂糖で良くなるなら、得体知れずの健康食や漢方薬でさえ可能だ。得体が知れないからこそ期待をかき立てるのかも知れない。正直に正体を明かしても、治癒例を示せば薬として機能することがある。ところがこの実験にはいくつもの示唆深い反応パターンが見られた。まず、プラシーボであることをそのまま信じた人と、プラシーボというのは嘘で実は本物の薬だと信じた人、いずれも、確信のないグループより回復度が高かった。このうちプラシーボだと信じた人に尋ねると、ほぼ半数の人がプラシーボを飲んだから回復したと考え、後の半数は症状を改善するために、絶対何かが出来ると自分に言い聞かせていたという。また少数はプラシーボだから副作用がないことに安心した。全体を通してプラシーボだと信じたグループは副作用をまったく報告しなかった。対照的に本物の薬だと信じた人たちは、本物だから症状が改善したと考えた。一週間だけの治験であったが、予想以上の効果について「患者は治験が終わったあとの治療への期待や、医師を喜ばせたいという気持ちがあった可能性も否定できない」と考察している。日々多くの患者に接する治療家は、彼らが多様な感情や思いを抱くことを念頭に置くべきであろう。ここには患者との相性も深く関わってくる。 自然治癒力とプラシーボ反応の違いは、メッセージにあった。偽薬という物を介しない手術や話術やその他の所作によっても治癒が起る。メッセージが心を刺激し、刺激を受けた心が新しい化学的経路のスイッチを入れたり、すでに動作している経路の作用を強めたりすると考えられる。西洋医、漢方医、カイロドクター、アロマなど各種療法の治療家はプラシーボ反応を理解する人も居るが、自らの療法の正当性や優位性を主張する人が少なくない。しかし、自然治癒力を生かし、そこに関与していることまで否定する治療家は稀である。 プラシーボ反応を発現させるメッセージとなるものに「期待理論」と「条件づけ理論」の2つが知られている。期待理論はある薬を与えられたとき、その薬が不活性物質であっても、回復を期待していれば回復する可能性が高くなる。プラシーボだからといって気分だけに作用するのではない。本物の薬と変わらぬ反応が起こり、ときには本物の薬を逆転させるほどの力のあることが報告されている。錠剤などの内服より手術や注射は強力な治療法だという思いが有利に働く。心臓の冠動脈バイパス手術が普及する以前、胸部動脈結紮手術が行われていた。この際、開胸しただけで閉じたところ、ほぼ70%もの患者で良好または可という結果を得た。傷口は残り、切開した際の痛みなどがプラシーボ反応を促したのだ。この研究は胸部動脈結紮手術の有効性を検証するために行われたが、本当の手術を受けた患者とほとんど変わらず、その効果も持続することが分かった。プラシーボの条件は錠剤よりカプセルが効き、さらに注射がよく効き、とくに痛い注射の方がより効くことが報告されている。内服薬の色について、鎮静剤や睡眠剤は青、緑、紫色がよく効き、興奮剤や体力増強剤は赤、黄、オレンジ色がよく効くという。患者の期待が色にも込められ、ある患者は2色のカプセルの緑のほうから飲みこまないと効かないと信じていた。
プラシーボは期待理論でほぼ説明できるが「条件付け理論」もプラシーボ反応のある面を説明し予測するのに有効である。条件反応についてはパブロフの有名な実験がある。餌を見て唾液が出るのは無条件反応で、ベルを鳴らし餌を与える訓練をした後、ベルの音だけで唾液がでるのを条件反応という。プラシーボ反応においても、人生における意味深い出来事の時間的な順序が関連してくる。必ずしも薬効がなくても構わない、過去に飲んだ薬や食品、注射などで苦痛が緩和され、そのことが次回以降にプラシーボ反応の引き金として機能する。「癒し」には、薬や注射に限らずあらゆる出来事や五官で得た体験が生き生きと関わるのだ。それが意識下であれ、無意識下であれ十分に強い連想と打ち消されることなく繰り返される回数が重要である。 期待理論と条件付け理論を検証するため、複雑に計画された試験を行った結果、期待理論を強く支持する結果が得られた。条件付けの役割は、プラシーボが投与された後の症状が好転するという期待で機能するという。しかし、実際のところどちらが重要かはあまり考える必要はない。基本のメカニズムは両者とも当てはまるため、それぞれ別の視点から捉えただけなのかも知れない。 プラシーボ反応が発現するためには期待や条件に「シンボル的な意味」が必要になる。意味付けによって患者の脳内の化学作用が変化を受け、脳と身体の他の部分をつなぐ生化学的経路が変化し、身体組織が変わり治癒が起る。痛みに対する化学作用の本体はエンドルフィンではないかと考えられているが、すべてのプラシーボ反応を説明するに至っていない。またストレスとリラックスに関与するコルチゾールやカテコールアミン類の濃度などが考えられている。
医師または治療家との不愉快な出会いや関係は患者の健康に大きな影響を与え、最悪のばあいノーシーボ反応が出現することがある。しかし、ここにも多様な反応が想定され、極端な例では治療家に対する不信が癒しとなり、信頼が副作用を催すこともある。Evidenceもままならない代替医療の治療家が時として神のごとき治癒をもたらすのは、出会いに秘められた薬なしのプラシーボ反応と言えよう。 プラシーボという物質であれ、出会いという非物質であれ、そこに「癒しの意味」が付与されるとプラシーボ反応が起こる。私たちの人生を考えると、失敗や労苦でさえ過去の輝きとして記憶され、現在の自分の立ち位置に準じ意味が構成される。労苦はある人にとってはそのまま苦難の物語となり、成功者にとっては甘美な思い出ともなるだろう。苦難の物語に自らを投げ込めば、自らが作りあげた観念に脅え痛めつけられ、甘美な物語は心に安楽をもたらす。私たちは自らの体験から意味を見出しつつ、過去から明日へと歩き続けていく。体験を物語として記憶し語ることが、人生に意味を見出す一番の方法だという。物語には始めと終りがあり、構造がある。ある種の出来事の原因と結果を予測しコントロールが可能なのだ。積極的かつ強引に働きかけ「癒しの意味付け」を創作するのである。改めて言うまでもなく、私たちは物語を作って生きている。
EBM(Evidence Based Medicine:根拠に基づいた医療)については他の記事で繰り返し述べてきた。そしてEBMは尊重するが、「EBMのみで治療するわけではない」と考えている。EBMのアンチテーゼともいうべきNBM(Narrative Based Medicine)は「患者の語り」を重視する。ここで語られる物語が癒しの意味を持ちプラシーボ反応を喚起する。「医師が話を良く聞いてくれた」と患者が感じるなら、回復のための大きな手助けになる。人によって痛みの程度や我慢の限界は異なり、原因とされる物語も異なり、治癒に至る物語も異なる。苦しみの物語は、無意味さと孤立と絶望の物語だ。いくら医療を受けても物語が変わらないかぎり、その人の苦しみは続くだろう。別の物語を語る契機をつかめば苦しみは軽減し、誰かに訴え理解を得ることは癒しに欠かせない重要なものとなる。この点では、代替医療の手法が現代医療より一歩進んでいると思う。だが、現代医療の現状を考えると耳を傾けることが可能か?医者に言わせれば「退屈な話を聞いている間に何人もの患者を診ることができる」。混沌としたプラシーボ反応を待つよりEBMを選ぶだろう。
患者の話に耳を傾けたり、病状や治療の説明は治療家側にあるが、治療に積極的に関わり主導権を持ち、病をコントロールするのは患者側の要件である。しかし、自分でコントロールできると考える患者と、治療家に頼ればコントロールしてくれると考える患者がいる。積極的で希望溢れる物語を見いだすには、一律の対応では完結しない。文化も履歴も個性も多様な人間に於いて、ときには治療より困難を伴うだろう。絶望や不安の淵から如何にして明るみへ導くか。ここで代替医療の治療家やその手法に学ぶ点が多くあることに気付く。代替医療に批判的な人々は個々の療法やその手法の非科学性を指摘するが、「自然」、「体に優しい」を標榜する代替医療は、治療の主導権を握りコントロールするという実感を生み出しているのだ。例えば自然食では、自分で選んだ食材やハーブ・薬草を利用することで自らがライフスタイルを選択し実践するという意味を持ち、治療の主導権を握る。ここから広がるイメージは癌でさえ自分でコントロールし、それが困難なものであろうと希望が生まれ運命を切開く。代替医療の側から見ると、EBMなどくすんだものに見え、必要すらないように思われる。 プラシーボ反応を発現させるため、本書では物語を通して意味付けを深めることが例示されたが、物語の創作に馴染めないものがあった。物語の内容は一種呪術のような気がしないでもない。病気にかかったり、困難に直面したとき、人によっては祈祷師の下へ駆け込むことがある。そこで語られる因果応報、怨念、悪霊などの物語と除霊の手続きに古典的な癒しを重ねてみた。代替医療の治療家も言葉は違うが、呪術と変わらぬ手法で心のあり様を変えるのかも知れない。たとえば、漢方でいう気・血・水という病因を悪霊と言い替え、それを「○△という薬草で取り除く」としても本質は一緒だ。漢方薬と言うプラシーボを用い病という呪縛を解く仕事に他ならない。そのためにはまず治療家が理解し信じるに足る漢方理論という疑似科学が必要だ。要は患者の心に意味を投げかけ、治癒への生き生きとした希望が湧出すればいいのだ。しかし、どうしても解決されない運命が待ち受けている。私達は結果的に死から逃れ得ない存在なのだ。癌から生還したと歓喜してもいづれ死は確実に訪れる。癒しの物語も希望も永遠に続くものではない。
いづれ死ぬならば、病から気を去り、辛いけどその時を受け入れる準備をしよう。辛さを越えて今を生きる希望や日々の喜びが生まれる。死を前にした人、病に打ちひしがれた人との対話は、やがて自分が深刻に対峙すべきことに違いない。前に「患者との退屈な会話」と書いたが、患者の話に耳を傾け思索をともにすることは治療家自身の癒しに通じるものだ。治療家が必要ということではない、また治療家でなければならない理由もない。見知らぬ他人でもよし、親しい知人でも構わない。自分で癒しの物語を紡ぎだせる人は治療家の必要はなく、むしろ治療家の資質を備えているのかも知れない。 プラシーボ反応は希望あふれる提言であるが、反応がほとんど起こらない事もあれば、患者の期待が大きい時は70〜80%の率で発現する事もある。平均すると3回に1回のプラシーボ反応を期待して頑張るより、EBMを取る方が確実といえよう。しかし、それとて100%ではない。いずれを選択するにも患者や治療家の人生観や性格に負うところが大きい。プラシーボの研究は患者、治療家双方に新たな示唆を与えるものであった。患者は、あるとき治療家ともなり、治療家は患者ともなって相補する。治療家側からプラシーボ反応を考えると、いくつかの戸惑いは隠せない。患者の話を傾聴し、丁寧に対応しても、たび重なると本当に退屈で辛くなることがある。それを耐えることは治療家のストレスとして残る。また患者に頼られる事が大きな負担になり、やがて行き詰ることもある。頼られ期待に添えなかったとき、患者に失望と憎悪を抱かせないため、距離を保って対処する方法もあるはずだ。人間同士、わずかな齟齬が決定的に関係を分かつこともあるだろう。神秘や奇跡を現出させるためにプラシーボを考えてみたが、3つに1つのプラシーボ反応を求めて、工夫や努力が必要だろうか、改めてその難しさや面倒さに嘆息せざるを得ない。プラシーボなど知らないが、プラシーボ効果を生かせる治療家はたくさん居るはずだ。黙々とプラシーボを考える私が実はプラシーボを生かせないでいる。貧困な資質の代償として、考えることと文章を書くことが許されているように思う。いままでしてきたように淡々と日々の仕事をこなし、資質こそ乏しいが治癒に遭遇したとき、薬効か自然治癒かプラシーボかを迷う余地は残しておきたい。 |