【プラシーボの癒し(3)】


代替医療のトリック  -2011.Dec.コラムより-

【プラシーボ】

「終り良ければすべて良し」。結果はしばしば過程より重視され、事と次第では罪さえ減じられることがある。苦痛が緩和され病気が治るなら毒でも飲みたくなるが、小麦粉では効かない。この小麦粉を薬にする演出が代替医療の理論と技法だ。人の心理に深く巧みにかかわり効果を発揮することもあるが、効果があっても微々たるもので、ほとんどがまったく効果のないことが証明されている。しかし不確かながらプラシーボ効果で症状を緩和したり病気が改善されるなら、これに希望を託し「終り良ければすべて良し」といかないのだろうか?

プラシーボにもとづく代替医療は用いるべきではないと考える主な理由の一つは、医師と患者との関係が、嘘のない誠実なものであってほしいと思うからだ。この数十年ほどのあいだに、医師と患者が情報を共有し、十分なインフォームド・コンセントにもとづいて関係を作り上げていく方向にはっきりと合意が進んだ。それにともない、医師たちは、成功する可能性がもっとも高い治療法を用いるために、「科学的根拠にもとづく医療」の立場をとることになった。

一方、代替医療を信奉する治療家(ストレート)に上記の言葉は最初から最後まで響かない。しかし、Evidenceへの目覚めのある治療家(ミキサー)であれば、プラシーボの利用に際し嘘が伴ってくる。プラシーボ効果を最大限生かすには、その治療法が特別なものに見えるように誇張し、ときには偽装をも凝らす。「入手困難な薬草だ..」、「特許を得た器械だ..」、研究や症例の資料を示し「大学教授も認めている」、「効果は100%に近い..」など。説明のためには科学知識を駆使し、またそれを捻じ曲げたり、疑似科学にも頼らねばならない。患者を騙しすかし、曖昧でも納得の域まで誘導する。猜疑心のある患者はやや手ごわく、説明には時間と手間を要する。昔の医師も同じような手法を用いたであろう。現在、通常医療は科学的検証の篩にかけられ、効果のある治療とそうでないものが明らかになった。医療の人文学的部分については温故知新があっても良いが、科学技術的な逆行があってはならない。

かって医師がまとっていたマント --- 教師然として、家父長主義的で、神秘化して煙に巻く権威の象徴としての衣鉢 --- は、すでに代替医療のセラピストの手に渡った。

代替医療の治療家の嘘が真実を凌駕し、希望を呼び戻すなら、古い医療であろうと需要は続いていく。しかし通常医療の医師であれば学んだ知識を偽り、仕事に嘘が入りこむことになる。プラシーボは元来、正しい病気の原因や治療法の探求には排除されるものだ。ときには医師自らが代替医療にすがり、患者に勧めることがある。また、消極的にではあるが、代替医療の治療家を紹介する事もある。医療には無力感の伴うことがしばしばで、改善しない症状、回復の見込みのない病気は日常茶飯事だ。改善しても、さらに満点を求める患者、治らないと思いつつも希望を抱き続ける患者、しかし、老化や重篤な病気については症状の改善さえままならない。この手詰まりと、あきらめが代替医療への依存を後押しする。

医師が効果の証明された薬を処方すれば、患者には生化学的、生理学的な効果があるだろう。そしてその効き目は、プラシーボ効果によってつねに強められるということを思い出そう。薬の標準的な効果のほかに、その薬が効くと患者が期待することによって、標準的なレベルを上まわる効果があるはずなのだ。別の言い方をすれば、効果の証明された薬には、プラシーボ効果というおまけがついてくる。それなのになぜ、プラシーボ効果だけしかない治療を受けなければならないのだろうか?

代替医療の側から沸き起こってくるのは、効果プラス強い副作用があるという議論だ。「プラシーボ+薬効+副作用」と「プラシーボだけ」を比べどれを選ぶかの判断は難しい事がある。すべての医師が文献を読み込みEvidenceを確認しながら診療にあたっているとは思えない。薬の処方一つとっても種類だけ多く配慮に欠けるものがしばしばだ。専門分野でさえある程度までで、まして代替医療についての知識などほとんど欠如している。したがって、代替医療が無効である事も知らずに気休めと言い、逆に代替医療を紹介するようなことも起こる。すべての治療や薬物についてEvidenceを確認せよというのは理想だが、実際は困難なことであろう。しかし、そこを目指すという姿勢は医療に置いて欠かせないものだ。安易に薬を与えたり、治療を施す前に、回復不可能な老化、やがて治る不調、日々揺れ動く体調ではないかという内省が求められる。患者が求めるからという理由で安易な投薬や無益な治療へと迎合すべきではない。それがまさに根拠を欠く代替医療の手法そのものだ。養生、食養、運動、あるいは時を待つことのアドバイスを第一選択にできないものか。それでも、薬を求めてやまない患者のため「純粋な偽薬ではない偽薬」を与える方法がある。病に対処する何らかの薬理作用を持つ薬であれば、小麦粉を与える嘘をつかなくてすむし、真の薬効にプラス、プラシーボ効果が期待できる。

安全で有効であることが証明できる代替医療はなんであれ、実は代替医療ではなく、通常医療になるということだ。つまり、代替医療とは、検証を受けていないか、効果が証明されていないか、効果のないことが証明されているか、安全でないか、プラシーボ効果だけに頼っているか、微々たる効果しかない治療法だということになりそうだ。

1例の有効例は1%の偶然かも知れない、副作用は1例でも100%の必然かも知れないと疑うべきだ。患者に好転反応などと言って我慢を強い誤魔化してはならない。通常医療でも証拠のないものはたくさんあるが、ここからは漢方薬を考えてみたい。いまのところ医薬品として通常医療で利用され地位を得たかのような扱いだ。「天然物で作用が緩和」、「伝統的に使われてきた」、このていどの理由で認可され医療の舞台に踊りあがった。1979年から5年間かけて行った科学技術庁の研究で、プラシーボ同等、あるいはそれ以下という結果が出た。プラシーボにも劣る漢方薬とは一体なんだったのか、ずいぶん悩んだ。その後も既得権益は温存され、通常医療の現場で医療費と生薬資源を喰い続けている。大手漢方メーカーは「漢方を科学する」と謳い、生薬成分の薬理をもとに漢方処方の有効性を報告しているが、動物での薬理実験や症例を集めるという、テレビの健康番組の延長にたがわない。科学技術庁の研究を主導した医師は相変わらず業界に君臨し様々な提言を行ったり、漢方薬を処方し続けている。そこには何らかの希望や手ごたえを感じ、取るに足るものを信じてのことに違いないが、1%かもしれない偶然を30%も40%も割り増しするバイアスがあるのかも知れない。

自慢げに人に教えたことや、人生のいしずえとしてきたことが、間違いだったと認めなければならないような事態になれば、たいがいの人は --- こみいった問題をやすやすと理解できる人まで含めて --- 明々白々たる事実さえ認められないものだ。

EBM(Evidence Based Medicine)による治療に対し、NBM(Narrative Based Medicine)が語られるようになった。前者の、証拠に基づく医療に対して、語りや心を重視する医療である。これを両輪として全人的医療を提供するという思想だ。ここにプラシーボの居場所を確保しようという目論見もあるが、「終り良ければすべて良し」とはいかない。放置しても治る症状が紛れ込んでいれば、服用した時間と費用の分、生活のクオリティを奪うことになる。改善したものには自然治癒が含まれ、その偶然の一致で治療家は自信を深めてきた。「治療を受けたにもかかわらず治癒した」とき、漢方も含めEvidenceに欠ける医療は費用と時間を浪費したことになる。

医師が意識的にプラシーボを利用する事は現実に考えられる。プラシーボの治癒率は限界があるので、患者の心身の状態を正しく把握する必要がある。逆にプラシーボに無知な医師や治療家が効果を信じて利用するとき、様々な問題が生じてくる。とくにプラシーボを効くと錯誤した治療家は、もっとも有効な治療法を見逃したり、有害な治療を続ける恐れがある。漢方の治療家は特に懸念されることだ。昔の漢方の守備範囲は少なくともいまより広いものだった。しかし、西洋医学のめざましい進歩で、現在は漢方家が考えるほどの力はなく限定的なものだ。昭和の漢方復興期に傑出した漢方医が著した治療経験や論評がそのまま漢方の規矩として伝えらている。古典の学習が尊ばれ、古代中国思想や神仙思想の色濃く残る漢方理論は現代科学とは相容れない。どこか交わったり説明できる部分があったとしても多くは別の世界のもので、系統的レビューに於いて漢方薬は無効とされた。「治療を受けたにもかかわらず治癒した」、言いかえれば「漢方薬を服用したにもかかわらず治癒した」という事例はたくさんあるし、逆に治癒の足を引っ張ることさえあるかも知れない。

漢方処方は未解明だが、配合されている個々の生薬は科学的に解明され有効成分やその薬理作用が知られ、新しい医薬品開発の素材ともなっている。今後の漢方や薬草療法の方向性を示唆するものがある。ただ、その数は決して多くはなく、未解明のものがほとんどだ。その中で、多数の生薬を配合する漢方処方の相互作用や薬理の解明は事実上不可能である。漢方の仕事は古典を理解し医論を読み、直感的に処方を見出すことにあった。効かないときは処方を変え、生薬の配合を変え、分量を変え、ときには品質や産地を変えることで解決を図る。一連の仕事を系統的レビューで評価すれば、色や形、由来の違うプラシーボを探しているに過ぎない。

プラシーボは古くから知っていたが、漢方薬局を開業するまでは、漢方薬がプラシーボだとは夢にも考えなかった。開業して数年、高橋晄正の「漢方の認識」を読んで我が目と頭を疑った。1979年の科学技術庁の研究報告がそれを裏付けた。すでに居心地の良くなっていた薬局をたたむ勇気がなかった。その後、プラシーボでも、何らかの役に立ちお客様に喜んで貰えれば居場所はあるだろう。生薬で明確になった薬理は一定のEvidenceと言えるし、手応えという錯覚に埋没することで惰眠を貪った。いままで取り組んできたことがプラシーボであるとわかったとき、明々白々たる事実でさえ認めたくない気分である。

【参考図書】代替医療のトリック サイモン・シン&エツァ−ト・エルンスト著 青木薫訳

 

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