【塘 健・つつみ けん】


昭和26年、長野県生まれ。別府大学在学中より塚本邦雄に私淑。57年、第28回角川短歌賞得て後、本格的に師事、鉄槌を受ける。現在佐賀県杵島郡にて農業を営む。第一歌集「火冠」第二歌集「出藍」。師風を愛し畏れつつ、いつしか別途を驀進したい。

 

【現代の短歌 高野公彦 編 講談社学術文庫より】

一期はすなはち不会と緑濃き葉隠れの地に妻と存ふ

夢も見で而立過ぎたり風吹けば水田さばしるさ緑の波

青空へひとすぢ奔り去る水のそのかなしみを歌といふべし

不知火の海の微風を享けしかば四肢たちまちに蒼ざめにけり

鈴ふるごとき思ひぞ十月の宛名に記すアルヘンティーナ

木賊刈る信濃はいづこ還るべき故国持たざるゆゑに男ぞ

空の秋極まりしかばみみうらを星の触れ合ふ音ぞ過ぎける

邂逅は遥かなる過去かきつばた繁みとなりし雨の夕暮

水田に薄氷結ぶその朝夢のごとくに立てり白鷺

真夜にして胸つき上ぐるもののあり永久に雪ふる星こそ故郷

右住の江、左諫早、贈るべき哀歌無ければさはやかに右

さはれ八月わが頭上にも声ありき「此ノ星ノ名ヲ苦艾ト言フ」

不惑真近なかば錆太刀謙譲をもちて妻子に辱めらる

農夫はすはだかなどと気負えば片雲をまとひて旅に死ねと吾が妻

献体の手続きを終へ銀三十枚の重さをはかりてをりぬ

海鞘・海鼠・海月・言霊ことごとくあかねさす掌につつみおく

かがまりて物書くわれのいやしさを存分に吹き散らす秋風

出藍の書をしたためむ真夜にして身はわたつみのごとくとよもす

宵宵に増えゆく智慧をひけらかす子は青麦ののぎのごとしも

日日殖えゆくかささぎと星冬原に欅のごとく立たむ思ひぞ

  

【出藍(第二歌集)より】
しらぬひ筑紫の雲を征戎の衣とまとふ三月の医師

角の花舗にて求めたる拳銃を明日は百合若殿に返さむ

青嵐わが肉體を透きて過ぐ素志をたもつも羞恥のひとつ

はらみたる妻こそよけれほむらたつ紫陽花を光背に従へ

歌は言葉のみだるるはじめみづからを知れれば昏く宇宙耀ふ

しらぬひ筑紫の海にとどまれり不埒なれども愛すべき雁

樫・柏・椎の若葉のさやぐ声その名を負ひて沈みたる艦

苦艾摘めど盡きざりむらぎもの命の野邊を歩めるイエス

淫行のひとつにかぞふ白露をちりばめし石榴を食ふこと

愛はもとよりすべて達観せるごとき青年の乳香の唇

闘争心うすれつつあり白妙の藤の穂先に頬を打たれて

かささぎの渡せる橋も知らざれば今宵むさぼる肉の霜降り

おだやかにうすきあかねをうしなひて死にゆく雲のわれならなくに

雲と雲逅ひて別れしそののちのわれはまづしき男なりけり

わが胸の深き海そよ白妙の牡丹ひとつ咲きいでつるは

人の世にかけがへなきは憎しみにふるふ睫毛の曼珠沙華なれ

石榴のくれなゐを食む處女あり釈迦の阿難の後追ふなかれ

青空に星涵ち胸に愁ひ満ちて来るべきわが終焉の日に

遊戯会あなどるなかれ子が父を斬り伏せてすこやかに笑へり

花は人を選びて開く背後にて衣さやげるはイエスならむ

翡翠に似し口元が完膚なきまでわが歌をつらぬきとほす

友の死をわが歌となす日もあらめ月光は寒梅の香にみつ

鳥を追ふごとくに父を追ふ聲のその束の間の出藍の恥

旅に死す證と思へ胸郭にあふれたり初夏の光は

週末を思想に倦みてうたた寝の空の色こそわが心なれ

葉鶏頭月下に炎ゆる手術臺上のわが子に思い及ばず

二十九枚の銀貨は火の星をあがなふによし夫と換えむか

死後もうつつの鬱を愛せむ午過ぎて白妙の芍薬を搏つ雨

五月蠅とて神の恩寵母いまだすこやかにその手を合せをり

曼珠沙華いよいよ鮮しわれ遂に骨に彫るべき歌なさざらむ

医師は胃壁の荒れたるさまを縷縷と説く窓を染めさにづらふ楓

衆生縁無し嘯くもよし断崖を紅葉とともに舞ひ落つる日は

友と花柊の香を悲しめり死地を同じうするも未練

望楼のごとき吾を攀じ登りたる子に紺青の海こそ見ゆれ

四月穂麦の芒のしろがね地に満てる災のほか何を愛せむ

なにゆゑの怒りなりしやわが嬬は熟睡せる雄鶏を絞めたり

「明日は誰ガタマシヒ奪ラム」睡蓮のかすかなるささやきに戦く

夕焼けはにじむがごとしひとすぢの血脈をこの地にて断たむか

生くる罪もとより知らず霜月の空を汚して歌流れゆけ

海に散りかかれる紅葉禁欲の旅わが後の世に續くべし

首筋に食ひこむ吾子の指先の熱き思ひを誰かに告げむ

錐は聖書のごとき憂ひを総身に湛へつつ立ちつくす初夏

未生以前のわれを過ぎたる風ならむ泰山木の花ゆらぐなり

茴香のかをりかすかに漂へりわれに楽しきものの歌聲

黒松に驟雨ぞ注ぐこのごろは兄さへ遠く思ほゆるかな

曼珠沙華その金色の輪郭を濡らしつつ前の世に降る雨

【塘健氏よりいただいた歌】

温心堂主人 寧日ありやなし 壺中數千の罌粟を育てて

如月のいまだこころざしを恋へばゆらりと寒の椿がひらく 

野は黄金なす麦の波ラマンチャを思はねばこそからき涙す

うふ毛にもさはやかな殺意はありと掌上の三千歳のもゝのみ

 

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