【養生訓から慎思録へ】


養生訓は貝原益軒84才の出版である。その後、85才で慎思録が出版されている。読めば、古典や漢文で習った、聞き覚えある懐かしい処世訓が書き綴られている。しかし養生訓の延長として読むと、養生も人生観の一つであることが感じられ、益軒先生の思想や人柄が彷彿してくる。薬屋が深刻な顔をして人生論や哲学を語るのも陳腐だし、第一その能力もない。ここでは慎思録の中でも心に留めておきたい言葉5つを選んで紹介します。
 
   人生百歳に満たず。あに放蕩、日をむなしゅうしてこの生を
   空過することを惜しまざるべけんや。
人どんなに長生きしても100歳、それも一握りの人に過ぎない。人生80年時代になったのはそれほど古い事ではない。20才で子供を設け、20年で育て上げ、子供が20才を迎えたころは、天命が尽きる。という時代のほうが長かったのである。来世を信じていても、とりあえず80才近くになれば、現世とのお別れが近くなる。生まれ来たように、やがてそこに還るのである。
 
   人身夜裏熟睡すればすなわち来日力有り。
   天地の運、冬間寒気厳粛なるが如きは、すなわち無限の陽気を伏蔵し、
   来春に到って陽気大いに発揚し生物繁茂す。
   冬間温暖、陽気発曳するが如きは、すなわち来春発生の時に到って
   精神薄弱なり。
夜眠るのは、目覚め生きてゆくための活力を得るうえで大切な事である。自然もまた同じく、冬寒いのは、来る夏の陽気を温存するためである。必要なとき必要な事が出来ないと、必要なとき存分な力が発揮できない。絶えず物事に追われるのではなく、スピードを落し緩急を付ける事で、心も体も物事もうまく行くのではないか。
 
   君子の世に在るや、その道を知りて之を行うを楽しむ。
   是長生を貴ぶ所以なり。
   いたずらに生を貪り、死を畏るるに非ざるなり。   
君子と言わぬまでも、人として生まれたからには、人としての道を心掛け実行したい。それを楽しみとし、そのための時間を求めるが為、長生きを求めるのである。ただ目的もないまま生に執着しても、喜びや楽しみは得られない。
 
   楽の過ぎる所、すなわち是憂いの生ずる所なり。楽は憂いの根となす。
   憂いの在る所、かえって是楽の生ずる所なり。
   憂いは楽の根となす。是また禍福のあい倚伏する理とあい似たり。
快楽を求めすぎ、物を持ちすぎると、たちまち色褪せ退屈なものになってしまう。更なる強力な刺激や、より良い物を求めたくなる。やがてそれがストレスとなり、幸福と羨むものでも不幸の種となる。幾らかの悩みや禁欲を科して、その実現の楽しみを求める位が、最もな幸福、あるいは快楽かもしれない。無一物、無尽蔵、、、
 
   人の性おのおの分あり。須くその性分の及ぶ所に随って、
   分内の事を為すべし。悔いなき所以なり。
   もし分外の事を為せば、すなわち力その任に耐えず。
   悔いに抵らざる者すくなし。
教育者は大概、人には無限の能力があって、努力すれば報われるという。そして若者を勉学、スポーツへと駆り立てる。励ましとしては悪くはないが、努力だけで誰もが総理大臣になれるわけもなく、ノーベル賞を頂けるわけでもない。自分の能力に応じて生き方を選ぶのも、自分又社会のためである。より上を、より多くを望む価値観を転換し、自分は自分の周囲や社会のため一体どれほどの事をなし得るかを問いその為に生きてゆくのも、一つの人生観である。

 

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