【腹 診】


文化や国情の違いだろうか、中国では腹診の発達は見られなかった。日本でも当初あまり重視しなかったが、江戸時代中期に古方派が台頭するに及んで初めて腹診が注目されるようになった。古方派の祖、吉益東洞は「腹ハ生アルノ本ナリ。故ニ百病ハ此ニ根ザス」として腹診第一主義をとった。腹診によって得た病像を「○△湯の腹証」とよび診断の決め手とすることもある。中国医学は日本に根付き、腹診を加えることで漢方という日本特有のものになった。唐・宋時代以降の典籍をよりどころにする後世方派も腹診を取り入れている。いまでは古方派・後世方派の違いは用いる薬方の違いでしかない。

腹診の目的は「虚・実」を知り、腹証の特徴から薬方を導くことにあるが、腹診だけでなく望・聞・問・切の診断を十分に行ったうえで総合的に判断する。腹診では以下の状態を診て体や疾病との関連を検討する。

  1. 腹壁の過敏性の強弱、麻痺の有無
  2. 腹壁の硬軟・緊張度・弾力性(とくに腹直筋の緊張状態)
  3. 硬結・圧痛の有無
  4. 腹腔内の状態(胃内停水・腸管のグル音・腫瘍の有無と性質)
  5. 腹部動脈の拍動亢進の有無と程度
  6. 上腹部と下腹部との比較
  7. 特徴的腹証の検討

腹診の方法

  • 下肢を伸ばしたまま病人を仰臥させる(西洋医学の腹診は膝を曲げて立膝とする)。腹部全体の様子や皮膚の色沢、緊張、弛緩、膨満の状態、陥没、腸管の蠕動など見る。
  • 次に手を使い軽く全腹壁をさするように撫でる。熟達するとこれだけで相当のことが判る。
  • 上腹部・臍部・下腹部に分けての診察になるが、少し圧を加え上腹部では腹直筋の緊張の程度や範囲を診る。肋骨弓の下縁で胸膈内に向かって押し抵抗を感じたり、病人が苦痛を感じたら胸脇苦満で少陽病の特徴である。腹部の深部の状態を診るため、やや強く押して底力があるか、胃部に振水音があるかなどを調べる。臍部の状態で重要なことは緊張や圧痛の他、腹部動脈の拍動と部位である。拍動(動悸)の部位を心下・臍(上・中・下)で区別する。下腹部では腹筋の緊張を診る。全体的な膨満か弛緩か、緊張があれば限局的か上部から連続するものか、知覚異常がないか、深部に硬結や圧痛がないかを調べる。腹部全体で疼痛や重苦しい部位があれば、押すと増悪するか楽になるかを尋ねる。
  • 西洋医学的腹診も同時に行う。
  • 足を伸ばしたまま診察するのが原則になるが、必要に応じて膝を曲げさせると腹壁の緊張が緩み深部の診察が容易になる。

【腹診所見一覧】

膨満 全体的--腹満
限局的--心下満・小腹満・小腹腫・蠕動不安
腹壁緊張度 緊張 季肋下--胸脇苦満・脇下硬満
心下部--心下痞硬・心下支結・心下痞堅・心下痞・結胸
腹直筋--裏急・腹裏拘急
下腹部--小腹弦急・小腹拘急
弛緩 全体
心下部--心下軟
下腹部--小腹不仁
深在性変化 抵抗・硬結・腫塊
圧痛
腹動
腹鳴
振水音

 

【腹証用語】

主として前胸部 わきばら・側胸部 心下 みぞおち・胸元・上腹部まで
をいうことがある
少腹 下腹部・小腹ともいう 他覚的に膨満、自覚的に
は膨満感
自覚的につかえる感じ
革のように硬い 石のように硬い こわれにくい・動かし難い
ほど堅い
ささえる・つかえる・さしさ
わる
むすばれる きびしい・迫る
ものがやわらかい ぬれたようにやわらかい 苦しいという自覚症状
はれる ちぢんでのびない・ひき
つける
ひきつける
拘攣 ひきつけて痙攣 拘急 拘攣の激しいもの 攣急 激しくひきつける
弦急 弓の弦が張って緊張した
ような状態、拘急の甚だ
しいもの
不仁 麻痺状態・過敏状態    

 

【漢方特有の腹証図】

1)腹部全体の緊張:多くは痙攣性の病気や疼痛、腹水が考えられる。破傷風・脳膜炎など痙攣性の疾患は実証。イレウス・急性化膿性腹膜炎・胃腸穿孔・腹腔内出血・子宮外妊娠などは迅速に処理すべきで漢方の適応ではない。

2)腹部全体の軟弱:明らかな虚証で、少し腹壁を押さえるだけで背骨前面に触れるような軟弱、腹満を伴う軟弱、局部的な緊張のある軟弱、心下部だけの軟弱がある。緊張の見られる部分については下腹部、脇下などがある。

3)腹満:自覚的にも他覚的にも腹全体が膨満している。虚実があり実証の腹満は内容が充実し腹壁の緊張もよく強く押すと底力がある。虚証の腹満は力がなくたるんで張る感じで腹壁軟らかく押せば底力がない。腹壁軟弱でも押せば硬いものは実証で硬くても底力のないものは虚証である。他覚的に腹は張っていないが「腹が張る」自覚症状のあるものは「於血」症状である。腹満は熱病、便秘、下痢、腹水、肝肥大、腹部腫瘍などで見られる。

4)心下満:上腹部(胸元)が自覚的・他覚的に張り膨満する。実証が多いが、虚証も見られる。

5)心下痞【上図参照】:もっぱら自覚的なもので「胸がつかえる」「胸がすかない」「胸元が苦しい」という訴えが聞かれる。大体、虚証が多く心下満との区別が大切である。胃内停水のあるものに見られる。

6)心下痞硬【上図参照】:心下痞と同時に心下部の腹壁が他覚的に緊張し虚実の別がある。心下痞硬の実証で程度が強く水証を兼ねるものを心下硬満、心下痞硬より緊張が強いものを心下痞堅、心下痞堅よりさらに緊張が強く心下部が石のように硬いものを心下石硬という。

7)心下支結【上図参照】:腹直筋が腹表に浅く現れ、心下を支えているように見える。裏急に似るが、心下支結では腹直筋が上部で拘攣し支えているが、裏急では腹直筋全体が拘攣している。

8)心下急:心下部になにか物が詰まったように感じる。

9)結胸:心下部から下腹部にかけ膨満し堅くなって自他覚的に強い疼痛があり、仰向くことはできるが、うつむくことができない。虚実が見られる。

10)心下軟:心下部が軟弱無力で抵抗がない。多くは虚証で振水音を伴うが、ときに実証がある。心下痞に心下軟のものがある。

11)心下支飲(心下部振水音):胃下垂・胃アトニー・胃拡張などで胃の中に水分が停溜し特有な振水音を発する。多くは虚証。

12)裏急【上図参照】:腹の皮の下で腹直筋が拘攣し引っ張る感じをいう。腹膜炎などで腹が張り突っ張る感じも裏急に含む。腹部が軟弱無力で腹直筋も触れず、腸管の蠕動が亢進するのも裏急という。ほとんどが虚証。

13)胸脇苦満【上図参照】:肋骨弓に沿って心下部から季肋部まで「張ったような」「重苦しい」感じがある。肋骨弓の下縁から指を入れ上に押し上げると抵抗があり、病人は苦痛を訴えることがある。自覚症状はなく他覚症状だけのこともあり、左右に感じることもある。また左右いずれか、左右で程度の異なることもあるが右側に見られることが多い。

14)脇下痞硬【上図参照】・脇下硬満・脇下満痛:脇下部の痞硬(つかえ・硬い)や硬満(硬い・膨満)をいう。心下痞硬と胸脇苦満とを共有していることが多い。

15)少腹満・少腹硬満【上図参照】:下腹部の膨満を少腹満といい、これが硬くなって抵抗があるものを少腹硬満という。自他覚的に感じるのは虚証と水証が多い。小便不利のものは水証で小便自利のものは血証。

16)少腹腫痞:少腹満の一種で限局的に腫れる。少腹満より範囲が狭く自覚的には停滞感、他覚的には腫れた状態。

17)少腹拘急【上図参照】・少腹弦急:下腹部が拘攣して腹直筋が臍下から恥骨あたりまで及び、下焦が虚しているとき多く見られる。弦急は拘攣より程度が強い。

18)少腹急結【上図参照】於血の腹証。下腹部の左か右、又は両方に見られることもあり、ときに虫垂炎と見誤るほどの痛みや圧痛を感じる。左に現れるのは便秘による糞塊とも考えられる。特有の腹証なのでこれを手掛かりに駆於血剤を投与することがある。

19)少腹不仁:下腹部が軟弱で空虚な感じ、知覚麻痺や運動麻痺が見られることもある。軟弱度は上腹部に比べて軟らかいという程度で八味丸の適応証になる。

20)腹鳴・転矢気:腹中雷鳴ともいい、ゴロゴロと雷のように腹の中が鳴る。蠕動不安に伴って起こり、実証・虚証・寒証を区別する。転矢気は諸説あるが腸からガスを放つという意味で放屁と考えられる。

20)抵抗・硬結・腫塊:浅在性、深在性、限局性、自他覚の痛みなどで虚実を区別する。圧痛のあるものは実証が多い。腫塊は腹中の腫瘍である。

21)腹動(動悸)【上図参照】:動脈の拍動をいい、他覚的に触知したものを「動」、自覚でのみ感じられるものを「悸」という。腹部で感じられる動悸を「腹動」といい虚証が多い。心悸は心臓部の拍動で「虚里の動」という。心下悸は心下部で腹部大動脈の拍動を他覚的に感じ、手で容易に触れることができる。臍の周囲での動悸は臍上悸・臍中悸・臍下悸が見られる。後世方では臍の周囲の動悸を以下のように解釈する。

  • 水分の動:臍の直上の「水分」という経穴を中心とした動悸で、肝腎の虚又は水毒の証としている。
  • 臍中の動:臍の動悸で腎虚の証とする。
  • 腎間の動:臍傍又は臍下の見られる動悸で、腎虚の証とする。

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腹診は感覚と主観によって様々な見立が生じることは否めない。師に手ほどきを受けて身につける「術」の域にあるものだ。薬局では診療行為が出来ないので、専ら相談という会話の中で腹証に言及する。胸脇苦満・少腹急結・心下痞・裏急などを処方選択の参考にしている。

【参考図書】漢方医学の基礎と診療 西山英雄

 

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