【今月のコラム】
【小判草】 |
神社で柏手を打つな! 島田裕巳 中公新書ラクレ |
現世利益を祈り、寺社参りをする人もあれば、信仰とは別に御朱印帳を埋めるのを趣味とする人もある。四国八十八か所巡りは古くから代金を払い、納経帳と掛け軸に朱印を貰う慣習があった。掛け軸は見栄えが良く、表具して40万円ほどで販売されることがある。四国八十八か所以外で御朱印帳が流行り始めたのは2000年代のパワースポットブームが契機となる。寺社を訪れ祈った後、杜や池を散策し門前で土産を買い食事を愉しむ。いつ頃からか神社の賽銭箱の横に、「2礼2拍手1礼」でお参りするようにとの立て札があり、絵付きのものまで見られる。記憶は定かではないが15〜20年前には賽銭を入れ鈴を鳴らし、2拍手の後に手を合わせいくつかの願い事をつぶやき1礼して終えた。2礼が前に加わり、「2礼2拍手1礼」の手順に従うことで、願いのひと時が「忙しくぎこちなく」なる。しかし、ほとんどの参拝客が版を押したように「2礼2拍手1礼」に従うので、多勢は並外れた振舞いを避け順化していく。最近の神社の混雑は祈り前にする2礼が原因ではないかと思う。前列の客が丁寧に2礼をするのが待ち遠しく鬱陶しく感じても、自分の番には同じように参拝する。 神道に教義はなく「お祓い宗教」ともいい、諸々の神の前で祝詞をあげ祓い清め祈る。祝詞を奏上し、締めに玉串をあげ「2礼2拍手1礼」する。この流れで行けば、「お祈り」の本旨は最初の2礼の前に済ませておくことになる。一般人の参拝は祝詞奏上を行わないので、軽く1礼のあと2拍手をして祈り、1礼をして去る昔のスタイルが違和感がない。
神職者の祈りの作法を一般人へ下賜したものが2礼2拍1礼である。作法は厳格に執りおこなわれ意味のあるものだが、明治以降のもので伝統は浅い。明治時代までは「神仏習合」といい神社と寺は一体のものであった。その名残として神社の敷地に寺や仏像が見られることがあり、作法に類似点も見受けられる。神道は祓い祈るだけで教えはないが、仏教には教えがある。そこで神道の意義を伝えるため仏教の理論を運用した。「本地垂迹説」といい日本の神々は仏教の仏がその姿を仮に現したという考え方だ。明治時代までは神の上位に仏が位置した。明治に入ると明治政府の要人の中から外来宗教である仏教を嫌い、神道を国家の基本に据えようとする動きが生じ、明治元年に太政官布告という神仏判然令で神仏分離が推し進められた。これは神仏習合により勢力を増してきた仏教の僧侶の力を削ぐ目的もあった。
神社本庁のホームページを見ると参拝の作法が書かれており、「参拝作法は長い間の変遷を経て、現在「再拝(2礼)2拍手1拝(礼)の作法が基本形となっている」とのこと。続いて「参拝される皆さんの心の持ち様、「形」の前提にある「心」をわかっていただければ幸いです」とも書かれている。小さな社や野ざらしの石神、仏とも神ともつかない故人を祀った神社もある。佐賀には孔子廟があり、ここは神道のように大晦日にお火焚きをおこない初詣、合格祈願もやる。神社のようではあるが線香を焚き、柏手は打たず静かに合掌して祈る。神社の敷地に仏像を見ることがあり、寺院に神像を祀ることもあり、密教系の仏教は神道のごとくお祓いもする。神仏習合時代の名残や習俗に触れるのも寺社巡りの醍醐味だ。神や仏が「この作法で参れ!」と指示するわけではなく、礼と合掌の基本を踏めば、2礼2拍手1礼に囚われることはない。石神や野仏に思わず手を合わせるように、ただ合掌し祈ることも参拝の作法である。 年末・年始に神社へ参拝する人は国民の半分ほどになるという。多くの人が年に一度、2礼2拍手1礼を実践する時だ。この作法はまだ新しく平成時代のものだが、初詣はもう少し古く、大晦日の除夜の鐘はさらにもう少し古い。時計の無い時代、禅寺で修行僧に時を知らせるため鐘、太鼓、木魚などを打ち鳴らし行動を促した。これが鐘撞の始まりだ。昔は除夜の鐘など打つことはなかった。
108回撞く鐘の数は人間の煩悩の数とされ、煩悩を払うため古くから多くの寺で撞れていたかのようだが始まったのは昭和に入ってからで、ようやく100年だ。NHKがラジオ放送の演出に取り入れた除夜の鐘は瞬く間に各宗派へ全国へ広がった。1929年に一か所だけ実況中継が行われ、1932年に各地からのリレー中継が始まり現在に至る。初詣はさらに遅れ、1935年(昭和10年)頃に定着したという記録がある。節分の恵方巻きが流行りだしたのは2000年に入っからで、セブンイレブンが火付け役と言われる。しかし、「恵方参り」は歴史が古く、江戸時代には元日の恵方参りがしきたりになっており、関西では節分に恵方参りをした。
恵方は毎年変わるので鉄道会社は、電車で行ける神社仏閣への初詣を営業戦略とした。汽車に乗れて手軽に行楽ができるというレジャー的な要素が魅力であった。時代は進んで1910年、成田鉄道は「成田山初詣」という新聞広告を、1912年には京浜急行が正月に川ア大師への参詣を広告に出すようになる。東京の恵方にあたる年は恵方を強調し、そうでない年は初詣を強調することで次第に初詣のほうが正月のしきたりとして定着した。やがて恵方はセブンイレブンの肝入りで「恵方巻き」として復活する。戦後、九州では「三社参り」といい、正月に三神社をハシゴで参拝するキャンペーンが行われた。神社、鉄道会社、旅行会社が連携して観光、レジャー化し、後に「五社参り」も行われるようになった。地方の古い習わしに着目し商業的に利用したのかもしれない。しきたりと思い込み慣れ親しんだものが、根拠は曖昧で、意外にも新しい意匠をまとった商業戦略だったりする。バレンタインやハロウィン、クリスマスなど..いずれも街や商業施設の賑わいとともにある。
神社の参道の中央は神の通るところなので、参拝者はそれを避けるべきだという。神社参拝の心得や作法を説く本や雑誌にまことしやかに書かれているが、それを守る人はおらず、ほとんどの人がお構いなく参道を往来する。他にも参道の右側を通るべきと説くものもあれば、左側、あるいは男女で違うという説もある。神が中央を出入りするというなら神は外出もされ、いまいずこにおわすのか?神道は開祖を持たず、教えも経典も存在しないため、しきたりの根拠や理由を示すことは難しい。中世の時代には様々な神道理論が生まれたが、神仏習合の時代なので仏教から神道へ影響を及ぼした。とくに密教系の仏教はお祓いや祈祷を行うので、神道との境界は渾然としている。 しきたりを作ったり変えたりするのは、決まりを定めて、「これに従え」という暗黙の威圧であり、細かく取り決めに口出しすることで主導権を握り存在を誇示するためだ。言いかえるなら「サル山のマウンティング」に等しく、卑近な例では「鍋奉行」がそれだ。誰が決めたとも知れぬ「しきたり」の薄弱な根拠や浅い歴史を知ると、「神社で拍手を打つ」を見直してもバチはあたらないだろう。柏手は打たず、ただ合掌して祈るもよし、柏手を打ち合掌して祈るもよし。もちろん2礼2拍手1礼でも構わない。祈りを本懐とすれば、忌まわしいまでの決まりのひとつやふたつ、あるいはすべてを再考し、しきたりとの関りを見直すのもよし。 |