【読書録(13)】-2016-


病気になるサプリ
非常識な建築業界
京大医学部で教える合理的思考
政府はもう嘘をつけない
2020年東京五輪の黒い金
ヒトの本性
がん治療の95%は間違い
日本はなぜ米軍をもてなすのか
近藤誠の「がん理論」徹底検証
地球はもう温暖化していない
新薬の罠
科学者は戦争で何をしたか

病気になるサプリ 左巻健男

サプリメントとはアメリカの食品分類用語で、日本は健康食品とか栄養補助食品と呼んでいた。2000年頃からこの用語が浸透し始め定着する。アメリカは日本と医療制度が異なり、病気やケガで病院へ行けば高額の医療費を請求され、それがもとで破産さえ招き兼ねない。健康への配慮は切実で食やサプリメントをはじめ代替医療も盛んに利用される。アメリカではサプリメントも一定の科学的根拠があれば効能効果を表示することができるが、日本は医薬品との境界が明らかで、サプリメントや健康食品は一般食品の範疇にある。また特定保健用食品(トクホ)、栄養機能食品と呼ばれるものがあり、これは特定の保健が期待できるとの表示が許されるが、病気の治療には利用できない。医薬品はヒトについてのランダム化比較試験で効能効果が確認されているが、サプリメントはごく稀にしかない。たいがい動物実験や少人数での試飲、試食で良しとしているが、これがあればまだマシで、薬草や漢方薬のように伝承や古典を根拠するものもある。

健康維持のために健康を害するものを避けたい、食品由来なら副作用がないとの思い込みで高額なサプリメントを続ける人が多い。内閣府の調査では50代以上の約3割が毎日健康食品を利用し、サプリメント業界は1〜2兆円規模の巨大産業となった。しかし、副作用や最悪にも死亡する例が少なからず報告されている。サプリメント業界の習いで副作用を好転反応といいかえるので潜在的にはもっと多いだろう。効かないものに多額の金銭をつぎ込むことも被害のひとつだと思う。無害無益ならまだしも体に取り込んだものは食品、医薬品を分かたず肝臓を経由し、解毒、代謝される。健康維持に何かを食べ、何かを飲むという発想に追い立てられると肝臓や胃を傷める。食べるものを減らし飲むものを減らすという「腹八分目」の養生がどれだけ優しいか知れない。

酒を飲む前に一度くらい「ウコン」を飲んだことがあるかもしれない。クルクミンというカレー粉の色素成分が肝臓に良いとされ、もはや疑う人のほうが少なく、薬屋でさえ推奨する。しかし、肝障害の報告例の多いのもウコンだ。肝臓を助けるつもりで飲んだウコンそのものが肝臓に負担をかける。他にもクロレラ、アガリスク、グルコサミン、コンフリー等が知られ、濃縮されたエキスではさらに負担が大きくアレルギー症状を起こすこともある。最近、お茶やハーブティーによるピロリジンアルカロイドの副作用が報告されている。アルカロイドは植物が身を守る毒物と考えられ、数百種類のハーブに含まれる。肝毒性や発癌性があり、継続して大量に摂取したり小児や妊婦にはリスクが大きい。

健康食品・サプリも、保健機能食品も、法的にはあくまでも食品のなかまであって医薬品ではありません。つまり、有効性と安全性の科学的な根拠がなくても、販売できてしまうのです。また医薬品と違い、健康食品・サプリは、品質の均一性、再現性、客観性、純度が保証されていません。

ある食品を、それを売る業者が「広く健康の保持増進に役立つ食品」といえば、それは健康食品にしてかまわないのです。

ファッションでもあるまいし広告に乗せられてサプリを選ぶなど愚かなことだ。しかし、健康や病気の不安を埋めるかのように手を出し、逆に不調や不安を抱え込む。医薬品の安全性、有効性にも問題はあるが、健康食品やサプリは野放し同然のものだ。効き目は広告の域を脱することなく、飽きられるのも早く、業者は次の目新しいものを探しだす。アイテムは七変化しても販売手法はブレない。彼らの中には特殊な販売形態をとるものが珍しくない。大量購入を促し、段階的に値引率を変える。値引率がマージンとなって販売員の懐に入る仕組みだ。一般にはネズミ講とかマルチ販売というが、取りつかれると知人や親類まで根こそぎ掘り起こし、最悪の場合、人間関係まで崩壊する。このような販売方法を可能ならしめるのが原価率の安さだ。包装や容器に金をかけても10%以下にコストを抑える必要がある。ここに原料の安さとともに添加物(乳糖、デンプン、着色料、甘味料、香料、保存料..)が不可欠になる。効き目はイメージだけで、製品としてまともなものは少ない。

健康食品・サプリの宣伝に、一番活用されているのは体験談です。人がもっとも影響を受けやすいのは体験談なのですが、もっとも信頼性が低いのも体験談です。健康食品・サプリは薬事法のしばりがあり、効能効果を直接広告することができないため、体験談はその効果を間接的に広告するには大変有効な方法です。効能効果の広告ではなく、個人的な体験を述べたにすぎない、と言い訳ができるからです。しかも、体験談は読者に身近に感じてもらうという点でも広告効果が高いものです。

医療機関や薬局のサイトを閲覧していると症例報告をあげたものが多い。専門家にすれば、健康食品・サプリの体験談などアテにならないと一蹴するだろうが、彼らの症例報告も大して変わらない。現実に起こったことは専門家も錯覚するほど説得力がある。錯覚はバイアスとよばれEvidenceを確立するため可能なかぎり排除し結論に至る。専門家さえ勘違いし思い込む、ましていわんや一般の人が信じるのは当然であろう。薬局のお客様から健康食品、サプリ、漢方薬などの相談を受けるが、体験談による信じ込みを覆すことはできない。できないから説得はせず、まず思い込んだものを飲んでみるように伝える。このような客への説得は反発を招くだけで労力や時間だけが過ぎていく。漢方薬や薬草もサプリと同類のものと考えている。東洋医学の古典や処方を記した書物は体裁に優れたバイブル本と言えなくもない。

漢方家や代替医療の治療家の多くは、病気が治るときの激しい反応を「瞑眩」という。実際は瞑眩の発現は珍しいものだが、健康食品業者は「好転反応」と言い替え頻用する。胃痛、下痢、吐き気、発疹などの不快症状を「毒素が出ているのでもっと多く、休まず飲め」という。症状が悪化するばかりで不審に思い医者へ駆け込み、ようやく副作用であることに気づく。誇大宣伝で大量に売りつけ、返品・引取りを避けるための誤魔化し用語だ。

保健機能食品(特定保健用食品と栄養機能食品:通称トクホ)は、国の「保健機能食品制度」で認可を受けると、うたうことのできるものです。

トクホの効果は、その容器に書いてある症状がとくに気になる人にとって、「それを改善するための一助になる」程度のものであることは知っておきましょう。あくまでも医薬品ではなく食品のなかまなのです。

「一助になる」の表現でさえ過大なものだ。食品にはそれぞれ体にとっての役割があり、それをいちいち言いつのればすべての食材が保健機能食品だ。栄養士や食養家が啓蒙する内容に違わない。あえてラベルに記すのは、「そこまでの広告は認可しよう」。おかげで、いままでと同じものが値上げできるし、よく売れる。多数の情報が本、パンフレット、新聞、雑誌、テレビなどから流れてくるが、科学で糊塗した広告が多い。

健康食品・サプリメントの効果がいかにアテにならないか分かった。品質にも問題があり、時には健康や金銭の被害も報告される。しかし、日本での市場規模は2016年で1兆5716億円、国民一人当たりの購入額は27169円だ。健康や病気を理屈だけで語ることの愚かさを示す数字ではないか。ここに「心の在りかた」が大きく関与する。医療ではプラシーボ効果といい、健康や治癒への希望を持てばそれが叶う。例えばただの水道水でも、しかるべきラベルを貼れば血圧も下り、ガンも消える。理性で効能の疑わしさを知っても、心は希望で満たされる。科学的でなくても、別の原因による改善でも、それを利用するほうが利益は大きい。言いかえれば心から2兆円規模の財産を引き出すことができる。

 

非常識な建築業界 森山高至

副題は「どや建築という病」と記され、「どや」とは関西の方言で「どうだ」という意味で「得意になる様」をいい、専門家の倨傲を嘲笑した表現ともいえる。建築については門外漢であるが、専門家にはびこる非常識は様々な業界に通じるものだ。東京五輪のザハ氏案、新国立競技場から話が始まる。

世間一般には、3000億円にものぼろうかという過大な建設費に非難が集中しましたが、新国立競技場問題の本質は、実はもっと根深いところにあります。そこには建築業界特有の、一般の感覚ではにわかに理解しがたい「非常識」な論理がいくつもまかり通っているのです。

建築家には3つのタイプがあり、一つは住宅や公共施設、ビルなどの建築物を設計する知識・技術を持つ建築士。二つめは建築家といい、建築だけでなく文化、社会、伝統など包括的に取り組む人で、建築士の資格を持っていなことがある。三つめは著者の造語で「表現建築家」といい、格好良さ、見た目の価値だけを追い求めていく。彼らの設計する建物は例外なく威圧的な「どや建築」だ。これが公共施設やビルのみならず一般住宅まで蔓延しつつある。

ある市立幼稚園の建て替えコンペがあり、最終審査に緑化型とバラバラ型の2案が残った。

  1. 緑化型:エコロジーを推したもので、園長が「緑化はいいが虫がたくさん寄ってくるので、その管理はどうするか」聞いたところ、建築家は定期的に殺虫剤を撒いておけば虫は寄ってこないと答えた。
  2. バラバラ型:建築構造がパズル型のもので、園長が「サイコロを積み重ねたデザインだと屋根やベランダが増え、そこから雨漏りしないか心配だ」という。建築家は施工時に防水処理を完璧にするので雨漏りは絶対しないと答えた。

素人と専門家では観点がまったく異なるが、普通の人は園長の意見がまともだと思うだろう。虫よけ対策に殺虫剤を撒けば園児はどうなる。バラバラ型に防水対策をしても雨漏りのリスクは厳然と存在し、防水のための費用もかかる。ザハ氏の新国立競技場も専門家は「躍動感があって面白い」、「三次元的で複雑な形態をつくることが建築の進歩につながる」などと独自の常識を披歴した。「トイレの便座みたい、費用がかかる、地域の景観を損なう」などの一般の意見は一顧だにされない。ザハ氏はアンビルトの女王といわれ設計コンペでの評価は高いが、技術的、構造的に不可能な提案をしているため建築不可能で頓挫したものが数多くある。前衛建築家と評されるザハ氏の建築を理解するには「脱構築主義」を知らなくてはならない。

暑さ寒さをしのぎ、雨露に濡れたくないというのが建築の始まりだ。屋根をつくり、水や害虫が入り込まぬよう居住区を地面から浮かせ床をつくった。これが建築の基本形で以後何千年も変わらない。

「建築が構造的、機能的に整合しているなかに、すでに建築の矛盾があるのではないか」、「これまでの建築をつくりあげてきた手法、様式、構築性はフィクションではなかったか」、「建築におけるさまざまな決まり事に異議申し立てをして、批判したらどうだろうか」

このような思いつき、もしくは信念というのだろうか、普通のかたちで建てられたであろう建物を、わざと傾かせたり、ねじれさせたり、壊れているように見せかける建物が世界的に増えていった。彼らの発想は非常に幼稚だと著者はいう。脱構築というもっともらしいテーゼを掲げているものの柱、梁といった建築の基本構造は踏襲し、見える部分をハリボテのように覆い奇を衒う。これらを総称して「どや建築」といい、見せられる側は嫌悪感を覚える。しかし、ザハ氏は本気で脱構築を考えた。建築構造自体がアンバランスで速度を持った動きを目指した結果、アンビルトの女王といわれるようになった。アンバランスな部分を構築していくうちに建物は大型化し、どこかで建築の基本構造が成立することがあり、それゆえに費用がかさんでしまう。かくいう著者もザハ氏と一緒に仕事をしたことがあり、以前は称賛さえしていた。

顧客は建築の知識を持たない素人なので、「どや建築」には説明が欠かせない。なぜその手法なのか、なぜその形なのか、なぜその施設なのか建築文化も含めて建物の意味や歴史的役割、視覚的な意義など解説したうえで設計しなくてはならない。ここから建築家たちの自己表現としての建築作品作りが加速していく。

1980年頃までは、建築学科とは良くも悪くも「工学的な世界」でした。技術屋と呼ばれるうるさ型の老教授がたくさんいて、建築の世界に芸術・アートの方向からアプローチするような真似は到底許される雰囲気ではなかった。

1980年代後半頃から建築の評価基準は「工学」から「芸術・アート」の枠組みに移行し、教育の現場にも影響が忍び寄ってきた。セミナーで学生に住宅の設計を課した教官は「住宅としては〇だが、建築としては×だ」などと講評する。学外から招聘される新進気鋭の建築家の講義を受けるうちにいつしか彼らのイデオロギーに染まっていく。

アカデミズムの現場でも「建築のゴールは自己表現」という前提に傾き始め、構造力学や材料工学といった学問はそのための手段でしかないという、いびつなヒエラルキーが生まれてきました。「表現のためのアクロバット構造形式」や、本来の使用目的を逸脱した素材の活用をあえて選択し、それをもって建築の表現とするような傾向です。

建築にはあるていど基本となる形があり、長い年月をかけて醸成されてきた。建築家が造形の芸術性や独創性を意識し始めると、建物の基本性能がおざなりにされ、予期せぬ不具合が頻発する。その最たるものが雨漏りで、クレームは日常茶飯事だという。雨漏りの原因は1)施工ミス、2)材料不良、3)設計ミスの3つで1)は補修で2)は材料交換で解決するが、3)は雨漏りしやすい設計が格好良くみえるらしく、無理な設計を強引に進めた結果だ。雨漏りしないように工夫すれば無理を重ね施工費が跳ね上がる。雨漏り、外壁の剥落など欠陥住宅を作れば建築家として恥ずかしく、クライアントに対して申し訳ないはずだ。

けれど、建築家本人は私たちが心配するほど気にしてはいません。なぜなら、業界内における建築家の評価は性能面の瑕疵などを評価の対象から外したところで行われるのが一般的だからです。火災は特殊な例かもしれませんが、多少雨漏りがするとか、夏暑くて冬寒いとか、動線が複雑で使いづらいとか、その手の機能上の欠点は、業界内の評価基準ではお咎めなしなのです。関心すらない。

一般大衆から建築を遠ざけ、顧客に評価されない建物を業界内で讃えあう。著者によれば、自分たちが評価される仕組みを一般大衆に作られないよう、長い時間をかけて周到に予防線を張ってきた。顧客より建築家や業界のために仕事を回してきたのではないか。最初に専門家にはびこる非常識は様々な業界に通じるのではないかと言った。建築は門外漢であるが、本書を読んで医療などに通じる非常識へ思いが至った。素人とプロとの落差の大きい業種は落差を埋めるための説明が必要になるが、結局プロに取り込まれる形で終わる。もっと声をあげれば声が届くこともあるし、探せば耳を傾けてくれる専門家もいるだろう。対価を払うのは素人たる顧客であることを主張しなければ損をする。

新しい意匠の優れた点はたくさんあり、長い年月をかけて築きあげられた伝統建築が完璧だとは思わない。わが家は50年前に父が入母屋造りで建て、見栄えのいいことを誇っていたが、横殴りの雨で雨漏りがし、屋根や庇の装飾で二階部屋の窓は狭く室内に光や風が入らず改修の必要に迫られた。これも「どや建築」と言えやしないか。家は車などと同じく、所有のシンボルでもある。多少住みにくく不便ではあるが、見栄えの良さで他人からひとときの賞賛を得る。虚栄心は誰にもあるが、実利を重んじる人々もいれば、虚栄を満たす人々もいる。車には、「どや車」とよぶべき無駄な羽根やスカートをつけたものや、パチンコ屋もどきの電飾車がある。昆虫などが周囲を威圧する擬態にも見えるが、実利を取る者としては珍妙かつ不思議な存在だ。

 

京大医学部で教える合理的思考 中山健夫

生活を営むには多様の選択肢があり、迷う局面もしばしば訪れる。とくに医療はただちに命や健康に関わることが多く、判断ミスがあってはならない。日用品や服などは、好みやイメージで選んでも構わないが、医療は逆にイメージが合理的思考を妨げる。たとえば、早期発見・早期治療というキャンペーンが効を奏し、いまやこれを疑う人は少ない。しかし、早期介入群のほうが死亡率が高く逆の結果をもたらす。これを修正するでもなく医療現場でルーティン化され、正論は異論として黙殺される。医療被曝が原因で1年間に1万840人が亡くなり、被曝で発生するがんが3.2%、医療事故や過誤で24000〜38000人が亡くなり、自殺者、交通事死を合わせた数より多い。さらに後遺症・副作用で苦しむ人も加えると、医療を受けることが健康や命を脅かす原因となっている。早期発見・早期治療というもっともらしいイメージから、一歩踏み込み疑えば、数字を明示して教えてくれる本もあればサイトもある。

私たちの思考を邪魔するイメージには2つの種類があります。ひとつは、自分の経験によって形づくられたイメージです。もうひとつはマスメディアなど外部の情報によって刷り込まれたイメージです。

ドクターズルールという本に次のような言葉がある。

診療経験が10年以上になるまで「わたしの経験では」と言ってはならない。たとえ診療経験が10年以上であってもこの言葉は使わないにこしたことはない。

個人的な体験は事実であっても、あくまでも体験であって、法則ではない。臨床経験が豊富であれば、それに伴いイメージも蓄積し、ときに妄想にまで発展する。20年以上も前は、心筋梗塞の患者に対し、早めに不整脈を抑える薬の投与が一般的だった。しかし、調査すると予想に反し投薬群の死亡率が高くなった。もともと弱って傷ついた心臓を薬がかき乱し、不整脈が重症化したと考えられる。不整脈を抑えると短期的に心臓の働きが改善したように見え「この治療法は正しい」との確信に至ったのだろう。確信の先に「わたしの経験では」の罠が待ち受ける。

合理的思考を助ける根拠(Evidence)には経験的なものと科学的なものがあり、経験は役に立つこともあるが、イメージが介在し失敗も起こる。では科学的根拠はどうか、これには理論的根拠と臨床的根拠があり、動物実験や薬理作用はあくまでも理論であり、臨床試験で有効性が確認できてこそ根拠といえる。臨床試験にはレベルがあり、多数の患者に使っただけでは十分ではない。多数の集団を対象にしたランダム化比較試験が欠かせない。理論的根拠には数段階のレベルがあり、どのレベルの根拠に基づいているのか念頭に置かねばならない。

バイアスは無意識のうちに私たちの隣に忍び寄っていますから、まずは「自分は何らかのバイアスで見ているのではないか」と意識することが大切です。同時に、「他の人もバイアスのかかった情報を発信しているのではないか」という目を持つことも必要です。

バイアスとは偏見・偏り・先入観のことで、細分すると50種類以上が知られているが、代表的なものは情報バイアス、選択バイアス、交絡バイアスの3つになる。例えば、医者が患者に「先日の薬はいかがでしたか」と尋ねたとき、医者へ好感を持ったり、気に入られようと思えば「おかげさまで、なんとなく良い」などと応える。このやりとりが医者のいう「わたしの経験」に加えられる。効いてもいない、悪化しているかも知れない薬が有効というイメージを獲得する。代替医療の治療家は患者の自覚症状が拠り所となるため、科学的に検証し難い仮説を理論だと勘違いする。東洋医学では陰陽論とか五行論というものだ。医療には「心」の介在が不可欠なので、完全に排除できないバイアスでもある。

役立つ情報を見極める5つのポイントをABCDEでチェックする。分かりやすくいえば「半信半疑の心構え」である。

  1. Available(利用可能な):実際に自分が使える情報かどうか、入手法の利便性などをチェック
  2. Best(最良の):evidenceが科学的にしっかりしている
  3. Clinical(臨床の):実験的な情報より、臨床的、疫学的研究を重視
  4. upDated(現在の):もっとも新しい情報を探す
  5. External(外部の):外部の情報に信頼を置く

分母の存在を忘れて、目の前に提示された分子や、もっともらしいパーセントだけで数字を評価してしまうことは少なくありません。

テレビの健康番組の多くは10人くらいの男女を使って実験を試みる。4〜5人の自覚症状なり、数値に変化がみられると、多くの人に効果が見られたかのように結論付ける。10人のうちの1人が2人になれば効果が2倍だと強調する。10人くらいでは圧倒的に数が不足し、他の影響因子(交絡バイアス)の検証もしない。視聴率をあげるという別の目的のための演出だ。医薬品の臨床研究でも似たようなことが行われる。100人のうち従来の薬ではがん消失が2人だったが、新薬では4人だった。「わが社の開発した抗がん剤は他社の2倍の効果あり」と売り込む。この方法でリスクを低く見せることもできるし、誇張したグラフを用いると視覚に訴え説得力も増す。数字に潜むトリックに騙されないよう分母、分子、パーセントは押さえるべきツボだ。

合理的に物事を考えるうえで、因果関係を理解することは大切です。ところが私たちは、ひとまず目についた出来事を原因と思い込んだり、原因と結果の関係を逆にとらえて、そのまま思い込んでしまうことが少なくありません。

薬を飲んで症状が改善したり、効果を目撃して思わず「効いた」と思う。「飲んだ、治った、効いた」の三た論法といい、これをもって薬や治療の正しい評価はできない。他に治るべき因子があったり、自然治癒やプラシーボ効果が働いたかも知れない。「薬を飲んで1か月後に死んだ」という例で考えると、「薬で死んだ、薬で1か月生き延びた、薬は効果も害もなかった」という3つのケースが想定され「薬が効いた、害を及ぼした」と、正反対の評価も導かれる。同じ人の同時期検証は不可能なので、「飲まなかった」ケースは想像したり、日をズラして試験する事もあるが、いずれも厳密な検証はできない。

時系列で因果関係を考えると、次のような間違いも起こる。「毎朝運動をすると風邪をひかない」、それなら風邪をひかないよう運動しよう。早合点してはならない。常識で考えてもよさそうな気がするが、運動ができるほど健康だったから、風邪をひかないのかも知れない。以下、3つのチエックポイントがある。

  1. 比較されているか(対象群)
  2. 時間軸は考慮されているか(縦断研究)
  3. 他の要因はないか(交絡因子)

同じ条件で比較する対象があるか、健康が先か運動が先か、もともと健康であり、他の健康法も並行して行っていないか等、検討する要素は多い。

がんの治療であれば、みなさんなら何を治療の成果とされますか。患者さんの立場で考えたら、「余命がどれだけ延びたか」や「クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)がどれだけ向上したか」といった指標が大事ですね。もちろん、理想的には「がんが完全に治ること」が第一のエンドポイントですし、それを目指して医学研究も努力を続けているのですが、現実はまだまだです。その限界はありますが、これらの指標は治療が目指すべき「真のエンドポイント」と呼ばれます。

がんが小さくなるのは喜ばしいことかもしれないが、目的に至る代理のエンドポイントであり、患者の苦痛の軽減や余命の延長こそ真のエンドポイントとなる。ともすると、がんの除去や縮小を目的とした医療がまかり通っているのではないか。手術後の後遺症や抗がん剤の副作用でクオリティが低下し、結果として余命の延長さえおぼつかない。

Evidenceに基づく医療は大切だが、Evidenceがないと何もできないでは困る。「有効性を示すEvidenceがないことが、無効であることを積極的に示すEvidenceではない」つまり「無効のEvidenceもないので、やってもいい」というレトリックも成り立つ。情報は灰色でも意思決定に際しては白黒つけなくてはならない。行動は曖昧が排除され、決定者の判断に委ねられる。インフォームド・コンセント以前は医師が診断から治療方法まで決め、患者は何も言わず、聞かず、従った。いまは格段に進歩したが、自分や身内の手術や治療に際しての説明を受けると、まだまだ有無を言わせない。それどころか「これだけのリスクを覚悟しないと治療も手術もできない」と恫喝を受けたような気にさえなる。医療者は患者の質問や異論に対し虚心坦懐に対処するため訓練を積まなくてはならない。患者もまたインフォームド・コンセントに参加するための学習が必要だ。理想の境地は自ずと浮かびあがるが、いつまでも追い続けるのが現実だ。

 

政府はもう嘘をつけない 堤 未果

原材料を仕入れなくてはならない「モノづくり」に比べ、金融やサービス業ははるかに利益率が高く、効率の良い商売だ。80年代以降のアメリカはモノづくりから離れ金融やITといったサービス業へ移行していった。少し前、パナマ文書が公開され、タックスヘイブン(租税回避地)の存在が明らかになった。法外な利益を温存するため、タックスヘイブンがビジネスとして成り立っているという。前著の「政府は必ず嘘をつく」ではグローバル企業の戦略に呑まれる政治を描いたが、本書はお金の流れを見ることで嘘をつけない政府をあぶりだしていく。

他の大統領候補たちにできっこないさ、だってあいつらは、ウォール街の連中から何千万ドルも受け取ってるんだから。だがよく見てくれよ、この俺さまは1セントも受け取ってない、全部自腹だ!

大統領候補、トランプ氏の演説の一部だ。民主党大統領候補としてクリントン候補を追いあげたサンダース氏も高い支持を得ている。この二人の共通点は1%のスーパーリッチから資金提供を受けていないことだ。アメリカの労働人口でフルタイムの仕事についている人はわずか44.5%、半分以上の国民は仕事を掛け持ちするか、生活できない収入しか得ていない。日本がこれを目標にしているとは思いたくないが将来を予感させる数字だ。既得権益層への爆発寸前の不満が、トランプ氏への支持に動く。「大企業と金持ちから税金を取って、中間層の税金は減らして、アメリカ国内に仕事を戻してやる!」との演説に大衆は歓声をあげる。1%と99%との戦いというが、わずか1%の人々に勝つには困難を極める。三権をも手中にした1%は汚い手を使ってでもトランプ氏の当選を阻止するだろう。もしくはオバマ氏と同じ運命を辿るか。

任期を終えようとするオバマ大統領も、当選したときには超富裕層や利益団体の政治献金問題に手を付けると言ったが、大統領に就任するやうやむやになった。最初の選挙でオバマ氏が集めた政治献金は約750億円という史上最高額だったが、2期目は約1000億円に跳ね上がった。

「2期目の就任式で、最前列の席にずらりと並んだ大口スポンサーたちの顔ぶれを見ましたか?あれを見れば、オバマ大統領が誰のために働いていたのかが、一目瞭然ですよ」

お金で政府への影響力を買うという傾向が、年々顕著になっていく。2010年に、最高裁が企業献金の上限を撤廃する判決を出したことで、政治家は無制限にお金を受け取ることができるようになった。献金の6割がたった132人の財布から出ていた。132人、いいかえればアメリカの全有権者の中のわずか0.000042%が政治の行方を握ってしまった。アメリカには金で買えないものはない。カネで買われた政府は雇い主のため権力を自在に行使する。その最たるツールが「非常事態宣言」だ。

アメリカでは10年以上も、憲法機能が停止しているという。もともと冷戦時代の核戦争を想定し、政府が非常時に壊滅回避のため憲法を停止して政府の指示に従わせるものだった。しかし、2001年の同時多発テロの際にブッシュ大統領は「完全保障上の緊急事態」として宣言した。憲法を停止するほどの緊急事態かどうか、誰がどのような基準で判断するのか。結局、時の大統領や数名の側近ということになり、曖昧なうえに期限が存在せず、テロとの戦いを錦の御旗に世界中を戦場にして、いつまでも戦争を続けられる。憲法を停止することで政府は巨大な権力を持ち、ウォール街と軍需関連産業へ半永久的な利益をもたらした。

今年4月、熊本で震度7の地震が2度も発生し、小さな揺れも群発している。地震翌日の4月15日、自民党の菅官房長官は記者会見で、緊急時の政府の権限を拡大する「緊急事態条項」を憲法に加える必要性について次のように語った。

「今回のような大規模災害が発生したような緊急時に、国民の安全を守るために国家や国民自らがどのような役割を果たすべきかを憲法にどう位置づけるかは、極めて重く大切な課題だと思っています」

アメリカで起こることは日本でも起こる。現行の法律で可能なことを、どさくさに紛れ憲法を変えようとする人々がいる。この発言に憲法学者の樋口陽一氏は「惨事便乗型全体主義だ。絶対に許されない」と怒りの声明文を発表した。緊急事態条項が総理の権限を許すのは自然災害の時だけではない。自民党が作成した憲法改正草案を見ると4つの要点がある。

  1. 衆議院を解散しなくてもよい
  2. 法律と同じ効力を有する政令を制定することができる
  3. 総理や議員の任期などを延ばすことができる
  4. 国民は公的機関の命令に従わなければならない

これは1933年にナチスが成立させた「全権委任法」とほとんど同じ内容である。参議院選挙で与党が過半数を取れば必ず閣議決定するだろう。そうなれば夏の参議院選挙は日本で最後の民主的選挙ということだ。ドイツではナチスの苦い経験から憲法裁判所を設置し権力を手にした政府に目を光らせているが、日本にはなにもない。仮にこの条項が成立すると、総理は北朝鮮のトップと同じ権力を持つことになる。国民が戦争法案反対、安倍総理は退陣せよと非難し騒いでいるうちに、緊急事態条項が成立すれば憲法9条を改正することなく無力化できる。

「君の国を動かしているのは総理大臣か?その自民党憲法改正草案は、そもそも誰が書いたんだ?気をつけろ。国民がギャーギャー反応する内容のほうは<目くらまし>である可能性が高い。あとで修正させられてもいいほうに食いつかせて、そっちで騒がせておくんだ。おそらく真の目的は、国民に気づかれないよう、地味に埋めこまれているとおもうぜ」

特定の法律やシステムを入れることでもっとも得をするのは誰か?顔も見えずマスコミにも出てこない法律を作る官僚だ。民主主義の柱である三権分立とは国会(立法)が法案をつくり、法制局(司法)がそれをチェックし、政府(行政)がそれを実行する。しかし実際は3つすべてを官僚たちが行っているのだ。日本の法律の9割は政府が出す「閣法」で、中身は官僚が書き、国会で数を持つ政党が可決する。しかし、その官僚を縛る「公務員法改正」が2014年4月に成立した。これによって約600人の省庁幹部人事を内閣人事局で一元管理し、首相官邸の意向が反映される仕組みになった。政治主導、脱官僚と言われてきたが愛国官僚も居るわけで、これによって官僚は骨抜きにされた。憲法の番人といわれた内閣法制局長官でさえ、安保法制が違憲であると言えなくなった。

政治家は落選したり、官僚は政権が代われば変えられるが、法律は変えられず元に戻すのも至難の業だ。そして私たちの暮らしを大きく変える重要法案ほどひっそり通過する。オリンピックやポケモンGO、芸能人のスキャンダル、猟奇的殺人事件、大災害など国民やマスコミの目が他に向いている時を狙う。熊本地震のときには刑事司法改革法が成立した。これはいくつもの法律が束ねられたもので、この中には警察が市民の電話やメール、ブログやSNSなどの通信を傍受(盗聴)する権限を拡大するものが仕込まれている。大分県警が今年の参議院選挙で別府の社民党関連団体の敷地に監視カメラを設置する事件があった。戦争法強行以降、国民を監視し、言論活動を抑圧する流れが強まっている。警察が政府を忖度した行為だったのならば事態は深刻だ。緊急事態や治安維持といいつつ警察権限が拡大されていくのは間違いない。戦争法案を通し軍備を拡大するのは軍需産業を見据えてのことだ。総理は「外国企業が進出しやすいよう規制の緩和や撤廃を行う」ともいう。国民の生活より大企業に住みやすい環境を整え、そこに進出するグローバル企業は教育や医療や福祉を最初に切り捨てる。イラク帰還兵は言う。

「日本の大人たちがいくら9条を守っても、まともに暮らせる社会じゃなければ若者は自分から入隊していくだろう。今はもう時代が違う、子どもを戦争に行かせたくなければ、教育や医療や雇用や年金、こっちのほうを守らなくちゃダメだ」

税金を取りたて、国民を貧困や非正規労働へ追い込み、セーフティーネットを切り捨てていく。日本の学資ローンは無利子のみだったが、いまでは3/4が有利子になった。国立大学を独立法人化し、運営交付金を削り授業料は上がる。アメリカではローンを返しきれない学生たちを派遣会社が勧誘し、次々に戦地へ送り込む。学資ローンビジネスといい、数十億ドルの巨大産業に成長した。

昨年5月のパリ同時多発テロでは130人の死者と350人以上の重軽傷者を出した。オランド大統領は即座に「国内非常事態宣言」を発動、テロを「戦争行為」としてシリア領内のイスラム国(ISIS)拠点へ大規模空爆を開始した。

事件の真相が明らかになる前に軍事介入するという、その<おかしな順番>が問題にすらならなかったのは、欧米の商業マスコミの大きな功績と言えるだろう。彼らは9・11や昨今起きた数々の事件と同様、今回もテロ実行犯たちが現場にしっかりと身分証明書(パスポート)を残したことや、テロのタイミングが公式攻撃演習時期とぴったり一致していたこと、いったい何故、重要情報を持っているだろうテロの犯人たちを逮捕せず殺害する必要があったのかなど、腑に落ちない真相は一切追及しなかったからだ。

メディアがISISというテロ集団の残虐性について繰り返し報道を続けたため、フランス国民の100%が空爆に賛成し、うち58%は強く支持すると答えた。空母・シャルルドゴールから次々に戦闘機が出撃した。地上で戦火に脅える子供や母親たちの居ることに思いを巡らすこともなく。多くは言うまい。金の動きを見ればわかる。テロは憎しみの連鎖で引き起こされ、「憎しみに」値札がつけられる。月曜の朝、株式市場が開くと、市場全体が横ばいで動きのないなか、主要な軍需産業関連の株価が垂直に跳ね上がった。フランスはアメリカに次いでテロとの戦いで恩恵を受けている。アメリカは建国以来、235年のうち214年間を戦争に費やし、軍需産業は公共事業といってもよい。どこの国が本物のテロ国家かは明らかだ。国民が疑問を抱かないように、関連企業をスポンサーに持つ大手マスコミが細心の注意を払い、テロ現場の痛ましい映像を流し、攻撃を正義だと強調する。裏では武器商人を介しアメリカやフランンス製の武器がISISへ渡る。テロ国家を育て戦い、人々の財産と血の犠牲のもと1%が金を手にする。以下は欧米のメディアが関与する国家破壊に向けた7つのステップだという。

  1. 「体制転覆」リストのターゲット国に「ならずもの国家」「独裁」とレッテルを貼る。
  2. 現地の反政府集団に秘密裏に武器を与え、訓練し、資金を与えつつ、SNSなどで拡散し、あくまでも自然発生・草の根運動として応援する。
  3. 国連安保理がターゲット国に非難声明を出す。
  4. 欧米大手マスコミや御用ジャーナリスト、御用学者などが、「テロとの戦い」「民主主義の危機」などと次々にあおる。
  5. ターゲット国への軍事介入開始。
  6. ターゲット国家の政治体制が崩壊、「民主主義」の名のもとに欧米に都合のいい新ルールを制定。
  7. ターゲット国家の石油、鉱物、天然資源や農業資源などを、多国籍企業が最安値で買いあさる。欧米に従順な傀儡政権を置いて、完了。

ここまでやるのか。順を追って読むと日本もアメリカの支配下にあり、いまだ戦後かも知れない。2016年に発表された報道の自由度ランキングによると、アメリカは41位、フランスが45位だ。日本は72位と年々順位をさげていく。鳩山内閣の頃の自由度は11位で、いま考えるとメディアのコントロールが不十分で短命に終わったのかも知れない。今の政権は政策に失敗しても、スキャンダルにまみれても、支持率は上がる。安全保障関連法で国会を囲む10万人のデモが起こっても選挙で過半数をとる。元閣僚は明らかな収賄にも関わらず不起訴処分だ。何かがおかしい。

「労働者が権利を獲得し、政府がもはや民衆を制御できなくなった時、広告業界が誕生したのです」

「政府の代わりに大衆を抑えるために、ということですか?」

「そうです。当時広告代理店に課せられたその役割は、<プロパガンダ>という正式名で呼ばれていました。今は<マーケティング>と名前を変えています」

商業メディアの流すニュースに「中立な報道」はないという前提で見るべきだ。彼らは世論を作りあげるプロなのだ。ニュースだけでなく討論番組や識者のコメントがすなわち世論となり、大衆は彼らの「口真似」をし世の中が分かったような気になる。マーケティングは魔法のように、見る者の善悪のイメージさえ逆転させる。安全保障関連法案は軍需産業のためであり、批准を急ぐTPPは保険や医療、農業など広い分野を根こそぎさらうグローバル企業のためである。巨額の資金を持つスポンサーならば、白を黒に見せるマーケティングさえ可能だ。金を持つものは政府や司法も動かし、買えないものはない。

アメリカでは1%に挑む99%の一部がトランプ氏への支持となった。日本は先の参議院選挙から選挙年齢が18歳に引き下げられ、投票を促す広報も行われたが半数にも満たない投票率だった。そして投票へ出かけた18歳、19歳の半数が与党へ投票している。何も知らず考えず、与党だから、顔を知っているから、くらいで投票するなら、行かないほうが良い。1%が奪い取ろうとしているものを死守するためには、まず知ることから始め、99%がまとまらなくてはならない。「国民投票もあるし、憲法改正などできるわけがない」と考えるのは大間違いだ。スポンサーである国の豊富な資金(税金)で、メディアや広告会社が白を黒に見せるマーケティングを展開し、投票率が半分、そのまた半分の賛成で成立する。国民の25%が賛成すれば1%のための憲法へと変わる。

 

2020年東京五輪の黒い金 一宮美成+グループ・K21

「未来は霧の中に」という、1960年代の世相を歌ったヒット曲がある。

東京のまちはオリンピックひかえ、まるで絵のように時が過ぎた..

1979年発表されたもので、すっかり大人になった作者が小学生の頃を回想して歌いあげた。1964年東京五輪の記憶が残っている人は55歳以上の世代になるだろう。国をあげての祭典であり、希望と興奮に満ち、多くの国民が開催を待ちわびた。道路や鉄道が整備され、この年に東海道新幹線が開通し、白黒テレビが家庭に普及した。開会式は全てのテレビ局で中継され82.6%の視聴率を記録している。あれから56年、2020年東京五輪の未来は黒い霧の中に。

原発事故の終息さえ見ないなか、「東京への影響はない、Under Control」と高らかに宣言しオリンピック招致を勝ち取った。その後、競技場やエンブレムの問題、賄賂を以て招致を画策した疑惑もくすぶる。原発事故はいまなお続き、太平洋、日本海、オホーツク海など日本周囲の海域から各種放射性物質が検出され、環境や食の汚染が日本を蝕みつつある。海外からアスリートや観光客を迎えられるのか疑わしい。不都合な真実は隠され、「安全、安心、にっぽんCHACHACHA」とお祭り気分だけを煽る。まもなくオリンピックが開催されるリオデジャネイロの様子がテレビで伝えられた。競技場に予算をつぎ込み、警察官へ給料を払えず、治安が悪化しているという。警察官が「地獄へようこそ!」の横断幕を掲げたストの様子が映し出されていた。4年後の東京五輪はここから教訓を得るのか、地獄へ突き進むのか、未来は霧の中にある。

消費増税、物価上昇、実質賃金の低下、さらに安倍内閣が残業代ゼロを公認する政策まで言い出した中、今後、国民生活がますます困窮の度合いを深めることは明白だ。それなのに、天文学的な額の公金をばら撒いて五輪を遂行することは、問題解決の道に逆行する行為ではないのか。いつ終息するかまったく見通せない福島第一原発事故、いつ襲われるかも知れない巨大地震の危険性.. "五輪バブル"が弾けた後の財政破綻を懸念する筆者から見れば、2020年東京五輪からの名誉ある撤退こそ、賢明な選択なのだと言いたい。

当初、コンパクト五輪と称し費用少なくして大きな経済効果が望めるという話であった。しかし、1538億円が4100億円に跳ね上がり、いまでは1兆8000億円を超え、これに対し収益は4500億円ていどだという。2012年のIOC調査による日本国民の招致支持率は47%と低い。1964年の東京五輪のときは反対する人など居なかった。国民の支持が十分でないがためコンパクトだと言い包めなくてはならない。震災復興やスポーツ振興を隠れ蓑に金儲けを企む祭典とも言えよう。

先日、東京都知事の舛添氏が金の問題で辞任し、前知事の猪瀬氏に続いて短期間に費用のかかる選挙が行われた。彼らを擁護するつもりはないが、金の使途を漁り、火のないところに煙を立てる。あとはマスコミが面白く騒ぎ立てれば社会的抹殺が完了する。利権側に都合の良い人物はのうのうと生き延びる。オリンピック誘致を言い出したのは辞任したふたり前の知事、石原氏だった。氏の金銭問題は辞任した2人の比ではなく、週3日の出勤で高給を得て、大名旅行も数知れず、都民の金を湯水のように使った。wikipediaを閲覧すると疑惑・批判の項目まで設けられている。公然の疑惑にマスコミが黙しているのは何故なのか。氏の世渡りはたぐい稀なるものがありそうだ。辿れば五輪利権の源流はこのあたりに発しているのではないか。本書には五輪組織委員会会長の森喜朗元首相から世渡りに長けた石原氏へ話が持ち込まれた経緯が詳述されている。五輪組織委員長に誰が就任するかは猪瀬知事と森元首相と安倍首相の間で激しい確執があった。折しも猪瀬知事が徳洲会からの5000万円の闇献金問題で辞職した後に森氏が就任している。次の舛添氏も五輪絡みではないかとの想像が働く。

東日本大震災の復興事業もそうだが、これからオリンピックの事業が始まれば、当然、ヤクザのフロント企業が入ってくる。ゼネコンも表向きは、暴排(暴力団排除)とは言っているが、それは口先だけだ。皆わかってやっている。建設現場はアウトローがカネを生み出すところ。(暴力団との関係は)構造的なもので、永遠になくならない。

1538億円のコンパクト五輪が2兆円を超えそうになった最大の理由かも知れない。もともと復興五輪という開催理念だったが、五輪によって復興がさらに遅れることは間違いない。あるゼネコン関係者は言う、「東京に資材も人材も集まるから、東日本大震災の復興は後回しになって遅れますわ。国の威信がかかった、それも期限が決まっている東京オリンピック関連の工事は当然、最優先。いまでも資材や人件費が高騰して不足しているのに、東北に回す余裕はありませんよ」。

最初のメインスタジアムは奇抜かつ巨大で建設費も巨額なものだった。選考の過程も不透明で、周辺住民には秘密裏に進められた。立ち退きや風紀や景観などの問題も判明し、批判が続出するや、撤回された。どうやら一部の有識者がプログラムを作成し、誘導してきたと考えられる。スタジアムのデザインは仕切り直されたが、ザハ案の盗用だとして、痛烈に批判され、おまけにオリンピックに欠かせない聖火台がないという。

立候補ファイルでは1300億円だった建設費が、五輪開催が決定するや3000億円と3倍近くも高騰し、世論の批判を浴びた途端に1800億円に急落。立候補の前にIOCに提出された「申請ファイル」では、建設費は1000億円となっていたことを考えあわせると、なんともデタラメな新国立競技場の変遷ぶりだ。ようするに、さじ加減一つで建設費はどうにでもなるということを地でいったような話だが..

巨大なスタジアムの計画に合わせて規制を緩和し、さらに神宮外苑一帯の大規模再開発へと事業が肥大化した。近隣住民は立ち退きを迫られ、70〜90歳代と高齢者の多い都営アパートの住民も退去させられた。スタジアムにとどまらず五輪の会場はすべてが利権の対象となり、さらに東京の自然や緑を奪い取る。馬術会場となる夢の島競技場は56.6%の緑が5.9%へ、テニスの有明テニスの森は42.1%から17.2%へ、大井ホッケー競技場は72.1%から30.1%..など15か所で減少すると予測されている。五輪の競技場の建設で消えるのは緑ばかりではなく、都内で20面の野球場が消え全部馬術の競技場に変わる。オリンピックが都民からスポーツを奪ってしまう。

1984年のロス五輪を契機にスポーツのビジネス化が加速していった。いわゆる経済効果というのは庶民には縁も恩恵もなく、2週間の感動だけがせめてもの慰みだ。この経済効果に群がる企業のひとつが広告会社の電通だ。頓挫した前回16年の招致活動費の総額は150億円で、電通はこの45%にあたる66億9000万円を手にした。今回の招致活動の元締めも電通が担い、テレビや新聞広告のスポンサーを募り割り振る。エンブレム盗作問題など、ここにも巨大な闇がある。また招致活動のための知事や都議会の海外出張費もバカにならない。舛添前知事は税金の使途を問題視され辞職したが、オリンピックのための視察旅行は石原元知事にさかのぼる。夫人同伴で飛行機はファーストクラス、1泊24万のホテルに泊まる豪華ツアーを繰り返した。猪瀬元知事もこれに習い、舛添前知事も踏襲した。都議会は舛添知事を散々に非難したが、共産党を除く都議会の面々も、豪華旅行の恩恵を賜っている。もちろん随行した都職員もだ。

五輪開催に伴い、東京大改造計画が動き出した。国道、首都高速、都道、地下鉄、など輸送インフラに約6400億円、他にも新空港線や成田と羽田空港を結ぶ都心直結線、地下鉄成羽線等々、はなはだしきは1946年の都市道路計画までが亡霊のように蘇った。復興五輪、スポーツ振興とさえ言えば異論を差し挟めない空気が出来上がってしまう。

なぜ豊洲だったのか。それは石原知事の側近である浜渦武生元副知事と東京ガスとの間で、豊洲の東京ガス工場跡地売却の「密約」があったからだ。「密約」とは、01年2月の「覚書」と同年7月の「築地市場の豊洲移転に関する東京都と東京ガスの基本合意」書のことで、署名人は、東京都側は浜渦副知事(当時)、東京ガスは副社長になっていた。石原知事が東京ガスの高濃度汚染跡地の買い取りを「密約」したことが、そもそもの出発点だったのである。

市場関係者は豊洲移転に反対し、現地再整備を求める声が強かったため、移転計画は予定どおり進まなかった。築地は地盤も固く地震のときビクともしなかったが、豊洲は液状化を起こし「お茶漬け土壌」と呼ばれている。そのうえ、土壌汚染が激しくベンゼンが環境基準値の4万3000倍も検出されている。食を扱う市場にふさわしいかどうか検討するまでもない。移転計画は思惑どおり進まなかったが、石原知事は五輪招致を理由に築地市場の移転と跡地再開発を促進すると表明した。JOCに提出された開催計画案では築地市場跡はメディアセンターの入る超高層のツインタワーが予定されていた。

ひと言でいえば利権ですよ。こんな素晴らしいところ(築地市場)はない。銀座の隣に7万坪という土地はないですからね。日本一の土地ですよ。それに目をつけたのが、大手の不動産デベロッパーの連中です。

築地を開発すると鉄も動くし、すべてのモノが動く。それに対して石原知事とその取り巻き連中が利権に走る。みんな利権の構図です。

豊洲の建設費は990億円の予算だったが、汚染対策費が760億円に膨らみ、土地購入代金も含む総事業費は5500億円へと大幅に増大している。築地での再整備であれば仮移転費用も含め1460〜1780億円で済んだ。もう一つ、石原氏は都知事に就任した翌年に「お台場にカジノを..」といいはじめた。石原都政を継承した猪瀬知事は五輪開催決定後の9月下旬、都議会でオリンピックに向けて臨海副都心(青海地区)に大型クルーズ客船が停泊できるふ頭を新に設置し、周辺にカジノを含めたIR(統合型リゾート)施設をつくることを明らかにした。ここでもオリンピックに便乗した工事が始まる。ふ頭の工事は新聞報道で100億円と言われているが、港湾審議会では建設費を明かさないまま建設を決めた。はたして100億円で済むかどうか疑わしい。他にも大小さまざまな便乗事業がひしめき、これらはオリンピックがなければ、他に使える金であり、彼らには回らなかった。

復興五輪の名のもと復興の目途さえたたない原発事故を大嘘をついて隠ぺいする。日本人より海外の人々が現状を正しく理解している。米国の発表ではセシウムの放出量だけ見ても福島18.1京ベクレルでチェルノブイリ(10.5京ベクレル)の1.7倍以上だ。2013年4月には地下貯水槽から大量の汚染水漏れが発覚し、6月にはタービン建屋で地下水汚染が確認された。8月には地下水貯蔵タンクからレベル3(8段階で5番目に重い)の汚染水約300トンが流出し、一部海洋にも漏れ出ていた。海外メディアが相次いで報道し、世界的な非難を浴びる中の9月、「東京への影響はない、Under Control」と世界の舞台で言い放った。総理大臣閣下がそういうのだから原発事故などなかったかのように動いていく。再稼働も進み、子供に甲状腺がんが多発しても原発事故との因果関係はないという。被害や不安を訴えても風評だといって黙殺する。

環境省は2016年4月28日、福島第一原発事故で発生した指定廃棄物について、放射性セシウム濃度が1Kgあたり8000ベクレル以下の場合、指定を解除し一般ゴミと同じ扱いにする決定をした。IAEAの国際基準は、放射性セシウム濃度が1Kgあたり100ベクレルを超える場合は、特別な管理下に置き、低レベル放射性廃棄物処分場に封じ込めてきた。10ベクレルでも危険なのに、これでは放射性廃棄物処分場で暮らしているようなものだ。日本で暮す人で放射性物質を取り込んでいない人は皆無だろう。九州、沖縄、北海道と離れていても食材は流通し拡散する。基準を8000ベクレルに緩めることの深刻さを警告するメディアもない。先月、メディアが報じない重大な出来事があった。7月19日に開かれた原子力規制委員会の有識者会合で、東京電力は福島第1原発の汚染水対策の決め手となるはずだった「凍土壁」建設が失敗に終わったことを認めた。最初から難しいといわれていた凍土壁に345億円の国費が投じられたが汚染水は漏れ続け、「Un Control」は明々白々だ。五輪開催どころか日本はどうなる。

チェルノブイリでは事故後、5〜6年目くらいから病人が急増している。白血病やガンの多発だけでなく心臓や血管系の疾患などあらゆる病気が増加するだろう。「花は咲く」のメロディーに乗って復興支援の善意が日本中を駆け巡る。総理大臣閣下と同じく多くの人々が原発事故は終息したと思っている。1964年東京五輪は高度経済成長のただ中で五輪後も一層拍車がかかった。2020年東京五輪はこれとは全く異質かつ真逆のものになるだろう。リオの警察官が掲げた「地獄へようこそ!」という横断幕が来たる東京五輪と重なって見えた。

 

ヒトの本性 川合伸幸

小さな命を救うため何億円もの募金活動を行う人々も居れば、わが子を虐待し死に至らしめる人々もいる。テロの脅威は 地上に広がり、ヒトがヒトを殺す。例外はあるが動物の世界で同種族を殺すのはヒトしかいないという。暴力的環境で育っ たり、そこに身を置けば暴力的で攻撃的傾向になるという。3歳まで家庭内暴力を見て育った子供107人と、生まれてから ずっと家庭内暴力とは無縁だった同じ年齢の子供339人を5年間にわたって観察、分析した。家庭内暴力を見て育った子供は3歳までに親から引き離され、それ以降は家庭内暴力を見ていなかったが、小学校へ行く頃になると突然暴力的になった。 暴力をふるう様子を見たのが赤ちゃんのときであっても、記憶に焼き付き、期間を経てその子が今度は他人に暴力を振るうよ うになる。怒鳴られることも暴力に匹敵する。子供のしつけは身体的な罰や厳しい言葉を使わなくても可能だ。

また暴力的なテレビやゲームは怒りや情動を誘発し攻撃性を高めるという研究がある。小学3年生の時点で暴力的なテレビ番組を好んでいた子供は、10年後の調査で比較的高い攻撃性を示した。成人も22歳のとき暴力的なテレビを長く観るほど、後の攻撃性は高く暴力やケンカが多い。しかし暴力の描写シーンが不幸の結末を辿ればどれだけ長く観ても攻撃行動は増えない。攻撃性を増すかどうかは暴力シーンの描写に関わってくる。暴力的なゲームでは他者への援助行動が弱まり、他者の痛みに対する感受性が低下する。脳内では何らかの変化が生じており、暴力に嫌悪感を覚える反応が鈍くなり、行動抑制の機能は弱まり、あたかもブレーキの利かない車のアクセルを踏みこんだ状態となる。難しいゲー ムであればそのフラストレーションも加わり攻撃性が増す。

テレビやビデオゲームも悪いところばかりではありません。よいところもあります。テレビの番組を通じて、友情や正義、共感など人とつきあううえで必要なことを 効果的に学ぶことができます。映像や音声などをともなう番組は、文字しか書かれていない教科書などよりはるかに 子どもの心に訴えかけます。

衝動性と攻撃性が暴力を引き起こす。衝動性とはあとさき考えず行動する傾向をいい、暴力行動と密接に関わる精神疾患との関連が指摘されている。これには脳内で情報を伝えるセロトニンやドーパミンが強く影響を及ぼす。神経は一本続きではなく無数の神経繊維が複雑に絡み、神経の接合部でセロトニンやドパミンなどの神経伝達物質によって刺激を伝える。脳内でセロトニンが不足すると強い不安感に襲われ気分障害やうつ病になるため、治療薬は神経節でセロトニンを溜めるように働くSSRI(Selective Serotonin Reuptake Inhibitors)と呼ばれるものを用いる。しかし、逆にこの薬の副作用で攻撃性や自傷行為を引き起こすという報告がある。脳の機能障害や遺伝性など暴力性に迫る研究は様々あるが、3つの物質のバランスによって攻撃性が決まるという。暴力犯罪を起こした男性はテストステロン(男性ホルモン)濃度が高く、セロトニンとコルチゾールとの組み合わせも検討した。テストステロン濃度が高く、コルチゾール濃度が低く、セロトニン濃度も低い男性がもっとも怖れを知らず凶暴で、ひとたび怒れば、その攻撃性を抑えるのは相当困難になる。ただし、教育やしつけ、文化によって人間の行動は変わるので、これだけで人の攻撃性や暴力傾向は予想できない。

多くの人に凶暴で攻撃性があれば、たがいに殺し合いヒトという種族は絶滅したかもしれない。報道では虐待やDVなどの暴力事件が増加傾向にあるというが、ヒトは教育や倫理観の向上によって次第に理性的になり、蛮行を慎み人殺しをしないようになってきた。気性の荒い人は社会から排除されていき、情動を抑えられる人が生き残ってきたと考えられる。ヒトがますます攻撃的になっているような印象を受けるが、20世紀の2つの大戦より前の社会は、現代よりさらに暴力的だった。原始的な社会では、つねに社会の15%ほどの人が暴力で殺されていた。

現代のほうが人間の性質が穏やかになっていることは、暴力や殺人の数以外のことを考えても明白です。人身御供、魔女や異端者狩り、奴隷制度、罰としての手足切断、サディスティックな刑の執行(火あぶり、骨折、はりつけ、串刺し、斬首)など、現代の社会では考えられないことが、刑罰としておこなわれていました。現代の社会では、完全とはいえないまでも、市民だけでなく動物にまで一定の権利が認められています。

14世紀の西欧では10万人あたり40人も殺されていたが、20世紀の終わりには1.3人で約1/30に減少した。暴力の減少は自然選択だけでなく、暴力を抑制する心の働き(理性)が加速度的に高まったことが考えられる。それは社会のシステムに反映し、長い時間をかけて個人への権力集中を防ぐ制度設計が図られた。ヒトは極端に強い立場になると、弱い立場の者に対して残虐なふるまいをすることがある。

ここまで読むとヒトの性は「悪」という考えに傾きがちだが、「善」という研究もある。米国の退役軍人省の報告によると、2010年には毎日22人の退役軍人が自殺していると推測している。戦場においてヒトを傷つけたことがPTSDやうつ病など心の不調を引き起こしたと考えられる。「人は一人では生きられない」の言葉どうり協力し合う本性もあり、だからこそ種の存続が可能だった。

本来ヒトは互いを助け合い、共感しあう生き物だという考えかたのほうが、多くの実験結果に合致しています。近年の発達科学や神経科学、霊長類学の研究から、ヒトはごく幼いころから、他人を助けようとする傾向があり、その傾向は、ヒトともっとも近縁なチンパンジーにも萌芽的なかたちで見られることがわかってきました。

生後14〜18か月、しつけ効果が少ない極早期に援助行動が出現する。褒めるなどの報酬と無報酬グループに分けてもグループ間に差はなかった。無償の援助行動が生来備わっていることが考えられる。「互恵性」は人間社会を維持するうえで欠かせないもので、人間以外の多くの霊長類も、相手から受けた行為にお返しをしたり、自分が相手に与えた行為へのお返しを期待する。さらにヒトは他の動物では見られない協力行動を示す。力を合わせることで集団全体の利益があがり、結果として個人も利益を受け取る正の互酬性(他人が協力すれば自分も協力する)、そして正の互酬性を維持するため、負の互酬性(協力しない人を罰する)を進化を通じて獲得した。ヒトは多数派に同調し、仲間ハズレになることを嫌う。集団から否定されることを避けようとする観念や行動が長い年月にわたり強固に培われてきた。他人を傷つけたり仲間ハズレにすると正の互酬性によって自分も傷つくが、負の互酬性である裏切りや不公正な者への罰には快感を覚える。負の互酬性には性差があり、憎悪する者が死んだとき、通りに集まって気勢をあげるのはほとんどが男性だという。憎悪の連鎖が終わりなき争いを引き起こし、これには男性ではなく女性の感性が必要なのかも知れない。

人間は生まれてからの経験によって、思考や認知が大きく変容するので、環境の要因によって暴力的になることもあるかもしれません。また、遺伝子の変異や神経系の構造によって攻撃的な気質を持つ人もいます。しかし、人類全体で考えたときには、ヒトという生き物は、進化の過程で「善」を選択してきたからこそ、大きな集団を維持しつつも生活を向上させながら暮らしてこられたのではないでしょうか。

生活の向上で富に格差が生じ、異常なまでに格差は広がり続けていく。62人の富豪が世界の富の半分を独占する。経済も政治も司法も権力者や富豪だけを利するような仕組みになりつつある。彼らは自分だけ居心地の良い世界を作りあげていく。ここには互恵性の欠片すらなく、収奪という暴力が大手を振ってまかり通る。ヒトの本性からハズレると、仲間が生きていけない世界はやがて自分たちも生きていけないことに気付かない。

 

がん治療の95%は間違い 近藤誠

一昨年、大学病院を退職され、近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来を開設し、相談を受ける。「95%は間違い」と言い切るなど、しがらみから解放され、発言が先鋭化したように思う。

若手の医者から有名医まで、患者にウソをついて脅した上で治療に持ち込む「恫喝医療」の実践者とみて、まず間違いありません。また、95%以上のケースで、うけないほうがいい治療を勧められていることもわかりました。これは治療自体をうけないほうがいいケースと、別の治療法が適当なケースとがあります。後者の場合もそのまま治療を受けると、取り返しのつかない後遺症に苦しんだり、死んだりします。

医者は「このままでは余命○か月」といって治療を促すが、患者は「このまま」を「なにもしない」、つまり放置という意味でとらえる。医者もそのつもりで喋っているのかも知れない。しかし、いったいどれくらいの医者が放置の症例を持っているというのか。ほとんどの医者が3大治療(手術・抗がん剤・放射線)に邁進する現状だ。「このまま」というのは治療を受けた時の余命なのだ。

近藤先生が奉職された慶応大学病院の医師100人が書いた病気の予習帳という本を手にした。海外でも経過観察が主流である前立腺がんについて要約すると..毎年、定期的にPSA検査を受け、異常が発見されたら手遅れにならないように早期に適切な治療を受ける。進行すると排尿困難、頻尿、残尿感が現れ、血流に乗って背骨や骨盤に転移する。PSA値が上がればすべてこのような経過を辿るわけでもあるまいに、本には他の経過の一例すら書かれていない。患者を脅し、不安がらせ治療に追い込む。患者を安心させたら、誰だって苦しい治療は受けない。最近では手術も進歩し腹腔鏡でできるようになった。抗がん剤も進歩し効果的で副作用の少ないものがあり、放射線治療も精度が上がってピンポイントでできる..等、他のがんに対しても判で押したような内容だ。早期発見・早期治療以外に医療の手段を持たない医者の妄念と度量の狭さを感じた。

近藤先生は、PSA値が上下する前立腺がんは99%以上が「がんもどき」だという。「がんもどき」という言葉に抵抗があるなら「できもの」でもよろしい。PSAは前立腺から分泌されるタンパク質で、前立腺がんで異常に増加する。この数値が高いと生検を勧めるが、生検でがんが見つかるのは3割程度だ。PSA検査についての比較試験では検査群と無検査群の最終的な死亡数は変わらなかった。つまり前立腺がんで高くはなるが、高いものが前立腺がんとは言えない。検査そのものに意味がない。しかし、がんもどきかも知れない「前立腺がん」を早期発見するため生検を行う。太い針を突き刺し組織をかじりとる。これだけで肛門や尿道から出血したり、前立腺炎や肺炎などの感染症を起こすことがある。ひどいときは痛みが数カ月続いたり稀には亡くなることもある。がん細胞が見つかれば、すぐに手術を勧めるだろう。前立腺の全摘出になるので、男性機能の喪失・低下は免れない。尿道を切断し膀胱とつなぎ直すので、尿漏れで生涯オムツ生活になる人も結構多い。

ピンポイントで照射できる放射線は精度が上がった分、線量も増え、これも性機能の低下や排尿困難をもたらす。陽子線に期待を寄せる向きもあるが、基本は従来と同じなので、数100万円もの治療費を払う価値はない。重粒子線は強力すぎて後遺症も多発し危険なのに、このことを施設側は公表しない。米国には多数の前立腺がん患者を集めた比較試験がある。半数は前立腺を全摘し、残り半分は放置した結果、前立腺がんによる死亡数は変わらなかった。結果が同じなら、早期発見・早期治療の利点はなにもなく不安や苦痛なだけ損だ。近藤先生は骨に転移があっても、痛みや障害が出てからで十分だという。慶応大学病院の医者100人の本にはこういった副作用や障害の起こること、結果的に治療効果のないことには一言も触れていない。どちらが公平無比か一目瞭然ではないか。

例として前立腺がんをあげたが他のがんも推して似たようなものだ。がんだけでなく「恫喝」は医療全般に及ぶ。健康の指標として関心の高い血圧について、2014年人間ドッグ学会が高血圧の新基準値を発表した。血圧が147-94、一方高血圧学会は140-90としている。基準値の高い人間ドッグ学会のほうがまだましではあるが、これでも2000万人以上が高血圧と診断されてしまう。少なくともこれだけの人々が無用なクスリを飲まされ、副作用に苦しみ、命を縮めている。基準値を下げて患者を増やしただけなのに、食生活の欧米化やストレスの増加で高血圧が増えているなどとまことしやかに語る。この基準値はどうやって決めるのか。

人間ドッグ受診者1500万人のなかから「過去に大きな病気をしておらず、タバコも吸わず、飲酒は1日1合未満」などの条件で約34万人の「健康人」を選びだし、さらにフルイにかけて選んだ「超健康人」1万人ほどの検査値を用い、低いほうと高いほうの2.5%を除外して、基準値を叩きだしたのです。

超健康人を対象にするのはいくつか間違いがある。150人に1人しか居ない超健康人の値は過度に厳格になるため、ふつうの人が参考にするのは適切でない。フルイにかけたり除外した超健康人のなかには、血圧の基準値147を超え160とか180という値の人も居たはずだ。超健康人を選んでおいて、血圧値だけで病気とすることには矛盾がある。基準値はあくまでも病気の「手ががり」とするもので、この基本的な認識について異論はないと思う。

動脈は歳をとるほど硬く細くなり、脳や体の末端まで血流が行きにくくなる。そのため心臓は以前より強く拍動し血圧を上昇させる。血圧が高くなるのは脳や末端へ十分血液が行きわたるよう体が調節した結果の数値だ。工業製品でもあるまいし、人の血圧に基準などない。160の人は160、180の人は180という血圧が必要であって、それをクスリで無理に下げると体に問題が生じる。

たとえば車や家電製品であれば宣伝で売り上げを倍にしても、金銭の多寡の問題だ。しかし、医薬品は深刻な健康被害や死に至るケースがあり、医原病も指摘される。日本の公式な統計資料には一切出てこないが、死亡者数のうち30〜40万人が医原病と考えられ、総死亡数の2〜3割にもなる。医療者がこれに無頓着であれば患者の健康どころか自分を守ることもできない。数値が独り歩きするまでの仕組みや、そこに製薬会社の意向が強く反映されていることを語る医者は貴重な存在だ。

戦後すぐの日本では、脳出血によって亡くなる人がとても多かった。(中略)その頃の専門家たちも、高血圧の治療やクスリの大切さを説きましたが、高血圧の目安自体はとてもゆるく、上は160以上、下は95以上でした。「高齢者では上の血圧は、年齢に90を足した値を目安にすればよい」ともいわれていました。

ところが2000年に日本高血圧学会が突然、高血圧と診断する基準を引き下げました(上が140以上、下が90以上)。さらには、血圧を下げる場合も目標値を上が130、下が85としました。

この基準にはデータ的根拠がなく、以前の160-95という基準にも根拠はなかった。変わったのは高血圧の患者数と降圧剤の売り上げだ。高血圧症が1600万人から3700万人に増え、クスリの売り上げは1988年の約2000億円から、2008年には6倍の1兆円を超えた。診断基準の操作と医者の素直な協力の賜物というほかない。おかげで成人の半数が高血圧患者とされ、定期的に医者へ足を運ぶ、そのうち各種検査で追加の病名まで頂戴し薬漬けだ。

血圧は体の隅々まで血液を送るため必要なもので、その数値には多様な個人差がある。フィンランドの調査では80歳以上で生存率がもっとも高かったのは上が180を超えた人たちで、140を下回ると死亡率が高くなっている。日本では上が150〜180、下が90〜100の人たち300人あまりを2つのグループに分けた比較試験がある。プラシーボ群と降圧剤群で死亡率に変化はないが、脳梗塞を発症した人数がプラシーボ群で6人、降圧剤群で9人となった。またがんの発症数はプラシーボ群で2人、降圧剤群で9人だった。降圧剤を飲んでも飲まなくても死亡率は変わず効果はないが、血圧を下げることで血液循環が低下し脳梗塞やがんを引き起こす。「60歳を超えたら、年齢に90ではなく、110を足した数値まで問題のない血圧だ」という。

2009年、WHOは新型インフルエンザのパンデミック(フェーズ6)の警告を行った。この数年前からメディアも盛んに特集を組み、多くの自治体も対策班を設けパンデミックに備えた。私もこれは一大事と思い、本や資料を開き、戦々恐々した。そのことをコラムや記事にも書いたが、結果は季節性インフルエンザと大差なく、被害も少なかった。「人類の脅威」とまで煽り立てたWHOの意思決定システムに製薬会社の意向が大きく反映したことが後に判明した。それ以来、パンデミック騒動はピタリと止んだ。日本では新型インフルエンザワクチン備蓄のため、国産では足りない4950万人分、約1126億円をGSKやノバルティス社と購入契約を結んだが、2010年の年明けには終息し、政府は製薬会社へ無用となったワクチンの違約金を支払った。

インフルエンザはかつて「流行性感冒」といいました。流行性の風邪という意味です。それを、仕事増をねらう医者たちが「インフルエンザ」と言い換え、恐怖を煽っているのです。結局のところ、インフルエンザ自体は、ただの風邪なのです。

インフルエンザを恐れるのは1918年、スペイン風邪で4000万人の死者を出したことに始まる。記録によると死亡率が高かったのは兵隊たちで、当時米国の軍隊では、中毒量に近いアスピリンを常用していた。後年判明したことだが、インフルエンザや水痘などの発熱性感染症に使うと、常用量でも「ライ症候群」を引き起こし脳や肝臓障害から死に至る。スペイン風邪の死者は、これを大量に投与したための薬害であった可能性が高い。2009年のパンデミックのときのウイルスの構造がスペイン風邪のときとほぼ同じだったことで、アスピリンの薬害が裏付けられた。

ウイルス性疾患での熱はウイルスが出しているのではなく、人の免疫細胞がウイルスの増殖を抑えるためサイトカインを分泌し体温を上げるものであり、それを解熱剤で下げると、免疫細胞の働きを削ぎ、ウイルスが息を吹き返す。病気と知るや、治療や投薬で痛めつけ、自己治癒力を生かすことへの思いやりはほとんどない。

がん治療やいくつかの病気について、忌憚のないセカンドオピニオンを得た。さて「どうすべきか」、わが身に迫ったとき、思いどおりの行動がとれるだろうか。あるいは自分の身内や友人を説得できるだろうか。大変困難なことで、詰まるところ自分の健康は自ら熟考して行動するしかない。科学的根拠があるというガイドラインに沿った診断や治療には、負の情報が隠され、医者の誘導に従わざるを得なくなる。ご近所の親切な医者は早期発見・早期治療こそががん治療の要諦だという、それがもっともだと思えば従えばいい。医療とは先の見えないギャンブルに等しく、「ああすればよかった、これは失敗だった」と、自分に命乞いはしたくない。

 

日本はなぜ米軍をもてなすのか 渡辺豪

1945年12月、母親に背負われた幼児が窒息死して、国鉄の耐えがたい混雑ぶりを象徴していたとき、日本政府は占領軍要員のために特別列車を出し、たいていゆったり座れる「占領軍専用列車」さえ無料で提供しなければならなかった。

1948年の時点で約370万世帯が住宅のない状態であった一方で、日本政府は占領軍の住宅と施設に予算の相当部分をあてなければならなかった。しかも、それはアメリカの生活水準に合わせる必要があった。戦争未亡人が援助を求めてもほとんど聞き入れてもらえなかった一方で、たとえばアメリカ人の将校が、自分のために接取された民家を「最新式」にしてほしいといえば、電気・水道の施設を取り替え、内部を塗装し、電話・ストーブ・トイレのような新しい設備を設置し、そのうえ庭の池をプールに改造する費用まで日本政府が支払うほかなかった。

終戦後71年になるというのに、今も変わらず基地やカネを提供し、憲法違反の戦争法案を作り命まで差し出そうとする。国を動かす人々は国民の負託ではなく占領軍のもてなしに明け暮れ、国民の権利や財産を蹂躙する。これが連綿と71年も続き、この先、米軍のために血まで流すことにもなりかねない。世論調査で、アメリカに親しみを感じるか聞いたところ、「親しみを感じる」とする者の割合は83.1%にも及ぶ。国民へ実像を知らせぬまま、アメリカへの親しみだけを醸成させてきたのだ。おもてなしを取り仕切る役所は「防衛施設庁」といい、歴とした日本人が業務遂行にあたる。淵源を辿れば、米軍占領期の「調達庁」という組織に行きつく。一般の官庁が権力を行使するのとは異なり、防衛施設庁は米軍基地を抱える地方の現場で住民の不安や反発を和らげるため、縁の下で日米安保を支えてきた。もちろん強権も行使はするが、金銭的補償などの飴(アメ)を巧みに駆使するのが特徴である。

他国の軍隊が日本に駐留し続けられるように最大限の「おもてなし」をする機関など国際的にも類例がない。メディアもこれに追随するため「日米安保」への抵抗は薄れ、「日米同盟」と呼ぶようになった。米国との信頼関係、言いかえれば「隷属」を高らかに表明できる総理が評価される。政治家に理念や理想が失われ、投票率を見る限り国民は日々の苦楽に埋没し主権者たる自覚が薄れた。

占領後、進駐した米軍は宿舎や施設の確保に着手し、必要な物資や労力は現地の警察や自治体、ときには会社、工場、個人などに直接要求した。これらの対価は現金ではなくチョコレートなどの物品で賄い、労働者には逃亡を警戒し体にマークを付けたりした。トラブルが相次いだため「調達要求書」という文書を発行し物品や労力を入手するシステムを整えた。ここで「もてなし」機関である「特別調達庁」が生まれ調達庁、防衛施設庁へと引き継がれていく。

日本占領の特殊性を占領管理の方式からみると、まず、占領軍が直接に占領行政を行う直接管理方式をとらず、連合軍最高司令が日本政府に対し所用の指令を発し、日本政府がこれに基づいて統治を行う間接管理方式がとられたことである。

間接管理方式とは霞が関文学に他ならず、いまも変わらずアメリカに占領され、この国で政治家や官僚を続けていくにはアメリカのために「奉仕いたします」という宣誓が必要なのだ。GHQの間接占領によって温存されたのは天皇制と官僚機構であり、官僚は間接統治の道具として便利に機能していく。彼らもなすがままではなく知恵を絞り苦悩したが、無条件降伏のその瞬間から戦勝国アメリカが予定した安保条約、行政協定というコースは受け入れなければならなかった。行政協定は1960年の安保条約改定により名称だけが「日米地位協定」に変更された。

この交渉を一言でいえば、基地提供を「いかに高く売りつけるか」という立場と、軍隊の駐留について「いかに恩を着せる」かたちにするかという立場の攻防戦であった。結果として米側は、「米国が日本に駐兵したいことも真理」という日本側の五分五分の論理を拒否し続けることで、この攻防戦に勝利したといえよう。

憲法9条が戦争や軍備の抑止力になる代わりに、米軍の駐留を許し、基地を抱える国民へ過剰かつ深刻な負担を強いてきた。いままで幾多の反対運動や裁判が行われ、政府は左翼イデオロギーの闘争だと矮小化してきた。いま55年体制はすでに崩壊しているため保革の「政争の具」とはいえず、沖縄の翁長知事がいう「イデオロギーよりアイデンティティー」の要素が強い。

1978年度から金丸防衛庁長官の提唱で米軍への「思いやり予算」が始まった。1978年度に62億円で始まり、ピーク時の1999年度には年間2756億円、2015年度は1899億円になる。この他、在日米軍の維持に関する予算として、基地周辺の住宅防音工事、公共施設整備事業、軍用地の借料、漁業補償、自治体への交付金、米軍が負うべき裁判費用など、防衛省以外の負担も含めると、年間5000〜6000億円の支出で推移している。実際は米軍駐留コストの肩代わりだが、世論の反発を和らげるため「思いやり予算」と言葉を変える必要があった。アメリカの政治学者ケント・カルダーは「アメリカの戦略目標に対して日本ほど一貫して気前のいい支援を行ってきた国はない」と指摘する。

在外米軍基地を維持する政策の分類の一つに「補償型政治」という概念があり、顕著な発展を遂げたのが日本の特質だ。強制をほとんど行わず、そのかわりに相当の物質的補償を提供することによって国は基地反対の感情を和らげ、外国軍基地のプレゼンスの安定を図る。いわば反対派を金銭で抱き込むことに他ならず、反対派にも地元住民にも買収と批判されないように補償を正当化する理由付けが求められる。補償の大部分は基地に様々なサービスを提供する地元の団体に向けられ、建設業、基地労働者組合、電力会社、軍用地主などが受益者となる。「経済、経済..」と連呼し群がる者たちが、「金、金..」と言えば正当化の理由が廃る。あくまでも「日本の平和と安全のために..」でなければならない。

日本の政府には当事者能力がないのではないか。アメリカとの関係があまりにも従属的で、二国間で決めたことは少しも動かせない。アメリカと決めたことを、ただ地方自治体に押し付けることだけしか方法を持っていない。いくら政府と交渉しても、彼らには当事者能力がなく、埒があかない。

アメリカと話し合うという姿勢さえ感じられない。ここまで従属せざるを得ない「弱み」でも握られているのだろうか。抵抗したり、話し合おうと試みた政治家や官僚がいないわけではなかった。しかし、些細なスキャンダルや架空の事件を仕立て、それにマスコミが協力し国民が真の敵に気づくことを妨げた。アメリカの要望を是が非でも叶えるため、地域振興というアメを差し出すが、ムチも振るう。麻薬のように切れば欲しくなり使えば使うほど中毒を呈し、自立できず精神的依存症に陥り、ついに耽溺症へと行き着く。振興策という、いわば降ってわいたカネで発展、自立した町はない。たとえば、原発を抱える自治体の首長など露骨な見本だ。耽溺の果てに原発の部品と化した町長もいる。どこの町長かは知らないが、原発のことを「彼」と呼んでいるらしい。佐賀ではオスプレイ配備の話がくすぶり続ける。佐賀空港を開設するとき「自衛隊との共用はしない」という明らかな念書があるにもかかわらず経済界や自民党の政治家は誘致しようと動く。先は見えているではないか、国は地元の顔色をうかがいつつ、アメを見せ真綿でくるむように懐柔していくだろう。1年前の県知事選で明確に原発再稼働反対、オスプレイ反対を訴えた候補者は低い得票で敗れた。

日本のアメリカに対する「もてなし度」あるいは「従属度」は、安倍政権の集団的自衛権の行使容認によって極限に達しようとしています。沖縄では民意の反対を押し切って海兵隊の新基地を造り、日米地位協定の特権で在日米軍を保護し続け、在日米軍駐留にともなう巨額の経費負担を継続し、なおかつアメリカの兵器を買い上げる世界屈指のお得意さまである自衛隊は、世界規模で米軍を支えるため血と汗を流そうとしています。

それでもなお、日本政府は米軍をもてなすのでしょうか。答えは「イエス」です。

いまのところ日本は民主主義国家であり、選挙という意思表示で「ノー」を表明することができる。先に書いたが世論調査で、アメリカに親しみを感じるか聞いたところ、「親しみを感じる」とする者の割合は83.1%にも及ぶ。国民の半数が自民・公明の現政権を支持する。国民はいままでどうり、アメリカに親しみを感じ、自公の議員へ投票を続けるのだろうか。責任は彼らもだが国民にもある。社会を見る目を養い、責任をもって選挙にいけば、私たちはもっと豊かで幸福な日々を送れたかもしれない。

沖縄をはじめ国内の米軍をもてなすのは、日本が戦争に巻き込まれないための政治戦略として、いままで国内世論の理解を得ていた。しかし、いま過度の対米従属から脱却できず、「戦争に巻き込まれる」方向へ進もうとしている。

安全保障関連法の成立によって平和憲法はさらに毀損され、日本は「戦争参加」に近づきます。だからこそ、憲法九条を堅持しなければならないと思います。アメリカからの要求に無為に応じないで済むように、「政治の狡知」として九条のカードを失うべきではないと思うからです。

憲法9条を死守した後、私たちは政府とその背後のアメリカという2つの壁に対峙しなくてはならない。

 

近藤誠の「がん理論」徹底検証

近藤先生の「患者よ、がんと闘うな」がベストセラーになったのが1996年、それから20年、これほど影響力のある医療本はそう多くはない。しかし次々とヒットを放ったにも関わらず、一般の認知度は10〜20%と意外に少ない。一般男女100人へのアンケートで、Q:近藤医師を知っているか?A:知っている10人、名前を聞いたことがある10人、知らない80人。Q:近藤医師の本を読んだことがあるか?A:ある7人、ない93人。近藤医師のがん放置療法について知っている人は10人で、自分や家族ががんになったら放置療法を選ぶかの質問に「はい」と答えた人は5人で「いいえ」が42人、「どちらともいえない、わからない」が53人だった。

いっぽう現役医師は80人が「がん放置療法」を知っており、賛同できるとの答えは12人、「いいえ」は56人、「どちらともいえない」が32人だった。「放置ではなく経過を観察すべき」というコメントがあり、これは近藤先生の放置という概念に包括されるものだ。「医師として放置という選択肢はない」という意見には多くの医師が賛同することだろう。

近藤理論の根幹をなすのが「がんもどき理論」で、通常がんと呼んでいる病変には「本物のがん」と「がんもどき」がある。本物のがんとは臓器転移のあるもので、がんもどきは臓器転移がない。本物のがんは発生初期から転移する能力があり、原発巣が見つかったときにはすでに目に見えない転移があちこちにあるという。専門医は早期発見・早期治療を勧めるが、例外はあるとしても転移したものは発見できず原発巣を切り取っても完全に再発を防ぐことができない。したがって症状を緩和する以外の治療は無駄である。「転移のあるがんでも治るものがある」、「転移のないがんでも放置は危険」など様々な反論はあるが、生命現象に関する完全解明は不可能で四角四面の法則に従うものは少なく、異論は無限にわいてくるだろう。

本物のがんは早期発見も治療も無駄で、がんもどきは自然に退縮したりゆっくりとしか大きくならず、命取りになるような病変にはなりにくい。いずれも症状が出てから対処すればいい。ところが、「本物のがんでも治るものがある」、「がんもどきでも進行するものがある」、「医師だから放置はできない」などの理由ですべてのがんに早期発見・早期治療を適用し、患者を発掘する。続いて手術や抗がん剤などの治療により、副作用や後遺症の苦しみを残す。がんは治療しない方が体へのダメージも少なく終末期の苦痛も少ない。近藤先生が根拠とするデータのひとつが胃がん発見数である。発見数はうなぎ登りで増加しているにも関わらず、死亡数は横ばいのままだ。早期発見・早期治療が有効なら減少すべきではないか。

「近藤さんの理論は8割当たっていると思うけど、全部信じないほうがよい」、「近藤理論に感化された人は治療したくない」など、医師は様々な反応を示す。近藤先生は激しい口調で批判するため、相手の医師も感情的に反発することになり、学会総出で感情を露出した例もあった。

近藤さんは消化器診断学会に呼ばれ、総がかりで吊し上げられたそうです。それを見ていた医療ジャーナリストの宮田親平さんによると、学会側が「がん検診は必要」という結論ありきで、「ゼニ勘定のためのがん検診」であることをみずから明かして墓穴を掘った。結局は水掛け論の応酬となり、学会側が科学的な反論をできずに終わったようです。

どうして医師たちは、感情的に反発してしまうのでしょう。

それは、自分のやっている医療が、「患者目線でないゼニ勘定になっている可能性」を否定し切れないジレンマを抱えているからでしょう。

また日本の病床数は他国に比べて過剰なので、自分の病院を生き延びさせるための収支勘定が脳裏から離れません。過剰診療する姿勢が習い性となると、今度は心の痛みを減らすために、「自分がやっていることは正しい」と思い込む。その矛盾を近藤さんがずばりと突いて、「本当にあなた方は真心の医療をやっているのか」と問うてくる。

医療には危険がつきまとう、医療用の被曝で亡くなる人が年に1万840人、被曝で発生する「がん」が3.2%と推計される。医療事故や過誤で2万4000〜3万8000人が亡くなっているという推計もある。後遺症や副作用で苦しむ人も加えると医療が様々な不幸を生み出す原因となっている。「がんもどき」のあるなしで、出口なき論争を続けるより、事故や副作用を減らすため、患者の側に立った議論を深めるべきではないか。日本は薬の使用量も放射線の被曝量も世界屈指であることを見逃すわけにはいかない。

「患者よ、がんと闘うな」から20年、この本で変わったことも多い。「固形がんに抗がん剤は効かない」と誰かが言い出さなかったら、今でも末期の末期まで抗がん剤で患者を苦しめ続けたであろう。抗がん剤の功罪について医師の理解も深まり、是が非でも勧めることは減った。乳がんは乳房を全部切り取っていたが今は温存手術に変わった。他のがんでも縮小手術や腹腔鏡手術という患者の負担や後遺症の少ない方法が主流となった。理解者、同調者は居たかも知れないが、ほとんど孤軍奮闘した近藤先生へ尊敬と賛辞を惜しまない。

「8割は当たっていると思うけど、全部信じないほうがいい」などと解かったふうに語ることで知的で視野が広いとでも思われたいのか、こういった定型句の講釈に心動かされることはない。がん患者の増加という事実は何を物語るのか。圧倒的多くの医師がガイドラインに従い検診や治療を行い、一向にがん患者が減る気配はない。ガイドラインがいかにして作られるか、治験データは信頼のおけるものか、製薬会社のマーケティングがいかに巧妙か、知らずに済まされない問題だ。

「がん治療は事前に正解のわかないギャンブルのようなものである」という医師もいる。未知の領域が広大な医学において予測のつく事柄は限られる。結果からは山ほど理屈が生まれ、がんもどきや放置での死亡例、抗がん剤や早期発見での治癒例、またその逆もあるわけで、反論の証拠として個々の例を出してもEvidenceに乏しい。当事者たる患者は迷うばかりで、よほどの信念がないかぎり、主治医の指示に従って治療を受けざるを得ない。

がんの検診や治療には放射線被曝や抗がん剤の副作用が伴い、同時に費用も伴う。1990年代半ばまでは、ひと月あたりの薬剤費は1万5000円〜3万円ほどだった。2000年に入ると分子標的薬が登場し、2007年以降、ひと月あたりの薬剤費は46万5000円〜84万9000円に達するケースも出てきた。これに生存期間の月数を乗じると抗がん剤だけで約800万円が必要になり、得られる延命効果は1か月半弱だという。これほど高額な薬が適正な価格設定かどうか疑問は残るが、昔のシンプルな合成医薬品と違い最新のバイオ技術を駆使し複雑な工程を要するためコストは桁違いにかかる。皆保険制度の恩恵で個人の負担は限度額で済むが保険制度は崩壊の危機に向かっていく。TPPが近く批准されようとしている。多くの人は農業分野のことだと思い、なかには食料が安くなるのはいいことだなどと考える人がいるかもしれない。しかし、本丸は医療や医療保険分野が狙われている。一体どうなるのか、医師会、薬剤師会など関係者の危機感はうつろで、いまだ自民党議員のため推薦人名簿を集め政治資金を差し出す。医療崩壊とともに命を金で買うことになり、1回の入院、1回の手術で破産という悲劇も待ち受ける。折しも4月から事実上の混合診療が解禁される。

1990年代からインフォームドコンセント(説明と同意)という動きが起こり、特に手術前など家族を集めて病状等について詳しく説明がなされ、押印を求められる。そこにはリスクも書かれ、「これも覚悟せよ」と脅迫されているような気さえする。医師の詳しい説明に嘘はないと信じたいが、患者は知識がないだけに検証のしようがない。セカンドオピニオンを求めても同じ見解の医師であれば徒労に終わる。多くの医師がガイドラインに沿って手術、抗がん剤などの治療を行うため、彼らのいう予後、余命などのデータの中に放置の症例は皆無だろう。放置というのは、いわゆる「見て見ぬふり」の放置とは全然異なる。近藤先生は「がん放置療法」は無理、矛盾のない最新かつ最善の診療方針だという。放置というのが誤解を招くようであれば、別の呼び名に変えてもいいのではないか。

くりかえすが、4月から混合診療の拡大策「患者申し出療養」制度が始まる。患者はかかりつけ医に相談することで、全国に80以上ある大学病院などの特定機能病院や臨床研究中核病院を通じて、国に未承認の薬や治療などを申し出ることができる。申し出を受けた国は、自由診療部分の安全性や有効性を短期間で審査し治療を承認する。一般的な検査や治療は公的保険の対象となるが、自由診療部分は全額自己負担になる。例えば未承認の骨肉腫薬「ミファムルチド」を1カ月使うと約1900万円、急性リンパ性白血病薬「ブリナツモマブ」は約725万円になる。いま日本の勤労者全体の41%の世帯が年収300万以下で、社会保障費や税金など差し引くと、月の手取りは20万を割り込む。先進医療を受けられる人は極一部の富裕者に限られる。しかし、「命には代えられない」、「1日でも長生きして欲しい」と金を工面することがあるかもしれない。かかりつけ医のいうままガイドラインに沿っての相談が人生までも左右する。人が生涯を全うするのは大変なことだ。いきなり壁にぶつかったときの戸惑いや困惑を軽くすため、日常的に危機的場面のトレーニングをしておかねばなるまい。いいかえるなら、「肚を決めておく」ということだ。近藤先生の「がん」や「医療」に対する問題提起はこれからますます輝きを放っていくだろう。

 

地球はもう温暖化していない 深井 有

人為的温暖化に関する国別意識調査で「気候変動は人為的要因によるものか」、「気候変動を脅威と考えるか」と問うたところ、気候変動を脅威と考える人の割合は最近5年間に先進国で大きく減っている。米国の数字は2014年に24%まで下がっている。オーストラリアでは2013年に気候変動・エネルギー省が廃止された。英国では2014年に国内の気候変動関係の組織が大幅に整理され、関連予算も41%カットされた。スイスでは付加価値税に代えて炭素税を導入するという案が国民投票にかけられ、92対8の大差で否決された。

これに対して日本の数字は飛びぬけている。気候変動を脅威と考える人の割合は断トツである。人為的温暖化を信じる人の割合も2007〜2008年に大多数の国が50〜60%であったのに、日本は90%を超えていた。この数字をみると、人為的温暖化についての国民意識の上で、日本は極めて特殊な国であることが分かる。

暑くても寒くても、とにかく温暖化の声が聞かれない日はない。日本の温暖化対策の予算は少なくとも年間3兆円にのぼり、この中には新エネルギー源開発、森林整備、南極観測など様々なものが含まれ、どこまでが温暖化対策費なのか判定しがたいという。原発村で明るみになった政・官・業・学・報を巻き込む「村」がここにもある。利権集団の一角である報道の旗振りで大多数の国民が「温暖化合唱」をしている図だ。日本以外の世界の潮流はなぜ変わったのか。理由は至って簡単、1998年以来CO2は増え続けているのに温暖化が全く起こっていないのだ。

温暖化はCO2ではなく太陽の活動が関係し、これまでの100年の極大を経て現在は急激に弱まり、今後は寒冷化へ向かうと推測される。160年前からのデータをみるとCO2は順調に増加し倍近くになっているが、気温は山あり谷ありでCO2との相関はない。しかし、是が非でも温暖化しなければならない勢力は俗説を生み出した。1)地球温暖化によって水面が上昇しツバルやモルディブが水没する/サンゴ礁の島はもともと海抜が低く、海面にあわせてサンゴ礁が形成されるので心配いらない。2)温暖化によって世界中の氷河が消え、北極海の海氷もやがて消えてしまう/氷河が消えているのは間違いないが、過去10〜100年ほど遅れて起こるので、これから寒冷化に向かい成長に転じる。3)温暖化によって台風やハリケーン、サイクロン、竜巻が増えている/最近60年間に日本付近で発生した台風の数はまったく増えておらず、むしろ減少傾向にあり、巨大現象は太古からある確率で繰り返し起こる。4)温暖化で平均気温が2℃上昇すると、温室効果ガスの増幅作用で灼熱地獄に向かうかも知れない/地球の気候システムは大きな復元力があり、2℃程度の変動は過去に数えきれないほど起こっている。2℃という目標は古気候学の常識から考えて無意味だ。人類は氷河期に誕生し、現在より4〜8℃も低い低温期や2℃どころではない気温変化と戦って生き延びてきた。2℃目標は科学とは全く関係ない極めつけの俗説だが、この目標は今でも生きていて、今世紀末までに100兆円を超える対策費が必要だという。

これらの俗説を世に広めたのは元米副大統領アル・ゴアとIPCC(気候変動に関する政府間パネル)、彼らにお墨付きを与えたノーベル平和賞で、その宣伝に努めたマスコミも与って力があった。その結果として、巨万の富--どころか世界で100兆円を超える人類の資産が浪費されようとしている。俗説はもっともらしく聞こえるものだ。たやすく信じるのは止めよう。受け売りは止めよう。俗説は人々がそれを信じなくなったときに初めて消える。

国連機関のIPCCはCO2が温暖化の主因と主張してきた。その後、種々の観測結果が得られるようになり、CO2主因論に多くの問題が顕在化してきた。CO2主因論が破綻しても、IPCCがそれを主唱したため、学問の発展が20年間にわたって妨げられた。気候は地球環境のみで変動するのではなく、太陽活動の変化による宇宙環境でとらえようとする機運が高まっている。

中年以上の人々は、昔と比べて温暖化を肌身で感じる人が多い。氷結や氷柱、積雪量など記憶をたどれば、現在は氷結もまれで積雪も少ない。過去50〜60年間で体感した温暖化である。

ところが、これが日本の平均的気温変化かというと、そうは言えないのだ。気温上昇には大きな地域差があって、過去80年間に東京では2.5℃も上がったのに対して中都市では1.5℃程度、都市を離れたところでは1.0℃以下でしかない。

大都市ほど気温上昇が大きく、熱放出に伴うヒートアイランド効果によるものと考えられる。また気温測定が80年前と同じ条件で行われたかの問題もある。芝生の上で25℃であっても、コンクリートの上では10℃以上も高くなるし、周囲の樹木や風通しでも変わってくる。これらの影響を考慮し調査すると、人口2〜4万の街でも100年当たり0.4〜0.6℃のヒートアイランド効果があった。国民の70%は人口10万人以上の都市に住み、人口2〜4万の街を加えると、大多数が少なからずヒートアイランド効果を体感していることになる。しかし、正確な気温変化は海水温と衛星測定でなければ信頼できない。これによると過去160年来、世界の平均気温は確かに上昇傾向にあり、100年で約0.7℃の割合になる。

いま太陽は200年ぶりに活動に変化を見せ、それが地球に気候変化を及ぼしているという。太陽は電磁波(光と熱)と荷電粒子(宇宙線)を地球に届けており、電磁波の強度はほとんど変わらないが、宇宙線は短期的にも長期的にも大きく変動する。この宇宙線の強度変化が雲量を増減させ、気候の変化を起こすことが解かってきた。過去160年間の気温変化を解析すると、1850〜1970年の気温変化は宇宙線強度によって決まっており、それ以後はCO2による影響が効いてくるが、IPCCの計算では過去100年の気温上昇をすべてCO2増加とし、それに合わせるため気候感度を高く見積もっている。

宇宙線による寒冷化は今後に予想されるCO2による温暖化によってかなりの部分が打ち消され、その結果、今後100年にわたって気温はほぼ横ばいか若干低下することになると予測される。この大きな打ち消しあいが起こることで将来の気温予測は難しくなっているのだが、少なくともIPCCが主張するような大きな温暖化が起こらないことはほぼ確実と言うことができる。

ここに総額で100兆円を超える対策費が使われようとしている。例に漏れず巨額の金に群れる人々が跋扈する。100年先の2〜4℃の気温上昇くらいで世界を動かせるわけはないが、科学が目的に奉仕し根拠を作りあげた。ここで、国家間の取引の商材としてCO2が金銭と結びつき動きだす。削減義務、削減目標、排出権取引等々、枕詞はCO2だ。最近のCOP(気候変動枠組条約締約国)会議で目立って懸念されるのが環境団体との関係だという。グリーンピースや世界自然保護基金(WWF)などの国際環境保護団体がCOP会議の運営に深く関わり、事前登録をした参加者でさえ入り口で待たされているのを尻目に、環境保護団体の人たちは大手を振って出入りしたという。科学と同じように環境団体も目的に奉仕するようになった。あたかも薬を売るため製薬会社が患者団体を利用するかのように。

米国に移住した気象学者・赤祖父俊一はその著書の「はしがき」で述べている。日本を離れて国際的視点から眺めていると、政官民一体となって「地球温暖化問題」について騒ぎ立てているのは日本だけではないかと思われる。祖国の皆さんに目を覚ましていただきたいためにあえて極言すれば、日本の状態は温暖化狂想曲で踊っており、報道はそれを鼓舞して太鼓を叩いていると表現するしかない。

気候変動の原因はCO2だけではなく、太陽の活動が重要で、これから寒冷化へ向かう傾向にある。CO2による温暖化は太陽による寒冷化を打ち消し、今後の気温は50〜100年にわたってほぼ横ばいか寒冷化する可能性が大きい。大気中のCO2増加はなんの害もなく、むしろ寒冷化に歯止めがかかる。CO2は植物と動物の命をつなぐかけがえのない物質だ。小学校で教わったことを復習しよう。植物はCO2と水から光合成を行い、動物に必要な食物や酸素を作り出す。動物は食物と酸素で命をつなぎ、CO2を放出する。このCO2循環によって地上の生命活動が営まれる。

稲の生育に及ぼすCO2濃度の影響を調べた実験によれば、CO2濃度が2倍になると成長は30%促進される。人口増加や寒冷化でますます食糧の需給は逼迫する。CO2の利用こそ今後の課題であろう。CO2を減らすため森林を増やそうという動きはCO2を減らすことより森林を増やすことで意味がある。石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料の使用を減らそうというのは、CO2を減らすことより貴重な炭素資源を大切に利用し次世代に残すことで意味がある。

今後50〜100年の間、気温はたぶん頭打ちから寒冷化に向かい、変動が激しくなって、大きな寒冷期が頻発することが予測される。そのときは、たぶん世界中で食料の奪い合いが起こって社会秩序は大きく乱れ、殺し合いが起こるだろう。生存を賭けての殺し合いを止める力を持つものは誰もいない。これが人類の歴史の必然であり、われわれがそれを変える力を持たないのであれば、せめてそこで何とか生き残る策を考えよう、日本だけでも何とか生き残ろう、ということになる。そのとき何よりも重要なのは、エネルギーと食料が自給できることである。

 

新薬の罠 鳥集 徹

世界保健機関(WHO)の「ワクチンの安全性に関する専門委員会(GACVS)」は、子宮頸がん予防ワクチン(HPVワクチン)について、「現在まで、接種推奨に変更を来すような安全性の問題は確認されない」とする新たな声明を発表した。勧奨中止が続いている日本の現状にも言及しており、「薄弱なエビデンスに基づく政策決定は、真に有害な結果となり得る」と厳しい見解が示されている。

2015/12/22の新聞記事だ。WHOとは人間の健康を基本的人権の一つと捉え、その達成を目的として設立された国際連合の専門機関である(wikipedia)。読み違えてはならない、子宮頸がんワクチンの中止が薄弱なエビデンスと言っているのだ。盗人から盗人呼ばわりされるような滑稽な話だ。wikipediaには「組織の肥大化と共に企業との癒着構造が問題として指摘されている」と書かれていた。もっとも権威ある保健機関が利権機関になり果てた。13年度の日本の医療用医薬品売り上げは10兆164億6100万円、前年度比4.8%増となった。市場別では100床以上の病院が3兆9282億8200万円(前年度比4.4%増)、99床以下の開業医市場が2兆2466億9100万円(1.4%増)、調剤薬局が3兆8414億8800万円(7.2%増)だ。

著者は副題に「10兆円の闇」と書いている。子宮頸がんワクチンは有効性に疑問が投げかけられ重篤な副作用も報告されている。全体の健康のためには多少の犠牲などいとわぬという製薬会社の意向が露骨に見え隠れする。2009年のインフルエンザ・パンデミックに際して彼らは「すべての人類の脅威」とまで言い放った。結果は季節性インフルエンザと大差ないもので、その後パンデミックは起こっていない。在庫となったワクチンとタミフルは丸ごと製薬会社の滋養強壮薬と化し、次の仕込みに運用する。パンデミックについては深刻に恐れたが、誤報や嘘がつづくと、本当のときにも嘘を疑ってしまう。お金が巨額になればなるほどすそ野はひろがり、甘い蜜に蟻も群がる。多くの人々は大学病院などの大病院を信奉し、高度な医療が提供されると有難がるが、大きくなればなるほど製薬会社との結びつきも強く、影響を受けやすい。

製薬会社の誘惑に乗らない医師もたくさんいるのは事実だ。しかし、甘い汁を吸い続けることによって、製薬会社への依存体質から抜けられなくなる医師も少なくない。とくに、研究、教育のために多くの人出と予算を必要とする大学病院や規模の大きな医学会では、その傾向がとても強い。

製薬会社依存症につける薬はなく、依存症に陥った医師は製薬会社や薬に対する批判精神を失うばかりか正しい評価もできなくなる。さらに症状が進むと薬のセールスマンと化し、薬害に目をつぶり効果を過大評価する。子宮頸がんワクチン事件における彼らの冷酷な言動を見るがいい。薬害批判から製薬会社を擁護し、患者の苦悩より製薬会社の利益を優先する。そして言い忘れはしない「多くの女性の命を救うために..」と。

1990年代頃からインフォームドコンセント(説明と同意)が言われるようになり、それに伴いevidenceの必要性が高まった。説明に納得できる根拠がなければ同意は得難い。evidenceを示すには信頼のおける臨床研究が不可欠だ。しかし、製薬会社の研究開発費の多くが広告活動に使われるのを知らない人々は、薬を曇りなき研究の成果だと思うだろう。疑うことなく処方し調剤する専門家もいるはずだ。彼らは健康食品や代替医療にevidenceが乏しいことを揶揄するが、新薬の闇は疑わない。添付文書に素直に従い、患者のために最高の医療を提供しているものと思い込んでいる。2013年に高血圧薬のディオバンのデータが不正に操作された疑惑が発覚した。氷山の一角と思うが、捏造や不正な操作とまでは言えない灰色の操作は日常茶飯事だ。

臨床試験の論文作成にあたって、わずかな効果の差を過大に評価したり、データの一部を解析して有利に見せたりする「SPIN(結果のねじまげ)」という手法が横行しているという専門家の指摘もある。そこに、臨床研究のスポンサーとなっている製薬会社への配慮が働いていないとは言い切れない。

日本では公平な医療を提供するため医療機関は利益を追求してはならないことになっているが、製薬会社は薬を売って利益を追求する資本主義の論理で動く。巨大化した企業は国境を超え、崇高な理念などひとたまりもなく踏みにじる。政治も行政も教育も、そこに人がいる限り、利権に絡めとられる恐れがある。製薬業界の利益率は他の業界に比べ高いことが指摘され、広告宣伝費への資金投入は莫大なものだ。薬の研究開発もやるが、その命運は売り方次第ということだ。利益の根幹となる医療用医薬品は医療関係者以外への広告が禁止されている。しかし、一般消費者への巧妙なキャンペーンは盛んに行う。心の風邪というフレーズで広まったうつ病、認知症、高脂血症、逆流性食道炎、ロコモティブ症候群.. 広報の一環として非営利の患者団体を設置、支援する。不安に駆られそこへ駆け込んだ一般消費者は相談に応じた患者団体の勧めで病院へ薬へと導かれる。

アリセプトの売り上げが伸びると同時に、不可解な現象も起こり始めた。認知症患者が急増したのだ。厚生労働省が3年に1度公表している「患者調査」によると、1996年に2万人だったアルツハイマー病の患者が年々増加し、2011年には36万6000人になった。つまり、たった15年で18.3倍にもなったのだ。

アリセプトという薬は認知症を引き起こす薬ではない。効能は正真正銘の認知症治療薬だ。医師、薬剤師は、認知症が増えたため、薬の売り上げが伸びたとでも思っているのだろうか。このように無邪気な専門家に命や健康を任せる訳にはいかない。患者や薬の増加に関して、社会問題としての視点を失えば自らの健康さえ守れない。他にもSSRIがうつ病を増やした例があり、テレビなどでキャンペーン中の疾患は患者の事より製薬会社の利益を謳うものと考えて間違いない。早期発見・早期治療という自治体の保健や福祉の窓口は製薬会社の出先と見間違うような勧誘を行う。繰り返すが、専門家たるもの一方通行の知識のみで動いては自分自身の健康さえ守れない。一方通行の知識というのは製薬会社が提供するevidenceや広告のことだ。evidenceとされる論文もバイアス(bias)やスピン(spin)がかかる。バイアスは偏り、スピンは捻じ曲げという意味で、そこに製薬会社の思惑に応えようとする研究者の努力の跡がうかがえる。2010年5月の米国医師会雑誌で論文に対する論文が掲載され注目を集めた。

論文の抄録の「結果」にスピンのあった論文が38%、「結論」にスピンのあった論文が58%にも及んでいた。また全体を通してみた場合も、「タイトル」に18%、「結果」に29%、「ディスカッション」に43%、「結論」に50%のスピンがかけられていたのだ。

とくに、抄録の結論にスピンが多かったことは深刻な問題だという。本文は長いため多くの医師は抄録しか読まないので、おのずとスピンのかかった結論が印象に残る。この論文の論文は信頼度の高いRCT(無作為化比較試験)を検討したもので、それでさえ半分以上が疑わしいものだった。これを確固たるevidenceといい製薬会社はプロモーションでフル活用する。evidenceが重視されるようになったため、evidenceを逆手にとって利用する方向へ進んだ。製薬会社は基本理念で「高い倫理観と強い使命感」、「医薬品を通じて人々の健康と医療の未来に貢献する」などと謳っているが、それがすべてではなく「医薬品を売って会社と株主の利益を図る」営利企業でもある。不利益なデータは隠し、利益に結び付くデータは捏造さえいとわない。これが薬害を生む温床となり、ヒモ付きの専門家は薬害さえもevidenceがないと強弁し製薬会社を擁護する。

「医薬品の有害性に関する情報を、加害者側が(故意にせよ過失にせよ)軽視・無視した結果として社会的に引き起こされる健康被害」

薬害とは上記のように定義される。製薬会社はいつの間にか巨大化し、政治や行政、司法までも手中に収めた感がある。命や健康を守り、医療の未来に貢献できる処方箋はあるのだろうか。頼りの医師や薬剤師が製薬会社のプローモーターならば、誰が健康を守るのか。ひとり個人でできることは、まず知ることであり、幸いネットや本を開けば明るみも暗がりも知ることができる。社会が変わらなければ解決できない問題だが、安易に医療に近づかないことも、処方箋のひとつだと思う。

 

科学者は戦争で何をしたか 益川敏英

自民党の国防部会は17日、有事の際などに一時的に自衛官として活動する予備自衛官などの雇用を増やした企業に対し、法人税を控除する案を了承した。「予備自衛官」と「即応予備自衛官」は普段は他の職業に就きながら、有事の際などには、自衛官として活動するもの。しかし、1年間に予備自衛官には5日、即応予備自衛官には30日の訓練義務があり、仕事との両立が難しいことから、2005年の4万1744人から去年は3万7271人に減っている。こうしたことから防衛省は、企業が現在雇用している予備自衛官を2人以上、かつ10%以上増やした企業に、予備自衛官1人あたり40万円の法人税控除を行う税制改正の要望案を提示し、部会で了承された。今後、与党の税制協議会で議論される。

昨年11月の新聞記事によると、政府は自衛官確保のため減税の餌を差し出した。18歳の選挙権も、アメリカと同じように兵員の確保を見据えたものだ。年末には次のような記事が目に留まった。

米軍が2000年以降、少なくとも日本国内の十二の大学と機関の研究者に2億円を超える研究資金を提供していたことが分かった。米国政府が公表している情報を基に共同通信が取材した。政府の集団的自衛権の行使容認で、今後は一層増加する可能性もあり、軍事と研究の在り方をめぐる議論に影響を与えそうだ。
--中略--
日本の学術界は先の大戦の反省から軍事研究と距離を置いてきたが、最近は研究費不足や、軍事技術と民間用技術の境目があいまいになっている傾向から抵抗感は小さくなっており、統一ルール作りが必要との声も出ている。

本年度から防衛省が軍事技術への応用が可能な研究の費用支給を公募し、16大学が応募したことがわかった。応募した大学の多くは「兵器・軍事技術に研究を行わない」との基本理念があるが「直接的な軍事利用を目的としていない」などと、まるでいまの政府のような詭弁を弄した。

戦時下における科学者の立場というのは、戦争に協力を惜しまないうちは重用されるものの、その役目が終われば一切の政策決定から遠ざけられ、蚊帳の外に置かれます。国策で動員されるということはそういうことです。「便利なものをつくってくれてありがとう」で終わり。

外国や大企業へばらまく金はあっても、財源不足といい教育や福祉を締め上げ、消費税で庶民から広く確実に金を搾り取る。根をあげたところで軍事費を使い手なずける。軍靴の音が聞こえてくるいま、気付いたときには遅い。著者は2008年ノーベル物理学賞を受賞し、政治への発言や活動も旺盛に続けておられる。本書が出版される少し前、2015年7月20日、「安全保障関連法案に反対する学者の会」を立ち上げ、安全保障関連法案の廃案を求め記者会見を開いた。

安倍首相は、本来だったら憲法を変えて9条を他の条文に置き換えてやらないといけないような戦争を、彼が有事だと思ったらできる、と言っているんです。これはとんでもない話で、鉄槌を下さなければいけない。そういう時期にきていると思います。
--中略--
安倍さんは、自分の任期中は何をやらかすかわからない危険な人です。自民党の政治家の中には、いろんな人がいた。右翼もいたけども、安倍さんみたいな滅茶苦茶をやる人は今までいなかった。

民主党政権への失望は大きかった。2012年の衆議院選で自公を大勝させたことがつまづきの始まりだ。正すチャンスは2回もあったが、次の参議院選でも、さらに衆議院選でも、国民は現政権を支持した。支持率も50%ていどを維持している。マスコミに介入し世論操作をやるような政権だ本当に正しい選挙なのか、支持率なのかは疑わしい。このままでは次の選挙も大勝し、難なく憲法は変えられるだろう。

21世紀のいま、戦争を回避しようという人間の理性はどんどん希薄になっているように感じると著者はいう。資本主義社会において科学者は政府か独占資本の使用人でしかない。科学の成果がなにに用いられるかは、科学者の意図とは無関係に、政府と独占資本の意志によって決定される。軍学協同、産学協同の流れは個人的な力では止められないところまで来ている。TPP問題が物語るように巨大企業は国境を越え、政治や行政まで手中に収めた。マスコミは宣伝費でどうにでも動く。研究費に惹かれる科学者も少なからず居て、長いものに巻かれるように増えていくだろう。こんな中で軍需産業というのは賢く立ち回ってビジネスを展開する。戦争で武器や装備を売り込んで儲けるのはもちろん、戦争がなくても儲かるのだ。

軍需産業の関係者が日本の危機感を煽るのに一番効果的なのが、東アジア情勢の不安でしょう。北朝鮮の脅威や、尖閣諸島を巡る中国との攻防、南シナ海南沙諸島を巡る各国の領有権問題など、日本政府に危機感を煽る材料はいくらでもあります。彼らはロビー活動で、日本の首脳陣にそうした不安材料を巧妙に吹き込むわけです。

財源がないといいながら、防衛費やアメリカへ貢ぐ金はいくらでも湧いてくる。最近購入したオスプレイは中古機に最新鋭機の2倍の価格(3600億円)を払った。軍備は戦争をしなくてもいくらでも増えていく。いざ戦争になれば、シリアで、1回の空爆に1億円かかるという。尖閣諸島は当時都知事だった石原氏が唐突に「都が買う」といった事からおかしくなった。危機を煽ることが氏の役割なのか、中国への蔑視発言を繰り返し、これに喝采を送る人々も多い。昨年の12月、元総理だった鳩山氏が講演で話したという記事がある。これと同じことをロシアのプーチン大統領も言っている。

イスラム国はCIAによって作られたもの。---イスラム国は部分的にはワシントンからのサポートを得たり、ワシントンに依存している”という説を紹介しています。パリ同時多発テロが起こることで、利益を得る集団が居ることを語っています。

利益を得る集団とは軍需産業であり、そのすそ野は数1000社以上にも広がる。防衛省のホームページからの引用だ。

防衛庁と直接契約を結ぶ企業数は、医療品・糧食の納入業者まで含めて1,500社程度であるが、その下に広範多重の下請中小企業群を擁している。例えば、戦車、護衛艦、戦闘機の場合、1,000社を超える企業がその生産に参加しており、そのうちの約7〜8割が中小企業である。

彼らの生活のため、そしてピラミッドの頂点に君臨する人々にとって、戦争は不可欠のツールだ。敵を上手に作り出し、巧妙に利用し、火のないところへ火を放つ。こんな事のため、こんな人々のため自分や子どもの命を差し出すことはできない。「お国のため戦う」という人は、なんのためか、誰のためか頭を冷やして考えるべきだ。リベラル派に対して「平和ボケ」、「中国や韓国へ国を売る」.. と誹謗する人々がいるが、「アメリカに国を売ったのは誰だ」。平和ボケしているのは戦争屋に他ならない。先の大戦を経験した人々は一様に戦争の悲惨を語り、不戦の誓いを訴える。

科学の軍事利用の最たるものが核兵器であり、原発にその縮図がみられる。最近、小さく隠れるように3・11の真相が明かされつつある。当初いわれていた水蒸気爆発はメルトダウンであって「直ちに危険はない..」ではなく、直ちに日本が終わるところだった。

3・11の原発事故は、まさに安全面をないがしろにしてきた商業主義、カネや利権を互いにやりとりする政・官・業の癒着構造が引き起こした人災です。津波で1号機が動かなくなったのはまだ御用学者の「想定外」としても、それから先は人災と言うしかない。津波にしても、地震大国の日本に原発を建設するという時点で、考えておかねばならなかったリスクだと思います。

生命や種が永遠でないように。欲望が欲望を喚起し、この見えないもののために滅ぶ。危機に駆られてデモに出かけ、署名を集め、ありたけの声で非難しても、権力を握った一人に勝つのは困難を極める。

--瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊してゆく。

核爆弾が使われると放射能を帯びた粒子が上空へ吹き上げられ、やがて死の灰や雨となって徐々に落下して地球の表面を覆う。いまも放射能の放出が続く福島の原発で同じことが起こっている。国が危ないというのに、海外へ金をばらまき、海外へ自衛隊を派遣する。原発の再稼働やオリンピックどころではなく、危機はいまま降りかかている。政治家や官僚、マスコミを疑わぬ人々は何事もなかったかのようにふるまう。原発を容認し、オリンピックで2週間の感動を味わったところで庶民になんの得があるのだ。事故の現実をそらし、あたかも終わったことにしたい人々、彼らには命より大切なものがあるからだ。

彼らの暴走か圧力かは知らないが、昨年1月、東京大学が軍事研究解禁へと方針を変更した。1956年と67年に評議会で、一切の軍事研究を禁止するとの方針を表明していたが、このたび「軍事・平和利用の両義性を深く意識しながら個々の研究を進める」と改めた。「科学者である前に人間であれ」と著者はいう。金をもらって研究の成果が出たところで用済みになるのが軍事研究だ。ガイドラインが外されたいま、確固たる信念を欠けばひとたまりもない。

私の個人的な考えを言えば、そうして軍事研究に利用された大学や研究室からは、まず優れた研究者は出てこないと思っています。資金が集まるところには優秀な人材も集まるというのは幻想で、ハングリーな部分がなければいい研究もできない。研究者というものは、貧しければ貧しいほど、いろいろ工夫していい研究ができる。

はたして科学者だけであろうか、金や利権にまみれた政治家や官僚、日銭を稼ぐマスコミを見よ。潔い人生を送ろうと思うなら、金や利権に近づかぬことも方法だ。なにをしでかすか分からない危険な面々も金や利権と無縁であったなら、つつましく善良な庶民だったかも知れない。

 

 

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