【読書録(9)】
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ある認知心理学の実験が行われた。白と黒のシャツを着たチームがバスケットの試合をする短いビデオを学生に見せ、白チームだけパスの数を数えるよう指示し、パスは空中で受けてもバウンドでもカウントし黒は無視するよう頼んだ。学生はほぼ正確に数を告げたが、実験の本質は別のところにあった。ビデオの途中、ゴリラの着ぐるみを着た女子学生が登場し、選手の間に入り込み、カメラに向かい胸を叩きそのまま立ち去った。およそ9秒間の出来事であったが、パスの回数を聞いたあと「他に変わった事がなかったか」を質問した。驚いたことに、およそ半数の学生がゴリラに気づいていなかった。本の副題はThe
Invisible Gorilla(見えないゴリラ)と書かれている。この実験は条件や参加者も変えて行われたが、結果はいつも同じで約半数の人がゴリラを見落とした。
さらに興味深いことには、ゴリラを見落とした人たちが、見落としを知った時の驚愕ぶりだった。なかには「絶対にゴリラは見なかった」と言い張る人や「テープがすり替えられた」と非難する人まで居た。手品や魔術師のトリックも錯覚を利用するものが多く、私達はタネ明かしを知らないまま驚き楽しんでいる。錯覚で楽しむだけならまだ良いが、失敗や事故に結びつくようであれば事は重大だ。たとえば自動車対バイクで考えてみよう。自動車のドライバーはバイクの前を横切って左折したり、路地から出てきたバイクや車線変更時にバイクと衝突する。事故の後、「よく確認したのに、まったく見えなかった」といい、バイクの被害者は「車のドライバーはこちらを見ていたのに急に目の前に飛び出した」という。車のドライバーは自動車の動きに注視するあまり、バイクや自転車や人など予想外のものを見落としがちだ。ゴリラの実験と同じことがここでも起こり注意を促しても、バイクの色や運転手の服の色を目立つものにしても変わらなかった。一時的に注意はしても緊張は続かず圧倒的に車が多く、バイクが少ないパターンに慣れてしまう。逆にバイクや自転車、歩行者が多い場所では事故の割合は少ない。不案内の道を標識や信号を気にしながら運転したり、慣れた道でも考え事などしていると、ゴリラの実験に参加しているような状況に陥る。歩行者や車、バイク、ときには信号さえ見落としかねない。即事故に直結しないのは、ドライバーや歩行者が互いにミスや不注意をかばいながら動いているからだ。注意の錯覚は日常身辺に起こり、飛行機や列車、機械の操縦や医療ミスなど命に関わることがある。ゴリラの実験は視覚的なものであるが、視覚に限らず五感すべてに当てはまる。
見聞きしたものを疑いもなく記憶に焼きついたと思い込む。ところが事象の周辺のざわめきで攪乱され間違ったものが焼きついてしまう。その記憶に自信をあたえるのが、自信の錯覚である。私達は2重3重の錯覚で歪んだ認識を事実だと信じて疑わない。自信の錯覚には感覚の他、自己の能力不足が関与するという。好成績を収めれば自分が優秀だと思い、失敗すれば調子が悪かったと考え、明らかな能力不足の証拠を無視する。能力が不足しても自信ありげに振る舞えば、周囲は有能だと騙されてしまう。
ここからは医療に限って話を進めるが、医師ないし治療家は個人商店の社長のようなもので、一定の裁量を与えられ批判も少なく自由度が高い。自信の拡大は連鎖的に続き、それにつれ患者は神のごとき明察力をもつ聖職者として敬うようになる。医師の振る舞いはますます錯誤の世界に迷いこんでいく。危険なのは自信が知識や能力を上回ったときだ。医師は事実を冷静に真摯に見つめる姿勢が要求される。知らないことや出来ないことを認め、できることの限界を学ぶ必要がある。錯誤を克服する一つの有力な方策は根拠に基づく医療(EBM)と呼ばれるものだ。EBM以前は治癒例を根拠にした医療が行われ、常識的に至極まともで間違いないものと考えられた。しかし、治癒例から導かれる根拠には原因や因果関係の錯覚が潜んでいる。体裁良く言いかえればパターン認識と呼ばれるもので、多くの仕事に要求される大切な能力の一つだ。医師は症状から処置の決定と経過を予測し、カウンセラーは思考や行動のパターンから対処の手がかりをつかむ。株のトレーダーは株価の動きなどから自らの取引パターンを見出す。これはスポーツ、商売、生産などあらゆる分野に及ぶ。
医療に於いて先人たちの膨大な経験や意見が診断・治療の礎とされてきたが、ここには多くの因果関係の錯覚が溢れていた。漢方を例にとれば、錯誤と倒錯の積み重ねが理論の構築を支えた。体が大きく暑がりで食欲もあるので実証で陽性、体は小さく寒がりで食欲はないので虚証で陰性と、見た目と問診で分類し実証には瀉剤を虚証には補剤を与える。偉い漢方医は証が合えばすべての病が治ると喝破する。漢方薬の症例では「薬を投与した、治った、だから効いた」と言う「三た論法」がまかり通る。前後に起こったことや、同じ動作で似たことが続いて起こることで、因果関係の錯覚を起こす。もっともな論文であっても、比較すべき対照群に欠け本当に有効かは解らない。効かなかった多くの症例も検討しなければ公平ではない。漢方に限ったことではなく仕事に一定の自信を得た治療家は、自らの経験と判断力を頼りにパターンを作り上げる。私たちは医師が多くの選択肢の中から適切な診断を下すものと思っているが、実は不適切な診断を排除する能力が求められる。医師は自分の予測パターンと合致するかどうか検討するわけだが、それが有益に機能することもあるが、予測のレンズを通して見ることで理に叶った予測も、予期しない原因によって裏目に出ることがある。 私たちは挨拶代わりに天気が悪いので頭痛がする、関節が痛むなどの言葉を交わす。このパターン認識は正しいのだろうか。1972年に行われた研究では関節リウマチの患者8〜9割が、気温も気圧も低く、湿度が高いときに激しい痛みを訴えたと報告された。以前の医学書には一章を費やして気候と関節炎の関係が記述され、温暖な乾燥地帯への転地を勧める医師もいた。しかし、本当に気候が影響を与えるかどうか、別の研究ではまったく因果関係は認められなかった。このことが明らかになった後でも雨の日が痛みが増すという人が絶えない。天候の良し悪しと体調を関連付ける錯覚によるものではないかと考えられる。ジンクスと言われるものに原因の錯覚を端的に見ることができる。パターンから相関関係はありそうに思えるがここに因果関係を見出す唯一の方法は実験しかない。たとえば疫学調査で野菜を食べている人の健康状態を調べ、いつも野菜を食べている人のほうが、食べていない人より健康だという結果が出た。これはあくまでも野菜を食べることと健康との関連性を示すもので、野菜を食べれば健康になるという証拠にはならない。健康を維持するには野菜を食べること以外の多くの要因が関っているからだ。研究結果が未消化のまま大衆受けする話題に味付けされることがしばしば起る。意図か錯誤かテレビの番組や雑誌では○○で長寿とか○△で病気が治るなどと、まことしやかに騒ぎ立てる。正しく因果関係を検討するには、無作為という厳密な条件下での実験を必要とする。では正しい結果が分かれば錯覚は起こらないのだろうか。ゴリラの実験で明らかにされたように、それでもなお錯覚から逃れえない。
ここでは医療に関していくつかの例を取り上げたが、本では6つの錯誤実験(注意・記憶・自信・知識・原因・可能性)が書かれている。いままでもこれからも錯覚の連続であり、錯覚から逃れえないだろう。話は大袈裟になるが世界は実像と錯覚しつつ、自分の都合で成り立つ幻影かも知れない。 |
昨年、佐賀は原発のやらせメールでゆれ、いまだ解決を見ない。やらせ、仕込み質問、偽装など言葉は違えど昔からある太鼓持ち、サクラと同じで演芸や商売には欠かせないものだ。誰もが薄々気付きながら騙され愉しんだ。しかし、原発のやらせや建物、食品の偽装など重大な被害を招く業界は厳しく襟を正さねばならない。昨年末、ネットで紹介される飲食店、レストランの記事においてやらせが発覚した。これは一般の客が店の評価を投稿し利用者の参考にするものだ。ここに金銭で請け負う、いわゆるサクラが跋扈していたという。店に出かけもせず高い評価を書く偽装が行われ、ある日突然列をなす飲食店が誕生した。やらせ記事を書いた人は報酬を得、店は広告費を払うことでそれ以上の利益を生んだ。客は行列のできる飲食店で食べることができて大変な満足を覚えたことだろう。事件が発覚しなければ3者すべて得をしたはずだ。腹を空かせて食べれば味は二の次、価格も納得済のことだろう。一般の人にとってグルメとは薀蓄を傾ける遊戯や娯楽の一つである。テレビのグルメ番組など見てのとうり、やらせ記事を批難した放送局が白昼堂々とやらせ番組を垂れ流しているではないか。
いつの頃からか知らないが、料理人の中からカリスマと呼ばれる人々が生まれ、彼らは料理の奥深さと難しさを語り始めた。「串打ち三年裂き八年焼き一生」、これは鰻職人の話で、鰻に串を打つのに3年、捌くのに8年の修行を要し、焼きの技術は一生かかって習得するという。素人には計りがたい年月であり、これを一膳1000円前後で食することが許されるだろうかと考えてしまう。「由緒ある職人の手に為る貴重な鰻をまさに食べようとしているのだ」と思っていたが、グルメ業界を知悉する著者の見るところは違った。
他人の仕事を経験しない素人は内容が解らない。解らないまま蘊蓄を賜ると、そうかも知れないと思う。しかし、自分の仕事を考えてみると、器用不器用はあるものの一定の域に達するのに、それほど時間はかからない。才能ある後進を経験年数で威圧したり、客に勿体をつけることが多々ありはしないか。テレビの料理番組で厨房の様子が映し出され、レポーターは歯が浮くほどカリスマ料理人を讃える。料理人はもっともな料理哲学を披歴し、厨房の弟子たちに激しく罵声を浴びせ真剣勝負を演出する。これが現実だったらこんな料理人の弟子にはなりたくないし、客としても遠慮する。愉しみの料理が弟子や従業員の緊張と恐怖の上で成り立つとは思いたくない。 カリスマ料理人の周囲にはカリスマ農家、漁師、畜産家など匠の世界の人々が集う。努力や拘りを一蹴すつもりはないが、野菜畑の土を舐めてみせたり、特殊な肥料や水を用いたりして違いを際立たせる。そこから届くものは格別に手の込んだ食材であり、それを以て神の手による調理が施される。客は皇帝のごとく、最高の食材による最高の料理を堪能する。この旗振り役がテレビ、雑誌であり、カリスマ評論家であった。最近は冒頭で書いたようにネット上の飲食店評価サイトが人々の飲食店探しを手助けしている。またブログの存在も軽視できないものがある。もともと料理評論家やフードライターが書物や雑誌の延長ツールとしてネットを活用していたが、素人ブロガーの台頭で本職が仕事を奪われようとしている。ブログといえば、まともな情報の検索に支障をきたすほど氾濫し、写真付きで飲んだ食べたの垂れ流しだ。写真の料理はすでにトイレに流れ去ったであろうが、才知と表現力に優れたブログは高い訪問者数を記録し、それが店の客数に跳ねかえる。人気ブロガーには無償で飲ませ食わせて歓待する飲食店もあるという。となるとブロガーもマズイとは口が裂けても言わない。最近はツイター、フェイスブックなど短いつぶやきで影響の大きいものが出現した。扱い次第では金山を掘り当てるか破産するかの極端な結末さえ考えられる。
ネットの普及は以前と異なる価値観や文化を生み出している。ネットを利用するか否かで通常のメディアとは別の事実や評価を知ることが可能になり、今後新たな勢力の台頭を許すことだろう。客の顔色や些細なつぶやきをおもんぱかり、わがままと意見の判別ができずモンスターに足をすくわれる。本は飲食店に厳しい話ばかりであったが、客も無垢で無邪気な人ばかりではない。冒頭、「原発ムラ」を引き合いに以下のような記述がある。
3・11以降「原発の闇」が白日の下にさらされ、このように面白くも明快に説明する人を見受けるようになった。グルメは「ハレ」食で、日常の「ケ」の食と異なり栄養学だけで語ることはできないが、用いる食材については同じである。生産量より多く流通するブランド食材など考えると、ここにも食や産地の偽装が徘徊する。たぶんグルメはそれをも容認して食を愉しむのであろう。たとえ太鼓持ちやサクラに騙され高い料金を払っても、愉しい時間や満足を買ったと思えば惜しくはない。原発の例えはよく解るが、原発のように生命が危険にさらされる事はなく、怒らなければならない「やらせ」もあれば、笑って済ませられる「やらせ」もある。腹を空かせて、腹一杯食べる事を良しとしている私には関係のない事件であった。 |
2006年に作成された「日本の抗うつ薬市場の変化」というグラフがある。1998年までは170億円台で推移していたが1999〜2000年頃から急激に売り上げが増加し、2年後に2倍、7年後は5倍の875億円にまで膨らんだ。視覚化されたグラフを見ると、すさまじいまでの増加に目を疑わざるを得ない。ストレス社会の到来かどうか、住みにくい世になったと嘆くべき数字であるが、いったい何が原因でうつ病患者が増えたのだろうか。結論の一端を明かせば、患者の増加で薬が増えたのではなく、薬の増加で患者が増えたのだ。
この思いは今も変わらず、うつ病で医療機関を受診しない人のほうが多い。その理由を尋ねると「自力で対処したかった」が69%で一位、「ひとりでに改善すると思った」が48%で二位と、ほんの少し前と意識に大きな変化はない。以前はうつが回復せず、重症のうつ病になる人も居たが、そういう人はやむなく精神科を受診した。うつ病は心の病気である神経症のうつ病と、脳器質の病気である内因性うつ病に分けて考えていたが、いつの頃からか原因を問わず心と脳の両面から起こるとされた。そうするほうが製薬会社や関係者にとって都合が良かったものと思われる。うつ病の書物や報道、話題が増えたか増やしたかは知らないが、心の悩みであったものが病気と認定され早期発見、早期治療が叫ばれるまでになった。社会的不適応や自殺企図するほどの重症から軽症まで多様なレベルのうつ病患者が受診し、なかには抑うつ感も軽く、うつ病と診断してよいか迷うケースも増えている。ストレスがかからない状況では普通に生活ができるが、ストレスがかかると調子が悪くなる。操作的診断基準と呼ばれる方法で調子の悪い状態が2週間以上続けばうつ病と診断することになっている。うつ病患者が一定の割合で存在することはいまも変わらないが、新しい診断基準で軽症うつ病が激増し、相対的に重症うつ病の比率が減少した。うつ病の増加とともに受け皿の病院やクリニックが倍増し、医師も心の専門家も増えた。職場や学校にはカウンセラーが常駐し、メンタル休職率もほぼ6倍になり、仕事への影響も大きく深刻な問題になっている。 抗うつ薬市場が急増した1999年、日本に始めてSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)が導入された。SSRIとは今までの抗うつ薬を基に開発されたもので、脳内アミンの再取りこみを阻害し脳内アミンを温存させるものだ。日本は導入が10年ほど遅れたが、他の先進国でも同様にうつ病患者の急激な増加を引き起こしている。
SSRI現象は医療のみならず世界中に多大な影響を及ぼした。理由はいたって単純明快、SSRIの薬価が高かったことにある。薬価を高くしたことで、そこに大量の資金と人材が集中し、病気に対する考え方や行動まで変えた。かつての抗うつ薬(三環系・TCA)は、ひと月の費用が2千〜3千円くらいだが、SSRIは8千〜1万5千円と2〜5倍も高い。
日本の製薬会社の研究員の数は約2万人ほどだが、MR(営業員)は約6万人もいる。日本の医師数が約30万人なので医師5人にMRが1人の計算になる。研究開発にしのぎを削るのではなく、営業活動に邁進していることが数字でも明らかだ。駄菓子や雑貨とは違うはずだが、いかんせん営業活動に力を入れる方が収益をあげられるのだ。このための最適な新薬の条件は、薬価が高いことと、多くの人が罹る慢性的疾患の薬が好ましく、さらに啓蒙活動で患者を増やしやすいものが狙われる。啓蒙活動は新聞、テレビ、ネット、学会、講演会という手段を通し御用学者や評論家の意見を織り交ぜて人々の意識を変えていく。うつ病をはじめ、円形脱毛症、ED、高コレステロール、高血圧など、製薬会社発祥の営業活動は学会、患者団体、自治体をも巻き込み奔流となり、患者は流されるままだ。著者は「病気作り」、「病気の押し売り」と言う。恐れ憂えるべきは小児のうつ病がわずか10年で40倍に増加したことだ。そして成長途上の柔らかな脳に薬物を投与する。小児での安全性は未確立なため副作用や障害の危険性はいうまでもない。それまで精神医学の常識では幼児や小児が躁うつ病を患うなど非常に稀な事と考えられていた。40倍もの増加は製薬会社のモラルの低下を示す数字であろう。 10年ほど前、脳代謝循環薬が承認を取り消された。プラシーボより優位性が認められず、副作用として死亡例まで報告されている。発売中止となるまで総額1兆円を売り上げ、これは丸ごと患者の一部負担と保険で賄われた。いわゆる「ボケ防止の薬」だが、効果のない薬でも営業活動さえしっかり行えば処方薬は売れるという教訓を残した。営業活動の相手は医学、薬学の専門家のはずだが?
文献を求めるまでもなく、薬として認可された時点でevidenceはクリアされているのではないか?ところが、SSRIの投与にも関わらずうつ病が増加し続けるのであれば、evidenceに疑問を抱かざるを得ない。高血圧薬や糖尿病薬など効果がすぐに数値に現れるが、うつ病薬に即効性はなく患者の気分にも左右され明確にいかない。一般向け啓蒙書には抗うつ薬を服むと、6週間で約6割の人が改善すると謳う。同じくプラシーボでも6週間で約5割の人が改善する。うつ病は自然に回復する傾向が強いのだ。本には臨床試験の評価が書かれているが複雑で長くなるので省くが、キルシュ教授らの批判は以下のようなものだ。
日本では重症度に関わらずまず抗うつ剤投与から治療を始める。正しいことかどうか自ずと理解できるだろう。驚くことは、国が認可した薬に「evidenceがあるとは限らない」ということだ。製薬会社の提出した研究を国は再現することなく、手続きに問題がなければ追認する。製薬会社は性善説で手厚く保護されているのだ。しかるに、認可された薬であっても、文献に目を通し本当に正しいか調べる必要がある。また、権威ある学者の報告や書物にも出版バイアスが付きもので、自らの研究や立場に不都合なものは隠すという。出版バイアスの問題は深刻で高血圧治療薬、抗ガン剤、手術などあらゆる領域で確認されている。パンフレットを見たり、MRから聞くだけのevidenceは思いのほか欺瞞に満ちている。 製薬会社がSSRIの認可を得るため何をやったか、どんな戦略で患者を増やしていったか、これからどう展開していくかは本を子細に読んでいただくとして、この薬が安全ならばお金のムダだけで済む。SSRIはTCA(三環系抗うつ薬)に比べ副作用がないかのような宣伝が行われるが、いずれも服用した半数近い患者に口渇、胃部不快感といった軽い副作用が発生する。稀ではあるが重篤なものは自殺やせん妄を誘発したと考えられる症例が報告されている。自殺につては因果関係の判断が難しいと言われるが、以下、報告の一部を引用する。
英国では2003年に未成年のうつ病に対しパキシルやゾロフトを禁忌とし、05年から警告に変更された。米国では2003年に未成年者のうつ病に対して自殺関連事象を増やす可能性が警告され、04年には成人にも広げられ、SSRIだけでなくすべての抗うつ薬が対象とされた。ここに来ても抗うつ剤の安全派と危険派の論争が続き議論は収束の兆しが見えない。一般の人は特別に興味を抱かない限りこの経緯を知らないし、ことによると医師や薬剤師も知らぬままうつ病薬を処方し調剤しているかも知れない。著者は仕事柄、年間何百人分もの精神科医の処方を確認するという。「なぜ日本の精神科医は同じ作用の薬を何種類も併用するのだろうか」。抗うつ薬、抗不安薬、睡眠薬、抗精神病薬、気分安定薬など多岐にわたり複数処方し、1〜2種とシンプルな処方をする医師は少数派だ。SSRIで脳内アミンを賦活させておきながら、睡眠薬で中枢を抑制するという矛盾さえおこる。とろとろと昼間眠りつづけ、夜は覚醒し、薬が心の平安を乱す。薬の複数投与は精神科に限らない、多種の降圧剤、高脂血症薬、鎮痛剤などあげればきりがない。患者が不調を訴えるたびに薬を増しての対処が定着している。企業は正義より利益を重んじ、医師や薬剤師は自ら正しい資料を調べることなく、MRに従う。私たちは様々な業界に不正と利権のあることを知っている。医療ではとくに高度な専門性が尊ばれ一般の人は立ち入りにくい障壁となっている。「救われる患者が一人でも居る」と専門家が言えば、科学や統計での線引きと切り捨てのできない業界だ。近年、EBMが重視されてきたが、本書を読む限り茨の道である。 |