【読書録(6)】-2009-


日本の殺人
患者のための医療情報収集ガイド
江戸の病
疑似科学入門
健康情報・本当の話
貧困ビジネス
「心の傷」は言ったもん勝ち
人類が消えた世界
ホントは損するオール電化生活
原子力ルネッサンス
がん検診の大罪
貧国大国アメリカ
 

日本の殺人 河合幹雄

師走、街角は賑わいを益し車の往来は殺気立ってさえいる。今年も記憶に残るのは凄惨を極めた事件の数々だ。テレビや新聞の報道がそのまま時候の挨拶と化し、「住みにくい世になった」、「ひどい事件が増えたものだ」などの言葉が交わされる。人の心がすさんだがために事件は起きるのだろうか?以前のコラムにも書いたが、実は殺人事件は少ないし減少しているのだ。発覚しない殺人事件、殺されていた行方不明者、事故とされた事件など、様々なケースを考慮しても実質的な殺人事件は年間800件くらいだと著者は言う。

実感で捉えようとするなら、まず自分の知り合いに殺人事件で亡くなった方がいるか考えてみてほしい。まずいないはずである。さらに試しに友人に、友人の知り合いで殺人事件によって亡くなった人がいるか尋ねてみると、そのような人がいるケースもまずない。昨今の怒涛の報道に惑わされないで周りを見れば、実は日本において殺人事件は、何十年生きてもまず聞くこともないのである。

殺人の発生率(10万人あたり)を2002年で比較すると、日本1.2、フランス4.1、ドイツ3.2、英国3.5、アメリカ5.6で、いずれも日本の数倍である。殺人が数倍なのに比べ、アメリカの強姦件数は20万件で約100倍、強盗も50万件で約100倍と圧倒的な倍数で、これに比べると日本の殺人件数の倍率は少ない。殺人事件の内訳をみるとその理由が浮かび上がってくる。統計的な数のうえで日本の殺人事件の典型は心中だという。事件の内訳には心中など書かれていないので、加害者と被害者の関係から推測したものだ。細かな数字は省くが、殺人事件の半分近くが親族による犯行になる。逆に同居人や知人なども排除した面識なしの殺人は、2割余りで意外に少ない。新聞やテレビはほぼすべての殺人事件を報道し、私たちは「ひどい事件が増えたものだ」と嘆息している事が考えられる。

極少数の特異な事件を大量に報道するために、日本社会の全体像が誤って伝わっていることである。厳しい言い方をすれば、マスコミは、問題点を騒ぐだけになってしまっている。

ある短期間に限って新聞等の報道をみてみると、意外に殺人事件は少なく、殺人事件の続報が数日、あるいは1週間、ときに断続的に数ヶ月に渡り記事とされる。数日から一週間も経てば私たちは事件を忘れ、お茶の間の娯楽や時候の挨拶と同列に消費する。しかし、月や年単位で積もった記憶の残渣によって、時代の不幸を嘆く。事件を過剰に恐れさらに人との距離をとり、道行く小学生にさえ声をかけられない。自らの錯誤で自らを狭く、世を住みにくくしている。マスコミだけの問題ではなく、人の志向性が拍車をかけた結果ではないか。即ち、豊かさの喜びではなく、嘆きで日々を過ごすほうが快感なのだ。

人の仕業とも思えぬ凄惨な事件を著者は「理解不能な殺人」と言う。2割の面識なき殺人事件のなかに多く見受けられる。不謹慎だが理解不能な事件は話題になり視聴率を稼ぐ。訳もなく人を殺す者が増えているのではなく、報道が増えているのだ。

そもそも、刑罰のせいで殺人を犯さないという計算高い人間観自体が全くの誤りで、普通の人間は、死刑制度どころか刑罰がなくても殺人はしないと私は認識している。

私たちは事件を語るとき、人を殺す事は絶対にけしからん、厳罰で臨むしかないと思う。事件が凄惨になればなるほど死刑を望む声は高まる。著者は死刑に賛成ではないと言いつつ廃止にも反対だという。死刑は死刑とされる殺人のラインを超えたとき抑止力を失うが、死刑なしと決めてしまえば司法判断をしないことになる。どこから見ても死刑やむなしとなった場合のみ、死刑もあるべきという主張だ。一般の人々は償いとしての刑罰や抑止力、被害者感情に同調して死刑を考える。しかし、いまは別の思いも巡らせている。死刑など刑罰の現場には私たちと同じ人間が関与しているのだ。死刑だ!と言うとき、死刑を執行する人々にまで考えが及ぶであろうか。最後の食事を運び、腕を抱えて死刑台へと促し、首に縄をかけその時を待つ。やがて息絶える死刑囚を埋葬するまで、一体どれだけの人々が関わり、またどんな気持ちで遂行することだろう。死刑だけではない、世には一般の目には触れない多くの仕事が横たわっている。たとえば車に轢かれた犬猫の死骸を片付けたり、汚物を回収し処理する人々、事故や殺人死体を扱う人々、、豊かで便利な生活を営むうえでは欠かせぬ闇を抱えているのだ。安全かつ快適な部屋に居て、批判はするが関わらない。

犯罪への対処として、一部の人々が頑張る一方、残りの一般市民は、何も知らずに安心してきた。その仕組みがもはや維持できない。
具体的には、一般市民を守ってきた境界が崩れるとすれば、それは、刑事政策だけの話ではなくなる。日本独特の、政治をケガレた世界としてかかわらない市民のあり方を根本的に変えるしかない。言い換えれば、おまかせしておいて文句だけ言う一般市民の態度が変わらないままに、世論調査に政治が振り回されては大変なことになる。

表層を見て、あるいは表層だけしか知らされず「けしからん」と断じる。生々しい現場に居合わせ、状況を知悉したうえで、同じことがいえるとは限らないし、刑罰についても多様な選択が生まれてくる。そのための具体的制度が裁判員制度だという。私はあまりに知らなさ過ぎるので、「そうですか」と納得するしかない。いままで無責任に垂れ流された世論や人任せだった犯罪対策が、裁判に参加し犯罪や犯罪者と向き合うことで、違ったものになるかも知れない。とはいえ、たやすく人を殺せるものではない、「普通の人間は刑罰がなくても殺人はしない」という著者の意見を支持するがゆえ、いまのところおぞましい殺人鬼を許す気にはなれない。

 

患者のための医療情報収集ガイド 北澤京子

いままでどれほど多くの入門書を紐解いたことだろう。入門と呼ぶにふさわしいものもあるにはあったが、基礎知識無くして理解できるものは少なかった。専門家が入門とか素人の為にと言うときは、すべてそのためではなく専門家への示威でもある。今回の書も一体どれだけの患者が明日からの医療のガイドになったか疑わしい。恥ずかしながら私も十分理解するには勉強不足であった。ある程度納得しても、いざ行動に移すには勇気と才知を要し、それが次のためらいになることを前置きして ...
  1. 患者の問題を一定の形にまとめる
  2. 該当するエビデンスを検索する
  3. 見つかったエビデンスを吟味する
  4. その上で実際に適用する
  5. 適用した結果を評価する

EBM(evidence-based medicine)とは「根拠に基づく医療」と言う意味で、医療選択の基本かつ重要な要件である。上記は医療提供者に対して記述されたものだが、「患者の問題」という部分を「自分の問題」と書き替えれば、私たちがネットなど情報の荒海へ乗り出すための羅針盤となるものだ。EBM以前は「治った」という症例だけが一人歩きして、それだけで証拠とされていた。いまでも「治った」という個々の症例で薬や食品に頼る人は後を絶たない。窮余の選択では「EBM」より「希望」が優先されるのかも知れない。疑心暗鬼、又は明らかな疑いを感じても、追われるものから逃れるように走り込むことがある。医療者はすでに知識があるので、素人に向かっては次の指針が示されている。

  1. 診断名をきちんと覚える
  2. その診断はどうやって得られたのか確認する
  3. 患部の場所、大きさ、数、種類などについて知る
  4. 医師が提示した治療を十分理解する

医学の知識がない素人にとっては、これさえ相当困難なことだ。手術前に事細かに聞かされる話に「ハイハイ、それが正しいのだ」と納得するしかない。ほとんど選択の余地のない治療へ誘導されていく。副作用や危険も知らされ署名・押印するので何が起っても起ったときにはお手上げだ。説明と同意のもと医療者と患者が、治療に伴う責任の所在をやり取りしているようにも見える。有益なwebページや患者会などの情報を得るにもまずはパソコンと最低限のスキルが必要だ。セカンドオピニオンはおろか病気の正しい情報からさえ遠い人々が多い。本書で述べられている内容は、専門家又はある程度医学知識があり、かつ調査・検索・理解する能力をクリアしなくてはならない。1〜4各々の項目が余すところなく能力の必要性を示唆するものだ。正直いって私もクリアできる自信はない。

問題は病名であれ治療であれ、その根拠となる評価方法である。有効性の検証に最良の方法がランダム化比較試験(RCT:Randomized Controlled Trial)だ。比較というからには2つ以上の集団に振り分ける必要があり、バイアスを排除する為、くじ引きやサイコロを利用し偶然の集団を選び比較試験を行う。医薬品開発の最終段階では患者を対象にRCTを行い有効性を証明することが制度化されている。「○○は△△に有効」というとき、1)比較の相手となる対照(コントロール)群が設けられているか?、2)実験群と対照群の背景がそろっているか?、これらの条件を満たして後、有効性の検討を始めなくてはならない。一方、副作用を証明するためにはこの方法は使えない。副作用には特別の扱いを要する。副作用が頻発するような化合物はもともと医薬品として俎上に乗ることはなく、市場に出て多くの患者に使われるようになってようやく症例が報告されることがある。副作用については倫理的にもRCTができないので、一つの症例でも重要な情報として検討すべきである。

同一人物で同時に2つの比較試験はできないのでランダム化試験が実施される。私たちがしばしば行っているのは、ある薬を服用したときと服用しないとき、又は別の薬を服用したときを比較して、この薬は効くとか悪くはないと判断する。これを一人RCTというが、馴染む疾患とそうでないものがあり、相応の検討が必要だ。やはり基本は医療者向けのガイドラインや論文ということになるが、論文のおいしい部分だけに注目して飛びつくと、後に困ることがある。どれくらいの割合かは知らないが、少なくとも私の知人で医療情報を収集・分析する能力を有する者は皆無だ。できれば、噛み砕いて説明してくれる人や機関があれば助かる。医療当事者から独立した機関が望ましいが、それが機能すると、今度は医療の現場が窮屈になり仕事量が増える。

EBMとNBMは、一見、相反する考え方のようだが、どちらか一方が正しくて、もう一方が誤りであるといった関係ではない。むしろ車の両輪のように、互いに補完する役割を果たしているといえる。EBMだけでは医療が成り立たないのと同様に、NBMだけでも医療は成り立たない。

EBMは尊重するが、「EBMのみで治療するわけではない」と繰り返し主張してきた。遅きに失したがNBMという新しい用語を知ったのは大きな収穫だった。NBMとはNarrative Based Medicineの略記で患者の「語り」をいう。患者の訴えやその背景を重視する事が、代替医療でいう「癒し」に通じる。文化人類学、社会学、哲学、心理学などの異分野からの影響が大きい。用語は目新しいが精神医学のナラティブセラピーが発祥のようだ。クライエントに自由に語らせて症状の改善から人生観の追求まで視野に入れた療法である。科学の反証として心を重視する動きは、過去幾度とな繰り返されてきた。ただ、EBMのための情報を収集するガイド本で、明快に述べられた事を珍しく思った。EBMは最新の医療を提供するかもしれないが、最善の医療を提供するとは限らない。

 

江戸の病 氏家幹人

夏休みも終盤を迎えた頃、新型インフルエンザの蔓延が日々報道されるようになった。6/11日、WHOはphase6を宣言し、その時点でパンデミック期に突入していたのだ。観光や経済事情への配慮か?終息宣言を出した自治体も見受けられたが、意表をついて夏の盛りに本格的な流行が始まった。弱毒性で幸いであったが、もし強毒性であれば日々、累々と屍が横たわり地獄図が現出したことだろう。感染力の強い伝染病に襲われると人知を結集しても封じきれないことを痛感した。古くは疫病と呼ばれ、インフルエンザについては江戸時代だけでも27回の流行があったという。疫病で特に大規模なものは「3日コロリ」で、いまで言うコレラである。江戸だけで3〜4万人の死者がでた。さらに驚くべきは3回目のコレラの流行がハシカと重なり、江戸だけで23万人以上の死者がでた。街には腐臭が漂い、火葬場は混雑を呈し、その惨状は目を覆わんばかりだった。他にも梅毒や肺や気管支、心臓の疾患、眼病などが多く、女性の場合、出産という通常の営みさえ危険なものであった。当時は公衆衛生が未発達で被害も甚大であったが、いま感染力の強い伝染病に襲われたなら、公衆衛生で勝っても経済危機を優先するあまり、そこで一敗地にまみれるかも知れない。

当時の人々はそれぞれの年に流行した感冒に、流行の小唄や言葉を付して命名した。たとえば「ねんころ風邪」、「たんほう風邪」、「お七風邪」など。

なんて淡白な。ひとたび強烈な感染症が広がれば、われわれの想像を絶する数の人命がはかなく失われたにもかかわらず、当時の人々には憤懣や憎悪の情が希薄だったらしい。そんな病に対する往昔の日本人の感情を、永井荷風は「私は医学の進歩しなかつた時代の人々の病苦災難に対する泰然たると、其の生活の簡易なるとに対して深く敬慕の念なきを得ない」(『日和下駄』)と評した。泰然としていたのか、それとも無力ゆえのあきらめか。

医療も進歩し、知識も充実したいま。現在進行中の新型インフルエンザが致死率の高いものだとしたら、どのような行動をとり、情感を抱くだろうか。力の及ばないパトスから開放されるため、気張らない冗笑で耐えるかも知れない。荷風がいう、医学が進歩しなかった時代の人々の泰然ではなく、「無力ゆえ」を支持する。また、憤懣や憎悪の情が希薄だったわけではない。そして進歩した時代にも「無力」は起り、憤懣や憎悪の情は冗笑に転じて開放するだろう。希薄な人間関係といわれる現代でも、危機を前にすれば、江戸と同じように、助け合い乗り切っていくはずだ。それは最近起った災害時の人々の行動から推して希望に足るものだ。

江戸時代の平均寿命は30歳台だと推定されている。病気、疫病、お産などによる死亡で引き下げられたもので、これを乗り切った人々の平均死亡年齢は73歳と言われ、今と比べても遜色はない。江戸時代にもっとも多く蔓延した病は梅毒であった。テレビや映画で見る遊郭の花魁は高級なもので、下々のものが通うのは衛生上も劣悪な岡場所であった。外国人の見た当時の日本人男性は「夫婦以外のルーズな性行為を悪いこととは思っていない」、「男たちは買春に対する罪の意識がかけらもない」と評した。家庭内にもおのずと感染は広がり、2人に1人の感染率だったという記録がある。当時の漢方医は大変な労苦を以って対処した。軽粉(水銀剤)と土茯苓(山帰来)が盛んに併用され、ヨーロッパにも輸出された。

「書経」に「もし薬瞑眩せずんばその病癒えず」と書かれ、病が治癒する時、何らかの予期せぬ反応が起こることをいう。古代医学では病を毒の為せるところと解釈し、毒を排出するためには発汗、吐瀉、喀痰、目ヤニ、鼻汁、出血、発疹、排尿、帯下等の現象が見られるとした。病気の経過を観察したうえでの考察で、当時としては常識的な理論であったに違いない。いまこれを科学的ではないと笑うことはできない。むしろ、いまの時代に瞑眩反応とか好転反応と称して副作用や被害を糊塗することこそ恥ずべきだ。江戸時代の高名な漢方医であった吉益東洞は、難病であればあるほど激しい瞑眩反応を呈し治癒すると考え、生薬にしては強力な作用の薬物を大量に用いた。主たる処方は桂枝湯系で、それに大黄、芒硝、附子、甘遂、巴豆、石膏などを大量に配合した。激しい発汗や吐瀉は患者にとっても見る者にとっても、病毒の排除を彷彿させる。梅毒はスピロヘータの一種の梅毒トレポネーマ によって引き起こされる。言わずと知れた感染症であり、抗菌作用に乏しい生薬を以て治癒することはない。しかし、治癒例があげられ、症例が即、次の治療の原資となっている。この場合の治癒はプラシーボの可能性が高く、峻烈な変化に排毒のイメージが高まり、発汗や吐瀉によって新陳代謝が改善したことなどが考えられる。致死率の高い病に座して死を待つより、死ぬほど辛い治療に耐え反って死期を早めた人も多数いたであろう。

驚いたのは当時の医者の地位である。いまは6年の医学教育を受け、国家試験の淘汰を受けたものでなければ医療を行えない。知識と技術は一応確保されている。

そもそも医者を志す者たちの資質に問題がある。今どき医者になろうとするのは、武士の子ならば心身ひ弱な惰弱者で、百姓なら無精者。町人なら商才がなく、職人の場合は不器用者といった具合。いずれも本業では生きてはいけない連中だ。そんな連中が、しかたない、医者にでもなろうと言って開業した「でも医者」が多いのである。

巷には頭を丸め長羽織を身にまとった格好ばかりの医者があふれ、路地にも長屋にも犬の糞のように転がっていることから、「犬の糞だらけ、医者だらけ」と揶揄された。医者がこの程度ならば患者も文盲同然なので、医者の資質が疑われることはなく、低劣な医者に限って患者の扱いに長けていた。当時の医療は、現代の怪しい健康業者やマルチ販売のように魑魅魍魎が跋扈し悲惨なものだった。医者が組合をつくり患者を回して治療費をむしり取る。脅迫、姦計は無論のこと、襟垢を金箔で丸めて薬を作り、特効薬と称して高く売りつけた。どこかいまの世情にも息づいている気がしてならない。ヤブ医より劣る医者をタケノコ医といわれたが、タケノコ医で失敗し、せめてヤブ医に診てもらいたいという意味の川柳が残されている。儒学者として大成した本居宣長は生活の糧を得るため医業を始めた。卓越した才能をもち、真摯で倫理観にもすぐれていたが、「でも医者」だったという。医者の不養生というのは当時、自分の病状も判別できないことを言った。

先哲医家と呼ばれる人々が残した治験や薬物書、処方集は一体どれほど現代に活用可能なのか。天才的な医者が残した記録より、凡夫たちが連綿と築きあげた民間療法が優れているのかも知れない。しかし、何れにしても使った薬材をみると、どこに薬効の根拠を求めたのか大きな疑問の残るものが多い。

剃髪(ソリカミ)・乱髪(クシケヅリカミ、オチガミ)・頭垢(アタマノアカ、フケ)・耳塞(ミミノアカ)・膝頭垢(ヒザガシラノアカ)・爪甲(ツメ)・牙歯(ハ)・人屎(クソ)・人尿(ユバリ)・溺白滓(ユバリのオリ)・癖石(ヒトノ腹中ノ石)・乳(チシル)・婦人月水(ツキノミズ)・人血(ヒトノチ)・口津唾(ツバキ)・歯滓(ハクソ)等々は薬物の古典たる「本草綱目」に書かれているもので、「爪の垢でも煎じて飲め」というのは冗談ではなく実際に用いられたと考えられる。今でも治療に行き詰ったり、誰からともなく聞いた特効薬がたとえ爪のアカだったとしても、試して見たいという気になるかも知れない。怪しいと解っていながら一縷の希望を託す。これは古今東西変わらぬ事で、当時まともな医者が少なかっただけに薬への依存度は高く、秘薬や特効薬ビジネスが盛んだった。「中風根切薬」、「乳の出る薬」、「打老円」、「首より上の薬」、「即妙一粒丸」、「婦人万病湯」など名前だけで効能の察しがつく薬が並んだ。いま伝統薬と呼ばれ残存するものもあるが、薬効より文化財として興味深いものだ。原料には様々なものが用いられ、とくに動物の肉や臓器など珍しくなかった。はなはだしきは人の臓器を求め、長崎に来航したオランダ船からミイラを購入した記録がある。一向に回復の兆しが見られないとき、不治の病を患ったとき、奇妙かつ神秘なものに奇跡的治癒を求めるのは現在も変わっていない。

 

疑似科学入門 池内 了

「一に看病、二に薬」、「風邪は万病のもと」、「病は気から」 ..これらは「ことわざ」と呼ばれ広く長く支持されてきたものだ。これと同列にあるのが民間医療や伝統薬の効能・効果である。ことわざは解りやすく、体験を経た説得力があり、そうであるような気がし、そうであることもある。ここに経験科学という言葉を付せば、さらに説得力は増すが、内容を少し掘り下げれば疑似科学の手法に満ちている。別のページでも繰り返し述べたが別段、疑似科学を否定しているわけではない。疑似科学という用語は、いまでこそ しばしば耳にするがネット以前は一般的ではなかった。過剰なまでに情報が行き交い、利口になった頭は、不幸にも情報に翻弄される。豊かな食で長寿を得た反面、その食で生活習慣病に脅かされるのに似ている。頭も体も許容量を超えつつあるのではないか?という感じがしないでもない。

あまた石塊から玉を見い出すためには擬似科学を篩い落とす必要がある。玉は人によって異なるかも知れない。ときには擬似科学そのものが輝くこともあるだろう。いずれにせよ、疑似科学の素養は欠かせない。著者は疑似科学を3種に分類する。

第一種擬似科学>>現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。これには占い系(お御籤、血液型、占星術、幸運グッズなど)、超能力・超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、「擬似」宗教系がある。主として精神世界に関わっているのだが、それが物質世界の商売と化すと危険性が生じる。

3種の色調が明らかなわけではなく、不明瞭であったり混在したり、ときに亜系であったりする。伝統や行事として慣例的に行う神社やお寺参り、あるいは祭りに見られる儀式は多分この範疇に入るのだが、これらは疑似科学とは一線を画すべきと思う。生活や文化のすべてが科学的で合理的である必要はないし、不可能なことだ。しかし、身についた伝統や習慣は、行動や思考を支配・コントロールしようとする何者かの意思が働けば容易に受け入れる素地になる。神社で受ける御神籤やお札は一か所で大量生産されたものであるにも関わらず、霊験を覚える。ここに科学を持ち出すなど野暮なことに違いない。信じるか否かの選択や、慣例として行ってきたものに科学が介入するとどうなるか?それが正しい科学でなくても信じる人にとって、行動や思考の支えになることは間違いない。見えない神の力を見たり、人の能力を開拓発展させようという商業性を帯びた科学である。オーラが見えるというキルリアン写真や気のエネルギーを検知、転写するというラジオニクスなど、機械を科学と勘違いして妄信が始まる。これらを仕事とする人々の中に、覚めた人がいないではないが、多くは信念と主張を貫き、それは宗教でいう帰依にも等しい。被害は金銭に限らず、健康や人間関係の破綻さえ招くことがある。人の優位に立ち、行動を思うように支配、コントロールするのは快感に違いない。健康産業は病気や死をネタに、宗教は因縁話や不幸話で人の心と行動を支配する。著者は「恫喝産業」という。冒頭で諺の話をしたが、古老や年配者がいう「昔からの言い伝え..」や「私の経験では..」の言辞は他の行動を支配、規制したり自分の考えを受け入れさせる方便でもあるが、これを咎めだてすると人間関係が危うくなる。

第二種擬似科学>>科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。これには以下のようにいくつかの種類があって、物質世界のビジネスと強く結びついている。

商業目的のためには積極的に科学的偽装をし、物に根拠と価値を付加する。科学的根拠がなくても、あるように見せかけるため科学用語を多用し、あるときは学者の魂を買い、広告塔にする。用語は英語で言い替えたり、他に統計や確率の数字を巧みにアレンジし事実を誤認させる。物事を納得させるには最低限、客観的な判断の根拠となる科学を必要とするが、実は科学的装いであり、そのための科学用語である。物理用語では波動、フリーエネルギー、ファジー、磁気、マイナスイオン、クラスター、、化学用語ではゲルマニウム、フラボノイド、フリーラジカル、ポリフェノール、アントシアニン、活性酸素、DHA、EPA、、医学用語ではアドレナリン、セロトニン、右脳・左脳、前頭前野など、よく耳にする。観察や実験を経て築きあげられた本質を知ることもなく、その精華たる用語だけを都合よく利用する。深く知るのは難しく、理解する力のあるものは騙されない。売り手と買い手がお互い曖昧なまま、解った気になってコミニュケーションが成立する。しかし、擬似科学とて、なんらかの実を得れば、疑うどころか理論の正当性さえ確信する。たとえば偽薬(プラシーボ)効果、また似たような現象で人間の意欲や人間関係が作業効率をより高める、ホーソン効果というのがある。間違った理論や見当ハズレの薬でも実際に効き目があれば否定はできない。著者によればプラシーボ効果は人によって効いたり効かなかったりし、一過性であることが多く、持続せず二度目は通用しないことがある。漢方ではこれを「証が合わない」、「証が変転した」と説明し、新たな弁証に取りかかる。プラシーボ効果の正否の判別は難しく、効能を疑うと効き目も雲散霧散する。いくばくかの実を得たとしてもいかにも頼りない。別の表現をとると、上手くいけば何らかの実を得ることがある。

私の仕事である漢方薬で考えてみると、陰陽説や五行説は正当な科学理論ではないが、これによって治癒をみることがある。治癒例を積み上げたものを経験科学という呼称で正当化してきた。現実との矛盾や乖離を虚心坦懐に受け入れることもなく、理論に現実を隷属させる努力を積み重ねてきた。中国3000年の伝統は経験という伝聞に過ぎず、経験というのは実は治療家の妄念や思い込みに等しいものがある。大家(たいか)の治験や講義で教わった薬がどれほど有益だったのか、推して知るべし。規矩に従い運用すれば治らない病はないというが、規矩が漢方側の理論であれば心もとない。漢方理論を学ぶことは欠かせないが、そこにどれほどの真があるか腑分けが必要だ。漢方理論にとっぷり浸りきった漢方家の言説や治療はどこか違和感と滑稽さを感じる。第一種擬似科学と第二種擬似科学は、その対象が精神世界と物質世界の差はあれ、人々の関心を惹きつけて束の間の安心をつかもうとする共通性があった。検討を怠り、見かけの因果関係に惑わされると、真の因果関係をつかみ得ない。

第三種擬似科学>>「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの。

第三種疑似科学は、複雑系であるため科学的に明確な判断が下せないし、説明も困難である。科学で解明される分野と奥行きには限界があり、これを明らかに認識するのは科学者の才知であり務めであろう。著者は第三種疑似科学と呼ぶべきかは異論があるかも知れないと断った上で、一方的にシロ、クロを決めてしまうと疑似科学に転落すると言う。科学の研究や観察によって出てきた事実をまとめ表明するまではあまり問題はないが考察の段階で、結論なり意見を述べるときに危うさがついてくる。有名な教授だから、などというのは参考にはなっても根拠にはならない。解明部分と考察は区別しておかねばならない。科学は万能でも、絶対でもないことは、周知の事であるが、科学知識の欠如で惑わされることはしばしば起り、同時に科学への飽くなき信奉でも起る。私たちは不明なものや納得できないものについて不安を覚える。たとえば病気の原因や経過はわかってもなぜ自分が罹ったのかその理由に納得できない。科学や一般知識で証明しきれないものや納得できないものを、他の学問、それは宗教や哲学かもしれない、もちろん擬似科学の介入も拒まない。しかし、これはあくまでもカウンセリングの領域なのだ。不安を不安のままにしておくことも一つの方法であろう。

 

健康情報・本当の話 草野直樹

藁にすがる状況を作り出しているのは、「健康増進法」「医療改革」といった国策であり、藁を作っているのは業者、藁に値打ちをつけてやっているのがマスコミ、その原作者兼道化役が○○博士や、タレント志向の目立ちたがり屋の学者達なのです。

仕事に学問や情報は欠かせないし、技術を要するものは訓練を積み重ね研鑽に励む。顧客から対価を得るには素人同然であってはならないし、知識や技術に嘘があってはならない。思わず正論を吐いてしまったが、実際は時間の長短こそあれ素人の時節を経ずして物事の習得は為しえない。「素人判断は禁物!」といいながら素人同然の私が漢方薬を調剤・販売した時期があった。少しは修練したいま、素人判断で大丈夫なものがたくさんあることがわかった。「素人 ..」と半ば見下す言葉には職域を侵されたくない防衛心が隠されている。少しは修練した専門家や本質を極めた専門家の知識や技術に嘘はないのだろうか?というのが本書のテーマである。結論から言うと、嘘はある。嘘を真理のように吐露する人とそれを支持する人、嘘に癒される人。ときには嘘が容認される状況もないではないが、ここでは嘘がどのように流布されるかの注意点をとりあげる。

(1)むやみに数字を誇る>>90%が治癒 .. ガンからの生還者1000人 .. 数字は客観性を備えたように見え、説得力もあるので必ず登場するが、統計数値の扱いが杜撰で、恣意的な統計処理が為されたものは捏造と変わらない。有効例の数値には重症の患者を排除したり、意味のない数字の羅列があったりする。プラシーボで5〜8割の有効性を示す症例もあり、正しい手法で比較試験が為されていないことが多い。

(2)新造語を使う>>新免疫療法、統合医療など ..新造語を用いたり、日本語をわざわざ英語表記にして新奇を衒う。これによって科学的根拠に乏しいもの、トンデモ説を新しい治療や発見かのごとく吹聴し幻惑させる。

(3)話が簡潔で極端>>「○○は□△に良い」などと簡単で解りやすい。テレビの健康番組に多くみられる手法で、紹介された商品に客が殺到し店の棚が空っぽになることがしばしば起る。なにごとも正負の両面があり、特に薬については危険と利益を勘案しながら用いる。TV番組や雑誌の記事などは話が複雑でまわりくどいと退屈なので、これは宿命といえる。

(4)主張したいことだけを伝える>>異論や反論には触れず、主張を正当化する材料だけを集め利用する。理論にほころびがあれば擬似科学を持ち出し整合性を図る。

健康本やTV番組の調査から著者は、上記4点を共通した特徴としてあげる。治療の方策が行き詰まれば医者でさえ頼りになるものを探し、光明を見いだそうとする。自然治癒などの検証を怠り、逆に証拠として採用する。素人はもともと理論を築き上げる力量などなく擬似科学は専門家や学者の側から発信され実践家やマスコミが広めていく。疑似科学の発信には学者自信が獲り憑かれたものと、意図的なものがあり、商利用の思惑が絡めば業界が積極的に学者側に働きかけ、出版、広告、マスメディアなどを使いまことしやかに広め定着させる。これは以前からバイブル商法の名で知られていたものと本質は変わらない。著者は騙されないための理系、文系教育のありかたに言及するが、対策を講じたところで人の錯誤という属性ゆえ全く逃れることはできない。錯誤は決してマイナスではなくプラスに転ずるためのフィードバック機構だと思う。有効に機能すれば行動や思索の迷路から抜け出し行き詰りを回避する。かくいう私もかつて疑似科学の捕囚となり気功やOリングテストを取り入れ、多くの代替医療を漁った。幸いにもあるきっかけから、迷路の出口を見出した。きっかけは大したことではない、私以上に熱状を帯びた人が迷路で右往左往するのを目の当りにした。出口が見つかるといままでと異なり、十分ではないが全体が俯瞰できるようになる。これも錯誤と同様、人に備わった特性であろう。しかし、悠長なことは言っておられない。日々騙される被害者を何とかしなくては。行政、政治、市民運動の側からは取り締まりや規制の動きが生じてくる。しかし、安易な規制は形だけの安心感と達成感に資するだけで、実効が伴うとは限らない。その最たるものが振り込め詐欺だ。啓蒙も取り締まりも規制も強化されているが、騙す側も騙される側も終息の兆しすらない。手口の進化を見ていると撲滅への道は絶望的だ。

代替医療について、科学者や医師の中にはEvidence(科学的根拠)がないからと、全否定する人がいる。非科学的な療法や情報に騙されるのは「愚か者」と、一刀両断できるほど単純ではない。むしろ断定して思考停止する事こそ問題だ。愚かな行動を嘲笑うほど私たちは賢明ではない。通常医療の恩恵に浴さないもの、あるいは不安や不満が消えない限り、何らかの「支え」を求める。いわゆる「藁にすがる」という行動の淵源を理解すべきであろう。

  • 現在の医療が絶対ではないと見定めていること。
  • 主体的な治療生活を送りたいという患者の自覚の反映であること。
  • 患部さえ治療すればいいというのではなく、QOL(Quality of Life)に配慮し日々の生活を少しでも安定したものにしたいこと。

「藁にすがる」と言うのは心の問題に他ならない。優れた医者や薬でも藁ほど力にならないことがある。心の隙間を埋めるには常識で納得できる解りやすいものが良い。先に述べた4つのパターンが迷信や伝聞であっても一向に構わない。困るのは健康や金銭の被害を蒙ることである。しかし、失うものがあっても、なにがしかの満足を得ることがある。有益な効果を得れば薬や療法のおかげと思うが、そこにはプラシーボ効果や自然治癒力が介在したかも知れない。プラシーボ効果が取り沙汰されるようになってまだ50年くらいの歴史しかない。それ以前は薬効の多くがプラシーボ効果だったと言っても過言ではなく、Evidenceなどなかった。解りやすく常識で理解できるものや、感覚や感性に訴えるものが選ばれてきた癒しの歴史を、いまも引きずっている。だからダメなのではなく、歴史や文化的な遺産として評価して良いと思う。私たちの行動や思考に占めるEvidenceの割合はそう高くなく、日常生活は行き当たりばったりの連続だ。人の行動には人生観や社会的背景が深く関わり、理性の底辺は計り知れない不条理が闇のごとく横たわる。医者や学者が「科学的根拠ナシ」と切り捨てるのは、まさに病気の追求や理解を放棄したに等しい。

Evidenceを高位の拠り所とする人々もすでにお分かりのことと思うが、Evidenceは現在の時点で解明された知識でしかなく、いくつもの定説が何回もくつがえされた例をあげるまでもない。物知り顔で披瀝する学者の話も将来書き換えられる可能性がある。Evidenceがあるからと言って突き進むのもほどほどが望ましい。ただ、差し迫った課題は、その健康情報が健康や金銭的被害をもたらすか否かである。被害がないならば、個人の価値観に従って選択することに異論はない。Evidenceは、このときの手助けの一つになるだろう。

 

貧困ビジネス 門倉貴史

貧困解消を目指すビジネスもあることを断っておくが、ここでは貧困を食いものにするビジネスを取り上げる。昨年からの経済危機で貧困を取材する報道や記事が増えつつある。先行きを考えると、いつわが身に降りかかってくるのか予測もつかない。たとえば1年前の今頃、空前の利益をあげたトヨタの社員が、解雇されることを考えただろうか。そして他人事のように書いている自分にさえ待ち構えている陥穽がある。転職を食い物にする企業、国家の話は先日のコラムにも書いた。今回の本はさらに具体的に貧困ビジネスを取り上げその実態と手法を糾弾する。対策は、規制と罰則を強化し最低賃金を上げるなど提案されていた。貧困ビジネスに手を染める者は許しがたいが、規制によって善良な人々が追い詰められてはならない。最低賃金を補償するのは良いが、さて行うにはどこからお金がでるというのだ。もう何年もまえから言い続けられたことが一向に実現する気配がなく、不況のいま、それはさらに遠のいていくばかりだ。「自分で自分の身を守るべし」とはいえ、何かが狂い始めると努力だけでは抗しきれない。

様々な貧困ビジネスを知るに及ぶが、とりわけ衝撃を受けたのは臓器売買である。7年前から毎月、読書ノート代わりのコラムを始め、最初に取り上げたのがドナービジネスであった。身震いするような実態に驚愕し、それ以降、移植医療への眼差しが変わった。これは世界中に蔓延する貧困ビジネスのなかで、事の重大さからして究極のものだと思う。富者が、あるいは富める国の人々が貧者を喰らい生き延びていく。

フィリンピンでは、外国人への臓器移植手術の上限枠を全移植手術の10%以内と定めていますが、実際には2006年に行われた全腎臓移植手術の63%が外国人への移植手術でした。

腎臓売買のブローカー(仲介業者)も利益が得られます。日本人に腎臓を提供したあるフィリピン人労働者の場合、報酬として30万円を受け取り、その20%を仲介料としてブローカーに支払っていました。フィリピンの労働者の平均年収が15万円程度なので、臓器売買で得られる報酬は2年分の給料に相当します。ヤミで取引された腎臓の多くは、お金持ちのアラブ人や日本人などに移植されます。しかし、自らの臓器を売るフィリピン人の大半は、得たお金のほとんどを借金の返済にあててしまいます。その後は生活が豊かになることもなく、むしろ臓器摘出による体調不良で働けなくなり、より生活が苦しくなってしまうというケースが多いのです。

神が等しく造ったはずの「人」に何故、雲泥の差が生じるのか?すべての命は「かけがえのない」ものだが、現実は、命に軽重がある。人はすべて平等というのはきれいごとにすぎない。腎臓ならば2つあるが、一つしかない臓器を巡って人身売買や誘拐が横行し、臓器売買のため女性や子供を殺害する事件も多く発生している。中国では死刑囚の臓器を使った移植手術が盛んに行われているという。

ブラジルでは、貧しい家庭から乳児を買い取り、子供に恵まれない海外の富裕層の家庭に買い取った乳児を売り飛ばすビジネスを専門に行う犯罪組織が複数暗躍しています。そして、こうした犯罪組織のなかには、買い取った乳児を富裕層の家庭に売り渡すだけでなく、乳児の臓器を取り出して、その臓器を、臓器疾患を持つ子供に売りさばく悪質な組織もあります。ブラジルの移植医が犯罪組織に加わっている場合もあります。たとえば、1993年の夏に摘発された犯罪組織は、貧しい家庭から乳児を2万円程度で買い取り、乳児の心臓を800万円、腎臓を350万円程度で売りさばいていたということです。この犯罪組織の犠牲になった乳児は50人以上にも上りました。

巨額の募金を得て外国での移植手術へと旅立つ。いただく臓器の中には奪われた子供の命があるのかも知れない。移植を受けた患者の生存率を調べてみた。一概には語れないが、日本移植学会が提示している数値によると、移植後1年の生存率が腎臓で90%以上、心臓80%、肝臓70%以上となり、5年後の生存率は、腎臓80%以上、心臓70%以上、肝臓60%である。心臓、肝臓の移植患者は、移植を受けない場合1年〜3年で死亡することがあるので、5年後の生存率60〜70%は、余命を延ばしたともいえるし、30〜40%は無駄だったともいえる。移植学会の報告なので無効が上回っては存在意義はなく、バイアスは考慮する必要がある。別の資料では18歳以上の心臓移植で10年生存率は45.8%で心肺移植では25.7%という数字が出ている。移植には、必ず死するものの命があり、一方で命を長らえるものの存在がある。そこに金銭が動き、ビジネスとするものが居れば、金銭によって光と闇が現出されることになる。人生の楽しみを享受することもなく、死の意味もわからぬまま消えゆく子供たちを涙せずして語ることはできない。これをすぐさま移植医療へ結びつけるのは乱暴かも知れないが、移植医療の光と影は神の領域にあるものだ。

重篤な病を抱えた、いわば弱者が、さらに金銭的な弱者によって救われる構図が、貧困ビジネスに見られた。たとえば自分や身内が移植にしか延命を見いだせないとき、どうするだろう。あと5年生き長らえるため、60年も生きられるであろう少年の命を欲しがるだろうか。死力を尽くし臓器を求めるだろうか。その背後には善意の臓器提供とともにビジネスも紛れ込んでいる。婉曲に臓器移植を忌避しているわけではない。患者の方々の痛みも解るが、同情や痛み以外の異論を差し挟めない風潮を社会が持ってしまったことを窮屈に思う。

ことし娘が二十歳を迎え、成人式からいくつかのパンフレットを持ち帰った。その中に、「伝わるこころ、つながる命」という臓器移植ネットワークのものがあり、臓器提供を希望するか否かを記載するカードが挟まれていた。希望する場合は、どの臓器ならOKかに○を付けるものだ。パンフレットのQ&Aには次のようなことが書かれていた。Q:提供後の体はどうなりますか?A:入院している病院で、数時間(3〜5時間)の摘出手術をした後にご家族の元に戻ります。臓器を摘出するための傷ができますが、きれいに縫い合わせて、清潔なガーゼをあて、外から見ても傷がわからないようにします。また眼球提供の際は、義眼を入れます。

パンフレットには微笑む天使のイラストが描かれていたが、なまなましい記述に想像が肥大し、私はすぐさまそれを破り捨てた。娘の光り輝く姿と、死がオーバラップして震えが止まらない。貧困ビジネスから臓器移植へ話が移ってしまったが、たった1枚のパンフレットに書かれた「優しさ..」「思いやり..」の単語に心を奪われてはならない。まだ心臓が動いているというのに、眼や臓器をくりぬく手術場の凄惨が想像できるか。臓器を取り出され、空っぽになった娘や息子を前に、これで良かったのだと思うことはできない。死から遠く離れた二十歳の若者が薄っぺらなパンフレット1枚で死を考え決断するには、あまりに明るく未熟すぎる。国会では子供への脳死移植に道を開く臓器移植法案が検討されている。わずか9時間の審議で衆議院を通過したA案は、脳死を人の死とし、親の同意で子供の臓器が取り出せるというものだ。ここに至るまで救われる命と等しい重さの救う命が語られたであろうか。

 

「心の傷」は言ったもん勝ち 中島聡

もう、30年以上になるだろうか?当時のヒット曲で「時の過ぎゆくままに」(作詞:阿久悠)というのがあった。沢田研二の澄み渡る熱唱が昨日のことのように蘇る。その歌詞に「からだの傷なら治せるけれど、心の痛手は癒せやしない」という一節がある。愛する男女が時の過ぎゆくままに退廃していく快感を謳いあげたものだと理解している。歌や観念では許されるが現実は厳しいもので、状況によっては悲惨な結末さえ待ち構えている。目に見える傷や数値で決着のつく「病」は認識の共有が可能であるが、「心」は姿が見えず、音もなく、数もない。すべてとは言わないが、多くは言動や訴えをもとに、疾病の判断を下すことになる。その中には、いままで病とされなかったものに病名が付けられ、治療の対象とされる。心の働きは気まぐれで、思いつきで、その時やその場次第で落ち着き払い、また興奮もする。自分の心さえ説明できないし、掴まえることも出来ないというのに、他人の心を探り、理解し、有益な方向へと導く「心の専門家」を尊敬する。しかし、なににつけ「心の専門家」が登場するのは、なにかヘンではないかと思わずには居られない。「昔は良かった」と、しばしば口にはするが、よく考えると戻りたくはない。今のほうが個人に手厚く、生活も便利で楽しみも増えた。そのひずみで「心の病」が増え続けているというのが専門家のありふれた見解で、私たちもこれを容認する傾向にある。昔は、ストレスや厳しさが少なかったのだろうか?例えば50年前、平均寿命が50歳の頃、社会は満ちたり、今よりずっとストレスが少なかったであろうか?もっと昔にさかのぼると、明日の生存さえ脅かされる時代があった。増えたのはストレスではなく「心の専門家」であり、「心の傷」を表現する場所と機会なのだ。

しかし、私はどうしても一つの可能性を考えざるをえません。それは、世の中のものさしの方が変わったのだという可能性です。

大胆な仮説を提出させていただくと、昔なら人々は黙って耐えていて、そのため精神医学が登場する必要もなかったものが、人々の耐性が低くなったために、いろいろな病名が必要になってきた、そういう可能性はないでしょうか。

昔なら多少のストレスは我慢し、独自に憂さを晴らした。時代の成熟は、温室栽培の作物のように、ひ弱な心と体をもたらし、もはや独りでは憂さを晴らせなくなった。そこに「心の専門家」の居場所が確保される。複雑でもなく難しくもなく、ストレスが増したのでもない、私たちの耐性が低下したのだ。長さは変わらないが、測るものさしの目盛りが変わり、それを読み取る専門家とシンクロして心の病が生まれる。生まれた病は、次から病名だけが居場所を獲得する。こうして本種、亜種、異種など数多くの病名が急激に増え、新しい病名を与えられる患者も増え続ける。終わりなき悪循環に陥った様相だ。PTSD、多重人格障害、急性ストレス障害、適応障害、パニック障害、全般性不安障害(GAD)、社会不安障害(SAD)...精神科医である著者の言によれば、PTSDや多重人格障害など、有名な割には臨床ではほとんど出会わない。精神科の病気は器質性疾患である精神病と心因性疾患である神経症に大分類され、そのうち神経症について、その呼び名を避けるために多くの病名が出現した。不安を訴えて受診する人は増え続けその多くはパニック障害だという。これは発作的に不安に襲われ救急車を呼んだり、救急外来を訪れたりするもので、15年ほど前に登場した病名である。

さて、日々こうした患者を診ていると、すべての場合にではありませんが、「つまんないことで落ち込んでるんじゃねえ。しっかりしろ」とか、「不安っていうけど、そんなもん誰にでもあるじゃないか。しばらく布団かぶってじっとしていなさい」と一喝してしまいたくなることがよくあります。

しまいたくなることがあっても、実際、してしまうことはまずないと言う。なぜなら「現代の潮流」がそれを許さないからだ。正しいと思ってアドバイスしても、患者の思いと異なったり、「苦しみを解ってくれない」と患者が感じたら、反発を招くだけで精神療法にはマイナスになってしまう。潮流は時代の背景や文化といいかえても良いだろう。その背景こそ著者のいう「ものさし」に他ならない。昔なら、友人や先輩、家庭であれば親や配偶者に聞いてもらった不満や不安を、いまは精神科医を始めとする「心の専門家」が一手に引き受けるようになった。そして「現代の潮流」は一喝したくなるような不安にさえ、病名を付け、また人々も「オレはパニック障害だ!」と喝破する。病人には手厚く理解を示し、時には薬を与え、傍若無人も大目に見よう。それもよいが、そうなる前にカウンセラーを派遣しよう。心の病にまで早期発見、早期治療が叫ばれるようになった。生活習慣病と同様に単なる提言だったものが、病気にまで昇格したのだ。

著者は精神科医として感じた医療や社会問題を提起する。セクハラ、パワハラ、さらに医療訴訟へと続く。セクハラと相手が感じたら、即ちセクハラとされてしまう息苦しい職場、理不尽な医療訴訟、これらの底流には被害者に同情し、支えようとする社会的な意思が働いているという。思いが昂るほどに加害者への感情的怒りへ向かい、報復さえ容認する。著書は「被害者帝国主義」というが、私は感情暴発社会と考えている。喜びも悲しみも、激しく大袈裟に全身で表出する。まるでスポーツ選手や芸人の振る舞いのごとくに。これは露出やアピールを至上目的とするメディア型の精神構造といえなくもない。ゴールに失敗した選手は、命をも奪わんばかりに崩れ落ちて見せる。かたや成功すると体力の消耗も厭わず、飛び跳ね抱き合い重なり喜んで見せる。人を貶める笑いで人気を得る芸人が跋扈し、またそれを許してしまう社会がある。街角のインタビューでは、メディアの記事を写したように画一化されたパターンで政治を語る。メディアは広く深く、日常的に演劇社会を演出し、感情の暴発を促すかのようだ。

ジャパニーズ・スマイルという言葉がある。昔の日本人特有の微笑みのことで、悲しみ、苦しみ、怒り、惨めさなどの大きな負の感情を持ったとき、微笑んで心のバランスを取ることをいう。外国人からみると一種不気味なスマイルと評されたこともあるが、まさに日本の文化であろう。似たような諺に「武士は食わねど高楊枝」というのがある。やせ我慢ではあるが、自己の内で静かに感情を保つ、いわば「奥ゆかしさ」とでもいえよう。

感情的反応に走ることは、慎むべきだと思います。そしてまた、ともすれば生じうる、被害者アイデンティティーの権力化と、その疾病利得化にも、注意を怠ってはならないでしょう。

政治や行政であれば、制度を変えようと考え始めるが、制度を変えたり、社会を変える力のないものは、心を変えるしかない。解釈はいかようにも可能だが、感情の発露は日常茶飯事に起こる。また、疾病利得も昔からあり、被害者アイデンティティーはこれと同列のものであろう。不快の訴えには動機の如何に関わらず、まず同情し理解に努める。たとえば被害者の会や団体など耐えがたい被害を受けた人々に異論を差し挟むことは許されないし、彼らの意に沿わなければ非難の嵐に晒される。彼らは一つの力強い勢力として社会を動かし始めた。ときに問題となるモンスターは、被害者を演じるかのように、露骨に感情を剥き出す。被害者と加害者が明らかに逆転し、感情の暴発は燃え尽きることを知らない。「言ったもん勝ち」の社会は息苦しく住みにくい。感情に感情で以て反応すると互いに不快は増幅する。ものさしの方が変わったというのは、文化の変容とも言えるが、これに対して、我慢するか考え方を変えるかしか方策はないのだろうか。不安や不快を訴えれば即、心の専門家が出動し、手に負えないと分かれば病名を付し薬を処方する。それでも困難であれば薬を増やす。製薬会社を利することが心の問題に通底する一面は否めない。

 

人類が消えた世界 アラン・ワイズマン 鬼澤忍訳

命が永遠に続くことはない。よく承知してはいるが、遺伝子を介して種は残り命の継続性は担保されると思っている。しかし、これとて終わりがあるという話である。46億年前、地球は生まれ、人類の祖先が登場して約20万年、そして有史以来5000年くらいの時が過ぎた。まさにうたかたの如く、という形容さえ覚束ないものだ。時間の長短はあれ、いずれ終わりの来るものは永遠とは言わない。あと50億年後には太陽の炎に包まれ地球も消滅する。その太陽さえ、100億年後には消え失せてしまう。そこまで気の遠くなる時を待たず、人類は終わるだろうし、同時に地球も終わるかも知れない。

人類は万物の霊長として地球上に君臨するが、その他多くの生命と等しく地球の一員でしかない。ところが、人類の終わりは他の生命の終焉をも招きかねない。人類は地球に手を加え、ある意味で破壊し尽くしてしまったのではないか。読み進むと、人類の消えた後の世界が鬱陶しいほど仔細かつ執拗に描写される。本の扉の9枚の絵はもっとも印象深いものだ。(1)人類消滅から数日後:排水機能が麻痺し、ニューヨークの地下鉄は水没する。(2) 2〜3年後:下水管やガス管などが次々破裂し、亀裂が入った舗装道路から草木が芽を出す。(3)5〜10年後:木造住宅、つづいてオフィスビルが崩れ始める。もし雷が落ちて溜まった枯葉や枯枝に引火すれば、街は瞬く間に炎に包まれる。(4)200〜300年後:激しい寒暖の影響とさびで、ボルトが緩んだブルックリン橋のような吊り橋は完全に崩落する。(5)500年後:ニューヨークはオークやブナの森に覆われ、コヨーテ、ヘラジカ、ハヤブサといった野生動物たちが帰ってくる。(6)1万5000年後:ニューヨークは氷河に飲み込まれる。(7)30億年後:環境変化に適応した新たな生命が誕生する。思いもよらない姿で... (8)50億年後:膨張した太陽に飲み込まれて地球は蒸発してなくなる。

人類が他の生命と等しく一員に徹し、時の流れに任せておけば天敵もあり天災もあり、もっと早く淘汰されたかも知れないし、逆に長く種を保てるかも知れない。それにしてもいずれ終りは訪れるし、いままで生起消滅した生命と変わるところではない。人類は知能を獲得したがために、他の生命を圧倒し自らの生命をも脅かし続ける。人類が生き絶えても別の生命が残り、また次の生命が生まれるなら、それは自然の摂理として受け入れなければなるまい。あと50億年の天寿を地球が全うできればめでたいことだと思いたい。

地球上のあらゆる人間が消えれば、複数の原子炉を有する数ヵ所の発電所も含め、441ヵ所の原子力発電所はしばらく自動運転するものの、次々とオーバーヒートするだろう。一つの原子炉が停止してもほかの原子炉は運転をつづけられるよう、燃料補給のスケジュールは通常ずらされているため、おそらく半分が燃焼し、残り半分が溶融する。どちらにしても、大気中や近隣の水域に膨大な量の放射線が拡散して長期間残存することになる。残存期間は濃縮ウランの場合、地質年代的な長さに及ぶ。

他にも危機はいくつもあるだろうが、地球が天寿を全うできない事の一つと考えられる。441ヶ所の一つでも事故を起こすと甚大な汚染を招き、長期間不毛の大地が出現し、放射線は地球を覆いつくす。人類の終わりがいつなのかはわからないが、何千年も何万年も先のことではない。もし、いま、災害などで原発から運転員が避難するような事態になれば、制御棒を押し込み徐々に出力を下げ、核分裂を停止させるだろう。しかし、ウランは崩壊を続け、高熱を発するため水を循環させることで冷却する。そのうち冷却水が途絶し、ポンプが停止する。放射能の半減期が7億400万年のウラン燃料は熱いままだ。燃料が浸かった水は蒸発し、遅くとも数週間後には炉心の上部が露出し炉心溶融が始まる。また、事故などで突如運転員が居なくなれば、一ヶ所に不具合が起っても炉心溶融は避けられない。

もうひとつ、人類が消えたあとに残された使用済み核燃料が暴れだす。使用済み核燃料は使用前に比べ使用後は最高で100万倍も放射能が強くなり、表面温度は100年を経ても200℃近い高温を保ち、この期間、送風などによる冷却は欠かせない。何らかの原因で送風が止まると、たちまち保管場所の温度が上昇し、発火し保管容器の腐食や建造物の崩壊で放射能が拡散する。廃棄物の地層処分というのは表面温度を100℃くらいに下げた100年後の話である。プルトニウム発電の廃棄物については500年とも言われている。人類はまだ存在しているかも知れないが、ウランや石油はとっくに枯渇しているだろう。そして、それよりはるか以前に電力会社もなくなり関係者もいなくなる。残された人々は莫大な費用をかけ何ら見返りのない危険な遺産を管理しなくてはならない。

チェルノブイリの原発事故は、人類の消えた世界を彷彿させるモデルとなった。事故は実験中に炉心融解を起こし爆発した。このとき大気中には10t前後(推定)の放射性物質が放出され、その量は広島に投下された原爆の500倍とも言われている。事故は4/26に発生したがパニックや機密漏洩を恐れ、2日後の4/28にやっと公表された。一週間後の5/3には日本でも雨から放射性物質が検出されている。ほぼ10日で大規模な放射性物質の漏出は終息したとされるが、チェルノブイリ周辺は、居住不能となり約16万人が移住を強いられた。

チェルノブイリの事故に起因するがんや、血液や呼吸器の病気による今後の死亡者数の予測には、4000人〜10万人までの幅がある。少ない数字は国際原子力機構(IAEA)の発表によるが、この機関が世界の原子力の番人であると同時に原子力業界の同業組合でもあるという二重性のゆえに、数字の信憑性にはやや疑問が残る。

事故の後、原子炉は石棺と呼ばれる5階建てのコンクリートで覆われたが、放射能のため7年もしないうちに多くの穴が開き、錆びてつぎはぎだらけの老朽船のようになった。原子炉から半径30kmの円内の土地は世界最大の核廃棄物処分場と化し、埋め立てられたゴミも、枯れた森も、作業に使った車両や機械類も、ことごとく汚染された。半径10kmの円内はプルトニウム地帯とよばれさらに厳しく立ち入りが禁じられている。しかし、これは441ヵ所の原子炉のひとつに過ぎない。

事故当時、鳥のいない静けさに不安をかきたてられたが、翌年の春、鳥たちは戻ってきてそのまま留まっている。放射能を帯びた原子炉の残骸にツバメがとまり、周囲を飛び回わる。石棺の内部にも鳥やネズミ、虫たちが巣をつくり棲み始めた。動物たちが戻ったことで心は和み、景色は正常に映る。惨事は色褪せたかのように見えるが、色素欠乏による白い羽根のあるツバメの雛が多数生まれた。ツバメは虫を食べ、成長し巣立っていったが、翌年、白い羽根のあるツバメは戻ってこなかった。ツバメだけではない、事故直後から避難をすることなく留まった人々、しばらくして汚染地帯に戻り住み着いた人々もいる。

ツバメが帰ってきたように、彼らもかってここに住んでいたからこそ戻ってきたのだ。汚染されていようがいまいが大切でかけがえのない場所だから、寿命を縮める危険を冒してもかまわないという思いで。
ここが、彼らの故郷なのである。

 

ホントは損するオール電化生活 船瀬俊介

「危険な話」の記事で電力会社の隠蔽・改竄・捏造 -- 三つの危険を書いたが、原発だけでなく水力発電においても計測データの改竄が行われていた。そして今回は広告宣伝の隠蔽や捏造の話である。もはや驚きも怒りもなく、この業界の体質だと諦めている。競争相手が居ないことを幸いに、利益のためならなんでもやるという思惑が、正当な理由を席巻する。無理、無謀な解釈や説明を重ねるには「三つの危険」を犯すしか方法がない。そしてそれは原発、水力にとどまらず、営業広告においても行われていたのだ。以前ベストセラーになった「買ってはいけない」の著者が書いた薄い冊子であるが、環境やエネルギー問題を考える上で平明かつ簡潔な本であった。著者については過激な発言内容からトンデモの噂がないではないが、本書については理解できる点が多かった。

私は貰った廃材や木切れで風呂を焚いているので興味はないが、最近、エコキュートという電力会社の湯沸し器を知るところとなった。住宅会社でも標準装備としてこれを採用する傾向にある。九州電力はエコキュートとIH調理器をセットでオール電化にすると「年10万円おトク」と宣伝していた。これに対し2008年10/15日公正取引委員会は不当表示として排除命令を出した。1)オール電化住宅のほうが1年間で最大10万円得になる。2)オール電化住宅ローン融資を受けると30年間で約350万円も得になる。3)融資を受けない場合でもオール電化のほうが30年間で約300万円得になる。この3項目について公取委は「事実と異なる」と断定した。結局、宣伝に乗った人はまんまと騙されたことになる。2008年3月末で約271万軒のオール電化住宅が誕生し、年度内には300万軒突破は確実とされ、7年後には倍増の650万軒に広がると試算されている。これは原油価格高騰の追い風とともに、二酸化炭素(CO2)を排出しないという、欺瞞に満ちた宣伝が実ったものだ。電気を使うとき、見る限りCO2は発生していないが、コンセントに届くまで相当のCO2を発生していることは常識で理解できる。

原子力や火力発電は発生する熱で湯を沸かし、蒸気をタービンに吹き付けて電気を起こす。熱を電気に変え電線を通して各家庭に送るわけだが、発生した熱の100%すべてが電気に変わるわけではない。熱エネルギーの大半は失われ、発生した電気も送電途中でロスが起り、電気を使うまでのロスは50〜60%にもなる。つまり、最初発生した熱エネルギーの半分はどこかへ消え、どこかを温めているのだ。とくに高熱を発する原発では冷却のため海水が取り込まれるが、100万kw級の原子炉では7度温められた海水が1秒間に約70tも排出される。湯を沸かしたり、暖房するにはまっすぐ石油やガスを燃やすほうが効率が良く、ロスも少ない。発電で失われた50%分もの石油と発生したCO2はきちんと電気に計上すべきだ。これをしないでエコだCO2削減だというのは片腹痛い。NPO法人の調査リポートによると、オール電化住宅は一般住宅より69%もCO2の排出が増加するという。誰が名づけたのか知らないが、エコキュートとはあまりにもりっぱで、実体とかけ離れた名称である。

化石燃料がCO2を排出するのは常識であり、さすがにこれは隠蔽できない。その代わりに見かけだけはCO2を出さない原子力に注意をそらす。核反応は馴染みが薄く難解な知識を要するが、核反応で発生する超高温を制御しながら湯を沸かす設備が原発である。核反応だけを見るとCO2の発生はないが、原子力産業をトータルで見るとあらゆる段階でCO2が発生する。原子力を原子力で動かすことはできず、そこには化石燃料の投入が不可欠なのだ。設備の建設や運転、運搬などはもちろん、化石燃料利用の頂点に原子力があると言っても過言ではない。原子力が占める発電量はいまのところ全電力の30%だという。電力会社は30%依存していることを強調するが、30%しか依存できないことは語らない。なぜか?

原子力は技術的に出力の調節が不可能で、一定レベルでの恒常運転しかできない。そのためレベルを使用電力の少ない夜間に設定せざるを得ない。従って、昼間の不足電力は化石燃料で調節することになる。原発がある限り、化石燃料をゼロには出来ない。世はCO2だけで温暖化の大合唱だが、原発と火力はセットで運転する宿命にある。「原発はクリーン?」不都合な真実は隠蔽するか知らぬ振りしてひた走る。原子力ルネッサンスという言葉も聞かれるこの頃、温暖化を煽り原発の需要を喚起することこそ本末転倒の対策である。さて、「夜間の余った電力は揚水発電で再利用するか、夜間電力として安く売ります」。というのが電力会社の説明だが、これも嘘で塗り固められていた。エネルギー不足だからと、かたや節電を呼びかけつつ、夜間なら湯水のように使ってくれというのは常識的に分かりにくい。実は節電のほうが嘘で、需要に応じてどんどん売りさばくための商品がエコキュートであり、夜間電力の安売りだ。結果的に原発だけでは足りず、夜間も火力で補い余った分を揚水発電へ回す。このままオール電化住宅が増え続ければ、電気の使用量は跳ね上がり、危険な原発も、CO2を出す火力も、森林を破壊する揚水発電も増え続けることになる。

なるほど、よく解った。しかし、それでもいい「安ければありがたい」。私も含め多くの人は環境問題やCO2より、財布のエコロジーが一番の関心事だろう。実際、便利で安くなったという声もないではない。しかし、ここにはいくつかの落とし穴と危険が潜んでいる。公取委が指摘したのは、高額な設備費、工事費を勘定に入れない「おトク」広告だった。100〜150万もする給湯器の耐用年数は10〜15年、IH調理器は8〜15年程度という。この償却費に加えて工事費やメンテナンス料も計上してこそ比較可能なものだが、これらを一切考慮することなくガスより有利であると表示していた。これに補助金制度を絡め「いまなら..」とか、「きょうまで..」などと購入を急がせる。中には怪しげな訪問販売の餌食となり、国民生活センターへ多くの被害届が寄せられた。電力会社が仕掛けた詐欺まがいの宣伝に本物の詐欺が便乗したのだ。広告費欲しさに電力会社の情報を鵜呑みにして旗を振ったマスコミとの共同正犯である。国土交通省所管の公益法人「建設環境・省エネルギー機構」の最新の研究に於いても「省ネエネ効果ゼロ」と認めている。

設備費は無料と仮定すると、電気代は安くなるケースもあるが、ライフスタイルによっては高くつくことがある。退職した高齢者夫婦は昼間ほとんど家で過ごすことが多く、テレビ、照明、エアコン、IH調理器など使うことで、夜間の2〜3.6倍もの電気代がかかる。また湯を多く使いすぎると昼間の電気で湯を準備することになり、電気代はかさむ。湯を溜めて置くことでの温度のロスはそのまま費用の無駄になる。著者によると8割の世帯で瞬間式ガス給湯器が「トク」だという。

さらに、IH調理器具については各種危険が指摘され、その際たるものが電磁波である。日本政府は、いまだ「電磁波の有害性を証明するデータが見当たらない」といい続けているが、国際的には有害性を実証する論文が1万件以上も発表されている。ここでも隠蔽がまかり通っている。電磁波の害は小児白血病をはじめ各種ガンを誘発し、めまい、頭痛などの不調を訴える例も多い。ヨーロッパやアメリカでは電磁波が有害であることは常識とされ、IH調理器の売り上げはほとんどゼロだという。火を使わないので安全、安心というが、炎が見えないだけに逆に危険は高まる。油への着火や火傷などが報告されている。その割りにガスと比べ瞬間の火力に欠け、パスタや炒飯など早く茹でたり、炒めるのに適さない。用途に応じてガスも併用するのが好ましいが、関西電力の「はぴeタイム」というプランでは電気代を10%割引する代わりに、給湯・キッチン・冷暖房など家の中の熱源をすべて電気にせよという。ガスも石油ストーブもダメ、薪も木炭もご法度なのだ。

話は戻るが、公取委が九電に排除命令を出す一年以上も前に、忽然と消えたパンフレットがある。それには「30年間で約700万円も節約になります!」と謳われていた。排除命令が出された「約350万もトクになります!」の2倍もの金額である。これをひっそりと葬った背景になにがあったのか。いままで散々行われてきた偽装や隠蔽の体質は広告においてもなんら変わるところがない。CO2と放射能とどちらが危険かは、言わずと知れている。それでもCO2が危険というなら、そう仮定しても、対策を即、電気へと結びつけるのは明らかに間違っている。間違っていても、電力業界にはそうしなければならない苦悩がある。温暖化対策で元気の良すぎる電力業界を見ていると、温暖化キャンペーン自体が国際規模で仕掛けられた広告のように思えてくる。いままでの話でオール電化は、反って温暖化を加速させることが明らかになった。温暖化が喫緊の課題だというならば電気をも含めたエネルギー消費を抑制すべきなのに、促進するのはおかしい。困難ではあるが、人類の生産活動や生活を減速する以外に有効な手立てはない。とくに電気は50%ものエネルギーロスが免れない。エネルギーは、石油、ガス、電気、薪、炭などいくつかそろえ、用途に応じて使うほうが好ましく理に叶っている。補助金や宣伝費を投入してまで推進するものには相応の目論見がある。

 

原子力ルネッサンス 矢沢 潔

国や電力会社のパンフレットは例外として、原子力を推進する書物は少ないと思っていた。これは私が反原発の本を努めて探すからであって、環境やエネルギー問題を盾に推進する力は継続して弱まることを知らない。本書はサイエンスブックで、副題に「エネルギー問題の不可避の選択」と書かれていた。結論からいえば国や電力会社のプロパガンダの域を出るものではなかったが、着実に原子力への依存が進んでいることに脅威を覚えた。原子力は国家戦略も絡み、莫大な資金が動き、巨大企業や多数の人々の利権への影響も大きい。すでに政治や経済活動の歯車として組み込まれ、欠かせぬ長物になってしまったのではないか。

1980年、国民投票で原発からの撤退を決めたスウェーデンだが、投票の実態を知り驚く。投票は脱原発への3つの手順から一つを選ぶもので、結果的に投票した人すべてが脱原発賛成になるものだった。これは反原発政党が連立で政権を担ったことによる「ひとときの勝利」であった。その後、路線は変更され2008年現在、10基の原子炉を稼働させ電力の51%を頼るに至った。ヨーロッパ各国はケーブルを介して電力の売買を行い、脱原発を宣言したドイツもこれを利用して電気の需要を賄っている。ドイツは小政党である「緑の党」の連立政権参加によって脱原発が政策に盛り込まれたが、2005年には政権の変化と温暖化対策に伴い、脱原発は怪しい雲行きとなっている。フランスは原発に対する国民の支持が高く電力の80%が原発から供給され、他に世界の使用済み核燃料再処理の50%以上を引き受けている。この莫大な事業収入のおかげでフランスの原子力技術の開発費が賄われるという。2020年から老朽化していく原子炉を毎年1基のペースで40基の新型炉に置き換え、現在の59基分の電力供給を達成するという。

アメリカでは1979年のスリーマイル島の原発事故以降、新しい原発の発注がなく、当時計画中の多数の原発もキャンセルされた事が繰り返し伝えられ、あたかも原発が凋落傾向にあるかのように見えた。しかし、この間、原発の稼働率を上げることで発電量は3倍に増加している。温暖化問題や移民などの人口増加によるエネルギーの必要性から、いまある原子炉140基の運転期間を20年延長して60年使い続け、新たに30基を建設する計画だ。放射能と二酸化炭素はどちらが危険かは常識であり、明らかな真実であるが、今は二酸化炭素とさえいえばなんでも許される状況にある。二酸化炭素と環境を結びつけ、放射能と環境をないがしろにすることで政治や経済が動き出してしまった。

もっともめざましいのは中国の原発事情である。2008年の時点で11基の原子炉が稼動しているが、さらに6基の新型炉が建設中で、計画中のものを含めると141基にのぼるという。他にトリウム資源の豊富なインドも原子力への依存を高めつつある。世界各地で現在31ヵ国が原子力を利用し、さらに55ヵ国が関心を示している。

これらが事実であり、着実に遂行中であれば「脱原発の潮流」は虚妄に過ぎなかった。チェルノブイリの事故の後、世界中が原発の恐怖と脅威に包まれ、加速する文明への警鐘が鳴らされたと思っていた。ところが原子力への依存は高まり、再処理の話まで聞かれるようになった。反原発運動は一向に結実しなかったわけだが、人々の意識へ原発の危険性は浸透していった。推進側と反対側で交わされる会話は危険性に集約されるといっても過言ではない。推進側は効率の良いエネルギーとして原子力を擁護し、反対側は代替エネルギーとして様々な発電技術を提案する。しかし、それで明日からすべての電力を賄うには不安がある。著者は代替エネルギーである風力について以下のように批判する。

景観を破壊する、騒音を撒き散らす、鳥を殺す、タービンブレード(回転翼)から潤滑油などが周辺に飛散し、地下水に流れ込んで飲料水を汚染するなども指摘されている。強風でタービンブレードが折れる、爆発音とともに飛び散る、発電塔が倒壊するなども頻発している。

一度生じた風力発電信仰はすでに社会的イナーシャ(慣性力)を帯びており、止めたくても止まらない。それが税金の無駄遣いであり環境破壊の元凶となり得ることに人々が十分に気づくまで、今後当分は日本列島全域で増殖し続けることになる。

サイエンスブックなので冷徹に現状を述べたものと思う。風力発電が景観を損ね鳥を殺すなら、原発で失われた人命も等しく俎上に載せるべきであろう。以下のスリーマイル島での事故についての文と読み比べてみると、生命や健康というもっとも重要な問題が軽々しく扱われている。

事故から時間が経ってみると、炉心溶融というきわめて重大な事故であったにもかかわらず外部への放射能漏れは微量で、発電所の運転員や周辺住民にひとりのけが人も犠牲者も出なかったことが明らかになった。

死者、負傷者はゼロとされているが、実ははっきり確認されているわけではない。戸別訪問による健康被害調査では、ガン、甲状腺異常、ダウン症、多発性硬化症、アレルギー、免疫異常、新生児死亡率などが増加していることがわかっている。チェルノブイリの事故については、直後の死者が2名と報告され、その後重傷者が次々に亡くなり31名になった。さらに、事故の後始末に動員された数十万人のうち5万人が亡くなり、残りの人々も白血病やガンなどの障害を負って暮らしている。これについては誰も異論はないものと思っていたが、「被害はない」と報告されている。

事故から20年後に多数の国連機関とベラルーシ、ロシア、ウクライナの政府が参加して作成した報告には、「周辺地域住民に目だった健康被害は見られず、少数の例外的な管理規制区域においても人体に実質的脅威を及ぼすおそれのある広範な汚染を見いだすことはできなかった」と書かれている。事故の被害や影響については、こうした事故につきものの出所・根拠の明らかでない情報や数値、誇張や歪曲がいまでもメディアやインターネットサイトなどに氾濫している。

風力発電の批判と2つの原発事故の記述を比べると、代替エネルギーの非効率には厳しく、原子力の危険性には寛容過ぎるように思う。チェルノブイリ以降、火がついた反原発運動は党派、市民運動、ニューエイジなど多彩な人々を巻き込み展開していくが、「仲間割れを起こしやすい環境運動」と書かれ、そこにはグリーンピースから転向したP.ムーア博士が登場する。反原発から一転して原発推進の広告塔となった人だけに説得力は大きい。彼は「原発は石炭火力発電と比べて温室効果ガスの排出が著しく少なく、石炭火力は原発よりはるかに大量の放射能を大気中に放出している」と言う。石炭が原発より大量の放射能を出すというのは新知見であった。反原発運動を嘲笑うかのように築かれた原子炉は世界中に点在し、これからも拡大の一途をたどるだろう。巨大な産業に向かう蟷螂の斧ような反原発運動はどこへ行き着くのか。結実しない運動に仲間割れを起こしたり、ときに厭世感に襲われながら..

話は変わるが、月着陸の映像は夜の砂漠で撮影されたもので、人類は月に到達していないのだと主張する人々がいる。大脳が発達するといろいろな空想が可能であり、原子力についても、本当はクリーンで経済性のあるエネルギーかも知れない。かつて緊急の課題だとして騒がれた狂牛病、ダイオキシン、環境ホルモンなどのその後を考えると緊急性は薄れている。そして、取るに足りなかった二酸化炭素が危険視され、放射能をまき散らす原発がクリーンと叫ばれるようになった。私は反原発の立場を鮮明にしている。それは世の価値観が変わろうと、何にも増して危険で、扱いを誤れば人類の存続をも脅かすからだ。しかし、電力会社、原発関連の企業、お役所、政治家など見ていると、先の月着陸の話に似て、放射能はクリーンで安全だと信じきっているように思う。地球環境問題という概念を世界で最初に提唱したラブロック博士の言葉である。もう、これにコメントすることはない。

「われわれは恐怖心を克服して、地球環境への影響を最小に抑えることのできる安全確実なエネルギー源として核エネルギーを受け入れるべきである」と言い、「海岸近くにあの金食い虫で押し付けがましい風力発電を立てるのはただちにやめなくてはいけない」とも書いている。

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【追記】プルサーマル計画の同意から間もなく3年を迎えようとしている。この間、住民投票へ向けた署名活動や様々な講師を招いて原発の勉強会が開かれた。地震による原発の停止、電力会社のデータ改竄などの問題も報道されたが、計画は着々と進められてきた。そしてついに来るべきときが来た。フランスから日本へ向けてMOX燃料が運び込まれようとしている。順調にいけば、この秋、佐賀で先頭を切ってプルトニウム発電が始まることになる。しかし、ここまでは来たものの決して「順調」とは言えない。そのことをよく解っているのは、当の国や電力会社の面々である。MOX燃料の輸送容器の安全性や輸送中の問題が指摘されているなか、「まあ、大丈夫だろう」、くらいのところでゴーサインが出される。すべてにおいてこのような無責任な体質が蔓延している。まさに社会保険庁の電気バージョンである。また六ヶ所村で行われている再処理がガラス固化の段階で行き詰まり、先へ進めなくなっている。つまり、再処理計画そのものが困難になっているのに、「まあ、大丈夫だろう」と進んでいる状況にある。同意から3年、住民投票が否決されてから2年、住民のプルサーマルに対する意識も薄れつつあるように思う。

2/26日、佐賀県はMOX燃料輸送を了解した。この日は原子力問題のベストセラー「危険な話」の著者、広瀬隆氏の講演会が唐津で開催された。唐津・玄海町のプルサーマル計画、鹿児島県・川内原発の原子炉増設、長崎県・五島の最終処分場などの問題を考える九州キャラバン講演会として企画されたものだ。翌日2/27日、佐賀市内に場所を移して講演会が行われ、広瀬氏と同行の藤田祐幸氏の話も聞くことができた。危険な話以来、広瀬氏の著書は努めて読み、その内容に注目し、文章にも心酔していただけに実物を見るのは感激であった。講演に先立ち、県が了解したMOX燃料輸送について、市民団体のメンバーとともに県庁へ出かけ抗議を行ったという。MOX燃料を使ったプルトニウム発電は日本でほとんど実績がなく、なにが起こるかさえ想像がつかない。この危険性は繰り返すまでもない。最後に広瀬氏が、「これこそ本当に恐ろしい写真です」と言って見せてくれたのが、2年前、新潟中越沖地震後の原発近くの道路だった。片側だけ渋滞し身動きが取れない車の列...この一枚が物語るものはなにか?事故が起ればどこへも逃げられない。

 

がん検診の大罪 岡田正彦

エビデンス(evidence)とは証拠・根拠の意味で、医学・薬学では頻繁に用いられる。病気の診断や治療は命と健康に関わるため、有益な根拠がなければ採用することはできない。根拠となるのは統計学的に処理されたデータであるが、著者はこれを検証し数々の嘘を暴いていく。まずは自動車のエアバック、見た目にも明らかに安全そうだし、ダミー人形による衝突実験の映像にも説得力がある。警察による実態調査のデータまで見せられると疑う余地はない。ところが最近、アメリカのある研究グループが「自動車のエアバックが、ケガの程度や死亡の割合を軽減させない」という調査結果を発表した。交通事故の発生率は数々の要因があり、単にエアバック付きの車か否かで比較しても意味がない。たとえば、熟年ドライバーの方がエアバック付きの車に乗っている割合が高く、彼らは普段から安全運転を心がけているため、交通事故が少なく、事故を起こしても軽いケガで済んでいることが考えられる。そこで、年齢、性別、運転歴、通勤距離、天候、交通規制、収入、学歴、子供の有無、日頃の安全運転・・・など考えられるすべての要因を数式に組み込んで検証したところ「エアバックとアンチロック・ブレーキ・システムが装備された自動車では、交通事故が増えてしまい、またケガの程度も重症になりやすい」という結果になった。

同じ出来事でも、データのまとめ方によって結論が正反対になってしまう。データは統計学的方法で分析され、誰が分析しても同じ結論が導かれるはずであるが、理論がかなり難解であるため研究者でさえ理解が十分ではない。そこにデータ解析のミスや恣意的な解釈が介入し、ときには行政や政治、あるいは商業的判断から偽装や隠蔽さえ起る。医療にもエアバックのような事例があり、著者は多くのページを割いて統計データの読み方を啓発する。

  1. 意味のある分析であること
  2. 比較がなされていること
  3. 背景要因が揃えられていること
  4. 見かけだけの関係になっていないこと
  5. 同じ内容の要因がいっしょに分析されていないこと
  6. 大規模な調査が行われていること
  7. 単に昔と比べただけではないこと
  8. 時間を追って調査が行われていること
  9. 目的と手段に矛盾がないこと

上記は調査データのウソとホントを見抜くための9つのチェックポイントである。最低でもこれが満たされなければならず、さらに洞察力も必要だという。どうやら素人には容易にいかず、信頼のおける専門家にナビゲートしていただかねばならない。検査の基準値はお馴染みのことと思う。これには平均値、中央値、ピーク値の3つが考えられ、物事には3つの値が一致するタイプと異なるタイプがある。一致しないときは偏りについての配慮がいるし、一致するタイプでも背景の要因を検討しなくてはならない。気をつけたいのが、見かけの関係に混同させられるケースである。以前、「砂糖の摂り過ぎが家庭内暴力の原因になる」という話があった。これは砂糖の消費量の伸びと、家庭内暴力の報道件数を結びつけたもので、根拠は不確かであった。別々の出来事や要因を関連付ける前に邪魔者は排除しなくてはならない。例えば、薬による治癒例があれば、そこには自然治癒もあり、養生によるものもあれば、別の薬を併用したなどの多数の要因があるのは間違いない。使った、治ったでは真の薬効は評価できない。テレビや健康雑誌などで紹介されるデータがいかに杜撰で稚拙なものか、言わずと知れている。見かけだけの事例を並べ関係付ける手法とそれによる錯覚が氾濫している。

その中の一つがメタボの数値である。これについては繰り返し取り上げてきたが、本書でも数値の根拠に問題のあることが詳しく述べられている。仮に検査値が正しいとして、検査値を改善すれば長生きできるのか?特定の病気だけを予防して、他の病気が増えることはないのか?医療のマイナス面は評価されているのか?など、数々の疑問を投げかける。実は薬を服んでも寿命は延びない。高血圧薬について考えてみると、血圧が下がり過ぎて思わぬ事故に遭ったり、副作用で自殺したり、癌など他の病気が増えてしまうことなどがあげられる。一方、プラシーボを服用した人たちは、脳卒中や心筋梗塞になる人が少し増えたが寿命に明らかな影響を及ぼすものではなく、薬の副作用から免れ、長生きができた。コレステロールや中性脂肪の薬についても似たような事情が考えられる。古代、医と呪術との境界は曖昧で霊的な癒しの技も混在していた。そこにevidenceなどなく、見かけだけの事例を並べ関係付ける手法もあったと思われる。しかし、これはいまも脈々と生き延びているのだ。それは悪しきものではなく、輝ける癒しの文化なのかも知れないが、ときに負の遺産になることがある。

本のタイトルである「がん検診の大罪」についてもふれておきたい。検診のときの放射線被曝によって総死亡率やがんの発生率が増加することが報告されている。

この検査(胃カメラ)で被曝する放射線量は、手慣れた技師が行っても胸部レントゲン検査のおよそ6倍とされている(検査時間とフイルムの撮影枚数に比例する)。人間ドックや病院で行われる検査になると、被曝量は胸部レントゲン検査の100〜300倍にもなる(大腸のバリウム検査ではさらにその3倍)。
欧米で行われた肺がん検診に関する大規模調査で、年二回の胸部レントゲン検査を毎年受けるだけでも肺がんによる死亡や総死亡が激増することが示された。胃がん検診の危険性は推して知るべしであろう。もし胃がん検診を推奨するのであれば、この損失を上回る大きなプラス効果(つまり寿命がのびること)を証明しなければならない。

被爆によるがんの発生はすぐには起こらず、10〜20年を経てからである。検査の直後は疲労や倦怠を覚えるかもしれないが、これは気のせいだと言われ、やがてがんを発病すると、その後の生活習慣や老化、遺伝的なものが原因とされるだろう。しかし、上記の数字を見る限り、被爆量は決して無視できるものではない。これほどのリスクを冒しても、国が推奨するほとんどの「がん検診」について有効と認められるデータはなく、逆に無効が証明されるものばかりである。レントゲンのみならず検診には様々な危険が伴い、事故も診断ミスも起る。治療についての調査では、手術に寿命を延ばす効果はなく、検診を受けて発見されたがんを手術しても、検診を受けずに症状が出てから病院に駆け込んでも変わりはない。手術の不利益や術後の生活のクオリティの低下こそ懸念されるところだ。薬についても有効なものは少なく、逆に副作用として発がん性を備えている。現在のところ有効性が示されたのはTS-1とタモキシフェンの2つしかなく、これらもすべての患者に有効ではない。一体なぜ、有効性のない危険なことが続けられるのだろうか。治癒困難、余命3か月と告げた後も、なぜ濃厚な治療を進めるのだろうか。

先日、東京大の研究グループが行った興味あるアンケートが報告された。がん患者や医師らを対象にした死生観に関するもので「望ましい死を迎えるために..」がん患者の81%は「最後まで病気と闘うことが重要」と回答したが、医師は19%だった。また、がん患者の92%は「やるだけの治療はしたと思えることが重要」と回答したが、医師は51%、看護師57%であった。調査した医師のコメントは「自らの価値観と患者らの価値観が必ずしも一致しないことを自覚すべきだ」と、締め括られている。これが有効性のない治療を続ける一つの理由でもある。がんに限らず軽い胃炎や感冒でさえ、注射や薬を患者側から要望されることが多い。

専門家も人の子であるから、頭のなかにあるイメージは一般人と同じである。

医師は冷徹に状況を見ているようにも映るが、医師もまた薬を用いたり、何らかの治療を施すことに慣らされている。「がん検診を受けて早期発見、早期治療!」などという聞き慣れたフレーズに素直に反応し従っていく。上部意識では医師と患者との意識の乖離があっても下部意識は通底しているのかも知れない。互いに井の中から飛び出すには勇気がいるし、大勢の流れに逆らう不安は大きい。とりわけ無力な患者は専門家の言に従うしかなく、親身に助言を受ければ信頼を深め、根拠のない治療にさえ希望を繋ぎ止める。しかし、希望を捨ててはならない。蜃気楼にさえ癒されることがあり、その先に実体がないとも限らないのだから。

 

貧国大国アメリカ 堤未果

2007年の夏、アメリカで起ったサブプライムローン問題からほぼ1年、米大手証券会社のリーマン・ブラザーズが破綻した。それを引き金に世界各国、各業界に波及し、100年に一度とも言わしめる恐慌に陥りつつある。つつある..というのはこれからどうなるか予測がつかないからだ。欲望のおもむくまま無限に消費や利益が増大することなどあり得ない。しかし、その幻想を追い続け、多くの人々がともに無限連鎖講に参加した結末ではないか。私のような個人商店ごときはバブルの恩恵も受けなかった分、いまのところ不況の実感は迫っていないが、日々の報道を見るにつけ並々ならぬ不安を感じざるを得ない。経済問題に対する知識は乏しいが、拙劣ながらいくつか感想を書いてみたい。

2004年にニューヨークに住む映画監督モーガン・スパーロックは、自らの体を実験台とし、30日間マクドナルドのメニューだけを食べ続けるというドキュメンタリー映画「スーパーサイズ・ミー」を撮影した。
結果はわずか30日にして体重12kg、体脂肪が10%増加、内臓機能が著しく低下したために実験の途中で医者から続行不能が言い渡される。
食生活が人体にいかに影響を与えるかをまざまざと見せつけたこの映画は、世界中のマクドナルド愛好家たちにショックを与え、ドキュメンタリー映画としては異例のヒットを記録した。
だが肥満=偏食という単純な図の向こう側には、根深い貧困の現状が横たわっている。

アメリカ農務省のデータでは2005年にアメリカ国内で飢餓状態を経験した人口は3510万人で、これはほぼ国民の10人に1人に当る。内訳ではその6割が母子家庭だという。彼らの39%は何らかの職についてはいるが、食を切り詰めざるを得ないほど貧困にさらされている。そして、少し奇異に感じるが、貧困が肥満を招く。低価格で空腹を癒しカロリーを補給するためには、調理の簡単なジャンクフードやファーストフード、インスタント食品、揚げ物などの偏った食事になるからだ。豊かさの象徴のように考えられた肥満が、ここでは対蹠的な問題を提起している。州から配布されるフードスタンプ(食料交換券)を手にする人々は、台所どころか調理器具さえ持たないケースも少なくない。食材の選択肢は限られ、忌まわしいことに、ここをターゲットに食品産業が跋扈する。貧困層の人々の嗜好を研究し、彼らに好まれる有名人をCMに使いピンポイントで狙い撃ちするという。弱者からさらに零余をむしり取り巨額の利益を手にするのだ。栄養バランスの偏った食物を継続的に摂取することの弊害はいうまでもない。

大企業は非正規雇用者の割合を高めることで人件費を削減し、いざというときの安全弁とし、空前の利益を手にした。日本では当初、人件費の安い外国人労働者を雇い底辺の仕事に従事させた。ここからゆるやかに広範に、日本人の雇用体制へと波及していく。アメリカの経済危機を受け、日本の企業も人員削減が始まり年末を控え路頭に迷う人々が続出した。国や自治体は支援に乗り出したが、大企業は非情にも首切りによって自らの財産を死守する。かつてのバブル崩壊時と同じく大企業の存続のため、本来彼らが負担すべきことを税金が賄う。政治家や役人が「国民のため..」というのは大企業や土建会社の経営者であって、彼らの方向しか見ていないことがよくわかった。

アメリカの抱える深刻な問題の一つが医療保険制度である。民間の保険に加入する余裕のない貧困層は医療から見放され、加入できた人々も、高い保険料と医療費に喘いでいる。いざというとき、保険会社が払い渋ることがしばしばで、一回の病気で貯蓄を使い果たし、借金し、たちまち貧困層へと転落する。アメリカの医療は製薬企業と保険会社の市場原理が支配しているという。日本でも医療崩壊の声は耳にするが、アメリカに比べると国の保険制度は有難いものだ。「民間でできることは民間で..」というもっともらしい理念のもと制度の改革が進められたが、民間でできることでも、国家がしなくてはならないことがある。アメリカの話に戻ろう。貧困層の若者を狙って、ある勧誘が行われる。学費が払えない高校生、大学への進学や勉学を断念せざるを得ない若者への経済援助、あるいは不法入国者へ市民権を餌に国家が人狩を行いイラクやアフガニスタンへと送り込む。

短時間で最大の利益を上げるやり方をたたきこむんです。たとえば手当たり次第に生徒たちに声をかけるのではなく、生徒会長や、運動部の代表選手、成績がトップクラスの生徒など、校内で人気が高く、目立っている生徒をまず落とすのです。調査によれば完全に発達する前の十代の子どもたちは、長期的結果を見据えた決断をするよりも、多数の意見に沿って安心する傾向があるというデータが出ています。憧れの生徒が入隊したという噂はあっという間に広がり、自動的に入隊希望者を増やすのです。

イラク戦争は誤りだったと、張本人である大統領が認めるに至った。当時でさえ、誰もがうすうす戦争がしたいのだということに気付いていた。国家がやってはならないことを国家がやってしまったのだ。その兵士を集めるため国防総省は人狩のリクルーターを養成する。上記引用は、その研修内容の一部である。詭計にはめられた若者の末路は悲惨なものとなる。約束は履行されず、虚偽や隠蔽のもと最悪の場合は命を失い、心身に障害を抱えて帰還する。たとえば、スポーツ選手は高揚を隠さず「国のために戦う..」というが、戦争はオリンピックとは違うのだ。流されるおびただしい血や家族や友人の絶望的な悲しみを伴う。イラクでの映像を見るたびに顔を背けずにはいられない。私たちは外国人労働者を見て、我々には及ばないだろうと思っていた。いま、アメリカの兵士を見て、我々には及ばないと言いきれるだろうか。

航空自衛隊の幹部が歴史認識の問題で更迭された。その歴史観は戦前に戻って国家や軍隊を賛美するものだった。これに同調する人々や政治家もいた。言論の自由を主張するのは構わないが、影響力の大きい人物の独善は、部下の思想や言論の自由を侵し、柔順を強いる恐れがある。戦争体験者は徐々に減少しつつある。彼らの体験談は体験者ゆえの真実がこもっている。戦争に正義などなく、争うことで得るものはない。「制裁」「戦い」という言葉を安易かつ頻繁に発し、話し合いを閉ざしてはならないし、敵国とみなし、武力や経済力でねじ伏せるような動きは好ましくない。私はしばし海上自衛隊に在職したことがある。防衛大出身の同僚のなかには「軍神になりたい..」と公言する者も少なからず居た。たぶん冗談で言ったのだろう、私には到底思いつかない言葉であった。彼らは18歳という若さで入校し軍事教育を受けてきた。兵器を扱う訓練や仕事を通し、若者の柔軟かつ未熟な頭脳には特有の世界観が形成されたのではないか。航空自衛隊の幹部の発言が、戦うことや己の存在意義のヒロイズムに陶酔しているとするなら、迷惑極まりない。憲法改正の動きもあり、テロとの戦いと称してアメリカの軍事行動に追従し、支援してきた。くどいようだが、いま、アメリカの兵士を見て、我々には及ばないと言いきれるだろうか。

アメリカの経済危機から端を発した不況は、これから、さらに蔓延し生活も未来も不安が充満していくだろう。寒空に放り出される人々が日々増えているというのに、お役所は年末年始で9連休、政治家は選挙のことしか念頭にないようだ。支援というバラマキのあとには消費税というツケを準備し、白々しい公約を並べたてる。私たちは彼らを非難し揶揄するが、たかだか村落の意思決定でさえ根回しが横行し、利害が絡む。立場が変われば、私たちも似たような行動をとるかも知れない。その場かぎりの不満をぶつけ、相変わらず長いものに巻かれ、自分に心地よい選択をしていくのだろう。「十代の子どもたちは、長期的結果を見据えた決断をするよりも、多数の意見に沿って安心する傾向がある」というデータは、私たち大人にも十分通用する。

 

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