【読書録(4)】-2007-
今年も否応なく師走がやってきた。一休和尚は、門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし、と詠んだ。病や死から最も遠い成長期であっても冥土は一歩一歩接近しているのだ。まして下り坂や夕暮れに近くなった世代にとってはひたひたと迫るものを感じるだろう。人は完璧な健康や不老の幻想を追い求めると同時に死が避けられないことを知っている。秦の始皇帝は不老長寿の薬を探し求めつつ、巨大な陵墓も準備させていた。現在では定年を迎える年齢を目途に老後の生活設計が始まるものと思うが、これは平均寿命を予測しての予定に他ならない。50年前、日本人の平均寿命は男50.1歳、女54.0歳であった。子育てが終わると人生はたそがれて、実質的な老後はなかった。戦後に受けた最大の恩恵は長寿なのだ。長寿ゆえに生じる体や機能の衰えが病気扱いをされ、生きることの重大な関心事となった。老いにともなう不調や障害を病気とするのは抵抗を覚えるが、苦痛は軽減されなければならない。世界でも最長寿国となった理由はなにか、また長寿のための処方箋はないだろうか。
この50年間の寿命の延びは、人類の歴史からすると驚異的なものだ。ネアンデルタール人の平均寿命は10歳、縄文人で男女とも14歳で、3000年後の室町時代になって24歳まで延びた。戦後、寿命が延びたのはひとり医学だけの力ではなく、人の命を大切にし、権利を尊重する思想が社会全体に広がり、国民の経済基盤も安定したことによるという。しかし、最近の医療・福祉の問題や生活習慣病の増加、さらに所得格差の広がりから、今後、長寿が続くかどうか懸念される。寿命に関与する遺伝子の研究では、長寿家系100家以上が調査され長寿遺伝子の候補が4番染色体上にあるところまでは分かったが、遺伝子の特定までには至っていない。単細胞生物の線虫を使った研究がある。線虫は3日で成熟し10日で老化が始まり21日で寿命を終えるため、わずか3週間で寿命の研究ができる。化学物質を用いて、老化が遅く寿命が長くなるように突然変異を起こした線虫を分離する。これを、温度を低くしたり、栄養のない条件に置くと冬眠状態に入る。このときに必要なダフという遺伝子が同定された。この遺伝子に突然変異が起ると、寿命が1.5倍に延びる。
自然界において栄養が満たされないとき、直ちに死につながるなら種の存続はおぼつかない。このための防衛装置が耐飢餓遺伝子とでも言えよう。ところが、食物を捨てるほど満たされたとき、この遺伝子が災いを引き起こすことになる。食物が不断に獲得できないことが想定されているため、食物が満たされた状況では適量の信号も発しえず、止まらず、味覚の赴くまま「別腹」と称して過剰なカロりーまで喰い込んでしまう。こうして、積り積もったものが生活習慣病という財産だ。
「わかってはいるけど止められない」、どれだけ多くの人が欲望との葛藤に悩んでいることだろう。一般の人は食の問題として、添加物や残留農薬を危惧するが、専門家の視点からすると、それはわずかなものでしかない。著者の資料によると、一般の人が考えるガンのリスクは食品添加物43.5%、農薬24%、大気汚染・公害9%の順になるが、専門家が指摘するのは普通の食べ物35%、煙草30%、ウイルス10%の順で、食品添加物は1%、農薬はゼロという意外なものだ。専門家がすべて正しいというつもりはないが、耳を傾ける価値はある。添加物・残留農薬を避けて有機だ、手づくりだ、と追い求めても「普通の食べ物」に落とし穴が待ち受ける。つまり過剰なカロリーの摂取にこそリスクが潜み、欲望の制御がリスク回避の要となる。「人は食べたところのものになる」という食の思想があり、これには一定の支持が得られている。情緒的見方ではあるが、嗜好や欲望には個性がにじみだし、それは快原則に則ったものだと思う。私たちは遺伝子の呪縛から逃れえず保存と破滅の狭間で揺れ動いているのかも知れない。無難にまとめると、食材や添加物を気にしながら存分に食欲を満たすより、腹八分や六分でバランス良い食構成をし、ときに空腹を耐えるくらいが好ましいのだ。
種の保存と個の保存は必ずしも利益が一致しないという実験例である。宇宙は閉鎖系か開放系かは人智の及ぶところではないが、地球はあきらかに閉鎖系であろう。閉鎖系は循環で以てしか存続を得ることができない。世界の人口は増加しているが、日本では減少傾向にある。このまま減少が続けば西暦3300年にはゼロになると試算されている。日本は、ネズミの実験のように100匹に達し終えたのかも知れない。豊かな食や環境は生存を伸ばしたが、危機も胚胎することになった。ゆるやかに抵抗力を失い、子供まで生活習慣病にさらされ、体力は危機的レベルまで落ち込んだ。先日報告された北大の調査では小4〜中1の子供の4.2%が鬱病と躁鬱病を病み、中1については10.7%もの有病率であった。心身ともに下り坂へと歩をすすめつつあるのだろうか。健康で事故にも遭わず、人生の生甲斐や楽しみを見出せるなら言うことはない。しかし、病気や事故を回避したとしても、いずれ死は確実に迎えなくてはならない。普段は死を忘れ、また、死をみつめながらの生活は疲れるから考えないことにしているが、老若を問わず死はいつ訪れるか分からない。平均寿命が50歳だったころに幼少期を過ごした現在のお年寄り達は、驚異的な寿命の延長を享受しつつあり、50歳を迎えた人々は、第二の人生や老後の夢が描けるようになった。その代わり、50歳から出没するであろう健康不安に向き合い、対策を講じなければならなくなった。 |
朝日新聞の古いスクラップ記事(1991.11/14)が、いまだ記憶の片隅に棘のように刺さったままだ。葉書大の切り抜きには、「人類は2090年に滅亡する!?」と書かれている。これは科学者、文化人グループのフォーラムで発表された「地球の破滅報告書」を紹介したものである。科学的データをもとに約1年をかけて作られたシナリオだという。破滅は3段階でやってくる。(1)年3%の経済成長が続くと、2024年に地球の人口は現在の1.6倍、食糧需要は2.5倍、エネルギー消費は2.2倍になる。食料、資源不足が始まるが、民主主義の広まりで、生活を向上させたいという人々の動きは止められない。(2)2057年までは、破滅の可能性に気付き、世界経済のゼロ成長で破滅の先延ばしを図る先進国と、成長を望む南の諸国との妥協の時代。生活水準の低下、慢性的な不況の時代となるが..(3)結局、資源の限界が明らかになり、世界はその奪い合いで無秩序な状態となり、環境破壊などともあいまって人類は滅亡する。この報告書を作った惑星科学者の松井孝典氏は「有限の地球で、人類が増えれば限界が来るのは当然。--中
略-- CO2削減などの延命策でなく、文明のあり方自体を考えるべき時が来ている」という。実感できる年数として99年後の2090年という滅亡年が決められた。 1980年代後半から巻き起こった温暖化の話は現在、衆人の注目を集めているが、人類の終わりを暗示するものは温暖化だけではない。「個人が人類を滅ぼせる時代がやってくる」という著者の言葉の意味するところを探ってみた。
テロリストや独裁者、狂った科学者が、核兵器や細菌兵器を入手し、人々を恐怖に落とし入れる話はしばしば映画の題材になる。もし、現実に起ればランボーもシュワルツェネッガーも現れてはくれず、絶望的な危機であろう。人権の呪縛で動きの取れない警察は、白昼堂々と拳銃を撃ちまくる犯人を遠巻きに見守る。拳銃ならまだよかろう。しかし、凶暴な妄想に囚われた者が核兵器やウイルスや細菌を手にしたとき、たとえ一人であっても様相は一変する。武器だけではない、ゲームに興じるようにコンピュータをいじり、ウイルスを撒き散らすことで、人々に余計な労費をもたらしている。著者はナノテク、バイオ、コンピュータ、核の脅威、環境など人間の活動によるものと、惑星衝突や地震などの天変地異に分けて警告する。前者について、個人が人類を滅ぼせる時代が迫っているという主張だ。それにもまして不可抗力なのは国家の力で推進される様々なプロジェクトである。利権の前に正義や科学が曇り、問題や危険が噴出するまで知らせず、明るみになった後にも止まらない例はいくつもある。科学技術の進歩とともに負の側面も生じてくる。それに比べ人文科学はどれほど進歩したことだろう。進歩に取り残された魂が科学技術の狭間で彷徨を続けていく。かって小さな集落や限られた地域での思考・行動に比べ、いまや見渡せる世界は確実に広がった。グローバル化のツールの一つであるネットの普及は、漏れることなく正負の産物をもたらしている。
ネットは有益無益に関わらず多彩な意見や情報に触れられる場であるが、自らの好き嫌いで異論を排除できる。「嫌だったら読むな」、「嫌だったら参加するな」と、正論として発するコミュニティさえ多数存在する。ある意見に対して巻き起こる、「暴言だ」、「謝罪だ」..などの非難や追求は、快・不快の幼児原理に沿ったものだと思う。異論を発した人と話を交える前に、快・不快で決着させて良いものだろうか。より有益な展望が開けなかったとしても、無益には終わらない。ヒステリックに騒ぎたてることで異論を圧殺する。異論を発した人は人格まで否定される前に謝罪を選ぶ。こうした社会が形成されるにつれ生身の付き合いに苦手意識を感じる人々が生まれる。住みにくい世になっても、今は耐えることなく、自室という快適空間に籠ったまま仕事や生活が可能だ。異物を排除しつづけた無菌室では、凝り固まった思想が形成され、異論を差し挟まない快い仲間たちによって信念が炎上し妄想まで高まることがある。ネットカルトとでもいうべきものが、静かに動き始める。ここからテロリストまではまだ距離と時間があるかも知れないが、独特の思い込みを持った個人が政治家などを攻撃する事件はしばしば発生している。著者は科学技術の発達と時代が産みだすたった一人の危うさを懸念する。「世知辛い世の中になった..」という言葉は私たちの祖父母の時代以前からあった。それぞれの時代に、時代の背景を極端に体現する人々が登場するのは致し方ない。少数の不都合な例を以って一般論に帰納することはできないが、その少数が起こす行動に人類の命運が左右されるならば、何らかの方策も立てなくてはなるまい。それがまた正負の産物をもたらすとしても..
宗教を含むカウンターカルチャーにはその共同幻想がエネルギーとなって人々を動かす力強さがある。ある種のマインド・コントロールの一例ではないかと思っている。しかし、意地でも覚醒した自己を善とする人々は胡散臭くながめることだろう。著者は極端な人格を矯正する遺伝子操作や薬物についても言及し、これをディストピアの悪夢と言う。
話は逸れるかも知れないが、近年、心の専門家の活躍には刮目すべきものがある。製薬企業の思惑が絡んだ影を憂慮している。心が重んじられるのは尊いが、専門家が重んじられる世は健全ではない。専門用語や病名を付し薬物の適応を安易にしてはいないだろうか。衣食足り、もはや捨てるほどに満たされた現在、生存に関わるストレスの不足が別のストレスを生んでいるといえなくもない。物心ともに完璧な平安を求めるなら、わずかの刺激に揺れる心さえ異常と看做すだろう。以前なら「放っておいて」済ました事例にさえ鈍磨のための薬物を使用する。広く頻繁に薬物が使われるなら、人々は魂や生気が抜けた機械やロボットと化し、その時点で人類も終わるだろう。快適な温室に棲むための手助けはほどほどにして、何もしない選択があっても良い。 諸々の問題を突き詰めていくと、「ひとりひとりの心がけ」に収束していくが、それは真実味がありながら最もアテにならない対策でもある。今のところ温暖化が喫緊の課題となっているが、冒頭に書いたように16年前、すでに人口増加による資源の枯渇や環境破壊が静かに警告された。報告書を作った松井氏によれば、人間一人が生きるエネルギーは象一頭と同じであるという。地球は70億頭の象を飼っていることになる。人類が淘汰されることなく増加を続けた幸運は不運の始まりでもあった。かといって自分は淘汰されたくはない。この葛藤のなかで自滅を回避する人類の叡智が機能するだろうか。叡智は、あるいは神の意思に反するものかも知れない。想像が許されるなら、人為よって人類が終わるより、惑星衝突などの天変地異で終わるほうが希望が残されていないだけに、諦めもつく。 |
「発掘!あるある大事典U」の納豆ダイエットに端を発し、健康番組の捏造が取り上げられた。すでに去年のことではなかったか?と錯誤するほど過去のものに感じるが、今年1月の出来事だ。その後、原発など様々なところで捏造が発覚し、人の活動において捏造は宿命か..と嘆息させられる。あまりに多くの報道に消化不良気味で一月も経てば次の興味へと移る。私達の思考や行動もメディア型に変容しつつある。バイアスを辞書で調べると「社会調査で、回答に偏りを生じさせる要因となるもの。/質問文の用語や質問の態度などについていう。/先入観。偏見」。と書かれている。バイアスを排除したものが正しい見方になるが、バイアスを期待して行うのが調査やアンケートであり、報道なのかも知れない。そこに何某かの利益が絡めば、煽る側と煽られる側に大きな利害が生じる。納豆ダイエットについては物の性質上、捏造があったとしても大きな被害を引き起こすことはないだろう。納豆屋は一時のボーナスを手にし、テレビ局は視聴率を得た、乗せられたとはいえ、客はしばしの希望で安心を得た。テレビ局のモラル失墜という大きな損失を別にすると、私達は一歩賢くなれたのではないか。物事をよく考えるために人の話を聞く、本を読む、過去の経験を生かすなどの古典的手続きに加え、メディアの進歩でテレビや新聞等を介して、ものの見方や考え方が提供される。それは異論を排除し画一的で広く、力強い。著書は飼料を扱うある商社の畜産セミナーで受講者から次のような質問を受ける。
不祥事を起こした関係者の記者会見で、記者たちが浴びせる罵詈雑言や傍若無人な言動には不快感を隠せない。もっと真摯に冷静に質問ができないのだろうか苦々しく見ている。人を責める、怒りを露わに権利を主張するという行動パターンはここで作られているのだと思わざるを得ない。著者のいうようにメディアには多くを望めない部分がある。事件も特集も視聴率の呪縛のもと、私たちを楽しませ飽きさせず欲するもの提供しているからだ。その演出のための捏造など方便に過ぎないのかも知れない。
医療機関をはじめとする健康産業は上記とセットで、検査や治療、薬や健康食品を前面に出す。危険なものについては高い含有量での資料を示し、効果については低い含有量にもかかわらず高濃度での資料を用いる。「抗菌作用のあるドクダミと温熱作用のある紅花を各5g、風呂に入れて入浴すると皮膚病が治り、体が温まる..」などの表現はネットを少し探せばいくらでも目にする。5gを200〜300Lの湯で薄めたものに何の効果があるだろうか、気分だけの効果しかない。環境ホルモンは微量のものを誇張して伝え、添加物や残留農薬は古典的といえるほど繰り返し警鐘が鳴らされる。 最近もっとも話題になり、相変わらず生き延びているニセ科学の一つに「マイナスイオン」がある。空気清浄機など多くの電気製品の謳い文句となったが、根拠はまったくなく言葉だけがひとり歩きをはじめ快適・癒し・自然などのイメージを演出するものになった。スポーツ選手までがイオンリングやネックレスを付け、能力の向上を願う。調べてみるとイオン首輪という犬猫が付けるものまで売られている。正統な科学の学習を経て、さらに高度な習練を積んだ学者がなぜ疑似科学に染まっていくのだろう。彼らの仕事は、話題を巻き起こし、注目を集め、評価を得ることで地位や名誉や金銭を手にするというメディアの仕事と相通じるものがある。ここにメディアが飛びつくのは同種、当然の流れといえなくもない。そのためなら科学の体裁とり、素人を騙すことなどたやすいものだ。さらに自らもニセ科学を信じ込み、倫理まで欠いた科学者をマッドサイエンティストと呼ぶ。疑似科学は奇想天外なフィクションで読者を楽しませる小説に等しいものだ。著者は「政治経済に翻弄される科学」と言う章を設け、国家を挙げて奇妙な方向へ走り始める事を危惧する。国策として進む計画の欺瞞に満ちた資料、隠蔽して知らしめぬ情報操作、学者を動員して放つ誤情報など、知識や情報の濫用は暴力に勝るとも劣らない。その一例としてバイオ燃料のことが書かれていた。
政府は、地球環境、地域活性化、雇用、農業活力という観点から、2030年頃には600万KLの国産バイオ燃料の生産を予定しているという。食料自給率40%の日本が米国に追随し、食を燃料に回せば悲哀を味わうのは明らかだ。自動車産業には少し痛みを耐えて貰い、いまこそ本気になって農業を守り自給率を上げるときではないか。目下、穀物の価格高騰はアメリカを利する方法へと進んでいる。盛んに危機を煽る地球温暖化は、アメリカの国策に翻弄されているのかも知れない。というのは考えすぎかも知れないが...終章には科学報道を見破る10カ条が記されている。
提言は有難く受け賜わるとして、私にできることは2.3.5.くらいが精々である。著者ほど熱心にメディアを注視し検証し啓蒙する人は一般には少ないだろう。学術論文の精査や英語文献の収集などプロの仕事ではないか。日々、店頭でお客さまの質問や相談に接していると、多くの人々はエンターテイメントとして番組を楽しんでいるのだと思う。健康情報に惑わされるなといっても、著者だけが特に利口で一般は愚かと言うことではない。振り込め詐欺の被害者が、「自分は騙されないと思っていたのに..」と述懐するのを聞くと、闇や陥穽にはまる不覚が感じ取れる。それは心理メカニズムを巧に操るからだというが、結果を解釈したに過ぎず、繰り返し騙されることの対策に十分ではない。また、別の見方が許されるなら、納豆が棚から消えるほど売れても、人口数から考えると多くの人は「またか」と静観していたことが分かる。毎日新聞の記者だったという著者は、総じてメディアへの眼差しが厳しい。メディアが統制された国家を見るまでもなく、自由な発信は確保されなければならない。危険の警鐘は、エンターテイメントであっても必要性がないとはいえない。漫然たる安全意識から芽生えるものがあるだろうか、安全、大丈夫という情報のいかにも怪しい例を山ほど挙げても良い。メディアが闇の中から多くの危険や不正をあぶりだした功績も認めなければならない。ご忠告のように「警戒し冷静に調べ柔軟に検討すること」は大切だが、メディアに駆り立てられる人や騙される人が絶えないのはなぜだろうか。 |
環境に優しいというバイオエタノールが話題になった。実際はガソリンより高くつくため補助金によってガソリンと同程度の価格が維持され、これを利用する人は環境に貢献しているという満足を得ることになる。この生産のために穀物の需要が高まり、煽を受けた途上国の食や経済が困窮し始めた。人のエネルギー源である穀物を車が食べるようになったのだ。これは本当に環境に優しいことだろうか?環境対策や配慮といわれるものが、思わぬところへと累を及ぼす。調べたところによると、米国内の全自動車を、ガソリン燃料からバイオエタノール燃料(エタノール85%・ガソリン15%の混合)に切り替えた場合、排出ガス中のCO2は大きく削減され、大気中のベンゼンおよびブタジエンも減少するが、他の発癌性物質のホルムアルデヒドおよびアセトアルデヒドが、大気中に増加してしまうことが判明したという。また、地域によってはオゾン濃度が高くなり、光化学スモッグなどの環境問題が、ガソリン燃料の使用時よりも悪化してしまう危険性が指摘された。自動車の排出ガスや燃料をいじるより、農業に減反を強いるように自動車産業に減産を要請したほうが効果は抜群だろう。自動車立国の米国が環境対策に熱心でない理由はこのあたりにありそうだ。そもそも環境に優しいとはどういうことか。本書によると「環境に優しい」の厳密な定義はなく、研究者の間では「環境負荷が小さい」ということで理解されているという。一般では言葉が独り歩きして情緒的に使われているが、物事の一部や一過程を切り取って「環境に優しい」とはいえないわけで、原料の調達から製造、さらに使用後の廃棄までが検討の対象となる。 いま、地球温暖化の危機が叫ばれているが、先のコラムで紹介したように「人の頭は幻想を作りやすい」。根拠のない不安を撒き散らすことで、なにがしかの行動に駆り立てる。ダイオキシンや環境ホルモン、、、電磁波や狂牛病もあった。たとえば、いま盛んな温暖化報道の10年後は一体どうなっていることだろう。悪いニュースばかりが聞こえてくるのは理由がある。 ある物質が健康に悪い影響を及ぼすということを証明することと、 健康や環境については物質の量の問題が絡む。砂糖や塩でさえ量によっては健康に悪影響を及ぼすのだ。環境に薄まったダイオキシンを集めて小さなネズミで試験すれば、明らかな毒物となる。いつのまにか、ダイオキシンや環境ホルモンは語られなくなった。あれほど煽ったメディアは総括をすることもなく話題を垂れ流したままだ。本に挙げられたリスク表では10万人を分母とした死亡リスクは喫煙74/受動喫煙12/入浴10/交通事故6/火事2/原発事故0.1/小惑星の衝突0.01の順になる。原発については隠蔽・捏造の不祥事が相次いでいるが、被害の甚大さを考えると限りなくゼロに近づける必要があり、脱原発を目指せばゼロは可能だ。小惑星の衝突は数字として低いが、起れば地球最後の日になるかも知れない。天災と同じで起らないことを神に祈るしかないが、いずれ人類に終わりが来るなら、惑星の衝突も悪くはない。さて、死亡リスクにもとずく著者の提言は次のようなものだ。長生きをしたければ... タバコを吸わない、同居人には屋内でタバコを吸わせない、風呂に 私は、トップに「戦争をしない」という項目の追加を望む。確かな数字は記憶にないが、戦時中の男子の平均寿命は40歳代であった。当時、40を迎えた人は子供の成長や自分の将来を描くことができただろうか。統計的な数字を見る限り、私達が普通に思いつく環境問題は、健康寿命を縮める要素としては大きくないと著者は言う。 |
日本人における損失余命
喫煙(全死因) | 数年〜数10年 |
喫煙(肺がん) | 約1年 |
交通事故(男) | 0.38年 |
交通事故(女) | 0.16年 |
ディーゼル粒子 | 14日 |
受動喫煙(肺がん) | 12日 |
ラドン | 9.9日 |
ホルムアルデヒド | 4.1日 |
ダイオキシン類 | 1.3日 |
カドミウム | 0.87日 |
ヒ素 | 0.62日 |
トルエン | 0.31日 |
クロルピリフォス | 0.29日 |
ベンゼン | 0.16日 |
メチル水銀 | 0.12日 |
キシレン | 0.075日 |
DDT | 0.016日 |
クロルデン | 0.009日 |
出典:中西準子「環境リスク学」、安井至「環境と健康」
ダイオキシン以下の物質の損失余命は、全部足しても1週間に届きません。 日本の環境中にある汚染物質をすべて取り除くことができたとしても、 寿命は2ヶ月も延びない。タバコの煙は別として、統計データで見れば、 日本の環境は人の命を短くするほどには汚染されていないというわけです。 古くは水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病、、最近ではアスベストなどの公害による被害者が出ている。これらの死者も日本人の人口で薄めれば、統計的に大したことはないという見方なのだろう。このような議論には違和感も不快感も覚える。汚染や危険に過度に敏感になって生活のクオリティーを落とすことは困るが、それを軽視することはできない。被害を受けた1人が自分であれば、著者はこの一文を挿入し得たであろうか。環境団体の活動を冷笑する言動は処々で聞かれるが、万人の健康を思いやる優しさは欠け替えのないものだ。 三大死亡原因であるガン、心臓病、脳血管疾患は急速に増加し、最近、その予備軍であるメタボリック症候群も注目されている。これらの殆どは老化に伴う「体の衰え」に他ならない。長寿化にともなう老人人口の増加が、病気をも押し上げた。これを以って、環境汚染の影響とすることはできない。また若年層に見られるアトピーについても全国的に網羅した調査はなく、医師ごとに病気の概念が異なり、調査もできない状況であるという。したがって、報告されるのは事例だけで実態は不明である。明らかなアレルギーは古くから知られていたが、病名や医師の増加によって分類が細かになり、半病状態や予備軍まで仲間に入れられた可能性がある。ガンや病気の発生を食物に帰趨させる議論があり、同じ発想で、その予防も食物に求める治療家やメディアの説得力は絶大だ。国際ガン研究機関は発がん性物質について以下5段階の分類をしている。 (1)発がん性あり(99種):アスベスト・ダイオキシン・特定のウイルス・経口避妊薬・ (2A)おそらく発がん性がある(66種):無機鉛化合物・トリクロロエチレン・紫外線・ (2B)発がん性の可能性がある(246種):クロロホルム・DDT・体内に埋め込まれた異物・ (3)発がん性があるという分類ができない(516種):カフェイン・金属クロム・石炭の煤煙・ (4)おそらく発がん性はない(1種):カプロラクタム(ナイロン繊維の原料) 発がん性物質のほとんどは食物として食べることは稀で、環境中に拡散して薄まり、残留したりドリフトしたものを摂取することになる。この影響は自然派も逃れることはできないだろう。薄まった汚染物質の影響は量の問題があり、所謂基準値以下と言うものについては気にするかしないかの違いなのかも知れない。それによって、生活の満足度が左右される人と気に留めない人が出てくる。ここで決められる基準値についても大いに議論の余地があり、収拾のつかないものになる。1ミリたりとも許さない自然派に対し汚染派は1割もの過剰を誤差の範囲という。人間が決めることには思惑が絡みすぎ正しい数値は混迷を極める。ここまでは毒の話だが、「ガンや病気に効く」という食物も後を絶たず登場し、これについては、しばしば捏造や嘘がともなう。 科学的に意味を持つだけの十分な人口を対象にして、十分に時間を ガンに良いといわれるまま、お茶やイオン水をふんだんに飲み、ヨーグルト、納豆、ゴマ、玄米、きのこを努めて食べ続けている人はいないだろうか。こういう私も鳩麦を飲んだり、人参末を飲んでいるので他人ごとではない。科学的検証とはいえ体には個別の事情もあるので絶対普遍とはいかない。人に物をススメルには、飲んでいると良さそうだ、○○さんはこれでガンが治った、などの経験談が説得力を持つ。生きていくためには理知と感性、毒と薬、などの対立する軸に翻弄されながら何らかの決定や行動を企図しなくてはならない。冒頭で述べたように環境に良さそうに思えたものが、どこかで環境を悪くし、無分別なゴミの焼却が意外にも環境に貢献したりする。知ることは必要だが、真に賢い行動は神のみぞ知る。人類にはもともと愚行の遺伝子が仕組まれているのだから、惰性のまま「こうするより仕方がなかった」と言い訳をしながら、生きていくのかも知れない。 |
道徳や規律は地に落ち、時代は末期症状を呈している。日々伝えられる悲惨な報道に心を痛め不安を膨らます。豊かで何不自由のない世になったというのに、かくも犯罪や規則破りが横行しては堪らない。豊かになったことで失った大きなものがありはしないか?事件、事故のたびに話題が沸騰し、誰かが不祥事を起こすと執拗に追求し謝罪を求める。巷間にありがちな失言や失敗の追求は、いつの間にか自らに降りかかり進退極まりない状況に追い込まれる。旧約聖書・詩篇の一節にこのような言葉がある。「もろもろの国民(くにたみ)は自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕らえられる」 犯罪をめぐって語られたことの多くは、たんなる「おしゃべり」の域を 日々犯罪が生まれるのではなく、犯罪を報道することで話題が生まれ、娯楽のごとく話題を消費しながら自らを不安に陥れているのではないか。著者は統計資料と現状を分析しながら読み解いていく。報道によれば年々事件は凶悪化し発生件数も増加しつつある。それに比べ検挙率は低下し、新聞、テレビなどで知る限り、なるほどと思わざるを得ない。たしかに暴力犯罪は見かけ上急激に悪化しているように見えるが、著者の分析では殺人の認知件数は長期的にみて緩やかな減少傾向にあり、殺人の検挙率も95%台で推移し、傷害事件の死亡被害者も減少しているという。犯罪が少なくなった証拠として著者は刑務所に勤務した経験を語る。 受刑者人口は急増しているが凶悪犯や暴力犯は少なく、内容は 従来、警察は民事不介入を理由に金銭や家族、人間関係のトラブルや相談には応じていなかった。ところがストーカ事件などで警察の失態が批判されたのを機に方針を転換せざるを得なくなる。被害者側も積極的に届出を行い、あるときは対応の不味さから謝罪や保障を要求されるようになった。このように警察、被害者双方の状況の変化が潜在事件の発掘に大きく貢献し、認知件数を引き上げたものであろう。事件は横ばいもしくは減少傾向にあるが、増えているような錯覚を起こすのは、他ならぬ報道やネットなどの媒体や記事が増えているからだ。より注目を浴び視聴率を稼ぐため、そこに凶悪というキーワードを着せ微に入り細に入り事件を粉飾していく。報道の件数、時間ともに増加し、かっては地域のみの扱いだったものまでが、全国を駆け巡る。連続して起る同種の事件や犯罪(コピーキャット)についてはメディアが全国から発掘した成果であり、ときにはそれに触発されて起る事件もある。あるアンケートによると、日本で犯罪が増えたと思う人は49.8%であったが、自分の住んでいる地域については3.8%という数字であった。自分の周囲では事件は少ないが日本のどこかでは増えているという奇妙な解釈になる。この数字には、90年代に入ってから現実の事件とは関係なく報道だけが増加した影響が現れている。識者と呼ばれる人々、あるいはもっともらしく喋る芸人でも構わない、事件ついて社会の変質を憂えるコメントを出すことで危機感や不安が浸透していく。こうして一つの事件は市民運動家、行政、政治家、専門家を巻き込んで新たな社会問題として制度に組み込まれ定着する。 日本で大きく動きが変ったのは、95年地下鉄サリン事件の翌年からだという。これを機に警察庁が犯罪被害者対策室を設け、被害者の視点に立った各種の施策を総合的に推進することになった。これと呼応するように犯罪被害者を支援するボランティア、法律家、心の専門家が民間組織として立ち上がった。マスコミも単に事件を報道するだけでなく、被害者の心の奥の痛みにまで踏み込み「真実?」を追究し、加害者に謝罪を求めるという報道パターンを生みだす。言葉は適切でないかも知れないが「犯罪現象のドラマ化」が始まった。 被害者や遺族の「二度と同じ悲劇を繰り返さない。事件を風化させて それから10余年が経ち、この間ネットという媒体が加わり、時には犯人の画像まで公開され、市井に埋もれた一個人が識者や有名人並みにコメントを発するようになった。この流れは、政治、医療、教育などあらゆる分野に渡って浸潤し、いまや「責任、謝罪」の言葉が聞かれない日はない。そして、犯罪者や被害者を語ることから大きく転換したのが2001年6月に起った池田小学校事件である。出刃包丁を持った犯人が教室に乱入し、無差別に包丁で突き刺し児童8人が死亡し、教師も含め15人が重軽傷を負った。 事件において語られたのは3つのテーマだ。それはきわめてリアル お茶の間で見るドラマのように、あくまでも他人事として事件を見聞し、被害者に同情し、犯人を憎悪した。ここまでは好奇心の域を出ることはなかったが、再発防止がセキュリティの志向へと変化する。犯罪は他人事ではなく、自らにいつなんどき降りかかるやも知れない切実なものだ。このための自己防衛や地域監視の取り組みが始まった。メディアは少年や外国人、性犯罪者などの殺人事件を集中的に報道し、識者のコメントは「安全神話崩壊!」という論調が支配的になり、治安の悪化は疑いのないものとして受け入れられた。まず、子供たちを守ろう。地域監視の主体は弱者である子供に向けられ、防犯ボランティアの数も増えた。2003年に全国で3056団体だったものが、2年後には20000団体に膨れ上がり、参加人員も約119万人になった。そして、活動の約7割が通学路での子供の保護や誘導である。通信システム、地域のケーブルTVなどを利用した不審者や声かけの情報が逐一報告され、「子供の安全」が一大市場をもたらした。 治安悪化の原因として秩序やモラルの低下を訴えて、古き良き時代 防犯活動は思わぬ副産物をもたらした。参加する人々に一体感を与え、古き良き時代へのノスタルジーを慰撫するものとなった。いったん崩壊したかに見えた地域の絆が復活し、サークル活動のような様相さえ呈し始めた。都会のように、周囲の干渉も監視もない、個の棲みやすい環境が再び地域のしがらみや監視の目に晒されることになる。 現在、地域で推進されている住民たちの防犯活動は、いずれも実態 「見知らぬ人を見たら不審者だと思え!」が蔓延してくる。気安く子供に声がかけられない。子供は小さい頃から人間不信を諭されて成長する。警察官でさえ例外ではなく、佐賀では職務質問の不手際から裁判が起こっている。善から発した活動は「相互不信社会」を生み出し、子供が守られる代わりに生活時間帯が「普通の人」と異なる職種の人、失業者やホームレス、精神障害者や知的障害者、在日外国人などが不審者とみなされるようになった。そして、不審者とされるのは防犯と言う善意の理念を掲げた地域の住民たちの目に映るものでしかない。これらの活動は「どんな人間でも機会があれば犯罪に及ぶし、また機会がなければ実行しない」という犯罪機会論【注】の思想が元になっているという。これによって繰り広げられる活動は思いつくまま、至れり尽くせりのメニューである。安全マップを作成する。当番を決めて子供を送迎し、交通整理に立つ。子供110番の家を設ける。車にステッカーを貼って巡回する。自治会同士の連絡を図りパトロールを強化する。落書きを消したり、荒地を清掃する。監視カメラを設置して、ゴミ出しに規制を設ける。防犯イベントを開催し、専門家の話を聞き、防犯グッズを販売する。一戸一灯運動を呼びかけ、センサーライトを付ける。 治安が悪化したと考え、監視を強化し、地域から不審者を狩り出し、 こうして社会は不安と治安の終わりなきスパイラルに巻き込まれる。 【注】犯罪機会論:割れ窓理論とも言われ、1982年アメリカの犯罪学者、J・Q・ウイルソンとG・ケリングによって提唱された。割れた窓が放置されているような場所では、住民の縄張り意識が感じられないので、犯罪者は何の警戒も持たずに立ち入るだろう。さらに、当事者意識も感じられないために「犯罪を実行しても見つからないだろう」、「見つかっても通報されないだろう」と、犯罪者は安心して犯罪に着手する。 【付記.1】犯罪発生率は低下傾向とはいえ、ゼロではないし、ゼロになることもない。事故でも犯罪でも病気の死亡率でも構わないが、仮に1%の確率だったとしよう。100人に1人が自分でなければ幸いなことだ。しかし、1人の人の不幸をどう克服していくか明快に答えられる人が居るだろうか? 【付記.2】犯罪不安と対策は、健康不安と対策の構図に類似する。健康への不安を日々供給するメデイアは、時に捏造も誇張も行う。健康そのものが商品として視聴率を稼ぎ、業界に一大市場をもたらしている。食による健康、サプリメントや器具を売り込む健康、癒しを謳う治療家、、ここにも不安と癒しの終わりなきスパイラルが見えてくる。過熱する教育産業、耐震強度偽装に揺れた住宅産業、温暖化を警告する環境産業、、危機が叫ばれるところに不安が生まれ、不安は人を駆り立てる原動力となる。 |
2006年のアメリカ映画「不都合な真実」は第79回アカデミー賞において長編ドキュメンタリー映画賞・最優秀オリジナル歌曲賞を受賞した。主演はアル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領で、地球温暖化の問題に熱心に取り組んできた彼の生い立ちを交えて構成されている。豊富な気象データと画像で温暖化による地球の危機を描写する。「不都合な真実」と「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」の本を同時並行して読み進んだ。これは私の読書スタイルでもある。 あなたが今、協力しているごみの分別や電気をこまめに消すなどという いまや錦の御旗となった環境保護。異論を差し挟むことすら憚られる現状のなか、勇気ある発言である。著者はまずゴミが7倍に増えてしまったペットボトルのリサイクルを俎上に乗せる。平成5年(1993)、12万トンのペットボトルが販売されたが、当時はほとんど分別回収が行なわれず、そのままゴミになっていた。平成8年(1996)には18万トンに増え0.5万トンが回収され、再利用はされなかったのでゴミは6万トン増えた。平成16年(2004)には51万トンが消費量され24万トンを分別回収したが、差し引き27万トンがゴミとして捨てられた。大量消費の反省から始まったリサイクルが逆にゴミを増やす結果になった。リサイクルが始まろうとするとき少数の反対意見があり、それによると、リサイクル可能という安堵感が企業に有利に働き、反って消費を促すというものであった。まさにそのとうりに事は進んでいった。使用者が自らリサイクルするならまだしも、誰かが回収して処理するにはそれなりの手間と費用がかかる。リサイクル以前の使用量、12万トンのペットボトルを作るには24万トンの石油が必要であった。これを全部捨てるために2万トンの石油を要し、計26万トンの石油が消費されていたことになる。ところが、リサイクルのためにはペットボトル1本に3.5倍の石油が必要になる。これを平成16年のペットボトル数で考えると、188万トンの石油を消費したことになる。これがゴミ7倍の根拠となる数字である。 平成18年、リサイクル推進に直接使った国家予算は2000億円にのぼり、これは国民の税金である。この他、国民が直接払うプラスチックのリサイクル費用が1700億円、家電リサイクルが1000億円となり、年間、計4700億円が使われている。他にも一般会計から出される予算や企業が製品に転嫁する分も含め、約1兆円が使われていると著者は試算する。これだけ巨額になると数千〜数万円の庶民の小遣いとはわけが違う。多分にもれず利権の巣窟に成り果て、肝腎のリサイクルが為されている様子はほとんど見えてこない。自治体に問い合わせると、決まって「リサイクルするという業者に渡しました。それ以上は知りません」という答えが返ってくる。その業者のところで調査した具体的事例は以下のような内容だ。
「ゴミを分ければ資源」という標語は、もっともな気がしてくるが、ゴミの半分は汚泥で次の2割が動物の糞尿、1割が瓦礫類...このように、ゴミの90%が利用不能なものだ。 人間の頭は幻想を作りやすい。 ではどうすれば良いのか。リサイクルが始まる前、ペットボトルに石油26万トンを使用していた。これは輸入される石油の1/1000に過ぎない。いま考えるとそのままで一向に構わなかったのだ。利権が絡んだいま関係各位へのしがらみで容易に後戻りはできない。ペットボトルは必要最小限度利用して、焼却するのがもっとも環境の負荷が少ない。焼却するならゴミの分別も、自治体が指定するゴミ袋もまったく必要ない。むしろ各種ゴミが混入しているほうが燃焼効率も良くなる。リサイクルの必要なものは古くから経済活動として組み込まれていた古着、古新聞、鉄クズ、金属など再生可能なものに限られてくる。ペットボトルのリサイクルより、自動車をわずか1/1000節約したほうが効率よく事が進んだのではないか。自動車は毎年、5200万トンの物質を使って作られ、ガソリン・軽油は9000万トン使う。その他、道路の整備などの車関連で3億2000万トンくらいの資源を要する。毎年、新車を買い換えたり、買い物に3000ccの車を使う。わずか100m先のコンビニへ行くため車を使う。少し体を動かしたり、必要を満たすもので満足すれば、1割の節約さえ可能である。温暖化についても、自動車産業に配慮しすぎている傾向が窺われる。 焼却に関係するものであまりにも有名なのがダイオキシンである。人類史上、もっとも強力な毒性を持つ化合物として話題になり、奇形児が生まれることを恐れ堕胎した女性は、公式に報告されたもので40名にのぼった。著者も当時は「こんなものを作っては大変だ」と思っていたという。2001年、当時、東京大学医学部の教授であった和田氏の論文を読んで、著者は驚く。「ダイオキシンが人に対して毒性を持つということははっきりしていない、おそらくはそれほど強い発がん性を持っているとも思われないし、急性毒性という点では非常に弱いものではないか」という内容だった。この後、著者はダイオキシンの毒性について丹念な調査を重ね、3年後、ダイオキシンにはほとんど毒性がないという確信を得る。マスコミが騒ぎ立てる内容をそのまま信じ、政府までもがダイオキシン対策を進めて行ったが、いつの間にかダイオキシンの話は聞かれなくなった。著者によるとダイオキシンは報道が作り上げた幻の毒物で、専門家の間では逆に毒性が弱いことで知られている。すさまじい報道の嵐で彼らの声はかき消され届かなかったのだ。猛毒に仕立て上げるために、はじめに毒性ありきの各種実験が為され、それによって視聴率や本や雑誌などの販売部数は上がっていった。 日本では1970年をピークに水田に農薬の散布を行ってきた。そのとき農薬として撒かれたダイオキシン量はベトナム戦争時の8倍にもなる。その米を食べていたにもかかわらず日本人は全滅しなかった。大古から人間はダイオキシンと接して暮らしてきたのだ。薪や炭で暖をとり調理をする、枯れ草、枯木を焼く、、こうして発生したダイオキシンでいままで死んだ人がいるだろうか。大量では毒性があるが、量を言うならば塩を飲んでも命を落とす。微量のダイオキシンなら殆ど問題にならないほど無毒なのだ。ところが、この騒ぎを受けて多くの自治体はお金をかけてゴミ焼却炉を改造した。そのため毎年600〜1000億円を国家予算に組み、おおよそ10年以上も無駄金が投入された。いまも、木屑、剪定クズでさえ勝手に焼却できない不便が続いている。 時を同じくして話題になったのが、環境ホルモンである。微量でもホルモンの働きを撹乱し、オスがメス化し人口が減少すると言うものだ。魚類などではオス・メスが明確でない種があったり、生活史上でオス・メスが入れ替わることがある。このことを誇張し、話題性を狙ったものと思われる。環境ホルモンの系譜は現在、経皮毒と名を変え、一部の健康産業で生き延び貢献している。 さて、冒頭で述べた「不都合な真実」では温暖化による恐るべき事態がひたひたと迫りくるのを感じた。温暖化騒動の元になった記事は1984年、元旦の新聞にさかのぼる。「海面上昇で山間へ遷都計画」、「6兆円かけて20年がかり」、「脱出進み23区人口半減」...。正月早々、驚かせる趣向のシュミレーション記事であった。記事は50年で世界の平均気温が3℃上がり、北極や南極の氷が溶け海面が上昇し沿岸陸地が水没するというものだ。ところが、当時−49℃だった南極は現在−50℃近くに下がりつつある。北極の氷が溶けて海水面が上昇するというのも基本的な科学法則に反するものだ。法則とは?中学校で最初に教わるアルキメデスの原理である。オンザロックの酒は氷が溶けてもコップからあふれ出ないのだ。今年はいつになく暖冬で、2月に4月上旬の気温が観測された。メディアは地球温暖化と結びつけて報道し、一般の人々も温暖化を口にした。しかし、3月は一転して冷え込み、東京では遅い初雪が見られる。稀に見る気象異変であり著者も温暖化を否定しているわけではない。環境をよくしようという運動には誰も反対できないがため、それを利用する人々のウソや誇張を正しているのだ。先に述べた海面の上昇について、国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」という機関の報告では、ほとんど触れていないが、日本の環境省の翻訳では「地球が温暖化すると極地の氷が溶けて海水面が上がる」と付け足している。 石炭や石油は何億年という時を経て作られてきたものだ。それを今の人類が200年で使い尽くそうとするところに問題がある。自然が作ったものをゆっくり時間をかけて自然に戻せば、不都合は起らないが、人口が増え活動のスピードや量が増大したことが温暖化の本質である。ガソリンや電気を節約する努力が無駄だとは言わないが、誰かがその分を使ってしまえば効果はなく、二酸化炭素の排出権を売買するようでは対策とはいえない。各国が同時に生産を後退させ、人々が満遍なく貧乏になるしか方法がない。しかし、質を落とさず贅沢を続けていきたい。できれば、環境のための予算を勝ち取り、ビジネスチャンスを生かしたい。そして、エコ製品、エコカーの開発、リサイクル、、、などのため更に石油を投入し続ける。効果的な対策は結局、精神論に帰着するのだろうか?物足りない結論にいささかがっかりであった。 少しでも得しよう、お金を儲けようとしたりせず、人生にもっと 高度成長時代には多くの汚染物質を垂れ流し、公害をもたらした。危機を煽ることは一方で注意を喚起し、活動を修正するきっかけとなり、一定の改善を見た。いま繰り広げられる議論は石油が枯渇するまで数十年のことだ。安全なところからものを言うことはたやすいが、石油なくしては食の確保も困難になるだろう。世界を10人の村にたとえるなら、1人で99%の富を独占し、残りの1%を9人で分かつ現状である。さらに、豊かな生活を営むためには多くの人々が切り捨てられなければならない。温暖化対策は叡智より愚かさのほうが目に余る。このまま、終焉に向かい全速力で加速し続けていくのだろうか。 |
平成の時代に入って20年近くが過ぎた。いま、明治生まれの人は少なくなり、明治は明らかに遠のいた。私の中学校の頃だったと思う。明治100年行事の一環として講堂に全校生徒を集め、社会科の教師による100年の歴史講話がもたれた。その頃は江戸時代に生まれた人も少数ながら健在であったし、祖父からは江戸時代の昔話を聞くことができた。いまや昭和も遠くなりつつあり、平成生まれの若い人達が青春を謳歌する。そして、大正浪漫、昭和レトロなどの言葉がブームに昇り、各種意匠で過去が復活する。豊かさと便利さの反作用と新たな商業戦略をもった「懐古」が輝き始める。本は民族学の諸氏が語る都市とふるさとの論考で、「都市憧憬とフォークロリズム」の総説から始まる。民俗学では「ノスタルジーをともなった表層的な伝統」をフォークロリズムと言う。本来はブームと無縁、人々の心に根ざし、とりわけ都市大衆の欲望を指す。これが次第に企業のマーケティング戦略に組み込まれていく。 昭和回顧の特別展や各地の町並み保存、民家の再生、ラベルやデザインの復活、、数えあげれば至る所で結晶化した「古き良き時代」が輝いている。食の分野でのスローフードの動きも「古き良き時代」の食の再発見を目指す。昭和30年代を中心とした戦後の一時代がここで取り上げられる。終戦から10年、復興から高度成長へと舵をきった頃だ。衣食住は足りても贅沢はまだまだ、これからその夢を叶えようという時代だった。 昭和30年代生活再現展示は、単に人気を博しただけに留まらず、予期せぬ 会話や文章は言葉によって選択された自己が投影する。懐かしい過去を素材とする会話にはさらに美化や賛美が加わってくる。辛い体験や暗い情景はすっぽり抜け、たとえ、あったとしてもそれは自己の現在を肯定する材料となる。回顧に潜む心の深遠を探ると、そこには現実世界における無機的で機械化された日常の「不安」があるという。 今日の流行り言葉でいえば「癒し」をもたらすからであるが、その基盤とな 30年代に生を受けた私が、物心ついたのは40年代になる。その時代でさえ、雨の日は裸足、貧しい弁当を隠すように食べ、鉛筆や消しゴムは最後まで使い切った。家はワラ屋根が多く、隙間風が吹き抜ける暗い照明の下、食卓を囲んだ。比べるまでもなく今の生活が飛躍的に快適で豊かだ。豊かなことは悪いことではないが、豊かさを享受し続ける反作用として「フォークロリズム」が復活する。豊かになりすぎた不幸、豊かになりすぎて失ったものの物語がまことしやかに囁かれ、各自が自己の温存と再構築を果たす。物は沢山あるがもっと良い物や違ったものが欲しい、心の扱いも至れ尽くせりで、さらにきめ細やかさを求める。まことに欲望は限りないものだが、負のベクトルとしての30年代に本当は戻りたくない。現状を維持しながら心や五官を快くくすぐる物事についてのみの懐古なのだ。 自殺、犯罪の低年齢化と凶悪化、モラルの欠如、、、日々の報道に接していると、世も末かと思わせる。「ああ、昔は良かった!」。しかし、それはメディアの魔力というもので統計データでは現在が圧倒的に殺人も自殺も減少している。統計データを短期的に比較したり、10万人あたりでの比較を怠ることで、恣意的に増加の演出がされている疑いがある。 概してマスメディアは当局の発表するそうした数値を、なんら検証することなく 未成年者であれば、殺人を犯しても報道されず、夕方には自宅に帰ることのできた時代であった。セクハラやDVや校内暴力もいまほど取り上げられることはなかったし、伝える作法も現在と異なっていた。今は何を意図してか「心の闇」を解明するといい、時間を割く。結局、相応な病名を付け観察し、類似犯罪が起こったときの解釈材料とする。自殺や殺人の「心の闇」など本人にもわからないし、解かったふうに語る専門家の説明を追認するしかない。心が重んじられる時代は尊いが、心の専門家が跋扈するのは好ましいことではない。心に限らず下世話な物語が一定の様式に沿って演出される。様式とはメディアの好むところのものを指すが、この様式はまさに我々大衆の興味と欲望が反映したものに他ならない。大衆の欲望は大きなエネルギーとなりメディアを動かし、逆にメディアから誘導もされる。これが今と昔の異なる点であり、古き良き時代への幻想の原点でもある。「懐古」は「癒し」に通じ、それは快さをもたらし現実逃避が可能になる。快さを提供するものの一つがメディアであり、実習の場として観光がある。メディアの演出や都会人の幻想で肥大した懐かしい田舎や農村は、嘲弄するかのように崩壊の一途を辿る。すでに農業は成り立たなくなり、後継者も激減し自給率40%のありさまだ。農の営みが延々と続いた村落は、昭和一桁世代を最後に、ここ10年で5000以上が消滅し、まもなく2000もの集落が廃村を迎えるという。懐かしい過去などどこにもないのに、「懐古」は切り取られた非日常として、気まぐれでつかのまの「観光」に資する。また、それを「地域おこしの起爆剤と..」読み違え、辛酸を嘗める人々がいる。 棚田百景など都会人の目から見た田舎の「美しさ」が選び取られ、審美的に |
1974年、医療過疎地の解消という構想のもと、一県一医大の設立が始まった。やがて医師過剰時代を迎えるかのような風潮になるが、2004年から研修医制度が実施されたことで再び医師不足が問題になりつつある。医師はいままでどうり誕生しているが仕事量や医師の偏在が起こっているようだ。大学病院を飛びだし、離島や僻地診療に取り組むヒューマニィティにあふれる医師の実話や物語が人気を博す。こうあって欲しいという願望はいつの間にか、かくあるべしという医師像へと高まるが、医師も人であることに変わりはなく、喜怒哀楽も欲望もある。この隔たりが「墓場」という表現になったものと思われる。 --- 弁膜症手術の経験を重ねさせてやろうと思った。 医師のトレーニングのために、患者を次々死なせていいのか、とマスコミ 上記は、東京医大病院で、ある心臓外科医が弁膜症の手術をおこない、1年で4人も死亡していた事件について教授の発言と、それに対する著者のコメントである。その心臓外科医はバイパス手術が専門で弁膜症の手術経験はほとんどなかったという。医師に限らない、看護師でさえ最初は誰かを練習台にして注射や採血を身につける。自分の手術は「神の手」といわれる熟達の医師にしてもらいたいが、練習台の積み重ねなしには「神の手」は生まれない。その教育、研究の役割を担うのが大学病院なのだ。情報社会のいま、患者の知識も増え要求も厳しくなり、医療ミスの訴えも10年前(約500件)と比べ倍増した。情報開示、説明責任と言い、わずかな齟齬でも謝罪を求める。この対策、対応が仕事増の一因となり、人手が不足してくる。教育・研究・診療の3つの役割を担う大学病院では、研究がもっとも重視され診療だけにエネルギーを注いでおれないのが現状である。患者の期待はしばしば「こんなはずではなかった」と、砂を噛むような思いに変る。 一方、大学病院の医師は医療者として一人の患者を救うことより、医学者としての研究成果によって多数の患者を救い、かつ医学界の評価を得ることを生甲斐とする。しかし、その研究は意外にも治療に結びつかないものが多い。臨床医学の研究は複雑でデータを集めるのに時間と手間がかかるが、基礎医学の研究は実験室的な研究で完結する。このため臨床の医学者も基礎医学の研究に取り組むことが多い。さらに、昔ならば医療の未開拓分野が多く、新しい治療に結びつく論文が書けたが、いまやその余地は激減しているという。 1970年代までは医学者が医療者を兼ねることができた。治療も研究も 研究と診療は全く別の仕事といっても良い、適性も才能も技術も異なる。「患者を診る医療」と「病気を診る医療」という表現で対比されるように、概ね大学病院では後者の傾向をとることになる。本には「医学部が患者を殺す」と、物騒な副題が付されているが、研究と教育に重点が置かれた施設の宿命を象徴的タイトルで暗喩しているのだ。医療事故の報道はとくに扇動的傾向が見受けられるが、航空機事故より低い発生率である。以前は医療ミスと言われるもののほとんどが、患者側の責任に付され闇に消え去っていたのだ。医療に限らない、端的には車の運転をしていてもミスは起こる。むしろ生活のすべての局面でミスはつきものと考え行動や対策を整えるべきではないか。 未熟な研修医が、過度の緊張状態の中で、高度の技術を習得していくの もっともな提案であり理解もできるが、そうは言っても私は補償の対象にはなりたくない。見え透いた嘘でも「万全の対応をとる」と言って欲しいのが患者の本音である。死と引き換えの重篤な状態であれば全てを任せ、後は神に祈るかも知れない。しかし、いくつかの選択肢があり、軽症又は死が差し迫っていなければ、自己防衛として大学病院は避けるだろう。まして検査のための受診など一般病院であっても遠慮する。本では医療の危険から危機へと敷衍する。医療費の増大を抑えようとする思惑とは逆に医療費は年々膨らんでいく。この傾向は今後ますます加速していくに違いない。巨額な借金国家の財政を考えると、これからは優先順位をつけて割り振り、あるときは切り捨てていく必要もあるが、理屈どうりにはいかない。互いの利害を主張し死守し、この先どのような着地点が待ち受けているのだろう。 これまで日本の医療は、曲がりなりにも機能していた。それはわずかな |