【読書録(2)】-2004〜5-


高血圧は薬で下げるな
狂気と犯罪
狂気という隣人
経皮毒
統合医療でガンを防ぐ、ガンを治す
そんな言い方ないだろう
老いる準備 
非常識セラピー
脳はなぜ「心」を作ったのか
主食を抜けば糖尿病は良くなる
糖尿病は薬なしで治せる
不 食 
がん治療総決算
心を商品化する社会
世界は食の安全を守れるか
トンデモ本の世界T&S

<コラム> 楽しい誤読生活のおくり方

毎度、独善に満ちたコラムばかりで恐縮しているところ...新刊が出た。文芸評論家 斉藤美奈子の「誤読日記」。そこには表題のとうり様々な誤読生活の楽しみが書かれている。あふれる出版物の殆どが泡沫のごとく消え、名著として読み継がれるものは稀である。購入して臍を噛むような本が多い中、この能書を読めば読書に変化や楽しみが広がりそうである。<05Jul.30>

  1. 見取り読み:「見取り」とは「選り取り見取り」の「見取り」で、歌舞伎や人形浄瑠璃などでは人気のある場面だけを並べて上演することをいいます。観客の側からいえば「おいしいとこ取り」です。どんな本にも見せ場があります。そこだけ集中的に読みましょう。
  2. 脱線読み:どんな本にも「ここが見せ場だ」な箇所はありますが、そこが必ずしもおもしろいとは限りません。そんなときはレールから降りて、書き手が意図せぬ別の場所を探してみましょう。意外なところに見せ場が隠れているやも知れません。
  3. 見立て読み:本には一応それぞれの所属ジャンルがありますが、指示におとなしく従う必要はありません。発想を変えてみましょう。すると、エッセイが実用書として読めてしまったり、文芸書の思いがけない使い道が見つかったりします。
  4. やつし読み:自分には関係のない本だと思っても、ある立場に「なりきる」ことで楽しく読める場合があります。嫁いびりめいた本は嫁のつもりになって読む..などです。
  5. 鳥の目読み:「この本は何なの」と思ったら、本から目を10mくらい離してみましょう。すると、まわりの景色が目に入り、謎が急に解けたりします。
  6. 虫の目読み:「つまんない本だな」と思ったら、虫眼鏡で気になる部分を拡大してみましょう。すると、秀逸なフレーズが目にとまり、得したような気分になります。
  7. 探偵読み:人はいい加減な生き物なので、1冊の中で矛盾が起きていたり、前半のアリバイが後半で崩れていることがよくあります。探偵ごっこを楽しみましょう。
  8. クロスオーバー読み:1冊でラチが明かない場合は、他の本に浮気しましょう。するとその本の個性(または没個性)が、逆に浮かび上がってきます。
  9. ひらめき読み:その本自体はどうってことがなくても、読書の途中で突然アイデアがひらめくことがあります。インスパイアというやつです。企画開発関係のお仕事に携わる方、一発当てたいと考えている方、果報は読んで待て、です。
  10. カウント読み:同じような言葉、同じような出来事が繰り返し出てくる場合は、数を数えてみましょう。ちょっとしたマニア気分が味わえます。

3.までは普通に行っていることなので納得されるが、4.以降はややマニアックで斎藤氏の発言傾向から察して、著者特有のアイロニーではないかと思う。これこそまさに「斜め読み」である。本を斜めに読んでいるうちに、世の中も斜めに見えてくる。4番以降の楽しみは読書中毒の傾向あり。邪推すると、3つの提言ではあまりに月並み、評論家の意地であとの7つが追加されたのであろう。

高血圧は薬で下げるな! 浜 六郎

生活習慣病への感心の高まりを反映し、体重計の普及率は70〜80%になった。さらに体脂肪測定機が30%、血圧計も30%となっている。以前は体重を健康の目安としたが、手ごろな価格の家庭用血圧計が登場すると徐々に血圧を意識するようになる。体重、体脂肪、血圧という簡便に測定できる数値は具体的に訴えるものがあり、それによる利点も大きいが不安を増幅させたり、わずかな情報で多くを判断する危険性も秘めている。検査が普及する前の医療機関に於いては、体に触れて観察することで病状を察知した。おそらく誤診も多かったものと思われる。血圧計が発明されたのは20世紀初頭、それ以来、血圧値は循環器疾患の指標として君臨することになった。

高血圧は危険であると、今では常識のように語られていますが、このことが分かったのはそれほど古いことではありません。血圧そのものが今日のように測定できるようになったのが、そもそも100年ほど前にすぎません。飛行機の歴史が100年ですから、それよりほんの少し長い程度です。しかも、降圧剤の歴史となると、飛行機の歴史の半分程度に過ぎません。

著者は医薬品の安全で適正な使用を研究・調査・広報するNPO法人、医薬品ビジランスセンターを主宰する医師である。医薬品の使用について啓発されることが多く、著書はできるかぎり目を通している。1964年アメリカで降圧剤についての最初の大規模な臨床試験が行われ、最低血圧が115〜129の患者143人を2群に分けて降圧剤と偽薬が投与された。1年4ヶ月後、降圧剤群では一人の死亡もなかったが、偽薬群では4人が死亡した。また1970年に発表された臨床試験によると、中等度の患者380人を2群に分け5年間で死亡した人の割合は降圧剤群で20%、偽薬群で50%となった。この二つの試験で降圧剤の効果が顕著だったため、以後「高血圧は薬で下げなければならない」「降圧剤は有用だ」という神話が生れる。血圧計を自宅に備え、血圧を測定することで唯一健康の指標と勘違いしている人も多いのではないか。そのため安静時の比較的低いときの血圧を測定し安心する。「血圧は正常だから大丈夫」という言葉は日常茶飯事に行き交うし、ひとたび血圧が高くなると深刻な面持ちで心配し始める。医療機関においても、血圧を測定し、安定させることが治療の基本とし「ず〜っと服み続けなさい」と言って薬を渡す。

1961年国民皆保険制度が導入され、患者は医療機関にかかやすくなり、医師は治療費を心配せずに診療を行えるようになった。豊かになると感染症が減少し寿命が延びはじめる。これに伴い老化や食生活が原因となる生活習慣病が広がり始め、循環器疾患の予防のため多くの降圧剤が開発され治療の主役に踊りでた。降圧剤の適用については高血圧学会がガイドラインを提示する。メタボリックシンドロームの造語とともに、2000年にはかなり低い数値へと改定された。140(上)/90(下)以上を高血圧として135/85未満を目標として血圧を下げるようになった。この基準に素直に従うと日本の成人人口の約半数が降圧剤を服用することになる。しかし、これも甘いガイドラインで、2004年には60歳未満の人の基準をすべての高齢者に適用するという厳しいものになった。

本当に重要な部分にはふれず、降圧剤使用を促進するのに都合の良い材料だけが研究論文として公表されます。さらにメーカーがスポンサーになった雑誌で高血圧の専門家がガイドラインを強調し、学会をあげて推奨しますから、マスメディアもそれを当然のことと受け止めて、宣伝の一翼を担うことになります。

医師が自発的に科学的な証拠に基づいて、市民・患者の立場で医療を考えるというよりは、製薬会社主導の医療になってしまっているのです。

ガイドラインでもっとも効果を得たのは製薬会社と専門家という推測も成り立つ。著者の計算では、これに従うと今までの3.5倍の降圧剤が消費され、金額にして1兆円の薬剤費増になるという。これを無駄使いと一蹴することはできないが、過去多くの無駄使い例があるだけに「おそらくこれも」という予感はある。1993年までの基準では、上が160〜180、下が90〜105を軽症とし、180(上)/105(下)までは特別に危険因子がないかぎり、3ヶ月は食餌療法などで様子をみてから軽い降圧剤を使い始めるというものだった。新基準で血圧を下げると費用の増大とともに4万人も死亡者が発生するという。「そんなバカな・・・」事が起こりうるのだ。血圧を下げることで、末梢まで血液が行き渡たらず組織で栄養障害を来たし、ガンなどの病気を引き起こすという。加齢に伴い、生理機能や抵抗力が衰えて、血液循環も悪くなると...

心臓は送り出す圧力を強くして血圧を上げて、栄養を全身に送り届けよう   とします。ですから、加齢に伴ってある程度血圧が上昇するのはむしろ自然なことなのです。その血圧を無理に薬で引き下げすぎると、どうなるでしょうか。細胞に必要な栄養が届けられないという弊害が生まれる恐れがあるのです。

高血圧の原因は多様を極め、本態性高血圧という原因不明のものが80%以上を占める。原因も未解明のまま、薬で一律に下げるリスクは伝えず「長期に服用しても問題はありません」と言って渡す。医薬分業の利点を叫びながらどのようなアドバイスが行われているか推して知るべしである。医師との人間関係を最優先するような調剤を憂える次第である。製薬会社や専門家が切り捨ててしまった疫学調査や臨床試験をみると、降圧剤の使用により全体の死亡数も、心疾患も増加している。また薬が原因と考えられる事故や自殺などへの影響もあった。医療に於いては有益と信じて行う治療が仇になる例はしばしば見られるが、降圧剤はその代表的で大規模なものだ。「放置する」という選択肢は必ず意識の隅に温存しておくべきである。

若くして高血圧になった人の危険度は比較的高いといえます。下の血圧で見ると、循環器の病気は80〜90以上で増えていきますが、死亡率全体で見ると100以上になってからはじめて増えます。

とくに70歳以上では、上が160〜180、下が90〜100程度でも降圧剤はまったく不要で、無理に血圧を下げるには及ばないことは確かです。70歳以上の高齢者でも、とりわけ女性では厳しい基準は不要です。なぜなら、実際、NIPPON研究では、最大血圧が160〜170の人は110〜119の人に比べて、循環器死亡はむしろ少なめだからです。60歳未満、あるいはもっと年齢が若くても、自立度を考えると180/100程度までは、降圧剤の治療は不要かつ有害です。40歳〜50歳代でときに180/100程度の値が出たとしても、すぐに降圧剤を飲むのはやはり不要かつ有害でしょう。それよりも前に、ストレスや睡眠不足、食事(塩分)、運動不足など、日常生活の中にある血圧を上げている要因を探してください。心当たりのあることが必ずあるはずです。それを改善していけば血圧は自然に下がっていくでしょう。慌てて薬を飲む必要は絶対ありません。

「絶対に」とまで念をおす自信が私にはないので長い引用になったが、これが実行されたなら殆どすべての製薬会社と病院が迷惑を蒙るだろう。無駄や無用の上に世の中が成り立ち動いているのは仕方のないことかも知れない。著者は薬ではなく生活習慣の改善を訴える。肥満の解消、食事の改善、運動、睡眠、入浴...そのなかで深呼吸の効用がひときわ目を惹いた。深呼吸をすることで酸性に傾いた血液に酸素を補給し、正常な弱アルカリ状態の血液にしようというのだ。深呼吸の効用は納得できるが、酸性、アルカリ性体質などという概念は代替医療特有のものだ。データをならべ数値を読み解き、evidenceに基づいての論考を進めておきながらその対策を感性に訴えるところが面白い。ともあれ深呼吸が有効なら費用も要せず簡単なことだ。是非実行してみたい。すでに降圧剤を服用中の人は、急にやめると急激な血圧上昇がおこる危険があるので、時間をかけ、血圧値を観察しながら行う。数ヶ月、半年をかけて減量または廃薬する。降圧剤はひとたび服み始めたら一生服まなくてはならないという神話は一笑に付される。しかし、ストレスを避け理想的な養生のできる人ばかりではなく、できる人はむしろ少数派であろう。では、できない人のために医療は何をなしうるか?降圧剤の負の部分を切り捨てた業界や専門家の見解もまったく無視すべきものではない。統計で議論する医療と個々の患者に対処する医療は同一のものではない。降圧剤を用いて頭痛、めまい、耳鳴りなどの症状が改善するなら統計を無視することもありうるのではないか。

 

狂気と犯罪 芹沢一也

「心」の文字が踊る昨今、何につけ心が最優先される風潮は好ましくもあり、恐るべきものでもある。心には思い切り良く代価を払い、そのことに疑いを抱かずにいるのかも知れない。冷酷、非情という批判には人格をも否定する重い響きがあるが、ときとして、心を排除し事実だけをみる必要もありはしないだろうか。著者は精神医療と犯罪の歴史から論を起こす。「犯罪者の理解が至上命題」と現状を分析し、これによって逆に精神障害者を社会から、法から「排除」してはいないかと疑問を投げかける。

犯罪と「狂気」の関係が、犯罪を行った人間をこえて一般化されるのだ。犯罪と「狂気」の関係はもはや偶然ではないとされ、そこに普遍的な因果関係が捏造されてしまうのである。

悪性とは「狂気」である。これこそが 精神医学が作り上げた最悪のフィクションだった。そして、精神医学が「狂気」の歴史において行った、間違いなく最大の「仕事」だ。

常軌を逸した犯罪について、心理学者や精神科医のもっともらしい解説は毎度のことである。生育歴まで交えて、滔々と心理や性格について語り始める。「再発防止のために」という大儀名分をかかげ分析は続けられるが、類似の犯罪は後を絶たない。やがて病名らしきものが出てくると「ああ、またも被害者は泣き寝入りか..」と歯がゆい思いをさせられる。被害者の心は置き去りのまま、犯罪者への理解や保護を手厚くする。「犯罪を犯すのは人ではなく狂気であり、人に罪はない」

近代の法の世界における「狂気」の地位は、「人道主義」と「動機の理解」という営みの中でかたちづくられる。そしてここに精神医学が介入するのだ。人道主義を掲げて「狂気」を診断する専門家として。

犯罪を罪としてではなく狂気の発露として、その原因の理解に努める。鬼畜の所業に対して、まず犯罪者の性格を考え合わせ刑罰を決定しようというのだ。「狂気」を診断出来るのは名実ともに精神科医をおいて他にない。犯罪という客観的な事実に対し、性格の判断は目にも見えず混沌の闇である。実際のところ、精神鑑定は医師によって統一が取れているとは言えず、医師自身の恣意が大きなバイアスになる。ひとたび病名が決定すると、それは法律で裁く前に重い裁きとなる。重大な犯罪者であっても「無罪の精神障害者」となり、司法の場から排除され、報道から名前が消され社会からも排除される。真に法律の専門家である裁判官が罪を裁くまえに、門外漢の精神科医が裁いてしまうのだ。犯罪者ばかりではない、被害者もその遺族も司法の場から排除され、犯人を知ることからも排除される。無念の遺族のもとへと別の心の専門家が「心のケアー」に出かけてゆくなら、業界ぐるみで需要と供給を生み出していると言わざるを得ない。

法の世界に現れた法律的ではないものの起源とは、いうまでもなく人間の「矯正」というところにある。近代の刑罰が犯罪者を矯正するという意志をもったとき、そこに人間に対する関心が生まれたのだから。そして、そのような意志を支えているのは医学的処方なのだ。つまり犯罪者の人格の理解とはその「診断」であり、人格の矯正とはその「治療」だ。われわれの刑事裁判は、医学的なものに侵食されているのである。だからこそ、法廷や刑務所には精神科医や心理学者といった、法曹以外の人間が紛れ込む。

刑罰には罪を償うことのほか隔離による社会防衛上の意義がある。ここに「矯正」「治療」という意志を持つ医学が介入すると、司法の世界が侵食され始める。社会からの隔離という意味では刑務所も病院も似ているが、すでに述べたように目に見えない心の診断は困難を要する。そのため危険性の少ないものまで隔離される可能性は十分にある。人道、人権、性格の理解はこのような人々のためにこそ向かうべきなのだ。また、狂人を装うことで死刑台が遠ざかるなら..生きて医療施設に隔離されることを選ぶ犯罪者がいるかも知れない。「憶えていない」「知らない間に」「ついつい..」と、言い逃れる犯人のなんと多いことか。

隔離が必要だったものを治癒や軽快の判断で世に放ち、取り返しのつかない命を奪う事件が幾度となく繰り返される。これが専門家といわれる人々の現実なのだ。つまり、人の性格の判断や理解は専門家を以ってしても困難なことだ。事件の後、狼狽しながら適当な説明で濁し、人道、人権のもと再び手厚く保護する。精神科医が人道、人権の流れに乗ったのはなぜか?著者によれば、それは精神病院を作り出すためだったという。精神障害者の危険性と人道上の保護を煽り立てる事で病院は飛躍的に増加する。明治8年に日本で最初の精神病者の隔離施設が出来るまでは、自宅で監禁が為されていた。明治12年には「東京癲狂院」が設立され、明治に19院、大正に29院、昭和に入って92院の精神病院が作られた。

戦前までの病床数はせいぜい2万床であったが、戦後になって急速に増え現在は34万床にまでになった。昭和25年に精神衛生法が制定され、精神病院への法的、公的援助が活発化し民間の精神病院にも国家の融資が行われた。措置入院に対する国庫負担、施設やスタッフに関する優遇措置、また医療特例として、一般病院の1/3の医師と2/3の看護者で良いとされた。ひどい話だが、200〜300人の患者に実質医師一人というのを聞いたことがある。これを可能にしたのが渡りに船、向精神薬【注】の登場であった。それ以降、薬物療法が中心となり、精神科医療は医師であれば特別の訓練もなしに出来るような風潮が広まり、儲かる診療科となる。昭和20〜30年代にかけて新設された精神病院のうち精神科医によるものは全体の1/4に過ぎなかったという。これが診療に及ぼした影響や司法に侵出していったことを考えると悪寒を催す。

たとえば、日中、職場や学校に行かずに家にいる、それが、長期化すると家族も持て余すし、近所の目も気になってくる。困った家族が精神科の医師に相談すると、わずかな症状を理由に様子をみるためと称して入院させてしまうといった例もあるのだ。

司法ばかりではない、既にご存知のように学校や職場、テレビへの侵出も著しく「心の時代」と言われるほどになった。ある業種が認知されると次に、その職域と地位を拡大する努力が払われる。人権真理教と揶揄されるほどに「人権」を錦の御旗に掲げ勢力を誇示する。心の診断は専門家でも困難を要し、とくに漸進的な精神病者と健康者との境界は曖昧なものだ。健康産業は業務拡張のために「不健康」という概念を生み出した。同様に、行きつ戻りつ揺れる健康と半健康の状態を病気としておくことでマーケットを確保する。とりあえずそれらしき精神医学の用語を付してメニューに組み込む。しかし、これが狂気認定の窓口となるなら人道主義から始まった隔離や排除は、人権侵害の危機を胚胎するものとなる。危険な狂気とそうでないものの判断は明確にいかないが、経営上も悪くはないので、とりあえず網羅しておこう。邪推はしたくないが、心の専門家が新たな「心と社会の問題」を生み出しているように思えてならない。犯した罪は誰の目にも明らかで判り易いが、心を言い始めると際限なく迷路、隘路へと進み目印まで見失ってしまう。心とはそれほど捕らえにくいものだ。精神科医の仕事を思うと、敬意を表すると共に困難さに同情もする。一方、法の専門家より先に、心の専門家の下す「無罪」判決で、やり場のない苦悩を抱えこむ被害者は、どこで救われるというのだ。

【注】精神科の処方内容を見ると殆どが複数の精神安定剤(トランキライザー)である。これは長期、大量、多種の服用により習慣的使用から抜け出せなくなる。トランキライザーにはメジャーとマイナーがありマイナーは比較的作用が穏やかで、軽い不安や不眠やイライラのとき投与される。化学構造から分類するとベンゾジアゼピン系の薬が多く、この系統は細かな構造の違いはあってもすべて、抗不安、鎮静、催眠、筋弛緩、抗痙攣の作用を持っている。これらの薬にそれぞれ安定剤、鎮静剤、睡眠剤などの呼び名を与えているに過ぎない。「これは安定剤」、「次は鎮静剤」、「最後は睡眠剤」との説明で服まされるうちに昼間でも眠くなり、判断力は衰え境界を越えて本物になった人は多い。

 

狂気という隣人 岩波明

新聞やテレビで伝えられる悲惨な殺人事件、人たるものどこまで残虐になれるのだろうか。犯人に対し「鬼畜にも等しい」と最大限の侮蔑をこめて評するが、怒りや恐怖も覚めやらぬうちに犯人の名前は伏せられ「精神鑑定」の文字だけが空しく残照を留める。いかに心の病とはいえ犯した罪は何処へ行き、無念の死をとげた人や遺族の心はどうなるのだ。世の中には不条理な「やられ損」ということが往々にしてある。それに比べ犯人の保護のされようは手厚い。著者は精神科医として、精神疾患を持つ犯罪者のレポートを掲げ問題を提起する。一般に殺人鬼といわれる犯人を、著者は、○○さん、○△君と敬称つきで紹介する。

臨床的には、確実にPTSDと診断できる症例はごくわずかに過ぎません。患者の数としても、日本全国で数百人にも満たないものです。これに対して精神分裂病が総人口の約1%、うつ病患者は少なくともその3倍から5倍の患者が存在しています。すなわち、合わせて数百万人の患者がいるわけです。精神分裂病では軽症例もみられますが、重い精神症状と生涯折り合いをつけていく必要のあるケースも少なくありません。うつ病では本文中に述べたように、自殺の危険が極めて高くなります。うつ病患者の少なくとも10%は、自殺によって亡くなるのです。

100人に1〜5人の割合で、何らかの精神疾患があるという数字である。交通事故の発生件数がほぼ100人に1件なので1〜5人といえば相当の数になる。精神障害者の刑法犯は年間約2700人(発生率:0.27〜1.35%)ほどで、殆ど99%の精神疾患は犯罪とは無縁である。また、事件や事故のたびに叫ばれるPTSD(心的外傷後ストレス障害)が意外に少ないことに驚く。PTSD=「心の専門家」という図式が何故、流行語のように蔓延したのだろうか。神経症(ノイローゼ)も精神病も心の病と思っている人が多いかも知れない。しかし、精神科医が扱うという共通点を除くと様相は異なる。神経症は「心の病気」で「精神病は脳の病気」なのだ。神経症は激しい情動や不安を覚えたとき誰しも少なからず起こり得るし、その病状も納得しうるものだが、精神病は本人も周囲もその心の内容を図り知ることができない。神経症が程度の問題であるのに対し、精神病は別世界の問題なのだ。

つらい苦しい状況、あるいはショッキングな出来事が原因で、人間は精神病に罹患するということはありません。

「精神病」と呼ばれるような重症な状態は、ストレスフルな身の回りの出来事によって形成されるわけではありません。精神病に対する多くの「心因論」的解釈は、大部分誤っています。

現在では遺伝的に中枢神経系の脆弱性を持った個人が、何らかの別の因子を誘引として症状を発現するという考え方が有力です。

体の病気ならば、人格や行動に影響を及ぼし、たとえ反社会的であっても他の病気と同じように、病気として見て行こうというのが著者の立場である。犯人を”さん”、”君”で紹介するのはその表れであろう。患者を殺人犯として憎悪のうちに診療を行うことはできにくい。医師たる職業の聖職性を感じさせるところである。後で自殺についても言及するが、医師の自殺率は一般より高く、精神科医はさらに高い。自殺率だけでなく精神病や神経症の発病率も高そうな気がする。ガンの専門医がガンにかかるように...医師という仕事の厳しさに敬服する。

わずか50年前まで、日本には病院らしい精神病院はほとんど存在していません。当時の病床数は、現在の3%以下で、1万床にも満たないものでした。

50年前には患者たちはどこにいたかというと、個人の住居に造られた「座敷牢」に閉じ込められていました。座敷牢は驚くべきことに昭和25(1950)年の精神衛生法施行まで公的に認められた存在でした。

現在は心の専門家として確固たる地位を誇っているが、精神医療は長い暗黒時代が続いた。人たる姿を留めながら家畜のごとく閉じ込められた人々の中には神経症も含まれていたかも知れない。このような時代を経て、精神医療に大きな革命をもたらしたのが1951年に開発されたクロールプロマジンである。外科医ラボリによって精神的に落ち着く作用が確認され、1952年パリの精神科医ジャン・ドレーとピエール・ドニカーが8人の精神分裂病患者に投与し効果を証明した。それ以来精神病院の情景は大きく変ったといわれる。それでも、普通の病院ではあまり見かけない光景が繰り広げられる。屈強な男性看護師が数人がかりで押さえつけて安定剤を注射する。時には電気ショック療法を行う。粗暴で動機も希薄、罪悪感もなく、犯行の実感もなく人を殺す患者。これが「内なる声」や「命令」と言う幻聴で遂行されるのだ。精神病であれば「罪は問えない」そのため病院に渡したが最後、警察は全く関わりあわなくなるという。社会防衛の観点からも、入退院を繰り返し、殺人などの検挙歴があれば隔離措置は講じられるべきだと思う。事件が起こってからしか動けない警察は頼りにならない。殺人事件に関わる精神障害者の割合は一般の3倍くらいだという。明日はどこで起こるとも知れず、「病を憎んで罪を憎まず」という綺麗ごとで済ますわけにはいかない。制度的に保安施設を設け治療や管理が為されたとしても、他人を病院や警察に突き出す行為はむしろ非難されることが多い。不審な隣人や知人に気付いても「われ関せず」でいるほうが最も賢明な処世術なのだ。

わが国における自殺者の増大に対する対策は行政レベルにおいても、医療レベルにおいても、ほとんどと言っていいほどとられていないのが現状です。むしろ自殺の増加は放置されているというのが的確でしょう。

「腹切り」の長い伝統のためなのか、自殺を礼賛し美化する心性も存在します。

他への暴力ばかりではなく、自傷もあある。その最たるものが自殺であり、交通死の3倍の数に上っている。これは精神障害者に限らず様々な悩みを抱えた一般の人々が圧倒的に多いと思われる。命半ばで生を絶つ人々の心中を察するとやりきれなさだけが残る。いまのところ自殺抑止の有効な対策は殆どなされていないという。「死んではいけない」と言う呼びかけやカウンセリンで解決される問題ではない。古来から日本では死を美化する傾向のあったことは否めない。不況型や不祥事の責任完結型の死においては、死を悼む反面、肯定的にとらえる心情も否めない。この国民性と「われ関せず」の処世術がみなぎり放置され続けるのかも知れない。

 

経皮毒 竹内・稲津共著

筆者らはこの経皮吸収によっておきている現象を「経皮毒」と呼ぶことにしました。皮膚から吸収されやすい化学物質は、日用品の中に多く存在しています。毎日使用する日用品からの有害な化学物質が私たちの体を蝕み、それが子孫にまで及ぶとしたら、私たちの責任は重大です。ダイオキシン、鉛、水銀、合成界面活性剤などの化学物質は、確実に人の健康を損なっています。「自分の健康は自分で守る」が基本ですが、そのためには正しい知識が必要です。

ダイオキシンの経口吸収は有害どころの話しではない。即、死にいたるほどの猛毒で、微量でも強力な発ガン性を持っている。添加物は通常用いられる分量では肝臓で解毒可能なため直ちに危険は発生しない。鉛、水銀などは環境中に存在する以上、何らかに紛れ取り込んでいるはずである。合成界面活性剤とは洗剤のことで、これを服用することは考えられないので、接触することで皮膚から吸収されるかも知れない。薬の軟膏剤や他の外用剤は皮膚や粘膜面から成分を吸収させて薬効の発現を図る。皮膚から吸収された成分は血管、リンパ管に入り体を循環するが、一部は皮下に残留するという。残留した成分はやがてゆっくり排泄されるが、さらにその一部が残留・沈着を繰り返し蓄積し...ついには経皮毒として被害をもたらすとの主張である。

胎児や赤ちゃんは吸収しやすく、成人でもケガの傷口があれば吸収されやすく、体の部位によっても以下のように吸収率が異なる。頭3.5倍、手のひら0.83倍、あご13倍、脇の下3.6倍、性器42倍、かかと0.14倍、、、薬学出身の筆者だけに薬品名や薬学の用語がいたるところで用いられている。私は研究者ではないので事の真偽を正すことはできないが、代わりに彼らの「知識」を参考に勝手な感想を申し述べたい。

  • シャンプー・リンスに含まれる環境ホルモン物質が婦人病に影響を与えているとすれば、妊娠中の胎児への影響も懸念されます。実はこれが一番恐ろしいことです。近年、出産にまつわる事故、不妊症、早期出産、奇形児出産、死産が多発しています。
  • 近年になっていわれているのは、母親の胎内にいるうちから化学物質の汚染を受けるため、先天的にアトピー性皮膚炎の障害を有して産まれる子どもも多いのです。
  • 歯磨き剤には研磨剤、香料、製品によっては着色剤が使用されています。これらも発ガン性やアレルギー反応を示すものが多く、粘膜吸収される可能性が高いので障害が出る危険があります。
  • 近年増加している子どもの多動症(落ち着きがなく、注意力散漫で、キレやすい)は脳神経系の異常からきているといわれます。その一因として家庭や学校で使用される殺虫剤の毒性があるのではないかといわれています。

手ごろな数箇所を列挙しただけだが、延々と経皮毒への警鐘が続く、衣服の繊維や医薬品の添加物、プラスチック容器や食器、食品、化粧品、アルミ鍋、芳香剤...電磁波や放射線や最近問題のアスベストがなかったのが残念だった。これが、皮膚から毒性を及ぼすというのだ。真剣に読んでいると、宙に浮いて暮らすしかないような状況である。では、あなたたち筆者も含めて私たちはどうすれば良いのだ・・・化学物質は買わない、使わない、作らない、と言う。極力使用しない、使用を控えるという表現ではあったが、それに異論はない。危険は遠ざけるに越したことはないからだ。そして経皮毒をなるべく早く排泄させ抵抗力をつけるためには、健康な体を維持することが最も有力な手段だという。

  1. 食事のバランスをとる
  2. 「マゴタチワヤサシイカナ」の11品目を目標に
    マ:まめ、ゴ:胡麻、タ:卵、チ:乳、ワ:わかめ...以下略
  3. 日本人に合った食生活を心がける
  4. 栄養バランスは桶に似ている
    プロテインスコアーを桶に模して..
  5. 栄養価の高い野菜を積極的にとること
  6. 食物繊維で有害物質を排泄させる

秘策でもあるのかと思ったが、意外にも常識的な対策に驚く。これくらいなら..いや、これ以上のことを知っている人は多いというのに、、、と、がっかりして次の項目を読むと、サプリメントを活用する(栄養バランスを補うために)が続いている。「○○には△×が必要」というありきたりの解説である。色鮮やかなサプリメントは着色料ではないのか?保存料や錠剤をかたどるための添加物はないのか?成分は石油を原料としたものではないのか?微量の挟雑物はないのか?疑問を正しているのではない。皮肉っているのだ。利口そうに論を進めながら、どこかで間の抜けた行動をとるのは自然派や食養家に見られる傾向だ。一人一人の自覚と知識が大切だというならば、まず筆者から化学物質を使わない、添加物を摂取しないという矛盾のないアクションを起こして欲しい。確かに被害をもたらす毒物は溢れている。これらを利用することで生活を維持しているならば、やめることで半世紀も前の生活に後戻りができるだろうか?50年前の1950年、世界の人口は25億人、2000年には2.4倍の61億人に増加した。そして50年後には91億人の人口が予測されている。人類一人一人が幸福で飢えない生活を送り、時には楽や贅沢もしたい。もし、文明人が経皮毒で50年しか生きられないとしても、飢えで亡くなる国の人々が50年生きられるなら神はどちらを選ぶだろう。

汚れを落とす石鹸や歯磨きを作らないなら、我慢するか、代わりのものを探すかしかない。それを天然素材だけで賄いきれるだろうか?ネギ1本さえ作れない都市住民の為に、病害虫を駆除し生産性を高める農薬を用いる。食中毒の予防や品質保持のために保存料を用いる。そんなものは一切使わず安く大量に食を供給できるだろうか?経口でも稀にしか報告されない害を、経皮毒という用語で普遍的な事実のように記述する。経口よりはるかに吸収が落ちるので「蓄積」して濃度を上げて話しを面白くする。好ましくない情報がより利益をもたらす業界のひとつが健康産業である。負の情報を次々に発信していくことが繁栄につながる。幸い本には販売店など書かれてはいなかったが、本気で信じた読者はサプリメントを求めるかも知れない。総じて、今まで出版されたパニック物の健康図書の総集編とでもいえる内容である。知っている人は知識の整理に、知らなかった人は入眠剤としてオススメできる。途方もなく実現困難な提言は意欲を削ぐばかりか、ストレスの元になる。

【注】コラムを書き終えてから別の書店でこの本をみかけた。見かけたのはビジネス書のコーナー   であった。この本と一緒にニュー○○○○の本が並べられていた。やはりそうだったのか?学者も空気を食べて生きているわけではない。誰の言葉か忘れたが「胃袋は正直にものを言う」

 

統合医療でガンを防ぐ、ガンを治す 星野泰三

日本の死因別死亡者数によるとガンで約55万人、心疾患・脳卒中で約55万人とほぼ同数である。統計上は心疾患と脳卒中は分けられているが、病理は似ているので一緒にしても許されると思う。心筋梗塞、脳梗塞、脳動脈瘤...などでの突然死や予後の悲惨さを考えると、ガンより恐るべきものがある。家族との別れ、死の準備も整わぬまま、ある日突然旅立つよりガンのほうがまだ余裕のある死を迎えられる。余裕は病人にとってつらい時間かも知れないが、残される者への配慮や残した仕事を考えると苦痛と同等の満足感も得られるのではないだろうか?しかし、何ゆえガンはこれほどまでに恐れられ、最悪の「死病」とされるのだろう。食も環境も医療も十分でなかった時代、または現代でもそのような地域において、多くの人々が感染症で命を奪われている。感染症からガンや循環器疾患に恐怖の対象が移ったのは、豊かさの反証でもある。脂肪や蛋白の過剰摂取によって痛めつけられた体が老化とともに静かになにかを訴え続ける。大病もせずに健やかに老い、平均的な死亡年齢から10〜20年ほど長らえ、やがて眠るように苦しまず旅立つ。これが、誰もが抱く「幸福な死」のイメージではないだろうか。

健康な時の「幸福な死」のイメージなど実際の死に直面すれば脆いものだ。伝統的な信仰が失われ来世を信じる事が出来ない今、不安は増幅される。ある日、忽然として起こる体の不調に、まずガンを疑い、心疾患や高血圧を疑う。循環器疾患は若い人にとっては無縁と考えられる面があり、もしそのような事態になれば薬で血圧や体調をコントロールし、食事や運動を心がければ回避できるような説明が為される。しかし、ガンはそうはいかない、年齢に関係なく、むしろ若い人ほど深刻なガンを発症しやすい。正常細胞がガン化するという病理学的に特殊な性格を持つもので、治療も確実なものがあるわけではない。また、短時間に命を失うものではなく、ゆっくりだったり、時に足踏みもある。その間の不安、不調に患者は長く留め置かれる。

豊かになったいま、些細な健康不安にさえ消費行動が起こる。ガンの予防や治療は、医者、治療家、健康業界にとっての「糧食」と言えなくもない。循環器疾患の恐怖を煽り予防を提言するより、ガンのほうがはるかに痛切で説得力がある。善意の情報も、悪質な情報も、デマ情報も、すべて業界ぐるみで啓蒙し続け形成されたものが、私達の抱く「ガン」のイメージである。Netを検索してもガンという言葉のヒット数は循環器のそれを一桁も二桁も上回る。正当な情報とともに怪しい情報のなんと多いことだろう。代替医療や健康業界は殆どがガンを謳い文句として領土拡大を図る。そのなかで、「ガンを防ぐ、ガンを治す」ことを高らかに謳う、まったく新しい統合医療とはなにか?代替医療、ホリスティック医療、非通常医療、補完医療...とどこが違うのか。

生活習慣や食生活、精神状態にまで目を向け、患者一人ひとりの考え方まで含めて個人差を重視し、その人の病気にとって最適な医療を見つけて提供する。現代医学と東洋医学の利点をただ加算しただけの東西融合療法や中西結合医療、さまざまな療法の寄せ集めから「いいとこ取り」した療法とも異なる、まったく新しい医療体系だ。

この先生は「いいとこ取り」のなにが不満なのだろう。まさか悪いところも「取れ」というのではあるまい。医療に関わる人ならば、患者を人として扱いまた最善の対応をする訓練は積まれている。分析的で数値、画像を重視する方法論が非難されるのはおかしい。それこそ西洋医学が累々と積み上げてきた成果なのだ。「いいとこ取り」をけん制しつつ、あらゆる療法の利点を寄せ集め、衒いもなく「いいとこ取り」をするのは誰なのだ。宣伝は出来るだけ目立つほうが良い。「まったく新しい医療体系」の看板はいたるところで目にする。患者の個人差を重視し最適な医療を提供する。と言うなら、最適な医療を提供していない医療があることになる。著者によれば、西洋医学であり、他の代替医療と言う。殆どの人々が、多くの病気を西洋医学のもとで治し、そこで十分でないものについて一部の人が代替医療を模索する。圧倒的多数の人が恩恵を受ける西洋医学は「治って当然」という期待が高く、治らなかった症例やミスが際立って報告される。これに比べ代替医療は希少な成功例や自然治癒までが有効と評価される。この溝は大きく深く、正しく検証するなら代替医療は西洋医学に及ぶべくもない。この認識のもと守備範囲を守れば代替医療の役割は大きい。

代替療法家には排他的な人が多い。西洋医学はもちろん、ほかの代替医療の論文も読まなければ、書きもしない。自分が代替療法に入るときに身についた知識で満足しているから、自分にとって耳障りのいい人たちとしか接しようとしない。

西洋医学を嫌って代替医療に移ったという人ばかり。それでも西洋医学を10年くらい経験してから移行したというのなら問題ないが、なかには研修医時代に西洋医学をきちんと勉強しないまま代替医療に移った人もいて、空恐ろしくさえなった。

空寂しい批判である。動機は大切かも知れないが学問に年数や論文や交際まで取り上げるなど見苦しい。私は仕事上、代替医療家の言葉に何度励まされたか知れない。稀には近寄りがたく嫌悪する人もあったが、概ね好感の待てる人が多かった。一般論として統合医療にも、西洋医学にも、、、そして周囲にも自分の気に召さない輩は一定数いるものだ。「西洋医学をきちんと5年以上続けている医師であれば、多くの代替医療は半年ほどで習得する」と著者は言うが、医学の素養がなくても多くの代替医療は半年ほどで習得できると私は思っている。実際にそのような人を知っているし、代替医療そのものが民間療法をベースにしているので難しいものではない。難しいのは、難しく考える治療家なのだ。だからと言って安穏としたものではない、物事には職として追求した人しかたどり着けない境地もあるのだ。

統合医療の目的が、自分の自然治癒力を高めることだというのは話したが、そこで欠かせないのが免疫力の強化だ。人間の健康は「免疫」を頂点として、「内分泌系(ホルモン)」「自律神経系」の3つが互いに連携し合って維持されている。

やはり出てきた「免疫力」、この言葉が出てくるようでは、ことさら「新しい医療体系」でもなさそうだ。血行障害、気の不調、ストレス、、、飛躍するが、因縁、運命、霊...これらとどれほどの違いがあるのだろうか?免疫や自律神経という言葉がどれほど適確に明確に用いられているというのだ。原因不明の病気に付する自律神経失調症、病気の原因を問われ答える「免疫力の低下」、、、科学的根拠のある免疫治療もあれば、得体の知れない情緒的な免疫治療までその幅はあまりにも広い。裾野はテレビ番組の食品特集まで広がりを見せている。この本でもゲルマニウム、アガリクス、サメエキス、生姜に玄米、みそ汁までが登場する。このあたりから読書の意欲を失ってしまった。「まったく新しい医療体系」は温故知新「古い医療体系」のなかに見出すという主張だろうか。多くの代替医療やスタッフを結集すると、費用負担も大きくなるし治療理論の異なる療法同士の折り合いも必要になる。著者はこのことを「船頭多くして船進まず」と冒頭で述べている。似たような慣用句に「船頭多くして船山に登る」というのがある。

 

そんな言い方ないだろう 梶原しげる

本の帯には「ことばの生活習慣病患者」が急増中!と書かれている。心や体だけでなく言葉にも癒しが必要なのか?美しい日本語、正しい日本語と言っても言葉は時代と共に変遷をたどってきた生き物であり、これからも変わっていくだろう。日本語が乱れているといわれて久しい。古くは清少納言が「枕草子」の中で若者の言葉の乱れを嘆いている。近年指摘されるのは「ら」抜き言葉や「さ」入れ言葉などがある。著者はこれらと共にさらに多くの不快な言葉を取り上げている。不快な言葉は全年齢、性別を問わず見られるものだ。

言葉の問題、しゃべり方の問題で難しいのは「正しい」「正しくない」とは別の基準があるということです。

日常生活の中では往々にして「あの人の言い方が気に入らない」「あいつの口癖がムカつく」ということがあります。正しいと思い込んで使う間違った表現、相手をカチンとさせるものの言い方、無意識に繰りかえす言葉癖。気がつかぬまま使い続けていると、初期には「変な言い方をする人だな」程度の評価で済んでいたものが、「ちょっと頭の悪い人」呼ばわりされるまでに病状は悪化し、最終的には社会的な死の宣告とも言うべき「相手にしてはいけないバカ」との烙印を押されるにいたります。

「バカ」とか「社会的死」というのは明らかに感情的で、行き過ぎた表現ではないか。長年アナウンサーとして培った経験の質が問われる。最近、このように品性に欠ける言葉を連発する書物やテレビ番組が多く、憂える次第である。言葉はまさに世相や人格を反映するものだ。いくらか長生きをした分別や知識のある人々から、自分の不快を即、日本語の乱れとする意見には与しない。著者は「言葉の生活習慣病の定期健康診断を!」と提言する。言葉は生き物である。語る言葉や語調それにともなう動作によってコミニュケーションが成立する。とりあえず言葉が通じることで目的の一つを果たすが、やはり、不快な言葉や発音や態度はあるし、いつ自分がそのような失敗を犯すとも知れない。読み進むにつれ言葉を生業とする人々の嘆きも理解できる。

著者の主張とは質を異にするが、とりわけ政治家、官僚の言葉ほど空虚で不快にさせるものはない。慇懃であったり尊大であったりしながら巧妙に立ち回る様は一流の日本語使いと言えるだろう。また、スポーツなどのインタビューで、アナウンサー、選手双方にみられる言葉の齟齬と貧弱さ。いまではスポーツ選手もインタビュー応対の訓練が為されるようである。高校球児までもがプロ選手のように話すのを聞くと、スポーツは着実に地位と名誉と金を獲得しつつある事を感じさせる。学生運動に明け暮れた世代は、いまや夜毎スポーツ観戦に熱狂し気炎をあげる。

発音で気になるのは、グルメ番組にみるお決まりの感想と、顎が抜けたような「おいスぇ〜」「おいセぇ〜」などの奇声。これは著者によると、「い」の母音は口角を最もつりあげ舌も奥へ引っ張りあげなければ発音できない難度の高いものだ。その結果「い」を「え」に発音してしまう。とくに若者は生真面目に発音す態度に抵抗を感じるからと分析する。「ダサイ」とは私もかつて使った言葉であるが、もはや死語で、今は「ダッセぇ〜」というらしい。どこかで大人の振りをしたがりつつ...既存のものや社会が期待する価値観への抵抗が若者語やタメぐちに見られるのかも知れない。生真面目に地味に生きていくことが照れ臭いとでも言わんばかりである。

生活習慣病が食や環境と関わるように言葉も世相や衣食住の環境を反映するものであろう。政治家や官僚の意味不明な発言は政治や行政に対する不信を、スポーツ選手の演出に満ちたコメントは熱狂を促し、乱暴な言葉はそのまま乱暴な行動や犯罪を暗示し、曖昧な物言いは不安な未来や時代を予感させる。と、言えば、根拠のない妄想かも知れない。意味不明どころか発音さえ聞き取れない若者の言葉については家庭や学校での教育にも問題がありはしないか。3歳から英語の絵本を読ませる前に、日本語を正しく伝えることが先であろう。ことは次の世代に及ぼうとしている。敬語すらまともに話せない小学生に英語を教えてどうするのだ。「中学からでは遅すぎる」という脅迫を武器に肥大する業界がここにもある。子供に理解がありすぎ、豊かになった余力が至れり尽くせりで、どこか間の抜けた教育に向かう。敬語などマニアルを身につければ間に合うことだ。にもかかわらず敬語の訓練ができない。社会生活を営む上での言葉のルールは仕事にも行動にも思想にも関わってくる。

私が若者だった頃、年輩の人から「今の若者は、敬語ひとつロクに使えない」、「なんだ、あの言葉は、格好は」と言われたものだ。同じことを雑踏を行き交う若者に感じている。「私達の若かったころはもう少し...」と、ぼやく。古いものに快適さを感じる年齢になってしまった私達?伝統を守る、自然を保護する、スローな生活、街の景観、、、きっと若者はこれらのフレーズに鼓舞されることはないだろう。開発、発展、、という若者の時代を走り続けた日本はいつの間にか下り調子に変わってしまった。若者が減り年寄りが増えつつあるという統計が世相に反映する。言葉が生き物であるなら、さらに試行錯誤を繰り返し変遷していくだろう。なるようになるのが世相であり言葉である。次の時代を嘆くのは杞憂かも知れない。かく言う私の会話もメールも、webページも、どうやら言葉の生活習慣病に犯され虫喰いだらけだ。これからこの修復が新たな仕事として加わることになる。(^^ゞ..幸い本には3分間でマスターする敬語教室が開かれていた。

【敬語の基本7原則】

  1. 目上は「おっしゃる」自分は「申す」
  2. 目上は「お(ご)〜なる」自分は「お(ご)〜する」
  3. かかってきた電話に出るときは「もしもし」ではなく「お待たせしました」
  4. 不在の身内について尋ねられた時、何かと便利な「〜中でございます」
  5. 自分では手に負えず困ったときは「少々お待ちください」といってベテランに代わってもらったほうが傷が広がらずにすむことが多い。
  6. 感謝するなら「すいません」ではなく「ありがとうございます」
  7. 目上との別れ際には「承知しました、失礼します」

※しゃべり尻を「です」「ます」「おります」「ございます」で終わる、なるべく短いフレーズをいつもよりずっとゆっくりしゃべれば失礼な感じを与えず、丁寧な感じが出せるでしょう。

 

老いる準備 上野千鶴子

私の人生は下り坂である。人生は死ぬまで成長、生涯現役、というかけ声にわたしは与しない。そんな強迫に鞭打たれて駆けつづける人生を、自分にも他人にも、強要したくない。老いるという経験は、昨日できたことが今日できなくなり、今日できることが明日できなくなる、という確実な衰えの経験であることは50歳の坂を越えてみれば、骨身に沁みる。--あとがき--

著者はジェンダー論で有名な社会学者だ。35歳のとき書かれた「セクシイギャルの大研究」から22年、いまや50代後半の坂を下り続ける。思い切った仮説とその論理展開を楽しみに著者の本を読み続けてきた。年齢の節目ごとに扱うテーマが異なり、今回の出版も「なるほど..」と思えるものであった。著者は現在57歳ということになるが50の誕生日を迎えたとき、これまでのどの誕生日よりも感慨があったという。私も今年50の誕生日を迎え49と50という数字の大きな隔たりに、1ヶ月くらいは新しい齢を告げるのに逡巡した。著者は半世紀生きたことを事件であると書いているが、私は残りの少なさを痛感している。平均余命あと何年?と猶予期間を延ばす意味はただ安心のためでしかない。すでに幾人もの同級生が事故や病気、あるいは自ら命を絶ち故人となってしまった。20年後があるかも知れないし、明日さえないかも知れない。日頃平生として明日や数年後の話をし、死について悟ったふうに語る。もし、明日のないことが判れば呻吟し生活や信念を変えるだろうか?

上り坂と下り坂が一様でないことは明らかだ。しかし上り坂の時に下り坂は見えにくい。タイトルの副題は「介護すること されること」。つまり上り坂の時には介護し、下り坂の時には介護される側になる。やがて迎える死についても、見送る側と、見送られる側の役割を誰もが経験しなくてはならない。祖父母や父母を送り、やがて自らが送られる、その立場が逆転する日が来る。小言を言われ、子供の頃には暴力さえ振るわれた親に、いつの頃からか小言を言い始め、強者と弱者の関係が逆転する。親の死が迫りくると、送る側として振る舞う。しかし、送られる側にとっては望ましいものばかりではなく、そこには大きな闇が横たわる。

「こうしないと、わたしの気がすまないのよ」という家族の愛の押し売りを、死にゆく人々はどれほど寛大にも受け容れてきたのだろうか。ほんとうはわたしのため、ではなくて、あなた自身のためでしょ・・・・・と言いたい気持ちを、気弱にも呑みこんで。考えてみれば家族というゲームの多くも、「こうしないと、わたしの気がすまないのよ」という思い込みで成りたっているように思う。

同床異夢、夫婦や恋人同士でさえ、相槌を打ちながらも互いに自分のことだけを語り続けているのかも知れない。だからこそ飽きないで一緒に居続けられるのだ。肉親や親類、知人、友人、近所との付き合いが厚く友好的であろうと、人との交際や交流に付きまとう隔たりは否めない。近所又はそれに類するコミュニティーに於ける友好的な振る舞いは、単に敵意がないという証であることが多い。村落の絆が強かった時代なら耐えることで集団の利益を温存した。しかし、いまや少々の我慢でさえままならず権利や人権を主張する。汗や労力を惜しみ、美辞麗句だけが飛び交う時代である。都会を、又現代を、乾いた希薄な人間関係と評するが、だからこそ快適なのだ。

向こう三軒両隣がどんな役割を果たしてきたかを考えると、地域共同体は互いに支え合ってきたばかりではなく、相互に監視し、干渉し、統制する役割も果たしてきた。

親戚縁者といっても、口は出すが、実際に困ったときに手やカネを出してくれるだろうか?

「もう気の合わない他人と仲よくしなくていい」と思ってつくってきた風通しのいい集団が、いまの都会というものである。

社会学の小集団の理論では人口が1〜3万人の街なら、そのなかで仲よくできる人の数は、せいぜい7〜8人から15〜16人くらいと、意外に少ない。逆に少ないからこそ住み慣れた土地の気の合う仲間は貴重な宝物といえる。望まない付き合いならばなくてよいとは言えその鬱陶しさが、あるとき心の隙間を埋める役割を果たす。互いが己の都合や思い込みであろうと、そこに真心を汲み取れば納得もいく。介護される側、送られる側が寛大に受けとめてきた理由であろう。世代間で気質が異なるかどうかは明確ではないが、団塊の世代以前の人々はそうであった。彼らは辛さに耐え勤勉で世のため人のため役立つことを至上の価値としてきた。遊びや快楽を罪悪と考え、遊び方も知らずに生きてきた世代は、齢をとっても急に価値観が変わるわけではない。これからの世代は自らの遊びや快楽を重んじる方向へ進んでいくだろう。個人の自由や家族のささやかな幸福を志向し、仕事や人生を「遊び」と言い切る人も見受けられる。下り坂を過ごすにあたり「自分のために..」を重視する。しかし、それは5年、10年という時間を想定してのプランである。50の声を聞けば、すでに遅いと思われることもたくさんある。白髪が目立ち使い込んだ身体の故障も心配だ。いたわりながら長く持たせる配慮もいるようになった。明日とも知れない旅立ちを受け入れるための生き方や準備も考えておかなくてはなるまい。幸い?60、70、80という下り坂を進んでいけるなら、いままでとは違う新たな風景が待っているといえなくもない。

生まれてから死ぬまでのある期間、永遠ではないがひとときを、道行きを共にしてよかったね、という関係を家族と築くことができればどんなによいだろうか。

社会学者であるがゆえに老いと社会との関係を冷徹に描写し、失望や諦めを経て希望を模索する。老いや介護の社会的な意味や現状を論じ続けた最終章は、ありふれているが、人と人との古典的な付き合いに帰着する。もちろんいままでと同じ価値観では上手くいかない。個人の自由や我がままや楽しみを認めつつ、融和できる部分、あるいは利益を考え坂を下り続けなくてはならない。個人の幸福や生きかたとはいえ、一人で時間つぶしをするより、そこに仲間の居るほうが楽しいではないか、と著者は言う。確かにそうだ。煩わしいこともあるが時間や体験を共有するご近所や友人、家族はいずれもありがたい。しかし、「最後は一人と覚悟する」と結ばれている。

 

非常識セラピー ジェフリー・ウィンバーク著 春日武彦監修

事故が起こる。事件が起こる。被害者の「体の傷」さえ治らない前から「心の専門家」の出動が報じられる。心の専門家の話はコラムでも数回取り上げているが、最近では天災時でさえ「心の専門家」が登場するようになった。異常気象で農作物が凶作ともなれば、まもなくこれにも「心の専門家」が跋扈しそうな勢いである。誰しも、またいつの時代にも立ち直れないほど心を痛める出来事はあったであろう。そのとき一体どのようにして折り合いをつけてきたのか?あるときは身内の支え合いであり、近所や親類または年長者の助言であった。また占い師や祈祷師や宗教家のお告げに救いを求めたかも知れない。不安の渦中で模索し自らでたどり着いた解決策を今は「心の専門家」が一括して面倒をみましょうというわけである。

ここ10年で心理学は新しい宗教になってしまったかのようだ。「神を信じよう」と言う人はいなくなったが、その代わり「自分を信じよう」がみんなの合言葉となった。

心理学者が司祭や牧師になり代わり、確信に満ちた説教をして世の人々の考え方や行動に大きな影響を与えている。

父母、祖父母の世代と比較すると現代は豊かであることに疑いはない。解決するか否かは別として、思いもかけないことにサービスが用意され不便や困難に対処できる。いまどき「忍耐」という標語も聞かれなくなった。頑張れ、頑張ろう、頑張るぞ、、と、かけ声は勇ましいが、年輩の方々の話を伺うと、かつての我慢や忍耐というレベルには程遠い。あらゆる面で耐える力や問題解決の能力が減退しているように感じる。苦痛や困難は人生にそなわったものだが、今の風潮はこれを回避したり排除しようとする。快適で心の赴くまま安穏とすごす快楽主義的人生観や社会的価値観が蔓延し、便利だからとか、お金で済むことならという理由でサービスや物を受け入れる。同様に心の不便や不安に対しては「心の専門家」を利用しようというコンセンサスが出来上がりつつある。快楽や快適を求めるのは種保存の本能でもあるが、困難や不安を克服してこそ得られるものだ。

まだ心理学者がいない時代、人々はどうしていただろう。貧しいときには人はお互いに頼らなければ生きていけなかった。もし心の悩みについてアドバイスしてくれる人が誰もいなければ、ただ状況がよくなるのを待つか、自分で解決するしかなかった。まだ心理学が存在しなかった時代には、自分で悩みを乗り越えるのが普通だったし、苦しみは人生の一部と見なされていた。

人は苦しみと一緒に生きることを学ぶことができる。その基本は、人生の嵐に耐えられるよう神経を太くすることだ。しかし、こういう人生観は現代ではまったく受け入れられない。

PTAの集まりなどでこのような意見を述べるなら、たちまち反論の嵐に遭いそうな気がする。実際、私も似たような発言をして失笑をかった経験がある。動き始めた流れは止められないのかも知れない。何か前向きな行動を起こそう、今までにない新しい取り組みを始めようと言う提案は評価されるが、「やめよう」という勇気はおおよそ気まずい雰囲気をもたらす。前向きで新しい取り組みの成果は、新たな労力と金銭の負担だったりする。心の問題に特定していえば、いままで悩みの相談相手だった近親者や友人、教師、先輩などの役割をお金を払って「心の専門家」に依頼するようなものだ。そこに友人と同じような親しみが持てるだろうか?持てないから反って良いと言う議論も承知している。いずれにしても選択の自由は確保されなくてはなるまい。

「心の専門家」に相談する利点はあるし、あらねばならないと思う。著書は心の専門家としての技術と脆弱さを明かす。セラピストが適切な環境さえ作り出してやれば、患者には自分を成長させる能力が備わっているという。適切な環境とは「信頼を得ること」「同情を示すこと」「無条件に受け入れること」である。傷を治すのは医者ではなく体の治癒力である。同様に心を癒すものは「心の専門家」ではなく、自らの心なのだ。

人間はひどい病気、むずかしい手術、経済的な危機も乗り越えられるものだし、心の病気でも同じ回復力を示すことができる。人は困難に直面したときに、もっとも力を発揮するものだ。

社会生活に人間関係があるように「心の専門家」とも関係や駆け引きが発生する。専門家は特有の知識と経験を有し、一段上から相談者を俯瞰する。「潜在意識」という言葉を用いて、相談者が思ってもいなかった心の内をあばきだす。潜在意識は「心の専門家」にとってこそ便利な道具である。問題のすべてを相談者のせいにし、自分の立場を温存する。

  1. 患者の質問に答えもわかっていないのに答える。
    (むずかしい質問をしてセラピストは賢者ぶり、患者はバカになった気がする)
  2. 患者を言い負かすことで自分の治療法が正しいと主張する。
  3. 治療法をでっち上げる。
  4. 表面的な問題を大げさにする。
  5. 問題を解決しなくてすむよう、時間かせぎをする。

著者はこれを5つの心理トリックと呼ぶ。潜在意識という用語は一般医療では体質とか遺伝とか老化などに相当するものかも知れない。私は漢方相談を行っているが、5つのトリックは相談と称する業務に普遍的に通じるものがある。「心」を法律相談、教育相談、人生相談...などに置き換えても違和感は少ない。以下の引用についても同様のことが言えはしないだろうか。

情報がたくさんあったからといって問題がよりはっきりするわけではないのだ。過剰な情報はかえって混乱を招くこともある。少なくともセラピーでは、知れば知るほどわからなくなる、ということだけは確かだ。

心や体の問題を治せるのは確かにそれぞれの専門家だけだが、特に セラピストはかたくななまでにそう信じている。そう信じることで自分は役に立つ重要な人物だと思うことができるから。しかし、もっともよいセラピーにはお金がかからない。

蛇口から出た水はただの水だが、信仰療法で使われる水は神聖で健康を取り戻す力があると思ってしまう。近所の友達に「たまにははっきりイヤだと言ってみれば」とアドバイスされても月並みな言葉にしか聞こえないが、診察料の高いセラピストの口から聞くと、とたんに魔力を持ってしまう。

ただの隣人が行ってきたことを分業化すると、そこにはしかるべき専門性と利点が賦与されなければならない。それは同時に仕事と立場を守るための武器ともなるのだ。いつのころから「心の専門家」が颯爽と登場するようになったのだ。「心の専門家」としての職業や居場所、さらには養成機関もある。このまま「心の専門家」だけに心の問題を任せてよいのだろうか?

人間はいつも「まだ足りない」と思いながら生きているのである。

幸福な中庸、ちょうどいい妥協点を探そうとするのは心がけとして悪くない。物事は変化し、よくなっていくと考えるのは悪いことではないからだ。しかし、そんな妥協点が本当に存在すると思っても、それは幻にすぎない。それが現実なのだ。

 

脳はなぜ「心」を作ったのか 前野隆司

著書は子供の頃、死んだらどうなるか、どこへ行くのか突き詰めて考えたあげく、ギリギリの孤独に何度もさいなまれたという。誰しも似たような思いにとらわれたことがありはしないだろうか。死が避けられないのなら諦めるしかなく、辛いものなら我慢するしかない。この不安の探求こそが本のテーマである。人の思考の本体である脳の働きに着目する。働きをするものを「小びとの行動」に擬人化して話は始まる。

「小びと」とはニュートラルネットワーク(神経回路網)を指し知・情・意・記憶などの働きが無意識に遂行されていくものだ。私たちが、意識の中で「ああ、質感だ」と感じることのできるしっとりとした感じを「クオリア」という。離人症という精神疾患ではこの実感が持てず、まるで夢うつつで自分や外界を感じるらしい。しかし、その状態こそ脳の基本的働きであると仮定する。私という個の意識と無関係に小びとは考え、喜怒哀楽も意図も小びとのいたずらと見る。人は本来主体的ではないのだ。このように個を薄めていき没我の境地に入る事でギリギリ孤独の不安を回避しているようにも感じられた。突詰めると個や私という意識は錯覚に過ぎないという。小びとが無意識の働きのなかの一部を意識レベルまで運んでくれたものが私という個の存在になる。これを心の地動説と著者は言う。

日常的な体験としては、私たちは、私たちの「意識」が星の数ほどの無意識の小びとたちを従えて、「自分」という宇宙の中心にいるように感じる。

「私」や<私>は世界の端っこにいて、無意識の小びとたちの「知情意」の結果を受け取るだけの脇役だ。

死で失うのは受け取った意識の部分で、後は人類や生命が続く限り脈々と永続する。したがって死は恐くない!人は永遠の生命を手にしている!このような空しいかけ声で不安を紛らわせたとしても、しっとりとした感じは得られないのではあるまいか?これは、いまのところ思い切った仮説と言うほかない。似た話は珍しくなく、ユング心理学では「集合的無意識」と言い、生物や種はその特有な意識を共有し、その上に個の意識部分を想定している。おそらくユングの学説が知識としてあったのだろう。無意識部分から意識レベルに上がってきたものを主体的意識と錯覚しているのが思考や行動の実態である。なぜ錯覚なのか?著書の言葉を借りれば「そう感じたほうが都合がよいからそうなっているに違いない」という。

自分の決断や選択や行動が、みんな、本当は他人の命令に従うような、または、他人にあやつられているかのような、よそよそしい追体験に過ぎないと自覚するより、「意図」は行動の始まりであり、それは自分の「意思」が勝ち取ったものだと錯覚した方が、人は自分の力で生きている感じがする。

人は、都合のいいように錯覚するように作られているのだ。自分自身の充実感や、今の存在感は、自分の脳が自分をだましている結果に過ぎないのだ。

これは科学なのだろうか?まるでノイローゼか薬物中毒者の言い草である。エピローグは<私>は死なないんだ、と結ばれている。気持ちはわからないでもないが、このように考えて一体どんな利得があるのだろうか?ギリギリの孤独を紛らわす意味では一定の成果があるかもしれないが、仮説は支持する人の間でしか有効ではない。輪廻転生やあの世の話と言葉が違うだけで、本質的な違いはない。奇想天外な仮説とニューサイエンス的説明には疑問が残る。説明できるから正しいとは限らないのだ。

この仮説をもとにした「脳が作り出す超常現象」には少なからず興味を覚えた。催眠術、臨死体験、神秘体験、超常体験、霊視、UFO、超能力、気功、心霊治療、、、

あらゆる超常体験も、脳機能の変調や錯覚と考えればすべて説明できる。よく、霊に会ったり、霊の声を聴いたりする霊能力者という人がいるが、彼らの体験は、脳が作り出した幻覚、幻聴に違いない。たぶん、霊能力者は、何らかのきっかけで自分の脳を変調させる方法を身につけたか、生まれつき変調しやすい性質を持っていた人なのではないかと推察できる。

脳の変調に収斂させる解釈にはいささか違和感もあるが、宗教家や治療家または代替医療について思うことがいくつかあった。彼らは一種独特な雰囲気を持ち、人格を容易に変容させうるヒステリー性格の人が見受けられる。思い込みが激しく、気分がコロコロ変わり、感情や思い付きが行動の動機になったりする。また代替医療の理論の多くは錯乱した学説といえなくもない。血液は腸で出来る...手から気のエネルギーを発する...前世の因縁で病気になる...一分子の成分が病を治す...針一本で体のバランスを調整する...漢方とて例外ではない。漢方に標準治療とされるものはなく、学説は百花繚乱である。ある人が陰といえば、同じものを陽という。実といえば、仮実という。腎の相生といえば、脾胃の逆相克という。広く読まれている教科書が錯乱を留めるせめてものストッパーである。別体系の理論が堂々とまかり通る世界だ。それゆえ代替医療はいつまでも代替医療のままである。しかし、私はそれで構わないと思う。

「癒し」も錯乱や脳の変調に関わる部分が多々ありはしないか。断食や信仰、気功、超常体験などで得る利益らしきものは、癒しと輪郭を共有するし、そのものと言っても過言ではない。意図的に変調を導く技法を宗教は備え、代替医療は癒しの技法として宗教性の一面を持っている。治療家が変調を起し患者が同調・感受すれば、癒しは確実性を増すだろう。ユングはシンクロニシティ(共時性)という言葉で自説を展開している。無意識レベルでの治療家との相性の神秘性である。あまり熱心に考えすぎるとオカルティズ厶に陥るのでほどほどにしておく。一般ではこれを才能とか超能力と呼ぶが、脳の変調に過ぎないと考えるのは空しい。努めて主体性のある理論的行為だと錯覚したい。

 

主食を抜けば糖尿病は良くなる!江部康二 

思わず「逆ではないか!」と、驚きを隠せなかった。本の後半の注意点から...

 糖質制限食を始める前に、必ずこれらの点に留意してください。

  1. 薬物を服用中の人は医師に相談する
  2. 腎機能の弱い人は糖質制限食を行わない
  3. 糖質制限食は選択肢の一つ

なるほど、「選択肢の一つ」と、トーンダウンしているところが本の目的を察するに充分ではないか。先月のコラムでとり上げた糖尿病の治療は、穀物中心の食事に運動を組み合わせ、「薬なしで治せる」と言うものであった。今回は全く逆の主張で穀物を断って糖尿病を治すものだ。すべての糖尿病が治るわけではなく、「主食を抜いて良くなる糖尿病がある」と解釈すべきであろう。代替医療のA.ワイル博士の言葉を借り、「誤った治療法でも治癒が起こる」と言えば言いすぎだろうか。

この治療法の根拠となっているのは、アラスカやグリーンランドに暮らすイヌイットの食事内容である。彼らはほとんどの食物を狩猟の獲物である肉や魚に頼っている。また人類の歴史400万年という時間からすると穀物を主食とした期間は短い。1万年前の縄文時代までは狩猟、採集による食の獲得が基本で、蛋白、脂肪食こそヒト本来の食形態である。本でこのようにはっきり言い切っているわけではない。私も時々、不確かな表現として用いるが、「・・・ではないでしょうか」とか「・・・と考えられる」、「・・・かも知れません」などと頼りない書き方である。これを元に次の理屈へと発展する。

人の1日を考えた場合、その3分の1は眠っていますし、起きている時間の大部分も軽微な運動しかしていません。

このように人間にとってブドウ糖を燃やす回路が必要となる時間は、非常に限られており、ほとんどの時間は脂肪を燃やして生きていけるわけです。いい換えれば、人にとって脂質こそがメインとなるエネルギー源であり、糖質はそれを補助するサブに過ぎないのです。

  *     *      *

つまり人類は400万年の歴史のほとんどにおいて糖質に頼って生きておらず、本来は、穀物を主な食料とする動物ではなかったということなのです。

穀物を主食とする民族の存立さえ脅かす論法であり療法ではないか!蛋白、脂肪食だったという理屈をもとに治療が始まったのか、理屈があとから馬車でやって来たのか混乱するところである。治療理論=治癒の公式は慎重に検討されなければ普遍性を獲得することはできない。にもかかわらず治療家がそれを信じ込んでしまうならば患者にとって迷惑極まりない。ところが、「実践した全員が劇的に改善」と書かれている。嘘と決め付けることはしないが、いままで医療に関わってきて、「選択肢の一つである療法」で劇的に全員が改善するような話は聞いたことがないし、信じられるわけがない。

ここにもGI(グリセミック・インデックス)の話が出てくる。先月のコラムで紹介したようにGI値は2〜3時間の値しか表示していない。食物によっては消化に負担のかかる分だけ遅く、5〜6時間かかって血糖が上昇するものがある。GI値が低いというだけで蛋白や脂肪を賞賛することはできない。蛋白や脂肪の摂取増にともない糖尿病をはじめとする生活習慣病が増加するという調査をどう説明するのだろうか?糖尿病は贅沢病といわれるように穀物を摂らず、蛋白・脂肪に偏った美食の果てに行き着く人が多いというのに、火に油を注ぐようなものだ。糖質に反応するインシュリンの制御のため、糖質を摂らず膵臓を休ませるというが、膵臓は糖代謝だけをしている訳ではない。蛋白や脂肪の消化のため、糖質の消化に使うより多くのエネルギーを注いでいるのだ。インシュリンを気遣うあまり別の重労働を強いてはいないのか。立ったままでの仕事は辛いだろうと椅子を差し出した挙句、休みなく働かせ結果的に立って働くより過労になったりする。

ブドウ糖によって人が生命活動を営んでいることは医学常識として疑いのないことである。そのブドウ糖を蛋白や脂肪から得ようとすると危険なケトン体が発生する。糖質こそがクリーンなエネルギー源なのだ。

一般的に糖尿病患者のケトン体が上昇すると危険なのは、それが高血糖を伴っている場合です。

これは糖尿病が非常に悪化している状態で、すぐに手を打たないと生命に危険があります。

これに対して糖質制限食を行って起こる血中ケトン体値の上昇の場合は、高血糖を伴っておらず、根本的に状況が違います。

糖質を摂らないために、エネルギー獲得のシステムとして糖質代謝よりも脂質代謝が優勢になろうとしているため、一時的に血中にケトン体が増えているのです。

解りにくい説明である。ケトン体は危険なものであると言いながら、状況によっては安全であるように、むしろ好ましい反応かのように書かれている。どこが根本的に違うというのだろう。糖尿病というのは高血糖なのではないか?私なりに読みかえてみると「高血糖である糖尿病の患者にケトン体は危険であるが、糖質制限をして発生するケトン体は高血糖を伴わない..?!」。もう少し国語の勉強をしておけば良かった。高血糖(糖尿病)の人に糖質制限食が危険であるなら、この療法そのものが否定されることになる。まさか健康な人にのみ糖質制限食を推奨し、全員の血糖値が正常になったというわけでもあるまい。この治療法の核心はどこにあるのだ。この病院では現在、主食を抜いた食事療法の治験が行われているようだ。標準治療として普及するまでは、あっさり飛びつかないほうが賢明であろう。独特の理論で確立された先進医療となるのか、ただのトンデモで終わるのか10年後、20年後の成果を見守って行きたい。

私たちが高雄病院で糖質制限食を始めてからまだ5年ほどしか経過しておらず、長期予後についてのデータはこれから得られることになります。ですから、科学的な立場から慎重な態度をとるならば、30年後、50年後も大丈夫だと断言するわけにはいきません。

* * * * *

【付記】コラムを書き終えて...

気になったのでUP前にネットで調べてみると、三たび驚く。著者はアトピー治療のwebページで食について以下のような発言をしている。

日本人は長年穀物、野菜、小魚を食べてきた民族で、腸の長さは白人より長いし、乳糖分解酵素は白人よりはるかに少ないなど、民族特有の生理体系を持っています。

民族的に長年常食してきた以外のものを多量に摂取すれば、胃も腸も膵臓も肝臓も余分な負担がかかり、消化、吸収の過程に無理が生じてくるのはあまりにも当り前のことです。

アウストラロピテクス、北京原人、クロマニョン人を経て、数百万年かけて現生人類になっていく過程で徐々に穀食動物になっていたものと思われます。そして、穀食をベースに各民族の環境に応じてそれぞれ食生活が変化していったのでしょう。

牛乳、卵、肉はたしかに西洋医学的には高タンパク、高カロリーで栄養豊富なのでしょう。しかし先ほど述べたように、日本人には民族特有の生理体系があり、腸が長く乳糖分解酵素は白人よりはるかに少ないため、多くの日本人の成人にとっては牛乳などの乳製品は大量に摂取しても素通りしてしまうだけです。下痢をするのがせめてもの効用(?)

本来の日本型食生活は穀物、野菜、豆、豆腐、納豆、みそ汁、海草、季節の果物、魚を中心に食べます。調理法も煮たり、焼いたり、和えたり、蒸したりが基本です。油脂もあまり使いません。

徒然日記38 日本型の食生活はスローフード 〜食養生のすすめ 江部康二(高雄病院)

同一人物が書いた内容とは到底思えない。本はブラックユーモアだったのか?糖尿病については例外とでも言うのだろうか?蛋白、脂肪食を礼賛し、一方で誹謗する。このような精神構造が不可解でならない。医師として発言することの意味や重大さを考えての主張だったのか。本の粗読みで蛋白、脂肪食に切り替えたあわて者も少なからず居るに違いない。

 

糖尿病は薬なしで治せる 渡邊 昌

題名から浮ぶイメージは、安価な特別の方法でどんな糖尿病でも治るような気がしてくる。怪しいバイブル本とも異なった、医師の手によって書かれたものである。著者は発病当時、国立がんセンターの医師であった。専門家ゆえ急激な体重の減少に、まず膵臓ガンを疑ったという。専門分野以外の病気は例え医師であっても疎いらしい。糖尿病の診断後、主治医から治療方法の説明がなされる。1)薬物投与による治療。2)運動と食事療法による治療。著者はためらわず後者を選択する。

一般の人ならば説明も半ばで薬が処方され、栄養士の食事指導が行われるところである。医師であったために治療の選択が可能だったのかも知れない。この時点で本の大意がつかめる。食事と運動で糖尿病を克服した医師の体験談なのだ。

さて、著者の糖尿病の勉強が始まる。糖尿病とは一体どんな病気なのか?2種類の糖尿病があり、T型はなんらかの理由で膵臓のランゲルハンス島のβ細胞が破壊されてしまい全くインシュリンが分泌されないため、食べた糖分が栄養として筋肉など多くの細胞に取り込まれず、そのまま尿糖として流れ出てしまう。放置しておくと細胞にエネルギーの供給が為されないので、徐々に痩せて衰弱し死を迎える。現在ではインシュリン注射によって普通の人とさほど変わらない生活ができる。U型の糖尿病は生活習慣病によるもので、日本で1000万人近くが危険ありとされている。過食、美食、肥満、運動不足などで膵臓機能が衰え、インシュリンのスムーズな分泌に支障をきたしたものである。このU型が薬なしで治せるかもしれない糖尿病だ。

人類は100万年かかって進化してくる間、いつも飢餓の状態でした。血糖値が50mgを下回ると、低血糖の昏睡状態になり、命に関わる重篤な事態に陥ります。ですから血糖を保つ仕組みはいくつもあるのに、飽食による糖のとりすぎに対応する手段はインシュリンしかないのです。

飽食を戒め...(1)規則正しい食生活(2)食事の量と内容を見直す(3)食べ方の見直しで空腹と闘う(4)油脂をさけ制限カロリーを守る(5)外食は半分残す(6)甘すぎる果物は要注意・・・いずれも特別なものではなく極普通の栄養指導に過ぎないが、血糖上昇の理屈を知っておかないと実行への意欲が湧かない。著書は図を用いて量と内容の説明をする。糖尿病の食モデルは健康のための食モデルでもあり、ヒトという種の食性にも叶っているのだ。

穀物を基本に食を構成する。玄米は食養生の人気者であるが、この利点のひとつにグリセミックインデックスがあげられる。食物によって血糖値の上昇速度に違いがあり、それを数値化したものをグリセミックインデックス(GI値)という。白米より玄米が血糖の上昇速度が遅いとして、玄米を取り入れる人も多く、まあまあの成果をあげているようだ。しかし、すべてこれのみに依存するわけにはいかない。GI値は2〜3時間の値しか表示していない。消化に負担のかかる分だけ遅く、5〜6時間かかって血糖が上昇するものがある。玄米や雑穀、全粒粉を食べていても血糖値に改善が見られない場合は一考すべき問題である。

糖尿病は血糖値で判断するのが普通であるが、有効な目安となるものはヘモグロビンA1c(HbA1c)である。高血糖状態にあると蛋白質にブドウ糖が結合する。その割合を%で表したもので4.0〜5.5%が正常範囲とされている。

普通、血糖値は血液中のブドウ糖の濃度を測るのですが、それだと食後2時間値とか、空腹時血糖値とか、その時点での血糖値を知るのには好都合なのですが、100から200mgとか、あるいは300mg以上と変化が大きいので、長期間の平均血糖値を知る指標には使えません。2〜3ヶ月の血糖値を反映しているのがヘモグロビンA1cの値なのです。

この数値を頼りに運動も試みる。腹いっぱい食べたあと運動をしないと、過剰に摂取したブドウ糖が脂肪となって蓄積され肥満や脂肪肝になる。かといって激しい運動ではエネルギー源として血中へブドウ糖が放出され、血糖が上昇する。食後30分ほど歩くだけで十分だという。夕食は特にゆっくり食事を愉しむ時間でもある。ついつい食べ過ぎたときは食後の散歩も悪くはない。

血糖が200mg以上にならないとテステープで尿糖が検出されない。このため予備軍と言われる人の中には高血糖症と指摘されながら「まだ糖尿病ではない」と何もしない人が半分ほど居るらしい。高血糖症を疾病概念として定着させ、この時点で食事や運動の対策をとれば、合併症を伴う「真の糖尿病」への移行が避けられるはずだ。糖尿病は肥満や高脂血症、高血圧、動脈硬化などを伴うものである。これらを総称して代謝異常症候群(メタボリックシンドローム)という。たとえ血糖値が下がったとしてもそれで糖尿病が治ったわけでも克服したわけでもない。小さな山を越えたに過ぎない。正常値に戻った。「さあ、酒を飲むぞ、ご馳走を食べるぞ」では事態は悪化の一途である。年齢に逆行して機能回復ができるかどうか、また仮にそう考えるならそれが自然なことなのか冷静に考えてみるべきだ。

糖尿病と診断された時点ですでに、膵臓がポンコツ車になっているわけです。それはもう元に戻らなくて、あとはそのポンコツ車をいかにいたわって走っていくかということになるのです。いたわって走ることによって、まだ30万キロでも走れるかも知れないし、反対にそこでさらに乱暴に走り続けていれば、それこそすぐ先で車が壊れてしまうかも知れません。

知っている人にとっては、ありふれた糖尿病の治し方であったが医師の体験上の言葉には説得力がある。しかし、すべて「糖尿病は薬なしで治せる」わけではない。

  1. 何もしないで治る糖尿病
  2. 食事と運動で治る糖尿病
  3. 薬物療法で治る糖尿病
  4. 食事と運動と薬物療法で治る糖尿病
  5. 何れでも治らない糖尿病

1)の何もしないで治る、というのは珍しいが、ないわけではない。本はたまたま、2)食事と運動で治った糖尿病の話であった。選択肢はまだまだあるかも知れないが、糖尿病をガンや肝炎などに置き換えても良い。直面している病気が一体どのカテゴリーなのか考えることは、クオリティーの高い治療選択と生活の参考になるだろう。

 

不 食 山田鷹夫 

サブタイトルが奮っている。「人は食べなくても生きられる」。本の帯には...「そのうえ疲れず、病気にならず、若返る!」。本文は10行に一度、「食べずに、、」という言葉が繰り返し執拗に続く。はっきり言って退屈極まりなく、馬鹿馬鹿しく、それゆえ感動を覚えた。食べないことは最も危険な行為だと思うし、常識として食べることを否定する人は皆無であろう。彼は貴重かつ唯一の実践者かも知れないという好奇心で本を手にした。拒食症や虐待という悲惨な事件で命を失う人の実例から考えて「不食」の危険は証明済みではないか。不食で死なない為の秘法でも持ち合わせているのだろうか。

インドや中国には霞を食べて生きる仙人の話がよく出てくるが、現実的なことではない。しかし、「3年間不食の男がここにいる!」と書かれていると好奇心をそそらずにはおかない。まんまと乗せられて買ってしまったが、内容の希薄さと嘘に、期待は見事に裏切られた。実のところ、この本、創作された、ただの読み物だったのだ。

不食で生きていく科学的根拠どころか羊やクラゲや魚、植物、、あるいは伝説を持ち出して不食のススメとする。添加物を食べないため、病気をしないため、精妙体になるため、、、不食する。といいながら、腐ったマグロの刺身や牡蠣を美味いと言って食べる。他の食物も「不本意だが..」と言いながら、時々食べてはいるようだ。そして食べた挙句、浣腸で腸を掃除する。なるほど、これならば文字どうりの不食ではない。大いに安心させられたが、10行毎の不食絶賛は何なのだ。この堂々たる主張に驚く。たとえば、一週間あるいは一ヶ月の正確な食事内容が記されていれば参考にもなるがそれも無く、ただ、ただ、不食のススメでは納得がいかない。正確には不食ではなく、少食もしくは微食とすべきものだ。人は食べなくても一ヶ月くらい生きられることは、漂流した人の例から理解できる。時々食べて、浣腸で出す前に栄養が吸収されれば命には関わらないのかも知れない。

一体どのような意図でこの本が出版されたのか?このことの方に興味を覚えた。出版社は三五館...書斎の本棚を眺めてみると「理性のゆらぎ」を始めとする青山圭秀のサイババ・シリーズがあった。41歳寿命説で有名な西丸震也の「滅びの大予言」という本。「早く肉をやめないか?」、これは「買ってはいけない」で有名な船瀬俊介が書いた狂牛病の本である。「食べ物から広がる耐性菌」、日本子孫基金編、、、これだけの本で判断するのは独断にすぎるが、この出版社はニューエイジ系にありがちな、反常識、反体制、自然、オカルト、能力開発、、などの扱いを得意としているのではないのか。他にもサンマーク出版、たま出版、工作舎、、私も随分愛読した。これらの出版社がある種一定の役を果たしていることは認めるが、残念なことに科学的証拠に欠けた情念の扇動に終始する。

ところが、これに煽られ行動を起す人々が少数ながら存在するのだ。「不食」を読んで、おそらく数日〜1週間くらいは実行した人々がいるかも知れないし、万が一、現在、実践中で少なからず健康の危機に陥っている人がいるかも知れない。「やはり空腹は辛い」と、食べ始めた人は健全である。また、腐った魚や肉を食べた人は居ないだろうか?これは添加物より危険なので、心配だ。不食を確実に遂行するなら仙人になる前に間違いなく昇天し仏様になるだろう。

狂気染みた生活スタイルや科学や常識と対立する健康法が一体何故発生すのか?ニーチェの言葉に「一本の樹が高みへ明るみへ伸びて行こうとすればするほど、その根は地下へ、闇黒へ、深みへ、悪の中へ向かっていく。一本の樹が天に達するには、その根は地獄にまで届いていなければならない」というのがある。健康を志向すればするほど反健康の妄念が生じ、錯誤を起こし、深みへと妄信へと向かっていく。糖尿病を砂糖で治そうとしたり、排泄物である尿を飲んだり、より多くを食べることでダイエットをしたり、暴力的な力を加え背骨を伸ばしたり...まさに人の認識の多様さと深さと不条理さを思わせるものである。存外、体が許容できるからこそ、このような観念や観念にもとづく行動が生まれ得るのかもしれない。あたかも寄生虫が宿主の命までも奪わないように。

 

がん治療総決算 近藤誠 

著者の「がん」シリーズは欠かさず読んできたが、今回は総決算ということで改めて復習してみた。くり返しくり返し近藤理論に触れていると、「がん」をはじめその他の病気に対しても、ある覚悟が芽生えてくる。人はいずれ死ぬものだという厳然たる事実を直視することから人生も医療も考え直していかなければならない。著者の主張の中心を為すものは「がんもどき理論」である。がんは性質上二分される。

臓器転移があって、いずれ人を殺すであろうものは「本物のがん」臓器転移がないか、成長速度がゆっくりであるため人を殺すことができないものを「がんもどき」としたのです。

がん細胞なり病巣が見つかっても「もどき」は転移もなくゆっくり進行し、時には消失も見られる。これを切ったり薬で叩くと、正常な体のほうに障害をもたらす。つまり、手術や抗癌剤の副作用で死を早めたり苦痛が増幅されるのだ。がんが治ったり、奇跡的治癒が起こりうるのはおおよそ「がんもどき」に多く、治癒率向上や代替医療の体験談に貢献するがんである。本物のがんは、検診で発見後、数ヶ月で死の転帰をとったり、再発をくり返しついに死に至る残酷なものである。殆どの治療が徒労に終わり、「がんもどき」と同様、治療によって死を早めることがある。「がん」の死亡数は本物のがんとがん治療によって築き上げられた数字である。

初診時に、「がんもどき」か「本物のがん」か判定することは困難です。ただしグループ別にみれば、早期がん(初期がん)は「がんもどき」が圧倒的多数を占めます。他方、進行がんには「本物のがん」が多いのですが、すべて「本物のがん」ではありません。進行がんと診断されても、臓器転移が潜んでいないものも少なくなく、それは定義上「がんもどき」です。

「がんもどき」までがんとして一様に治療が為されるなら患者にとって不利益この上ない。また本物のがんでも治療には一考を要するところである。がんというのは実際に定義のできない病変と言う。強いて定義するなら「病理医が、がんと診断した病変」とでもするしかない。定義も曖昧な病名が一人歩きをして「がん」と聞いただけで死より恐れるようになる。この恐怖を利用して成り立つのが医者や民間療法、代替医療などである。

がん治療のかなりの部分は、一般人にがんに対する恐怖や不安があることで成り立っています。患者が治療を受ける理由の一半は恐怖や不安を和らげたいからであるはずです。

本当のことが人々に知られて困るのは、西洋医学に携わる医者たちばかりではありません。民間療法、代替療法などと呼ばれる療法に携わる医者やメーカーの人たちも・・・

患者の心をつかむためには、がんが大きくならないのは、あるいは消えたのはこの療法のお蔭だ、と思わせる必要があるわけです。

がんもどきも本物のがんにも「放置する」という選択に理があるとしても、放置する人など極少数であろう。「がんもどき」および「がん」の治療はまさに一大マーケットである。しかし、著者がいうほど医者や治療家は悪意に満ち、利聡いのだろうか?治そうと考える熱意とは裏腹に、既存の常識や保守主義、周囲との協調や社会的責任という足枷で今までの流れを踏襲しているのではないだろうか。まるごと恐怖や霊感などを利用する集団がないわけではないが..悪意ある治療家の数例を上げて全体を非難できない。

「がん」はそんなに恐いものだろうか?「死は恐くないが、痛みが恐い」とよく耳にする。しかし、痛みをコントロールできるなら、人格まで奪わず、死ぬまでに猶予の時間がある「がん」は最悪とまでは言えない。脳血管疾患、心疾患などであれば、別れるいとまもなく短時間で死に至り、一命をとりとめたとしても、その後の悲惨さと苦痛ははかり知れない。行動を奪われ人格までも変容し、数々のチューブに繋がれて生かされて幸福だろうか。

がん治療の選択肢として「放置」をあげた。何事もなければそれでも構わない。しかし、そのことで苦痛や障害が発生するなら積極的に取り除く必要がある。たとえば、痛みを始めとし、消化器がんの通過障害、肝臓がんの黄疸、泌尿器系がんの尿毒症、肺がんの呼吸不全など...まるごと悪い部分を取り去ったり、薬物によって叩くのではなく、必要最小限の処置で体の抵抗力を温存する。

本では手術、抗がん剤、放射線治療、種々の治療法が紹介され検討が加えられている。では、本の考えに基づいて治療に取り組む医療機関や医者は近くにいるのだろうか?著者の言わんとすることはわかった。しかし、救いの医者が遠方だったり、多忙のため限られた患者しか診ることができないならば、居ないのと同然である。時間や経済的余裕があり、さらに勇気と知性を備えた人でなければ著者の主張する治療は難しい。セカンド・オピニオンを求めて医者と対決する構図が果たして治療の利益になるだろうか。うるさい患者は医者にとっても周囲のスタッフにとっても迷惑で往生するものだ。

少なくとも私は、セカンド・オピニオンを求める余裕も勇気もない。医者や治療方針に著しく問題がなければ勧められる治療を選択するだろう。専門知識のある小うるさい人々の為のセカンド・オピニオンより、ありふれた患者の為のセカンド・オピニオンでなければ意味は薄い。これはかけ声や知識だけでは実現不可能なものだ。IC・レコーダーを用意したり、カルテや検査データのコピーを求める患者に医者や医療スタッフが親しみを覚えるだろうか?医療には技術と共に「心」が求められる。人はいずれ死ぬものであれば、なおさら心の通う医者に最後を診てもらいたい。たとえそれが意に沿わない治療であったとしても...

 

心を商品化する社会 小沢牧子・中島浩壽

最近の傾向として事件、事故がおこるたびに心理学者が登場する。心的外傷(PTSD)などの用語をはじめ、いくつかの心理学や精神医学の用語が飛び交う。いつの頃からこれほどまでに「心の問題」がとり上げられるようになったのだろうか?不登校や学校での出来事、家庭内や夫婦間の暴力、職場のストレス...など、多くに当然かのようにカウンセラーという職業の人が迎えられその解決を模索する。テレビなどで報道されるおぞましい事件は、ある比率でいつの世にも発生してきた。それに心理学者がコメントを寄せ対策が練られる。しかし、似たような事件は繰り返し起こる。心理学者の言い分を聞いて予兆を発見したとしても、事件が起こる前の対策は事実上困難である。近所の不審者や凶暴なストーカーが、事件を起す前に拘束された話は聞いたことがない。起こった後での解説など無責任かつ容易なことである。不確かな未来を語る「占い師」と如何ばかりの違いがあるのだ。

「心のケア」とは実際に何がどう行われるのか、その事実は世の中一般には知らされない。また報道を受け取る側は自分たちに直接関係がない出来事として、中身を知ろうとはしない。受け取る側の感想は、「大変な目にあって気の毒だけれど最近は専門家が心のケアをするから、そこに任せよう」とでも言う無責任なものではないだろうか。「心のケア」の登場は、人を案じる気持ちを切り捨てていくところに、結果としてつながっている。

気の毒な事故や悩みを抱えた人に対し、身内や隣人が...学校や職場では教師や友人や先輩がそれを気遣い助け合ってきた。ところがカウンセラーの出現によって面倒な事は専門家に任せようとする動きが起こる。名も顔も知らなかった専門家が突如現れ、専門用語を駆使して「心の中身」を分析し、分類し、対策を提言する。このような世相を反映してか、困難で面倒な事案が発生したとたん、自分は動かず専門家や関係者に任せようという事がありはしないだろうか。そのための重宝な駆け込み寺としてカウンセラーが浮かび上がってくる。

カウンセラー任せで上手くいくのだろうか?「心の傷」というのは容易に癒される事がなく、折に触れてはよみがえり執拗につきまとうものだ、そのたびに悩み深く考え込む。数年前、大阪の小学校で起こった殺人犯に、最近、死刑が執行された。遺族は極刑を望んでいた筈だ、にもかかわらず、死刑執行に対し「あっけない」と不満のコメントを寄せた。一体どうすれば癒されるのか?心の傷は癒されることなく、忘れ薄れ慣れさせるものなのだ。それを癒しといえなくはないが、「病気、ケガが治ること」の意である「癒し」とは温度差を感じる。にわかに現れたカウンセラーとは、限られた時間話すだけで暮らしを共にするわけではない。大切なのは、近しい人々のありふれた支えなのだ。専門家への依存はこの支えを断ち切ることにつながりかねない。

そもそも問題とは容易でないから問題足りうるのである。問題や悩みは自ら対峙して悩み抜く、解決されなくても明日は来る。解決されないまま日々を過ごし、月日は流れる。それが人の生き様ではないか。悩みはいつの時代にもあったし、これからもあり続けるものだ。それを手厚く専門家が介入するのは豊か過ぎて貧しいとも言える。専門知識を要する問題やケースがないわけではないが...己の権益のため供給を過剰に見積もり職域の拡大へと誘導される不安がある。このことを巡って心の専門家同士の覇権抗争が起こっている。出番を作り続け行き過ぎや商業主義に走る仲間と、一線を画す専門家達が袂を分かつまでが記述されていた。

いったん専門的職業として、他の専門職種同様、資本主義社会のなかに位置づけられると、知らず知らずのうちに権益や欲の追求が始まる。被治療者の立場に立ってという建前とはうらはらに、自分の立場を守って、最小の労力でより多くの利益を、という志向を持ってしまいやすい。

PTSD、ADHD、LD、、これだけ聞いても何のことだか解らない。今までは、個性だったり短期間の情動だったものに名前を付けて病気や異常を作り出すのは誰の為なのか?最近では「ペットの心のケア」の為の専門家まで登場している。世も末なのか、成熟した時代なのか私には理解し難い現象である。権益の拡大は人であれば誰もが持つ欲望である。一人心理療法家にのみ清潔であれと要求するのは酷である。むしろ、金銭の絡む行為やサービスにはすべて利益追求が伴うことを知るべきである。だからこそ隣人の存在は輝かしいのだ。

心理学は思想を持たない、との言いかたがある。(中略)しかし、私は、はっきりとした思想を心理学は持っていると考える。その思想はいつの時代も「長いものに巻かれることが善」というものだ。それは「現状適応こそ善」とも言い換えられる。

現状適応こそ善とするなら、一体どのような目的地を目指してカウンセリングが行われるのだろうか。学校や職場や社会の期待にふさわしい多数決の幸福や適応が目的だとするなら、癒しの方向と逆ではないか。適応から逃れてきた人をいったん安全地帯で保護し、免疫注射を施し再び荒野へと送り込む。「長いものに巻かれろ」という思想を誹謗はできない。しかし、心のメカニズムは長いものに巻かれてくれるだろうか?ときにへつらい、ときに手向かう厄介なものこそ「心」ではないか。このことは心理学者こそ熟知している筈だ。繰り返しになるが、問題を抱えたまま解決に至らず、考え悩み抜く事で生きていくのが人の姿である。適応を目指すことが善ならそれも可としよう。しかし、苦楽をとおして情念の高みへと向かうことで生まれ、開ける境地もある。

 

世界は食の安全を守れるか 村上直行

今や空疎な言葉に過ぎないが、日本の伝統食では「一里四方」でとれる四季折々の食物を食べることを「身土不二」と言う。これを理念とする集団でさえ、遠路運ばれる有機の食材を金を払って買い、また、拘りの食材を扱う料理店での食事を楽しんでいる。時代の変化とともにあらゆるものが分業化され、それによって豊かで便利な生活が可能になった。自ら食べるものを自ら耕し手に入れることから解放され、そのため別の労働によって得た金で食物を入手する。近辺や国内はおろか遠い外国からまで食をかき集める状況が続いている。「かき集める」という浅ましい言葉を使ってしまったが、かき集めるのは食だけではない、その文化や風土までもかき集めることになる。多国籍料理とでも言うべき「食」は、日本固有の食文化を荒らし、そのために身の安全までも脅かされている。人だけではなくペットの食物まで輸入する。さらにペットの生活習慣病のためのダイエット食まで出現する時代である。「食べる人の顔が見える...」という素朴な食の営みは、いつの間にか工業化し不特定多数を相手とするものになってしまった。

戦後、食糧事情が安定期に入った1960年代、幾つかの食品添加物が登場した。中でもAF-2やニトロフラゾンは、夏季に室温でも豆腐やソーセージが腐らないとして用いられた。その時代に生きた人々を対象に大規模な人体実験が行われたのだ。当時、成長期を過ごした団塊の世代は、生活習慣病の多発期を迎え、今まさに実験の結果が出つつあるのではないかと思う。飢の危機から、安全の危機へと舵を切った最初のものが食品添加物であった。さらに放射線照射、環境汚染、遺伝子組み換えなど、多くの食の問題を経て、この数年大きな脅威となっているものが狂牛病や鳥インフルエンザである。

食は言わずと知れた「命」を養うものである。欲望のまま食べ続け健康を害する危険は個々人の責任が大きい。食品添加物なら、ある程度避ける事もできるが、狂牛病や鳥インフルエンザなどの汚染は実体がつかめず、避けようもなく降りかかる恐れがある。個人レベルでは不可抗力な生命の危険に、これからどのように対処していくのだろうか?人類に投げかけられた問題として暗雲が垂れ込めている。国家レベルでの有効な対策が講じられない限り、発生した時の被害は計り知れない。特に鳥インフルエンザなどの病原体汚染に関しては直接「死」に繋がるだけに急を要する課題である。

ベトナムで2月始めに鳥インフルエンザに感染した豚がみつかった。豚の中で鳥インフルエンザウイルスが人のインフルエンザウイルスと合体して強力なウイルスに変化し、それが人に感染して人の大流行をもたらすのではないかという懸念だ。ベトナムは04年3月には鳥インフルエンザの制圧宣言を出したが、その1ヶ月後には早くも再発生していたことが明らかになった。

今後アジア諸国で鳥インフルエンザが制圧されず、偶発的な人への感染が繰り返されれば、ウイルスの突然変異やヒト型ウイルスとの遺伝交雑が起こり、人から人への伝播能力を獲得した強い新型インフルエンザウイルスが人の世界に出現し、大流行する可能性が強まるかもしれない。こうしたウイルスが流行すれば、世界中で約4000万人が死亡したとされる1919年のスペイン風邪の惨禍を上回り、地球人口の10%(6億人)以上が死亡するとの推定もある。

食品添加物などと比すべくもない恐怖だ。本に書かれた中で最も気になる部分であった。先進国に比べアジアの多くの国は、その対策が遅れている。安価にかき集めた食をただ安いというだけで重宝して良いのだろうか?このような現実を目前にして、いまだ国際競争力を叫ぶ空しさを思い知るべきだ。危険から身を守るには事の如何に関わらず、「まず知ること」である。食品添加物で学んだように危険なものには近づかない。しかし、魅力ある食は体に良くないと思われるものが多い。時々「美味い物を喰って死ぬのは本望だ...」という豪傑を見かける。それもひとつの人生観に違いないが、それは反面「命を軽んじる心の病」【注】でもあるのだ。無知や野放図な生き方は自分だけでなく周囲の大勢も巻き込んでしまう。「自分だけは..」という考えや行動は、あらゆるコミュニティーに於いて嫌悪される。

私はスーパーで豆腐やミルクなど腐りやすいものを買うときはなるべく後ろに並べてあるものを選ぶようにしている。

これは、本の冒頭に書かれていたが.. どうやら、著者の生活の知恵らしい。これだけ壮大で正義感溢れるレポートなのに、お寒い生活行動である。危険なものに近づかないのは結構な事であるが、知りすぎた為に生活や心にゆとりをなくしては、お粗末過ぎはしないだろうか。知らない人は「前から選んで期限の短いものを買え」「期限が切れたものは販売店で処分せよ」と言う身勝手さが感じられた。思いやりのない知識は人と人とのつながりを危うくする。危機は案外、人の観念のありように関わるのかも知れない。

豊かになった食がさらに豊かになると豊かさの基準は変容してくる。自ら食べるものを耕したり、人任せだった食を再び手元へと引き寄せるように志向する。食が身近になることで得られる安全...それがより豊かで贅沢な食であることを知る人は少ない。

【注】命を軽んじる心の病
普段は威勢が良いが、軽重に関わらず病気に罹患すると、とたんに気力が萎え周囲に迷惑をかける。弱虫の裏返しに過ぎず、単なる虚勢を張っているだけの病気。

 

トンデモ本の世界T&S と学会著 

と学会とはトンデモ本(作者の意図とは別の意味で楽しめる本)の収集・観察・批判を楽しむ同好の集まりである。彼らの目にとまった本の報告が毎年、あるいは数年毎に出版される。今回は3年ぶりであった。自分の言動や思考の中にトンデモが紛れ込んでいる可能性は充分にある。それを真実だと錯覚し思い込み、他へ吹聴しているのかも知れない。この本には、トンデモの呪縛にかかった優秀な学者や著名な方々も居て、肩書きだけで手放しに信じる事の危うさを教えてくれる。日頃の生活に於いてトンデモの罠にはまったり、インチキに騙されてしまうことがありはしないだろうか?健康本に関してはバイブル商法といった類に相当するし、人を騙す多くの手法や商法がトンデモ本の中には凝縮されている。と学会によると、これは人間活動の一形態であって無くなることはないと言う。それならむしろ笑って楽しもうではないか。本は沢山の収集本で溢れていたが擬似医学系トンデモをとり上げてみたい。本の紹介のまた紹介ではあるが、この擬似医学はいずれ社会的な問題になるような気がする。

本は、村瀬和正著「歯は中枢だった」。これに先立ち「歯は臓器である」と言う本もある。思いを本に著すことに何ら問題はない。しかし、この独自の考えをもとに医療が行われるならば様々な問題や被害が生じてくるのではないか。

【本】よくコンピューターで、その記憶素子の単位を8ビット、32ビットというユニット単位で呼びますが、8、16、32と言う数字は、実は脳の構造を参考にして作られているのです。

つまり、脳の神経回路の記憶素子は、やはり8の倍数でできており、歯のユニット構造と同じものなのです。「8」という数字は「ハ(歯)」に通じていたのですが、これは偶然の一致ではなくて、やはりその機能的関連性があるのです。

【と学会】二進法が脳の構造を参考にして作られたなんて初耳。8とハの語呂合わせにしても、「じゃ英語で歯はエイトって言うんですか?」

物事の説得には体験談や科学的体裁が有効である。しかし科学用語そのものには何の証拠もない。トンデモ学者の扱う科学には他の擬似科学の妄想が迷い込んでいるため混迷の度合は大きい。常識的にみても脳の構造解明より二進法が先で、参考にしたのは脳のほうである。語呂合わせにいたってはご愛嬌。

【本】もし、将来もっと太陽の活動が活発になり、地球の電磁波の防衛層ともいえる磁力線を簡単に突破できるほどの大きなエネルギーを持った太陽風が地球を襲ってきた時には、歯に不適合金属を埋め込み、さらにそれらの溶解した重金属を全身に蓄積させ、電磁波に対して無防備とも言える状態にある人は、心身に計り知れない影響を蒙るだろうと予想されます。

【と学会】村津氏のクリニックでは、可能な限り、歯を削ったり抜いたりアマルガムを詰めたりはしない。使用するのは「むらつゴールド」という金を主成分とした「人工臓器」である。その材質は「最後は聖書にまでヒントを求めて決定した」というもので(なぜ歯の治療に聖書?)、「健康に好ましい波動の転写効果」があるそうだ(やっぱり波動か!)。

治療の根幹を為す考えかたであろうと思われる。この治療を「歯臓治療」と呼び歯だけに止まらず「電磁力病」「重力病」も治り、超能力まで身につくと言う。歯の「噛み合わせ」はすなわち「神合わせ」を実現し、「むらつ外気反射現象」により、「重力波エネルギー」を「高電磁波エネルギー」に変換し、指先から放射できるようになると言う。その検証手段として、指の力が増すというOリングテストを用いる。これこそ疑似科学に屋上屋を架すものである。波動をはじめ、仮説ともつかない理屈がよくぞ「渡りに船」であるものだ。代替医療の多くが波動計やOリングテストなどを用いる。このような道具に頼る限り、感覚や意念の独善から逃れられない。村津氏は正に歯を中枢と信じ、純粋に治療に取り組んでおられると思うが、金を主成分とした「人工臓器」と聞けば、血の通わない高価なイメージが付きまとう。これを売らんがための本ではないか?とは下衆の勘繰りかも知れない。しかし、この書物に、船井幸雄という人物が絡んでくると様相を異にする。氏は経営コンサルタントなのだ。氏が絶賛する書物、人物は殆どが波動などが関わるオカルト系である。

この説を信奉し、医学常識で関連がないと思われる疾患も、歯が原因と思い込む治療家が居る。そのクりニックを訪れると歯に言及し、リウマチやアトピー、癌...など現疾患の治療より先に、歯の詰め物を除去する治療を勧めるらしい。このような医療行為に寄り添うのはおおよそ通常医療で解決を見なかったり、サジを投げられた人々である。奇妙な治療や療法が受け皿となって医療を支えていると言えなくもない。歯が大事であることは疑いがない、しかし歯を頂点にした疾病のヒエラルキーは捏造に過ぎない。彼らは通常医療に向かって「人間味に欠け、部分しか見ない」と批判する。まさに自問自答すべき言葉ではないだろうか。

「先進的で画期的な治療に非難や迫害はつきものだ」と、一層頑張る治療家もいる。このような治療家が信頼のおける大学病院や地区の基幹病院に居たとすれば、これほど怖いことはない。他の購買行動と同じく、医療の選択についてもメディアの扇動や空疎な望みで動いている事が多い。「ガマの油売り」のような、軽妙な口上、手品紛いの実演に乗せられてはいないのか、いま一度常識を働かせたいものだ。

【注.1】この本は「2003年度日本トンデモ本大賞」において、総得票数349票中159票を獲得、第12回日本トンデモ本大賞を受賞した。という極め付きの本である。

【注.2】毎日新聞の記事で歯臓治療がとり上げられた。参考までに..全文引用。

歯臓治療:提唱者に医師法違反の疑い 科学装うオカルト?
福岡市の歯科医院長が提唱する「歯臓治療」が物議をかもしている。医師法違反や誇大広告などの疑いが浮上しているだけでなく、その“オカルト性”も明らかになってきた。院長の診療や言動は、科学を装いつつ「歯は人間の神への進化の封印を解く鍵」など、常識を超えた精神世界にどっぷりとつかっている。
【石田宗久】

■異様な集会
昨年6月、福岡市のイベントホールで開かれた「虫歯菌根絶一万人集会」。全国各地から集まった患者が、興奮状態でその瞬間を待っていた。院長は気を発するかのように両手を前に突き出して叫ぶ。「歯は臓器!」主催は院長が会長の日本歯臓協会。具体的な虫歯菌の根絶策は示されず「アトピーも治っちゃう」と院長が勧める「歯臓治療」の効果を強調した。続いて、ステージで患者を見て「スパイラルが出ています」。歯臓治療を終えた患者の頭部からは、らせん状のエネルギーが放射され、見つめるだけで目の前の水は「浄化」されると訴えた。今年6月の健康歯学フォーラムでは、約500人の患者に「地球文明の崩壊や人類を救済する重大な使命がある」。2012年12月、原子レベルで生命体を大変容させるという光エネルギーの帯「フォトンベルト」が地球を覆うのに備えるという。放映されたビデオでは、人が7段階で「神の体」へ進化する過程が解説された。

■非科学と独善
院長は現代医学を「人類を滅ぼす」と非難。既存の歯科用金属は有害として除去し「波動を高める」と独自開発をうたう金合金と詰め替えている。一部の全国紙やテレビ各社が好意的に報道し、集会に来賓として出席した経営コンサルタントも著書で絶賛。患者は数千人に及ぶ。だが、多くの医師や歯科医は、院長の主張を「科学的な根拠がなく独善的」と批判する。実は、院長の主張のほとんどは疑似科学、空想に基づく精神世界の話だ。まず「波動」の実態は不明だが、量子力学の波動と錯覚させ“波動処理”した水や健康グッズの販売は一大ビジネスに発展している。フォトンベルトも、宇宙物理学者は「聞いたこともない」。一般からの問い合わせが多い国立天文台もホームページで「学問的には全く意味のない荒唐無稽(むけい)なもの」と存在を否定する。「とんでもない」荒唐無稽な本を笑い飛ばす「と学会」は昨年、院長の著書を「トンデモ本大賞」に選んだ。SF作家でもある山本弘会長は「不安をあおり救済法を示すやり方は、新興宗教などの典型的な勧誘手法」と話す。「超自然現象」を批判的・科学的に究明する会「ジャパン・スケプティクス」の安斎育郎会長も「現代文明は科学の積み重ねの上に成り立っている。院長の主張は反社会的だ」と指摘した。

■厚労省や福岡市、調査
歯科院長には、無資格で歯以外を診療する医師法違反の疑いが出ている。さらに、医療法が広告を禁じる患者の「治った」などとする体験談をホームページに多数掲載(毎日新聞の報道後に閉鎖)。既存メーカー改良版の金合金を、病気への効果があるかのように誇大PRしている。患者からは「症状が改善しない」などの苦情も出ており、厚生労働省や福岡市などが調査を開始している。
【毎日新聞 2004年8月23日 22時15分】

 

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