【読書録(1)】-2002〜3-
副題は「もしかしたら本当かもしれない9つの奇説」と書かれている。疑似科学などのトンデモ学説を検証し楽しむ集団に「と」学会というのがある。常識で見破ることのできるトンデモからやや高度な知識を要するものまでその解説の領域は広い。しかしトンデモ理論の中にはやがて支持される磨かれざる原石が混じっていることもあるのだ。今は常識となっているが、かって地球が丸く太陽の周囲を回るなど誰が想像しえたであろうか。トンデモを笑い飛ばすのも良いが、真摯な態度で見つめる目も必要ではないか?その問題提起の書であろうと思う。 疑似科学にしばしば出てくる量子力学。この哲学的かつ禅的な理論は誰一人として本当には理解していないという。「量子力学を完璧に理解したと思ったのなら、おそらくあなたは勘違いしているのだ」...このような理論や用語が出てきた時点で疑いをもつべきなのかも知れない。しかし珍奇な理論でも再現性のある検証に耐えなければその理論は廃棄される。費用がかかるために検証不能だったり、理論そのものが検証できないものもある。また、検証したところで何ら意味のないものもあるが、それでも何かの手がかりになる素材がないとはいえない。長い歴史の軸で考えてみると科学的真理というのはどの時代も暫定的なものでしかない。著者のトンデモ科学10の判定法である。
1.2.3.5.の判定法は10.で述べられた「常識による検証」が可能なもので、とりわけ高度な知識を要しなくても出来得るものである。新しい発見・発明は常識を排除したところに開ける場合もあるだろう。しかし、日常生活を営む上では現実的ではない。常識による検証が出来るように日頃心がけておくべきヒントもまた1.2.3.5.のなかにある。 【参考】....以下本でとり上げられた学説の数々と著者の評価である。
真理探究者はなによりもまず、自分たちが確実に知りうることについてつねに謙虚で、新しい証拠・・・自分たちの見解を支持するものも、それに反対するものも両方ともに・・・心を開いていなければならない。 |
正確には内分泌攪乱化学物質という。副題には、人心を攪乱した物質と書かれているこの言葉が知られるようになったのは、1996年3月にアメリカで出版されたT・コルボーンの「奪われし未来」が発端である。もともと科学探偵小説という一般向け科学書であったという。翌年には邦訳が出版されベストセラーとなった。(20万部)そして、1998年には「環境ホルモン」が流行語大賞に選ばれている。汚染というのは濃度が濃くな ればなるほど増すものであるが、この環境ホルモンは薄くなっても活性を保つという意表を突くものであった。
このような数々の驚くべき恐怖が切々と説かれていく。科学の装いを凝らすと真実に見え、信頼性が増してくる。これをきっかけにメディアが取り上げ、さらに国や研究者を挙げて研究や対策が始まることになった。最近増えてきた病気や難病、社会問題までが環境ホルモンに起因すると、短絡視する本まで出現した。二度驚くのはその本が「知の巨人」といわれる立花驍ニ東京大学教養部ゼミで作られたものであった。本の帯をみると「彼ら(学生たち)は、いわば生まれながらに世代丸ごと環境ホルモンに強姦されてしまったような世代なのである」と大きく書かれている。目次の一部を紹介すると、/胎児の発育/母乳汚染/乳癌と環境ホルモン/増え続ける子宮内膜症/精巣ガン/停留精巣/ストレスへの過剰反応/キレる現象と環境ホルモン/脳の異常/神経の異常.../いまこの中のいくつをまともに読むことができるだろうか?そしていくつが環境ホルモンの実態を反映しているのだろうか? 書物の警告と呼応するように、次々とそれを実証するかのような調査や研究の結果が続出し、信じるに足る恐怖となっていった。そのいくつかの事例と反証を箇条書きする。 |
調査結果 |
考えられること....(反証) |
長崎大学の調査によると、マダイではオスより メスが多い。また、精巣に卵が存在する。 |
同じ個体が卵巣と精巣をもっているタイプはメス オス同体といい、かなり広い範囲の魚に見られ る。確認されたのは養殖マダイで、狭い場所で 飼うと餌と天然の女性ホルモンの影響が考え られる。 |
英国イングランド地方で1980年代からローチ という魚にメス化が見られる。羊毛工場で使 う洗剤の分解生成物、ノニルフェノールが原 因だ。 |
天然ホルモンのエストラジオールとエストロンを 検出した。生活排水に含まれる人間の尿中の 女性ホルモンが原因だと判明した。 |
多摩川ののコイのメス化。ノニルフェノールが 検出されたが、ノニルフェノール濃度はメス化 を起こすに十分ではない。どの化合物が原因 かわからない。 |
コイを捕獲したのが多摩川本流ではなく、下水 処理水の放流場所だったことから、上記、イギ リスの例と同じく、天然の女性ホルモンが原因 と思われる。 |
バイやイボニシという海の巻貝にインポセッ クスという生殖異常が見られ、こうした貝が 絶滅の危機に瀕している。 |
船底塗料に用いられているトリブチルスズ化合 物が原因である事は10年前から既に知られて いた。対策もとられ回復に向かっている。 |
米国フロリダ州のアポプカ湖に生息するワニ が減少。調べてみると、雄ワニのペニスが小 さい。これはDDTが原因で、近くの農場で使 用したものが流れ込んだため。 |
近くの農薬工場が事故を起こし、農薬がアポプ カ湖に多量に流入した。一過性、局地的な特 殊ケース。 |
40歳の男子の精子は数が多くて運動も活発 だが、18歳の男子の精子は数が少なくて元 気もない。 |
同じ人でも条件によって変動が激しく、個人差 も大きい。元気な40歳の精子と、元気のない 18歳の精子を比較したものと考えられる。 |
歯の充填剤の樹脂には、ビスフェノールAを 原料に使ったものがあり、この樹脂を使って 治療した18人の唾液を調べたところ、全員 から高濃度のビスフェノールAが検出された。 |
樹脂を充填してから1時間後の唾液を分析して いる。それは24時間以内に全量が溶出してし まうことに触れていない。 |
有害物質でも薄めてしまえば安全だと考えて きた。しかし、ごく微量でも作用する環境ホル モンは、もはやこの考えは通用しなくなったの ではないか。 |
環境ホルモンが微量で作用することには疑問 が残る。公害が叫ばれた70年代からすると、 その後の取り組みで環境は改善している。 |
きわめて微量でも作用を示すという低用量 効果は、少なくともビスフェノールAとジエチル スチルベストロールについては起こることが 確認されている。 |
ある物質が危険かどうかはその毒性と摂取量 のかけ算で決まる。微量で被害を蒙るほど問題 とは考えられない。いままで、環境ホルモンより さらに高い濃度の自然界の毒物や化学物質を 知らず知らずのうちに取り込んきたし、これか らも取り込むだろう。 |
環境ホルモンが微量で作用するという低用量効果については、改めて一章が設けられ検証されている。ここで詳しく述べるには荷が重い。様々な背景をもつ研究者やその実験モデルによって異なった結果や正反対の考察へと導かれる。科学を鵜呑みにすることは危険だ。著者は次の引用で章を締める。
とりあげるまでもない常識をとりあげるところに著者の思いが伝わってくる。先に述べた「知の巨人」立花驍ニ東京大学教養学部ゼミの本は、丸ごと「奪われし未来」の焼き直しといえる内容であった。その後の活動報告が出たかどうかは感知しないが、知の巨人がさらなる調査で議論を深めたり修正されたりした様子は覗えない。こぞって騒ぎ立てたメディア関係者や研究者、そして便乗して商行為に走った人々からも環境ホルモンの言葉は聞かれなくなった。殆どの人が忘れ「そういえばそんなことがあったかな...」程度の記憶が残るくらいだろう。しかし、環境ホルモンがなくなった訳ではない。自然派の一部はそのライフスタイルの優位性を示すかのように汚染や危機を煽り、商品の啓蒙、販売に余念がない。自然派の思想に学ぶべき点は多い。汚染されたものより清浄なものを求めたい気持ちは強く持っている。怪しいと思ってはいても「無添加」「無農薬」の表示を選びたい。 環境ホルモンに極度に怯え、神経質なまでに防衛し、生活の質そのものを味気なくしている人がいるかもしれない。微量を取り沙汰するなら、触れるもの全て、食べるもの、飲むもの、化粧水や装飾品、衣服、さらに吸い込む空気でさえ危険ではないか。 環境ホルモン研究者の主張の一つに、ほかの汚染物質との複合汚染がある。実験で検証するにも難しい問題であり実際上不可能とさえいえるが、それならばと軽視できるものでもない。微量の物質とはいえ食物連鎖による濃縮はすでに広く知られている。川魚の汚染、近海魚の汚染、そして大型魚の汚染、、美食の膳に乗るマグロや鯨がどれほど高濃度の汚染かは外から眺めただけでは判らないし、味をみて検知できるものでもない。実験・研究によっても判り難いものなのだ。 |
まえがきの冒頭は、ひろさちや氏の「負けるために闘うことができない日本人へ」で始まる。近藤 誠氏は医師、ひろさちや氏は宗教学者である。二人の著者が交互に病や医療について問いかける書であった。近藤先生の主張はその数多くの著書に述べられているように病や死や医療を医師の視点でとらえたものである。それと宗教学者ひろさちや氏との主張に通じるものがある。医学を人文学の側面で捉えると、人間科学として新たな展望が開けるような気がしてくる。 病気とされるものの中には、老化現象や生理現象であるものも多い。そのような病気と闘い、克服するというのは見果てぬ夢ではないか?急性疾患やケガは治ることが多く、まさに「治った」と言えるものであろう。しかし定期検診などの検査で発見される病気の中には病気とは言えない、加齢による機能低下やそれに伴う生理現象であるものが相当あると考えられる。厚生労働省の統計から通院患者率の表を参考に、多い順に3種類に分けてみた。概ね理解していただけるのではないだろうか。 |
治ると考えられる病気 | どちらとも言えない病気 | 老化にともなう病気 |
胃炎・十二指腸炎 | 虫歯 | 高血圧症 |
胃炎・十二指潰瘍 | 腰痛症 | 高脂血症 |
胆石症・胆嚢炎 | 肩こり症 | 糖尿病 |
急性鼻咽喉炎(かぜ) | アレルギー性鼻炎 | 歯周病 |
接触性皮膚炎 | アトピー性皮膚炎 | 白内障 |
蕁麻疹 | 関節症 | 脳卒中 |
骨折 | 循環器疾患 | 狭心症・心筋梗塞 |
ケガ・火傷 | 喘息 | 骨粗しょう症 |
中耳炎 | 精神病 | 難聴 |
妊娠・産褥 | 慢性関節リウマチ | 痛風 |
--- |
腎疾患 | 前立腺肥大 |
--- |
自律神経失調症 | 閉経期障害 |
治ると考えられる病気は、放置しても治るものと積極的治療を施さないと治らないものがある。どちらとも言えない病気のなかで、虫歯などは新たに生えては来ないという意味では老化にともなう病気と言えなくもないが、治療によって解決出来る。そして老化に伴う病気や生活習慣病は苦痛や数値を改善する以上の解決はほぼ望めないものである。医療を施すことでQOL(Quality
of Life 生活の質)の向上が得られるなら、一応の目的が達成されたと考えるべきであろう。しかし苦痛もなく数値だけの目標の為に医療を施す事については検討を要する課題である。薬の作用によって数値が正常範囲に収まったからと言って青春が呼び戻される訳ではない。「治る=若返る」という不可能な闘いを痛々しいまでに行なってはいないのか?ひろさちや氏の言葉、「病人は病人のまま生きてゆけばいい」...このような悟りは誰でも持てるものではないが、少しは耳を傾けても良いのではないか。健康の中にも病や病の萌芽があり、病の中にも健康への希望がある。健康な人、健康な時の疾病観と、病人や病気の時の疾病観は異なるかも知れないが、「病気のまま...病人のまま...」生きていかなければならない事もあるのだ。 このように視点を変えることで、医療の質も医療費も大きな変革が可能となるのではないか。苦痛は軽減されなければならないが、それが治癒とは異なることを明らかにしておくべき病気があるのだ。この老化にともなう病気こそが全体の6〜7割を占めるのである。「老化にともなう病気は病気ではない。したがって病院へは行くな」と言う事ではない。健康病といわれるように健康妄想で反って生活の質(QOL)を落としているのではないか? 検査数値に関しては加齢によって必ず異常値が出てくるし、項目が増えると、そのぶん病人も増えることになる。既に述べたように、医療は人文学の面からも検討され臨床の糧とされるべきであろう。科学的根拠や数値は有効な判断材料である事に疑いはないが、科学を重視し過ぎるあまり、見過されているものがあるのだ。
有益な経験や良識とまでは言わないが、同じく厚生労働省の統計から...20歳以上の人が健康のため日頃実行していること(複数回答)を見ると、、、以下のようになる。 |
規則正しい食事 | 51.2(%) |
食べ過ぎない | 38.5(%) |
睡眠を十分にとっている | 38.0(%) |
バランスのとれた食事 | 36.9(%) |
たばこを吸わない | 35.7(%) |
運動等をしている | 33.1(%) |
うす味を食べている | 30.9(%) |
お酒を飲み過ぎない | 27.1(%) |
その他 | 1.1(%) |
特になにもしていない | 16.3(%) |
こんなことか?と思うほど常識的であまりにもありふれているが、実行している人はどれくらい居るだろう。当たり前の事、解かり過ぎている事が出来ずに不健康に怯えているのではないか?また、出来ないが為に簡単に飲める薬や健康食品に高額な費用をつぎ込んではいないのか? 「がんと闘うな」で有名な近藤先生のガンに対する考えかたや対処法の提言は、老化にともなう病気と共通のものがある。「ガンになったらどうするか患者・家族が心得ておくべきこと」の4ケ条が書かれている。
ガンに限らず、生活習慣病や生理現象と思われる不調に対しても参考になるかも知れない。しかし、一律にこの4ケ条に従う必要はない。不調を感じた時、まず考えるのは、治療の機会を失した結果、重篤な病気を招くのではないかという事である。その恐怖や不安に駆り立てられ病院へと向かうのだ。この自然な行動で救われた話は幾らでも見聞きする。安易な受診と.. 待ったをかけるのも躊躇されるところである。本に書かれる事は一般論や、興味を抱かせる誇張である場合もあり、参考にはなり得ても丸ごと信奉する気にはならない。 宗教学者ひろさちや氏は「人生無意味」と..生や死や病を諦観をもって記述する。意味するところ、訴えたいところはよく解かる。しかし、これから生まれてくる子供や青春の盛りを迎えた若者に向かって「これが人生だ...」などと語る勇気はない。「死」が避けられないものである事を薄々気付いてはいても、生きている間はそれを忘れていたい。生きている間は永遠に「生」が続くものと錯覚していたい。無意味でも不様でも、生きていることでの喜怒哀楽が「生きている」証しになるのではないか。それは求めて得られるものであろうと思う。それにしても、何故、死を恐れるのだろう。来世を信じたり、輪廻転生を願って、現世の生活を充実させうる人々のほうがよほど幸福ではないか。
ささやかな喜びや希望を繋ぐ励ましは代替医療の基本的考え方であり方法論でもある。通常医療の現場で為し得ない心の隙間を埋める仕事が代替医療の存在理由でもある。通常医療でもホスピスを設け終末期医療に取り組む機関もあるが、「もう打つ手がありません」と宣告され、「姥捨て山」のごとく対応されるよりどんなときにも、嘘でもいいから、「治る」という言葉をかけられるほうが安らぎをもたらすのではないか。生きるものはいずれ死を迎える。人類が永遠に種を存続できるわけでもない。このような諦観にもとずく対処も必要かも知れないが、希望を抱き、ある時は懸命に闘う人のいることを忘れてはならない。多分、私も、その時には藁をもつかむ気持ちになるに違いない。 |
煙草、酒、時に薬物は文学や歌や映画などの芸術分野に頻繁に登場し、退廃的美学を演出する。薬物中毒や常習者である文学者やミュージシャンの話も報道される。美学と言えば聞こえは良いが現実には艱難辛苦が待ち受けているのだ。そのような非合法薬物の社会史であろうと思ってページをめくると、冒頭からビッグ3としてアルコール、タバコカフェインと書かれている。解かりやすく繰り返すと酒、煙草、お茶、コーヒなどは三大依存性物質なのだ。これには意表を突かれる。次にリトル3としてアヘン、大麻、コカが挙げられる。本はビッグ3を中心にその流通・商品化の歴史、依存性の現実...など社会学的考察が展開されていく。サイコアクティヴドラッグ(精神に影響を及ぼす薬物)として次の規制カテゴリーに分類される。 |
規 制 | 規制の内容 |
薬 物 |
依存度 評 価 |
純粋禁止 | 製造・販売・使用を認めない | へロイン | 16 |
禁止的処方 | 常用癖に関係しない狭い範囲 の治療目的で、医療専門職の 管理下以外での使用を禁止。 |
コカイン | 14 |
維 持 | 依存症状緩和用のみに、監督 下での処方を許可。 |
メタドン | |
規制的処方 | 正当な処方を持つ者には監督 なしの自己管理を許可。 |
ヴァリウム | |
制限付き 成人利用 |
処方は不要ながら、入手に法 的な制限がある。 |
アルコール | 21 |
無制限 成人利用 |
購入の条件は一定年齢に達し ていることのみ。 |
タバコ | 14〜15 |
普遍的利用 | すべての個人が入手可能。 | カフェイン飲料 | 4〜5 |
※依存度評価の項目は本の中から、参考までに付記している。 1)耐性を作る能力、2)感情的依存性、3)身体的依存性、4)身体的衰え 5)投与中の反社会的行動、6)投与中止時の反社会的行動の各項目 につき4点で6項目、満点が24となる。 ※ここに載せていないが有名なマリファナ(大麻)は8点 |
規制のかかった薬物はブラックマーケットで流通し、これは人を廃人にするほどの影響を及ぼすものだ。しかしアルコール、タバコ、カフェイン飲料に関しては嗜好品として普遍的に流通しその使用人口は全世界に及んでいる。これらをサイコアクティヴドラッグとして人や世界を、いかに変えてきたかという考察は驚きであった。タバコ、アルコールまでは何とか納得のいくものであるが、カフェイン飲料に関しては意外の感がしないでもない。お茶は「養生の仙薬」、健康飲料というイメージが定着しているだけに再考を要するものである。カフェインを含有する飲料にはお茶、コーヒーを始め紅茶、ウーロン茶、コーラ栄養ドリンク...など多様なものが流通している。最初にコーヒーやコーラを飲んだ時の事を思い起こしてみると「苦い」、「泡立つ石鹸水」、、、と感じた。普通に飲めるものではなかったものがいつの間にか嗜好飲料となってしまう。これらを流通させるために利用されるのが砂糖である。苦いもの、不味いもの、品質の低下したものであっても砂糖を添加する事でその欠点を補うのである。砂糖及び甘味料はサイコアクティヴドラッグの一翼を担っているのだ。いつの間にか砂糖なしのコーヒーを啜るようになる。やがて1杯が2杯、、、そして30分毎に1杯になる。出勤途中、いつもの時間、いつもの自動販売器の前で缶コーヒーを買い求める。このような行動がすでに依存症に犯されているのだ。 カフェイン含有飲料であるお茶やコーヒーの一部の成分を取上げて、まさに健康に寄与する「養生の仙薬」などと喧伝されるとますます依存に正当性を与える。依存症が健康で糊塗され一層蔓延していくのである。カフェインの依存度は4〜5であるが、タバコはさらに高く、アルコールは最悪の数字を示している。 戦場の兵士や兵器工場の労働者が普通に覚せい剤を用いていた事はよく知られている。経験者の話でも今ほど躊躇するものではなかったと言う。これに順ずる合法ドラッグが煙草や酒なのだ。
煙草と同じく酒も多くの危険で不愉快な仕事につきものである。戦争に限らず劣悪な環境での生活や仕事には煙草と強力な酩酊酒(蒸留酒)がつきものである。これらの他にさらに非合法ドラッグであるリトル3(アヘン、大麻、コカ)が加担す場合もある。だから規制が必要だと言うのではなく、その功罪を冷静に見つめるべきだ。カフェインの依存性の問題は殆ど議論にもならないが、酒、煙草に対しては広告や自動販売機の規制の動きはある。立法の府である議員を始め「偉い人達」そのものが飲酒、喫煙の習慣を持っているだけに規制には寛大で、故意に看過する事も考えられる。
不況とはいえ、空前の豊かさを謳歌する日本では我慢したりあきらめたりするものがない。日本の企業で広告費を最も多く使うのは、ある洋酒メーカーだという。煙草の宣伝も目立つものばかりではなく、密かにイメージに訴える戦術も繰り広げられている。知らないでいるより、知っておきたい...依存性物質ビッグ3(アルコール、タバコ、カフェイン)これらはあまりにも普遍化し、禁ずる段階のものではない。量や回数をいかにして制御するかの問題である。人は等しく健康な環境に生きる権利を有するが、喫煙者の為、あるいは宴席で酒の無理強いにより、他人の健康まで蹂躙する事は断じて許されない。自分さえ快適であれば良いという価値観念を煙草や酒がもたらしたとするなら、それこそ断罪すべきものであろう。 ビッグ3、リトル3のほかにも氾濫しているサイコアクティヴドラッグは、ネットで入手したりトランキライザーを使ったり、キノコなどの幻覚物質を用いたり、、所謂「アッパー系薬物」の飽くなき希求は続く。これらの薬物のみならず一般の薬物についても利益と被害は考慮されなければならない。医療関係者ならば一度は身につまされる体験があるはずだ。害があると解っていながら処方し調剤し投与し、又は販売する事が生活の手段ともなる悩みである。使用者の利益と被害、それによって成り立つ自らの生活を考えると、神と悪魔の契約にも似た逆説を感じるのではないか。 ドラッグばかりがサイコアクティヴとは限らない。テレビや新聞のない暮らしは考えられないが、情報や刺激は多すぎても、激しすぎても良くない。メディアリテラシーと言われるように、情報を正確に捉え真実を読み解く能力のある人ばかりではない。むしろ一部の能力ある人の解説を鵜呑みにする「烏合の衆」で社会は形成され、この名もなき力が社会を動かしていると言えなくもない。薬物ではないがサイコアクティヴドラッグのようにメディアによって興奮させられてはいないのか?例えば異様なまでのスポーツ観戦の盛り上がり、薬物なしで危険な川に飛び込んだり、暴徒同然の振る舞いや、延々と続く鬱陶しい喚声、、薬物ナシのサイコアクティヴ現象である。このようなことに対して寛容すぎはしないのか?規制が必要などと言うつもりは毛頭ない。それこそ野暮なことである。しかし、各人で自己を律することが出来るくらいには醒めていても良いのではないか? |
著者の中国怪食紀行に関しては先のコラムで既に書いた。この本も怪食・珍食と同じ美味求真のカテゴリーに入れて良いかも知れない。あたり触りのない平凡な「不味い!食い物体験記」である。平和で、のどかで、読んでいて害のない本である。ところで、味の良し悪しとは一体何なのだという疑問が湧き起ってくる。ある人が不味いとするものが、別の人の好物であったり、ある国では美食なのに誰かが見ると腐ったものであったりする。絶品とか究極の料理などと言うものは存在しないように思われる。摂食行動を飢餓(空腹)との兼ね合いで考えると。空腹に不味いものはなく、満腹に美味いものはないと言える。しかしこれだけで論じては話は広がらない。究極の料理と称して食材や調理法、さらには料理人の服装、容姿、料理店の場所、外観、器の演出まで拘り始めると、料理も総合芸術の様相を呈してくる。 名人と言われる料理人の厨房にテレビカメラが入る。傍若無人の振る舞いで従業員を怒鳴る。折角の食材や作りかけの料理を、「駄目だ..」と思わせぶりに流しに捨てる。これに惹かれて訪れる客が多いのかも知れない。しかし、私はこのような料理店には断固行かない。人に対しても、食材に対しても愛情や思いやりが感じられないからだ。本の著者は料理店の不手際や料理法、食材に憤慨した事を書き綴っているが、もし心のこもった料理店や家庭で「不味い!食物」が出た時、同じように「不味い!」と言えるだろうか? 著者の言うように美食本は多いが、不味い食本と言うのは少ない。書棚を探すと1冊の 私は、それほど多く外食はしない、知人や親類宅で食事をする機会も殆どない。自宅で自由気ままに摂食できることこそ最高の食事と心得ている。1.5時間以上の宴会に耐えられない。食事も酒のペースも早いせいかそれ以上になると過食、過飲となってしまうこの点で自分のペースでやれる自宅は極楽である。所謂気の利いた料理屋へ行った事がないわけではない。そのような料理屋にありがちなのは、料理人が挨拶と称し傍に来る。料理の感想を求められたり、講釈が始まる。「不味い」とは言えないので、曖昧に褒めると、気を良くした料理人の講釈に拍車がかかる。褒めてばかりでは感想とは言えないので、「少し塩味が.. 」と恐る恐る口にすると、「そのような事はナイ」と軽くいなされる。これが究極の料理人なら「金はイラナイ、出て行ってくれ」とくるところであろう。代金を払って、料理人を讃え、ご機嫌を伺いながら食べる人々がグルメ番組に登場すると、本当に美味いのかな?と揶揄したくなる。客が来るのが当たり前、食べさせてあげてやっているのだという慇懃無礼な料理店なら、たとえ厳選された食材であろうと「不味い!」と言いたくなる。昼だというのに客もまばらなうどん屋で「きつねうどん」でも食べるほうが余程、美味い。私はテレビやグルメ雑誌に登場するような超一流、有名料理人の店など行った事はない。行けないだろうし、経済的余裕もない。しかし、このような世界がある事に驚異を覚える。数ヶ月も数年も前から予約を入れ、一食で私のひと月の生活費も賄えるような料理を食べる金持ちがいて、またそのような人々を顧客とする料理店があるのだ。これが美食を究めるというのだろうか?「一流の物を知らない者は、本物の良し悪しも解からない」とはよく聞かされる言葉だが俗物の私には知りえない世界である。おそらく生涯、本物とは出会えないのだろう。 外食で最も嫌なのは「喫煙者」の跋扈である。私は「憎煙派」で煙草の煙を忌み嫌っている。喫煙者とは同席・隣席を避けたい。体中染み付く煙の悪臭、目にしみる煙は料理の味わいまでも蹂躙する。これほどまでに嫌われているのに喫煙者は全く動じる様子もなく吸い続ける。吸い続けるのは良い、「吐き出すな!」煙草の害は最早、周知の事実である。喫煙者の健康など知った事ではない。税金や医療費をあげつらう気もない。ただ、ただ、喫煙者が煙草を吸えないストレスを感じるように、煙を吸わされるストレスを感じる人への配慮もして頂きたい。如何せん喫煙者の狼藉を避けるため、外食の必要のあるときは開店直後、まだ客の少ないA.M.11:00〜11:30の間に早い昼食を済ませるようにしている。最近は禁煙席も増えてきたが、仕切りがなければ効果はない。灰皿が無ければ、ビール瓶や小皿や茶碗、果てには道路までも灰皿にしてしまうのが喫煙者である。 「不味い!」には沢山の不味い体験記が紹介されていたが、私は食べ歩く事もしなければ不味いという思いをした事もない。全くとは言わないが殆どない。不味いからと言って、立場上、反論出来ない人に向かって抗議などしたくはない。本には明確に書かれていなかったが、著者は「不味い!」と抗議したのであろうか?料理屋の為に、と言いつつ。 小泉武夫の蘊蓄溢れる食物本のシリーズは随分楽しませてもらった。しかし、今回の「不味い!」は、いくらか雰囲気の違いを感じた。そもそも人の愚痴に付き合わせられるほど退屈で辟易するものはないのだ。と言うと私の書いたものも、これと同じ轍を踏んでしまったことになる。子供の頃祖父から「男子たるもの食い物に文句を言うな」と戒められた。毎度お粗末なコラムではあるが、今回は一層お粗末なコラムになってしまったことをお詫び申し上げます。 |
このようにあとがきは結ばれている。しばし見られたテレビや新聞、雑誌など、業界をあげてのダイオキシン報道も今はなりを潜めている。ダイオキシンが、なりを潜めている訳ではない。騒動当時のように本当に今にも危険が及ぶようなものなら何故もっと真剣にとり組まないのだ。私の住む近所では相変わらずビ二ールや発泡スチロールのゴミを黒煙を上げて焼く家庭が殆どである。農村部ではハウスのビニールを集団で焼却するし、私も紙のゴミは燃やすが印刷のインクまでは考えていない。一方では剪定の木枝を燃やすべからずとして自治体で集めてチップ化する動きもある。木枝こそ太古から燃やし続けたものではないか?だから安全だとは言わないが、焼却はゴミを処理する上で欠かせない効率の良い作業である。 ダイオキシンの話の始まりは1994年から98年にかけてたった4人の研究者が出した本であった。そこに一様に書かれてある事は...
本書ではこれらの事についてデータを交えことごとく冷静に検証されている。ダイオキシンの毒性は最強などではなく、危険なのは知られている222種のダイオキシン類のなかのわずか17種だけである。特に猛毒と言われる2,3,7,8-TCDD(テトラクロルジベンゾ-p-ジオキシン)とその他の毒物のLD50値を比べてみる。 |
(注)LD50=投与した動物の半数が短時間に死亡する値
物 質 |
動 物 |
LD50(μg/kg体重) |
2,3,7,8,-TCDD |
モルモット | 0.6〜20 |
ミンク |
5 |
|
ラット |
10〜300 |
|
サル |
50 |
|
ウサギ |
100 |
|
マウス |
100〜3000 |
|
ハムスター | 1000〜5000 |
|
破傷風菌の毒素 |
ヒ ト |
0.002 |
ボツリヌス菌の毒素 |
ヒ ト |
0.01 |
ブドウ球菌の毒素 |
ヒ ト |
0.1 |
テトロドトキシン(フグ毒) | ヒ ト |
10 |
サリン |
ヒ ト |
200(最小値) |
アフラトキシン(カビ毒) |
ヒ ト |
300 |
青酸カリ |
ヒ ト |
3000 |
環境省「ダイオキシンホームページ講座」
数値の低い物ほど毒性が強い事になる。このうち最もダイオキシンに弱いモルモットを基にヒトのダイオキシンでの半数致死量を計算する。ダイオキシンは95%以上が食事由来と考えられるため、大体320万日(820年)分の食事をしてやっとLD50に到達できる。これほど長命のヒトがいるのだろうか?ダイオキシンはじめ毒物といわれる物はすでにヒトの体に極微量抱え持っている。自然派にとってはたとえ微量でも許容できないという思考回路らしい。しかし思考如何に関わらずある物はあるのだ。「微量ならば障害は起こらない」、このことは案外理解され難いものがある。環境ホルモンという極々微量を問題にする学者の登場以来、特に理解が難しくなってしまった。極々微量を問題にするならビニール袋に触る事も、アルコール系溶媒の配合された化粧水や石鹸でさえ使えない。 ダイオキシンの環境ホルモン説やアトピー説も確かな根拠もなく発言されたようだ。反響の大きさに当惑し、本人があわてて「火消し役」に回ったという。誤解した人々の間で騒ぎが盛り上がりを見せ、いよいよ行政まで動かすことになる。しかしその対策は高性能焼却炉建設へと向かい焼却炉メーカーを喜ばせる結果となった。ダイオキシンは殆どが食物から摂取され、その由来は環境中に蓄積した農薬が原因と言う。焼却炉から排出される量は殆ど問題にならず、たとえ高性能の焼却炉を備えたとしても費用に見合うだけのダイオキシンの発生抑制効果はない。本当に焼却が原因なら家庭ゴミ焼却の啓蒙と併せ塩化ビニールの製造中止などの措置を早急に取るべきではなかったのか?ダイオキシン始め環境にあふれる毒物については迷いが多い。騒動とは言うもののダイオキシンが危険な毒物であることに変わりはない。安全に生活していくためには危険を想定し細心の注意を払うべきなのか、それとも、どうしても避けられないからと、汪洋に構えても良いのか? 本の初版が2003.1.30である。なぜ今ごろなのか、騒然と危険が叫ばれている最中に、どうしてこのような発言をしてくれなかったのか疑問が残る。普通に生活し、普通の知識しか持ち合わせていない圧倒的多数の大衆にとって、流される情報を利口に見分けるなど困難なことである。その時こそ、このような資料を示しダイオキシン学者や評論家を論破して欲しかった。今は環境という錦の御旗の下、ビシネスはもとより教育の分野にまで環境と言う言葉が蔓延していく。優しい、スロー、循環型社会、癒し、このような言葉だけで価値や価格が上がるものではないが、上がってしまうところが不思議である。 この本はダイオキシンの科学的検証はじめダイオキシンを巡っての利害や政治経済の問題にまで言及した深く広い内容のものであった。コラムではその一部さえ正確に伝えられない。関心のある方は是非一読されん事をお勧めしたい。この出版社には他にも環境を考えるシリーズとして地球温暖化、酸性雨、環境ホルモン、リサイクルなどの出版物が用意されている。 |
5年ほど前に出版された図書の文庫版である。書店で目に付き、手にする。著者の本は幾冊か読んだ。「奇食珍食」の中国版といったところだが、色んな国のものが随所に紹介されていた。食は命を養うと共に楽しみの一つに違いない。稀には食の何が楽しいのか?と言う人がある。食べても味のしない胃弱の人だったり、食より大きな楽しみの在る人が、食事の時間を惜しんで没頭する時など。 しかし、一般には3度の食事はおろか、3時や昼前の間食をも楽しみとする人が多い。楽しみの視点から見たり考えたりする「食」は、また一味も二味も違った様相を呈するものがある。貧しい食事にも喜びがあり、贅沢な食事にも不満がある。シエイクスピアの戯曲の一節だったような気がするが「貧しいものは明日の食を思い、富めるものは最後の食を思う。」と言うのがあった。最後の食事に栄養学を考慮するだろうか?もっとも食べたいものは、皮肉にも栄養学や食養で敬遠されるものであることが多い。食通(グルメ)と言われる人も多種多様である。テレビのグルメ番組で見るような普通のグルメを始め、オーガニックを求める人、肉や魚の素材や調理に熱心な人、鮮度や希少な食材を求める人、食の演出を味わう人、粗食を賛える人、この他にも意外な食行動に驚いたりもする。 これらの中で俗にいう「下手物喰い」がある。下手物を辞書で調べると、「一般から風変りと見られるもの。」とある。確かに趣向は奇妙だが、カテゴリーの上ではグルメの亜種に分類できるのではないかと思う。心理学では異食症と言うらしい。このように分類し始めると、いつのまにか栄養学など吹き飛んでしまう。食を巡る行動や思想の中で栄養学をあざ笑うかのように、ただ舌を始めとする五官のみで食を追求するものである。 カタツムリ、犬、猫、蛇、孵化前の鶏の雛、昆虫、芋虫、蛆虫、蟻.. ぞっとするような食材だが、私はそれほど驚きはしない。調理さえ施せば食べられないものではない。例えば美味いラーメン屋の界隈には野良猫が居ない、などという都市伝説まで生まれる位猫のスープは美味いらしい。実際、猫が使われたとしても胃に収まったものを吐き出すことはない。こういう私は下手物喰いの素質十分なのかも知れない。スーパーの陳列棚に並ぶ食材も本体は解らないことがある。多分、思ったとうりの物だろうと思い込んでいるだけで、切り身になった魚は実は得体の知れない魚だったり、大型のネズミがミンチにされウインナーに混入されていると言う話も聞いたことがある。 しかし、これは食べられないだろうという食材が登場する。発酵や熟成なら解らないでもないが、腐らせた物を食べることはできない。腐敗も発酵の一種に違いないが、明らかに腐っていると思われるものを最初に食べた人は、偉い。 韓国のエイ(魚)料理ホン・オ。買ってきたエイをそのまま大きな甕に入れて1〜2週間放置する。すると甕の中のエイは自己消化し、体に付着した微生物の中でアルカリ環境に強いものだけが発酵を起こす。そこで激烈な臭気のアンモニアが発生する。「夏の汲み取り式の便所、激烈な刺激臭、PH試験紙が瞬時にして濃青色に、、」と著者は評する。ある資料には「十分に熟したホン・オならば、これを口に入れて深呼吸するならば100人中98人は気絶寸前、2人は死亡寸前に陥る。」と書かれていたとの事。このような料理が1匹丸ごと買うと日本円で10万円は下らないという。まさに食の趣向は奇奇怪怪。ところが上には上があって、世界一きつい臭気で有名なのがスウェーデンのシュールストレンミングという缶詰。 ニシンに少量の塩を加え直ちに缶詰として密封する。通常の缶詰はここで加熱し殺菌するが、シュールストレンミングはそのまま嫌気発酵(空気の少ない状態での発酵)させる。やがて発酵の産物として強烈な臭みのプロピオン酸、吉草酸、酪酸カプロン酸はじめアンモニア、揮発性アミン、硫化水素、メルカプタン類が発生する。といわれても、にわかに想像がつかない。そこで著者が仲間と一緒に発明された「アラバスター」と言う機械が登場する。 これはにおいの強弱を人工鼻であるセンサーが捉え、それを数値化、デジタル表示するという。その測定値が書かれていた。数値はアラバスター単位(AU)で、この数値が大きいほど臭みの程度も高くなる。
見てのとうりシュールストレンミングはケタ違いの臭気であることが解かる。怖いもの見たさと言うのだろうか、是非一度嗅いで見たいような気もするが残念ながら食品衛生法で輸入禁止と言う事。理由は発酵か腐敗か解からないし、発生したガスで缶が爆発する危険の為らしい。缶には次のような「開缶時の注意」がある。
普通3番目まではどこの会社も記載しているそうだが、4番目の注意を書いている会社はユーモアがあって「いいですねぇ」と締めくくってある。以前、東京アメ横でお土産にと「くさや」を買ってきたことがある。さて食べようかと真空パックを開いたとたん腐敗臭。そのまま捨てた思い出がある。怪食の中でも臭気には限度がある。 |
酒に関する本は幾らか読んだが、日本酒の知識の整理になる本であった。著者は酒造技術指導の第一人者、酒造界の生き字引と紹介されているが、本の「はじめに」での自己紹介では「酒造界のシーラカンス」「毒舌チャンピオン」とある。専門の分野を極めた人だけにこうあらねばならないと言う思い入れも、信念も強く感じられた。そしてそれ以上に日本酒や酒業界、販売店、飲食店、そして酒呑みに対する愛情も感じられた。ただ味わうだけより、知識を得た上で味わえば又格別のものもあろう。 清酒は大きく2分類される。
著者は前者の純米酒を日本酒と呼び、後者を合成清酒と呼ぶ。合成清酒の中には三倍醸造酒と言うのがある。1/3の清酒に醸造用アルコールを加え、これでは辛すぎるからさらに糖類や有機酸、アミノ酸で味付けして、味を整え結果的に3倍に薄められた酒だ。正に合成酒であるが、戦中、戦後、原料の不足した時代に技術を維持する上でも必要な方法だったと述懐する。三倍醸造酒のほかにも、醸造用アルコール、焼酎、水で伸ばした本醸造もある。これらの合成清酒が清酒類の8割を占めると言う。当地、佐賀は米どころ、そして私の住む鹿島近辺には、幾つもの造り酒屋がある。この地で最も愛飲され、酒といえば○○と言われる程有名な酒がある。ラベルを見ると、米、米麹、醸造用アルコール、醸造用糖類、酸味料、これだけのものが入って、酷く甘い。テーブルに酒が垂れ乾燥すると糖分が糊のように固まり、後始末に往生するくらい甘い。これは蔵元の社長の戦略で芸者さんたちが「旨い」と言って勧めたら男も飲むだろう。だから女性が好む甘口にしたのだという話がある。確かに甘く、旨いのであろう。 これを私の地元の殆どの酒呑みが、極普通に酒として愛飲しているのである。銘柄を指定せず酒を買いにゆけば、この酒を渡される。甘い酒は酒だけで楽しめて肴が要らない。野菜や漬物を肴に飲めるため貧しい時代に好まれたという。しかし肴が豊かになり肉や脂の乗った魚などになると、甘口は重く、淡泊な酒が好まれる。にも関わらず長年の習慣で糖分添加の甘口が好まれ、淡泊な酒は物足りないとされる土地柄になったのは残念でならない。 純米酒は米、米麹だけで醸造されている。アルコールも酒に馴染み、燗にしても、アルコールが浮いて来ない。合成酒は燗酒にするとアルコールの蒸気が立ちのぼり、さながら実験室の匂いである。 「酒は純米、燗ならなお良し」 これが著者の日本酒に対する価値観の根幹をなす思想と言う。一冊読み終えると正に納得のゆく内容である。理想的な純米酒は、、秋に収穫した米を冬に仕込んで、春先に搾り夏の間熟成させ、秋に完成させるのだと言う。貯蔵によって香味が熟成しより美味くなる。吟醸酒についても書かれてあったが、数字で競うようなものではなく、精白度に見合う技術力が必要と冷ややかである。昨今は、生酒、荒走り、新酒などのフレーズで冷やして飲む純米酒に人気があるが、これに対しても冷ややかである。熟成した純米酒を燗で、又アルコール度数の高い純米酒は、少し水で割り度数をワイン程度に落として飲む方法を推奨されている。 日本酒を巡る熱い拘りが盛り沢山の本であるが、専門家の拘りに比べ一般の拘りは薄い。そして多くの酒は、やはり拘りの薄い一般人に支持され飲まれるのである。著者は幸い、あるいは不幸にも全国を巡って酒を楽しんで来られたようだ。私など体力的にも経済的にも全国の酒や肴を楽しむことはできない。ディスカウントの酒屋へ行けば一定数全国から集められた日本酒が置かれている。そのラベルの情報からこれと思うものを選んでいる。また当地は米どころで県内には多くの造り酒屋がある。これらの酒蔵から出る日本酒だけでも相当数に上り、三倍醸造酒から本醸造、吟醸酒、、、そのうちの純米酒だけでも可なり楽しめる。有名な県外の灘や新潟の酒などに拘る余裕もない。身土不二、自分の住む土地で生産された米で、顔の見える人の造った酒が最高の酒であると決めている。 遠くの酒を高い金を払って飲むことはしない。五千円も1万円も払って美味いのは当たり前である。1.8Lで2000円前後の一般的な価格帯で美味い酒を探すのが楽しい。好きな酒は、著者が勧められる純米酒の燗酒ではなく、荒走り、新酒、搾りたて等である。例年、冬期に出荷される○○○荒走り純米酒が待ち遠しい。畑でとれた白菜や蕪の浅漬けに、刻んだ柚子の皮を散らし、醤油を少したらす。これを肴に室温程度の純米酒を飲むのを楽しみにしている。しかし、これは2番目に好きな酒である。一番好きな酒は誰にも教えない。これも酒呑みの卑しいところである。 独りで飲む酒は純米酒に限るが、知人に招かれそこで三倍醸造酒が出されたら、私はそれも喜んで飲む。酒は味や安全性や蘊蓄だけで飲むものではない。楽しい会話や、心のこもったもてなしを受けるなら、毒だって食べる。純米酒とはいえ、同じく酒だから飲みすぎれば毒に違いはない。ほどほどにしておくことこそもっとも上手な味わい方である。 「酒は微酔、花は半開」 貝原益軒 〜養生訓〜 |
インターネットの恋 エステル グイネル著 宮家あゆみ訳 |
私がネットに接続したのは、2000年問題の不安が事なきをえてすぐの1月、パソコンの利用は時々文書を作成したり、帳簿の整理や計算に使用するのみで、別段ネットに接続する必要も感じては居なかったのだが、みんながやるものは一応やっておかねば、という軽い思いだった。それからはや3年目になる。 本を頼りの完全独習なので書店にはよく通った。時に大きな書店へいくと、コンピュータ関連の書籍コーナの隅にパソコン読み物というのがあって、そこで上記図書を手にする。出会い系の怪しい読み物か?と思ったけど、パラパラと斜め読みすると、精神科医が書いた読みの深い本だった。出版が2000年4月1日。 メディアで報道されるように出会い系サイトの利用者増に従い犯罪も増加しつつある、ネットの経験のない人にとっては、見ず知らずの他人といきなり深い関係に陥るなど不思議なところである。しかしネットに限らず所謂洗脳などと称される不思議な「心」のメカニズムは日常生活に潜む陥穽でもある。インターネットについて書かれているものの、極ありふれた日常に生じる色々な思い込みや熱狂、独善、などと同じく、時に周囲を困惑させる心の考察でもある。 電子メール、チャット、ネットニュース、掲示板、メーリングリスト、出会いの場所は無数にある。新しい通信手段に無防備なあまり、知らず知らずのうち没頭し、ふと気づいたら、眠っているとき以外はネットやネット上の恋人のことを考え続ける、かっては文通と言ってたものが電子メールに代り、これが早く簡便なため、日に20通ものメールを一人の人に送ったり、と言うこともあるらしい。このあたりの詳細は本書を読むとして、既婚の人が、メールに没頭するあまり、現実の家族との生活が色褪せ、危険水域に迷い込むという考察は、迫真の説得力があった。肉体関係が成立しなくても不倫とでも呼ぶべき危険な心のメカニズムである。しかしこれは恋愛などではなく強迫観念だとも書かれている。これらの、いわば病理に対するいくらかの分類やその対策法が提言されている。 いまや常時接続も一般的、ネット恋愛に限らず、オンラインゲームやチャット、掲示板、パソコンと過ごす時間が増え、1日の多くの時間パソコンを操作し、またメールを書くことやその為の思考に占めるようになっているとすれば、生活の危機といえるのかも知れない。仕事でネットを使う人ばかりではあるまい、確かに遊びは人生の大切なものの一つではある。遊びナシには人間を語ることすら出来ない、しかしそれに心を奪われる状況は、健全とはいえない。そうなった時、思い切って一定程度ネットから離れて見るのも大切である。 仕事で必ずネットが必要ならまだしも、情報があれば便利、程度で多くの時間を情報収集に浪費するのはもったいないことである。情報があって物知りになって、どれほど生活が向上し利口になれるというのだろう。いままでネットなしで生きてきたし、これからもネットなしで生きてゆく人もいる。時代の潮流やブームを見据えて、懐疑的な思考も要するところであろう。 |
朝日新聞の日曜の書評で知り、その日すぐに書店へ、肩の凝らない面白そうな読み物。早速読み始め、翌日には読了。 副題はDon't stay here ! You can stay nowhere. 病気、生活、食品、環境、犯罪、その他の項目に渡って統計値を基に各々のリスク評価がなされている、良くぞ人間は生きてゆくものだ。これと似たような本を昨年読んだ記憶が蘇る。本棚を探すと、ありました。 死因事典 東嶋和子 講談社ブルーバックス 特に興味を惹いたのは満月の日に被害を受ける確率、77%という事。水曜日には口喧嘩が増大し、太陽の黒点が活発化すると病気や事件も増大する。と言うデータもある。危険は23日周期で巡る.. 気象用語に特異日というのがあるように大事故や大災害の発生統計をとると、なんとなくではあるが「事件が起りやすい日」が決まっているらしい。 おおよその目安として月の第一週目と第四週目あたりがそれに当たると言う。出かけようか、出かけまいか迷った時、その日が月始めだったり、月末ならば、ためらわずじっとして居ることを選択したいのだが.. 星 新一の短編では、危険を察知し、乗るべく予定してた飛行機をキャンセルし自宅に居たら、その飛行機がハイジャックされ自宅のど真ん中へ墜落.. こんな物語りもある。選択に、悩みや迷いはつきものだ。 |