【読書録(8)】-2011-
日本医療史 |
西洋医がすすめる漢方 |
原発のウソ |
ミネラルウォーター・ショック |
こうしてニュースは造られる |
二酸化炭素温暖化説の崩壊 |
認知症にさせられる! |
現代人の祈り |
インフルエンザワクチンは打たないで! |
癒し、もしくは医療の歴史をたどると、時を経て人々の健康観に変化が見られる。しかし、死に対してはゆるぎない恐れと祈りがあるように思う。巨万の富や権力を得た人が最後に欲しがるものが不老長寿だ。いまのところこれが叶って生き続けている人はいない。死が避けられないことは誰もが知ってはいるが、死から遠くにある若者は実感が薄い。普通、年齢を重ねるにつれて死が現実として迫ってくるが、老少不定といい、年齢や体調のいかんに関わらず、死は思いがけなく突然に降りかかる。現在、年間の死者は約100万人で、65歳以上の占める割合は80%である。この割合を70年ほど前の統計でみると23%となっている。77%が老少不定の死を迎えていた。 死は避けられないが、それまでは、せめて健康に過ごし苦しむこともなく天寿が全うできればと思う。加齢による臓器機能の低下による、いわゆる老衰死の割合は意外に少ない。現在、死因のトップは悪性新生物で、脳血管疾患、肺炎、不慮の事故、自殺の次に位置し、年間2万3000人、死亡割合は2.3%である。昔は老人の死を老衰と診断する事が普通だったが、現代においては何らかの診断が為されるため老衰死が少なくなっていると考えられる。 平均寿命も短い時代は、夭折といわれる若死も多く、老少不定はすべての年齢層で見られた。医療の現場は生きようと願う患者、看病する家族、医者がともに死に抵抗し、死を恐れた。いかに良く生きるかの前に、長く生きるかが問題だった。
医学や公衆衛生の進歩による長寿が光なら、これは影の部分である。いつの頃からかホスピスという言葉が聞かれるようになった。体の苦痛以上に孤独感に苦しみもがく。心のケアが叫ばれ心の専門家の登場が価値観に変化をもたらす。死を看取る医療は治療分野を心にまで広げたが通常の治療を放棄する一面も否めない。尊厳死や安楽死という言葉は祈りであって、近年盛んな臓器移植とも共鳴する端緒になるのかも知れない。古い時代においても長く患い家族に物心の労苦を強いるならと「頓死往生」を理想とする記録が残っている。しかし、突然の死を受容できない遺族もある。事故死や脳卒中などに比べ癌死は猶予があり、望みは絶たれても死への準備と遺族へ受容の時が与えられる。 明治以前は宗教や伝統医学がホスピスの役割をも果たしたが、西洋医学の導入以来、病名を付して効率よく対処する医療が重視された。ホスピスや緩和ケアの出現は温故知新、過去への回帰とも考えられる。ここには宗教や哲学、心理学など多様なスタッフが集う。思索や修業で死の悟りを開いたように自負しても、死を前にしての恐怖や孤独の解決に何の役にもたたない。己が試練として一人で全うするしかない。あまた先人がしてきたように。 西洋医学導入以前は、室町時代、中国明医学を源流とする漢方医学が中心であった。漢方では証と呼ばれる症状や病態、病理に相対する生薬や処方名で診断・治療を行った。病名はあっても、西洋医学ほど重きをおかず、気血水の概念や症状の観察で表現される。一方、西洋医学は解剖学を駆使し、器質の病変を実体として捉え、局所的病因の追及を重んじる。19世紀以降の検査技術の発達と器械の進歩で病名数も飛躍的に伸び、現在約1万4000に至り、今後も増え続けるだろう。10世紀末の「医心方」に収載された病名数は879で比較すべくもない。
検査もなければ体重や身長や年齢以外は数値もない時代、患者の訴えと医者の観察で病気を診断した。それが的確である必要はなく苦痛が軽減すれば一応目的は達成された。現代の広範、緻密な検診では平均値や基準値を元に不快・不調のない病人を産み出している。日本人間ドック学会が昨年、人間ドックを受けた308万人のデータを調べたところ、検査値に異常なしの「健常者」はわずか8.4%であった。健常者の割合は年々減少し過去最低を更新した。いままで見逃していた病気も篩にかかり救われることがあるかも知れないが、10人中9人が不健康というのでは検査の正当性を疑いたくなる。医学が進歩し、そつ無き養生を実践しても永遠に生き続けることはできない。寿命の短かった昔は死に潔さを抱かざるを得ず、寿命の延長は死の現実感を薄めることになった。戦後しばらくは平均寿命50代で、その頃は20代で子供を設け、子供が巣立った後は早々に死の覚悟や準備が待っていた。医学の進歩は不老長寿どころか不老不死の幻想を与え、その葛藤が完璧を目指す健康病や死の不安を煽りたてている。 |
巷で漢方医と呼ばれる人々も西洋医学を修め漢方に入ったわけで、現在、制度上の漢方医は存在しない。著者は「元漢方嫌い」の視点から漢方の魅力を語るという。漢方への興味が高じて漢方医となった人に比べると、漢方嫌いの転向話は概略検討がつく。例えれば「納豆は嫌いだったけど、たまたま食べてみたら美味しかった」という話だ。西洋医学を修めた医師のほとんどは漢方など見向きもしない。乱暴な言い方だが、外科系の医師は「悪いところは切って取れ」というのが仕事なので薬物療法の考えにもそれが反映する。
自身満々で進めていた西洋医学の治療に、不可能や困難が生じてくる。ここで、ある人は限界を知り努力は払うが、不可能なことは受け入れる。しかし、ある人は他になにかできることがないか?と模索を経て代替医療の門に立つ。(漢方は代替医療の一分科であることを明記しておきたい)ここから、いかにして漢方に目覚めたか、どんな病気に漢方は効くか、西洋医学と比べた利点などが、語られる。じつのところ私も初学から開業後しばらくはこの手の話でお客様をずいぶん辟易させたに違いない。当時は自らの体験が説得力を持つと信じていた。治療家が夢中で正当性を鼓舞すると、聞く者は異論を挟めず鼻白むことさえある。
治療ではなく経営の行き詰まりで漢方を取り入れる医師も居る。「自然の恵み」、「体に優しい医療」と言えばそれだけで人を魅了する。これは店舗改装と同じで、薬局が漢方を扱うのと大差ない。薬局は治療行為ができないので、治療に行き詰って漢方を取り入れることはなく、興味と営業が主たる理由であろう。白状すると私は営業のためであった。それが図らずも存在理由を標榜するまで昇華することはありうる。幸い著者は漢方と西洋医学との両輪化に成功したが、中には漢方にも手詰まりを覚え西洋医学に回帰した医師もいる。また、新たな薬草や処方を追求したり、まったく別の代替医療へと移る事もある。新しい療法への期待感はビギナーズ・ラックを引き寄せ、初心の時ほど手応えが良い。あたかも超能力を身に付けたかのように高揚する。しかし、再現性を求めるようになるとエビデンスの壁に突き当たる。果たして確かな治療効果や薬理作用があるのだろうか?著者は「エビデンスを求めすぎるな」と言う。
長い歴史で十分な人体実験を経て、良いものだけが残ったというのは、漢方家の迷妄だ。粗雑な引き算やアンバランスもあるはずだ。実際、現代科学で判明した漢方薬の副作用がしばしば報告されている。 エビデンスに基づく治療にも疑問は残る。西洋医学の治療さえすべてエビデンスに基づき治療しているわけではない。検査正常・原因不明の患者に対し西洋医学では治療の方策に詰まる。漢方は症状から処方を決めるので、効くかどうかの前に治療の方策がある。エビデンス欠け、たとえプラシーボ効果であっても治療は閉ざされず、まして少しでも症状が改善するなら喜びは計り知れない。苦痛を除く、希望を失わないことも医療の大きな使命だと思う。 本は漢方の使い方が分かりやすく書かれている。「漢方の証」などと難しいことは言わず、症状や体調であたかも新薬を使うように漢方薬を運用する。気難しい漢方家は「病名漢方」と揶揄するだろう。薬は使って始めて手応えや特性、使いかたのコツが分かる。エビデンスから離れるかもしれないが、患者との生きたコミュニケーションの成果でもある。薬剤師が山ほど薬の文献情報を蓄えても使ったことがなければ、空疎な単語の羅列に過ぎない。医師が薬剤師を軽視するのは「薬を使う」という並々ならぬ責任とプライドがあるからに他ならない。それが経験至上に陥ることがあり、「効けばよい、治ればよい」という極端な議論になりかねない面はあるが。 著者は漢方薬が処方の妙で効き、生薬の組み合わせと配合バランスが薬効の要だという実験結果を示す。生薬個々の成分量に濃淡のあることは知られているが、配合のバランスは単に重量を守るだけで良いのか疑問が残る。私は著者とは異なった考えで漢方を利用している。生薬学では薬効成分が解明され、それに基づいた薬理試験や臨床応用が行われる。ダブルブラインドやくじ引き試験は臨床に欠かせないものかも知れないが、有効成分や薬理で使う事もエビデンスに匹敵する。エビデンスの不明な漢方処方よりも、解明された生薬の薬理を頼りに単独で使う事も考えなくてはならない。閉ざされた仲間内でしか通用しない漢方理論と、薬理学を基礎に用いる薬草療法は明らかに異なるものだ。前者には「処方の妙」という神仙思想が流れ、漢方家を怪しく演出する。
これを読んで店舗に置いていたマムシと朝鮮人参は奥に引っ込めた。おおむね異論はないが、言い訳もしておきたい。どの業界にも様々な人材が集うものだ。医師にも怪しいものがいて、治療行為を建前にやりたい放題で、金銭、健康被害も半端ではない。漢方屋の怪しさにはいくつかパターンがあり、ひとつに処方名を明かさず特効薬かのように吹聴する。内容を明かすと他の安い店へ客が逃げる恐れがあるからだ。1日分の薬代として500〜600円またそれ以上を要求し、良心的価格と言う。そのうえ何らかの健康食品を抱き合わせて売りつける。山のごとく製品を買わせて、体に優しいと宣伝する。知識ある者がない者をねじ伏せるのはあまりにも簡単だ。難航不落の客には「健康とお金」、どちらを選ぶかを迫る。ネットの普及によって価格情報が広がり、法外な価格は淘汰されつつあるが、いまだ体質が変わるに至っていない。得意の漢方薬で体質改善が望まれる。 |
学生の頃、放射線化学の実習を経験した。ある薬物の炭素部分を放射線でラベルして、ラットに注射する。体内に分布した頃、各臓器を取り出し放射線値を測定した。数値で薬の吸収・分布・排泄をみる実験だった。放射性物質は研究棟の奥に保管され、放射能の度合いによって扉の厚さが異なっていた。もっとも厚いのは60cmもの鉛の扉に覆われ、ゆっくり開くと検知器は性急に音をたてた。実習は厳密かつ神経質なものだ。わずかの水をこぼしてもふき取り、汚染物として特別な廃棄が必要になる。放射能がいかに危険であるかを知らしむる体験であった。放射能はDNAを破壊し、被害は世代を超えたものになる。これほど恐ろしいものがなぜ地上に存在するのか人知では計り知れない。 1986年チェルノブイリの原発事故が起こり、その悲惨さは世界中が身に染みたはずだ。翌年、広瀬隆の「危険な話」が出版され、ベストセラーを独走し続けた。このとき、原発に対する真摯な議論と見直しが行われるべきだった。そして広瀬氏が指摘したとうりの事が起こってしまった。私達は原爆で2度もの被曝を蒙り、なんら過去に学ぶことなく、3度目の被曝にさらされている。広島の原爆死没者の慰霊碑に「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」【注】と刻まれている。先人に対しても恥ずかしいことだ。本書の著者、小出先生も原発に警鐘を鳴らす学者の一人である。福島の事故以来、名前を知った人が多いかも知れない。 【注】慰霊碑の石碑前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」に準じたものであった。この「『過ち』は誰が犯したものであるか」については、建立以前から議論があった。1952年8月2日、広島市議会において浜井市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁している。同年8月10日の中国新聞には「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」「原爆を投下したのは米国であるから、過ちは繰返させませんからとすべきだ」との投書が掲載された。これにはすぐに複数の反論の投書があり、「広く人類全体の誓い」であるとの意見が寄せられた。浜井市長も「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない」と、主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされている。インド人法学者のラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判の判事)は、同年11月3日から4日間、講演のため広島を訪問した。慰霊碑を訪れる前日4日の講演(世界連邦アジア会議)でも、「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか。」と、原爆投下と、投下を正当化する主張を強く批判していた。そして5日に慰霊碑を訪れた際、献花と黙祷の後に、通訳を介して碑文の内容を聞くと「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と、日本人が日本人に謝罪していると解釈し非難した。-Wikipediaより抜粋-
原発がなくても電気は足りている。そもそも年に一回あるかないかの最大電力を基にそれより15%も余裕を持たせるなど原発必要へと誘導する詭弁だ。資料も数字も示さず、示しても不都合なものは隠して話をする。自然エネルギーがさもアテにならないように流布し、火力発電の石油がコスト高と言う。実際は火力発電の多くが石油ではなく天然ガスを使っているのだ。原発の天文学的なコスト高は隠蔽し、一部を誇張しコスト安を偽装する。 連日、福島原発のニュースがトップで報じられる。長期化に慣れると火事や台風と同じように終息に向かっていると勘違いする人が出てくる。比較的遠方の西日本の人々は切迫感が薄れつつあるのかも知れない。しかし、海外で公開されている放射能拡散地図をみると風向きによって日本列島から中国大陸の一部まですっぽり覆われる日がある。世界の人がみれば、日本を憐れみ、中国や韓国、ロシアの人々を気の毒に思うだろう。だが、世界中の人々の危惧をよそにすでに放射能は地球を覆い尽くし止まる気配がない。九州大と東京大の研究チームの報告(6/22)では、放射性物質は、3/14〜3/15日に東日本を通過した低気圧の上昇気流で上空約5キロに舞い上がり、例年より強かったジェット気流に乗って1日約3000キロを移動。17日に北米大陸の西岸に到達し、アイスランドなどを経由して23日にはスイスにまで達したという。終息の見通しのたたない福島は一体どうなるのか?地震直後にネットで小出先生のコメントに触れた。その時すでにメルトダウンが起こった可能性に言及されていた。今も状況は殆ど変っていないのだ。今後起こりうる最悪の事態は水蒸気爆発だという。いまは水をかけて冷やすしかなく、これに失敗すれば高温の核燃料が格納容器を突き破り、水と反応し爆発を起こす。爆風とともに核物質は飛散し、少なくとも敷地内や周辺の放射線量は致死量を超えるものになる。人は近づけず遠巻きどころか身の安全を図るため退避を余儀なくされ手の付けられない大惨事へと突き進む。ここにはチェルノブイリの10倍も放射性物質や廃棄物、そしてプルトニウムが置かれている。まず首都圏は壊滅し、日本から中国、韓国、ロシアへと拡散し、全世界の人々への被害は避けられない。チェルノブイリで言われた「地球被曝」の地獄図が現出する。いまの状態でも作業員の被曝環境は悪化し、長期化で作業する人が足りなくなる。 最初はレベル5と発表されたが次々に引き上げられ遂にチェルノブイリと同じレベル7とされた。チェルノブイリで初期消火にあたった人々は短期間のうちに悲惨な死を遂げた。放射能を帯びた彼らの遺体は鉛の棺に入れられ、墓は隔離され、遺族でさえ遺体に近づくことはできない。事故後、原子炉を石棺で覆うため動員された作業員は60万人にのぼり、なんとか大量の放射能放出は食い止められた。しかし、25年を経て石棺の劣化が進みさらに大きなシェルターで覆うことが計画されている。当時、30Km圏内の人々がバスに乗せられて避難したが、結局1000あまりの村が廃墟になった。
おなじく汚染された農地の回復も不可能であろう。表土をはぎ取っても、地下水や山野から流れ込む放射能は防ぐことができない。汚染地域すべての表土を徹底的にはぎ取るなど気の遠くなるような作業である。原発が危険だということは国も電力会社も解っていた。だからこそ安全だクリーンだと騙し、わずかの金銭で命と健康を買い取ったのだ。さらに事故が起これば莫大な補償金を払うことができない事もよく解っていた。そのため1961年に「原子力損害賠償法」を制定し、一定額以上の賠償は国が負担するようにした。賠償金額は10年ごとに見直され、現在1200億円以上は国が払うことになっている。国は税金を上げ、電力会社は電気代を値上げする。国や電力会社の失敗の責任は被害者をも含めた国民皆で負いましょう。どうりで「ガンバロウ!」のかけ声が騒々しいわけだ。道義的には世界中の被害について責任を負わねばならないが、迷惑をかけたうえに支援まで受けている。 原発は悪魔の道具でしかなく、巨額な金が動くがゆえに産官学が蟻のごとく群がり、その蜜で経済が回り続ける。降り注ぐ放射能を浴びながらも、いまだ原発を続けたいと言う。終息もせず、むしろ破滅的な危機へ突き進む恐れさえあるというのに、一体なにを考えているのか。危険なものを推進するには甘い蜜が不可欠で、次第に蜜が目的となる。蜜を麻薬とまで言う地方自治体の首長もいた。電力会社は電気事業法で地域独占企業として守られ、絶対に利益が出るように巧妙な利潤体系で運営されている。その大きな支えは資産を電気代に転嫁できるという法律だ。原発はいかに高額であろうと電気代で難なく回収できる。電力会社の言うコスト安というのは明らかに間違いで、逆にコストが高いから儲かる仕組みになっている。この悪法が狭い地震列島に55基もの原発を許し、電気代は世界一高額なものになった。一般企業では考えられない利益体系はそのまま考えられない営業姿勢につながる。なにを言ってもなにをしても、結局カネに行きつく。カネのため安全をないがしろにした果て、得たカネより多くの賠償を迫られ、それを国民に押し付ける構図だ。 いま進行中の福島だけではない。どこの原発でも小さな事故や隠蔽が茶飯事に起っている。佐賀の玄海では1号炉の劣化が激しく、炉の脆弱化が指摘されながらも運転が続いている。地元議会や県議からようやく廃炉の話が出てきたが、知事は「60年は大丈夫と聞いている」と答弁をした。正常な感覚を持ち合わせていれば、どうすべきかは自ずと解るだろう。また福井県の高速増殖炉もんじゅは稼働して1年ほどでナトリウム漏れの火災を起こし死傷者まで出した。事故後、15年を経て再稼働する運びとなったが、トラブルが続き装置の落下で稼働どころか修理の段階で頓挫している。危険回避と管理に年間500億もの経費がかかり、厄介なことに燃料がプルトニウムであるため安定するまで今後50年を待たねばならない。さらに青森県の六ヶ所村、ここには原発ではなく、核燃料の再処理施設がある。通常運転に於いても原発から放射能は漏れ、そのうえ高濃度の放射性物質を環境に捨てている。一般原発は「原子炉等規制法」という法律で一定濃度薄めて捨てるように規制されるが、再処理工場はこの規制から除外されるため、薄めずそのまま垂れ流す。沖合3km、深さ44mの海底に造られた排水口から原発一基一年分の放射能を一日で排出する計算になる。費用がかかるという理由だけで処理を怠っているのだ。海洋汚染はすさまじいものであろう。六ヶ所村には100年分の使用済核燃料が貯まりつづけ、再処理は装置の操作ミスで故障し止まったまま、稼働の見通しもたっていない。事故が起これば日本壊滅では済まず、地球全体へ被害が拡大する。 福島でこれだけの事故が進行しているにも関わらず、原発の必要性を訴えるキャンペーンが続いている。夏場の電力需要で脅し、停止中の原発の稼働を画策する。1年に1〜2日あるかないかの最大電力使用量よりさらに高い数字をあげているが、正確な資料は隠して出さない。もし、このまま夏を乗り切ることができれば原発が要らないことが証明される。節電されて困るのは電力会社のはずだ。
原発ほど不安定で扱い難くコストのかかる発電法はない。30%を原発に依存しているという宣伝だが、点検で停止中のものなどあり、実は18%に過ぎない。18%を稼働させるため火力や水力を休ませているのが実状だ。前にも述べたように原発は発電が目的ではなく、電気代のコストを上げるため保有する電力会社の資産なのだ。おそらくこの夏、節電も効を奏し、あっけないほど不足は起こらないだろう。 福島の事故直後にアンケートが実施され「ただちに原発を止める」は6%だった。あまりにも少ない数値に絶望感を抱いた。まだ、まだ、電力会社の宣伝が効いていたのだろう。ところが3か月後、6月の全国世論調査では「ただちに止める」が9.4%に増え、需給に応じて廃炉と答えた人を含めると82%までになった。大本営発表だけではまずいと考えたのか、隠しきれなくなったのか、メディアも小出しに事実を伝え始めた。「国がそんなに危険なものを造るはずがない」と一蹴されていた反原発の主張はようやく市民権を得た。いまさら国や電力会社、御用学者、原発タレントを責めても、彼らに事故を収拾する力も知恵もない。水をかけて冷やすしか対策はない。核は誰を以てしても扱うことのできない困難なものだ。 断腸の思いで故郷を去る人、故郷で死にたいと残る人、生活の糧とした仕事を諦める人、原発さえなければいままでどうりに平穏無事な毎日が続いた筈だ。福島にかぎらずどこで起こってもおかしくない事だ。いますべての原発を止めても、危険が回避されるわけではない。いままで貯まり続けた放射性廃棄物は残る。これをひとまず100〜300年管理し、長期的に100万年も管理することはできない。フランスでは30年足らずで廃棄物容器の腐食が始まって人が近づけない地域があり、今後世界各国で深刻な事態が明らかになるだろう。人類の終焉は必ず訪れる。原発事故を機に、その時が見えてきたように思う。 ............................................................................................. 【追記.1】福島原発の真実 佐藤栄佐久著 福島原発の事故以来、いくつもの雑誌や本を読んだ。本書は元福島県知事が国や電力会社との戦いを書き上げたものだ。いかに電力会社や国がいい加減か、金銭の魔力に中毒した者には正義が見えず国民の安全など一顧だにしない。著者は県独自に原子力政策や安全を検証し、国に直截な意見を訴え続けた結果、収賄という罪を捏造され知事を辞職するに至った。捏造、隠蔽、奸計は国や電力会社の日常業務でもあるかのようだ。不正などなくても、騒ぐだけでハイエナのごとくマスコミが群がり攻撃する。まもなく、騒動の責任をとって地位を退く、もしくは座敷牢に幽閉されることになる。利権の温存を目指す勢力はこうして邪魔者を排除する。著者を捕えた検事は厚生労働省の局長の罪を捏造した張本人であった。気鋭の政治家の手足を奪ったことで国民は取り返しのつかない不幸にさらされているのだ。一人の検事の背後に一体どのような勢力がうごめいているのだろうか。佐賀では玄海原発の再稼働を巡って揺れた。全国に先駆けて再稼働容認を表明した町長。福島の事故の収束もつかず事故の検証も終わらぬうちにだ。誰が見ても「おかしい」と思うはずだが、その頓着もなく表明した。案の定、嗅覚優れしマスコミが九電との関係を調べた。実弟の会社が九電や原発関連の事業を一手に引き受けていたのだ。町長というより九電の役場支店長で、主従関係は逆転している。一方、4月の知事選で原発の安全運転を公約に掲げた知事はしばらく「安全、安全、、」を連呼したが、それは見せかけのポーズだった。いつ再稼働を表明するか時期を探っていたのだ。5年前のプルサーマルの同意の時と同じように唐突に「安全は確保された」と言い始めた。こんな事だろうと思っていた。知事もまた、九電の寄付を頼りに県政を運営する下僕であり、県庁支店長に過ぎない。折しも九電のやらせメール、やらせ説明会の不正が発覚し、にわかにストレステストの導入が発表された。より安全を検証することは国民にとって悪いはずがない。なのに、町長と知事は飼主をおもんぱかり、国の一貫性のなさを怒って見せた。このような首長の存在が地域住民だけでなく、近隣の県や地域を危機に陥れているのだ。知事はもうひとつ、地元の同意も得ずに長崎新幹線と言う暴挙を遂行中だ。博多-長崎を新たな鉄道を敷いて走らせるという。3000〜5000億ともいわれる事業費に見合う効果はたった13分の時間短縮だ。しかし、これはまだマシだ、無駄に税金が使われ知事が信義を失うだけで済む。原発は違う、知事はもちろん国でさえ責任を取ることができない。取り返しのつかない命と健康が奪われ未来が閉ざされる。
著書は身を挺してチェルノブイリの実状を伝え支援を続けるジャーナリストである。著者の仕事に福島が加わった。チェルノブイリの高濃度汚染地域の住民が、強制避難させられた街の写真を見た。人影はなくうっすら雪に覆われた死の街だ。原発から30km圏内は25年経ったいまも、特別の許可証がないと立ち入れないし、18歳未満の子供や青少年は立ち入りが禁止されている。そこで測定した平均的な放射線量が毎時3〜4μSvであった。一方、文部科学省の通達で出された福島県の学校の校庭利用時の放射線基準値は、毎時3.8μSv(年間20mSv)が子供たちに適用されている。福島の子供達や人々は死の街で暮らしていることになる。事故を隠蔽しようとしたソ連でさえ1000台以上ものバスを用意し、住民を避難させた。ただちに影響はないと言い続ける日本、避難区域さえ縮小しようとする日本を先進国といえるだろうか。 事故後まもなく放射性ヨウ素で汚染された野菜や水が見つかった。次は茶葉からセシウムが、そして稲ワラを食べた牛肉からも検出された。3000頭もの牛肉が全国に流通し人々の胃袋に収まった。私の近所のスーパでも5月に200キロほど販売されていた。その頃の食事のメニューを思い出すと私もすでに食べてしまったのかも知れない。遠く離れていても食を介して内部被曝が起こることを知らしむる出来事だ。牛肉の汚染は、汚染のうちの一つでしかない。牛乳はどうなのか野菜や魚や米は大丈夫か、そして最も心配な事はいまそこで生活を続ける人々がいる。チェルノブイリでは汚染された食材は汚染の少ない地域に運ばれ基準値をクリアするまで薄めて出荷された。これは25年後のいまも続き、これからも続くだろう。汚染食材を混ぜる、加工する、別のものに転用する ... いままで起った食品偽装のすべてが起って不思議ではない。汚染を知って卸し、知って仕入れ、それを売る。人の善意を信じたいが生活もかかっている。また、これから100年も注意や検査や緊張を維持できるだろうか。食べてしまったときは、国の言う「ただちに影響はない」を拠り所にするしかない。著者がベラルーシで会った女性に、食品汚染が怖くないかと聞いたところ、次のような答が返ってきた。
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40年も前、「日本人とユダヤ人」という本がベストセラーになった。そこで有名になったのが「日本人は水と安全はタダだと思っている」という言葉だ。著者はイザヤ・ベンダサンという名だったが、後に日本人が書いたものであることが判明し、内容について賛否が飛び交った。蛇口を回せば生活用水や飲み水が流れ出す。当時は空気と同じく水もあたりまえに手に入ると思って疑わなかった。日本人とユダヤ人から13年後の1983年、「六甲の水」という製品が発売される。実質的に水が商品として流通し始め、水がお金になることに驚いた。一体誰が買うのだろうか?と思ったが、いまやペットボトルウォーターは必需品の地位を確固なものにした。 最近まで、中国マネーが日本の山林を買い漁る報道が相次いだ。目的は水資源であることが言われている。目先の利益だけでなく長期の戦略を持つ人々に学び、警戒もすべきであろう。ただし、原発事故は彼らにとっても想定外の出来事だったに違いない。終息の見通しはたたず、大地に染み、海に流れ、風に乗り、放射能は日本はおろか地球を覆いつくす。とりわけ日本の大地は汚染がひどく、地下水脈は永久的に不安なものに変わった。彼らの長期的な思惑も変更を余儀なくされるだろう。これからの物流は低汚染地から高汚染地へと流れていくと思われるが、往々にして世間では逆のことも行われてきた。環境からの恵みは移動させることで、その環境の破壊につながることを著者は訴えている。地球は閉鎖循環し、その中の環境も一定の系の中で循環しているのだ。水においては、地域内で使用し大地や河川に還すならば系を乱すことは少ない。しかし、ペットボトルに詰め地域から遠く移動させれば、汲み取られた資源は枯渇し、地域の農業や生活用水、生態系までも影響を及ぼす。
巨額の資金を持ったものが動けば、ひ弱な個人などひとたまりもない。抵抗は空を切るだけで為すすべがない。富の有無によって水や食などあらゆる偏在が発生する。私達は金さえ払えば世界中のものを入手可能であると考えているが、高額な国産品は外国の富裕層向けに輸出され、庶民は安価な輸入品しか買えないようになるかも知れない。この傾向はいま現実に起こりつつある。何某かの製品のラベルの表示で中国製でないものを探すのが難しい。人類共有の財産であろうと思われる水資源を確保・独占するため企業は多彩なプロパガンダを展開する。水道水が劣悪で健康を害するかのように吹聴し、ペットボトルに詰めた水をミネラル豊富な健康飲料と錯覚させる。良心に鈍感な学者やジャーナリストの魂をカネで買い企業に有利な発言をさせたり、販売に便利な風評をまき散らす。
水道水を冷やして飲めば、ミネラルウォーターと区別できないという話を聞いたことがある。ペットボトルウォーターのいかにも華々しい宣伝は捏造である可能性も考えられる。食やライフスタイルがメディアに乗ればそれはファッションとして輝きだす。軽妙で洗練されたかのような演出で消費を促し、企業だけ丸儲けするのがマーケティングの成果だ。私たちが怠惰に短気になりつつあるのではなく、風潮を創出し仕向けるという見方もできる。水道水は配管の劣化による異物の混入や溶出、殺菌時の残留塩素を始め、飲用するに躊躇する様々な課題が山積している。多くは水道の搬送過程に於いて懸念されることであるが、水源での水道水の品質はすべてではないがボトルウォーターに優るとも劣らない。水道水は少なくとも地域で供給される循環水であり、これは守るべき必要と価値のあるものだ。水道水の汚染回避に生活水と飲料水を分けて処理したり、浄水器の設置など様々な方法が考えられるが、いづれにせよ裕福な人々はなにも困らない。人口が増え資源や生産物に限度があれば金銭による争奪が始まり、そこでさらに貧富の格差が生じる。本書は結論を導くものではなく、水をめぐる現状を正しく伝え問題を提起している。一人一人の独自の選択と行動が大河の流れを生み、必ずしも理想どうりには行かないが最良の流れになることを祈る。訳者あとがきからの引用である。
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時が経つにつれ記憶は薄れ、また記憶にとどめている人は少なくなっていく。70年も前のこと、当時の状況を知る人は80歳以上の齢を重ねている。情報操作に現実を見失い熱狂の果て太平洋戦争へと突入した。大本営発表というのは現在、意図的に嘘もしくは逆の発表をすることの代名詞となった。いま真最中の震災、とりわけ原発報道はまさに大本営発表そのものだ。無責任と正当化で被害者の生活と心情をずたすたに引き裂いている。大本営発表と異なる点は複数のメディアが存在し、その気になれば正当な情報を得ることができる。これが逆に混乱をもたらす原因ともなるが、一色に染まるよりマシだと思っている。私達は生起する出来事に対して無関心か関心かで反応し、うちいくつかは感情の暴走とも言うべき熱狂に囚われる事がある。後にホゾを噛んでも、ふたたび、みたび似たような熱狂に冷静さを失う。A.ビアス・悪魔の辞典には、「熱狂・・・経験という外用薬と、後悔という内服薬を用いれば、この病気は治る」と書かれているが、軽くなることはあるが治りはしないと私は考えている。熱狂は我々の内に生起する快感現象で、極ありふれた心理機序だ。したがって快を求め、快をもたらす熱狂の対象を求め続けていると言えなくもない。そこへ素材を投じさえすれば難しい操作は要らない。酒や菓子などを売るのと同じマーケティングの手法で足りる。誰もが気付いていながら、多くの人が流れに呑み込まれ、そこで思考がストップする。ニュースでも同様なことが行われ起っている。
特有の価値観と感情的偏見に利害が絡まると、ニュースの対象に著しい偏差が生じ暴発する。既得権を侵されそうな対象は悪印象を煽り、既得権を死守するもの達は互いの悪事でさえかばいあうだろう。最たるものは権力を持つ側の暴力だ。無実の人を証拠を捏造してまで罪に陥れる検察に心底戦慄を覚えた。メディアは検察に追随して有罪を煽り、無実が判明すると、あからさまに検察への非難を始めた。この見事なまでの節操のなさがメディアの本質を物語っている。彼らは自らの誤りの総括も詫びもせず、口をぬぐう事もなく次の獲物を追う。「マスゴミ」という呼び方はあながち比喩でも誇張でもない。新聞やテレビだけで情報を得ている人々はこのことを心しておかねばなるまい。ネット以前は雑誌や本を併読し真相に迫ることを試みた。しかし、そこまで熱心な人は限られている。ネットというツールを手に入れたいま、世界中の秘匿された情報までもが入手できる。情報が多ければ錯綜した真実を掘り起こす苦労はいるが、一方的な情報より広く考えることができる。著者はネットの発達でメディアの知力の低下や貧弱さが露呈している事を指摘する。 新聞の「読者のひろば」を見てみよう。そこには時事に触れる様々な投稿がある。新聞やテレビしか見ていない人、それ以上の情報を得た人、独自の視点を持つ人など、多様な考えで世は成り立っている。私達は見聞きしたものを材料に価値観を築き判断を行う。見聞きする情報は大きく映像と言説に分けられ、各々特性を有している。
「百聞は一見に如かず」とはあまりにも言い古された言葉だ。眼で捉える正真正銘の現実は疑う余地がない。即物的思考や意見は説得力も大きい。記者は正負の両面を見据えて語ることが肝要であるが、あくまでも理想であって、実際は記者のバイアスが反映する。記事は聞いたり読んだで理解できるが、映像に仕掛けられたバイアスは知らず知らずのうちに受け入れてしまい、一定のイメージが植え付けられる。しかめっ面や怒りの顔ばかり切り取って流されると悪人に見えてくる。さらにそれを何ヶ月も、何年も繰り返し執拗に流されると、いわれなき悪者へと仕立てあげられる。いま、すべての動きが視聴できるネット動画の人気が高まっているという。ネット動画は真実を知りたいという欲求の発露であろう。捏造で人を陥れるのは検察ばかりではない。本には薬害エイズで悪者とされた安部教授のことが書かれていた。氏は一審で無罪、上訴中に認知症を患い公判停止となり、まもなく死去された。検察は裁判で無罪に足る明らかな証拠を隠蔽したが、それでも無罪だった。無罪判決が出ても安部バッシングは止まず、メディアは被害者の処罰感情を煽り続けた。当時、私も安部教授については悪いイメージを持って見ていた。余談になるが、時の厚生大臣であった菅直人氏の謝罪は人気取りの政治ショーに過ぎなかった。このショーがその後、彼の台頭を許し、ついに総理大臣まで登りつめた。薬害エイズが生みだした理念なき政治家も大きな薬害であった。 記事や放送はメディアの商品として考えるほうが解りやすい。売り上げ部数や視聴率が成績として評価される。企業ならマーケティングやプロパガンダは欠かせない。しかし、公平無私が強く要求される業界でもある。そこに記者の抱くバイアスが働けば報道は歪み偏ったものになるだろう。著者は8つのバイアスをあげている。1)記者の先入観バイアス、2)物語を作ろうとするバイアス。3)決めつけバイアス、4)警告主義(使命感)バイアス、5)期待応答(賞賛)バイアス、6)コミットメント(一貫性)バイアス、7)量軽視バイアス、8)自主規制バイアス 記者に限らず誰にもあることなので、特に新奇で注目すべきものはない。バイアスは記者個人に帰属する価値観でもあり、これを完全に排除するのは難しい。著者は報道ガイドラインの作成と、第三者機関の設置を提言する。いわゆる規制やルールと呼ばれるものだ。ここに安易に走ることも警戒を要するところだ。自ら仕掛けた規制に自らが足をすくわれたりする。著者は現役の毎日新聞の編集委員である。仕事に一石を投じる書物かもしれないが、一人の社員の正義感あふれる発信くらいで巨大な組織はびくともしない。川の向こう側から届きもしない石を投げるようなものだ。毎日新聞の記事が公平無私とは言い難い。 |
原発問題をライフワークとする著者に言わせれば、温暖化人為説の筆頭が原発と都市の排熱である。「温暖化対策→CO2を排出しない原発を・・」というキャンペーンは温暖化防止対策ではなく、文字どうり温暖化対策なのだ。昔の人は「盗人猛々しいと」言って戒めた。2000℃の原子炉から排出される温排水は周囲の海水より7〜8℃高く、一基で毎秒80tになる。桁違いの設備費や後の核廃棄物の処理費など考えるとすべての工程で膨大なエネルギーを消費する。国や責任ある企業が嘘をつくはずがないと信じる市民は善良すぎて騙される。嘘をまき散らすのはしばしば露見する改竄や隠蔽と同列のものだ。温暖化=CO2説自体、原子力産業が企むキャンペーンといっても過言ではない。情報の発達で、いま、世のからくりは容易に暴かれる。ここにも裏に何らかの思惑が潜んでいるのだろう。温暖化が本当だとしても、CO2は多くの要因のひとつで人為的なものの、さらに一要因でしかない。すべての要因を考えに入れた予測など現代の科学では複雑すぎて不可能だ。試みに行ったところやはり矛盾だらけの結果が出てしまった。100年後の気象予測どころか1年後さえ見通せない。せいぜい明日や明後日、一週間を予測し、月間の概況を述べるのがせいぜいだ。そしてそれも先になるほど的中率は低下する。 温暖化の真偽によってはCO2説が根底から揺らぐ。日本ではほとんど報道されていないが、2009年にアメリカでクライメートゲート事件が起こった。事件の概要は、イギリスのイーストアングリア大学にある気象研究ユニットのサーバーから、交信メール1073件と、文書3800点がアメリカの複数のブログサイトに流出したことに始まる。気温をエアコンや煙突の排気口で測定したり、過去1000年の気温変動のグラフを捏造し温暖化説を主張した。このことがメール等の流出で白日の下にさらされた。
流出したメールの中には「うまく騙した」と喜びあう内容のものがあり、当人たちもそれを認めた。発覚する2年前の2007年、彼らの取り組みが評価されアル・ゴアとともにノーベル平和賞を受賞している。2001年に温暖化の話がもち上がって以降、世界中で温暖化の大合唱が始まり、疑うことなく右へ倣った。振り返ると疑い踏みとどまる機会は何度もあった。しかし、異を唱える学者の声はかき消され闇に埋もれてしまった。事実や正義で世の中は動いているわけではない。嘘であっても、むしろ意図的な嘘に人々は動かされる。メディアの発達は彼らに強大な力を与え、同時に企みが暴露される脆弱も備えている。不思議な事に日本ではほとんどこの事件の報道はなく、祭りは終わったと言うのに相変わらず温暖化対策の真っただ中だ。彼らは一体なんのために捏造までして温暖化を主張したのか。著者によれば温暖化に伴うCO2排出権取引というデリバティブでひと儲けしようと企み、原子力産業がキャンペーンに便乗した。繰り返し聞かされるフレーズは行動や思考の深層に入り、CO2、エコとさえ唱えれば手放しで受け容れるまでに慣らされる。出来上がったフレーズから先への思考・認識は停止させ、従うことが正しい。言いかえれば洗脳と呼ばれるものだ。エコという名のもと内容も理解しないままの大量消費で逆の結果をもたらす。クライメートゲート事件だけでなく、温暖化議論をネット検索すると賛否両論が交錯し、私たちは疑い考える材料が得られる。都合良く切り取った情報だけ流し続けるメディアとは距離を置くべきであろう。北朝鮮や中国など情報閉鎖で現実が見えない国もあれば、日本のように情報解放でも現実が見えない国もある。 それでも夏は異常に暑く、台風の進路は変わり水害も激甚なものになった。気象の変化を身を以て感じ、なにかが原因ではないかと素朴に疑問を抱く。茶話、時候の挨拶で「これも温暖化だろうか?」と話を締めくくる。暑さ寒さを皮膚感覚で受け入れるからこそ温暖化と結びついてしまう。冒頭の引用を読むと、地球の気温を変化させる要因はたくさんある。
1956年、日本の気象庁が発足してからまだ半世紀である。「観測史上最高・観測史上最低」と言われる記録は、46億年の地球の歴史から考えて、瞬間の出来事だ。ひと頃騒がれたオゾンホールはどうなったのだろう。CO2温暖化説もやがてオゾンホールと似たような末路が予想される。 CO2温暖化と分けて考えなければならないのがヒートアイランド現象だ。この違いを誤ると逆の結果をもたらす事になる。CO2温暖化は地球からの熱を温室効果ガスが閉じ込め熱を温存するものであった。ヒートアイランドは直接加熱による温度上昇である。夏場、何万台もの自動車や冷房機から排出される熱が集まり、都市型の過熱現象を引き起こす。東京都内で自動車700万台、エアコン900万台が排出する熱は、真夏にもうひとつ太陽を増やすほどの熱量だという。この過熱現象がほぼ日本全土に波及し、次第に国際的な規模に発展しつつある。猛暑の日数も時間も増加し、熱せられた水蒸気が集まり激しい豪雨に見舞われる。繰り返すが、私たちが温暖化というのは実はヒートアイランドによるものでCO2によるものではない。ここからは、いかに原発が熱源となり、ヒートアイランドの片棒を担いでいるかの話になるが、これについては別のコラムでも紹介しているので、これ以上は書かない。 いずれにしても素人にとっては「暑くなった事」に違いはない。気温が上がる原因がCO2であれ気象変化であれ結果は同じだ。地球の人口が増え生産活動も増大した。それに薄々気付いているからこそCO2の排出削減と結びついてしまった。これから、人口を調節し活動を減速するのは絶望的だ。贅沢という死神に抱すくめられ、もがきながら終りが来る。いまのところ先は見えないが、それは明日かも知れない。 ...................................................................................................................... 【追記1.】1/28の地方紙に名刺ほどのスペースを割いて「イラン原発であわや大惨事」という見出し記事が載った。昨年(2010)、原発などに対してサイバー攻撃が仕掛けられ、あわやチェルノブイリ原発事故に匹敵する大惨事に至るところだった。イランで産業界の多くのコンピューターがスタックスネスト【注】というウイルスに感染し、それにより原発の原子炉が制御不能になって暴走する恐れがあった。原発のテロ攻撃は以前から指摘されては忘れられていたが、武力に限らず単にコンピューターを操作するだけで脅威をもたらすのだ。ゲームで遊ぶかのように愉快にコンピュータを操る人々の存在も想定しておかねばならない。原発はもちろん危険だが文明の利器も邪悪な使い手によって凶器に変貌する。
【追記2.】東北・関東大震災と福島原発事故 原発に警鐘を鳴らす人々が恐れ訴え続けてきたことが現実になった。「想定外・・」と言って誤魔化すな。いままで鬱陶しいほどいくつもの危険が指摘されてきたではないか。言いたいこと知らせたいことは百万言もあるが、国と電力会社は被害を受けた人々の健康と財産が元どうり回復するまで責任を果たさねばならない。警鐘をあざ笑うかのように原発を推進してきたのだから・・
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薬で病気を治したり、病気を予防することは期待を込めて語られるが、これを常識として良いのか。すべての医師や薬剤師が正しい情報を身につけているのだろうか。健康に関しては不精する事の後ろめたさやリスクを考えがちだが、ときには不精する事が積極的な健康法にもなるのだ。メタボの話はいくつも紹介してきたが、認知症についてもメタボと同じく製薬会社の事情が垣間見える。認知症とは漠然と「ボケ」くらいに考えているが、正しくは次のような条件がある。1)記憶障害を中心とする複合的認知の障害、2)以前はできていた社会生活・日常生活が困難になる、3)それが一時的なことではなくて徐々に進み、持続する。かみ砕いていえば結局、ボケということになるが、記憶障害、妄想、幻覚などの症状が見られ年単位でゆっくり進行するのが認知症である。短期間に進行し、原因が無くなると症状が消えるのを「せん妄」といい「認知症」とは区別される。「最近もの忘れが..」という話を交わすが、日常生活に困るほどでないものは単なる老化であって認知症ではない。実際の診断は難しく、65歳以上の認知症は4〜7%というデータがある。 ところが「せん妄」はしばしばみられ病態が似ているため認知症と誤診する医師が少なくない。高齢の入院患者の多くにせん妄が生じ、意識レベルの低下に伴い記憶・理解・判断力が落ち、幻覚・妄想・異常行動を発症する。これが週・日・時間単位で進行し、原因が存在するので原因が無くなれば症状は消失する。消失するなら問題なさそうに思えるが、実は死亡の危険性が高まるという。
せん妄の起こる原因は4つの事が考えられる。1)他の病気に伴うもの、2)薬剤やアルコール、中毒薬物などの物質によるもの、3)原因が複合するもの、4)分類不明のもの。ここからは2)の薬物を中心に考えていく。まず神経に作用する薬はせん妄を起こす可能性がある。また病気などにともなう生理状態でせん妄を引き起こすことがある。インフルエンザ治療薬のタミフルでのせん妄はあまりにも有名だ。喘息や糖尿病の悪化で生じたせん妄と薬が反応したり、神経に作用しないと思われる薬でも体の状態や分量によって起るものがある。たとえば胃薬といえば大丈夫そうに思うが、ガスターという薬はH2ブロッカーという神経作用薬が配合され神経伝達物質のバランスを崩してしまう。胃薬は安易な服用をしがちなので、H2ブロッカーと他薬の併用は注意が必要であろう。肝障害や腎障害、高齢者で認知症の傾向、糖尿病のコントロール不良、高カリウム血症、低酸素症、せん妄を生じやすい疾患、せん妄を生じやすい薬などの要件を備えていれば危険性は高まる。 現代病ともいわれる「うつ病」について、以前は心因性と器質性のものとに分類されていた。いまではその双方に原因が求められるようになり、薬や治療の境界が曖昧になっているような気がする。現状を熟知してはいないが私が学生の頃は心因性である神経症にはマイナートランキライザーを用い、これには睡眠薬が多かったように記憶している。精神病にはメジャートランキライザーを用い、これは脳内アミンに働きかける薬物だった。25年も新薬から離れ勉強不足であるが、現在の精神神経薬の市場は10年で倍に膨らみ、抗うつ薬については5倍の市場規模に達している。心の専門家がやたら増え、彼らが病気を増やしているのではないかと見紛うほどだ。人ごとではない、私などライフスタイルや性格にややうつ的な傾向があり、外へ出て人と交わることを得意としないので、彼らに言わせれば病気の萌芽があるのかも知れない。「では頼む」といえばカウンセリングで自己啓発を促し、それに失敗すると精神科へ送り込まれ、「せん妄薬」へ一直線だ。大人ならまだしも、はなはだしきは小学校へ入学したばかりの子供に「落ち着きがない」などの理由をあげて薬でコントロールするという。【注】騒々しく動き回り、時に奇声を発するのが子供だ。成長期の脳に抑制的な薬物を与え取り返しのつかない結果になることを恐れている。精神科に限らず、己の職域や市場を広げるため日々病は増え続けている。医学は個性や体質や老化まで病気にしてしまい、進歩の反面、病人と半病人を大量生産した。 5倍にも膨らんだ「うつ病薬」は先に述べた「せん妄」を引き起こす薬剤の最たるものであろう。日本ではうつ病の1/4は高齢者だとされている。著者は事故や激しいストレスで発生した興奮毒性で脳神経細胞の一部が死滅して起こるのではないかという。若い人は代償機能が旺盛なため、安静をとることで回復するが、高齢者はそうはいかない。うつ病は脳内で働くノルアドレナリンやドーパミン、セロトニンが不足するためと考えられている。最近よく使われるSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)はセロトニンの濃度を高めることで最終的にドーパミンを増加させる作用を持つ。依存性が生じやすいにも関わらず、うつ病だけでなくパニック障害や月経前症候群など不安を中心とした多くの疾患に使用が拡大し、著者の言によれば「安易に使われすぎている」。
原因となった病気と同じ症状がその治療薬の服用で出現することがある。極端な話になるが、アメリカでSSRIを服用していた人が職場で8人を射殺後、自らも自殺する事件が起った。この裁判で製薬会社が保有する薬剤の資料が公表され、薬の服用と暴力行為との関連を示唆することになった。実際、医薬品医療機器総合機構にはSSRI服用後に突然他人に暴力を振るうなどの攻撃性を増したり、激昂するなど害反応と疑われる症例が2008年秋までの4年半に42件が寄せられている。これはSSRIに限ったことではなく、他の精神神経薬や睡眠薬によるせん妄でも起りうるという。 近年、メタボの基準値が下げられ抗脂血症薬や血圧降下剤を服む人が増えているが、基準値に収まったため体調不良を訴えることがある。生物には個性も体質もあるので、基準値が間違いと言うこともある。元気や活動力を失い「うつ病」傾向が出現する。精神神経薬以外でも注意すべき点だ。肝腎の医師がアテにならないから現状が悪化しているのだ。医薬分業では、薬剤師は処方の問題点を指摘すべきが理想とされるところ、現実は医師の処方への批判ともとられかねず、指摘しても最終的には医師の判断が優先される。結果的に謙虚な医師のもとでしか分業は成立しない。
著者によれば、「医師は成功すれば自分の腕が良いと思い、悪くなれば患者本人の特異体質のせい」と思う傾向があるという。良くなるほうを見て、悪くなるほうから目を背けることで治療のモチベーションを維持しているのかも知れない。しかし、どうしても医師を頼りにせざるを得ない患者のため、正しい使用法や副作用については熟知して欲しいものだ。
うつ病の増加は単にストレス社会だけが原因ではない。これには製薬会社のプロパガンダが大きく寄与している。影響力の大きい研究者や患者団体への寄付で薬にお墨付きを貰い、駄菓子でも売るかのように販売を拡大していく。医学の進歩に伴い病気が増え続けるのはどこかおかしい。
専門家でも難しい薬効の評価を素人が出来るわけがないし、医療人でさえ容易にいかない。たとえ疑いを抱いたとて、そこから正当な情報に行き着くのは困難を極める。著者のような専門家がもっと増えてくれることを望む反面、添付文書を忠実に守れば医療は一歩も進まない気もする。放置してもやがて治る病気はたくさんある。無精することのリスクにあまりにも神経質になりすぎてはいないだろうか。神経質にしてしまった原因は取るに足りない事を話題にするメディアや、職域を広げようとする業界にある。起床時、少し眩暈がしたことを重篤な疾患の前触れとして検査を受けたり、老化現象や一時的な疲労を病気だと考えたりするのを止めて、安易に病院へ行かない選択肢を真剣に考えるときが来ている。 【注】コラムUP後に「発達障害」の幼児に向精神薬処方、専門医の3割に」という見出しで関連情報が報道された。以下記事の全文である。自閉症や注意欠陥多動性障害(ADHD)といった「発達障害」がある小学校入学前の幼い子供に、精神安定剤や睡眠薬などの「向精神薬」を処方している専門医が3割に上ることが9日、厚生労働省研究班の調査で分かった。小学校低学年(1〜2年)まで含めると専門医の半数を超えた。子供を対象にした向精神薬処方の実態が明らかになるのは初めて。調査した国立精神・神経医療研究センター病院(東京都小平市)小児神経科の中川栄二医長は「神経伝達物質やホルモンの分泌に直接作用する薬もあるのに、幼いころから飲み続けた場合の精神や身体の成長への影響が検証されていない。知識の乏しい医師が処方する例もある」と懸念。製薬会社などと協力して安全性を早急に調査し、治療の指針を確立する必要があるとしている。昨秋、全国の小児神経専門医と日本児童青年精神医学会認定医計1155人を対象にアンケートを実施。回答した618人のうち、小学校入学前の子供に処方しているのは175人(28%)。小学校低学年まで含めると339人(55%)、高校生まで合わせると451人(73%)となった。治療の対象としている子供の症状(複数回答)は「興奮」が88%、「睡眠障害」78%、「衝動性」77%、「多動」73%、「自傷他害」67%。使用している向精神薬(複数回答)は、衝動的な行動や興奮を鎮める薬「リスペリドン」(88%)、注意力や集中力を高めるADHD治療薬「メチルフェニデート」(67%)、睡眠薬(59%)などだった。(2011.3.10/日経新聞web記事より) |
「呪いと祝い」という副題が付された宗教家、思想家、医者の鼎談集である。「祈り」とは科学技術からもっとも遠方にある神秘の分野を想像するのが通例だろう。心理学者・ユングの説では縦割りした脳地図を考える。上部・表層にあるのが意識領で、ここは高次の思考や判断を行うとされる。下部は無意識領が広がり、深い部分は太古の歴史や外界との共有意識があるという。まったく神秘以外のなにものでもなく、ユングがニューエイジの大御所とされる所以である。しかし、安直に切り捨てて終わるほど私たちは賢く、物事を解っているのか?物事の本質や真理は科学だけのフィールドではない。むしろ知りたいのは科学で解明された先にある謎であることが多い。その謎を追えばユングの言うような世界が広がりを見せる。頭ではなく、肚に収まる理由が見いだせれば構わない、と考える人々はニューエイジを支持するだろう。腑に落ちない現象に対する一般の解釈は、多くの人が納得すればそれで一定の目的を達した感がある。体験による現実感と常識的思考パターンを備えておけば事足りる。更なる追求の果て、先が閉ざされると霊や神などの概念に逃げ込む。解らないままにしておくより安心なのだ。本書は「呪い」「祈り」というキーワードで現代を読み解く試みだ。
ネットに限らずメディアを通して政治家や芸能人が攻撃される。過去には「公人にプライバシーはない」とまで言い切る者までいた。俎上にのぼりやすい政治家や芸能人は縮図であって、私達の身辺でも同様の攻撃は無数に行われている。狭くは家族や夫婦、学校、会社など、いわゆる「いじめ」と呼ばれるものだ。2ちゃんねるなど閲覧すると、本当に人が書いているのか?別の星の生き者ではないかと思うほどの罵詈雑言が交わされ、垂れ流される。権力を持つ者、富裕者、芸能人は叩かれても構わないとでも言わんばかりだ。また逆に強者や多数派が弱者や異端者などを力でねじ伏せようとする動きが世界中に広がりつつある。武力を背景にした覇権などその最たる例ではないか。一人の政治家や官僚を攻撃し血祭りに上げたところで、社会が変わり生活が良くなる訳はないが、生贄が退場するまでセツメイセキニン、シャザイと執拗に連呼する。街角の市民を始め識者と呼ばれる人々までもが、したり顔でセツメイセキニン、シャザイを叫ぶようになった。明日は立場が入れ替わることなど恐れもせず刹那の呪いに身を委ねる。野党時代に叫んでいた理念を失った政治家たち、一方は与党時代に自らの犯した失政だったものを糾弾する。彼らの日々の営みは滑稽な見本市の様相だ。これと同じ事を多分、私たちも行っているのだろう。呪いの源泉は、おおよそ職場や知人、夫婦間の葛藤であったり、己の無能と無力の代償だ。 不確定なもの、知識で理由を見いだせないものは、心の深部で形成された「何か・・」で納得や行動へと向かう。そこに介在するのが「ことば」に他ならない。ことばに込められた「何か」を「呪い」と呼ぶことで話を続けよう。呪いとはもともとの言葉が「告(の)る」、つまり「言葉を使う」ということで「呪い」と「祈り」・「祝い」は表裏の関係にあり、それぞれ負の祈りであり、正の祈りである。呪うことや怒りを暴発させることは、愛することや喜ぶこと(祝い)と逆だが、いずれも快感に捕捉される。ネットコミュニティなど閉じた集団では負の快感である呪いが機能しやすくなる。とりわけ妄想や信念はカルト的に強固になり、構成員には結束が生まれる。韓国ではネットの書き込みで芸能人が自殺に追い込まれる事件が続いた。思考や感情の不調をきたす人など相当数であろうと推測される。自殺へと追い詰めるほうも死を選ぶほうも、互いに異常な心理状態に落ち込んでいく。そして明日は自らに降りかかってくるかも知れない。心理学では集団心理といい、社会学では単に「いじめ」と言うのかも知れないが、宗教ではこれを「呪い」として考察する。心理学や社会学の用語で説明するより、すっきりと腑に落ちれば一向に構わないわけで、これには個人の性格や過去の経験、環境などが深く関与する。同一の文化を共有する集団では土俗の宗教の話がわかりやすく簡潔である。哲学者とは違い一般では複雑難解な考察より「わかりやすい」ことが肝要だ。
呪術とは言葉によって観念を支配、翻弄されるに他ならない。これを断ち切るには同一の土俵で行う必要がある。信仰を持った人の強靭な信念や打たれ強さは周知のことと思う。世の出来事を「呪い」で解釈し、それを以って納得する人には有効であろう。ひとつの方法論である。現代は信仰や祈りを失った時代だと、宗教家は言いたいのだろう。簡単に機能するならば信仰に入るのもやぶさかでない。信仰を失った理由は情報の氾濫による価値観の多様化であり、それによる個人主義の台頭が一因として考えられる。呪いに反応するメカニズムは太古から刷り込まれた深層にあるのかも知れないが、これは宗教に限らない。宗教や拝み屋さんは今でいう精神科医やカウンセラーであって、現代は相談相手の選択肢が広がっている。価値観の多様化は選択肢の多様化へと発展し、古い時代の宗教や呪術だけでは済まない人々が生まれた。宗教や呪術の復権もあっていいが、カウンセラーやときには「癒し」と呼ばれる「何か・・」に救われる人々もいる。いずれが優れているとはいえず、人によって選択の動機や思いは異なる筈だ。本では宗教的言辞が意外にも地名だったり、ありふれた言葉である事が書かれていた。「ことば」は言霊(ことだま)とも言い、古代から言葉どうりの力を発揮する不思議な力があるとされている。言葉には魂の素材が溢れ、悩みや癒し、必竟人生も言葉探しの旅なのかも知れない。 |
先月の地方紙の論説にインフルエンザの記事が載った。副題は「本格的流行に備えよう」とある。マスク、手洗い、うがいは良く分かる。そして「早めのワクチン接種を..」と続く。いまやワクチン接種は常識となってしまった。役所や医療関係者もワクチン接種を奨励するため、予約までして接種を急ぐ。記事には「既に集団感染で死者も出ている。気を引き締めて、ワクチン接種を早めに済ませ、本格的流行に備えよう」と書かれていた。メディアが危機を煽るのは記事を売るためであり、このことは値引きして考えるとして、県の健康増進課の対策までもが予防接種に傾倒するのは確かな根拠があってのことだろうか。というのも、年輩の方々はご存じと思うが、「インフルエンザワクチンは効果なし」として集団予防接種が廃止になった過去がある。1962年(昭和37年)から小中学生への集団接種が始まり1994年に廃止されるまで、現在と同じように早めのワクチン接種が奨励されていた。それが廃止された理由はなにか?そしてふたたび同じことが繰り返される理由はなにか?打つべきか打たざるべきかの判断はさておき、この経緯には様々なドラマがあった。 インフルエンザワクチンは太平洋戦争後、アメリカ軍のすすめで製造されるようになり、最初、公共性の高い職種の人から優先して接種が行われたが、流行が無くなることはなかった。そこで「学童防波堤論」と言い、小中学生に集団接種が始まり1976年には3歳から15歳までの予防接種が義務化される。大規模な接種の結果、副作用の被害も発生し国を相手に訴訟が起こされた。群馬県前橋で接種後の子供に痙攣が起こり、医師会はこれを機にワクチン接種地域と非接種地域でのインフルエンザの流行状況をまとめた。「前橋レポート」といわれるもので、集団接種をしてもしなくても流行の大きさに差のないことがわかった。訴訟でも国が負け続けたため1994年ついに小中学生への集団接種が廃止された。ピーク時に3000万本近く製造されたワクチンも30万本に落ち込んだ。
折しも鳥インフルエンザやSARSが社会問題となり、近々新型インフルエンザのパンデミックが起こることが囁かれ始めた。この流れは必然的にワクチンが息を吹き返す奔流となり、2001年予防接種法が改正され65歳以上の高齢者への接種が奨められることになった。やがて高齢者の介護職員や医療関係者、そしてインフルエンザ脳症の危険を喚起し、子供への接種が奨励された。今やすべての人に「流行に備え早めの接種を..」と呼びかけるまでに至った。将来は法案改正で再び義務化されるかも知れぬ勢いだ。 インフルエンザワクチンはウイルスの型が一致しないと効かないことは周知のことと思う。あらかじめ流行型を予測して、ある型のワクチンが造られる。著者によればインフルエンザウイルスは変異が激しく絶えず遺伝子構成が変わるという。感染した同じ人の体内で治る頃には変わってしまう。ワクチンでこのスピードに対応できないのは明らかだ。たとえ何らかの免疫を獲得したとしても有効期限は3〜4カ月程度と短い。先に書いたように国がいう「個人に対してなら効果がある」というのはこのレベルの話なのかも知れない。ワクチン接種の奨励を根幹とするインフルエンザ対策の根拠は頼りない。それに比べインフルエンザに自然感染して回復した人の免疫力は強力で持続性がある。先の新型インフルエンザでも60歳以上の人は感染しにくく感染しても症状は軽いものだった。また20代、30代とさかのぼるに従い感染力は低くなる。 2009年6月、WHO(世界保健機関)はパンデミックを意味するフェーズ6を宣言したが、その後の経過は季節性インフルエンザより軽微なものであった。大騒動で準備をした割には拍子抜けする経過を辿った。正しくパンデミックといえるものだったのか?ネットで調べているとWHOのメンバーとワクチンメーカーが結託して煽ったスキャンダルだと主張するサイトもある。本書でもワクチン業界の姿勢を問う記述が各所にみられた。企業としては利益を追及するのが当然かもしれないが、給料で働く現場は仕事の理念や生甲斐もあり、少しの保身もある。企業の行動を利益追求だけで批判するのはおかしい。しかし、いまのところメーカは相当の売上を記録し、ワクチンから検査キット、治療薬など効果対以上の利益をもたらしていることだろう。 本当に恐れられていたのは鳥インフルエンザの変異による人への感染だ。私もここ数年、戦々恐々として心の準備を整えていた。これもいまだ絶対に変異しないとは言い切れない。しかし、鳥インフルエンザがいわれ始めて10年以上にもなるが、人への散発的感染はあるものの変異した様子はない。実のところ種の壁を越えられないのではないかという説もある。100年前のスペイン風邪のとき、日本では約39万人の死者を出した。それから40年後、1957年のアジアインフルエンザでの死者は約1万人、1968年の香港インフルエンザでの死者は1231人と減少傾向にある。これからはスペイン風邪ほど悲惨なパンデミックは起こらないという説も記しておきたい。ここ数年、パンデミックにではなく、対策に翻弄されたのは幸いなことだった。いまだ、鳥インフルエンザの変異によるパンデミックも考えられないわけではない。これからも対策と啓蒙は続くものと思う。本にはワクチンを奨める立場の厚労省直属の研究機関の研究者の言葉が紹介されていた。
役所の広報誌、テレビニュース、新聞、いずれもふた言めには「ワクチン接種を..」と連呼する。あたかもワクチンが万能かのように錯覚し、疑うこともなく行動へと向かわせる。言い過ぎを承知でいえば、恐怖や危機を煽って売りつける悪徳商法にも似ている。公共機関が業界の広告宣伝を肩代わりしているようなものだ。ここはひとつ、奨励と同じ比率でワクチンの限界も伝えるべきで、ワクチンに偏らない総合的な対策が望まれる。 |