【風邪は万死のもと】


新型インフルエンザ 山本太郎 ー 2007.1月のコラムより ー

先月、韓国で鳥インフルエンザの発生が報道された。韓国の首都ソウルから南西に約260キロ離れた全羅北道金堤市の養鶏場でウズラが大量死し、原因は毒性の強い高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)と確認され、韓国での高病原性鳥インフルエンザ発生は今年3件目となった。下旬には、忠清南道牙山でも高病原性鳥インフルエンザの4件目の発生が確認され、発生農家から半径3km以内で飼育中のニワトリ、カモなど家禽類2万3000羽余りをすべて処分し防疫措置を取った。いままで全羅北道地域でのみ発生していたが、忠清南道地域で確認されたことで全国への拡散が懸念されている。高病原性鳥インフルエンザは鳥に対して強い毒性を持つものの、ヒトにはほとんど感染しないといわれていた。ところが、1997年以降、鳥インフルエンザの感染による死亡者も報告されるようになった。鳥インフルエンザのウイルスがブタを媒介にしてヒトへ感染したとき新型インフルエンザが出現し、ヒトに猛威を振る可能性があるのだ。過去の例から、新型インフルエンザは中国南部で発生し、アジアを経て世界中に広がったものと考えられている。ヒトとニワトリやブタなどの家畜が隣接して暮すこの地域の生態系が新型インフルエンザの発生に適しているという。20世紀には1918年のスペイン風邪(死者約4000万人)、1957年のアジア風邪(死者約200万人)、1968年の香港風邪(死者約100万人)、計3回の大きな新型インフルエンザが流行している。

まず木工職人と家具職人をかき集め、棺作りを始めさせておくこと。
次に、街にたむろする労務者をかき集めて墓穴を掘らせておくこと。
そうしておけば、少なくとも埋葬が間に合わず死体がどんどんたまって
いくという事態は避けられるはずだ。

上記はスペイン風邪の時のアメリカ公衆衛生学会誌(1918年)の引用である。近年頻発する鳥インフルエンザでは、発生地の鶏と周辺の鶏までもが重機で掘った穴に処分される光景を見た。対策や処分というのは聞こえは良いが、生きているものを殺し、その死体を土に捨てることに他ならない。鳥でなくてヒトであれば、まさに凄惨を極めるものであろう。今日見たことは、明日の自分の姿かも知れないのだ。新型インフルエンザウイルスの出現は、季節性の流行を繰り返す旧型インフルエンザウイルスに取って代わることを意味する。旧型インフルエンザが小さな変異を繰り返すうちに、ヒトが免疫を獲得すればウイルスはやがて自滅する。新型ウイルスの発生は「生き残りのためのウイルスの戦略か?」と著者は言う。変異はシフトとドリフトによって起こる。インフルエンザウイルスは内部蛋白の違いによってA・B・C型があり、このうちA型がもっとも毒性が強く世界的大流行(パンデミック)を引き起こす。このウイルスの表面にはHA(ヘマグルチニン)とNA(ノイラミニダーゼ)という抗原性を規定する蛋白を有し、HAでH1〜H16の16種、NAでN1〜N9の9種の亜型を持っている。シフトとは遺伝子再集合という仕組みを利用し、いままでの亜型とは異なる亜型を獲得し新型インフルエンザとなる。一方、ドリフトとはHAやNAのアミノ酸配列に変化が起こり、ウイルスの抗原性が変化し季節性流行インフルエンザウイルスとなる。季節性インフルエンザの流行の場合、ヒトは部分的にではあれ感染防御免疫を持っているが、遺伝子の組み合わせが大きく変わってしまった新型インフルエンザウイルスに対しては防御免疫が機能しない。

だた一つ確実なことは、次に現れる新型インフルエンザがここで述べた
強毒性のウイルスによって引き起こされるかどうかは別として、新型インフル
エンザの世界的流行はいつか必ず起こるということである。過去の歴史が、
新型インフルエンザの出現を予言しているのである。

1918年のスペイン風邪では世界の人口の1/4〜半数が感染したといわれる。現在の人口(約65億人)で計算すると16〜32.5億人になり、さらに致死率を50%と考えると、予測される死亡者数は8〜16億人になる。こうした数字と現在の医療水準を考慮した場合でも予測死亡者数は500万〜1.5億人に達するだろう。インフルエンザウイルスはヒトの肺や気管支などの呼吸器に感染するが、渡り鳥では腸管に感染し増殖する。世界中を自由に飛翔し、糞便を通じて湖沼や餌場から次々に感染を広げていく。いまアジアを中心に流行している鳥インフルエンザウイルスが新型インフルエンザウイルスにシフトするその日を戦々恐々としながら対策を練っている状況だ。

過去の新型インフルエンザ流行は、全て低病原性のインフルエンザウイルス
によって引き起こされてきた。これまで高病原性のインフルエンザウイルスに
よる流行がなかったことは、私たちにとって幸運だったといえる。しかし、現在
アジアで流行している鳥インフルエンザウイルスが高病原性インフルエンザウイ
ルスに由来するウイルスであることを考えれば、次に現れる新型インフルエンザ
が高病原性由来の強毒型ウイルスである可能性は否定できない。

強毒型インフルエンザウイルスはあらゆる細胞に感染し、ヒトではあらゆる臓器に障害が生じ、肺炎だけでなく、心筋炎や脳炎、あるいは激しい下痢症状を呈し、出血傾向を伴う多臓器不全を引き起こす。これまでに経験したインフルエンザよりはるかに高い致死率を示す「超インフルエンザ」になる可能性さえあるという。感染力も高く咳やくしゃみによる飛沫感染で一度に多くのヒトへ伝播する。感染から発症まで2〜3日の潜伏期間があるため、無症状のまま周囲にばら撒き、症状が出たときには相当の感染者を生み出すことになる。変異したウイルスは宿主の免疫攻撃から逃れるため、虚弱者や老若に関係なく嘗め尽くすだろう。医療機関や関係者は真っ先に危険にさらされ、前線の兵士となって命がけの戦いを強いられる。とくに人で埋め尽くされた都会は阿鼻叫喚と化し、死者の対策のみに追われる事態も想像される。現在でも毎年、世界中で100万人近い人がインフルエンザで死亡していることを考えると、インフルエンザそのものを過少評価してはならない。いま最も大切な対策は鳥インフルエンザが新型インフルエンザへ変化するリスクが低減するように、鳥との接触回数を減らし、マスク着用や手洗い、うがいを励行し感染確率を下げることだ。しかし、ひとたび発生すれば絶望的な事態が進行していく。抗ウイルス剤による封じ込めやワクチン製造もインフルエンザの勢いの前では、被害をいかほどまでに少なくできるかの確率的なものでしかない。それでも...

やがて、流行は終息していく。被害の多寡は別にして、なんら対策を講じなかったとしても集団の中には感染を免れる人や感染しても防御免疫を獲得する人が一定の割合で存在する。インフルエンザウイルスがドリフトとシフトによる生き残り戦略を有するように、ヒトもまた免疫を獲得し生き残る戦略を備えている。著者は医療生態学的な視点からみた理想を次のように記している。

インフルエンザウイルスを根絶したり、あるいはインフルエンザウイルスと
存亡をかけた闘いを行ったりするのではなく、致死率の極めて低い(理想的
には致死率ゼロの)新型インフルエンザウイルスが周期的に世界的流行を
し、そうしたウイルスを私たちヒトが制御できる状態を確保するということかも
知れない。そうすれば、新たな未知のウイルスがヒト社会に出現するための
生物学的ニッチ(地位)をウイルスに与えることなく、つまり将来にわたる潜在
的リスクを増大させることなく、現在の社会的リスクを最小化することができる
かも知れない。

...とはいえ、これは道を極めた学者の夢である。未知の可能性に期待を寄せることはできない。ヒトは20〜30年という時間をかけて次世代へと遺伝子を伝えていくのに比べ、ウイルスは秒・分単位で複製する。世界的大流行(パンデミック)が起るとわずか数ヶ月〜半年で世界を一周する。現代の交通事情を考えるなら、数日〜数週間という指摘もある。専門家が対策に苦慮しているというのに、いわんや素人が何をなしうるか。できうる対策は「鳥や人混みを避け、手洗い、うがい、マスク..」、これくらいしかない。ヒトは万物の霊長にして、かくもか弱き存在なのだ。

【付記】現在、ノロウイルスが猛威をふるっている。いままで年間1万人前後の患者発生数であったが、感染症情報センターの研究官は「このままだと、患者数は1000万人くらいになるのでは..」と予測している。今季検出されているノロウイルスは大部分が「GII4」と言われる遺伝子型で、昨年も一昨年も流行して多くの人が免疫を獲得したと考えられていた。しかし、今年はウイルスの遺伝子の一部が変異して、免疫が十分に働かなくなった可能性があるという。ドリフトやシフトにより力を増したウイルスはさらに棲息域も広げ、ときに爆発的流行を引き起こす。以前は牡蠣などの二枚貝の生食で感染するケースが多かったが、今は患者の排泄物、汚物から感染の広がりをみせている。吐物には1g当たり10万個、便には1000万個と多量に含まれ、数10個という少ない数で感染する。ノロウイルスが消化管に入ると小腸上部に移行し、いっきに増殖し十二指腸付近の小腸上皮細胞のほとんどを破壊する。1〜2日の潜伏時間を経て下痢、吐き気、腹痛、発熱のあと通常3日以内で回復するが、その間の苦痛はすさまじく、抵抗力の落ちた人の死亡や吐物で窒息した死亡例が報告されている。下痢や嘔吐を起こす機序は未解明であが、おそらく小腸上皮細胞への刺激によるものと考えられている。毒素は出さず上皮細胞が脱落することでウイルスの繁殖も止まり、比較的短期に回復する。新型インフルエンザウイルスのように重篤なものではないが、ウイルスの生態と対策を知るうえでの奇貨となるものだ。ノロウイルスにも治療薬はなく、下痢で失った水分を補給するくらいの対症療法しかない。経口感染であるため予防を心がければ今のところある程度、回避できる。しかし、変異を繰り返すウイルスのことだ、いつの日か人類の淘汰を始めるかも知れない。

【追記.1】韓国での鳥インフルエンザ発生を記したが、1月、日本でも宮崎県の養鶏場で高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)が確認された。県の対策本部は14日、家畜伝染病予防法に基づき同農場の鶏約12000羽の処分作業を始めた。生きていた約8100羽を殺処分。既に死んだ鶏とともに15日、宮崎市の焼却施設に搬出し焼却した。対策本部によると、作業は約150人態勢で同日朝から開始。二次感染防止のため白い防護服とマスク、ゴーグルを着けた県職員が約20人ずつの班で鶏舎に入り、45分交代で作業。鶏が集中して死んだ一棟を含む養鶏場の三鶏舎すべての鶏を、二酸化炭素で処分し消毒した。職員には、作業の前後に医師の問診と健康診断を実施。インフルエンザ薬タミフルも約200人分用意し、作業後に大半の職員が服用した。報道では同時に風評被害の対策がとられ、鳥インフルエンザは「鳥肉や卵を食べても人には感染しない」と住民の不安解消に取り組んでいるという。二次感染防止の防護服やマスクを付け、薬も服んでいながら、住民にだけ安全と言いきれるのか。海外では、すでに同型の鳥インフルエンザの感染による死者がでているのだ。風評は好ましくないが、風評を恐れるあまり安心報道だけが空転してはならない。風評は金銭で解決が出来るのに対し、感染が発生すれば命を以って贖わねばならない。高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)の累計死者数が61人となったインドネシアでは、予算不足で鶏の処分が進まず、鶏のワクチンも不足し感染拡大が深刻な状況になっている。さらに、鶏肉市場などで捕獲したネコ500匹を検査した結果、約2割に当たる約100匹が高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)に感染していることが確認された。人の感染源になる恐れがあり、種間の移動により、変異する可能性も十分考えられる。

【追記.2】1/18日、河岡義裕・東京大医科学研究所教授を中心とする日米カナダの研究グループによるインフルエンザウイルスについての研究成果が報道された。1918年、世界で大流行し4000万人の死者を出したスペイン風邪のウイルスの標本をもとに、同じ遺伝子配列のウイルスを人工的に作り出した。このウイルスを生物学的にヒトに近いカニクイザルに感染させ、通常のインフルエンザウイルスとの症状を比較した。ヒトやサルがインフルエンザウイルスに感染すると、その活動を阻止するための免疫機能が働き、ウイルスの増殖を抑制するインターフェロンという蛋白質を分泌する。 スペイン風邪の強い毒性の正体は謎であったが、人工ウイルスに感染させたサルではインターフェロンの働きが大幅に低下し炎症反応がより激しくなるなど、免疫の制御がきかない状態に陥った。通常のウイルスに感染したサルは軽い症状が出ただけで自然に回復が始まったが、スペイン風邪ウイルス(人工)のサルは重度の肺炎や肺出血などの症状が急激に進行し回復の兆候はみられなかった。アジア各国や日本で確認された高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)も人に感染すると異常な免疫反応を起こし、高い致死率を示すことがわかっている。世界中を飛び回る鳥のことを考えるなら一地域のみの対策では追いつかない。是非とも県境や国境を越え、全ての人々に正確な情報を以って啓蒙すべきである。

【追記.3】宮崎県・清武町で鳥インフルエンザの発生が確認されてから10日あまり、続いて日向市の農場で県内2例目の高病原性鳥インフルエンザが確認された。宮崎県は26日、感染拡大防止のため、隣接する別の農場が飼育する計5万羽も殺処分することを決めた。この日処分が始まった約5万羽と合わせ、処分は計約10万羽になった。ウイルスは病原性判定試験で清武町と同じ強毒型であることが判明し、渡り鳥による感染がもっとも有力視されている。2003年12月以来、東南アジアから中央アジア、欧州などの広い地域において高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)の発生が確認された。そして、2006年の年末から2007年1月にかけて日本(宮崎)をはじめ韓国、香港、インドネシア、タイ、ベトナム、エジプト、ナイジェリアなどで、野鳥や家禽類類への感染が確認され、インドネシアやエジプトではヒトへの感染が確認され死者が発生するに至る。感染者はインドネシアの80人(死者62人)を最高に10カ国で269人(死者163人)が報告されている。鳥インフルエンザに感染した人の殆どが、病気の鳥や死んだ鳥との直接の接触により感染している。家禽類や野鳥との接触を避け、鳥や鳥の排泄物などによって汚染した疑いのある食べ物の取扱いには十分注意を払う必要がある。ところで、ヒトのインフルエンザも流行期を迎えているが、いまのところの昨年の1/40で、過去10年で最小の発生数だという。暖冬であることとインフルエンザ予防の啓蒙が効を奏していると思われる。

【追記.4】続いて1/27日、岡山県高梁市の採卵養鶏場で高病原性鳥インフルエンザと疑われる事例が発生した。詳しい検査の結果、1/29日にH5型の高病原性鳥インフルエンザであることが確認された。このため発生場所から半径10km以内にある18養鶏場で飼育される約95万羽の鶏や卵の移動を禁止し、現場の農場の採卵鶏約12000羽が殺処分されることになった。次々に発生が報告されるたびに、ひたひたと迫るものを感じる。対策は殺処分と封じ込めであるが、重々しい作業を遂行しつつも「ヒトには感染しない」「鶏肉を食べても大丈夫」という安心情報ばかりが目立つ。ペットの小鳥や自然派の小規模養鶏は大丈夫なのか、スズメなどの野鳥は心配ないのか、野鳥の排泄物や渡り鳥の生息地からの広がりはないのか、ノロウイルスのように鳥の糞便が飛散してバラ撒かれはしないか...不安の種はいくつもある。期せずして起った風評被害には手厚い補償をするとしても、全ての人が詳細かつ正確な情報を共有すべきではないか。「糞便が付着した卵は良く洗い、生卵や生肉は食べるな」くらいの注意はしたほうがよい。養鶏業者の談話では防鳥ネットを張り、消毒もしていたのに一体どこから感染したのかお手上げ状態だという。

 

最強ウイルス NHKプロジェクト ー 2008.10月のコラムより ー

新型インフルエンザの話をコラムで取り上げたのは昨年1月であった。この年は鳥インフルエンザ以外何も起らず、メディアでの記事も散発的だった。今年1月、NHKが2夜連続で新型インフルエンザの問題をドラマとドキュメンタリーで伝えた。映像で視覚化されると、漠然とした危機がにわかに現実味を帯びてくる。なんとか回避することは出来ないのか?昔のパンデミック比べ、医学も発達し公衆衛生の観念も育っているではないか。しかし、残念ながらこの段階はすでに通り過ぎ、最早いつ、どんな状況で起るかが問題だという。1918年、世界の人口の50%が感染し4000万人もの死者を出した「スペイン風邪」、1957年の「アジア風邪(死者200万人)」、1968年の「香港風邪(死者100万人)」と、およそ10〜40年の周期でパンデミックが繰り返されている。香港風邪から今年で40年になる。まさに、周期の当たり年のため、数年前から専門家の間では危機感が募っている。一般の人はインフルエンザと聞けば、風邪の強力なものと考えがちだが、新型インフルエンザは異質かつ深刻なもので天変地異の災害に等しい。当然、医療機関だけで対処できるものではなく、人類ひとりひとりが自分はなにをなすべきか、なにをしてはならないかを、明確に自覚しておく必要がある。

ここ数年、鳥インフルエンザの発生が相次いで報告された。過去の例から、この鳥インフルエンザのウイルスであるH5N1が人に感染し、新型ウイルスとなってパンデミックを引き起こすと考えられている。鳥インフルエンザのH5N1は致死率60%という毒性の強いウイルスだが、幸いヒトからヒトへの感染力は弱い。一方、毎年、ヒトで流行するAソ連型インフルエンザのH1は毒性が格段に低い代わりにヒトからヒトへの感染力はきわめて強い。この2種のウイルスが同一人物に感染すると、互いの遺伝子が交雑し、H5N1型の毒性とH1型の感染力を持つ極めて危険なウイルスが誕生する恐れがある。

昨年、日本では鳥から鳥への感染が散発し、各地で大量の鳥が処分された。ウイルスとの戦いの最前線であるインドネシアでは、保健大臣が非常事態を宣言し、首都ジャカルタでは感染源となりうる鳥の飼育を禁止するなど徹底したウイルス封じ込め策が講じられてきた。しかし、いまや鳥の防波堤を越えヒトへと感染が拡大しつつあり、致死率は80%にのぼるという。これは始まりでしかなく、鳥からヒトへという段階を越え、ヒトからヒトへと感染したときがパンデミックの発生である。国連の予測では最悪の場合、世界中で1億5000万人が死亡する恐れがあり、世界銀行はこれによって約94兆円、世界のGDPの2%にのぼる経済損失があると警告している。単なる感染症ではなく、まさに災害といわれるゆえんの数字である。

【WHO作成のパンデミックへのプロセス】(現在はフェーズ3)

フェーズ1 ヒトにおいては新たなタイプのインフルエンザウイルスは検出されていない。
動物においては、ヒトに感染する恐れのあるインフルエンザウイルスが存在
しているが、もしも動物に見られたとしても、ヒトへの感染リスクは小さい。
フェーズ2 ヒトにおいては新たなタイプのインフルエンザウイルスは検出されていない
が、動物において流行しているタイプのインフルエンザウイルスが、ヒトへの
発症に対してかなりのリスクを提起する。
フェーズ3 新しいヒト感染が見られるが、ヒトからヒトへの感染による拡大は見られな
い。あるいは非常にまれに、例えば家族内などの密接な接触者への感染
が見られるにとどまる。
フェーズ4 ヒトからヒトへ感染する小さな集団が見られるが、拡散は限定されており、
ウイルスがヒトに対して十分に適合していないことが示唆されている。
フェーズ5 より大きな集団感染が見られるが、ヒトからヒトへの感染は依然として限定
的。ウイルスはヒトへの適合を高めているが、まだ完全に感染伝播力を
獲得していないと考えられる。
フェーズ6 パンデミック期:一般のヒトの社会で感染が増加し、かつ持続している。

 

現在フェーズ3であるが、フェーズ4へと進めば事実上、パンデミックの始まりである。WHOが警戒レベルを引き上げると、これを合図に世界中の国々が一斉に自らの行動計画に従って動き出す。社会や経済上の混乱も必至の情勢となるため、警告を発するのは葛藤と覚悟の要る決断となる。発生地区の患者の移動を禁止し、抗ウイルス薬を投与し、そこにウイルスを封じ込める。さらなる拡大を防ぎ、あるいは拡大を遅らせるという国境なき史上最大の作戦が展開される。しかし、事は理想どうりに遂行されるとは限らない。WHOの警告はアドバイスの意味しかなく、各国の事情や考え方の相違で対策の足並みはそろわない。蟻の一穴が事態を深刻にする。2002〜2003年に8000人の感染者をだしたSARS(新型肺炎)のとき、中国は国内での感染を隠蔽しウイルスの拡大を許してしまった。

鳥インフルエンザのH5N1が初めて注目されたのは1997年、香港で18人が感染し6人が死亡したときだった。大量の鳥が処分される様子が報道され、これで一件落着かと思われたが、2003年に再び東南アジアを中心に猛威を振るい始め、ベトナムやタイでは一億羽ともいわれる鳥が処分された。しかし、2005年、世界的な渡り鳥の繁殖地である中国青海省・青海湖で大量の渡り鳥からH5N1が見つかり、これによってウイルスが世界的に拡散したことが決定的になった。ニワトリを数日で死に至らしめるH5N1のうち、アヒルに感染しても発症しないタイプがあるという。これが、アヒルの体内で増殖し、糞などを通じて長期間周囲の環境にバラ撒かれたと考えられている。これが排除不可能な土着ウイルスとなって、いつ爆発するとも知れない危機にある。

H5N1に感染した場合と通常のインフルエンザに感染した場合では、症状がかなり異なっている。
通常のヒトのインフルエンザウイルスは、上気道を中心に、咳やくしゃみ、筋肉痛を引き起こすが、H5N1はほとんどの場合、肺炎を起こす。これはウイルス性の原発性肺炎であり、症状が急速に進んで、人工呼吸器を必要とするような重症になるのが特徴だ。しかも手の施しようがなくなる場合が多い。
また、腸でもウイルスが増えているといわれ、下痢を起こしているケースが多い。便にウイルスが含まれると、病院内での感染防御はかなり困難になる。まれに脳炎を起こしたという報告もある。
さらにやっかいなのは、体内で「サイトカインストーム」という現象を引き起こすことだ。ヒトは、体内に異物・病原体が侵入してくると、免疫反応と呼ばれる生体反応が起きて、病原体を排除しようとする。その際、分泌されるのがサイトカインである。サイトカインのストーム(嵐)とは、その名の通り、過剰に免疫反応が起きてしまい、病原体だけでなく、自分の臓器さえも痛めつけてしまう現象である。通常インフルエンザウイルスに感染した場合、免疫力の弱い高齢者が犠牲者となることが多いが、このサイトカインストームは、年齢が若く免疫反応が活発な人ほど起きやすいわけで、こうした年齢層への被害が問題となっている。

H5N1の致死率は約60%で、抵抗力や免疫力の裏をかくような毒性が特徴である。過去のパンデミックと比較すると、1957年のアジア風邪と1968年の香港風邪の致死率が0.5%前後、4000万人が死亡したといわれるスペイン風邪でも2%程度だ。日本での被害想定は、死者17万人から最悪64万人とされている。これはスペイン風邪の2%をかけて算出したものである。スペイン風邪当時の世界人口は18億人ほどで、人の往来はいまほど頻繁ではなく、ゆっくりしたものであった。いまや人口は3.5倍に膨れ上がり、ジェト機で短時間に結ばれる時代である。どこかで発生すれば、一週間ほどで世界を一回りするであろう。もちろん毒性も高く、日本での死者17万〜64万人の想定はひと桁少ない。2007年、アメリカでは国民の30%が感染し、致死率20%の想定で演習が行われた。この数字を日本に当てはめると、3人に1人が感染し、感染者の5人に1人が死ぬことになる。死者約760万人だ。取材報告を読んでいると、患者の発生数に比べ、スタッフや資材の備えはあまりも少ない。ひと桁少ない被害想定での対策さえおぼつかない状況だ。パンデミックが起れば、患者にとっても、医療者にとっても...それだけで未曾有のパニックとなるのは間違いない。

国立感染症研究所のシュミレーションによると---都心の会社に勤めるサラリーマンの男性が、海外でウイルスに感染し東京郊外の自宅に戻る。妻と小学生の子供が二人。男性は、中央線を使って丸の内へと通勤し、妻は近くのスーパーに買い物、子供は学校へ行く。ウイルスは目、口、鼻などの粘膜から細胞へと侵入し、急速に増殖する。なにも手を打たなければ、7日間で首都圏全体へ蔓延し、25万人を超える感染者で氾濫する。スペイン風邪と同じ被害想定では絶対に対応不可能な患者数である。国や医療者だけに頼るのでは自らの命は守れない。少なくとも、流行期には大衆の場に出ない、そのための食料確保。感染しないため感染させないためのマスクやゴーグルの着用。帰宅後の手洗い、うがい、鼻腔の掃除など...すぐにでも啓蒙を発するべきである。

1997年、香港で初めてH5N1が人に感染した。日本での対策はそれよりかなり前から始まっていた。プレパンデミックワクチンの製造・治療薬タミフルの備蓄・学校の休校・大規模集会の自粛・国際線旅客機の運航自粛などが示されている。アメリカ政府の対策の中心はワクチンである。パンデミックワクチンを半年以内に製造し、全国民3億人に供給する計画を打ち出し、巨額の予算を投じて準備を進めている。またプレパンデミックワクチンについても2700万人分の備蓄を終え、さらに国民全員に行き渡る計画を遂行中である。スイスはすでにプレパンデミックワクチンの備蓄終えている。スペイン風邪のときは死者が街にあふれ、棺桶作りと墓穴掘りに追われたという。住民へのパニック対策などやるべきことはたくさんある。日本での対策は始まりが早かった割には、遅れている。今年になってようやく、医療やライフライン関係者に対してプレパンデミックワクチンの接種が発表された。自治体では所々でマスクやゴーグルの備蓄を言い始める程度で、模擬訓練などの報道は珍しい。いったい医療関係者そのものが、どれほど危機感や、それに至る知識を持っているか疑問である。当地ではようやく薬剤師向けに初回の新型インフルエンザの話が開催された。

東京品川区の例が報告されている。ここで最初の患者が発生すると約1週間で2000人にまで増え、さらに40日後のピーク期には1日約1200人の感染者が発生する。感染の危険が高いため、一般の病院で通常の診療と並行して行うととはできない。別途、発熱センターという窓口を立ち上げ、実地訓練が行われることになった。診察するだけでも感染の危険があり、交替で診療にあたるため1日38人の医師と同数の看護師が必要になる。それだけの医師が集まるのか?品川区・荏原医師会175人へのアンケートの結果、発熱センターの運営に協力できると回答した医師は15人であった。医師自らも危険にさらされるわけで、その不安はもっともなことだ。アンケートの回答数も43通にすぎず、うち2割の医師は行動計画も、情報を得たこともないと答えた。これだけの数字をみてもすべての医師が新型インフルエンザを知っているわけではない。繰り返すが、新型インフルエンザは、病気というより災害である。多数の感染者がひしめき、それに比し人的、物的な供給が限られるなら、「トリアージ」【注】によって生死を振り分ける地獄図が現出するだろう。

【注】トリアージ(Triage):人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること。語源はフランス語の「triage(選別)」から来ている。適した和訳は知られていないが、「症度判定」というような意味。なお、一般病院の救急外来での優先度決定も、広義のトリアージである。(Wikipediaより)

助かる見込みが低いと思われる患者の人工呼吸器を取り外し、より助かる可能性の高い患者にその呼吸器を取り付ける。外された患者も、まだ助かる可能性がゼロではないのにである。もし、あなたの大切な家族が感染し、医師から助かる見込みが低いと言われ、より助かる可能性が高い人のために治療を中断されたら、あなたは受け入れることができるだろうか。さらに恐ろしいのは、誰を助け、誰を後まわしにするのかという公正な基準がないとき、その判断が医療現場で恣意的になされてしまうことである。

家族が見守る中、患者の呼吸器を取り外すとき。これは医師にとっても厳粛かつ苦悩の行為となる。「自分が正しいことをしたと自分で言い聞かせるしかない」。アメリカ政府はトリアージの案で若者より高齢者を優先しているが、国立衛生研究所のアラン・ウェルトハイマー博士とエマニュエル・イジーキル博士のふたりは真っ向から反対した。彼らの考えでは、子供たちはまだ人生を謳歌しきっていない、年寄りより子供たちの人生を優先するべきだと言う。この考え方は、ごく普通の人々にも受け入れられだろう。私も子供たちの屍の上に立って生きようとは思わない。しかし、それを目の当りにしたとき、自分の子供についてはそうであるかも知れないが、見知らぬ子供のために肉親を失うのを受け入れるだろうか、モンスターに変貌しないと誰が言いきれるだろうか。一定のトリアージ案がまとまったとしても、現場の混乱は壮絶きわまるものがある。

今のところH5N1を想定し対策が練られているが、実のところ起こるまで解らない。また起ったとしても、準備したワクチンが効果を発揮する保障はない。あるいは、危険性が低いと思われるウイルスが突如、変異するかも知れない。H7N7やH9N2への警戒も怠るわけには行かない。ワクチンの準備も選択肢の多いほうが望ましい。いままで危険な話は何度も聞かされてきたし、世界が終わるパニック映画をハラハラしながら愉しんだ。それには、まさか起るわけがないという安心感が前提にあった。しかし、地震、洪水、台風、テロなどによる災害はどこかで起っているし、パンデミックは「起るかどうかではなく、いつ起るかが問題だ」という。恐怖に煽られていては冷静な対処は出来にくいが、おそらく誰か多数の人々が犠牲になることだけは確かだ。早くから世論を盛り上げると様々な混乱が、各方面に波及する。しかし、乗り越えなくてはならない試練である。猛暑の日々は去り、実りの秋を迎えている。いままでは実りの秋を満喫したが、やがて来る冬を暗澹たる思いで待っている。「誰か多数の犠牲者」というのは、私かも知れないし、家族や知人かも知れない。ノアの方舟は激しい嵐に、どれくらい翻弄され続けるのだろうか?それでも洪水は終息し、輝かしい光に包まれた。春の桜を皆で観ることができるだろうか。

【付記.1】1918年、スペイン風邪のとき、漢方医・森道伯は症状を3タイプに分け、治療にあたった。脳症型=升麻葛根湯。呼吸器型=小青竜湯。胃腸型=香蘇散。これらの処方を基本に加減し好成績を上げたという。もともと漢方は風邪や感冒の治療を得意とするが、ことがウイルスになると様相は異なる。漢方家の間では新型インフルエンザ治療に期待できる漢方薬として麻黄湯や銀翹散をあげる。薬草としては金銀花、板藍根、連翹などが考えられる。症状をいくらか緩和したり、治癒までの期間の短縮は可能かも知れない。パンデミックを控え、各種業界から対策のための商品が紹介されることであろう。特に健康業界は黙っておく筈がない。しかし、新型インフルエンザがたやすいものでないことは銘記しておくべきだ。安易に「治る、大丈夫」ということを信じた為の被害は、自分一人にとどまらず。その他大勢の命にも関わるのだ。

【付記.2】ワクチンと同時に備蓄が進められる抗ウイルス剤・タミフルの原料は漢方薬の茴香が使われる。茴香には小茴香(フェンネル)と大茴香(八角)があり、後者の大茴香から抽出されたシキミ酸から複雑な合成過程を経て製造される。大茴香は別名スターアニスといわれ中華料理などのスパイスとして繁用されるが、シキミ酸には毒性があるため多量の使用は注意がいる。また、タミフルも多くの問題が指摘され慎重な使用が望まれる。タミフルについて世界保健機関(WHO)の集計によると、2008年4月から8月20日までに、世界中で分離株778のうち242株に耐性ウイルスが認められた。前年の耐性化率は16%であったが1年で31%と倍増するに至った。タミフル耐性の増加は、現在進められている備蓄にも大きな影響を及ぼすものと思われる。

【付記.3】コラムを書いた10月、新型インフルエンザ対策関連の報道をしばしば耳にするようになった。この動きは徐々に加速していくものと思う。また、今月は未曾有の経済パニックに襲われ先行の不安が拡大しつつある。やがて起こるであろう新型インフルエンザ・パニックは、この比ではないことを断言する。いまのところ、予防や発生時の医療対策に重点が絞られ、経済活動や生活行動の自粛・縮小にはあまり触れない。すでに記しているが以下はスペイン風邪の時のアメリカ公衆衛生学会誌(1918年)の引用である。

まず木工職人と家具職人をかき集め、棺作りを始めさせておくこと。次に、街にたむろする労務者をかき集めて墓穴を掘らせておくこと。そうしておけば、少なくとも埋葬が間に合わず死体がどんどんたまっていくという事態は避けられるはずだ。

これは致死率2%のスペイン風邪の話である。いま懸念される新型インフルエンザの致死率は80%とも言われている。予防、治療対策のみ語られ、死者対策が表立って出てこないのはパニックを恐れてのことだと思う。しかし、このことが第一に検討されるべき課題でもあるのだ。鶏インフルエンザでは大量の鶏が重機を使って土に埋められた。この光景と同じものを明日私たちが見ることになるかも知れない。葬儀もできず出席する人も居ない。最悪の場合、葬儀を行う家族すべてが亡くなることもありうる。火葬か土葬か、一時的に冷凍保管し埋葬するかの選択に迫られるだろう。いま私たちは不満をもらしながら幸福な日々を過ごし、いつまで続くかの不安に少しだけ揺れている。スペイン風邪の記録を探してみると、北海道で起った身震いするような出来事が見つかった。以下、一部を抜粋するのみ。('08Oct.31)

  • 道内は大正7年(1918年)10月30日、小樽は11月3日が最初である。なお10月26日には東京での流行を 悪疫流行と報じている。その後驚異的に発病者数と死亡者数が増加し、11月中旬には札幌の豊平火葬場の混雑の状況が伝えられ、小樽では11月に入って2週間で死亡者35名の発生が、小樽では11月に入って2週間で死亡者35名の発生が伝えられている。各地では休校が相次ぎ、死亡者が多いため墓地は非常に混雑し、棺桶も十分焼き切れていないと伝えられている。11月20日には留萌の33歳の主婦が家族全員が死亡したため、投身自殺した記事が見られる。
  • また岩内や芦別でも再流行し、芦別では死亡者が短期間で130名発生している。家族全員が死亡し、葬儀が出せない家庭の悲惨な記事も見られる。また旭川では3日間で突然505名の死亡者が発生したことが報じられている。多くは気管支肺炎と診断されている。
  • 一家枕を並べて床につく状態であったので看病する者もなく、それがまた家ごとであったから、見舞をすることもできない。雪はまだ残り、自転車とてないのに、1人の村医のおよぶところでなく、死者があっても会葬する者もなく、3、5人の人でようやく埋葬をすませる惨状を呈した。親を失ない、妻を失ない、多くの悲劇のもととなった。
  • 部落民一同ほとんど罹患者ならざるはなく、百名余の村民枕をつらね、片端より死亡しゆく有様にて、村医の所在地たる留別も同様の状態に陥り、亭主が死亡し、1時間後にその妻が逝き、子供が危篤という惨事を頻発し、村医も感染し行動の自由を失い、看護人などの希望者なく、空しく親兄弟の死を傍観し、患者はもちろん、患者ならざる者も早晩全滅を免れずと予期し、息のあるまに少しでも旨い食物を摂るのを得策なりとて...
  • 3府各県に流行しつつある悪性の感冒は、すこぶる激烈にして、従ってその死亡者多く、火葬場は死者の入れた棺桶が山積みして保管料を徴収される。
  • 布施石五郎宅 妻子4名枕を並べ、手と手を取り合わせて絶命。出稼ぎ中の石五郎帰宅。4名の死骸を火葬に附し帰宅してみれば、病臥中の残りの子供も死亡。
  • 根室町の流感は初発以来些かも退歩の模様なく、全町大半の家庭を冒し、一家全滅、あるいは乳飲み子を残して親の死する者など、悲惨を極めている。なお終息の様子なし。

 

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