【読書録(3)】-2006-


踊る食の安全
人体 失敗の進化史
反社会学の不埒な研究報告
良心をもたない人たち
正倉院薬物の世界
検証!がんと健康食品
食マフィアの棲む国
友情を疑う
フロイト先生のウソ
 

踊る食の安全 松永和紀

「農薬から見える日本の食卓」という副題なので業界本かと思ったが、科学ジャーナリストが自らの誤解をも正し、農薬を問い直す趣旨のものであった。食品添加物については、ブームを巻き起こした「買ってはいけない」とか、最近ベストセラーになった「食品の裏側」などあるが、農薬に対する警鐘となったものは40年も前にレイチェル・カーソンが著した「沈黙の春」である。40年前の農薬事情や科学技術のレベルの差はあるものの、これをいまも無農薬信奉の聖典として崇める人々がいるのは確かなことだ。ここで述べられたDDTはじめ有機塩素系農薬についての警告によって、必要な対策が為され「沈黙の春」の訪れを防ぐことができた。しかし、マラリア発生という負の成果が尾を引くことになった。1960〜1970年代にかけて各国でDDTが販売禁止になった。米国・ヨーロッパ・日本などではマラリアは発生しなかったが、衛生状態が悪く蚊が発生しやすい国では再びマラリアが増えてしまった。スリランカではDDT使用開始前の1946年には280万人もの患者がいたが、DDTが使われていた1963年には患者が110人まで減少した。そして使用禁止後の1968年には再び100万人もの患者が発生した。WHOの報告では現在、世界で年間3億人がマラリアに感染し、子供を中心に100万人以上が死亡しているという。このことでDDTを正当化しようというのではない。人体に被害を及ぼすものは自然界や人工物に多数存在している。そのなかで危険と利益を評価しながら種をつないでいくのが人類の営みではないかと思う。時には苦し紛れに危険に踏み込むことがあるだろう、快適に浸り、迫りくる危険を失念することもある。

平和が続き長寿社会が訪れると更なる永続を求め、健康や平和に敏感になる。農薬の害もその延長線上にあり、排除によって健康を希求するものである。無農薬・有機栽培・減農薬..私もこの響きの良い言葉に反応し、このような表示があるものを選ぶことが多い。すでに環境中に残留する農薬や散布されドリフトしたものを、意外な経路で口にすることを考えると、無農薬はありえない。ありえないが、いくらかマシであろうと思って選ぶ人と、額面どうり無農薬を信じて選ぶ人に分かれる。残留農薬を1ppmたりとも許容しない生き方は、理念としては理解できても現実的ではなく、要は毒も薬も用量によって有害と無害の境い目があるのだ。分析精度が低く、1ppmを検出できない無農薬と、精度が高く、0.1ppmを検出する残留農薬とではどちらを評価するだろうか。

そもそも農薬とは何か?法的定義では、農作物を害する菌、線虫、だに、昆虫、ねずみその他の動植物又はウイルスの防除に用いられる殺菌剤、殺虫剤、その他の薬剤及び農作物等の生理機能の増進又は抑制に用いられる成長調整剤、発芽抑制剤その他の薬剤をいう。このような農薬を必要とするのは、農業という古典的な自然破壊に起因する。

自然界のこの微妙な平衡に基づく生物多様性は、地球のかけがえのない
大切な財産です。そして、この微妙なバランスの上に成り立っている自然を
壊し、わざわざ植物を植えて育てるのが農業なのです。

植物は元来、自分で虫や微生物の攻撃を防ぐ物質を持ち、その物質は人にも有毒であったり、食べると不味いものだったりする。それを人に供するよう品種改良を加え、肥料を投入し栄養価を高め、さらに規模を拡大した。小規模混作から大規模単作への転換が、害虫や病気の発生をもたらすことになった。農薬の登場で病害虫から作物を守り生産性は向上し、農家の労力は飛躍的に軽減された。例えば除草剤がなかった1949年の除草に要する時間は10aあたり50.56時間であったのに対し、1975年には8.4時間、1999年には1.82時間と、1/27に減少した。無農薬で農業に取り組んでいる人々は、そのための労力と工夫を要することになる。著者の取材によれば...

まず、無農薬で栽培できる人たちの生産規模は非常に小さいのです。
狭い畑で数うねごとにさまざまな作物を生産し、直売所に出したり、
決まった顧客に宅配したりしています。多品目少量生産で、数ヶ月ごと
に植える作物を変えていく輪作になっています。

病害虫の発生で農薬の散布も欠くべからざるときは、緑茶、焼酎、牛乳、薬草の煎じ汁、木酢液など多様なものが用いられる。このなかで緑茶・焼酎・牛乳について、2004年、農水省が効果についての委託試験を行った結果、いずれも実用的効果は確認されなかった。水を散布して一時的に虫が逃げ出すのと同じ効果であって、効いて欲しいという切望が効いたという錯誤をもたらすのではないかという。薬や健康食品と全く変らないことがここでも行われている。木酢液に至っては発癌物質を含有する可能性があるので安易に薄めて飲んだり、入浴剤などの利用は控えるほうが良い。植物は病害虫に対して自ら体内で撃退物質を作る場合がある。その物質が人に害を及ぼしたりすることがある。例えば微生物に犯された無農薬のリンゴにはアレルゲンと見られるタンパク質が多く、農薬を散布したものには殆どないという。無農薬の結果生じた害物質と残留農薬とどちらを選ぶだろう。

限られた農薬しか使えない有機農産物や減農薬・無農薬栽培の
農産物は、残留農薬というリスクが低下した代わりに、ほかのリスク
が上がっている可能性があるのです。このように、あるリスクを削減
すると他のリスクが上昇するという現象は「リスクのトレードオフ」と
呼ばれ、農業に限らず、さまざまな場面で起こります。

私は農家の出身として子供の頃から、農薬で爛れた皮膚やクリークの水面に浮かんだ魚を見てきた。また夏の農薬散布後の、疲労とは異質の妙なけだるさを知っている。被害者は残留農薬に神経質な消費者ではなく、ほかならぬ農家なのだ。「虫食いがなく形が整い味がよく...」この上「無農薬で..」という要求はいかにも無茶である。

カーソンの「沈黙の春」以来、農薬企業や研究者は新しい農薬の開発に力を注いだ。

  • 低毒性化(使用者や消費者に対する安全性の確保)
  • 選択制の向上(人間や環境生物に対する安全性の確保)
  • 易分解性(環境に対する安全性の確保)
  • 高性能化(省資源、環境に対する完全性の確保)

これは研究者の理想を掲げたものだ。低毒化と高性能化は相矛盾しないか?と思ったが、農薬における毒劇物の割合は減少した。1950年代には毒性の強い特定毒物だけで3割近くに上り、毒物も3割を超えていたが、1960年代からいっきに減少し普通物の割合が上昇した。2003年には普通物が79.6%、劇物19.5%、毒物0.9%、特定毒物はゼロにまでなった。選択毒性の向上で害虫にはよく効くが哺乳類には毒にならないという農薬も開発された。また分解性が早く、現在使われている農薬の多くは10日以内の半減期である。半減期が数年にも及ぶDDT、BHCなどに比べると驚異的な短かさだ。農薬は洗えば落ちる、皮を剥けば取り除かれる、そして分解される、と言う。確かにそのとうりであろう。しかし、今まで農薬の害を見聞きしたものとして手放しで受け入れることはできない。農薬に対して厳しい視線が注がれるのは消費者や最も被害をこうむるであろう生産者にとって悪いことではなく、利益でさえある。

残留農薬による直接の死者がなく、発がん性などの毒性もかなり
詳しく調べられたうえで農薬が使われている現状、過食や偏食に
よる肥満の増加、食中毒の発生状況などを見る限り、残留農薬が
対策のかなり下位にくるのは間違いないでしょう。それなのに、私た
ちは相対的に小さなリスクである残留農薬を心配しながら過食し、
生活習慣病になるという矛盾に満ちた生活を送っているのです。

偏僻ゆえか「だから農薬は正しく、それを事細かに気にするようでは失うものが大きすぎます」と読めてしまう。農薬の議論を別のリスクにすり替えることで農薬の害を小さくしてはならない。このような話へと流れてしまうと「いずれ人は死ぬものだ、楽しく暮らして何が悪い」ということになりかねない。本1冊で明日からの食生活が変るわけではないが、農薬に対する見方はやや違ってくる。警戒を解くか、変らず注意を払っていくか、ときには怪しいものを掴んだとしても、私は出来るかぎり無農薬や減農薬の良心を信じたい。また、無農薬、有機栽培に汗を流す農家に賛辞こそ送っても、揶揄することはできない。

 

人体 失敗の進化史 遠藤秀紀

著者は自らを「解剖男」と称する獣医師だ。気迫あふれる文章に、仕事への熱烈なまでの思い入れが感じられた。動物園で死亡した動物や山野で息絶え腐敗した動物を解剖することで人の身体の歴史を探る。あたかも史跡を発掘するかのように、人の体の過去と現在、そして未来を繋ぐ。フライドチキンの骨格、ナメクジウオやサンマの心臓などから人の身体の設計図の変遷を考察する。機械はそれを使う人の目的に沿って白紙の状態から設計が始まるが、動物は祖先にも子孫にも基本となる設計図あって、それを変更しながら使っていく。変更された設計は数億年もの長いスパンで使い続けることになる。

神や仏が白紙から設計した理想図面の上に、ヒトが作られているわけ
ではない。どちらかといえば、偶然の積み重ねが哺乳類を生み、強引
な設計変更がサルのなかまを生み、また積み上げられる勘違いによ
って、それが二本足で歩き、500万年もして、いまわれわれヒトが地球
に巣食っているいうのが真実だろう。

ヒトは「万物の霊長」と自負し地球に君臨するが、じつは巣食っているに過ぎない。言いかえるなら、地球の歴史の1ページにも満たないところに浮かびあがった泡沫なのだ。固体の時間がいかにはかないものか思い知る。二本足歩行によってサルの仲間とヒトを分かち、歩くための前足が複雑な道具の製作ができる器用な手へと進化した。立ち上がることで内臓を収める骨盤が広がり、重量のバランスをとるため背骨がS 字にカーブする。それに伴い筋肉も設計変更を余儀なくされる。直立歩行によって、咽頭が重力の方向へ落ち込み、咽喉周辺に空洞が作られる。この空洞が筋肉の微妙な動きで空気を震わせ、声や言語を操る発生装置になった。道具を作る手や言語能力は加速度的に脳を高度化させ巨大化させたことが考えられる。さらに、道具を作ることのできる利き手の発達にともない左右大脳半球の機能的分化も確実に起こる。計算をすると左脳が活性化し、物事をイメージすれば右脳が働く。

ホモ・サピエンスに向かっていく道で、器用な手先を能力的に支える
ように、脳はとてつもなく大きくなり、並行してその機能分担が進んだ
ことが明らかである。その経過は、まさに設計をいかに変更して、ヒト
科を作り出していくかという経過だったと解釈できるだろう。

著者はヒトゆえのアイデンティティを巨大な脳に見出す。大多数の人がこれに異論はないと思う。人であるがゆえの不幸な疾患の一つに脳梗塞がある。脳の一領域の血流が途絶えることで、その部分だけ機能しなくなる。左右が機能分化しているがために頭脳明晰でありながら言葉が発声できない状態になったり、逆に雄弁に発声を続けていながら、意味不明の言葉の羅列に終始したりする。脳の発達で多くのことを可能ならしめたが、これはある意味でいびつな進化といえなくもない。機能ばかりではなく、脊椎動物の多くは設計変更と改造を繰り返した挙句、一皮剥がせば、滅茶苦茶といっていいくらい左右非対称の身体構造をもつことになった。

最近、女性特有の疾患である子宮内膜症や子宮筋腫などが増加している。これを環境ホルモンなどの影響とする論調もあるが、生殖周期と現代のライフスタイルから読み解く。月経は奇妙な現象で、月に一度身体をトータルに消耗するため女性に有利なものではない。ヒトが野生として生きるなら、平均寿命は40歳より短く、妊娠可能な17歳から5人の子供を育てるのが精一杯である。これは一人に妊娠期間1年と授乳期間2年とみて、3年×5という数字だ。これがホモ・サピエンスの初期の設計図ではなかろうかと言う。妊娠期間中はホルモンの働きで月経は止まったままだ。

初潮は早くても、一向に結婚しない。恋愛は多様でも、けっして子供を
持とうとしない。そのこと自体の価値観は女性個人が決めることであって
議論の対象ではないが、現代の女性の新しい生き方は、客観的にホモ・
サピエンスが進化させた生物学的な生涯構図とは、まったく合致して
いないことは明らかだ。現代女性は、妊娠と泌乳という生物学的役割
とは無関係に暮らすようになり、まさに大人になってからずっと、妊娠も
泌乳も忘れて、いつまでも「月の誘い」とともに生きるようになったのである。

【追記】生物学的な生涯構図とは誰が唱えたのか?多分、著者の希望や女性観であろう。
男尊女卑の輩に歓迎されそうな理屈である。生涯を通して生物学的役割に則り生きていく
人が果たして居るのだろうか。仮に居たとして、生物学的役割を全うして幸福だったと雀躍
するだろうか。

このほか、直立歩行による高低差で脳がつねに貧血気味になり、四肢末端への血流も十分にはいかない。手足の冷え症や長時間一定姿勢を維持していたがために起こるエコノミークラス症候群などが代表例である。また、着席の姿勢による椎間板への重量負荷や前脚(手)を絶えず動かし作業するための肩こりが起こる。東洋医学ではヒトを四足動物と看做して、治療理論を展開する人をしばしば見かける。四足や横臥の姿勢をとるのは快適でさえあり、重力から解放されるひとときの時間を持つ意義は大きい。

動物の解剖から見た進化には好都合と不都合があった。その中でも最大の失敗は巨大化した脳だという。子や親や仲間を殺す、棲息する地球を破壊する。このような脳のメカニズムに進化の負の部分を感じずには居られない。緩やかに、あるいは突然かも知れない。いつの日か人類の終焉は訪れ、またそれに向かっていることは間違いない。世界中に拡散する核物質や環境破壊、徐々に活動を拡げるウイルス、人口増加や気象変動による食糧危機、、、ここ半世紀あまりに起こったことだ。人知にもとづくものはやがて「神の領域」といわれる人知で制御できないところへと達する。地球の歴史は46億年、何千万年、何億年と生き続ける生物群も居ると言うのに、ヒトが二本足で立ちあがってからまだ500万年だ。

この二足歩行の動物は、どちらかといえば、化け物の類だ。50キロの身体
に1400ccの脳をつなげてしまった哀しいモンスターなのである。設計変更
を繰り返して大きな脳を得たまではまだよかったのだが、その脳が結局は
ヒトを失敗作たらしめる根源だったと私には思われる。

 

反社会学の不埒な研究報告 パオロ・マッツァリーノ

世論や風潮、趨勢、時流などの言葉には、嘘や胡散臭さが漂うことがある。これらを含めて、人間や集団の諸関係、社会の構造や機能などを研究するのが社会学だ。学と称するだけに、統計という科学的手法で社会をあぶりだす。本は統計奇譚から始まる。

たとえ匿名であっても、意識調査やアンケートにウソを書いたり見栄をはったり
する人が必ずいる現実は、良心的な専門家の間では昔から常識とされています。
それは意識調査と事実を比べれば簡単に証明できます。

科学は信頼おけるものか?という議論は当然起こってくるが、科学を拠り所とせずに他になにがあるのか?と問われると、その返答にも窮する。宗教家やニューエイジの中には「直感や感性は最高の認知形態」と主張する人があり、統計の嘘に行動や思想を支配される位なら、直感や感性に従ったほうが賢明なのかも知れない。意識調査あるいは街頭でのインタビューでも構わない、人のウソつき率は性別・学歴・年齢を問わず一定で、この傾向は人類普遍の傾向だという。物の測定とは異なり人の心が関わる統計には想像以上の困難が潜んでいる。人に知や経験が積もってくると、何かを語り時には行動や思想をリードしようという欲望が湧いてくる。これもまた人類普遍の傾向だと言えないだろうか。社会学という学を為す人々にも、その知を通じて思想や社会との関わりが生まれ、彼らの提言は一般の人より強固な説得力を以って迎えられる。

社会問題として語られる論説の多くは、じつは個人的かつ感情的な意見に
すぎません。それを客観的かつ科学的な学説に格上げするために、学者の
みなさんは世論調査や意識調査の結果を裏付けとして用います。
注意していただきたいのは、意識調査の結果からなんらかの結論を引き
出すのではなく、なんからの予測を裏付けたいがために、ほとんどの意識
調査が実施されている点です。

社会学の仕事を、冷笑的に語ることで、著者は自らが得た社会学の成果を披露する。お笑い本の体裁をとりながら、異色の輝きを放つ話が展開する。功成し遂げた人の人生論が現在から過去を構成する物語であるように、社会学の論説も学者の思想から構成される学的体系といえなくもない。調査項目は、偏差を十分に検討して決定されるものであるが、簡単なアンケートや市場調査の項目は選択肢の数さえもの足りないものがあり、なかには、意図が丸見えの調査さえある。杜撰な調査であっても「統計結果」という、接頭語を冠して意見なり見解が出されると、説得力を帯びてくる。現代の風潮は...という言葉はいかにも確信に満ちているが、違和感も抱かせる。例えば、古き良き時代を愛しむ老人は現代を荒廃しつつあると嘆き、意識調査の資料はそれを確固たる信念へと高め、高めるために資料が濫用される。

毎日、あるいは時間毎に酷い事件が報道されワイドショーが組まれると、犯罪は増加しているかのような錯覚に駆られる。昭和30年代(1955〜1954年)、今ほどニュースやワイドショーが多くなく、週刊誌や雑誌も少なく、ネットのなかった時代、少年による凶悪犯罪は現在の6倍くらい発生し、成人も含めると殺人は現在のおよそ1.8倍あった。窃盗については確かに増加したが、内容は非侵入盗(万引き・車上狙い・部品盗・ひったくり・自販機荒らし..)が数を押し上げ、侵入盗については昭和40年頃がやや多くなっている位で、大きな増減はない。

悪徳や腐敗・堕落は、国全体の盛衰とは無関係に、常に社会に一定量
存在するのです。歴史的・統計的事実に照らし合わせると、人類は倫理的
な面では、あまり進歩しているとはいえないけれど、かといってさほど堕落
もしていない、という結論が導き出せます。

悲惨な事件、国を私物化する役人や政治家の行状、公徳心に欠ける振る舞い、、これらを「一定量..」のひとことで割り切ることはできないが、次々と発生する事件を見聞きしていると、人の悪しき属性を認めざるを得ない。対策が為されても裏をかかれ、対策そのものが事件や不正の巣窟になることがある。人は自らの正義を信仰し、自分は他人ほど愚かではないと考える。しかし、他人を愚かと考えるほど他人は愚かではなく、自分は利口だと考えるほど自分は利口ではない。「人は○○○だから」と、あげつらう評論家や学者が、この法則から無縁である証拠はない。信念や主張に沿って収集された調査資料は、また別の利用価値も認められる。企業のマーケティングの材料だったり、困った例では、オレオレ詐欺や振り込め詐欺の調査で、その手口を仔細に知らしめた結果、犯罪の増加と巧妙化につながった。統計によっては多大な被害をもたらすものがある。金銭で済むのならまだしも健康や命を脅かされる統計資料はとりわけ敏感にならざるを得ない。素人には読み解き難い資料を精査してくれる専門家の存在は貴重である。ネットなどメディアの発達で多くの情報を受け取ることができる反面、その多さが混乱をもたらすなら、直感による判断を支持する意見があってもおかしくない。

統計真理教というカルトがあるかどうか定かではないが、主義・主張・利益のために資料を収集するのは人文科学だけではない。頻度は低いが自然科学に於いても変らない。ディベートという議論形態が流行るようになってから、統計や資料を根拠として求める傾向が強くなったように思う。顔が見えず素性の知れないネットのコミュニティや掲示板などで行われる討論では、異様な盛り上がりを見せる。二言目には「確かな資料を提示して述べよ」という。これは最も大切なことで異論の余地がないだけに濫用もされやすい。相手の立場や了解事項、暗黙のうちに理解できる意図を黙殺して議論が進行する。しばしば資料の正当性の議論へと流れると、週刊誌の情報を提示したり、確かな資料が一文字の誤字・脱字で否定されたりして、いつまでも本題に入れないことがある。これは事実上の議論放棄であり、詭弁と言っても過言ではない。自ら資料を示すことなく、相手のみに根拠を求める未熟な論客も多く、打ち負かしたり知識を顕示するあまり、風車のように風を受けて回るだけで、一向に前に進まない。

最後に、多くの公共事業で示される統計資料がある。ついには税金の無駄遣いという直接の被害を国民に強いる。魂胆は誰の目にも明らかだというのに「地域振興」「経済効果」などという抽象論で糊塗し進んでいく。国が繰り出す資料は、税金という潤沢な資金を以って作成され、プロパガンダが為される。統計は実態を把握したり、主張や仮説の検証のための道具でもあるが、人を動かすための武器にもなる。再検証が容易な分野や物事もあるが、統計に潜む闇を見抜くためには、正しい知識と良心が求められる。また、正しい統計の結果、主義・主張・感性の異なる人を疎ましく思ったり、短絡的に排除・軽視してはならない。

【追記】公共事業を巡る「調査・統計」の結末を物語る最近のニュースから...
8/16日で開港から6ヶ月を迎えた神戸空港は、7月の搭乗率が開港した2月に比べ21ポイント減の55%まで落ち込んだ。神戸より1ヵ月遅れて開港した新北九州空港も苦戦し、同空港を母港とするスターフライヤーの7月の搭乗率は52%、昨年2月に開港した中部国際空港も4〜6月の国内線旅客は前年同期比14%減った。所謂、「浮世のしがらみに」捕らわれない反対派の調査によれば、結末は自明のことであった。希望や抽象論で事業を推進していくのはなぜか?当地、佐賀空港でも同様のことが起こっている。毎年2億5千万円の赤字が税金で賄われている。また、隣県の福岡では1000億円の予算をもとにオリンピック招致に奔走し、長崎では諫早湾干拓事業や佐賀・長崎では新幹線建設計画が進行中である。これもまた反対派の調査のとうり、結末は明らかだ。そして責任は国民すべてが増税という形で贖うことになる。総理候補の一人は増税を公約に掲げ得意げに必要性を説く、このような政治家を「正直だから..」と支持するだろうか?

 

良心をもたない人たち マーサ・スタウト

サイコパス(psychopath)とは日本語で精神病質者を指す。アメリカでは良心をもたない人が25人中に1人居ると考えられている。これを精神病質とするのは不適切との意見もあり、社会病質者(ソシオパス)という言葉が使われるようになった。やがて反社会性人格障害者(APD)という名称で統一されたが、いずれも適確な用語とはいえず、現在ではこの3つの名称の使用は診断者に任されている。

「軽々しくこの名称を人にあてはめ、排除すべきでないことは強調しておきたい」

訳者が「あとがき」で述べているように、専門家の告げる病名なり評価が、本人や周囲の人や知らなくて済む人々に影響を及ぼす契機となるかも知れない。人の多様性は形而下のものより、その性格や思想が問題になる。本の冒頭は、想像してみてほしい...という書き出しで始まる。『あなたに良心というものがかけらもなく、どんなことをしても罪の意識や良心の呵責を感じず、他人、友人、あるいは家族のしあわせのために、自制する気持ちがまるで働かないとしたら・・・』。アメリカでは25人に1人、日本でそのまま適用できないにしても、従業員100人の会社で4人、ご近所25人に1人、、、などと考えると、思い当たる節がないわけではない。しかし、私達が考える邪悪な人や非常識な人とは大きな温度差がありそうである。

  • IQが高く上昇志向が強い場合/野心と高い知能を背景に巨大な富と力を追い求め、厄介な良心の声に煩わされることなく、成功を目指す他人の試みを片っ端から打ち砕くことができる。
  • 野心家だが知能はそこそこの場合/自分が少数の人々をそこそこ支配できる穴場に身を沈める。
  • 暴力的な場合/上司、別れた配偶者、その他の目障りな人を殺害したり、誰かに殺させたりする。良心がないので、誰かを殺そうと決めたら内側からやめろという声はあがらない。
  • 寄生虫的な場合/何にたいしても意欲を持たず、社会のやや底辺に近いあたりで、親族や友人たちの情けにすがりながら、いつまでもその暮らしをつづける。

上記の4つのパターンが知られているが、サイコパスの臨床診断では、さらに次の7つの特徴のうち少なくとも3つを満たすことが条件とされている。

  1. 社会的規範に順応できない
  2. 人をだます、操作する
  3. 衝動的である、計画性がない
  4. カッとしやすい、攻撃的である
  5. 自分や他人の身の安全をまったく考えない
  6. 一貫した無責任さ
  7. ほかの人を傷つけたり、虐待したり、ものを盗んだりして良心の呵責を感じない

いままでは変な人、困った人という風評や、自らの主観で評価した事に、更にこれだけのフィルターをかけると、素人には難しく混乱を催す判断になる。「口の達者さと表面的な魅力」を特徴に付け加える専門家がいるほど、皮相の観察では解らないことが多い。誠意こそ人付き合いの要、誠実さこそ人たる所以と言うものの、実際、口達者にはかなわない。騙され、侮られ臥薪嘗胆した相手が土下座して謝罪するなら、それを鞭打つことはできない。ここに良心と良心在らざる者の真に打ち解けられない闇があるのだ。サイコパスは表面的魅力と口達者で、人々の目を欺く。最初のうちは気さくで、面白く、総じて好感を与えるが、次第に胡散臭さや違和感を覚える。病的な嘘や欺き、感情の冷たさにゾッとするという。知人である警察官に「あなたは異常と正常が解るか?」と聞かれたことがある。「変な人ならすぐに判るだろう」と答えたが、「すぐに判らない変な人がいる」と教えられた。むしろ良識があり温厚な善人に見えることがある。これを直ちにサイコパスとすることはできないが、人の多様性と、その深淵に恐れを感じる話であった。明らかな暴力行為に対しては犯罪として裁かれるが、心理的暴力について法の力は及び難い。サイコパスが有罪になる率は低く、仮面を被り日常に紛れ込んでいるのだ。

人の多様な性格の中に、なぜサイコパスが発生するのか。素質と環境、言いかえるなら生まれと育ちによって生じ、生まれについては、双生児の研究から35〜50%が遺伝に影響されるという結果がでた。サイコパスのような極端で複雑な性格特徴は、一個の遺伝子ではなく複数の遺伝子が相互に働き大脳に作用する。サイコパスの大脳皮質に関する興味深い研究がある。言語処理能力において多くの人々が無機的な言葉より、感情的な言葉に強く反応するのに比べ、サイコパスでは、何れにも同じように反応した。彼らは愛や優しさといった感情的体験を受け止めることができないのだ。サイコパスの素質は環境や文化的要素によって緩和されたり悪化することがある。個人主義や個人支配を強調する社会に比べ、信仰や万物との協調を重んじる文化圏では他者に対する義務を認知させ、良心を知識として理解させる。良心とは利他志向に他ならない。利己は個人を、利他は集団の存続を意図して神が与えたプログラムなのだ。著者は「絆の大切さを教える東洋の国々」という表現で、その文化の利点を述べているが、欧米化の著しい日本では、刺激的な情報の渦に巻き込まれながら、徐々に発生率が高まるかも知れない。すでに、暴力的で人を許さぬ傾向は日常茶飯事に感じられる。テレビで見る街角の人々、ささやかなコミュニティーの集り、さして関係なさそうな人までも、被害者面して、謝罪だ、辞任だ、制裁だ、、、と指弾するようになった。

4%の割合で発生するサイコパスは仮説かも知れないが、困った人々は存在する。その処世術として、いままでは、ことわざや格言の類で納得し、あるときは先輩や知人の経験に救いを求めた。血も涙も流さず、痛みも感じないままパソコンの画面で格闘を続ける。汗も流さず体も動かさず、観ることでスポーツを楽しむ。時代が成熟してくると、頭だけが肥大し、心の問題が針小棒大に語られる。サイコパスも豊かな文化圏から輸入された、カウンセラーの食糧かも知れないという疑念が付きまとう。The Sociopath Next Door(となりのソシオパス)という原題はそのことを黙示する。しかし、心の専門家が、見て、感じて、考えて伝えることは、一処世訓として傾聴する価値がある。冒頭で挙げたように、軽々しくこの名称を人にあてはめ、排除すべきでないことを銘記した上で、カウンセラーの声を聞き留めたい。本には、良心のない人に対処する13のルールが書かれている。

  1. 世の中には文字どうり良心のない人たちもいるという、苦い薬を飲み込むこと
  2. 自分の直感と相手の肩書きで判断が分かれたら、自分の直感に従う
  3. どんな種類の関係であれ、相手の言葉、約束、責任について3回の原則を当てはめてみる(3回裏切った相手から逃げだせ)
  4. 権威に追随していないか疑う
  5. お世辞など、調子のいい言葉を疑う
  6. 尊敬の意味を自分に問いなおす(恐怖と尊敬を取り違えないこと)
  7. サイコパスが仕掛けるゲームなどの挑発に乗らない
  8. サイコパスから身を守るためには、相手を避け、いかなる連絡も絶つ
  9. 人に同情しやすい自分の性格に、疑問を持つ
  10. 治らないものを、治そうとしない(性格を変えさせることはできない)
  11. どんな理由からであれ、サイコパスが素顔を隠す手伝いは絶対しない
  12. 自分の心を守ること
  13. 幸せに生きること

既に述べたように、多くの人々が無機的な言葉より、感情的な言葉に強く反応するのに比べ、サイコパスでは、何れにも同じように反応した。言葉は思想や感情をいかようにも表現する魂を宿している。戦い、報復、制裁、謝罪、、力や権力を荒々しく奮い起こす言葉より、穏やかな陽だまりにくつろぐ風景や心優しい言葉をこそ心の糧とすべきだ。心ない言葉の囚徒に甘んじていると、眠っていたものや眠り続けなければならないものまで呼び覚ます。人は25の心の扉を持ち、うち一つの扉にサイコパスが潜むという見方ができるかも知れない。

 

正倉院薬物の世界 鳥越泰義

正倉とは「正税を収める倉」を意味する。奈良時代に各地から上納された穀物や物品などを保管するため、役所や寺院に設けられたものだ。現在では東大寺の正倉のみが残り、その一画をさして正倉院と言い、そこには寺領から納められた品や寺の什器、宝物などの多くが収蔵されている。なかでも薬草については薬物(やくもつ)と呼ばれ、聖武天皇崩御の折、孝謙天皇・光明皇太后が奈良時代の756年(天平宝勝八年)、東大寺盧舎那仏(奈良の大 仏)に献じたものが正倉に保管された。約1300年前の薬物であるが、現在でも使用に耐えるものが確認されている。正倉の保管性もさることながら、生薬の 安定性にも驚く。

この薬物についての第一次調査は1948〜51年、生薬学の泰斗、朝比奈泰彦博士を班長におこなわれた。その時の調査に参加された渡邉 武先生からは数年に渡り漢方を学ぶ機会を得た。随所に正倉院の薬物や処方の話が飛び出し興味深く傾聴した。人徳を益すという呵梨勒丸は主成分がアサガオの 種子で、これに13種の生薬が配合されている。早速、自分で製造し服用してみた。利尿と通便の作用があり食滞を除くことで体調を維持するものだった。また、巴豆という激しい下剤で紫円とい丸剤を作り服用し、数時間で2kg近く体重が減少したこともあった。巴豆の中の成分であるクロトン油は0.05gを危険量とされるが、適度に分量を定めて用いると短時間に胃腸管の内容物を排出することができる。五色の龍の歯の化石というのはマンモスの臼歯で、安眠、精神 安定効果が高いと言う。しばらくは近縁生薬である龍骨を随分使った。宝物のなかの犀角の杯は毒物を検知するものとして話を伺ったが、他にもこの杯は酒の味 を一層まろやかに引き出すらしい。これに近いものを求め骨董店巡りをしたこともあった。とりとめない思い出話になってしまったが、正倉院の薬物は日本漢方の源流をなすもので、この調査によって貴重な成果と数多くの物語が発掘されている。

正倉院に献上された60種の薬物は「種々薬帳」に記載され、「櫃」という蓋付きの木箱に収められている。また後世に献上された薬物は「帳外薬物」として区別される。種々薬帳60種のうち残存するのは38種類。献上された生薬の中で現在も流通しているものは以下のようになる。

  • 植物性生薬:胡椒・胡黄連・雷丸・檳榔子・白及・肉従容・厚朴・遠志・呵梨勒・桂心・芫花・人参・大黄・甘草・蔗糖
  • 動物性生薬:麝香・犀角・蜜蝋
  • 鉱物性生薬:朴消・寒水石・石膏・禹餘粮・赤石脂・方解石・芒消・戒塩・雲母
  • 化石生薬:龍骨

他に鉱物を主薬とした配合剤の薬物が知られているが、その中でも有名な「紫雪」は鉱物生薬8種、植物生薬6種、動物生薬3種が配合さ れ、万能薬として用いられた。鉱物を使うのは道教の神仙思想の影響によるものであろう。鉱物は変質も消耗もなく、あたかも永遠の命を秘めているかのような 錯覚を与える。このように物の姿、特性から効能・効果を創出するのは古代医学ばかりではなく現代にも脈々と生き続けている。伝統や人の思考の不変性を物語る。万病薬とされていた「紫雪」は実のところ、鉱物などの寒涼性を以って熱を冷ましたり、熱性の痙攣を抑えるものに過ぎない。すでに紹介した人徳が益すという「呵梨勒丸」は単なる下剤だったりするのだ。最近、アンチエイジングという言葉が流行り、各種療法や薬物、生薬が用いられるが、もともと老化に抵抗するのは困難なこと。かつては皇帝など一部の富裕層だけの贅沢であったが、いまや庶民にも手の届く時代になり、アンチエイジングとさえ言えば、なににつけ優 れたもののような錯覚を与えている。

現在、210種の漢方処方が医療用として用いられ、その配合生薬は150種になる。このうち繁用される30種の生薬に甘草、大黄、桂心(桂皮)、人参、黄蘗(黄柏)などが名を連ねる。そして当時も今も殆どを輸入に頼り、当時は入手に多額な代金を必要としたに違いない。貴重な薬物はその時々の最高権力者のみが、天皇の許しを得て開けることが叶った。時には秘かに宝物の持ち出しも行われた。有名なのは仏教の儀式や香りを楽しむのに使われた伝説の香木「蘭奢待(らんじゃたい)である。調査によると、この蘭奢待に2〜6cmほどの切り取り跡38ケ所が確認された。推定では、50回位は切り取られ たのではないかといわれている。切り取った後に付箋を付けたものは、足利義政、織田信長、明治天皇の3人で、東大寺の記録によると、信長は1寸四方2個を切り取ったという。3代将軍義満、6代将軍義教も切り取ったとみられ、徳川家康も切り取ったとする説がある。

最後、21番目の櫃に収められたものは「狼毒」「冶葛」という猛毒であった。狼毒は現物が残っておらず原植物を特定するまでに至っていないが、冶葛はフジウツギ科の胡曼藤の根である。もちろん薬としてではない。葉っぱ3枚で人が死ぬという猛毒なので内服は絶対にできない。外用として疥癬や皮膚病に、または鳥獣の捕獲に用いたのかも知れない。

その強い毒性を考えると、正倉院に収められた冶葛はひょっとすると皮膚病治療を装った毒殺用の生薬だったのではないか、という疑惑もわいてきます。安積親王の毒殺疑惑については前述しましたが、政争の激しかった奈良朝の時代、政敵を消すために、暗殺、毒殺あるいは自殺を強要するためのものとして冶葛が使われたのではないかとも考えられます。

生臭い記録になるが、756年に献納された冶葛7.1kgは、758年42gが出庫、761年(669g)、779年(56g)、、、 献納から100年後の856年には残量が607gまでになった。烏頭(トリカブト)なども同様に猛毒とされるが、鎮痛、温熱、強心、利尿などの作用が知ら れ、現在でも慎重に用いられ、漢方処方の必需生薬でもある。現代でも毒殺がないわけではないが生薬から化学薬品へと様相は変化をとげた。権力や金銭の周囲には時代を問わず欲望が群がり、手段を選ばず、あるいは手段を検討して目的へと驀進するのであろう。「人の性は悪なり」の人生観こそが己を助けるもので あったに違いない。

当時の医薬の最高指導者は医博士、針博士、按摩博士、そしてまじない専門の呪禁博士だった。医師が「くすし」とよばれ薬剤師の役割を兼 ねていた。また呪術、祈祷の類もとりおこなっていたのかも知れない。技術こそ飛躍的に進歩したが、医療を巡る人々の行動や思いは現在も大きく変ることはな いように感じられる。

 

検証!がんと健康食品 坪野吉孝

副題は「健康情報の見分け方」と書かれ、本の帯には「それでもアガリスク飲みますか?」とある。06/2月、厚生労働省医薬食品安全局からアガリスク製品の発ガン促進作用についての情報が出された。本はこれを先取りするかのように05/9月に出版され、アガリスクの副作用として、軽度なら腹部膨満や下痢や発疹が、重度になると肝障害の例があげられている。発ガン作用については、一部メーカーの製品という但し書き付きだが、この影響は他のアガリスク製品にも及んでいる。動植物には自己保存のため、毒を有しているものがしばしば見受けられ、キノコ類にも毒キノコがあるように、食用にできるものであっても、すべて有益な成分ばかりとはいえない。このことは食物全般についていえることで、人の体に必ずしも最適なわけではない。日頃、食卓にのぼる椎茸、マッシュルーム、えのき茸などについても食べ過ぎの注意は払わなくてはならない。サプリメントとして流通するものは、高濃度にした製品が数多くあり、またそのことを謳い文句として効果を強調するが、それゆえ危ないこともある。

将来においては、ある種の栄養素をサプリメントとして投与するとがんを予防できると科学的に認められるかもしれません。研究者もそれを期待し、さらに、さまざまな栄養素や化学物質の効用について世界中で活発な研究が行われているのが現状です。けれども現時点においては、世界の専門家が一致して認めるようながん予防効果のあるサプリメントは存在しないと言ってよいでしょう。

アガリスクを売り続け、今なお看板商品として「うちのアガリスクは違う..」と言い続ける薬屋や健食店も多い。どう違うのか?抗癌作用はあるのか?明確な証拠もないまま、かけ声だけが独り歩きをする。アガリスクに限っての話ではなく、医薬品も含めて正しいevidence(証拠・根拠)に則り処方する医師や販売する人がどれくらい居るであろうか。「治療や癒しは科学ではない」という主張もあるが、科学を軽視するなら拠り所は何もない。証拠のない治癒と被害、そして「良かった、悪かった」という主観が混沌とした「おまじない」の業界へと変貌するだろう。著者は拠り所とする情報の見分け方をいくつかあげる。まず、学会発表はそのために提出した原稿が拒否されることはほとんどなく、したがって玉石混交は免れない。これに比べ、論文報告は審査が厳しく半分以上は掲載を拒否され、掲載されるものでも修正や大幅な修正が求められるため、石や石である可能性のある研究は淘汰されることになる。また、研究対象がヒトか実験動物かを正しく見極めなければならない。試験管での実験や動物実験をヒトに当てはめることは出来ず、ヒトでは通常考えられない投与量での研究もある。これらをクリアして、最終的には無作為割付臨床試験【注】が行われ、その結果が複数の研究で一致することが条件となる。フローチャートで解かりやすく説明すると。

  1. 具体的研究に基づいているか?
    NO→終わり、YES→2へ進む
  2. 研究対象はヒトか?
    NO→終わり、YES→3へ進む
  3. 学会発表か論文報告か?
    学会発表→留保して終わり
    論文報告→4へ進む
  4. 無作為割付臨床試験や前向きコホート研究か?【注】
    NO→参考までにして終わり
    YES→5へ進む
  5. 複数の研究で支持されているか?
    NO→他の研究を待ち終わり
    YES→結果を取り入れるが、くつがえされる可能性も念頭に置く

ひとつの薬なり食品が薬効を持つというのは並大抵の事ではない。個人的な体験談や症例の報告がいかに頼りにならないか思い知らされる。週単位で万病の薬が万と発生するマスコミ治験などは真剣に考え実行するに及ばず、バラエティ番組ほどに楽しめばよい。私が仕事としている漢方の有効性というのも、ほとんどこれに類するものかも知れない。古典の教科書をもとに経験と思弁を駆使し処方し、その結果を患者の自覚症状や検査数値の変動で確認する。客観的なデータがあれば、まだいくらかマシというものだ。検査での検証ができない薬局はまさに手探りの仕事になる。漢方が効くと思って居た頃は大家の書いた症例報告を読み「それ以降、その患者は来院しないので、たぶん治ったのだろう」という記述でさえ、なんら疑問を抱かなかった。薬効の判定の厳しさを知った今、真摯に科学に取り組むなら漢方の仕事は廃業しなくてはならない。しかし、他の仕事ができるほど器用でもなく、自家撞着に陥っている。

効果はなくても被害はある。被害についても無作為割付臨床試験が必要ではないか?と思わないでもないが、被害は緊急に救われなくてはならず悠長な時間はない。アガリスクについては一部の製品に発癌性が認められた。他にも下痢、発疹、肝障害が報告されている。アガリスクに次いで利用されるプロポリスは接触性皮膚炎や口内炎が報告されている。このほかに相談事例の多いものは、麻黄、ガラナ、朝鮮人参、セントジョーンズワート、クロム、亜鉛、メラトニンなどがある。癒しのアイテムとして利用するなら小麦粉でも構わない。それにはまず効果より先に安全性が重視されなければならない。本ではがん患者の約半数が代替医療を利用し、その89%が健康食品で、7.1%が漢方、3.8%が気功、3.7%が鍼灸、、、などで、これらの療法に出費する費用は1ヶ月平均5.7万円になる。著者によれば代替医療についても「オススメ」はないという。推奨される療法はひとつもなく、容認又場合によっては推奨というのが、前臨床期の前立腺がんに対するビタミンEのサプリメントだけという。残りの代替医療は容認か反対になり、容認については「有効性ははっきりしないが、患者がその利用を望むのであれば、あえて否定せずに認める」という消極的又は諦めによるものである。通常医療の医師が抱く代替医療に対する観念もおおよそこれをなぞるものであろう。健康食品や代替医療の治療家が「ガンを治す」と高らかに謳う声は、彼らの情熱ほどには広がらない。しかし、「ワラをもつかむ市場」が成り立つのは、科学ではあっさり割り切れない人々の非合理な思惑が絡み、希望という隙間を埋め得るからに他ならない。代替医療に取り組むうえで、科学を重視し、理知に目覚めれば、別の理由や動機を重んじることになる。

【無作為割付臨床試験】疫学的研究方法の一つで、疾病の治療法や予防法の有効性を評価するために行なう。対象者を、乱数表やくじ引きなどでランダムに二つの群に分け、一方の群(介入群)には、評価しようとする治療や予防を行い。他方の群(対照群)には、評価しようとする治療や予防は行わず、従来の治療を行ったり、評価しようとするものと見かけが同じで薬効のないプラセボを投与する。その後、疾病の罹患率や死亡率を二群で比較する。介入群の罹患率や死亡率が、対照群よりも低くなれば、治療法や予防法の有効性が示されたことになる。

【前向きコホート研究】疫学的研究方法の一つで、多数の健康人の集団を対象として最初に疾病の原因となる可能性のある要因(喫煙・食生活・血液データなど)を調査する。次に、この集団を追跡調査して疾病にかかる者を確認する。その上で、最初に調査した要因と、その後の疾病の発生との関連を分析する。

 

食マフィアの棲む国 吾妻博勝

新聞のご冥福欄を開く。日本人の平均寿命とされる年齢やそれ以上の死が最も多いが、そこに混じって「若い死」が散見される。事故に遭ったのか、自殺なのか、それとも不治の病なのか、、、とりわけ同世代の死には視線が止まり、寂寥たる気分になる。私にも明日がないかも知れない。味気ない日々ではあるが、これが途切れる日を想像するとやりきれない。冬寒の深夜、救急車の走る音でふと目が覚めると、こちらに向かって来るような胸騒ぎを覚えることがある。同世代、それは戦後10年ほど経て生まれ、60〜70年代に成長期を過ごした世代である。1955年から国内総生産がマイナスに転じる1974年まで、20年間の高度成長時代と偶然の重なりを見る。農業について言えば、牛馬を使っての作業から、トラクターを使うまでになった。歴史の流れからすると数百年もの進歩に匹敵する時代だったのではないか。これを目の当たりに出来たことはある意味で濃密かつ幸福であったのかも知れない。しかし、大きな負の遺産も残り、それを背負っていくことになった。一体、このとき何が起こったのか?

戦後の食料不足が次第に回復し始めた昭和23(1948)年に食品衛生法が施行され、60種の食品添加物が指定された。それから次々に食を巡る事件が発生していく。1955年:森永ヒ素ミルク事件、1958年:インスタントラーメンの登場、1968年:カネミ油症事件、1969年:チクロ使用禁止、1973年:サッカリンの発癌性の発表、1974年:AF-2使用禁止...化学農薬の開発が進んだのもこの時代である。1930年代にカーバメート系農薬が登場し、1940年代には有機リン系農薬(パラチオン)・有機塩素系農薬(DDT)、1946年には除草剤:2,4-Dの流通が始まる。特にカーバメート系の農薬は1950年代に大規模に使用された。また、猛毒であった有機リン系のホリドールは1952年に登録され1971年まで使用された。ホリドールの本格使用が始まった1953年には70人の死者と1564人の中毒者を出し、翌年には70人の死者と1887人の中毒者を出している。それ以降、中毒は半減したが、この農薬での自他殺者は毎年237〜900人にのぼった。

他にも、抗生物質や抗菌剤、ホルモン剤など戦前までは使われることのなかった化学物質が氾濫し規制も甘く、使用方法も未確立の時代が20年あまり続いた。公害の代表とされる水俣病は1955年頃から報告されていたが、国が公害の認定をしたのは1968年になる。このころ大気汚染・四日市公害の認定も行われている。高度経済成長の終焉は期せずして公害元年と時を同じくした。そして、1974〜1975年、朝日新聞に連載された有吉佐和子の「複合汚染」で人々の関心は添加物はじめ数々の汚染に目が向けられることになる。疑うこともなく与えられ流通するものを漫然と消費する時代は終わり、食の安全を求める時代が始まる。それから30年、何が変わっていったのか?

安全で美しく形も整い、しかも安いという欺瞞に満ちた要求が平然と為されるようになった。食をファッションと同列に扱い、高価な食べ物をあたかも美食かのように錯誤する人々が増えた。反面、厳格なまでに無添加、無農薬、有機に拘るお人好しも増え、二極化は進む。ここに、食や健康を提供する巨大な産業が市場を広げる。著者はそれをマフィアとでも言いたげであるが、それほど悪意や戦略に満ちたものではなく、単に人が易きに流れやすいからに他ならない。人々の日々の行動によって、ゆっくりと、後戻りが出来ないところへと流れ流されたのだ。この30年大きく変ったものは食の自給率である。供給熱量に換算して70%近くあったものが40%を切るまで落ち込んだ。足りない60%は世界中からかき集めて賄うしか方策はない。肉、果実、穀物はおろか野菜までもが輸入の対象になってしまった。特に保存の効かない生鮮野菜についてはそれ相当の工夫がなければ輸入は不可能だ。ここに農薬や防腐剤、防カビ剤、薫蒸、放射線照射などの問題が起こってくる。1975年から30年で野菜の輸入量は13倍に膨らんだ。現在、野菜の自給率は80%ほどを保っているものの野菜の種類によっては50%を下回るものがある。たとえば、野菜売り場で、倍近く値段の異なるブロッコリーが並んでいたらどちらを選ぶだろうか。色も見かけも変らず、むしろ高いほうが傷んでいるように見えたら...多くの人は安価なほうを選ぶであろう。

アテにならない減農薬や無農薬、国産の表示、さらに、それらの食材を使って加工された食品の内容について何を拠り所とすべきか。飽食を謳歌しつつも「食べるものがない」といわざるを得ない状況である。しかし、生きながらえる意欲があれば食は絶対に欠かせないものである。アメリカの牛肉輸入で露呈したように、世界中から食を買い集めることの脆弱さは、安全ばかりではない。金銭そのものが確保の手段となりえないかも知れないのだ。世界の人口は今後増加の一途を辿るだろう。そのとき金さえあればという考え方が通用するだろうか。いつの日か、自給率を上げるか人口を減らすかの選択を迫られる時がくる。40%の自給率で賄える人口は肉、魚などの美食から脱却しても8000万人くらいだろうと言われている。再三申し述べるが、安全とともに食料そのものの確保が問われている。習慣と惰性と気まぐれの日常においては、痛みを感じるまでいかにも無頓着である。物事を知り行動することの難しさは十分に理解できるが、悪しき事を一つでも排除し改善しようという努力は続けなくてはならない。

冒頭に戻るが、私達の世代は、夏、日当たりの良い店頭に置いても腐らないソーセージや豆腐を口にし、タール色素で着色されたお菓子やジュースで鮮やかに染まった舌を見せ合ったものだ。今より緩い規制で今より実害の多いものを成長期に摂取してしまった。もはや吐き出すこともかなわない。この結末はゆっくり、そしてあるとき突然、姿を現すに違いない。いま、50代に突入したばかり、果たしてこの10年を生き延びることが出来るだろうか。1990年に話題になった本「41歳寿命説」には「1959年以降に生まれた日本人の平均寿命は2000年に41歳になる」と書かれていた。幸い、このあと平均寿命は年々伸び続けた。しかし、私たちの生きてきた時代を俯瞰し、日々「若い死」を見聞きすると、この説もあながち故なき事ではないという気がしてくる。

 

友情を疑う 清水真木

副題は「親しさという牢獄」とある。著者のプロフィールも確認しないまま手にするが、今までの友情論とは異なり、難解なものであった。これは哲学的な友情論なのだ。日頃の言語生活や思索の貧困さを痛感させられることになってしまった。

文学的、情緒的な友情論というのは、大抵の場合、自らが豊かな「人生経験」を持っているという著者が自分の人生を回顧し、人生の中で重要な役割を果たした友人たちとの付き合いを抒情的に語るものである。

太宰治の作品は多くが退廃的とされるが、その中でも異色の輝きをもつ「走れメロス」。この麗しい友情に感動したことは今も記憶に残る。武者小路実篤の人生論も一時代を風靡したが、これらは文学者が語る比較的分かりやすい物語であった。小学校の高学年くらいになると目下の者に何らかの助言や提言を垂れるようになる。幼いながら、そこには一定期間の経験の知がこめられている。不快や快をもとに自らの物語を演出するのが友情論や恋愛論などの大勢であろう。抒情で語る友情論がダメだというのではない。哲学者が語る友情論もまた異質の困惑を伴っていると著者は言う。友人とは「理想的な対人関係を成り立たせる相手」というのが哲学者たちが受け入れてきた定義である。これならば、難しいどころか常識以前のものだ。ところが、これを思索の手がかりとするのが学者の面目躍如たるところである。

友情に付随する親密な雰囲気のせいで、公共のルールに逆らう可能性のあるもの、矛盾を含むもの、社会の中での位置も価値も定められない、安定を欠いたものとなる。

友情を恋愛、知人、親類などに置き替えても成り立ちそうだ。心理学では集合心理というのかも知れないが、複数の人が集まることで別の意志が働くことがある。キケロは、それが公共の秩序に外れたり反した場合の友情の危険性を指摘する。友情が確固たるがゆえに反社会を容認する空気が生まれることがあり、積極的に加担することさえある。例えば暴走行為やスポーツの観戦における暴徒化は珍しいことではない。友人の違法行為を、まさにその時、抑制できるだろうか?このことは、会社の利益のためであれば多少のルール違反は構わない、平和のためであれば多少の犠牲者は仕方がない、などの暗黙の了解事項に通じるものではないか。友情は双方の些細な言動で簡単に色褪せる可能性がある。友人、男女、肉親、親類などあらゆるところで齟齬はおこりうるし、その不快と克服が教訓として語られる。友情という関係を維持するために不快を忍ぶか、不快ゆえに友情を解消するかの厳しい選択は諸々の場面で出現する。メロスのごとき友情を是とする人、適度に良好な関係を是とする人、その価値観は多様であるが、「裏切り」という言葉を秘かに抱き続ける脆弱性は否めない。

アリストテレスは、友人たちのあいだで引力として作用するものに、「利益」、「快楽」、「徳」の三種類を区別し、これら三種類のうち、相手の「徳」に惹きつけられることによって成り立つような友情を本来的な友情としてもっとも高く評価している。

今どき「徳」という言葉は奇特なことかもしれないが、霊的と形容される出会いは少なからずあるのではないか。徳はまた、人徳、人柄などとも言い利益や快楽より高貴なものとされる。利益や快楽なくば、意味なしという実質的な友情論も理解できるが、人として生まれたからにはより高みを志向する意義はある。お互いが幸福で豊かであるときの友情や優しさは当たり前のことで、一方が逆境に立たされたときのあり方で徳が量られることになる。友人を財産と看做す考えは根強くあるが、友人や親しい知人を増やすことは、副題のように「親しさという牢獄」に自らを繋ぐことになりはしないだろうか?淡交という言葉がある。これは「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと甘酒の如し」という荘子の言葉から来る。なにかと快適だが、なにかと不便で不快もあるのが人との付き合いである。商売には知人が有効に機能するが、友情の縛りで身動きの取れないことも起こってくる。濃密な友人であればある数に達したところで、それを貯金とし残りの人生を過ごすのも悪くはない。

友人との付き合いは、病んだ者たちの、弱い者たちの、疲れた者たちの、苦しみを抱えた者たちの、悲しみに打ちひしがれた者たちの、たがいに対する「憐れみ」から始まるものである。

ルソーにとって友人との付き合いが成り立つためには、相手が憐れむべきで、不幸なものでなければならないという。逆境のときのあり方で友情を量ることはすでに述べたが、それを憐れみという言葉で表現するのにはいささかの抵抗を感じる。なにかをしてあげた。親切を施したという互助会的なものを友情というなら保険や組合の制度でも構わない。しかし、哲学者はもっと深淵を見つめているのかも知れない。モンテニューも似たようなことを以下のように述べている。

「普通の友情」とは、「何かのきっかけ、または都合によって結ばれた交際やなれなれしい関係にすぎないのであり、私たちの魂は、そのようなきっかけや都合によって維持されているにすぎないのである。

シニカルな定義はあくまでも哲学者の観察であって理想ではないだろう。このような考えから、親切や優しさや思いやりが生まれようはずもない。これに比べるとカントの定義には希望を見いだす。「愛という引力と尊敬という斥力の微妙な均衡状態であり、二つの人格が等しい相互的な愛と尊敬によって一つになること」だと言う。しかし、それゆえに不安定で脆いものだ。淡々冷徹に君子の交わりを保つことは友情にある種、強固なものを与え、甘美なものが付きまとう友情には脆弱さがある。本の末尾ではボランティアを取り上げて友情や善意についての思索が展開される。

人類の歴史の中で、構成員の善意や自発的な活動をあてにする社会というものが存在したことはない。構成員の善意をあてにし始めると、その社会は必ず滅亡するはずである。善意にもとづく行動は、公平への配慮を欠いているために、公共の空間を支配している社会的な正義(公正)の原則を動揺させ腐蝕させるからである。

「..必ず滅亡するはずである」と断定・推測する根拠が充分理解できなかった。人は思想や感情に支配される部分もあるが、社会の制度・制約のなかで生活を営んでいるのだ。心の伴わない社会を想像できるだろうか?善意に基づく行動は滅亡ではなく存続のための要だと思う。著者によると、ボランティアは個人のわがままが入りこむため公平で継続的な力にならない。そしてそれをアテにするような社会であってはならない。友情や善意、助け合いに頼る社会は「悪夢のような社会」だと言う。きっと哲学的な深い思索を経たうえでの提言だと思うが、ボランティアの不備は実務レベルで想定され克服される手続きである。円滑な社会生活や人付き合いは何にもまして難しいものだ。人にはつまずきもあり不機嫌もある。失敗を恐れ警戒することで哲学が生まれ、失敗を糧とするところに文学が生まれる。しかし、いずれも人の営みに根を発するもので、情緒的友情論であろうと哲学的であろうと生活にはいささかも揺るぎはない。哲学の友情論を紹介しておきながら最後は文学で締めることになるが、これもひとえに私の技量不足のなせるところ、お許し願いたい。

よく見ると、およそ哲学というものは、常識をわかりにくいことばで表わしたものに過ぎない  <ゲーテ格言集より>

 

フロイト先生のウソ ロルフ・デーゲン 赤根洋子訳

本書のスタンスは、「実証されたものだけを信じる」ということに尽きる。しかし、本書に引用されている研究結果は一面的すぎる都合のいい研究例だけが挙げられているのでは、という批判も当然あるだろう。

翻訳者の「あとがき」から話を始めることになったが、批判以上に得るものは大きい。心理療法に限らず利害の絡む事柄の周辺にはインチキが跋扈する。「覚めた心」で見つめる眼差しも必要であろう。フロイト(1856〜1939年)は、人が無意識の世界の性衝動(リビドー)に支配されると唱え、全ての行動を性でとらえる「精神分析学」を誕生させた。無意識の理論はユングに引き継がれ現代の心理学や精神医学に多大な影響を及ぼすことになる。現在の心理学や精神医学の問題を「フロイト先生のウソ」という題名で論じた本であり、決してフロイト一人を批判するものではない。目には見えない無意識について定義も曖昧なまま語られるが、見えないがゆえに捏造や錯覚も起こりうる。心理学が扱うものは心理療法、教育、マスメディア、能力開発、心身症、瞑想、臨死体験...など広範囲にわたり、無意識や抑圧などの古典的用語から最新の精神医学用語まで頻繁に聞かれ、目に付くようになった。このコラムでも心理学の問題はしばしば取り上げたが、本書はとりわけ過激さを極めた。明らかには言えなかったが感じていたこと、考えていたことが語られ、豊富な資料を駆使のもと厳しい指摘がなされる。私は雑文を書くのが限度だが、専門家であれば巻末の資料を辿ることで精査が可能であろう。

心理療法こそ今世紀最大のプラセボである。心理療法が効果的であるかのように見えるのは、プラセボ効果のおかげである。さまざまな治療法は、プラセボ効果が現れるのに適した雰囲気を作り出すための儀式に過ぎない。

著者の言によれば心理療法はまさにプラセボ(偽薬)そのものであるという。心の持ち方や信じることで一定の効果をもたらすものだ。これは否定されるべきものではなく可能性を正しく認識しておけば有効なものだ。しかし、かえって悪くなる場合も多く、調査によると、相反する効果が相殺され差し引きゼロになる。時間と費用の分だけ無駄と思えるが、治った人にとっては有難い。ところが治った人に尋ねてみると、なにがどう変ったのか、具体的に挙げられる人はほとんどいないという。専門家に向かって「気分が良い」「良さそうだ」などと話しただけで有効とされる例は多い。治療法の有効性は同一の患者に同時に異なる治療を施してこそ確認されるものだが、これは到底不可能なため統計的手法で類推することになる。「時の癒し」により異常で緊張した状態は自然に緩やかに適度なレベルへと推移していく。そこに様々な専門家が介入し職域を広げ居場所を確保する。

複数の研究によると、自助グループや素人による支援が専門家と同等の効果を上げているという。専門家は専門用語で何をかを解説する知識人であると言えなくもない。専門家から異常性格やストレス、人間関係の不和などの指摘を受けること自体ある不穏な脆弱性をはらんでいるのだ。例えば、そのことで専門家が必要と思わせる事。自分の苦しみの原因を家族や友人、知人に転嫁する事。短期間の情動をあたかも病気のように信じこませる事などが挙げられる。アメリカの心理学者が、心理療法を受けた1000人のカルテを調査した結果、クライアントの大部分は緊急性がなく「病気なのでは?と気に病む健康人」だったという。明らかに治療を要する人と、人生の意味や充実感を求めてセラピストに頼る人との境界線は専門家ですら引けない。著者によると「熟練した専門家など存在しない。自分を治すベスト・エキスパートは自分自身なのだ」と知ることが治癒への近道である。と提言する。

成人後の人生は子供時代の呪縛を受けているわけではない。成人後にそれを克服することも可能である。子供には抵抗力がある。非常に強いストレスでさえ、必ずしも神経症や精神病や犯罪につながるわけではない。逆に、まったくストレスのない環境で育ったからといって、将来問題が起きないとは限らない。

子供を狙った殺人事件がおこるたびに、学校へとカウンセラーが赴く。知らない人への注意を促す一方で、見知らぬカウンセラーにケアーを託す。担任や校長や父兄など、身近な人々では不足なのだろうか?と毎度考え込む。カウンセラーは如何ほどに力を発揮するのか?カウンセラーや精神科医にもストレスはあるし、ときにはノイローゼにもなる。心理学者が環境の影響を水増しして語ることは仕事上大きなセールスポイントになるだろう。しかし、一卵性双生児の研究によると、感情的特徴が遺伝的要素で決まる割合は平均46%、性格決定に関わる割合は70%に達するという。環境条件とされているものの多くは遺伝的要因の影響を受け、人は自分の環境を能動的に認知し、自らを創り出している。

いわゆる不慮の事故はその大部分が運命のせいにされるが、それにさえ平均30%の割合で遺伝子が関わっているという。子供時代の事故となるとその割合は50%に近い。

本のなかで最も気になった部分である。遺伝子を運命と言い替えれば同じことのような気もするが...事故というのは偶然や運命の悪戯として語られることが多い。たまたまそこに居たばかりに、また、そこに居なかったばかりに、と後で意味づけられる。無念の思いで運命を嘆くが、これにまで遺伝子が関わるという。肉親・血族の病気のみならず事故までが呪われるなら、これは祈祷師の言辞にも似て真に恐るべきことではないか。

人には自らが生き延びるため、自我と苦痛が与えられた。自分は他人より利口である、自分は他人のように愚かではない、と誰もが信じ込んでいる。慇懃な言動の裏にはプライドを忍ばせ、自分は他人のように俗悪なものに影響されない、逆に優れたものの影響は一番に取り込めると錯覚する。この幻想ともいえる自己認識が精神の健康にとって不可欠なのだ。

世界像および自己像を歪めて認識することは精神錯乱の徴候ではなく、「ノーマルな」精神機能の特徴なのである。これがうまく機能しないと、往々にして憂鬱な感情(ひどいときには抑鬱)が生じる。信じられないようなことではあるが、精神の病に苦しむ人々の自己認識は間違っているというよりは正しすぎることのほうが多い。脳という臓器の第一の目的は自己認識ではなく自己保存だ、と社会生物学は主張する。

物体を見て錯覚が起こるように、心を見ることでも錯覚が起こる。熟考の上での行動だとしても、心の中の確たる理想や信念は見えない。むしろ文化に根ざした神話やドグマ、聞き及んだ決まり文句や世間に蔓延する屁理屈によって自己籠絡しているのかも知れないのだ。これが低俗だとか無価値というのではなく、逆に人たるものの輝きではないかと思う。病気をはじめ行動などの機構を心理的要因に求めることが常態化しているが、それゆえ、心を重荷や呪縛と思い込み、病を一層耐え難いものに感じることがある。身体の健康が精神状態に左右されるという説は、身体医学で説明できない病気の要因として繁用されてきた。また、治癒困難な病気の苦し紛れの説明や、技量不足の治療家の逃げ場ともなっている。調査によると、不安や悲しみをほとんど表に出さない「抑圧タイプ」の人が心身の健康状態は良好だったという。この結果は心理療法の根幹を揺るがす報告でもある。

 

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