【読書録(5)】-2008-


偽善エコロジー
間違いだらけのメンタルヘルス
医療の限界
反貧困
食べてはいけない!
危ない薬の見分け方
中国の危ない食品
メタボの罠
中高年健康常識を疑う
 

偽善エコロジー 武田邦彦

エコロジーとは「生態学」のことをいい、歴史は古く、本来、生物の生息状態や環境との関連を研究する学問であった。20世紀後半に入って、文明や工業の発展にともない環境を汚染するという負の側面が目立つようになった。1962年、農薬の問題を告発したレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が出版され、環境破壊や公害問題を解決する分野として生態学が注目を浴びるようになった。同じころ現代文明を否定するヒッピー運動が生まれ、伝統や自然への回帰を主張する思想的運動へと発展する。その最たるものはディープエコロジーと呼ばれ、すべての生命存在を人と同等に置き、環境保護そのものを目的とするものだ。エコロジーという言葉には、このような歴史と思想が込められ、また多くの人々が関わり、文化や人生観に至るまで広範に影響を及ぼしている。

現在のエコロジーのテーマは二酸化炭素による温暖化防止である。実行すべき人々は対策を先送りし現世利益を優先する。そして善意の大衆は効果のないエコロジーや逆効果のエコロジーに汗を流し続ける。よく知り、良く考えないと環境ではなく、誰かの利益を保護することになる。本書は知り考えるための一助になるだろう。以下いくつかの実例をあげるが、エコロジーは利害とともに文化や人生観にも関わるため、課題も多く根も深い。

【レジ袋】レジ袋は石油成分の中で捨ててしまうものを利用して作られている。これを追放すると、新しく次の3つのことが必要になる。レジ袋を作っていた石油成分を別の用途にまわす。レジ袋に代わる買い物袋を作る。ゴミを捨てるときの専用ゴミ袋を作る。これによって結果的に石油の消費量が増えてしまう。「生活を不便にすることが環境に良いことだ」という錯覚を捨て、いままでどうりレジ袋を使う。

【温暖化はCO削減努力で防げる】アメリカとヨーロッパで二酸化炭素の全体の57%を排出しているにもかかわらず、これらの国は削減に熱心ではない。二酸化炭素の排出量約5%の日本がどんなに頑張っても焼け石に水。世界中が一致協力しないと不可能である。冷暖房を我慢したり、いまさら快適な生活を捨てきれるかが問題。そのうち石油や石炭がなくなるので、温暖化は収まる。

【温暖化で世界は水浸しになる】アルキメデスの原理によって、氷が溶けても凍っても海水面は変わらないが、海水の膨張では10cmほど水面が上がる。地盤沈下など、温暖化以外の影響もある。

【ダイオキシンは有害だ】ダイオキシンの毒性が騒がれ始めてから40年になるが、いままで日本では一人も患者が発生していない。焚き火、囲炉裏、焼き鳥でも発生するので、もし猛毒であれば、被害者が続出するはず。一部の実験動物での危険性は確認されているが人では99%健康障害は起らない。危険だけを煽り、対策のため無駄に税金が使われている。

【狂牛病は恐ろしい】牛の肉を食べて狂牛病に感染することはなく、脳、目、脊髄などを食べても感染する可能性は非常に低い。牛と関係のない狂牛病が年間80人ほど発生しているので、必ずしも牛が原因とは言えない。食肉解体した牛の残りをリサイクルして飼料にしたのが発生の原因とされている。現在は行われていないので、狂牛病は激減し2重の安全が確保されている。

【生ゴミを堆肥にする】ゴミを正しく分別している人はそれほど多くない。生ゴミには、電池、ガラス、金属、その他の各種異物が混入し、それを堆肥にすると畑に蓄積する。むしろ食べ残しを避け、冷蔵庫をこまめにチェックして生ゴミを減らす。

【洗剤より石けんを使う】合成洗剤のリンが富栄養化の原因になり環境に悪影響を与える、ということで洗剤追放運動が起ったが、特に問題があるとは言えない。現在はリンの量を減らしたり、酵素が用いられている。良く落ちるという評価を得るため界面活性剤を多く配合したり、適正量より多めに使用させる傾向があるので注意する。肌の弱い人は石けんが好ましい。

【古紙のリサイクル】製紙産業は業界存続のため、森林の利用は非常に慎重で、森林を破壊することなく計画的に利用する。樹木が生育した分だけ活用したほうが健全な森林が維持できる。紙のリサイクルには多くの手間と石油や薬品を必要とする。

【ペットボトルのリサイクル】現状では100本のうち5〜6本がリサイクルされ、あとは捨てたり、燃やされたり、外国に流されたりしている。自治体は税金をKgあたり405円も使って回収し、それを40〜50円で中国などに売り渡している。これほどの不正義は許されない。回収されても、きれいなペットボトルは再生されないので、生ゴミと一緒に燃やす方が燃料になり効率が良い。個人で再利用した後、劣化したらゴミとして出す。

【アルミ缶のリサイクル】軽く扱いやすく、リサイクルし易い。日本では約30万トン作られ、その90%がリサイクルされている。ボーキサイトから作るより、リサイクルのほうがコストが安い。自治体が回収するとコストがかかりすぎるので、民間の業者に任せるほうが良い。

【空きビンのリサイクル】大量消費・大量廃棄には向かない。リユースにしても内側の付着物の洗浄が大変である。リサイクルの場合は不純物などが混入し品質が低下する。新しいものを大切に使う。

【ゴミの分別】金属とそれ以外の2種類に分別するほうが良い。生ゴミは紙やプラスチックと一緒のほうが燃えやすい。金属は一括して専門の業者に出し、そこで分別を任せる。リサイクルをやめれば、時間と手間が省けて税金は5000円減る。家電製品のリサイクルをやめれば1台あたり3000円程度の負担が減る。日本だけでは温暖化は阻止できないので、この対策を止めれば一人2万円くらい浮く。

【家電のリサイクル】リサイクルの現状は、50%が中古として横流しされている。業者はリサイクル料金と中古料金で2重の利益を手にしている。海外に輸出されたものは、最終的な廃棄物処理を外国に押し付けるようなものだ。

戦後10年、それからほぼ20年間の高度経済成長時代を過ごした。古き良き時代は記憶の彼方にある。物を大切に使い自然との共存を図り営みを続けてきたが、工業化と分業化が進み大量消費時代へと至る。豊かになったことは素晴らしいことに違いないが、失ったものを取り戻そうという動きが始まった。この動きは結構なことだが、著者は「税金を使うところには必ず利権が生じる」という。そのために環境保護が機能しないばかりか誤った方向へ向かっている。豊かな生活から質素な生活には戻れない。自然の産物をその生育範囲で利用することは、間違ってはいない。私たちは大量消費の後ろめたさからリサイクルを始めたが、リサイクル可能という安心からものの扱いがぞんざいになっていないだろうか。ペットボトルひとつ考えても、一本購入し、自宅で水やお茶を入れて使えば何度も利用が可能だ。分別し専用の袋に入れて出すほうが手間とコストがかかる。また環境保護運動には、面白いほどのアンバランスや矛盾がついて回る。ペットボトルを分別しながらパン、パスタなど外国の食材ばかり食べる。マイ箸を持ち歩いたり、堆肥化に熱心な人が、食べ物を残し捨てる。隣の焚き火を非難しながら、自宅で薪ストーブや囲炉裏を囲む...このように、様々な愚かさを再発見することも環境問題の醍醐味かも知れない。

 

間違いだらけのメンタルヘルス 久保田浩也

精神科医やカウンセラーなど、心の専門家も増え、相談機関も増えた。心の問題に対する人々の関心も高まっているが、減少や解消の方向へ向かうどころか増加の傾向にある。自殺者の多くはうつ病によると報道されたが、心の専門家たちは自らの無力を思い知ったか?これだけで済んだと思ったか?どちらであろう。素人目にも対策のどこかに欠陥があるのではないかと思わざるを得ない。自殺原因に対する専門家たちの考察は大変分かりやすい。仕事量が増えた・リストラ・職場の人間関係・長時間労働・宗教心の欠如・人間の弱体化...すべて他者を原因にあげている。つまり心の専門家は要らないのだ。専門家の仕事はありきたりに話を聞いて、薬を渡し、刺激を紛らわす。たとえは適切でないが隣のご隠居と大差ないように思う。隣のご隠居は薬は渡さないが、専門家であればなにか際立った技術を駆使するのだろうか。

精神科医が日常接する人は、職場生活や家庭生活が困難になった人たちだから、普通の人と、発想や感受性や行動などが異なっている。そのような人たちから得る情報が圧倒的に多いために、精神科医自身の社会や職場や適応に対する物差しも、少々偏りがちになっている。

精神科医は「心の病」の専門家であるが「心の問題」の専門家ではないと著者はいう。複数の専門家が一緒に、同時に診察しても、病名の一致率が50%くらいしかないこともある。心の病については不安定な要素が多すぎて、専門家次第で治療方針も使用薬物も量も異なってくる。病を診断しても、問題が見えていないため職場復帰についても判断が甘い。組織の中はいつも厳しく戦場のようなものだ。著者が多くの精神科医と連れだち、いくつもの工場見学をした後、「いま見たところで軽い仕事、簡単な仕事がありましたか?」と尋ねると、多くの精神科医が「ない」と答えたという。診療やカウンセリングでは「簡単で楽な仕事から..」と諭し職場復帰を促すが、言うほど現実は甘くない。現場を知らないカウンセリングは、心の専門家に限らず普遍的に見受けられる。彼らはしばしば次のようにアドバイスする。ストレスのない生活、バランスの良い食事、適度な運動、病気と付き合うような気持ちで、、挙げれば限がないほど曖昧でアテにならないものだ。現実を知らないばかりか、自らの責任を回避するような言葉でもある。そして厳しい現実や現実との隙間は、薬に依って埋められることになる。私は仕事上、医師から出された薬の相談も受けるが、中でも精神科医の薬は際立って種類が多い。似たようなトランキライザーや入眠剤を複数使用するのが常識でもあるかのようだ。不調を訴えれば、その都度一つづつ薬が増え、減ることは珍しい。脳に作用する薬は慎重であらねばならないが、臨床試験も確立していない成長期の子供にさえ処方する。

その精神科で使用する「うつ」の薬のほとんどが、自殺を誘発する可能性があるのですから、そのことを使用説明書に明確に記入するように、2006年1月に厚生労働省から製薬会社に指示が出ました。アメリカでは同じ警告が2004年に出ています。

今年6月のことだ、自殺の原因の多くは「うつ病」によるものと報道された。この中には薬の副作用によるものがありはしなかったか?注意書きに「自殺を誘発する」というのがあるなら、原因の一つとして薬害も疑うべきだった。医者は安全だといって処方し、薬局は副作用はほとんどないと言って調剤する。正しい情報を伝えたら服めないのだ。心の問題を、仕事量や人間関係、心の弱体化など、各種視点で対策を立てたものの、問題は増加・複雑化の傾向にある。簡単で楽な仕事がないように、過去にもそれはなかった。とりわけ今が厳しいという理由は見出せない。問題としなかった事柄を、専門家の居場所のために顕在化させているようにも見える。

肩こり・寝つきが悪い・疲労感・手足が冷たい・だるい・頭痛・頭重感・イライラ・もやもや感・緊張・焦り・得体の知れない不安・根気がない・気分が沈みがち・集中力の欠如・意欲がわかない・起床時の倦怠感・熟睡できない・血圧が高い・下痢・便秘・トイレが近い---これらは病気とはいえないありふれた不調感の数々である。これが真に辛いものかどうかは当人しか分からないが、早期発見、早期治療のかけ声が病気へと誘う。不調は日々の体調と言い換えても構わない。日々変わらず動く機械とは異なり、好調の中にも不調が潜み、不調であっても好調な面がないわけではない。時々刻々と体調は変化する。なかには些細な不調が重病の前兆だったということがあるかも知れないが、予防という大義を掲げ少数の症例で多くの不安を煽る。すこぶる健康な人々を予備軍などと称して病気を生みだし誰が得をするというのか。

病人を探し出す前にしっかりした「予防・健康づくり活動」という前提がなけれならないと言うのが著者の主張だ。人は他人や社会との交わりの中にあるもので、「メンタルヘルスは幸福の戦略論であり組織戦略論である」という著者も心の専門家に違いない。著者の論点が徐々に絞られてくると、大同小異の感は否めない。「私たちの周囲にいる人はみんな変な人」と書かれているが、心の専門家も互いを変な人と考え、各自の理論を展開し、他の不足不備を挙げて己の優位を語る。人たるもの人の属性から抜け出すことは専門家でさえ難しい。人が100人居れば100通りの説が生まれるかも知れないが、独創性はそれほど多様ではない。細部は違っても幾つかのパターンに限定されるだろう。「心の専門家はいらない」という話も過去に紹介したが、今回の本は認識と対策を自分の考える正しい方向へもっていこうとするもので、それに沿って症例が集められたような気がする。巻末に書かれた「心の体操」の具体的方法は意外にありふれたもので、要は「深呼吸して体の緊張を緩めリラックスせよ」というものだ。

これほど現実がわかっていない、専門家と称する人のアドバイスに従ってはなりません。もっと自分の現実を、自分の頭で考えて行動しないと、せっかくの人生を無駄にしてしまいます。

問題を摘出したり複雑化させないで、「知らせずに黙って放っておけ」と考えることがある。いまさら不可能かつ無謀な提案かも知れない。できる限り自分で解決をはかり、専門家などの他人ではなく、身近な人々に助けを求めよ。家族や友人より専門家を優先するのは、横の絆を絶ち、乾いた縦の隷従に走るようなものだ。身近な人々は私のことをよく知っているし、救われることで次は私が人を助けることができる。このような考えは心の専門家に一蹴されるだろうが、彼らとてどれほどの成果をあげているのか疑問だ。業界ぐるみで専門知識を振りかざし難しくし、孤塁を守ろうとしているようにも見える。一から十まですべての問題を専門家が引き受けるのは現実的に不可能だ。専門家しかできないことと、私たちにもできることの検討を経ないまま専門家へ依存するのは、アイデンティティの放棄である。

 

医療の限界 小松秀樹

日本人の死生観が変容したように思います。あるいは、日本人が死生観といえるような考えを失ったのかもしれません。これが、医療をめぐる争いごとに影響を与えています。

人の心が変容することで世界が変わり、又変わったとする会話は日常一般に交わされ、問題が複雑で解明困難な時の結論になることがある。しかし、これほど核心を突き、それでいて曖昧な結論はない。公衆衛生や医療の進歩で人生80年時代を迎えたが、生き物にとって死は不可避なものだ。「人間もやがて必ず死ぬ。死は欲望を空しくし、個人のいさかいに終止符を打ち、死に対する覚悟が人を成熟させる」、と著者は言う。悟りに満ちた死生観だが、秦の始皇帝を取り上げるまでもなく、金や物を持ち、快楽を全身で享受していれば、逆に生に執着するのではないか?ここで語られる死生観は著者自身が達し受け入れたものではなく、患者に受け入れさせ医療の限界を知らしめる啓蒙と読んだ。

上段から諭す手法は、嫌悪と抵抗を感じるが、医師の考え方として耳を傾けるところがいくつかあった。医療はリスクがあってはならず、適切な治療を受ければ命を失うことはない。善い医師による正しい治療では間違いは起らない。また、医療関係者は過酷な条件でも過ちがあってはならず、あった場合は本人の資質に問題がある。 一般人はこのように考え医療機関を頼り受診するが、医療関係者は、医学には限界があることを知り、医療行為の不確実性やリスクを熟知するがゆえに「人はいつか必ず死ぬ」と諭す。たしかに、誰でもそのことは解かっているのだ。しかし、死ぬことやリスクの認識から医療に入っていく患者があるだろうか?薬ひとつ渡すにしても正確な副作用情報を提供すれば、服む人は一人も居ない。「大丈夫、副作用はほとんど心配ない」とでも言わない限り、治療は成立しない。

少し前は、クレーマーと言ったが、最近、各種業界でモンスターと呼ばれる人々の跋扈を耳にする。医療業界も例外ではなく、医療の性質上、物を取り替えるだけでは済まない。たとえ取替え可能でも、心の傷に対して慰謝を求められるなら、途方に暮れてしまう。すでにアメリカが数十年先を走っているが、これは弁護士が増えたためだという穿った見方もあった。今のアメリカは医療保障のために医師が廃業を余儀なくされる時代になっている。インフォームドコンセントは患者の利益を守る善意の言葉であるとともに、医療側の責任の限界を患者側に知らしめるものでもある。

民事裁判と刑事裁判とでは、医療従事者に与えるダメージがまるで違います。刑事事件で有罪になれば「犯罪者」と認定されるのですから、医療従事者として働けなくなったり、職場にとどまれず目立たないところで細々と生きていくしかなくなるかもしれない。

事故やミスが起ればメディアが群がり、それを見聞きした全国の野次馬たちが世論を盛り上げる。そこにまた、メディアが便乗して、奔流が形成される。人のこのような特性は昔からあったであろうが、今はメディアという巨大な増幅装置が備わっている。評論家や芸人、ときにはレポーターの小さな一言が世論を引っ張ることがある。それにしては、大きな暴動も起こらず、増幅装置とともに冷却装置も完備されているのかも知れない。刺す、切るなどを他人に行えば、これは傷害罪として告発されるが、医療に於いては日常のことで、これなしに業務の遂行は不可能だ。傷害と医療を分かつ資格こそが医師であり、その行為を傷害と呼ぶものはいない。ところが、一旦、ミスや事故が起こり、刑事事件として動き出すと様相はまったく異なったものになる。学んだものや身につけた技術が、たちまち犯罪の道具に認定されてしまうのだ。ときには逃亡の恐れすらない医者に手錠を架け腰紐を付け、さらしものの如く連行する。その後の人生は推して知るべし。いままで多くの病人を救ったであろう医師の仕事を評価することもなく、烙印が押される。

日本では被害者感情や世論が責任の軽重を決める風潮があり、裁判官は負担能力の大きい側に、賠償を命じる傾向がある。その最たるものは国家賠償ということになる。通り魔に襲われても、それが国の施設であれば、管理責任が問える。商業施設で転んで怪我をしても、設備の欠陥を糾弾できる。「ルール破りや、不快な輩は、たたき潰し、やられたら、同じことをやり返せ」という世論は容易に盛り上がる。これが突き進むと、リンチさえ容認する社会になるのではないか。私たちはミスを犯すことから逃れ得ない。小さなミスから取り返しのつかないミスまで、いつ起るとも知れない。安全を望むあまり、私たちが盛りあげた世論の罠に、誰もが捕われる危険性が潜んでいる。

本来ならシステムで解決できるものを、個人が悪いとして片付けるのは、現在の科学にも反しています。犯人探しをやりたがるのは、日本の社会の一大欠陥です。なんという理不尽で、寛容性のない社会でしょうか。

誰もが犯しやすいミスは、システムの整備で克服できる。費用はかかるが、二重、三重のチェックやフィードバックを行うことで安全が得られるなら、最終的に費用の収支はプラスになるだろう。事故や事件が起れば、識者からシステムの問題が指摘されるが、これには耳を傾けるべきだ。個人を責めるだけでは何の生産性も持ち得ない。特に医療分野でのシステム整備は遅れをとっていると著者はいう。医療現場での仕事は増加の一途をたどっている。いままで、粛々と行ってきた医療業務に患者への説明や人間関係が立ちはだかるようになった。

特殊な人たちの過大な自由をあまりに尊重しすぎるために、多くの人たちの自由を阻害しているところにある。

システムの整備は肝要であるが、わずかな数のモンスターを恐れて水をも漏らさぬ対策を検討する。それでも万全ではなく、ときには「ものの言い方」にさえ言い掛りをつける。その影には多くの善意の患者が居て、対策の狭間で不安と葛藤にさいなまれる。医療の限界を伝え、まさかの危険を告知する。ミスや事故が起りうることを聞かされる患者の気持ちを想像できるだろうか?手術室へ向かう患者に万が一、戻ってこられないことを平然として語るのだろうか?冒頭の著書の言葉、「人間もやがて必ず死ぬ。死は欲望を空しくし、個人のいさかいに終止符を打ち、死に対する覚悟が人を成熟させる」などと諭す医者もまた、モンスターである。モンスターに苦しんでいるのは医者ばかりではない。些細なことで激しい抗議にさらされる職種はいくつもあり、身を挺して応じる場合もある。医者はいままで知識と権威の下で、裁判にも勝ち続けてきたし、患者や社会からの尊敬も絶大なものがあった。患者と対等に、患者は客だという風潮が医療の権威を落としめ、そこに普通の人の疑問や介入が可能になった。教育や行政や医療は権威をもって統治していた過去があるだけに、この変化に戸惑っている。特殊な人たちによって、多くの人の自由や気持ちが踏みにじられる。それはよく解かるが、このまま対策がまかり通って医師の主張が重視されるなら、知識も乏しく頼る人の少ない患者はますます自由を阻害されるだろう。

 

反貧困 湯浅誠

年間、交通事故死の3倍もの3万人が自殺に追い込まれている。正しくは追い込まれている人も居ると書くべきであるが、いままで自殺をどんな眼差しで見てきたのだろうか。なぜ死ぬほどまでに思いつめたのか、それは心の問題であると同時に、社会や政治がもたらす深刻な一面も否定できない。6月に報告された警察庁の統計では、自殺者は一昨年より2.9%多い33093人で、1978年に統計をとり始めてから過去最悪だった2003年に次ぎ、2番目に多かった。内容を見てみると、60歳以上と30歳代の自殺者が多く、お年寄りの、「孤独感」を苦にした自殺や、働き盛りを中心にした「仕事疲れ」の自殺が考えられる。高齢者とともに、社会的・経済的に負担の増す世代が追い詰められている現状が浮かびあがってくる。警察庁が遺書やインターネット上の書き込みなどから動機を特定できたのは、このうち23209人で、(1)病気など健康の悩み:14684人、(2)借金など経済問題:7318人、(3)家族の不和など家庭の問題:3751人、(4)職場の問題:2207人、(5)男女関係の悩み:949人、(6)学校の問題:338人の順になっている。(複数理由もカウント)

このうち、経済問題を動機とした自殺では多重債務:1973人、その他の負債:1656人、生活苦:1137人、職場の問題では仕事疲れが672人であった。これらの数字は、著者の主張と活動の基本となっているものである。最悪の場合、自殺へと追い込まれた人々、あるいはその直前まで追い詰められた人々は、心が弱く、努力を怠ったための自己責任なのか。

日本では2002年1月から景気回復が始まり、名目GDPが14兆円増える一方、雇用者報酬は5兆円減った。だが、大企業の役員報酬は一人当たり5年間で84%も増えている。また株主への配当は2.6倍になっている。ということは、パイが増える中で、人件費を抑制して、株主と大企業の役員だけが手取りを増やしたのだ。

人件費や材料費を抑えるため海外に製造の拠点を移し、国内でも人件費が安くて済む外国人労働者を雇用した。やがて、日本人の人件費にまで節約の手が伸び、フリーターや派遣労働者への依存を高めていった。フリーターといえば「自由で多様な働き方」として取り上げられた事があったが、平均年収は約140万円。誰がこれを望もうか。自由・多様というのは後付解釈にすぎず、実際のプロセスは企業が徐々に労働者の非正規化を進めていったのだ。この恩恵がどうか、物価は安定し価格破壊という現象も起こり、私たちは安価なものやサービスを入手できるようになった。しかし、価格競争にさらされた農林水産業や個人商店は次々に廃業を余儀なくされ、農業の担い手は減り、シャッター通りと呼ばれる商店街が各地に出現していく。

6月に発表された自殺の理由について、新聞など多くのメディアは「うつ病の増加」と報道した。新聞社や放送局の高給取りに、年収140万の人々の気持ちは解からない。うつ病が増えたというのならば、その原因は何だろうか。心の専門家のカウンセリングと薬で治る「うつ病」は限られている。健康や生活の不安、経済問題、職場問題を抱えた人に、いくら薬を与えても、眠くなったり、刺激が薄れるだけで、なにひとつ解決にはならない。

なぜそうなる前に手を打たなかったのか、やるべきことは尽くしたか、と言う人々が居る。過労死に対して、「どうして休もうとしなったのか」、進学に際して「なぜ奨学金を借りようとしなったのか」、多重債務に対して「親類や身内はいなかったのか」...など様々な「○○しなかったのか」が語られる。このことについて、著者は「溜め」という言葉で話を進めていく。

フリーターや主婦パートで仕事が不安定であっても、親や配偶者と同居していれば、すぐに生活には困らない。親が膨大な教育費をかけてくれれば、大学にも通える。このとき本人はそれぞれの「溜め」を持っていることになる。逆に言えば、貧困とは、このようなもろもろの「溜め」が総合的に失われ、奪われている状態である。金銭的な「溜め」を持たない人は、同じ失業というトラブルに見舞われた場合でも、深刻度が全然違ってくる。ただちに生活に窮し、食べる物に事欠くために、すぐに働くところを見つけなければならない。職種や雇用条件を選んでいる暇はない。窮乏度がひどくなれば、月給の仕事を選ぶか、日払いの仕事を選ぶかという選択肢は、事実上存在しなくなる。月給仕事を選ぶためには、最初の給料が入る1ヵ月または2ヵ月後まで生活できるだけの「溜め」が必要になるからだ。

雇用・社会保険・公的扶助などのセフティーネットに支えられ生活が安定しているときや、自らの生活は不安定でも家族のセフティーネットに支えられているとき、「溜め」があると言い、その「溜め」が失われると最後の砦である自信や自尊心も失い、様々な可能性や選択肢から排除されていく。「溜め」は頑張るためのもっとも重要な条件なのだ。「溜め」がない状態を例えれば、日照りの続くなか溜池のない土地で立派な作物を育てて見せろと要求するようなものだ。貧困は完璧に自己責任ではなく、政治によってもたらされた面があると著者は言う。経団連をはじめとする財界が、献金や寄付、各種提言を以って政界に積極的に働きかけた結果、政治が貧困を拡大・深刻化させた。さらに「溜め」のない人々をダシに政府や企業が食いものにしている構図を指摘する。サポートセンターや再チャレンジ政策など、施設の設置・運営資金は職員ばかりが消費しているという。昨年、北九州市で生活保護を打ち切られ、男性が餓死した事件が起こった。これは北九州市に限らず全国的な傾向になっている。日本弁護士連合会の資料によれば、自治体窓口で生活保護の申し出を拒否されたうち、66%が自治体の対応に生活保護法違反の可能性があった。生活保護の必要のない人や不正な受給を「濫給」と言い、必要な人に行き渡らないことを「漏給」と言う。そして、濫給1万4669件に対し漏給は600〜850万人にのぼる。不正受給の話を耳にすると慎重であらねばと思うが、悪質な濫給の事例をあげて、漏給を正当化するのは公務における犯罪行為である。

「貧乏でもこつこつ頑張っていれば、必ずいいことがある」と考えるし、考えたい。それは自然なことでもある。困るのは、返す刀でそれが条件の異なる他者に向けられるときだ。「自分も頑張ってきたんだから、おまえも頑張れ」という言い方は、多くの場合、自分の想定する範囲での「客観的状況の大変さ」や「頑張り」に限定されている。そのとき、得てして自他の「溜め」の大きさの違いは見落とされる。それはときに抑圧となり、暴力となる。

努力すれば何でも出来る。受験生にはどこの大学へでも行ける。スポーツ選手にはオリンピックへも行ける。などと叱咤激励するが、「誰でも..」と言えば、明らかに不可能な事だ。貧困問題の「溜め」と同列に話すことは出来ないが、能力や才能にも「溜め」がある。いままで他者の溜めに配慮した言動をとってきたか反省させられるところだ。給食費、国保、年金などの不払いの一部には不心得者がいるとして、その数例だけを取り上げて報道されると、「溜め」を見ようともしないで非難する。自殺や犯罪も溜めの少なさで追い詰められたケースも少なくない。農業や漁業、中小企業、あるいは大企業でさえ、明日が保障されているわけではない。著者は貧困者のセフティーネット構築に奔走する日々だ。しかし、本を読むうちに明日、わが身に及ばないと言い切る自信はない。細々と営む自営業では、健康が前提で成り立っている。明日、倒れてそのまま死んでしまえば、残されたものはなんとかやっていくだろう。問題は仕事に復帰も出来ず、障害を抱えたまま、最悪の場合、意識さえ戻らず生き続けたらどうなるだろう。国の保障などいつまでもは、アテにならない。土地を売り数年は食いつぶしていくだろう、親類の援助があるかも知れないが、精々、見舞金1回きりだ。生活保護を申請しても、窓口の係員から「子供の世話になれ」と言われたら、途方に暮れてしまう。大袈裟なシュミレーションであったが、笑い話ではなく起りうることだ。とにかく健康でいることの他ないが、これこそ「努力すれば何でも出来る」ものではない。

福祉のために3%いただきます。ということで消費税が導入されたが、医療や福祉や教育から節約が始まり、道路を始めとした公共事業には湯水のごとく予算が投入される。選挙で票になる業界だけが手厚い福祉を享受できる。選挙に行かない4割の人の声は届かず、これこそ自己責任と言うべきかも知れない。権益を得た人々の豊かさの下には、貧困層とその予備軍が喘ぎ、いまやその喘ぎ声さえ届かない国になりつつある。終章はネットカフェ難民の当事者だった人の談話が記されている。

バブル崩壊という戦後最大級の不景気がありました。そのとき、銀行・大企業はほとんど自力での復活が無理なとき、何十兆円もの国民の血税を投入し、もちろん国民には何ひとつ還元されず、そして労働力は非正規雇用を大企業が採用し、こんにちの貧困層・ネットカフェ難民という副産物を多量に作りました。

 

食べてはいけない! 森枝卓士

米環境保護団体シー・シェパードの船が日本の調査捕鯨船「日新丸」の妨害活動を行ったことは記憶に新しい。鯨を食し利用することは日本の食文化だという主張に対し、彼らは、動物保護や鯨の知能が高いという理由を掲げ反対する。牛や豚などを食べながら鯨やイルカはダメだというのは理屈で推し量ることのできない文化の違いである。議論はいつまでも平行線のまま互いの主張を譲ることはない。世界中の食物や料理を移入し愉しんでおきながら、日本の食文化だとして鯨に固執するのも、いまさらという気がしないでもない。「牛丼が食べられなくなる」と言って吉野家に列を為すのと同じことではないか。さて、この書物は、添加物や農薬汚染があるから「食べてはいけない」という健康や栄養学の話ではなく、文化がいかに根強く食行動を支配しているかの話である。一般的に人に姿形の近い霊長類や生活を共にするペットなどを食べることはしないというが、「食のタブー」で最も多いのが肉食に関わるものである。

神という完全性を設定して、それからはずれるもの、つまり食べてはいけない動物などを設定することで、食事のたびごとに神の神聖を再確認するというのである。小難しいようだが、要するに、秩序からはずれるものがあるからこそ、秩序であったり、神といった存在も再確認できる、補強されるということである。そのようなシンボルとして「食べてはいけない」というものを、集団は設定する。

食物のタブーの他、イスラム教のラマダンでは、食べてはよいが食べてはいけない時を設定する。これらを支える教義や理屈は歴史の中で変遷を遂げたもので、人類学の高遠なテーマでもある。体に悪いから「食べてはいけない!」の易しさと、その警告にも関わらず毒をも食べてしまう食行動の乖離は容易に理解できるはずもない。タブーの多くは宗教に関わるものだが、民族の違い、民族が同じでも地域の違い、地域が同じでも家族での違い、家族が同じでも世代や信念による違い、これらすべてに文化や習慣の壁が存在する。生まれ育った過程で身についた食習慣はそう簡単に変えることが出来ないが、あるきっかけで突然変わることがある。このエネルギーは信仰または信念と言われるもので、神の啓示や至高の価値観に捕捉されて起るものだ。至高の価値観とは、祈りや健康であるかも知れない、あるいはエコロジーへの志向かも知れないが、禁忌を設定することで、禁欲で得られる何かを求めるものだと思う。飢えた時代には到底起りえなかったであろう断食療法や菜食主義は満腹や肉食の快感を知るゆえ禁忌設定足りうる。何らかの理由で生来、肉食を絶っている人は肉そのものに嗜好を示さないという。栄養学でいう偏食は各地、各時代で発生しているはずだが、種が存続していることが裏付けとなり、生命力としたたかな適応力で栄養学を無視し続ける。

食の考え方に「人は食べたところのものになる」というのがあり、食の選択の拠り所とすることが多い。肉食は闘争心をかきたて、菜食は平和をもたらす。汚染された食は健康を損ない、清浄な食は心身を育む。この思想は一見正しいように感じられるが、多くの矛盾点を抱えている。さほど文句を言われることのない野菜は実は多くの自然毒を持ち、戒律が設けられる肉は人に不可欠な良質のアミノ酸が備わっている。毒も薬も取り込むことで生命を維持するのが生物であるが、知を持つ「人」は思想や解釈に翻弄され食行動の多様性を持つに至った。自分の育った土地で取れた食材は身体に良いものだという「身土不二」は「食べたところのものになる」を発展させた思想として語られる。遠方から運ばれる食材は失格ということになるが、一村一品やスローフードへと引き継がれた現状をみると、産地から遠い都会へ、ときには飛行機で海外まで運ばれるようになった。運送手段がなかった昔は身の回りで取れたものを食べざるを得なかった。そのための保存に塩は欠かせず、胃ガンや脳卒中の一因となり、ある土地ではミネラルが不足したための風土病の発生が報告されている。身土不二は農や食の広報に役立つものの、丸ごと健康と結びつけるわけにはいかない。

ある食品がある文化圏の中で食品として認知されるかどうかは、それを入手するために必要なカロリーが、それから得られるカロリーをはるかに越えているかどうかにかかっているという指摘があった。つまり、中欧、北欧などでは昆虫の密度が低いために、わざわざ採って食料とするに値するものではなく、そのためにゲテモノという感覚も生まれたというのである。

ある地域で食されるものが、他の地域では食とみなされない、いわゆる「ゲテモノ食い」の話だ。上記、下線を施した文節はたぶん著者の勘違いか誤植かと思われる。「入手するために必要なカロリーより、それから得られるカロリーがはるかに越えているかどうか」という表現が分かりやすい。この出典となっているマーヴィン・ハリスの「食と文化の謎」を調べてみると、捕獲採集のカロリー、処理や料理に要する単位時間あたりのカロリー見返り率(最善採集餌理論)によって食料を選んでいるという。日本に於いては信州の昆虫食が知られ「蛋白源が乏しかったために何でも食べた」という説明がされる。しかし、昔ははどこも似たように貧しい生活であったことを考えると、信州はとくに昆虫の密度が高く最善採集餌理論を満たした結果だと思われる。ザザ虫、蜂の子、イナゴ、蚕蛾などがあり、入手も容易でかつ養蚕業が盛んな土地柄、暮らしの一部として昆虫食の受け入れも自然であった。信州ほど盛んではないが、各地の山間部では昆虫や野鳥や川魚などを捕獲して食べた記録や郷土料理が残っている。平野の米作地や海辺の住民はこれらをゲテモノと呼ぶのかも知れない。

ゲテモノは時に薬として食べる(服する)ことがある。これには奇妙なものに込められる「祈り」が介在する。この薬理や薬効も科学を無視し続け、成果だけを寄せ集めたものだ。食と同様に「人は食べたところのものになる」という考え方を取っている。分かりやすい例を挙げると、繁殖期に数十頭のメスを引き連れるオットセイのオスの生殖器を精力剤として服む事がある。昔から言われる「爪のアカを煎じて飲む」という諺が息づいている。しかし、オットセイになれる訳がなく、明らかな嘘に気付かないまま願望だけが一人歩きする。他に黒焼きやホメオパシーなどが顕著な例だ。薬効は実態なき霊的(spiritual)なものと考える他なく、現代のプラシーボに通じるものだ。私はプラシーボを否定しない、むしろ自信と誇りをもって利用すべきだと思っている。漢方も含め代替医療の技はプラシーボを生かす宝庫である。ここは現代医学が学ぶべきところである。食べるもの、服むもの、信じるもの..など、人の営みには理知とともに霊的な内容が込められる。栄養学から見た「食」は、整然として無味乾燥であるが、科学と呼ばれている。私は人類学が語る「食」のほうに共感と真実味を覚える。ラ・ロシュフコーの箴言集に次の言葉がある。

われわれはあくまで理性に従うほどの力は持っていない

 

危ない薬の見分け方 浜六郎

新型インフルエンザについては昨年のコラムで取り上げたが、パンデミックが起こるか否かではなく、いつ起こってもおかしくない状況にあるという。韓国では全国に発令する鳥インフルエンザの警報レベルを「注意」から「警戒」に1段階引き上げた。わが国では連休前に十和田湖畔で見つかった白鳥の死骸から強毒性のH5N1型・鳥インフルエンザウイルスが検出された。目に見えない魔物がひたひたと迫る恐怖を感じる。来たるパンデミック対策として、ワクチンの接種が発表された。最初、医療関係者とされたが、次に警察官や電気、交通機関、公務員などのライフライン関係者が挙げられ、一般にも話は及んだ。しかし、ワクチンは対策のひとつでしかなく、一定の割合で出現する副作用についても検討課題である。新型インフルエンザと原発事故、この二つはいつ起ってもおかしくない危機だと認識している。最近話題の中国食品や食糧問題の比ではなく、道路や年金問題など及ぶべくもない。話がそれてしまったが、インフルエンザの治療薬として使われたタミフルで子供の突然死や自殺が相次いだ。しばらくはタミフルが原因とされていたが、いつのまにかインフルエンザそのものが脳症を引き起こし、異常行動を誘発するような論調に変わっていった。メディアで取り上げなくなるとやがて騒ぎも収まったかのように感じられるが、近づきつつある新型インフルエンザの対策にとって欠かすことのできない問題である。

タミフルが使われる前は、インフルエンザにかかっただけで何も薬を飲まなかった子供が睡眠中に突然死するようなことは報告されていないこと(もちろん、痙攣を起こす薬を飲んだ場合ではありえますが)。生後6ヵ月未満の乳児に起きやすいとされている乳児突然死症候群(SIDS)も、一歳以上では非常に稀です。インフルエンザ脳症で急に亡くなるといっても、症状が出始めてから、半日や一日は経過しています。ところが、この子たちは、昼寝のわずかな間や、深夜に突然死していました。もうひとつの理由は、子供たちの死亡時の状況が、タミフルの動物実験におけるラットの死に方とそっくりだということです。

タミフルは決して特効薬ではなく、外国のデータではせいぜい症状が1日早く治る程度で、日本人を対象としたランダム化比較試験で、A香港型には全く効かなかった。健康な人の試験でもプラシーボ(偽薬)群との罹患頻度に差がなく、予防的な効果もない。このような薬がなぜ承認されたのか?次のデータを見ると、ウイルスを検出できないインフルエンザの罹患率(プラシーボ群:9.8%・タミフル群:18.7%)、ウイルスが検出できるインフルエンザの罹患率(プラシーボ群:13.7%・タミフル群:3.2%)でウイルスが検出できるインフルエンザにおいてタミフル群の罹患率が低くなっている。インフルエンザの症状は予防できなかったが、インフルエンザウイルスの検出が予防できたので良しとされた。ふたたび、なぜ承認されたのか?

その原因を論じる場合、マスコミの論点は、次の二つです。一つは、厚労省と製薬会社と医師との癒着。もう一つは、医師が薬価差益(公的価格と医療機関の仕入れ額との差)によって儲ける構造。
たしかにそういう面もあるかもしれません。しかし、前者一つとってみても、ことは「癒着」というひと言で表現できる単純なものではありません。なぜなら、この問題は経済と政(まつりごと)が絡んだ根深い問題だからです。

現在、制度として定着しつつある医薬分業は中世ヨーロッパから始まった。国王が自分の身を守るだけでなく、薬が金になるため、医師から薬を取り上げ国で管理するようになった。ここで医師と薬剤師の分離も行われ、医師が薬を扱えないような制度が出来上がった。薬剤師を介在しない医療機関での投薬は「医師自らの調剤による」という特例である。現在の状況は医師の処方によって薬が使われ、それを健康保険で賄い、そのおかげで製薬会社へ金が流れる仕組みになっている。世界で流通するタミフルの8割が日本で消費され、薬の市場規模についても世界の1/10を日本が占めている。薬を使いすぎる事が副作用や薬害発生の頻度を高める。これは日本人の薬好きという面もあるが、国民皆保険制度の恩恵と弊害でもある。医師は薬を求める患者のためにどんどん処方し、製薬会社の高価な薬は保険が賄ってくれる。その蜜に政官学が群がるという、まいどお馴染みの構図が見えてくる。タミフルでこれほどの騒動を引き起こしても、中外製薬の株価は微動だにしない。苦しい釈明をしながら嵐が過ぎ去るのをひたすら待つ。そして、パンデミック時の備蓄不足の話を持ち出し、200〜300万人分というタミフルを買い貯める。

40年かかって完成されたシステムの中で、薬を大量に処方する医師の習慣、それを調剤し説明する薬剤師の習慣、入院患者に手渡す看護師の習慣、そしてたくさん受け取る患者の習慣、どっぷりとつかって、染みついてもはや容易なことでは薬から離れられません。

習慣化したシステムのなかで、薬価の構造に問題があると著者は主張する。以前は薬価差益が5割も10割もある薬があったが、現在ではほぼ1割程度に落ち着いている。薬価差益で潤うことは少ない。問題は薬価基準自体が高いことである。世界中で使用されるエッセンシャル薬の価格はあまり変わらないが、新薬については2倍以上、中には10倍以上も差のあるものがある。それも画期的なとはいえないような薬にである。そのうえ、新薬を使用する比率が高く、ドイツの10%に対し、日本は50%にもなる。薬価は普通2年ごとに下がり続け、新薬は発売6年でジェネッリク薬が加わるため、売り上げは必然的に落ち込む。その対策のため新薬を開発し、高い値段で売りさばかねばならない。薬価は下がっても新薬の出現のため、薬剤費はむしろ上昇する傾向にある。

エッセンシャル薬というのは、多くの人に使って一定の有用な評価がなされた薬で、1980年代までにほとんど開発し尽くされている。それ以降、画期的新薬は稀にしか開発されていない。しかし、開発にかかった費用は膨大なもので無駄遣いとしないために、万策を弄して回収しようとする。企業としては至極まっとうな社是に違いない。ここに金は流れ、臨床データの捏造などが発生する。学会やメディアを籠絡し新しい病気を作り、検査値の基準を低くする。最近話題の道路や年金だけではない、国保税として集めたお金は壮大な無駄となって消え、その上、副作用や薬害の土壌をうみだす。1998年8月、旧・厚生省の庁舎前に建立された「誓いの碑」の言葉である。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した「薬害エイズ」事件このような事件の発生を反省しこの碑を建立した

銘記はしたが、壮大な無駄は終わらない。最近では薬害肝炎、この裁判と救済に壮大な税金が投入される。国と製薬会社の犯した不始末は国民一人一人が負う事になる。

本ではメタボリックシンドロームのからくりが暴かれているが、別のコラムに繰り返し書いているのでスキップして冒頭に戻る。いつ起こっても不思議ではないとされる新型インフルエンザパンデミック。著者がすすめる「かぜやインフルエンザの時の十箇条」が書かれている。新型インフルエンザにまるごと適用は出来ないと思うが、「抗インフルエンザ剤は不要、有害。インフルエンザワクチンは効かないので、いっさい受けなくてよい」とある。ひとたび発生すると、日本で最大64万人(200人に1人)の死亡が予測されている。鳥インフルエンザウイルスをもとに製造したワクチンは「プレパンデミックワクチン」と呼ばれるが、薬効は未知のものだ。まず臨床実験として6000人に接種し、有用性が確認されれば1000万人に事前接種する方針である。国は最終的に2000万人分の原液備蓄をメーカーに指示しているという。これだけ大量に使用すれば副作用の発生も相当な数に上ると思われる。そして、期待した効果が得られなければ、地獄図だけが現出するであろう。十箇条の基本は「手洗い、うがい、保温、安静...」。危ない薬はよくわかったが、この十箇条を正直に実践することで、ノアの箱舟に乗り込めるだろうか。

 

中国の危ない食品 周勍著 廖建龍訳

透支:この中国語は、著者が「中国の食品安全問題」を解明しようとしているキーワードである。「透支」の原義は、銀行から預金残高以上のお金を引き落とすことや、支出が収入を超過する意味に使われている。つまり借り越しの意味を、著者は拡大解釈して、現代中国人、すなわち中国が中国共産党の一党専制という恐怖統治下に生きる中国人の心理状態、生態、行動パターンなどさまざまな表れを「透支」という用語で表現しようとする、ある意味で著者が造った新語である。

その新語「透支」とは、中国人は毛沢東時代に「貧乏になれ!それは栄誉だ」と号令されると、10億の国民全員がそれに従った結果、国全体が貧乏のドン底に陥った。そして80年代から始まるケ小平時代になり、「先に金持ちになった者が勝ちだ」と号令されると、13億の国民がこんどは拝金主義になったのである。

このように、中国人は貧富、右左、善悪、正邪の号令をされるたびに、全員がその号令に従って動き、その結果、人間としての「個」(根っこ)を失ってしまった。そして結局、中国の社会全体が「透支」の症状を呈するにいたったのだ。

その症状とは、誰も信じず、社会を信じず、国を信じず、明日を信じず、の症状である。たとえば、金儲けのためなら後先を考えず、友人や親戚や世間の人々への迷惑などを考えず、資源の掘り尽くしを考えず、環境破壊を考えずに、無分別にやってしまう症状を指すのである。

長い引用になったが、著者がキーワードと自認するだけの内容が書かれていると思う。著者は食品の安全問題を取材してきた中国人ジャーナリストで、本書の翻訳出版は2007年10月である。今年2月の「毒餃子事件」は起る必然性のあることが痛切に感じられた。昨年は食の偽装で揺れたが、ほとんど日付や表示についてのもので重大な健康被害に及ぶことはなかった。毒餃子は、まさに命に関わる許されざる事件である。残留農薬のレベルをはるかに超えた農薬の検出は、怨恨や謀略などの憶測をも生んだ。しかし、この本を読み進むにつれ私たちが常識としていることが、嘲笑うかのようにことごとく裏切られていることを知った。日本は食糧自給率40%を切り、中国への食の依存度が高いことは言うまでもない。今まで、そしてこれからを考えると、比喩なき後味の悪さと不安を感じる。

先に報道された段ボールを使った肉まんやインクで色をつけたワインなど、想像を超えるデタラメに不快感を覚えた。しかしこれらは氷山の一角に過ぎない。危険な薬物を投与し育成した豚肉、汚染した食材、添加物や農薬の恒常的使用、おおよそ食品を扱うという意識も使命もない現状に戦慄せざるを得ない。日本ではいまや多くの中国産の食材や食品があふれかえっている。産地表示なしの加工食品やコストを下ざるをえないコンビニ食やファアミリーレストランなど..いちいち産地を気にしてはその日の食事すら立ち行かない。コスト追及や工業製品の輸出のため、日本の農業を壊滅させた代償は健康や命で贖うことになるかも知れない。農業再生の掛け声は勇ましいが、いまさら農業の再生は難しい。まず深刻な後継者不足とコストの呪縛から逃れえないであろう。切り詰め易いのは食から、あるいは切り詰められるのは食だけという人も多い。100円単位で生活する人々の気持ちは金持ちには絶対に解らない。

次に中国で起こった食を巡る事件をいくつか列挙するが、これらはすべて傷害・殺人事件と言っても過言ではない。メタノール入りの酒で192人が中毒、35人が死亡。パラフィン油混入の食用油で700人が中毒。野生キノコを食べて5000人余りが中毒、うち少なくとも10人が死亡。肉赤身化剤使用の豚肉を食べて484人が中毒。変質豆乳を飲んで3000人余りの学生が中毒。有機リン農薬残留の「空心菜」を食べて78人が中毒。フォルムアルデヒド・スルホキシレートナトリウムを違法添加した春雨を食べて87人の学生が中毒。粗悪粉ミルクで百数十人の幼児が被害に遭い、十数人の幼児が死亡。中国における毎年の食物中毒者数は最低20〜40万人と推計され、癌の原因の約1/3が食べ物にあると警告する学者も居る。2004年5月、工商行政管理総局が8ヵ所の重点食品市場で、24種類の食品について抜き取り検査を行ったところ、合格率はわずか65.8%であった。現在の中国の食品安全問題を整理すると、以下5つの特徴が挙げられるという。

  1. 有毒有害物質による加工食品は、とくに乾物と水産品に突出している。
  2. 食品添加剤の使用基準超過は、とくに豆製品が突出している。
  3. 一部の食品の衛生はかなり憂慮の状況にある。
  4. 一部の食品、なかでも乳製品の栄養指標と成分含量は要求に達していない。
  5. 食品表示は標準に合わない。防腐剤、着色剤、甘味剤の具体的名称を表示しないし、日付、含量の表示はあっても間違いだらけ。

金のためには手段を選ばず、粗悪品や腐ったもの汚染したものも売る。「上に政策あれば、下に対策あり」と言われ、国家の幹部の腐敗は甚だしく汚職も蔓延し有効な職務の執行が出来ない。毒餃子事件で、中国当局の我関せずのコメントは、私たちを震撼させるに足るものだった。2004年、中国で次のような事件が起った。アメリカから輸入した鳥インフルエンザに感染した鶏の足爪冷凍品113トンの廃棄処分を決定した。荷主はショベルカー1台を雇い、山のなかに深さ10mの穴を掘り、大型トラック6台分の鶏の足爪冷凍品を埋め石灰を撒いて消毒した。この経過はメディアで報道され称賛を浴びた。その夜、この荷主は人を雇い、掘り出し、自社の冷凍庫に密かに運び入れて隠した。これは当局に見つかり販売に至らなかったものの、従業員が勝手にしたこととシラを切りとおした。これほどまで中国は病んでいるのか。私は仕事上、薬草を扱っているが、その産地の多くは中国である。身震いが止まらない。食品に比べれば薬草の流通量など知れたものであるが、いつどこで汚染にさらされるかは解からない。自社基準を設け残留農薬の検査を行っている薬草メーカーもあるが、それとて100%の安全を保障するものではない。薬草を原料にしたエキス製剤やおびただしい数のサプリメントや健康茶はどんな状況だろう。有機、無農薬の表示があってもアテにならないなら、自分で全工程を手掛けるしかない。実際、昔の人々は必要なものを自力で入手し、そのために多くの時間と労力を費やした。海の向こうに依存する食が、いつでもいつまでも供給されるという幻想は終わった。いまどこかに危険な食が潜み、宝くじとは逆に「当たらないことを信じて」暮らす日々が続いている。

汚染された食品はお断りだが、自給率40%を切ったいま、どこからか持ち込まねばならないし、持ち込まれているはずだ。バイオ燃料の煽りも受けて食物の価格は上昇し、安全の不安と同時に価格高騰の不安を招いている。しかし、このまま中国の食事情が改善しないかぎり、多少の汚染は目をつぶって受け入れなければならなくなるだろう。食べられないことは、絶対の危険なのだ。「透支」は中国だけの専売特許ではなく、少なからずどこの民にも存在する。日本で起こった各種偽装事件も、やはり金銭を重視するあまりの出来事であった。心の問題ほど厄介なものはなく、制度をいじることや罰則強化では容易に解決しない。しかし...一体どのような動機や事情で高濃度の農薬汚染が起こったのだろうか?

【追記】中国で人気のある生麩軽食に「陝西涼皮」というのがある。その製造現場は次のようなものだという。---工場では大きな衣類をもみ洗うかのように大盆の中でメリケン粉をこねるが、疲れると足でこねる。粉団子が盆から飛びちってもそのまま盆に戻す。毎日使用する工具は洗わない。便所から戻ってきても手を洗わない。工場主は「他人に見られるな」と笑って言うだけ。それでも時に工場主に怒られ、工賃を差し引かれると、少年工のなかには、腹いせに盆に放尿する者がいる。涼皮を大鍋で煮ているとき、腹を立てるようなことがあると大鍋に唾を吐く---

この記事を読んで、私は薬草の生産現場を想像した。採取、収穫、乾燥、カットなどの工程で、日本で行うような衛生管理がとられているだろうか。漢方家は総じて中国に対し友好的な心情を抱いているが、この目で見ない限り信用はできない。漢方の仕事を続けるしか選択肢のない私は、戸惑いを隠せないでいる。お客様にどう説明してよいやらその術も知らない。一筋の光明は国産の薬草があることだ。その多くは民間薬だが、普通、漢方家は民間薬を軽視し、漢方処方を重視する。これからは安全性の点でも民間薬の役割りに期待を寄せるべきかと思う。先の総理大臣ではないが...私はすでに「民間でできることは民間で..」を実践してきた。そして漢方処方に比べ遜色なくむしろ優る実績を得ている。参考までに以下は、国内で流通または利用される日本産薬草である。

藍草・アザミ・明日葉・アスナロ・甘茶・アララギ・イチジク・イチョウ・稲苗・岩チシャ・岩蕗・茵陳蒿・裏白・営実・エゾウコギ・延命草・黄柏・桜皮・黄連・弟切草・薤白・艾葉(ヨモギ)・カヤツリ草・カヤの実・瓜呂実・川柳・款冬根・寄生・胡瓜蔓・キラン草・金柑・瞿麦・熊笹・熊柳・クルミ・黒文字・桑の葉・毛人参(会津)・枳殻・キササゲ・枳実・鬼杖根・ゲンノショウコ・膠飴・粳米・厚朴(和)・虎杖根・柴胡(和)・サフラン・山椒・山薬・芍薬(大和)・車前草・十薬(ドクダミ)・棕櫚実・棕櫚葉・小麦・椒目・辛夷・スギナ・石決明・セネガ・川弓・川穀・センブリ・蘇鉄実・大根草・高遠草・タラ根・竹節人参・竹葉・露草・当帰(大潟)・当帰(大和)・土瓜根・独活・栃の実・土通草・ナズナ・南天実・苦木・錦木・ニワトコ・忍冬・麦芽・白桃花・白刀豆・ハコベ・芭蕉根・薄荷・ハブ茶・浜千舎・浜防風・彼岸花・菱実・一つ葉・干葉・枇杷の葉・茯苓・藤瘤・紅サラサ・防已・ボクソク・蒲公英根(タンポポ)・牡蛎・マクリ・松葉・松藤・蔓荊子・ムクロジ・目木・目薬の木・木通・木瓜・益母草・八つ目蘭・雪の下・ユズリハ・蘭草・連銭草・芦根・羌活(和)

 

メタボの罠 大櫛陽一

日本の臨床学会の一部の基準は国際的にみて奇妙なものがあるのだ。厚生労働省は、国民の立場に立って、これらの基準をチェックする立場にあるはずであるが、そのまま受診勧奨判定基準に用いている。この基準により国民の約半分が無駄な医療へ誘導される可能性がある。厚生労働省は医療費削減を口にするが、本音のところは製薬企業の利益擁護を重視しているのではないか?

先月のコラムはメタボについて書いた。今月も類似の書物になるが、生臭い部分に踏み込み、説得力のあるものであった。物事に光と影はつきもので、政官業の利権構図はあらゆる分野へ蔓延しているのではないか。また、金銭の動きで事件を追うとその本質が見えてくるのも面白いことだ。利権に関係のない一般大衆としては想像をたくましくして政治談議に花を咲かせるのがせいぜいであろう。しかし、その構図を作り出すのも、やがて身に降りかかる危機も大衆が選んだそのものなのだ。「病人」にされる健康な人々..という副題のとうりメタボリックシンドロームというのは本来、病気ではないのだが、いつのまにか数値が決められ要治療の範疇に入れられてしまった。著者の言葉によれば「ちょいメタ」の人が統計的にはもっとも長生きなのだ。私は込み入った話が苦手なので、この言葉を金科玉条として納得している。全国45施設から集めた約70万人の検診結果から、40〜74才の人で、特定検診のすべての項目を受診した5万1432人の結果をもとに推計した数値がある。これによると、日本の男性94%、女性83%がいずれかの項目で異常となり、うち受診勧奨者は男性59%、女性49%で3060万人に達する。国が勧める「明日の医療費削減」を鵜呑みにして、3000万人が病院通いを始めたら、日々の仕事は回らず日本経済は失速し、今日食べる米にも困るだろう。現在32兆円の医療費は、たちまち5〜6兆円が上乗せされる事態になるという。薬物療法が中心の外来診療で、ひとり製薬会社の哄笑が聞こえる。しかし、これはあくまでも推計上のことで、現実に起っているわけではないし、諸々の制約や人の怠惰という才能により起こり得る可能性は低い。だが、継続的にキャンペーンが行われるなら、いまより患者は増え、薬物の投与で医療費と薬害増加の可能性が高くなるのは間違いない。厚生労働省は「1に運動、2に食事、しっかり禁煙、最後に薬」と言っているが、保健指導が受診勧奨より大幅に少ないのは、結局、受診や薬剤依存への誘導であり、その根底には厚生労働省と製薬企業との密接な関係が働いている。受診勧奨の数値の問題点は以下のようなものだ。

【ウエスト周囲径】中年男性での異常率が5割となっている。これは測定法と判定値の統計的問題がある。

【血圧】高齢者で異常率が5割を超え、受診勧奨率も3割を超える。年齢を無視した判定値に問題がある。

【中性脂肪】健康へのリスクとなるのは500mg/dl以上であり、特に中年男性に対して基準が低すぎる。

【HDL・善玉と言われるコレステロール】女性に対する基準が低すぎるため、運動不足や栄養バランス不良などを見逃して、糖尿病の早期予防ができない。

【LDL・悪玉と言われるコレステロール】中高年男性の6割、女性の7割前後で異常となる。受診勧奨率49%の原因の大部分を占めている。

【肝機能検査・AST(GOT)、ALT(GPT)、γGPT】判定値を男女別に設定していないため、女性に対する受診勧奨判定値が高すぎて、女性の早期異常が見逃される。

【糖尿病の指標・空腹時血糖、HbA1c】異常率が男性の6割近く、女性の4割以上となる。この原因は保健指導判定値が今回大幅に下げられたことにある。若い女性には適切であるが「男性と中高年女性では偽陽性を3〜5倍に増やす」と欧州では問題視されている。

2章に書かれている「産官学の癒着が生んだメタボ撲滅運動」はもっとも生臭く、怒りを催す。本から引用すると「製薬会社と厚労省の癒着は、保健行政におけるガンだといえる。切っても切っても、他の部位へ転移してしまうのだ」。昨年、タミフルを服用した子供の自殺と思われる事件が相次いだ。厚生労働省の委員は「タミフルが原因とは考えられない」とコメントを出したが、販売元である中外製薬から約800万円の寄付金が支払われていた。コレステロールの基準を定めている動脈硬化学会の理事であった教授の研究室には、2000〜2005年度の6年間に奨学寄付金として8億3808万円が支払われていた。当時、コレステロール低下薬として最も使われたメバロチンの年間売上高は2000億円。もし欧米の基準を採用したならば、患者数は1/10に激減し、医療費も副作用も少なくなったはずだ。8億円もの寄付金は安い営業経費であった。これにはNHKが広報の一翼を担った。昨年、問題になった「発掘!あるある大辞典」とさして変哲のない「ためしてガッテン」がやさしく面白くメタボ関連の番組を放送したことで、巨大なメタボ市場が開拓された。統計の操作・米国レポートのカット・・・この番組が果たした罪と企業への貢献は大きい。いままでの通例で、きっと政治家も咬んでいるのでは?という推理さえ成り立つ。NHKに向けられた疑惑に対し、特別番組で苦しい言い訳が放送されるにとどまった。一度刷り込まれた用語やイメージは容易に頭から抜け切れず、メタボは病気として定着した感がある。

薬を投与する以上、適応症が必要になる。メタボリックシンドロームは本来、生活習慣の改善目標だったものだ。これを適応症とするには病態生理学的根拠が不足しているという。統計学的判断に基づいた基準値ではなく、権威者の意見に基づいているため、診断結果が異なり臨床で使うには不十分である。肥満ひとつとってみてもBMIが35を超える明らかな太りすぎは、日本人ではわずか0.3%と少なく、BMI25〜29.9の人が最も死亡率が低い。また、コレステロールが低下すると栄養状態が悪くなりガン死亡率が上昇することが知られている。日本人は肥満よりやせすぎに注意を払うべきであろう。肥満をはじめ多くのメタボ論文は偽りと捏造が多く、業界を利するためのものだ。

血圧について検証すると、高血圧の分類や診断基準は次々と下げられてきた。下げることで患者が増え、副作用による生活の質の低下を訴える人が増え、製薬会社の利益が増えた。年齢とともに血圧が上がるのは自然現象であり、高齢者の死亡率が高いのも自然なことだ。それを結びつけた結果、「高血圧=死亡」の法則が出来上がった。これは論理学でいうところの三段論法の罠で子供騙しのトリックにすぎない。死亡率の高い高齢者は血圧も高い、その数値を死亡率の低い世代にまで広げたものだ。次々に下げられた現在の数値は130/85mmHgとなっており、全国約70万人の検診結果で20歳以上の該当者率を計算すると32.5%もの異常者が生まれ、薬の売り上げに反映する。実際に危険性が高くなるのは180/110mmHg以上で、65才以上では男性160mmHg以上、女性170mmHg以上であるが、高血圧による脳卒中の危険性は食生活の変化などで現在は様相を異にしている。1960年までに多くみられた脳出血は1/4に激減し、代わって脳梗塞が増えてきた。血圧レベルの高い人の血圧を基準値まで下げる無理な治療によって、血流障害が起こり生じた血栓が脳に詰まる(脳梗塞)危険性が3倍に高まる。

総コレステロールが外された本当の理由は、「ウソ」を隠しきれなくなったことによるものだ。日本動脈硬化学会は、総コレステロールの基準を220mg/dlとしてきた。これにより、健診受診者の中高年女性の5割以上が「高脂血症」という病気にされて、コレステロール低下薬が処方されていた。だが女性は授乳などのために皮下脂肪が発達し、脂質をためて利用する能力が高く、脂質が高くても健康に影響を与えることはない。欧米では総コレステロールの基準が260〜270mg/dlであり、「女性にコレステロール低下薬は不要」としているのに、日本だけが女性を中心にコレステロール低下薬を出していたのだ。

上記について、多くの医師や研究者からの批判に耐え切れなくなったため、総コレステロールが隠され、代わってLDLの基準が生まれたが、総コレステロールよりひどい基準が設定され問題はさらに大きくなっている。総コレステロール200〜239mg/dlの人の死亡率を100とすると、総コレステロールの増加に伴い心血管系疾患の死亡率は増加する。これだけを見せられると、薬の正当性を信じ込んでしまうが、総コレステロールが低くなると、その他の死亡率が高くなる。実際は220mg/dl前後が最も死亡率が低く、これが最適な総コレステロール値といえる。最も長生きする集団に高脂血症という誤った病名を付け、薬を投与したことになる。総コレステロールが増えれば心血管系疾患の死亡率は増えるが、これも「血圧の罠」と同じく50才以降の人が老化によって起るものである。

「1に運動、2に食事、しっかり禁煙、最後に薬」と厚生労働省は言いながら、実際には健診受診者の半数を医療に追いやろうとしている。これは国民の半数を薬漬けにしようとする悪質なトリックである。

本当の医療改革を行うなら、製薬企業と関係していない研究者による臨床学会のガイドラインの検証機構の設立と、厚生労働省から製薬企業や業界団体への天下り全廃が必要である。

 

中高年健康常識を疑う 柴田博

京都の清水寺で毎年恒例、今年の漢字が特大和紙に揮毫される。2007年の漢字は「偽」であった。いうまでもなく各種業界で「偽」が発覚したためだ。とくに人の命に関わる偽りは謝って済まされる問題ではない。各種業界から政治家や国に累が及ぶと、もはや隠蔽や偽装は人間活動そのもののではないかと思えてくるのだ。曖昧なものや未知のものについては真偽の判定にも困難をともなう。ある科学的データを利用して、個人の見解が述べられるなら、偽りであれ、とりあえず科学的体裁は満たされたことになる。

学問的に正しいことが解明されても、それが一般社会に広まるには時間がかかる。正しいことがわかっても、書店に並んでいる啓発書の大多数は古い時代の知識をベースに書かれたものであり、ランダムに本を入手すると、誤った本に当る確率の方がはるかに高い。また、一度誤情報が頭に入ると、それは一種のマインドコントロールとして作用し、矯正するのは難しいからである。

ひところガン論争が巻き起こり、「ガンと闘うな!」という本まで出た。なるほど理屈は解かったが、自分や自分の家族がガンになったとき闘わずに放置できるだろうか。理解と行動の乖離はなににつけ付きまとうものだ。これが著者の言うマインドコントロールの一種ではないかと思う。私たちは刷り込まれたつまらなく些細なものに、行動や思考を縛られているのではないか。食についのヘルシー指向は個人や企業において身近な取り組みとして積極的に行われるが、ここにも「偽」が紛れ込んではいないだろうか。病人や老人の食は低カロリーで野菜中心という禁欲的なものが一般論としてまかり通る。糖尿病食はカロリーも計算された良く出来たメニューで、これは健康な人にとっても好ましいという話も聞く。残念ながら味気なく、食の喜びを感じる人も少なく、多くの人には不満足なものかも知れない。日本人の栄養所要量を見ると、生活強度Uの20歳男性の必要熱量は2300kcalで同じく70歳男性は1850kcalとなっている。その差450kcalを減らしてしまうと栄養失調になってしまう。普通の生活では起りえないことが、この数値を元に、栄養指導として医療機関などで行われる可能性がある。年齢によって異なる基礎代謝量を考慮しても、20歳と70歳の差はせいぜい160kcalくらいであろう。

高齢者の総熱量の摂り方を抑制する発想には、動物実験の結果に対する短絡的な盲信も一役買っている。1930年代に入り、アメリカは急増しつつある総熱量摂取に警鐘を鳴らすため、カロリー制限により、ネズミの寿命が延びるという実験モデルを示し、これがいまだに続いている。ケージに入れっ放しにして無制限に餌を与えられたネズミよりも、カロリー制限されたネズミのほうが長生きをするのは当然のことであるが、それを、社会生活をし、運動もする人間に無媒介的に適用しようとするのが間違いなのである。

アメリカ人は1日あたり3000kcalを摂取しているという。動物実験の結果から適正カロリーより30%過剰になる。このままではガンや心臓病が増加し医療費によってアメリカ経済は破綻するとして、「国民栄養問題アメリカ上院特別委員会」を設置し、7年間の歳月と数千万ドルの国費を投入し「食事と健康・慢性疾患の関係」についての世界的規模の調査・研究が行なわれた。その結果は1977年に発表され委員長の名をとって「マクガバンレポート」と呼ばれている。これによると肉、卵、乳製品、砂糖などの摂取を控え穀物中心の食事にするよう提言され、伝統的日本食が高く評価された。現代のヘルシーフードの素描が出来上がったといえよう。著者はアメリカのカロリーの目標数値30%減を日本人に適用すべきではないという。もっともなことで、2000kcalで推移している日本人が30%減らせば先に述べたように栄養失調を来たす恐れがある。日本人は米を主食とした菜食、魚食文化で肉食には馴染まないという説が拍車をかけ、粗食、低栄養が奨励される風潮が広がった。日本人の平均寿命の延びは各種要因があるものの、米が減り、牛乳・乳製品とともに食肉が増加したことで、脳卒中死亡率が減少したためだと著者は言う。

脳卒中は、栄養学的な中進国に跋扈する病気である。最も栄養状態の遅れた国には、飢餓と感染症が跋扈する。昭和25年までの日本は、死因の第1位が結核であったことに表れているように、まさにこの段階であった。栄養状態が少し良くなり、しかし、まだ不十分な時代に脳卒中が跋扈する。昭和26年から55年までの30年間、わが国の死因の第1位が脳卒中であったことは、中進国の特徴をよく示している。

幸い日本では食生活の欧米化が50年代の前半で終了し、欧米の轍を踏まずに済んだため、世界一の平均寿命を獲得した。これは主食である米を持っていたことが大きく貢献している。食肉は魚介類、乳製品、卵では得られない独特のアミノ酸構成を持ち、これは筋肉やホルモンとなるうえで欠かせず、体の恒常性を保ったり、免疫力を上げるうえで優れている。食肉が生活習慣病をもたらすというのは日本人の3倍以上の食肉を毎日食べているアメリカでの話しである。食肉や脂肪敵視の起源をたどると弥生時代にさかのぼる。採取と狩猟では富の蓄積が出来ないが保存の効く米であれば可能であった。次に天武天皇の時代、仏教伝来によって殺生禁止令がだされ、食肉が穢れたものという観念が底流を占めるようになる。江戸時代の貝原益軒や明治の石塚左玄の粗食長寿説が台頭するにつれ、肉食を享受しながら忸怩たる思いに囚われたであろう。しかし、このことが肉食の歯止めとなり、禁欲的な肉食の愉しみをもたらしたといえなくもない。罪悪感を覚えながら美食を愉しむより、長寿を得た食生活を誇ればよい。一人で2人分もは食べられない。残飯を出すことこそ恥じ入るべきであろう。

脂肪摂取量を見ると、現在の日本人の脂肪摂取量は58g。世界一の長寿を誇るハワイの日系人が70gで沖縄の人々を少し上回っているが、もう増加傾向は認められない。日本人をふくめアジア、オセアニア、アフリカの人々など飢餓状態が長かった民族は遺伝的に節約因子が多く、栄養を効率よく貯めるメカニズムが働く。白人のように3000kcalの熱量と140gもの脂肪を摂取すると、白人の何倍もの肥満や高コレステロールが発生する。このことから日本人の脂肪摂取量の至適範囲は現在の日本人のレベルとハワイ日系人のレベルの間にあると考えてよい。脂肪には飽和脂肪酸、一価不飽和脂肪酸、多価不飽和脂肪酸がありこれをほぼ等しく摂取することが望ましいとされている。多価不飽和脂肪酸には動脈硬化を防止する作用があるとしてリノール酸ブームが巻き起こったが、不飽和部分が酸化物を作りやすくアレルギーやガンなどの疾患を誘発することが知られ終息した。余談になるが、最近は不飽和脂肪酸を人工的に酸化させて作るマーガリンやショートニングなどが問題になっている。天然の不飽和脂肪酸は体内で代謝され、プロスタグランディンやロイコトリエンなどの生物活性物質になるが、人工的に酸化させたトランス脂肪酸は体内では代謝されず、不飽和脂肪酸代謝物の作用を撹乱するため、アレルギーや神経疾患、心臓病などとの関連が報告されている。このため、ニューヨーク市では、2007年7月から1食あたりの調理油やマーガリンに含まれるトランス脂肪酸を0.5g以下とする規制が施行され、違反者には最高2,000ドルの罰金が科せられ、2008年8月には、1食あたりの総量としての使用が0.5g以下に規制される。添加物や残留農薬は相変わらず危険な食品の常連組であるが、それ以上に危険なものといえよう。

脂肪と関連して語られるのがコレステロールである。現在、日本動脈硬化学会が出しているガイドラインでは、他に虚血性心疾患の危険因子がない人では240mmg、一つでもあれば、220mmgを薬物投与の基準としている。大阪の八尾市で行われた大規模研究によれば、総死亡率がもっとも低くなるのは、男女とも総コレステロールが240〜280mmgのレベル群であることがわかった。日本ではがんや肺炎が多く、虚血性心疾患が少ない疾病構造にも関わらず、欧米の情報に幻惑されているという。

もうひとつの筆者のスタンスは、中高年の生活機能の障害、うつ状態、痴呆を予防する立場、すなわち生活の質(QOL)を維持向上させる立場からコレステロールを考えることである。このような視座に立つと、コレステロールの問題はきわめてゆがんだ形で認識され、それは一種のマインドコントロールとなって日本人の意識を支配していることがわかる。

オウム真理教の事件には科学の薫陶を受けた若者が多数関わった。マッドサイエンティストという人々も知られている。科学や正確な数値だけがマインドコントロールを防止する手段ではない。「偽」というのはむしろ専門家のほうがさらされやすい陥穽なのかも知れない。「騙されないように..」と、識者は警鐘を鳴らすが、「自分は愚かではない」という自負さえ窺われる。果たして科学の啓蒙だけで事足りるのであろうか。「生活の質」には人の営みや思想が反映し、習性や信仰の領域である不合理が多くを占めている。

 

 

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