【代替医療(1)】


普遍的に一般の医療機関で行われている西洋医学以外の医療行為に対して使われる用語で、別に補完医療という呼び方もある。漢方も代替医療の一分野で、この仕事を通して感じること、学んだことも多い。自らの仕事は尊く、これを中心に世界観が形成されることがある。その誤謬は西洋医学をはじめとし、他の代替医療の思想や技法を参考に反省、修正を要するものと思う。各地に発生した伝統医療や民間医療はそれぞれ長所と短所を備え、そこから発展、分化していく。あるものは西洋医学へと、あるものは伝統医学の継承へと、またあるものは新しい医療体系の創出へと向かった。いまある代替医療はこのような歴史や文化の産物と言ってよい。医療の選択ができることは豊かさの反映でもある。いまや種々の医療サービスが個性や生活スタイルに応じて用意されている。

代替医療を選択する動機

  1. 西洋医学の侵襲的治療の反省と治療方法の手詰まり。
  2. 医療供給者(医者)への漠然とした、あるいは明確な不信。
  3. 代替医療での有効例を見聞。

上記の理由がもっとも多く見受けられる。ここで完全に西洋医学と訣別する人は少なく、西洋医学と平行して取り組むか、西洋医学的治療の比率を下げて取り組む人が殆どであろう。次に代替医療の治療者はどのようなきっかけや動機で取り組み始めたのだろう。

A)医療有資格者の場合

  1. いままで取り組んできた西洋医学、または既に取り組んでいた
    代替医療の反省と治療方法の手詰まり。
  2. 経営上の事由から、患者の求める非侵襲的治療を取り入れる。
  3. 代替医療での有効例を見聞。

医者などは保険制度上完全に西洋医学を捨てる訳にもゆかず、代替医療と併用するか比率をさげ取り組む事になるが、病名や検査は西洋医学的方法を踏襲している。完全に保険制度からはなれる医者も少なからず存在する。しかし収入の拠所を確保するための方法が問題やトラブルの発生原因の一つになる事もある。

B)医療無資格者の場合

  1. 癒しに興味を抱き、それを職としたいものの、西洋医学に関わり
    あえない制度的な理由で代替医療を選択せざるを得ない。
  2. 健康産業に関わり、さらに進展を期して、食品、サプリメント...等
    多彩な癒しのアイテムを取り入れる。
  3. 代替医療での有効例を見聞。

無資格の治療家には、素人同然の人々や、おまじないにいたるまで多彩な人材が活躍し、怪しいオカルトビジネスの入り込んだものも多い。逆に資格や知識があるから信用できるともいえない。怪しい治療理論にとりつかれた医者など、知識があるだけに、もてる医学知識の全てを患者の説得に傾注する。切実な説得は、患者を危険な療法に誘い込む悲劇が待っているのだ。医療は信仰や祈祷が始まりであっただけに、癒しにはなんらかの形で宗教的要素がそなわっている。教祖みたいな医者がいたり、医者みたいな教祖がいたり、医療周辺には一種独特の人材が群がっている。

代替医療は70年代前後頃始まるニューエイジムーブメントと切り離しては考えられない。西洋の知によって、東洋の知が注目を浴び、理論物理学者たちが瞑想や禅、易などの東洋思想に興味を抱き研究、著作をなしている。ニューサイエンスといい、科学を標榜しつつも、東洋思想や禅や、悟りの思想を取り入れた奇妙な学問?である。ニューエイジの分野は多岐にわたっている。瞑想、自己開発、エコロジー、神秘学、超常現象、心霊、地球外生命、体外離脱、前世体験、、、その一分野に代替医療が存在する。ニューサイエンスのブームは過ぎ去ったが、相変わらずその理屈を弄しての解釈は行われている。西洋的実証主義があまり重視しなった悟りや勘といったものが西洋の思想家に新鮮に輝いたものと思われる。西洋から見た東洋の智と、東洋から見た東洋の智には大きな温度差があるように思う。東洋の日本人が通常科学の検証を怠り、ニューサイエンスの理屈や用語を弄し、悟りとか感性などという曖昧なものに結論を導く。擬似科学に犯された治療家は有資格者、無資格者を問わず溢れている。

圧倒的多数の人々が西洋医学を求めそこで癒されていく。しかし、西洋医学で不可能なことは多くあり、不可能である科学証拠も提示される。それは絶望をもたらすものかも知れないが、患者にとって不利益なものではない。不可能に絶望し代替医療へと救いを求めるが、代替医療にも不可能なものが多く、有効か否かの検証も野放しのまま、有効症例だけが一人歩きをする。そのため、西洋医学には絶望がみなぎり、代替医療には希望が溢れるという構図が出来上がる。医療といえるレベルに達していない代替医療も数多いが、頼るひとは少なくない。もし、代替医療が与えうる利益を西洋医学の臨床に取り入れるなら、さらに治癒の可能性は広がりを見せるだろう。癒しは絶望ではなく希望によってこそ叶えられるものだ。絶望や心の隙間を埋める代替医療の特質はこの点でも学ぶ価値がある。

西洋医学の医療は保険制度に支えられ、比較的安価な負担で医療の恩恵を受けられる。費用対効果を考えるなら西洋医学に勝るものは少ない。代替医療の費用負担を考えると驚くべき高額なものが見受けられる。常識を超えた高額な治療や薬、食品、サプリメント、器械...を売り込まれたときはその時点で淘汰すべきである。「薬は高くないと効かない」という漢方家の居ることを情けなく思う。また「高くないと効かない」と思っている人は、その洗脳を解くべきである。業界が作り上げた、勝手で都合の良い呪縛から逃れることこそ癒しに繋がるものではないか。月に数万円もの漢方薬を飲み続けていた皮膚病が、畑のドクダミ(無料)で治った例はいくつも知っている。高額の電磁気治療器より、軽い運動が有効だった例もある。費用対効果の検討は代替医療のみならず、西洋医学の医療地図さえ大きく書き換えられるのではないかと思う。

老化に伴う不調や日々変転する体調を病気の前兆として、医療機関の門を叩く。現代医療には治療にも検査にも苦痛や危険が伴う。こんなことなら病気であり続ければ良かったと後悔する。それが大病を未然に防ぐ手立てとなればまだ救われるが、そうならなかったときの無念さは大きい。先の見えない人の運命や先を読めない医療にはもどかしい思いが残る。医療選択の分岐点では受け入れるか、自らの決断を信じるか、これ以外の方策はない。西洋医学の治療が行き詰り、治療の手立てがなくなったとき、また治療による副作用が懸念されるとき、検査で何ら異常所見が見られないとき、その時も選択の時は訪れる。このことは代替医療においても変わらない。

>>代替医療(2)

 

<コラム> 代替医療〜オルタナティブ・メディスンの可能性〜 上野圭一 

私が温心堂HPの代替医療ガイドを書き上げてしばらくして発刊された本である。今まで上野氏の翻訳されたA.ワイルの訳書や数多くのヒーリング関連の著書は大変参考になった。著者は現在、日本ホリスティック医学協会副会長である。

内容をみると私が書いたものに似ている。(私が真似たと言われても弁明の余地はない)A.ワイルの引用も似たような部分があって、幾分困惑している。著者の仕事と肩書きからするとやはり代替医療の湖岸から書かれたものであろう。私は上野先生と比べると、いくらか醒めているかもしれない。認識はほぼ近いし著書に対して異論をさしはさむものではないが、代替医療は西洋医学の反証として考えられる面も大いにある。反証を基に西洋医学の技術や設備で代替医療の考えを実践するなら、また違った可能性が拡がるのではないかと思っている。

代替医療の治療家が唱えるその長所は果たして患者のためか?明らかに圧倒的多数の人が西洋医学で癒されてゆくのを見ると、代替医療の守備範囲はそれほど広くはなく、体に優しく、心の癒しと言いつつも治療効果はそれほど上がっていないのではないか?

話は本を離れるが、漢方薬が保険で使えるようになった時、多くの医者が興味本位、または副作用もなく安全という事で使い始めた。それで評判を得た医者、いつの間にか大家になった医者もいる。西洋医学では大家になれないが代替医療では大家になれるのである。それは信仰という代替医療の持つ脆弱さが逆に強さになっているからかも知れない。医者は我がままで、変わり者で、独裁的に振舞っても周囲がある程度容認してくれる。反ってそのような医者が名医だという勘違いもある。良く振舞っても、悪く振舞っても治療を求める患者にどう映るかが大事なのだろう。「奇人だけど名医」の話はよく聞くことだが、、、奇人が名医とは限らない。なのに傲慢に偏屈に振舞う医者は多い。西洋医学の医者も同じではあるが、代替医療の医者はカルト教団の教祖に等しい人も見受けられる。もちろん一般論ではない、どこにも風変わりは居るものである。

癒しには信仰が大切だといわれる。患者と治療家の良好な関係とは一体どんな事なのだろう。医者にさげすまれても、「言うことが聞けないなら来るな。」と言われても、質問しても何の説明もしてくれず、逆に怒られる、、、それでも名医だからと通い続け、奇妙な治
療を続けさせられる患者さんを複数知っている。

本にもどる、、、代替医療の長所や可能性は解る。その治療を受けるのには一体いくらかかるのだろうか?金銭の事を言っているのだ。病気が治って破産したらどうなるのだ。多くの治療スタッフを抱えて濃厚な代替医療をあらん限り駆使し、それを受けられる人が一握りのお金持ちだったりしたらやり切れない。大家の診察に紹介状や謝礼金が要るなら、何処かの大学病院と変わりはしない。同じ治療家が沢山の代替医療メニューに取り組むケースは多い。相互に理論体系の異なるものを副作用が少ないと言うだけで患者に適用し濃厚な診療で消耗させられるなら、その構図は西洋医学となんら変わってはいない朝は瞑想から始まり漢方薬を服んだ後、鍼灸治療、昼は玄米食、午後からは気功と絵画療法、夜は薬膳食のあと音楽療法、そして瞑想で締めくくる。一体何のために生きているのだろう?ここまで極端な話はないだろうが、似たような話はよく耳にする。そしてこれにかかる費用は一体誰が支払うのだろう。西洋医学を揶揄する言葉である薬漬け検査漬けに等しい代替医療漬けがあってはならない。薬屋や健食店でも似たような現象がみられる。新薬がおかれた隣の棚に、漢方薬や民間薬、ホメオパシー薬、サプリメント等が並べられる。癒しという快い言葉に糊塗された商売なのではないか?

西洋医学、、それだけでもいい、注射1本、錠剤1個、東洋医学ならば薬草茶1杯、針1本で癒しの境地に近づくこともあるだろう。患者さんからよく言われることだが「効くならいくら費用がかかっても構わない。」しかし、効かないならタダでも高いのだ。そして効くかどうか予測のつかない買い物でもある。

費用のことも癒しに必要不可欠だと考えている。「費用対効果。」いいからと言われるまま、ただの水に何千円も払ったり、有害無益、あるいは無害無益な治療が行われていないか目をそらさず見つめて欲しい。困難なことかも知れないが、これは、医療を受ける人すべての人が、医学の知識に無知ではいけないという提言なのだ。

古くは貝原益軒の養生訓に書かれている、、誰しも医学や薬、食など命をまもる為の知識に対して素人であってはならない。

 

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