【代替医療(2)】
代替医療のトリック ー 2011.10〜12月のコラムより ー |
薬物の構造や特性を知り、生体での作用を病の治療に応用することが医学や薬学の仕事である。薬の有効性は薬理と臨床経験に支えられてきたが10〜20年前までの薬効は、根拠が頼りないものであった。私はその時代に薬学を学び、その後も惰性で旧来の知識を踏襲してきた。臨床試験が大きく変わったのは、1997年4月に制定された「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令(新GCP)」が実施されてからになる。新GCP施行により、薬物評価基準が国際化され、直感や曖昧な経験に基づく医療ではなく、明確な証拠に基づく医療(Evidence-Based Medicine)が求められるようになった。薬局や薬店では旧態依然たるところ、医療現場の様相は一変している。薬局・薬店の棚に山ほど積まれたクスリやサプリメントは雑誌やテレビから流れるおびただしい宣伝に乗って売りさばかれる。ありきたりの薬理と良かったという実例を基に使用され、EBMには程遠いものだ。薬物について学び、医薬品の知識を蓄えてきた筈だが、一般薬の実状は代替医療とさほど変わらない。通常医療の医師は一般薬、漢方薬、サプリメント、各種代替医療などに対し「気休め」以上の認識は抱かないと思う。たとえ理解を示しても軽い役割を容認するのが限度だろう。代替医療に没頭する医師も見受けるが例外的な数でしかない。本では代替医療の定義を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」としている。代替医療の治癒のメカニズムは現代科学で捉える事ができないため、いまのところ効果も認められていない。疑似科学や古代思想を理論とし、有効例を集めたものが効果の根拠とされ、その効果は実のところプラシーボや自然治癒力ではないかと考えられている。
ヒポクラテスは上記の警句を残し、効くかどうかの判断は意見ではなく科学を用いるべきだと言った。実験、研究を通し、結論に達した後も検証を怠ってはならない。薬を渡したり、ある治療法を評価するとき、「効くと思います」という言葉がよく聞かれる。「思います」はあくまでも意見に過ぎず、ここには宣伝が巧みに織り込まれ正しい知識は埋もれて見えない。しかし、病が治るか否かの複雑系では結果の予測が難しく「思います」と表現せざるを得ないことがある。おなじ言葉に2つの意味があることを留意しておく必要がある。 代替医療について概ね3つの見方が考えられる。効果などない、巧みな宣伝や説得によって効くような錯覚をもたらすだけで、通常医療を遠ざけることの危険すらある。限定的に理解を示す人も、通常医療の隙間を埋める以上の積極的な支持はしない。逆に医学や科学で証明できないという理由で排除されるのはおかしい、伝統や自然に則った治療で救われる人がいる限り有益であると主張する人々がいる。3つめはこれらの中間ではないかという好都合な解釈だ。通常医療でさえ代替医療に等しいものが紛れ込み、いまは検証途上と考えて良い。いままで行われた治療や投薬が無意味だったり、意に反し害を及ぼした例もあり、これからも繰り返されるに違いない。
「治療を受けたにもかかわらず治癒した」。本を読み進みながら何度も咀嚼すると、至言であり本書のテーマであろうと確信を得た。治療家はこれに向かって知恵を研ぎ澄ますべきではないか。科学的根拠とは薬理や症例ではなく、ランダム化臨床試験【注】を言い、いま行われている治療や新しい治療のために必ず踏まねばならない手続きである。この試験に異論をさしはさむ余地はないし、多くの医師は最適な治療のため支持するだろう。治療を受けたにもかかわらず治癒した恵みは受け入れて良いが、治療を受けたにもかかわらず治癒した事を排除したものが薬効である。代替医療の薬物や治療法が通常医療の舞台に上がってこないのは科学的根拠が不足し決定的な説得力に欠けるからだ。漢方薬や鍼灸をはじめいくつかの代替医療は通常医療で居場所を見つけてはいるが、実態はいまだ代替医療の範疇に過ぎない。伝統理論のもと「証」を診て運用する為、臨床試験には馴染まないと言い、症例数や成分の薬理に根拠を見出そうとするが、正しい検定を通し無効が判明すれば代替医療としての役割に徹すべきであろう。
....................................................................... 【鍼】 1991年、イタリアとオーストリア国境の氷河で5000年前の凍りついた遺体が発見された。遺体には入れ墨が施され点と線をつないだようになっており、点の80%が鍼で用いる経穴に対応していた。鍼の発祥は中国だと考えがちだが、中部ヨーロッパですでに利用されていた事になる。鍼灸は気という概念で運用され、12経絡と365の経穴は気の流れる経路と交差点と考えた。経絡の気の乱れが病気の原因とされ経穴を針や灸で刺激することで気のバランスを整えるというものだ。解剖学が発展しにくい状況で観察と思弁によって体の機能を説明した。12の経絡は中国に12の河があったことに由来し、365の経穴は1年の日数に他ならない。実在ではなく想像によって自然や環境を体の構造や機能に反映させた。患者の状態を五官で観察し、訴えを聞き、ときに腹診や舌診も行うが主に脈を診ることで診断する。流派も多く理論も手技も様々で鍼を打つ深さは1〜10cm以上まであり、刺したまま鍼を回すことが多い。鍼が一躍注目されたのは1970年代始め、鍼麻酔による大がかりな心臓手術の写真が公開されてからだ。胸部が開かれた女性は微笑み、腕には点滴の管さえ見当たらなかった。中国伝統医学の奇跡と驚異に目を見張った。この後の情報を知らない人は相変わらず鍼の奇跡を信じていることだろう。専門家が見た女性の様子から、すでに複数の鎮静剤や鎮痛剤を投与され相乗作用により麻酔効果が発揮され、局所にも大量の浸潤麻酔が投与されていたという。 鍼の効果に対する3つの仮説がある。1)ゲートコントロール説とよばれ、神経接合部をゲートに見立て、ゲートが閉じればそこで痛みがブロックされると言う。痛む手足をさすると痛みがやわらぐように、鍼を刺すことでより大きな痛みが緩和される。懐疑的な人はこの説で鍼の効果のすべてが証明されるわけではないという。2)鍼の刺激でエンドルフィンという、強力な体内鎮痛物質が放出される。しかし、鎮痛効果を発揮するほど放出されるかどうかは不明で、鍼との関係が示せなかった研究もある。1)、2)ともに裏付けが弱く通常医療の医師を納得させるに十分ではないが、3)番目の説が正しいなら鍼の鎮痛効果や治療効果のすべてが説明できる。それがまさにプラシーボだと言う。
私は別の記事にも書いているとうりプラシーボ効果を容認、称えこそすれ軽侮したことすらない。あくまでも理知をつらぬく本書の姿勢に少し戸惑いを感じた。プラシーボを利益とするには克服すべきいくつかの問題がある。医師が薬効を患者に信じ込ませることができれば、それだけで症状は改善するし、改善したという錯覚さえ引き出すことができる。そして多くの医師や代替医療の治療家たちは、自らが行う治療や薬について自身が確信と希望を抱いている。一計を巡らし患者を信じ込ませるなど稀であろう。病気が治ればおそらく手放しで喜び、プラシーボなど一考だにしない。それが普通の治療家であり、通常医療の医師であっても変わらない。代替医療での治癒の多くはプラシーボ効果であることが考えられるが、通常医療では真の薬効にプラシーボ効果がプラスされる。プラシーボ効果の発揮には医師の評判が高い事、治療費が高い事、治療法が目新しい事の3つが関与するという。言われてみれば思い当たる節がありはしないだろうか。プラシーボ効果は痛み、腫れ、熱、昏睡、食欲不振など身体の急性反応時に起こりやすい。期待効果が急性反応を阻むのではないかと考えられる。プラシーボ効果を大きくするには、錠剤より注射がよく、錠剤なら1錠より2錠がよい。錠剤の色で不安を和らげるには緑がよく、抑鬱には黄色がよい。錠剤を貰うとき白衣を着た医師で最大になり、Tシャツを着た医師では小さくなり、看護師ではさらに小さくなる。大きな錠剤は小さな錠剤より効果が大きく、錠剤の箱は質素なものより高級感のあるものが好ましい。しかし、これは平均的な患者の場合であって、実際は患者の信念、経験、文化的背景などでまったく違ったものになる。プラシーボ効果の出現は予測不可能で治療法の有効性の評価を歪めてしまう。また、プラシーボ効果で改善したものの中には、安心感と愁訴の短期的な緩和だけで本質的に病状は変わっていない事がある。 治療を取り巻くあらゆる環境と小さな違いがプラシーボ効果を生みだす。これを排除して薬効の評価を行うには厳格な臨床試験が計画されなくてはならない。薬では検定薬と似せたプラシーボ薬(偽薬)を使えるが鍼はどんな方法での検定が可能であろうか。以下の7つの条件を満たしたものがランダム化プラシーボ対照二重盲検試験とよばれ、もっとも理想的な臨床試験とされている。
これをもとに考えると、1970年代から80年代に行われた鍼に関する臨床試験は杜撰なものだった。治療群と対照群に分けるだけで治療群では80%が改善し、対照群は13%にとどまった。この結果が古代中国の神秘などの文句で繰り返しメディアで報道され、プラシーボ効果を引き起こしやすい環境が醸成された。伝統、古典医籍、科学での検証、症例などのごもっともな材料によって治療家までもバイアスに捕捉され、まるのまま仕事の糧となった。この反省から、鍼を浅く打つ、特殊な鍼を使う、経穴を外すなどの方法が考えられたが、治療家への目隠しという問題が残されていた。鍼の失墜は中国という国家の威信を揺るがすため、中国での臨床試験や信頼性に欠ける試験が正しく評価されなかった。また治療家は少なからず発表バイアスという宿命を抱え、故意や作為を排除しても、自己否定につながる発表には抑制がかかる。そこで1993年に創設されたコクラン共同計画という方法がとり入れられた。一般的には系統的レビューと呼ばれ、臨床試験の重みを批判的に検証し、杜撰で重みのない臨床試験は排除するというものだ。
鍼では治療家までも目隠しをする事は不可能であろう。しかし伸縮鍼の開発で刺さった痛みは等しく感じ、鍼の侵入する深度を加減し比較試験を行った。こうして、過去にないもっとも質の高い臨床試験の結果が出始めた。以下にあげる症状のどれについても鍼の有効性を示す根拠はない。タバコ中毒・コカイン依存症・分娩誘発・ベル麻痺・慢性喘息・心臓発作のリハビリ・逆子・鬱病・てんかん・手根管症候群・過敏性腸症候群・統合失調症・関節リウマチ・不眠症・非特異的腰痛・上腕骨外上顆炎・肩痛・柔組織肩損傷・つわり・採卵・緑内障・血管性認知症・月経痛・むち打ち症・脳卒中。これらについての効果はプラシーボ効果であると結論づけている。多少肯定的な結果が得られたものは、妊娠中の背中から腰にかけての痛み・腰痛・頭痛・手術後の吐気及び嘔吐・化学療法により引き起こされた吐気及び嘔吐・首の疾患・夜尿症であるが、逆の結論をだしているものもあり、鍼での治療を強く支持するものではない。鍼についての膨大な研究から得られた知識をまとめると、気や経絡が実在するという科学的根拠がないため、大きな難点を抱えている。肯定的な臨床試験の多くはプラシーボ群との比較がされておらず信頼性に欠ける。質が高く信頼性のおける系統的レビューでは、幅広い病気についてプラシーボ効果を上回る効果がない事が示された。この結論は鍼と同じ思想に立脚する灸・指圧・電気・レーザー・音波などの治療にもあてはまる。 東洋医学の理論に則り、個別化された治療であるため科学的臨床試験に馴染まないと、鍼の治療家はいうが、厳密に計画された試験で複雑な要因を考慮し排除し行われたものだ。臨床試験は完璧なものではないが、より真実に迫るものである。代替医療や民間療法ときには通常医学においてもプラシーボは利用される。実のところ鍼は代替医療の中でもとりわけプラシーボ効果が発揮されやすい。東洋思想と伝統の神秘性が一翼を担い、そこに患者の期待と信頼が凝縮する。鍼にプラシーボ効果しかないなら、それを役立てることで存在は認めて良いではないか?という議論が起こってくる。しかし、そこには費用が絡み、より安価で確実な治療を遠ざける心配がある。また、自然治癒を待てばよい症例もあるだろう。最も懸念されるのは治療家がプラシーボの認識を欠いたまま治療を行っていることだ。プラシーボは偽りの治療でしかない。信頼しない患者には効かないし、信頼を失えば消えてしまうため本質的な治療とは言い難い。偽りの中身を治療家と患者が信じ込み真実を遠ざける事は双方にとって大して益にならない。 ....................................................................... 【ホメオパシー】 先に述べた鍼灸、ここで話すホメオパシー、あまつさえ代替医療に携わる治療家が居る。そして治療家が抱える患者の数は更に膨大なものだ。私のごとき愚鈍なる者がエビデンスなどとのたまい仕事上の葛藤を吐露するのに、知性も天性も備えた治療家たちはなぜ空理空論と言われるものに傾倒するのだろうか。非凡な理論と実践で独自の世界を構築していく才知に恵まれながらエビデンスへの目覚めに暗い。きっと彼らはエビデンスなどという古い科学は超越し新しいステージに到達したのだろう。私は自分の歩もうとする場所の俯瞰図だけは持ち続けたい。それがエビデンスであろうと考えている。
現実に治癒が起こる、苦痛が軽減する、治療家はそれを頼りに理論を補強し、自信を深める。通常医療、代替医療いずれを問わず「実際に効いている」という話は絶大な説得力がある。それで良しとするのが10〜20年前までの医療であった。レメディが水であろうと乳糖であろうと治りさえすれば事実が証拠になった。ホメオパシーも事実の積み重ねが居場所を確保し、多くの支持者を得てきた。創始者のハーネマンは1790年、キナという植物の樹皮からとれるシンコナという薬を試してみた。もともとマラリア治療薬であるが、健康なときに飲めば強壮薬のように働き健康維持に役立つかも知れないと考えた。ところが具合が悪くなり、マラリアのような症状が出たように感じた。他の物質も試し、似たような結果が得られたことで「健康な人に特定の症状を引き起こす物質は、その症状を示す病人を治療するために利用できる」と考えた。「類は類を治療する」というホメオパシーの法則の提唱に至る。ホメオパシー薬(レメディ)は毒性を緩和するために希釈し、薄くしたものほど効果が高まると言う。さらにもう一つ重要な条件が加わる出来事があった。レメディを馬車に積んで旅をしていたとき、馬車がひどく揺れると薬効が高まるという確信を得た。レメディの母液1に水9を加え強く振盪したものを1]と呼び、この液1に水9を加え振盪し2]レメディとする。これを繰り返し3]、4]、5]、、、と薄めていく。4]の段階ですでに母液の一万倍に薄まっているが、これよりさらに極端な希釈で母液1に水99を加えるのが普通である。100倍希釈を1C、さらに100倍希釈したものを2C、3C、、と繰り返し30Cさえ普通に行われ、この段階になると母液に含まれていた成分はなくなり、ほぼ確実に水である。しかし、100000Cのレメディさえ売られ、それには20万円ほどの値がつくこともある。
ホメオパスたちはレメディの適用のため、徹底的な問診を行う。性格、気分の良し悪し、生活習慣、食べ物の好き嫌い、色や匂いの好みまで、それを知るのにどんな意味があるのかと思うことまで仔細に聞き出し、徹頭徹尾、患者一人ひとりに特化したレメディを探索する。1000種近くもあるレメディは問診に劣らず広範多岐にわたる用途と特徴が記載され、ホメオパスは自らの判断で絞り込んでいく。ひとりの患者が複数のホメオパスに受診すれば、それぞれ異なるレメディへと導かれることになる。レメディが適合するか否かの検証にダウジングが利用される事がある。これはOリングテストや波動計などのラジオニクスと本質的に同じで、振り子の揺れ具合で適か不適を判定するものだ。この正答率は50%より少し低く、当たるも八卦の値に近い。しかし、これまでの一連の問診やレメディ製造の手順が厳粛なまでに治癒への思いを喚起する。ホメオパシーは19世紀前半に急速に広がり隆盛を迎え、多数の治癒例がそれを支えた。1854年、ロンドンのコレラ流行で通常医療の病院の生存率47%に対しホメオパシー病院では84%であった。ただし、これにはいくつかの問題が隠されていた。一見すると明らかに高い治癒率の影には病院や患者、治療内容に大きな相違が見られた。ホメオパシー病院の患者は裕福で栄養状態もよく、病院の衛生管理も優れていた。また当時の通常医療は英雄的治療と呼ばれるほど侵襲性が高く、乱暴な治療が患者を傷めつけた。水であるレメディでは治療をしないに等しく、それが侵襲性の高い治療を遠ざけたと考えられる。19世紀後半には病原菌の発見が続き通常医療は殺菌・消毒という発展をなし遂げた。ホメオパシーは次第に衰退し消滅するかに見えたが、1925年、ドイツで思いがけない復活を遂げ現在に至る。ドイツ第三帝国時代の指導者たちが現代医療と伝統医療を融合させた「新ドイツ医療」を作りあげようとしていた。ホメオパシーが成功すれば費用も安く革新的な医療体系になるはずだ。そこで検証のための国家プロジエクトを立ち上げ2年間にわたり綿密に試験デザインし、厳格に遂行された。いよいよ結果が発表されようというとき第二次世界大戦が勃発する。文書は戦争を生き延びたが公式に発表されることなく、隠蔽か紛失か廃棄かのいずれかで失われた。幸い残存した資料からはホメオパシーの有効性を示す試験は一つもなく、プラシーボと変わらないという結果だった。憶測になるが資料が失われた理由はここにあるのかも知れない。 第二次大戦後、抗生物質の発見などで通常医療は大きな発展を続けたのに対しホメオパシーは、数名の有力な支持者のおかげでかろうじて命脈を保つ。一方米国ではハーネマン思想から脱却しより科学的な方向へと進んだ。インドへ渡ったホメオパシーは、アユルヴェーダなどの神秘思想を育んだ素地に馴染み、あらゆる階層に広がり、やがてインドから西洋へと輸出するまでになった。代替医療の理論は東洋思想と親和性が高く、自然、全体論、個別医療などのフレーズが西洋医学の反証として語られる。神秘性は秘めたパワーを暗示し「科学の知」より「希望という情」に訴える。ワクチン接種のメカニズムを基に科学的根拠を説明しようとしたが、それには濃度があまりにも薄過ぎた。または振盪することで水分子に何らかの構造的変化をもたらし、それが母液の記憶を維持するのではないかと考え、核磁気共鳴、ラマン分光、光吸収など最先端の機器が使われたが、特別なことは発見できなかった。 症例だけを集めたものはデータとはいえず、ランダム化比較試験が薬効判定の有力な方法である。前項の鍼と異なり試験計画は容易に立てられる。患者を2群に分け、等しくホメオパスの丁寧な診察を受けレメディを決定し、ホメオパス、患者共にレメディが本物か偽物かは隠しておく。結果、本物が偽物より有意に改善すれば効果があることになる。1990年代半ばまでに100件近い臨床試験が発表されたがランダム化が不適切だったり、患者数が少なすぎたり、質的レベルが低く決定的な答えが出せなかった。1997年に「メタ分析」という手法で過去の臨床試験から包括的結論を出そうとする動きが起こった。分析を分析するという意味があり、信頼性を高めるいくつかの条件をクリアした臨床試験のみを選んで検討するものだ。その結果、ホメオパシーにはプラシーボに比べ極々わずかながら効果が認められた。しかし、この僅かの差はホメオパシーの効果がプラシーボであることを排除するまでには至らない。なぜなら通常医療で使われる新薬の臨床試験では明白に効果の違いが見られ、身体に生理学的影響を及ぼすからだ。レメディは良くできた偽薬以上のものではなかった。 ここでも鍼と同じく、ホメオパシーは患者一人ひとりに細かに個別化した治療なので大規模な臨床試験に馴染まないという議論が出てきた。しかし、経験豊富な治療家によって処方されたレメディが偽薬より優れているという根拠は得られなかった。ホメオパシーの2世紀の歴史のなかで何百件という臨床試験が行われてきたが、どの病気についてもホメオパシーを支持するような有意の科学的根拠は得られていない。ではなぜ、何十億ドル規模のグローバル産業に育ったのだろうか。理由は一般の人が膨大なマイナス情報を知らない事にある。また病人の持つ治癒への切望から体験談だけが一人歩きし、ホメオパシー側もそれを喧伝する。かくして信仰は肥大しレメディという高額のプラシーボに引き寄せられるが、実のところ水を揺さぶる手間と相談に払う代価である。 ....................................................................... 【カイロプラクティック】 日本では整体術とも言い、法制化されていないため誰もが整体士もしくはカイロプラクターと称し営業ができる。公的な資格はなく、業界団体が研修後に発行する認定書や修了書が身分を示す唯一のものだ。医療行為はできず病名を告げたり、診察をやってはならない。ところが、イギリスやアメリカでは法的に認められ医療の中にしっかり組み込まれている。人気も高く、患者、カイロプラクター共に増加し医療保険もこれを認めている。日本では鍼灸や漢方が認められているので、お国柄に合った代替医療が取り入れられているのだろう。カイロプラクティックは19世紀末に登場し、脊柱を構成する椎骨のわずかのズレ(サブラクセーション)があると生命力や生命エネルギー(イネイト・インテリジェンス)の流れが妨げられ、そこからありとあらゆる健康上の問題が生じるという。創始者のパーマーは「あらゆる病気の95%は椎骨のズレによって生じる」と主張している。イネイト・インテリジェンスは東洋医学の「気」と似たような概念で神秘性を備え科学的な説明はできない。 カイロプラクティックの治療を受けるのはたいてい腰痛や頸項部痛の患者で、カイロプラクターは手技で背中から腰の椎骨の様子を調べていく。患者の姿勢、関節部分の動き、左右対称になっているか、ときにはX線やMRIスキャナーが用いられる。背骨に多少ともズレがあれば、そのズレを矯正する脊椎手技整復治療(マニピュレーション)を施す。マニピュレーションで関節の動きを元どうりにすることをアジャストメントとも言う。動かす関節の柔軟性には3段階があり、レベル1は関節を動かそうとして動かせる。レベル2は外から力を加えて動かし、ひっかかりを感じるところで止める。レベル3は強い力を加えレベル2以上を動かすもので、このレベルがマニピュレーションだ。かなり強い力で急速に動かすため痛みとともに「コキッ」と音の出る事がある。これは骨が正しい位置に戻った音ではなく、強く圧迫されて関節内の液体が気泡を生じはじける音なので勘違いしないように。この手技がカイロプラクティックの有効性を評価する材料になる。エルンストとカンターの「レビューに関するレビュー」という論文では急性の腰痛については有効そうだという結論でまとまったが、脊椎マニュピレーションが効くかの評価ではなく、他の治療法よりも効くのかを正しく見なければならない。
通常医療の現状に比べ、代替医療では体験主義で足踏みが続いている。見たもの体験したことがゆるぎない事実でも、敷衍して理論を導くにはいくつもの手続きが必要だ。生き生きした体験はときに希望が反映する事になり、バイアスとなる。現実に需要があり制度上認められていても科学的な評価は別だ。カイロプラクティックが代替医療で止まるのにはいくつかの理由がある。イネイト・インテリジェンスという非科学を信じ、ウイルス、細菌を認めようとしない。脊椎のズレを戻すだけでどんな病気も治せると信じている。また彼らが使う奇妙な装置が一層の不信感を抱かせるもとになっている。これはラジオニクスというもので機械から伸びた二つの端子に触れて体の状態を調べるものだ。実のところ患者の電気伝導度を計測するに過ぎず、ウソ発見器の原理に近い。腕の力で診断する応用キネシオロジーや指の力で行うOリングテストと何ら変わらない。 エルンストとカンターは頭痛、生理痛、乳児疝痛、喘息、アレルギー治療の脊椎マニピュレーションに関する70件の臨床試験にもとづいた10件の系統的レビューを検討した。結果は全般に否定的なもので、カイロプラクティックで治療できるという科学的根拠は得られなかった。たとえばアレルギーだけ取り上げても、患者の脊椎を押すだけで治るとは常識でも科学でも説明できない。逆に脊椎がズレた人が各種病気を引き起こすかどうか、医療文献を調査したところそれを示唆するものは何もなかった。まとめると腰痛に直接かかわる問題を除けばカイロプラクターの治療を受けるのは賢明でないことになる。ところがアメリカでは劣らぬ人気を維持し、患者の11〜19%が筋骨格系ではない症状で治療を受け、カイロプラクターの90%は筋骨格系以外の症状にも有効だと考えている。腰痛に限ってはカイロプラクターにかかる価値があるかも知れないが、その際注意するべき事項がいくつかある。 (1)カイロプラクターがストレートかミキサーであるかを確認しよう。ストレートはカイロプラクティックの原理主義者でサブラクセーションとイネイト・インテリジェンスを堅持し、あらゆる病気を脊椎マニピュレーションで治せると信じている。このような治療家は代替医療に限らず見受けられ、患者に希望を持たせ信念の治療へと強く導いていくが、いったん上手くいかなくなると尻尾を巻いて遁走する。ミキサーは特定の症状のみ対処し、他の理学療法や食事療法なども取り入れる。ストレートは避けたほうが良く、治療内容など尋ねればすぐに判るだろう。(2)カイロプラクターの治療を6回以上受けても改善が見られないばあいは医師のアドバイスを受けよう。長期に渡る治療で改善したものは自然治癒力であることが多く、その間の費用と時間が無駄になる。有効な検証方法がないので治療家は自然治癒力を有効例と勘違いする。(3)カイロプラクターを健康全般の予防や治療または医療上の助言を求める主治医にしない。アメリカでは95%のカイロプラクターが自らを医療アドバイザーとみなしているが、医学部の正規の授業は修めていないのでその資質も資格もない。所属学会や修了証、華々しい経歴など何の保証にもならない。(4)診断を下す際、変わったテクニックや装置を用いるカイロプラクターを避ける。これも多くの代替医療の治療家に見られ、Oリングテストや虹彩診断、手相、姓名判断など用い、装置は特許発明品という触れ込みであるが、実は体表の電気伝導度を測定するものが多い。これらに科学的裏付けのないことは明らかである。(5)かかる予定のカイロプラクターの評判をあらかじめ調べておく。2004年にカリフォルニアで行われた調査では懲戒処分になるカイロプラクターは医師の2倍、詐欺事件は9倍、ワイセツ行為は3倍あったという。(6)カイロプラクターにかかる前に、通常医療を試してみる。通常医療が料金も安く、効果も同程度以上あるかも知れない。拝金主義の営業や治療内容についてカイロプラクターの中から次のような批判が出ている。
カイロプラクティックは腰痛に限定的な効果はあるもののそれ以外の病気については科学的根拠が得られなかった。しかし、根拠のある危険性はいくつか知られている。まず診断のため必要以上にX線検査が行われ、被曝のリスクを高めている。これについては多くのカイロプラクティックの図書にルーチン化しないように明言されている。次にマニピュレート自体の悪影響についての系統的レビューが行われ、治療を受けた患者のおよそ半数に一時的にではあるが痛み、しびれ、凝り、めまい、頭痛など見られた。さらに深刻な危険も指摘されている。頸椎へのマニピュレーションによって椎骨解離が起こることがある。無防備で繊細な首の骨を突如、引っ張りながら曲げることで脳に達する血管が圧迫され血流減少や損傷を引き起こす。最悪の場合は脳卒中によって脳が回復不能になり、死に至ることもある。驚くことに、このような治療はごく普通に行われているのだ。椎骨解離が起こってから脳の血流障害が出るまで時間がかかるため、長年カイロプラクティックとの因果関係は気づかれずにいた。別のレビューではカイロプラクティック治療を受けると、動脈損傷を受ける危険性が5倍になる可能性が示唆されている。どうしてもカイロプラクティックの治療を受けたいならば、首へのマニピュレートは行わないよう、はっきり伝えたほうが良い。 ....................................................................... 【ハーブ療法】 薬草を用いる療法についてはいままで述べた代替医療と同列のものと、異なるものがある。古典理論や独自理論で用いる薬草と科学的検証を経て利用するものとは明確に分けて考える必要がある。薬草は人類が最も古くから利用してきた医療資源と言えよう。その土地で入手可能な天然資源を試行錯誤のうえ、知識を積み重ね伝承してきた。次第に専門性を帯び、知識と医療を一手に引き受ける治療家が生まれる。そして18世紀、薬草は新時代を迎え科学者たちによる徹底的な研究の対象になった。イギリスの医師ウィザリングは鬱血性心不全に伴う浮腫の治療に利用されていたジギタリスの研究によって投与量、副作用などの詳細な情報を得た。その著書には以下の事が記述されている。
ウィザリングの研究は、ハーブ療法の歴史上、大きな転回点となった。古代からの行き当たりばったりなやり方から、より系統的で科学的なものへと変わり、伝統的な薬草がひとつづつ綿密に調べあげられていった。今日の薬理学のかなりの部分がハーブ療法から発展したことは明らかで、現在医師が用いる鎮痛剤の95%はアヘンまたはアスピリンを基礎としている。植物に含まれる有効成分を単離し、合成し工業的に大量生産したり、構造を変えるなどの試みが続いた。科学的に解明された植物には薬理学的活性をもつ化学成分が多数含まれ、実際の医療に利用されている。もはやハーブ療法とは言わず、医薬品化学という範疇になる。代替医療のハーブ療法家は、「母なる自然は何が最善かを知っており、植物を全体として使うことこそ理想的な薬のありかただ」と今も信じている。漢方薬、鍼、ホメオパシー、カイロプラクティックが代替医療から抜け出せないのは治療法の基礎となる考え方が、今日の解剖学、生理学、病理学をはじめとする科学的知識と相容れないからだ。代替医療のハーブ療法は科学的根拠に照らし合わせ本当に効くかどうか検討する必要がある。 この20年で急速に消費量が伸び世界中で使われているハーブ薬にセントジョンズワートがある。ヨーロッパ原産の植物で、家畜を流産させたり死に至らしめることもあり、昔の農家は毒草とみなしていた。毒草によって悪魔を退散させるようにと、聖ヨハネの日に軒先に吊るすようになった。これがセントジョンズワートの名前の由来になり、別名は西洋弟切草と呼ばれる。悪霊退治と病魔退治は同じものと考え、治療家たちは座骨神経痛、関節痛、月経痛、下痢などに利用した。16世紀には幻覚に用いられた記録があり、17世紀になって現在のように抑鬱、不安、錯乱に使われるようになった。1996年、最初のメタ・アナリシスが23件の研究を対象に行われ「軽いものから中程度の抑鬱症に対し、プラシーボを超える効果があると考えるだけの科学的根拠がある」と報告された。翌年、このことがテレビで報道され、アメリカでのセントジョンズワートの売り上げは3年間で30倍に膨らんだ。1996年のメタ・アナリシスの結果は、2005年にコクラン共同計画によっても裏付けられ、37の臨床試験すべてに言及し「軽い、もしくは中等度の抑鬱症状について、セントジョンズワートと標準的な抗鬱剤は同程度の効果がある」としている。しかし、限界にも触れ「重い抑鬱に対しては、近年行われたいくつかのプラシーボ対照比較試験によると効果はわずかなものでしかなかった」と述べた。 ひとまず軽中等症については、現在の医薬品と同程度の効果があるわけで、セントジョンズワートもそれらに伍して用いることができる。ヒペルホリン又はヒペリシンなど有効成分が単離されたが、臨床試験では植物そのままを用いるほどの効果は得られなかった。ハーバリストの主張のようにいくつかの化学物質の相乗作用で効果が発揮されているようだ。これ以外の売れ筋のハーブについては一覧が掲げられ、デビルズクロー(筋骨格痛)、エキナセア(風邪の予防・治療)、ニンニク(高コレステロール症)、サンザシ(鬱血性心不全)、セイヨウトチノキ(拡張蛇行静脈)、カバカバ(不安)、マオウ(体重減少)、アカクローバー(更年期障害)などが有効とされ、どちらともいえないもの、無効なものとが評価されている。ただし、有効であっても使用に注意を要するものや安易に使えないものがあり、多くの病気や症状を網羅するほど多くはない。ハーブの本やハーブ店の説明をみると、ありとあらゆる効能が謳われているが、過剰な広告と言わざるを得ない。また、有効と考えられるものでも、同等かそれ以上に有効な通常医療の薬がある。高額なハーブを購入する、いわゆる費用対効果についても検討を要するところだ。 本書では「個別化されたハーブ薬」という表現で、漢方医やアーユルヴェーダの治療家が調合する薬を取り上げている。伝統に基づく独自の理論で患者を仔細に診察し処方を決する。この細やかな配慮は治療家が変わればまったく別の処方にもなりうる、まさに「個別化されたハーブ薬」だ。この臨床試験では患者グループをA、B、Cの3つに分け、Aはその症状に適した標準的なハーブを与え、B、Cには熟練の治療家が診断した処方を与える。そこで、治療家に知らせずBは本物の処方、Cは本物そっくりの偽薬を与える。Aは標準的なハーブであることを知り、B、Cは本物か偽薬かは知らない。
漢方家が日夜研鑚に励み信奉する癒しのツールは実のところ、高価な偽薬だと言う。万巻の書物を読みこなし、才知あふれる論文を世に問う漢方家も、実のところ仮想世界でプラシーボの検定に勤しんでいたわけだ。ひたむきさと才知がプラシーボ効果の発現に加担したのかも知れない。仕事や存在を全否定されるような結論だ。個別化されたハーブ薬、つまり医療でも広く利用されている漢方処方の再検討も必要になる。
今日ほとんどの医療介入に副作用のリスクがあることが判明している。これまでハーブ薬の受益性について述べたが、危険性についても知っておかねばならない。先にあげたセントジョンズワートはいくつもの副作用や他の医薬品との相互作用が報告されている。体内で薬の輸送メカニズムを破壊するか阻害することで抗HIV薬、抗がん剤や処方薬の半分以上に対して効果を抑制したり薬効成分の吸収を阻害する。薬を服用中さらにセントジョンズワートを追加しない方が良い。ハーブ薬は自然、穏やか、などの先入観で多くの人が安全だと思い込み、副作用の警戒を怠りがちだ。セントジョンズワートは単独でも胃腸障害、めまい、錯乱、疲労感、意識低下、口渇などの副作用が知られている。他にいくつかあげると、漢防已に含まれるアリストロキア酸による腎機能不全では、副作用症例70のうち30例が死に至るものであった。すぐに気付かなかったのは腎障害の発症が服用後、数カ月から数年後になるためと考えられている。風邪薬で有名な葛根湯には麻黄が配合され、これに含有されるエフェドリンは心臓発作などの副作用が相次ぎ、世界各国で販売が禁止された。交感神興奮作用や中枢興奮作用により血圧上昇、動悸、不整脈、不眠などが起こり、併用薬の作用が増強することがある。 ハーブ薬は本来持つ毒性のほか、汚染という深刻な危険性の懸念されるものがある。重金属や残留農薬などの他、効果を期待して意図的に通常医療の薬を混入することがある。中国の毒菜はとりわけ有名になったが、環境汚染も懸念される中国産の生薬については不安を抱えながら仕事を続けている。このことを直載に問う声もあり、完全に疑いを晴らすにはたったいま飲む薬について、面倒な検査が必要になる。しかし、手間も費用もかかり現実的ではなく、不安があれば飲まぬに越したことはない。これからは中国産だけでなく、いままで安全とされていた国産にも注意を払う時が来た。原発事故により農産物は長期にわたり放射能に汚染され、基準値の緩い日本を闊歩するだろう。皮肉にも「安全な中国産を ..」という動きが起こるかも知れない。 ....................................................................... 【代替医療】 代替医療のいくつかを見てきたが、思慮も才知も溢れる人がなぜ、代替医療に癒しを求めるのだろうか、あるいは治療家として非科学にのめり込むのだろうか。鍼やホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法の他、サプリメントや磁気治療、ヨガ、クリスタルパワー、リフレクソロジー、珍しいものではオーラ浄化、前世療法など、代替医療の市場は巨大なものだ。磁器の指輪をつけたりマットレスを敷いたり、スポーツ選手はイオンリングを首に巻き記録を上げようと試みる。これらのほとんどが科学的根拠に欠ける道具であり、療法だ。なにがしかの有益な効果はプラシーボを超えるものではないことが明らかになっている。そこに惜しみなく金銭をつぎ込む理由は何なのか。代替医療には科学的根拠がなくても「自然」、「伝統的」、「全体論的」という3つの中心原理がある。心地よいごもっともな言葉で感性を揺さぶるマーケティング戦略だ。この3つを繰り返し刷り込み、不都合を隠すか粉飾すると、本物らしく輝きだす。自然は脅威も危険もあり、薬も毒もある。伝統は無条件に讃えるものではなく、いくつもの衰退を繰り返して現在に至っている。全体論とは心地よいフレーズだが代替医療に特化したものではなく、通常医療でも実践されている。少し考えただけで3つの刷り込みの無意味さと巧みさが分かるだろう。 一方、代替医療側からの科学批判をまとめると、代替医療は理論や技法が科学に馴染まず、科学的検証が不可能であり検証可能なほど科学は万能ではない。代替医療への無理解が偏見を生んでいる。「まずは代替医療を学ぶか、経験して後に批判せよ」というものだ。代替医療の治療家たちは独自の理論に科学を寄せ付けず、利用できる科学理論は取り入れる。たとえば磁気治療でヘモグロビンの鉄を治療の根拠とし、それが磁気によって影響を受けると説明する。この検証のため血を一滴垂らし磁石を置いても反応しない、もともとヘモグロビンの鉄は磁気に反応しないタイプなのだ。これだけで磁気治療は拠り所を失ってしまう。科学が万能でないことは誰もが承知しているわけで、いま可能な最大限の知に基づく検証は欠かせない。 代替医療の治療家も研鑚を怠らず非凡な説得力を備えている。行き過ぎた批判もないではないが、通常医療や新薬の侵襲性への批判には少し耳を傾けても良い。公平かつ冷静に見て、通常医療がただしくEvidenceにもとづいて行われるとは限らない。代替医療の治療家が陥る誤りや思い込みは通常医療の医師にも通じるものだ。一例をあげれば、かつてガンの治療や検診について科学的証拠をあげての論争が起こった。そのあと、医療現場はどれほど変化したのか。いまだ多くの医師がEvidenceではなく「私の経験では..」と言い、成功例を頼りの治療が続いているのではないか。Evidenceとか系統的レビューと言うのは特殊な事例なのかも知れない。目指す価値は理屈では分かるが、ルーチンワークとして実践するには才知と勇気を要する。 代替医療はEvidenceに欠けるが一般的に被害や侵襲性は通常医療に比べ、比較的軽微なものだ。これは少なからぬ利点として代替医療を支持する原動力になっている。通常医療では一定割合で発生する医療ミスとともに、Evidenceの欠如した治療や検査による被害は例をあげるまでもなく甚大で、死亡例もある。科学的根拠に基づく医療は代替医療だけではなく、通常医療でも厳しく律せられる問題である。代替医療の治療家のなかには無益であることを納得しながら金を儲けている人もいるだろう。しかし大部分の治療家は心から効果を信じて取り組んでいる。それが科学的に誤った考えであろうと、効果を現実に目撃すると科学のほうを疑うのだ。現実に病が治る、苦痛が軽減する。他に真実に足るものがあるだろうか?ここに個人的経験と科学的研究の矛盾が横たわっている。
ユング心理学で意味のある偶然の一致を共時性と言う。検証する手段がないのでもっぱら創造の産物であるが、神秘主義に陥った治療家は共時性で効果を説明することがある。因果律の考え方は日常普遍的に思考、感情の中に存在し、医療のみならず、原因すなわち結果を短絡する議論は氾濫している。短絡は錯誤や妄想かもしれず、治ったという結果には直前の原因以外の様々な要因が潜んでいる。治療とともになされた食事や運動のアドバイスによる生活習慣の変化、症状の起伏と波、自然治癒力などだ。代替医療の多くの患者はたえず症状の変化する慢性病であるため、偶然の一致が起る可能性は高い。たとえば腰痛の場合、治療を受けない患者の90%が6週間ほどで大幅に状態が改善する。この期間患者を治療にとどめておくことができれば、回復の見込みは高い。確証バイアスといい患者は治ろうと希望を抱き、治療家は治そうと期待を寄せ、希望や期待を強化する方向へ現実解釈が進み偶然の一致に意味を認める。また症状は変わらずとも、治療家の真摯さや思いやりで気分的に良くなることもある。しかし、改善例のすべてを偶然の一致で説明することはできない。残るはまったく効き目のない薬や治療でも治癒が起こるプラシーボ効果である。症状が改善するなら過程やカラクリは問わない。とにかく利益はあるではないか、という議論は生じてくる。ここに代替医療の生息地があっても良いと考えていた。しかし、代替医療の治療家は一律ではなく、守備範囲を広げ通常医療をも凌駕すると信じる者や通常医療を否定する困った者まで多士済々が集う。虚心坦懐に科学的評価を受け入れる治療家であれば良いが、稀なことだ。往々にして治療家は過大な評価と実力を誇示し、一般の人が医療を選ぶときの相談者としてふさわしくない。なにに於いても自惚れは見苦しく治療家たる者、戒めとすべきであろう。 |
>>代替医療(1) /代替医療のトリック・文庫版(追記) |