【食と文化(2)】


食や食行動を色々な切り口で考えていくと、栄養学や医学の視点からの食の捉え方がいかにも狭量でつまらないものに見えてくる。食は大勢の人が最も興味を抱き、かつ拘りを持つもののひとつである。治療の現場で行われる食指導は、概ね禁欲的で味気ないものが殆どで、指導者本人でさえ実行できないものが多い。なぜ実行できないのか考えたことがあるだろうか?人が獲得した食行動は無意識のうちに形成され行われる部分が大きい。したがって慣れ親しんだものを容易に変えることは困難を伴うことになる。反面、容易に変えることへと誘導するのがメディアの戦略である。たかが、数分のテレビのコメントに乗せられて、今まで思ってもみなかったものを食べるようになり、そのうえ、こぞって買占めたり、ふんだんに摂食するようになる。このような不合理かつ不可思議な食行動は文化人類学から興味深い解釈が為される。そもそも文化とは?Tylorの定義によれば「学問、信仰、芸術、倫理、法律、風習そしてその他に、社会の一員として人間が身につけるすべての能力と習慣からなる複合体である」という。
  1. 文化は学習された経験である--文化は公式、非公式を問わず言語表現
    や仕草などの手段によって、また個人の実例などによって伝承されるもの
    である。
  2. 文化は変化する--食習慣は、基本的には安定していて予測可能なもので
    あるが、絶えずダイナミックに変化している過程の一部でもある。
  3. あらゆる文化は変化したがらない--食習慣は固定したものではないが
    それでも変化に対する抵抗がある。
  4. 日常的に文化は無意識のものである--人は様々な伝統文化を身につけ
    てしまうと、それはその人の一部になって、もはや分離できない。殆どの
    人は、どの程度まで築き上げられた伝統の恩恵を蒙っているのか、犠牲
    になっているのかはっきり自覚できないでいる。
  5. 文化とは価値観の体系である--食べ物のなかで、食文化的な意味で
    「良い食物」又は「悪い食物」というレッテルを貼られることがある。
    そして時として「悪いとされる食物」に人気が集まることがある。

(食と栄養の文化人類学より引用)

どのような食物を摂ろうと、どのような生活スタイルをとろうと、法則など知らなくても問題はない。しかし、栄養学や文化的価値を満たしてくれる「食の姿」がかすかに浮かび上がるならば、食の提言がより有効に快適なものになりはしないだろうか。徹頭徹尾、栄養学や科学的証拠を追求する資料を頼りに行動するなら、実際の生活との乖離は大きい。お茶ひとつとってみても、一方では胃癌やストレスをもたらすといい、一方では癌とストレス解消に有効と言う。食の目的はまず飢や渇きを癒すことに始まる。その際、あらゆる学問や規制に先立って行われなければならない。食が足りたあと、食の価値観に影響を及ぼすものは次のようになる。

 
思   想 人類は自らの目的のために地球資源をコントロールする権利を持つ。
貧しく恵まれない人々に食べ物を与えることはよいことである。
技   術 人類はかつてない高水準の技術を利用して世界の食糧問題を解決
できる。食糧生産のためには、より大きなエネルギーの投入が必要
である。
経   済  食物は特定の金額的価値を持った必需品とみなされる。食物の
供給と分配は人々の実際のニーズとは無関係に生じる。
教   養 食物の知識、信念、態度は順次、次の世代へ伝承される。食糧の
供給を改善する方向に研究が行われる。
政   治 政府の規制は食品の生産、取引、流通、安全性、品質に影響を及
ぼす。
家   族 家族の一人一人が互いの食習慣に直接影響を及ぼす。一人の
家族の食事の変化が家族の他の者に影響を及ぼす。
マスメディア 食習慣は強力な市場導入によって形成される。ある食品の選択を
促進するものは栄養価値とは、無関係である。

(食と栄養の文化人類学より引用)

命を育むという食の目的は同じでも、食に対する人々の価値観は多様である。思想や信仰が関わる食、栄養価を最優先する食、経済性やファッション性を強調する食、そして、それぞれの要素のいくつかが混在し混乱させるのが食の実態である。栄養学や科学の装いを施した食情報などその最たるものだ。信仰や空想を遠ざけるはずの科学が先んじて信仰や空想の手助けをし、惑わすもととなることに警戒しなくてはならない。この為の確かな拠り所となるのも栄養学なのだ。普通は嗜好や経験や伝聞に基づいて食を語り、栄養学の知識は多くの人で欠如していることが多い。文化人類学者は、栄養学で語る食は味気ないというが、多くの人は、そして、栄養学者でさえ栄養学だけで食を捉えては居ないだろう。食文化の中に入りこむ科学という強迫観念が、生き物である食をつまらなく解釈しているのかも知れない。習慣や伝聞で語り行動する食に、時折介在する科学こそ検証され警戒されなくてはならない。

食習慣は強固で、アドバイスなどものともせず指導者を悩ませるものである。しかしすでに述べたように容易に変容する食行動も存在する。その代表的なものがメディアによるプロパガンダや信仰、洗脳に基づく食行動である。業界そのものが信仰や洗脳の手法を用いて食習慣を変容させていると言えなくもない。ひとつ食ばかりではない、政治、経済を始め広く世論までも...そのような気がする。さて食習慣の容易な変容はいかにして起こるのか?食と栄養の文化人類学からまとめてみると。

  • 食に対する誤った認識や無知に伴い誤った信条にのせられる。
  • 健康、容姿、肉体的能力や魅力に対する願望。
  • 大衆的な風潮や刹那的な流行に影響される。
  • 危機的状況に於いて実際の効能・効果より希望のほうにすがる。
  • 健康不安を煽動されその恐怖を解消する。
  • 医師や医学への不信感や不足感をうめる。
  • 科学や常識では受け入れられないが、自己表現の欲求から。
  • 感性の充足のため。(上記と同様で集団化しやすい)
  • 現代生活や文明批判から自然回帰願望が生まれる。

無意識のうちに静かに、あるいは確信をもって、ときにはゆっくりと、ときには突然に起こりうるものである。科学や理性や常識は一定の歯止めにはなるものの、一度走りはじめるとその歯止めさえ、行動を手助けする。人の心理は不思議なものであるが、そのことすら意識にのぼることは少ない。このような食行動に対し、栄養情報の信頼性評価のポイントがあげられている。

  • 証拠のない論理
  • 真実を曲げている
  • 不完全な真実
  • 強引な売り込み
  • 手法の誤用
  • 売り込みの速さ
  • 個人の利潤
  • 素人診断
  • 信頼性に乏しい印刷物
  • 正しい文献の引用がない
  • 虚偽の証明書

(食と栄養の文化人類学より引用)

冷静に考え抜いて行動する状況はそれほど多くない。特に食に於いては、その場限りの思いつきや雰囲気でいかようにも変わりうるものだ。上記のポイントは図らずもマーケティングの手法に重なる部分がある。なるほど、このようにして食を売り込み、また望むべき食行動へと導けば良いのだ。コンビニ食であれスローフードであれ、方向は異なっていてもその売り込みの方法は本質的に同じである。ここで断っておきたいのはスローフードの動きを牽制するものではない。むしろ、食品業界の短期の都合で、長期に培われた食文化を危うくされた事を憂えている。

朝食はご飯と味噌汁ですませていたものが、いつからパンと牛乳に変わって行ったのだろう。牛乳一本が配達されるようになり、学校でも給食として出されるようになった。やがて牛乳パックで1Lも2Lも飲用する子供まで現れた。幼い頃の食習慣は成長してからの食行動まで左右する。小麦粉とミルクによって変えられたのは食卓ばかりでなく、思想までもアメリカ的になってしまったのではないか?脂肪過多による生活習慣病の予防にと、既に述べたような手法で健康食品が蔓延する。脂肪過多ならば、単に食の構成と量を変えることで克服できるにもかかわらず、、、食も生活も思想も日本人の体質と能力に見合うていどスリムにならなければならない。他国の食物まで蹂躙するようでは、もはや手遅れなのかも知れない。戦後60年を経て変容した文化に抗して、戦前〜終戦直後生まれの世代は相変わらず成長期の頃の食に拘る。「若い人のような食生活では、いまに大変なことになる..」という嘆息の言葉を何度聞いたか知れない。この世代の人の食に学ぼうというのが伝統食の復権であろうと思う。時代の潮流に押し流されながらも変わらず、強力かつ巧妙なプロパガンダにも抗し、金銭や流行にも迷わない古き良き伝統食を求めていく。このことは現在、スローフードや自然食などと呼ばれているが、私はそれとは一線を画して考えている。

パン、ミルク、卵、肉食には豊かな生活のイメージが、穀物と野菜を基本とした伝統食には貧しい生活のイメージがある。飢餓の世代を経験した人の中には、反動かのように伝統食を嫌悪する人が居る。白米しか食べず麦入りのご飯を「貧乏臭い」と遠ざける。伝統食への回帰はともするとマイナスのイメージをもたらすのかも知れない。しかし、若い世代の幾らかは、伝統食を豊かな食と捉え、玄米菜食や自然食レストランのやや高額な食を楽しむ動きもある。しかし、これは私の考える伝統食ではない。
※ここでは日本の古い時代からの日常の食を「伝統食」として、料亭などの「日本食」と区別している。

伝統食の復権とはいえ、現在おかれた食の状況も「日本の食文化」に違いはなく、その善悪の判断など下すことはできない。「食」がなければ、飢えてしまうのがとりもなおさず「食」なのだから。多くの要素が絡まる食行動を栄養学だけで語ることはつまらないし、実態と異なる。しかし文化人類学が万能ということではない。栄養学よりやや考える範囲は広くなった。行動の多様性や頑迷さは意識、無意識を超え、ヒトという種の存続か終焉かを決する遺伝子からの暗号かも知れない。「なるようになる」という言葉がある。流れ流され、行き着くとこに行き着くのであるが、それがどこなのかはわからない。

 

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