【治療家への箴言(1)】


治療家とは何ぞや?法律で認められた資格ある医師、歯科医師などは疑うことなく治療家というべきものである。しかし、治療に携わる人は有資格者ばかりではない協会の資格で業をなす人もあれば、無資格で医学の知識もない人が治療所を開いている場合がある。このような治療所の存在をお役所に問い合わせたことがある。曖昧な返事で明確な回答は得られなかった。おそらく、実害もなく迷惑をかけない限りに於いて黙認しているのだろう。

ここでは資格ある治療家のみならず、医療・治療行為もしくは類似行為をもひと括りにして何らかの癒しに関わる人々を「治療家」と呼びたい。ところで薬剤師の仕事は治療と言えるのか?もちろん立派な治療なのだ。薬の適正な用法、副作用のチェック、医薬品の管理は治療に欠かせないものである。しかし、一般には処方箋どうりに薬を揃えて渡すだけに見えるのかも知れない。

目のまえで処方したり施術して苦痛を軽減する人ばかりが治療家ではない。また白衣を着て、治療所を構えた人ばかりが治療家ではない。病気の子供を介抱する母親、肉親の介護に汗を流す家族も治療家である。このような広い意味で癒しに関わる人、また関わる時、人は治療家になりうるのである。癒しはひとり医師だけの専売品ではない。

癒され又癒しに関わるとき治療家の心得や頼れる経験則があれば、専門家のみならず心強く、混乱や迷いのときの道標ともなるだろう。中国の「易経」は陰陽二つの「卦」を六つ重ねて64象(2の6乗)に分類する。そもそも事象に対峙して64のパターン認識が可能かというと疑問は残る。漢方の病態の捉え方はこの陰陽と五行を積みあげ複雑な証の分類を行なうが、実際の現場では瞬時の判断が要求される。その時、経験則や口訣、処方覚書など心得ておけば、四苦八苦考えて不適切な判断をするより蓋然性の高い対処が出来はしないだろうか。漢方の業界に口訣集があるならば、医療という業界にもありはしないか。

10年程前、ドクターズルール425という本を手にした。読み進むと短い言葉の中に深い洞察と知恵が秘められ、仕事上大いに寄与するものであった。本は翻訳のみで著者や訳者のコメントもなく、まさに格言集とでもいえるものである。著者の序文によると、多くの書物や思想家の格言などを参考に医師の仕事を通じてまとめたものであると書かれている。そして多くの同僚や医師からの支持や同意を得て選別し完成されたものである。

漢方の口訣集については、他のページで触れているが、この本は「癒し」という広い範疇での口訣集であり経験則集である。私の経験や感想も交えて「治療家への箴言」という項目で話を続けたいと思う。

【参考図書】
ドクターズルール425 -医師の心得集- クリフトン・K・ミーダー 福井次矢 訳
故事・ことわざ辞典 三省堂編 /ことわざハンドブック 池田書店

 


効果のない薬は中止せよ。効果のある薬は継続せよ。

効果の判定は本当に難しい、効果とは治療家の知識や経験の中で構成されるイメージのようなものかも知れない。山奥の湧き水を霊水と信じる治療家の勧める水で苦痛が軽減すれば、効果があったとして継続するべきなのだろうか?極端な例をあげてしまったが、医師が処方する薬にもあてはまる。A医師の信じる処方が、B医師に否定されたり、C医師の確かな診断に基づく処方が有効とは限らない。また、別々の医師による異なる治療で治る病気もある。

効果の判定はさて置き、効かない薬を中止する勇気があるだろうか?薬が効かないと解っていても処方する医師が居る。また効かない薬にも関わらず、くる日もくる日も辛抱強く服み続ける人がいる。

中止する勇気も必要であるが、継続する際の配慮も必要である。継続を止めることで改善される苦痛もある。効果のある薬は副作用も兼ね備えているのだ。

 

特定の臓器に特異性のある薬は存在しない。すべての薬の効力は全身に及ぶ。

胃の薬、肝臓の薬、、、などという表現をするが、薬はそこだけに作用するのではない。投与された薬物は肝を経由して全身に輸布される。薬の服用量や種類が増えると肝障害の恐れが出てくるのもこの為である。例えば制酸剤などは胃の酸度を下げるだけのように思われても、やがて胃が機能する為の最適な酸度に戻す生理作用が起こる。薬理作用は全身におよび、それに対する生理作用も全身的なものである。全身に及ぶ作用のうち、有益なものを薬効と言い有害なものを副作用と言う。

細かい観察をすれば、薬の作用で明確な点などわずかである。その薬をいく種類も服用するなら、それは未知の世界に足を踏み入れたも同然である。

薬草は未確認の複雑・怪奇な成分が多種多様に含有されているので完全解明は不可能である。また配合剤である漢方処方に於いては解明の為の方法論さえ手探り状態といえる。

解明されてから使うと言うのであれば、人類が何度生まれ変わってもその日は永遠に訪れないだろう。利益があればこそ適当な証拠を頼りに用いるのである。

 

薬についての情報をもっぱら製薬会社のセールスマンを介して得るということのないように。

医師の心得としては当然のことである。「副作用はなく、よく効く薬」...病院に勤務している頃、何度も聞かされた慣用句である。かつては宴席で仕事をするセールスマンも多かった。彼らに言わせれば「古き良き時代」なのだろう。命や健康に関わる仕事は一定のボランティア精神が求められる。売上やノルマを第一主義にしない「青臭い信念」が必要なのだ。

情報をどこから、誰から得るかは大切なことである。業界の利益を代弁する「ひも付き学者」であってはならない。利益が絡んだ時の判断や説明は必ず曇りがちになる。

病院や薬局で薬を渡されるとき、副作用の説明がある。利益と被害を計りにかけて適用するが、この事を容易に受け入れるほど一般の意識は高まっていない。積極的に服む気にはならないのが本音だろう。しかし、服用を促すための方便で「大丈夫..」と曖昧な説明をしてしまう。これは正しい情報発信と言えるのだろうか?

医師や薬剤師が副作用を恐れて薬を使えなくなるのは困るが、正確な情報は発信しなくてはならない。この板ばさみで現場は喘いでいるのである。

健康業界は命や健康を脅迫のネタにして、販売拡大を画策しているといえなくもない。巧みな販売戦略で医学や薬学の専門家まで巻き込む例もある。第三者的視点でアドバイスできる専門家や、そのような情報収集は欠かせない。人が良いと言うものや、強く勧誘されるものは、まず疑う習慣を身につけたい。

 

症状のある患者に、「どこも悪いところはありません」と言ってはならない。

辛く、苦痛なのに検査の結果、異常が見つからない。ここで「異常なし、病は気から」と診療を終わる医師はいないだろう。自律神経失調症などの適当な病名をつけ、それに関するもっともらしい説明をする。頼りになるのは薬しかないので、軽い精神安定剤やビタミン剤、また苦痛症状を緩和する薬を処方をするだろう。

最初と、しばらくの間はこれでなんとか持ちこたえられる。やがて苦痛が収まれば幸いなことであるが、長期に及ぶと徐々に患者さんの疑心暗鬼が始まる。「一向に良くならない」「一体治るのだろうか」、、、ここからの説明で医者や治療家の技量が試されるのである。医学用語や難解な説明で切り抜けたり、「まあ、まあ、気長に」と言ったり、はっきりと「年齢のせいです」と言ったりする。年齢のせいにするのは、とりもなおさず「治らない」という暗喩に過ぎない。「どこも悪いところはありません」と言うのに似ている。

老化に伴う病気や原因不明の病気の回復は望み難い事が多い。病気になると風邪くらいであっても「治らないのではないか」という不安に駆られる。健康な人や健康なときには理解しがたい精神状態なのだ。

検査で計れる病気ばかりではない、むしろ検査では及ばない病気の方が断然多いのだ。検査は大切だが、それに依存しすぎると病気まで見逃すことになる。

 

あなたが診ようが診まいが、ほとんどの外来患者の病気は治るものである。

治療家にとっては耳の痛い言葉かも知れない。ある薬で治った病気が、また別の薬で治ったり、健康食品で治ったり、祈祷所のお祓いで治ったりすると、一体「治癒とは何ぞや」という疑問を新たにする。病気の多くは自然に治っていくのである。不調や苦痛で病院へ向かう事を否定はしないが、それを受け入れる治療家に、治してあげたとか、自分には治せない病気はないという傲慢があってはならない。

病や健康について考えれば考えるほど治療家の役割は小さいものであるが、決して不要なものではない。

 

患者を好きになる必要はないが、好きになれば役立つことがいろいろある。

「医者も人間だから」と言わしめるほど困った患者はいるものである。医者対患者としてでなくても、人対人としても相性がある。口が裂けても言ってはならないが「好い患者」「嫌な患者」は厳然として存在する。それは医療の現場に限らず人対人について当然あり得る事だ。

仕事や使命と思えば、楽に乗り越えられるし、乗り越えなければならない。治療家と患者の人間関係は「癒し」に関わる重要な要素だ。一般的に関係が良好なほど癒しは機能する。

稀には、あの医師の顔は見たくないので、早く治ってやろうと思う人が居るかも知れない。(笑)

 

あなたが変えることができるのは何かを知りなさい。あなたが変えることができないのは何かを知りなさい。その違いに気付くだけの知恵を持ちなさい。

出典はキリスト教のニーバーの祈りだと思う。できることと、できないことを知れというのは、「汝自信を知れ」というソクラテスの言葉に通じる。真の賢者は自分が無知であることを知っている。その認識は困難なことであるが、そこを出発の原点とすべきである。

治療家に出来る事、出来ない事、薬で可能な事、不可能な事、、、それぞれについて知り、行うことは理想的であるが、違いに気付くだけでも尊い認識といえる。

 

あなたが生理学や生化学、解剖学について沢山の知識を持っているからといって、人生や人間について豊富な知識があることを意味するものではない。

ある程度、人生経験を経た人ならば何らかの教訓や処世訓みたいなものを秘めているに違いない。小学6年生の兄が小学1年生の弟に教訓を垂れることがないわけでもない。歌手やスターの人生論や書籍は哲学者の言葉以上にファンを魅了するだろう。功成り、名を為した医学者の、解剖学的人生論、免疫学的人生論、遺伝学的人生論、、、など、時には、このような書物を読む事がある。

読み物として知識を得たり、意外な切り口による物の見方を楽しむ事はできるが、彼らが専門外である政治、経済、文学、哲学の話に及ぶと大概、その認識の浅さに幻滅させられる。結局、ベストセラーともて囃される割りには面白くもない。

ある領域で高度な才能を発揮し、業績をあげたからと言ってすべての領域に秀でている訳ではない。先生とか師と呼ばれる人々は、対する人と対等であることを忘れる傾向がある。すべてに於いて教えたり指導をしたがるものである。

ある高校の同窓会で医師になった同級生を「○○君」と呼んだら「オレは医者だから先生と呼んでくれ..」と嘘のような本当の話がある。このような医者のところへは絶対に行かない。同業の世界でお互いを先生と呼び合い、またそのような世界に浸っているかぎり、新たな展望は開けてこない。人対人として異業種の人と付き合い、学ぶことで、本業までも広がりと深みが増すのではないか。

 

現在のあらゆる医学的知識をもってしてもわからない患者がいる。

ありとあらゆる知識を動員してもわからない患者もいる

疾病の中には治療のできないものもあるが、ケアをすることはすべての患者についてできる。

昔よりか医学が発達しているのは間違いない。しかしわからないことに関しては現在の医学の方が遅れているのかも知れない。体液説や五行説で病気を理解し説明していた頃のほうがわからないものは少なかったのではないか?真理を追究するというのは、言葉を変えて説明するに過ぎない。体を動かすのが神であっても、心臓や筋肉であっても生きていることに変わりはない。

未知のものを体液説で解釈しての治療と、一定の検査で病因を突き詰めての治療と果たしてどちらが有効かは一概に判断できない。病気にもよるが、体液説で捉えたほうが有効な場合があるかも知れない。医学は発達し、これからも発達を続けるであろう。そして同じく未知の領域も広がり続けるのだ。わからない病気の解明は医学の領域であるが、わからない患者のケアは医療の役割である。通常医療で治療方策のない病気のケアが必要な限り、代替医療は無くなることはなく、又奇妙な治療家の絶えることもない

 

考える時間が必要なときには、高齢患者に便通について尋ねるとよい。

高齢患者に限らない、漢方では便通の不・可は重大で最初に聞かなくてはならない。しかし薬方の決定に迷いが生じたり、症状から容易に証を把握できないときは、考える為の時間が必要である。ありきたりの無益な会話でその時間を捻出する。ときには本を開いてみる。迷いながらも薬草の前に立つと不思議に処方が出来あがる。薬草が意思を持つかのように感じるときである。

情報が多すぎても混乱するので、長時間かけて細かく尋ねるのが良いとは限らない。しかし時間をかけるとそれだけで患者さんの満足度が高まり治癒に貢献する事が多い。話終わって出て行かれるときには、最初の沈鬱な表情が消えている。

 

複数の薬を服用中の患者の具合が悪くなったときには一つないし複数の薬がその原因である。すべての薬の服用を中止し、様子をみること。

投与を中止して患者の状態が悪くなるような薬はほとんどなく、あるとしてもほんのわずかである。

薬を服用して出現する様々な不快感に対する思いは人によって異なるであろう。病気を治すためには致し方がないと、耐える人もあれば医者には言い難いと薬局のスタッフに訴える事もある。治療方針に関わるとして「直接医師に聞いて下さい」と答えるものの、聞きにくいから聞いている訳で、患者さんは中に浮いてしまう。

治療家によっては不快な症状を好転反応として、いつまでも耐えさせる事もある。このような治療家は見限るべきだ。

具合が悪くて薬を服用しているのに、具合いが良くならなくてはおかしいのだ。この当然のことを深く考える必要はない。服む前より悪くなるなら、服まないほうがマシという常識的な判断は、治療という善なるものの前で忘れがちになってしまう。

 

どんな場合にもプラシーボ効果は存在する。あなたの行為のうちどれがプラシーボでどれが薬理効果かを知っておくこと。臨床上、それら2つを区別して考えること。

治療家の動作や言葉一つでも病気の治癒に影響を与える。薬のみならず。治療家という存在そのものがプラシーボの要素を持っている。実際のところプラシーボと薬理効果の明確な認識など出来ない。そのとたんにプラシーボが機能しなくなる事もある。治療家の思い込みや期待が大きいほど、証拠のない療法にも有用性が出てくるのではないか。治療家が奇想天外では危ういが、多少被暗示性の高い人のほうが支持されやすいと思う。

しかし、薬理効果に対する醒めた眼差しを失ってはならない。その訓錬に於いてこそ治療の有効性を探ることが出来るのである。

 

好むと好まざるにかかわらず、どの医師にも小さな「呪医」が宿っている。「呪医」の技術を賢く、しかも患者の利益のためだけに使うように。

前項の箴言で触れたが、治療家の存在そのものがプラシーボであるという要素の一つが「呪医」の事である。祈祷師や生き神様のように原因を明確に断定しその対策を確信をもって語りかけると、患者はその段階でまさに何割か、病気によっては殆ど治りかけてしまうのである。さらに、お祓いや、お清めの儀式を通して治癒へのイメージが励起される。

光線療法として、太陽光を浴びるだけで癒される不定愁訴、生理食塩水や色のついたビタミン注射で消える痛み、、ときには高度に洗練された手術でさえプラシーボといえなくもない。これらは呪医の技術に他ならい。医師の始まりは呪医に近いものではなかったのだろうか?祈祷師や教祖が下す御宣託はまさに医師の診断に違わない。

 

患者には3種類ある。

(1)医師の話すことすべてを信じ、指示すればすべてを忠実に行なう患者。医師は話す内容、指示する内容に注意を払わなくてはならない。

(2)医師の話す内容についてよく考え、その理由に疑問を持ち、質問し、そのうえでどうするか自分自身で決める患者。医師はすべての質問に答えなくてはならない。

(3)医師の話すことすべてに反対し、あらゆる指示に逆らい、何をしても無駄だと言う患者。指示をあたえる前に「効果はないと思うが..」と必ず言うこと。そうすれば患者のほうから治療は有効だと言うように誘導でき、実際有効となる。

この3種類の患者すべてについて扱い方を学びなさい。

実際はもっと多様なパターンが存在するのであろう患者を、パターンに分類するのでなく、パターンに当てはめて患者に対処する箴言であると思われる。3.のパターンは所謂「気難しい患者」の一つに分類されるのであろう。人の心理や行動は、些細な技術で動かせる事がある。諺の「丸い豆腐も切りようで四角」というのに似ている。宗教色の濃い
治療家ならば自分の意に沿う患者だけを集める事が出来る。また評判の高い治療家であれば患者のほうが我慢する場合もあるだろう。

患者や客を選ぶようであってはならないが、その気はなくても自然に意に添う、比較的相性の良い人が集まってくるものである。そのような患者や客に囲まれていると、時に訪れる異なったパターンの客を峻別できる。治療家は患者に磨かれ、また患者は治療家に磨かれ癒しの関係が形成されていく。

 

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