【治療家への箴言(2)】


患者には病人になる方法を教えるのではなく、健康になる方法を教えなさい。

養生法や病気の克服法は即ち「健康になる方法」でもある。日常の診療で受ける指導そのものである。しかし、それがストレスになるならば「病人になる方法」を指導しているに過ぎない。適度のストレスやときには厳しい緊張は必要であるが、身も心もすり減らすストレスの持続は病気の大きな原因となる。稀には怪しい治療家の誤った(本人は正しいと信じる...)養生法で健康になる事もあるが、凡そ不幸な結果に終わることが多い。

禁ずる事での養生法の利点を認めつつも、禁じることで患者がどのように感じるか?どれだけの養生が出来るか?踏み込んで考えてみたい。指導は治療家の自己満足で終わる場合も多く、実行出来ない患者であれば簡単なアドバイスでさえ守れない。嗜好品の酒をゼロにするより、いくらかでも容認することで患者自身の治癒への意欲を高めるほうが好ましい。ときには不健康の勧めが健康を促す動機になったりする。医者の書いた「不健康のすすめ」「不養生のすすめ」など読んでみると、それを狙ったものであることが伝わってくる。誰でも不健康より健康が良いに決まっている。出来れば労せず、出来れば簡単に、と考えるのが普通の感覚である。

テレビの健康番組や健康雑誌が取り上げるネタも、労せず、簡単だから支持されるのかも知れない。しかし、一体どれくらい健康になれるというのだろう。満点の健康など検査数値と体調と気分でしか測れないものである。日々、健康という妄想に追われ続けるストレスこそ不健康ではないだろうか?

 

初診患者には、少なくとも5分間は自由に喋らせること。

「聞かれたことだけに答えて下さい」...医師からこの様にいなされた経験はないだろうか?治療家と患者の知識や意識の乖離を痛感させられる言葉である。必要と信じ、できるだけ正確に詳しく病状を伝えようとする患者の努力は、治療家にとって無意味である事がある。

今まさに起こっている胃痛に関して、10年前のある出来事から話を始める患者もいるという。兄弟の病気や、自分の趣向、朝の食事や昨夜の宴会にまで話が及び始めると、、すべてが有効な情報ばかりともいえなくなる。順番を待つ患者さんの事が気になり始め、思わず「聞かれたことだけに...」という言葉を発したくなる。

しかし、代替医療では状況が一変する。時間をかけた分だけ治癒力の向上をみる場合がある。患者さんを気持ちよく迎え、帰すことが不可欠とさえいえる。5分間は普通の病院では長すぎるのかも知れないが、代替医療の長所を取り入れ、せめて3分間くらいは無駄を認めてよいのではないか。

 

患者から希望を取り去ってはならない

「この病気は絶対に治らない」と明言する治療家、絶対という強い口調の言葉は誤解を招きやすい。もうダメなのではないか?と薄々気付いてはいても、それを明言されるのは耐え難いものがあるのだ。ここに医学と医療の違いを見る。明らかな嘘であっても、その思いやりで癒される人のいる事を治療家は忘れてはならない。同じ絶対でも治る方の絶対は有難いものだが、軽々しく使うのは誠意を疑われる場合がある。

HOPE; n.【希望】欲望と期待とがまるめられて一つになったもの。
-A.ビアス-悪魔の辞典より

生への欲望から期待が生まれそれを希望というのかも知れない。極限の状況にあっても、明日の訪れを夢見ることで安らぎも生まれる。

 

患者は泣いたり、気持ちが落ち込んだり、笑ったり、痛みを訴えたり、その他どのような感情を持っても構わない

苦痛を伴う病気であれば、強靭な精神力を持ってしても弱音を吐く事もある。それを治療家が受け入れてくれるのは救いである。小さな子供に「痛かったら泣いてもいいよ」「我慢しないでいいよ」..などと言葉をかけるように、大人の患者もかけてほしいのだ。また治療家はこのことを知り、寛容な心構えも要するのではないか?わがままで頑迷な患者は存在する。怒りのぶつけようもないが、寝たふりという手もある。笑いながら「はい、はい..」と答えて、、、
 

薬の投与を開始した後で出てきた新たな症状は、その他の原因が明らかにならない限り、その薬によるものと考える

あらゆる薬について、絶対に出ない症状というものはない。すべての薬について、どのようなことでも起こりうる

ある有名製薬メーカーの解熱鎮痛薬の添付文書をみると、効能・効果に消炎、鎮痛、解熱とあり、副作用欄には全身に及ぶ症状が書かれている。とりわけ頭痛、浮腫、発赤に関しては効能・効果と相反する作用があることになる。頭痛薬を服んで頭痛が起こるなど信じがたい。しかし、起こりうるのである。

添付文書を見る限り、薬は本来服むべきではないことを痛感する。日本人は薬好きでアメリカの4倍消費している。薬好きにしたのは製薬会社や医療機関が薬で利益を上げるという長年の悪弊がもたらした遺物かもしれない。医師の技術を薬代ではなく、正当な評価のもとで見直そうという動きはすでに始まっているが、身についた習慣からはなかなか抜けきれない。

これだけの副作用をもつ薬を幾つも併用するのであれば、その被害は計り知れないものがある。4種以上になれば、まったく予測のつかない事態になるという話もある。事細かに薬の説明を行うと、副作用に触れないわけにはいかない。そして、患者さんはそれを聞いただけで不安が立ち込める。仕方がないので副作用は伏せて投薬を続けなくてはならない。患者さんに尋ねられても「大丈夫...」としか言えないのだ。

  • この薬は病気の治療に必要なものです
  • ドクターは充分検討のうえで処方されています
  • 副作用はあっても軽いものです
  • 作用の最も穏やかな薬です
  • 念のために胃薬も出しておきます
  • 治療方針もあるのでドクターに直接聞いてください
  • ・・・・・・・
  • ・・・・・

このように薬局の窓口では来る日も来る日も会話ともつかない説得が続けられている。多少の副作用に踏み込んだため、医者の逆鱗に触れた例も数知れず知っているし、実際、私も経験がある。首をかしげる素振りもしてはならないときがある。副作用情報は扱いに困る問題である。副作用や治療上のリスクを示されるなら躊躇するのは当然の反応である。

副作用情報に無防備で害を被るのはそれ以上に困る。身体の不調は薬が原因ではないか?という疑いは、患者より治療家の方がより意識を研ぎ澄まさなければならない。薬に関する気になるルールをいくつか記してみる。

  • 4種類以上の薬を服んでいる患者についての比較対照試験はこれまでに行われたことはなく3種類の薬を服んでいる患者についての試験もほんのわずかしか行われていない。4種類以上の薬を服んでいる患者は医学の知識を超えた領域にいるのである
  • 投薬の数が増えれば、副作用の起こる可能性は指数関数的に高くなる
  • 薬の副作用としてある特定の毒性が報告されていないからといって、それが起こりえないとか起こらないということを意味するものではない
  • 薬物反応は患者によってさまざまな起こりかたをする
  • ある患者でのみ特異的な反応を示す病気がある
  • 老人のほとんどは、服用している薬を中止すると体調が良くなる

副作用で患者の苦しむさまを何もしないで眺めながら、好転反応と嘯く治療家が居る。もちろん当たり前の神経ではない。このような治療家はきっぱり見限るべきである。

 

臨床的証拠がないからといって病気が存在しないという証拠にはならない

苦痛があっても検査値に異常がなければ「病気ではありません」「病は気から、自律神経失調症でしょう」というこになる。臨床的証拠があっても、苦痛のない場合もあるのではないか。「自分は病気ではない」と言う人もある。病気は治療家と患者の間で一定の合意が得られないと成立しないのだろうか?純粋に客観的認識など不可能である以上、主観の入りこむ余地は残され、それが病の認識へとつながる。

病気でもないのに病人とされることがあり、病気にもかかわらずその認識のない人もある。見比べていると、病には人生観が色濃く反映することがわかる。

 

診療経験が10年以上になるまで「わたしの経験では」と言ってはならない。たとえ診療経験が10年以上であってもこの言葉は使わないにこしたことはない

この言葉に込められたものは「何か?」...有無を言わせない傲慢が潜んではいないのか治療家のみならず様々な業界に横断的慣用句である。この一言で意欲をそがれることがある。証拠の少ない判断や自分の都合に合わせて行動を促すとき、この言葉を発していないか反省させられる。これに似たもので、本質を一にするのが「前の職場では」「私が役職の時は...」というのがある。

経験や権威の顕示に頼らずとも患者の心を動かし、治癒への力添えが出来る治療家こそ尊い。

 

自分自身のフィーリングを信頼できるようになりなさい。そうすれば患者の感情をずっと
よく理解できるであろう

人間関係の機微は理屈ではない。人のみならずペットとの関係も似たような傾向がある。嫌な人と感じれば相手も同じように感じている。好ましい人となら話も弾むし、時を忘れて過ごしたいと思うだろう。

好悪感のみならず病気を感受するときがある。患者と同じ部位が痛くなったり重くなったり、気分が塞いだり高揚したり、、、これを積極的に治療に生かそうとするのは代替医療でしばしば見受けられる。感覚の鋭敏な治療家は患部に触れただけで病を知るというが、真偽のほどはわからない。次に来る患者がどんな病気でどのような治療を施すのか...まで、解る千里眼治療家の話も稀に聞き及ぶ。

患者さんには五感や六感を最大限開いて当たる心構えが必要であるが、そこで得た感覚を丸ごと信じて判断はできない。必ずフィードバック、検証の手続きを経なければならない。

 

あなたの治療で患者の状態が改善しないからといって怒ってはならない。患者のライフスタイルが気に入らないからといって怒ってはならない。患者に対して怒ってはならない。

今ではあまり聞かなくなったが、かつて、怒る医者の話は頻繁に聞いた。怒るのは、医者、教師、警察官の属性のごとく語られた時代があったと記憶している。権威や人質を持った人間は横柄に振舞い又それが容認される風潮がある。インフォームドコンセント(説明と同意)は、この権威を薄める社会の要請であると言い替えても良い。

怒ることで効果を得る場合があるかも知れない。また差し迫った必要に迫られるときもあるだろう。しかし、その前に、治療家の仕事は患者の健康なのだという出発点に戻って考えて見たい。健康を人質に権威を持った治療家に怒られることの意味を考えて見たい。

 

あなたの話に対して患者が怒るのは、あなたの
言動によって患者が怒っているのである

あなたが話しているとき患者が笑うのは、あなたが
何か面白いことを言ったからである

あなたの話に対して患者が泣くのは、あなたが
何か悲しくさせることか狼狽させるようなことを言ったからである

患者があなたと口論し始めるのは、あなたが
患者に対して理屈っぽいことを言ったからである

これを読んで、一篇の詩を想い出す。リルケの「厳粛な時」....

   いまどこか世界の中で泣いている。理由もなく世界の中で
   泣いている者は、私を泣いているのだ

   いまどこか夜の中で笑っている。理由もなく夜の中で
   笑っている者は、私を笑っているのだ

   いまどこか世界の中を歩いている。理由もなく世界の中を
   歩いている者は、私に向かって歩いているのだ

   いまどこか世界の中で死んでゆく。理由なく世界の中で
   死んでゆく者は、私をじっと見つめている

孤独な夢想かもしれないが、森羅万象が自らの行動や思想に関わるという詩人の魂の叫びを感じさせる。この詩が手本かどうかは知らないが、治療家と患者の関わりを治療家の体験を通して記述された、輝きを放つ言葉である。

 

扱い難い患者がいるなら、扱い難い医師もいる

医師も人だから笑いもすれば、怒りもするだろう。社会を見渡せばある割合で善人も居れば、人の命や財産を虫けらのように奪う、虫けらにも劣る人間も居る。扱い難い患者と、治療家を同列に論ずる訳にはいかない。扱い難い医師はそれだけで資質を疑われるのだ。医療は技術や知識ばかりではない、癒しという人間臭い取り組みであり、人間性の関わりが大きな影響をもたらす分野である。

扱い難い医師には、顔色を窺い、言葉を選び選び対応しなくてはならない。患者がそれを強いられると病気の苦痛と相まって、いっそうストレスをもたらすであろう。慇懃な扱いになれた治療家は、やがて勘違いが始まる。神様や教祖のごとき振る舞いへと向かう。扱い難い患者のほうは、ここまで増長することはまずない。

 

病院は危険な場所である。賢明な方法でしかもできるだけ短期間利用しなさい

医療事故が起こるたびに「今後このようなことがないように万全の体制で...」というコメントが読み上げられる。このことに偽りはないのだ。しかし、相変わらず似たような事故が後を絶たない。むしろ医療には事故が付きものだと認識するほうが良い。今は報道されたり公表されるから知り得るが、かつては事故を病死として処理されていたのが相当数あるものと思われる。

事故は医療の現場だけではないが、医療のミスは直接命に関わるだけに看過できない。老人医療の無料化で一時期病院が老人の社交場となったことがある。どのような理由であれ病院へ近づくことは危険へと近づくことに他ならない。危険率を最小限に食い止めるためにも、病院を健康クラブや社交の場としてはならない。

 

病気の治療に多くの薬を用いるということはそのいずれもが有効でないことを意味する

例えば、百花撩乱のダイエット関連のアイテム。有効なものが一つもないからこそ百花撩乱なのだ。手当たり次第試みるうちに、いずれかにヒットする。しかし、それが他の人に有効とは限らない。たまたま有効だったという体験にも疑問が残る。運動と食事を併用させて成功したのならば、どちらが有効だったのか判定できない。健康食品を例にとったが、医薬品にも同じことが言える。

統計学的に検定された医薬品でさえ有効率100%のものはない。効果の見られる人とそうでない人は必ず出てくる。薬には作用の激しいものと緩和なものがある。服み続ける利益を考え短期にすべきものとを区別しなければならない。また、何ら益もない薬を緩和だからという理由で服み続けるのは避けたい。

 

医師が自分自身を治療することは愚かな患者になることであり、それにもまして愚かな医師になることである

<訳注>一般的に言って、患者としての医師は大変扱い難くまた、医師が自分自身の病気を診断したり治療    する場合は判断力が鈍ることが少なくない

医者の不養生などというレベルの話ではない。治療家の本質を突くものである。ガン専門の医師がガンに倒れたり、心臓専門医が心筋梗塞で倒れたりする話を聞く。そして同じ専門医は「専門医ともあろうものが情けない...」と嘲笑う。そしてその医師も同じ病で倒れる。

普通に考えれば情報量は多ければ多いほど精確な判断ができそうである。しかし、逆なのだ。多すぎて情報を無視、再構成し素人に近い自己判断に陥ってしまうことがある。明らかにガンであるのに潰瘍だと思い込む医師。見当はずれの薬を嬉々として服み続ける医師。家族の治療ができない医師。

治療家ほど権威に従い、神の声を聞こうとする職業はないのではないか?

 

患者を治療するにあたって、あなたの性格はあらゆる薬や治療法と同じくらい重要である

代替医療の様々な療法を見ていくと、とんでもない療法や薬がある。さらに不思議なことに、それで治ってしまう病気があるのだ。単にプラシーボと片付けられない奥深い神秘を感じる。その要素の一つに治療家の性格や人格が関与し、この占める割合は大きい。必ずしも高潔な人格である必要はない。粗野な治療家、傲慢な治療家にも一定数の患者がつき、かつ一定数の成果を上げている。しかし、やはり治療家にふさわしい人格はありそうな気がする。

患者の心や思いを捉える能力は訓練以前のものがある。マニュアルは存在しない。治療家としての資質や才能が試されるのである。通常医療以上に代替医療に於いては重要な要素である。根拠の薄い療法にもかかわらず一定の需要があり、なくなることはない。そこに通常医療で得られない「何か...」があるからだ。それは、まさに治療家の全人格を挙げて行われる「癒し」であるからに他ならない。

 

病気を知るよりもその病気を持っている患者を知ることが重要である

生きかたや言動にその人の個性や人生観が反映するように、病気にもこのことがあてはまる。ここで、検査や画像で知りうることと、実際の病気との乖離が起る。人の思想や行動が多様であるように同一の病名であっても人によって異なる症状を呈する。病気を診ることは人を診ることにつながる。
 

すべての医師は薬である。診察時の医師の行動は副作用を起こしうる。効果を持続させることができる中毒をきたしうる。適応となりうる。禁忌となりうる過量に与えられることがある。不足量になることがある適切な間隔で与えられることがある不適切な間隔で与えられることがある。そして何よりもプラシーボ効果をもたらすことができる。医師であることの薬理作用を学びなさい

治療家の性格や人格が治療に与える影響については既に述べた。治療家の資質には天性のものが関与するのかも知れない。マニュアルはない。しかし、マニュアルらしきものがないわけではない。何も知らないでいるより、人対人の良好な関係を維持する知恵は身につけておきたい。ご近所付き合いと同じように他愛もない天候の挨拶や社交辞令は人間関係を円滑に運ぶ上でのマニュアルである。少なくともこれだけの心得があれば、些細な言動にゆれる患者さんの思いを測る余裕も生まれてくるのではないか?それさえできない治療家はあまりにも哀しい。
 

医師の堕落には3つの段階がある

(1)ビタミンB12の検査を行い、それが不足している患者にのみにビタミン剤を投与する医師

(2)ビタミンB12が不足していようがいまいが疲れくたびれた患者にビタミン剤を投与する医師

(3)自分自身がビタミン剤を服む医師

運動不足は運動することによって解決し、食事の不養生は食事によって解決されなければならない。それができないのは堕落の一形態なのだ。思慮を巡らすことを省き手短にあるものや、利益のあるもので解決するのは治療家としては最善ではない。薬屋であれば薬で解決しようとする。外科医なら切り取ることで解決しようとする。様々な治療家が己の方法を自己主張し、患者は外野に廻される。

切り取ることでしか解決できない病気を瞑想で治そうとしたり、心の病を手術や薬物で治そうとする。そして硬直化が進行すると治療家自身が己の方法をベストとして信奉するようになる。こんな言葉を聞いたことがないだろうか?

玄米でガンが治る・・・背骨はすべての病気の原因・・・腸内細菌で難病解決・・・歯は臓器である・・・環境ホルモンは様々な病気を生む・・・キレる子供はペットボトル症候群・・・難病・奇病は前世の因果・・・電磁波で脳腫瘍・・・・・

 

あなたの鑑別診断のリストに挙がっていない疾患を診断することは不可能である

医学の知識がなければ医学的な診断はできない。できなければできる知識で解釈を試みることになる。血流障害、気の滞り、水分代謝異常...これは漢方の概念であるが、他の代替医療もそれぞれ特有の言葉で身体や病気の状態を把握する。それによって治療体系が構成され、治療が成功することで検証される。それが正しい検証といえるかどうかはさておき、治った患者さんにとっては紛れもない事実である。

西洋医学の診断ひとつをとってみても、一般外科の医師に眼科の細かな診断ができるとは思われない。医学が細分化したこともあり、全科に渡っての習得は困難を要する。専門分野はさらに細分化され臓器毎に専門科が設けられている医療機関もある。極狭い領域の精細な知識はそれなりの長所を持っているが、精細でなくても幅の広い知
識も重要である。特にこれからの医療に於いては昔の医師のように全科を診るという知識も要求される。全科を診る医師が少ないだけに希少な価値を生むものと思われる。進みすぎたものは元の場所近くに回帰し、さらに進んで行くのかも知れない。

西洋医学の知識に加えて東洋医学や他の代替医療の知識があればより多くの診断カテゴリーを選択できるようになる。治療家の能力によって限界はあるが、拒むことでは得られない。

 

医学では、起りうることはすべて実際に起る

「ひとつの事故の影には100の事故になりそうなトラブルがあり、ひとつの事故になりそうなトラブルの影には、100の事故につながる問題点がある」

事故を例にとって考えてみると解りやすい。起るべくして起ったといえるのは結果論でしかない。起る予測がつかないから事故なのだ。事故が起らないよう対策に万全を期しても事故は起る。そしてそのときの対策も準備されるが、事故は2重、3重の篩をすり抜けて発生する。

救いようのない愚かな事故が報告されるたびに関係者の不注意が取り沙汰される。そのなかでも患者を実験動物のように扱った事故だけは言語道断である。消極的ではあるか事故の起りそうなところへ安易に近づかないことも対策のひとつに加えて良い。

事故ばかりではない、治癒も、すべて実際に起るのだ。絶望の淵に居ても奇跡的治癒の報告がなされている以上、一縷の望みを捨ててはならない。

 

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