【養生訓の話・総論】


   気は、一身体の内にあまねく行きわたるべし。胸の中一所にあつむ
   べからず。怒り、悲しみ、うれひ、思ひ、あれば、胸一所に気とどこほ
   りてあつまる。七情の過ぎて滞るは病の生ずる基なり。
病気とは気が病むと書くが、病因の一つは気にあるとし、中医でも病因に七情を考える即ち喜、怒、憂、思、悲、恐、驚の七つの精神的な動態である。日常生活での知情意の生起は当然の生活活動であるが、これらがあまりに激しく偏ったものになったり、長期に及べば、人の修復能力を超え、気の失調を招き、それにつれ臓腑機能がバランスを崩し始める。
  1. 喜びすぎると心を傷つける
  2. 怒りすぎると肝を傷つける
  3. 憂慮しすぎると肺、脾を傷つける
  4. 思考がすぎると脾を傷つける
  5. 悲しみがすぎると肺を傷つける
  6. 恐怖がすぎると腎を傷つける
  7. 驚きがすぎると肝、腎、胆を傷つける

いずれも五臓六腑との関係が深い。これは経験上よくわかる事である。精神的ストレスが続いて食欲が低下したり、味気ない食事になったり、いま一つ気力がわかない。それが続くと鬱状態になり、いよいよ本物の病に移行する。そうなると、いつまでも「病は気から。」とばかりは言って居られなくなる。臓腑の機能にも不調が生じてくる。胃炎などは、多くはストレスが誘引とされている。この他に病因とされるものに六因(風、寒、暑、湿、燥、火)、飲食、疲労房事、痰飲、気滞、オケツ、寄生虫などが挙げられる。

 
   朝夕の食後に久しく安座すべからず。必ずねぶり臥すべからず。久しく
   座し、ねぶり臥せば、気ふさがりて病となり、久しきをつめば命みじかし。
 
   酒食の気いまだ消化せざる内に臥してねぶれば、必ず酒食とどこほり
   気がふさがりて病となる。いましむべし。
腹八分目とは養生の鉄則。しかし、ご馳走や愉しく夕食を囲めば、話も弾み、ついつい食欲も増す。その後、ゆっくり休めば、余剰のカロリーが、脂肪として蓄えられる。そこで幾らか体を動かしておけば、体はカロリーを消費(燃焼)する方向へと働く、そのため多少体を動かす事を勧める。益軒先生は300歩、歩くように、出来ればもう少し運動しても良という。激しい運動は反って消化を悪くする。食後は消化が良いように、血液を胃に集めるため横になる方が良いという養生法も聞いたことがあるが、やはり少し体を動かした方が良い。食後の食器を運んだり、食後、畑や庭の散策は愉しいことでもある。ゆっくり深呼吸する事で横隔膜が動き胃腸を刺激し、食物の滞りも解消できるだろう。横になったり寝たりすると食物が滞り、それが体の気の流れを塞ぎ病の原因となる。
 
   飲食は身を養ひ、ねぶり臥すは気を養なふ。しかれども飲食節に過れば
   脾胃をそこなふ。ねぶり臥す事ならざれば、元気をそこなふ。
食物は体を作り養う、睡眠も生きてゆく上で必要不可欠なことである。気は血とともに、血は気とともにそれぞれ養わなくてはならない。しかし身を養う食で病気になる事もある生活習慣病と言われるものを始め、食べ過ぎて胃腸を壊したり、飲みすぎて肝臓を壊したり、そしてそれを治す為に、薬を求めたり、胃腸に良いとされる飲食物を、さらに胃腸に詰め込む。このようなことをやってはいないだろうか。

飲食も休養も睡眠も、ほどほどに節制が必要である。過ぎたるは猶及ばざるがごとし。

 
   およそ薬治、鍼、灸、導引、按摩、湯治。此六の事、其病と其治との当否
   をよくゑらんで用ゆべし。其当否をしらで、みだりに用ゆれば、あやまりて
   禍をなす事多し。
当然といえば当然の事だが、これは治療家に対する戒めにもなる。素人であればどのような治療法が適確なのか解らない。筋肉痛なのに激しい按摩をし、反って凝りや痛みが増したり、痛みが取れるからと、延々と鍼灸を続けたり、感染症に漢方薬を適用したり、、、素人であればなかなか判断がつかないことも多い。特に西洋医学や新薬を蔑視している人にとって病院へはなかなか行きたくはない。「何でも治る」と自信を持って話してくれる代替医療の治療家のほうが頼もしく感じられるだろう。

治療家の自信家は危険である。自信家は不勉強家に等しい。治療家こそ、その療法の有効性や守備範囲を認識せずして治療家とはいえまい。検査や科学的手がかりもなく勘と経験だけで生命を預かる傲慢は許し難い。治りもしないし、守備範囲も逸脱した療法を延々と、「いつか治る」と、説得に情熱を燃やす治療家のなんと空しいことか。希望や意欲を喚起するのとは意味が違う。

医者もまともな医者ばかりではない、医者自身が奇妙な療法に魅入られ、祈祷所のように流行っているところがある。西洋医学で治療困難な患者は「藁をもつかむ思い」で訪れる。「絶対治る」という言葉を得て、延々と奇妙な治療がはじまる。偶然治ることもあるが、難病はそれほど簡単に行かない。ついに、どうしようもないところまで健康も財産も奪われてしまう。「藁をつかんだほうがマシ」の事もしばしばある。藁はアテにもならないが、財産まで奪わない。

 
   楽しまずして天地の道理にそむくべからず。つねに道を以って
   欲を制して楽しみを失なふべからず。
   楽を失はざるは養生の本也
養生とは加速する欲望との付き合いでもある。木の根を噛み飢えを凌いでも、やがてご飯が食べられ飢えが満たされれば、次は少しマシな食べ物が欲しくなる。それも満たされたら、麦ご飯はイヤだ、雑穀はイヤだ、輝くようなブランドものの白米が良い、と言い始める。足りた上にグルメと称して過剰な食物を浪費し、時には捨てる。戦後、日本はこうして経済成長を続けて来たのである。楽しみが慢性化すると、それは、少しも楽しみではなくなる。次々と新しい、変わった刺激を求め続ける。これが養生や節度を失う、人間の愚かさである。

少し減速してみよう、空腹を耐えてありつく一杯のお粥や、渇き切った咽喉に流し込む一杯の水の美味さや快感は、制することでしか生まれない。楽しむがために欲を抑えることも養生の心得である。

しかしながら、病気の治療や健康のため、過度に禁欲的な療法に耐える人々もある。神経が過敏になり、わずか一つまみの塩や砂糖、調味料に不調を訴える。こんな生活が楽しかろう筈がないと思うが、信仰者にとっては快感なのだ。厳しい禁欲も問題だが、危険な禁欲によって楽しみを得るのであれば、健康は遠のくばかりである。

 
   万の事十分に満ちて、其上にくはへがたきは、うれひの本なり。
   古人の曰、酒は微酔にのみ、花は半開に見る。
養生訓の中でも好きな言葉の一つである。100%の健康状態は理想の到達点のように考える人や治療家は多いが、ヒポクラテスの言葉に100%の状態は好ましくないとある。100%以上はなく、そこに到達したとたん、次は95、90、85、そしてまた100と言った具合に揺れ動くのが生命現象だからである。花の満開は散るのみ。せめて八分咲きを満開と思うなら、そこが最も愛でる時でもあろう。中医の治療でも8割の治癒で、治療を打ち切る事が書かれてある。そうすれば、後は自然治癒力が生かされ治癒も早い

病気の種類にもよるが、病気の完治を求めるのも程々にしておくほうが良い場合だってある。神経質に100%をめざすより、8割治ったところで、良しとすれば、どれほど気が休まるか知れない。

生きてゆくのは大変だが、「酒は微酔、花は半開」の心掛けがあれば、そんなに齷齪せずとも楽しめるではないか。という人生観が伝わってくる。

 

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