【養生訓の話・二便〜択医】


   二便は早く通じて去べし。こらゆるは害あり。

小便を久しく忍べば、たちまち小便ふさがりて、通ぜざる病となる事あり。是を転ふと云う。又淋となる。大便をしばしば忍べば気痔となる。又、大便をつとめて努力すべからず。気上り、目あしく、心さわぐ。害多し。自然に任すべし。

大便、秘するは、大なる害なし。小便久しく秘するは危うし。

体調の良し悪しの目安となるものの一つが大小便である。常識的なことは述べるまでもない。規則正しい大便の排出は体調の維持にも不可欠である。肉や魚など蛋白・脂質が中心になると便の量も回数も減少する。ある容積に達するまで腸に抱えておくため腐熟が進み臭気も増す。脂肪を乳化させた後、残余の胆汁は腸で再吸収されるが、腸内細菌で分解されたものの一部は、発癌物質として腸を傷め大腸癌の発生を引き起こすといわれている。繊維は腸に不可欠の栄養素である。穀物や野菜の繊維を充分に摂取しなければならない。ご飯は食べずに副食を中心にしていると繊維やビタミン、ミネラルが不足してくる。

1日に飲食する食物をテーブルに並べてみると、相当の量になる。とても一度に食べられるものではない。この量を考えると便通は毎日あった方が好ましい。ただ便が出るだけでなく気持ち良く、相当量出なくてはならない。下痢便でも充分出ないものは便秘として対処したほうが良い場合もある。便通を良くするため冷たい牛乳や水を沢山飲む人も多いが、ただ腹を冷やし、そのショックで排便させるだけだ。冷水はまだしも牛乳は好ましくない。牛乳は乳糖不耐性の下痢を引き起こすが、これを便秘に使うとするなら腸は予想以上の負荷を受ける事になる。牛乳は別のページに書いているように脂肪源でもあり、これを便秘に使って首尾よく排便しても脂肪や蛋白アレルギーの被害を引き受ける。

大便は堪えても、いきんでも良くない。スムーズな排便が出来なければ、繊維を増やしたり幾らか水分を増やすなどの対処をする。しかしそれでもスムーズな排便が得られないときは、ハブ茶、どくだみ茶などの緩下剤を使ったほうが良い。薬が体に良くない以上に便秘は体に良くないのである。それでもスムーズに行かなければセンナやアロエなど幾らか強力な下剤の分量を加減して使う。便秘くらいで高額な漢方薬や健康食品を服む必要はない。便秘の人を見ていると、なかなか容易には治らないようで、、生涯お付き合いしなくてはならない体質もあると思う。便秘くらい、と書いたが、「便秘は万病のもと」でもある。便通さえうまく行けば治る不調は多い。他に新薬などの副作用で便秘が起ることもしばしばある。薬の副作用を薬で治すと言う皮肉である。

冷水のショックで排便することは好ましくないと言ったが、時にお勧めする事もある。食べ過ぎたり、便通の状況が思わしくないとき、傷んだ食物を食べてしまったとき、、、いくらか苦しいが、冷水のショックで排便してしまうと体が軽くなり爽快感がある。習慣的には好ましくないが、健康なとき、時に試みるのも良い。

大便など2週間〜1ヶ月出なくても平気な人が居るが、小便となれば1日出ないだけでも危険である。食物は腸の熱で乾燥させ腸内に蓄積してゆくが、尿はそのようなわけに行かない。尿の排泄が滞ると血中に老廃物が蓄積し尿毒症を起こす。発汗すれば尿量は減るが、尿が濃縮されると結石などの原因となるので、その時は水分の補給を適切に行う。ところが補給が過剰になると浮腫、水腫を引き起こし、徒に消化管を水浸しにするだけになる。水飲み健康法など、人の体と、流しのパイプと混同したような理屈を聞いていると辟易する。

尿量が少ないからと、薬草を求める人は多い。台所漢方を一つ、「小豆」、これを20g〜30g、水300〜400ml位で、30〜40分煎じる。アクは除かず、味も付けず、その煎じ汁を朝・昼2回位に飲むとかなりの利尿が得られる。煮た豆は食べると便通を良くする。夜飲むと、夜間の排尿が増えるので、人によってはしばしば目を覚ます。薬草は大方利尿作用があるので、選ばず飲んでも一定の効果はあるが、小豆はその中でも抜群である。しかし、利尿作用で尿を出すのは、西洋医学と同じ発想である。利尿剤で出ない尿に対処する事は出来ない。利尿剤で解決できない尿不利や頻尿は、腎や脾胃、心、肺、肝、五臓の問題であることが考えられる。漢方薬にはこれらを仔細に分析した対処法が用意されている。すべて治るとは言えないが少なくとも西洋医学よりきめ細かい対応が可能であるし、有効性もある。

 
無病の時、病ある日のくるしみを常に思ひやりて、風寒暑湿の外邪をふせぎ、酒食好色の肉欲を節にし、身体の起臥動静をつゝしめば病なし。
 
病なき時、かねてつゝしめば病なし。病おこりて後、薬を服しても病癒えがたく、癒る事おそし。小欲をつゝしまざれば大病となる。
健康なとき、若いとき、人間関係や仕事でも、良好な時は、良好でない時を思い巡らす事が出来ない。炎暑に厳寒の日々を、厳寒に炎暑の日々を、想像はできても実感はできない。しかし想像する事さえしなければ、その時どう対処するか当惑してしまう。物事には正負の要素が混在している。健康は病の脆弱を備え、病は健康への希望を胚胎している。1年を、数年を過ごせば、季節による体調の変化や養生が身につく、しかし老いや病はこれから来る未知の現象である。ひたすら推測し、観念を鍛えるしか出来ない

突然、病が訪れ、あるいは不治の病の宣告が為された時、「なぜ、どうして.. 」と混乱し、その不条理に怒り、やがて容認し忍従するという。この心のトレーニングは、今を輝かせるためにも有効な哲学的鍛錬ではないかと思っている。習慣として養生を楽しめるなら日々が輝きを増し、最早、禁欲ではない。

 
飲食、色慾の内欲を、ほしゐまゝにせずして、かたく慎み、風寒暑湿の外邪をおそれ防がば、病なくして、薬を用ひずとも、うれひなかるべし。もし慾をほしゐまゝにして、つゝしまず、只、脾腎を補ふ薬治と、食治を頼まば、必しるしなかるべし。
欲望のまま飲食や色欲に従うのは、奔放で愉しいことのようではあるが、それほど満足や幸福は得られない。更なる大きな刺激を追い求め続け、ストレスともなる。吐いては食べるという行為を繰り返し続けた皇帝の話は哀れでもある。禁欲はより高次の快楽を得るための愉しみなのだ。益軒先生は小欲を捨て、大欲を取れと繰り返し述べられる。

養生訓では飲食始め色々な養生の話が出てくるが、実は細かな養生の技術より大切なのは、「心」の持ちようなのである。心の問題なくして、食養生や薬に頼っても何の解決にも利益にもならない。不養生しながらも、「健康のため薬草や健康食品を飲み、夕食後、30分は歩いている。」とはいえ不養生のツケを払っているに過ぎず、精神構造は何ら変わっていない。健康に良いからと、無農薬の食材やオーガニックの食材を求めても、お金で健康を買うという心の持ちようは変わっていない。自嘲をも込めて味読したい言葉である。

 
病ある人、養生の道をば、かたく慎しみて、病をば、うれひ苦しむべからず。憂ひ苦しめば、気ふさがりて病くはゝる。病おもくても、よく養ひて久しければ、おもひしより、病いえやすし。病をうれひて益なし。只、慎むに益あり。もし必死の症は、天命の定れる所、うれひても益なし。人をくるしむるは、おろかなり。
 
病を早く治せんとして、いそげば、かへつて、あやまりて病をます。保養はおこたりなくつとめて、いゆる事は、いそがず、その自然にまかすべし。万の事、あまりよくせんとすれば、返つてあしくなる。
健康な時、病になったときの事を思い養生に努める。しかしそれでも病は避けられない老化しない人や、永遠に生きつづける人は居ない。病にかかれば、体より心が混乱をきたし、それが、病以上に本人や家族を苦しめ体に良くないことが多い。治癒に必要な心の持ちようは「大らか、前向き、病に負けない気持ち」、いずれも元気の良い言葉である。これが出来れば苦労はないが、実際はなかなかこのような気持ちにはなれない。声には出してもカラ元気だったり、励ましが返ってストレスになることもある。絶望の中になんらかの希望や温もりがあれば、救われそうな気がするのだが、荒海を漂流中に灯る燈台、風雨に洗われる木々の最後のひと葉。これは人が人として生き、生き抜くうえでの避けられない試練である。アドバイスとか励ましとか心のケアーなどと言うなま優しいものではない。ただ、そばで試練に立ち向かう人を見守りやがて来るべき自らの試練に思いを巡らすのみ。

やがて治る病については、アドバイスが有効であろう。積極的な治療もあるが、放置するという有効な治療もある。日々の体調の変化や過労、不養生による不快や苦痛はやがてなおるものである。これを神経質にも病の前兆ではないかと気に病み、投薬なり注射を求め病院へ向かう。よく効く注射とか、点滴ですぐ元気になるとか、思い込みも甚だしい。苦痛を抑えることと治癒は違うのである。膝の痛みを鎮痛剤で抑え無理して運動を続けたらどうなるか?苦痛は体の防衛反応の一つであることも知るべきである。耐えがたい苦痛でなければ、我慢、安静が治癒を早める場合もある。治癒には時間と契機が必要だ。気持ちばかり焦って濃厚な治療漬けは返って治癒を長引かせる。完璧を目指すあまり、そこそこ調子は回復しているにも関わらず治療を続ける人もある。数ヶ月で8割程度回復した後、後の2割の完璧を求めて10年も通院したり、老化に伴う不調が治らないと医者に詰め寄る人もある。そこで、医者が言葉に窮し「これは老化病です」と言えば「なんて冷たい、無責任な」と怒りだす。

 
春は陽気発生し、冬の閉臓にかはり、人の肌膚和して、表気やうやう開く。然るに、余寒猶烈しくして、風寒に感じやすし。つゝしんで風寒にあたるべからず。
外気温5℃として、同じ5℃でも11月の5℃と、2月の5℃、さらに3月の5℃では感覚が異なる。11月はまだ陽気が残り、3月は陽気が発生するため、2月の寒さとは体の陽気の度合いが違うのである。天地自然に支配される生き物であれば内的自然にも影響を及ぼすのであろう。

春は陽気が発生し、冬の寒気を防ぐため閉じていた肌膚も開き始める。気温は冬と同じでも温かく感じられる。しかし寒気は相変わらず厳しいので、開いた肌膚から風寒が入り易い。温かく感じても風寒を防ぐ注意を怠ってはならない。また、陽気を発生させ巡らすため体を動かさなければならない。

 
夏は、発生の気いよいよさかんにして、汗もれ、人の肌膚大に開く故、外邪入やすし。涼風に久しくあたるべからず。沐浴の後、風に当たるべからず。且夏は伏陰とて、陰気かくれて腹中にある故、食物の消化する事おそし。多く飲食すべからず。温なる物を食ひて、脾胃をあたゝむべし。冷水を飲べからず。すべて生冷の物をいむ。
酷暑の時は極寒の時より元気が減りやすい。夏の消耗は激しくつらい。発汗のため開いた肌膚から、逆に外邪が浸入する。発汗後、扇風機や冷房の部屋に入り夏風邪を患うことは多い。日中は炎暑でも、夕方から夜間は陰が優勢となる。夜風を浴びたり長く冷房の部屋に居ればそれが風寒となって襲う。

夏は発汗のため、陽気が表に集まり、内臓には陽が不足気味になる。これを伏陰と言い、このため胃腸の機能はいくらか低下している。ここにスタミナを付け夏を乗り切ろうとばかりに、焼肉、うなぎ、、と行けば、益々消化に負担がかかり、それが夏バテの原因ともなる。さらに冷水やビール、ジュースなど流し込めば胃腸は冷え切ってしまう。夏こそ温かく消化の良いものを食べ、消化を助けるため食物の量も幾分減らすほうが良い。

 
秋は、夏の間肌開け、七八月は、残暑も猶烈しければ、そう理いまだとぢず。表気いまだ堅からざるに、秋風すでにいたりぬれば、感じてやぶられやすし。慎んで、風涼にあたり過すべからず。
秋とはいえ夏に開いた肌膚はまだ閉じず風寒に対処する準備が出来ていない。夏、表裏ともに風や寒冷を受け続ければ、いよいよ陽気が減少し始める秋口に、真っ先に風寒を感受してしまう。鼻水が止まらなかったり、秋の花粉症の原因の一つでもある。次の夏、充分温度の貯金が出来るまでこの寒冷病は治り難い。
 
冬は、天地の陽気とぢかくれ、人の血気おさまる時也。心気を閑にし、おさめて保つべし。あたゝめ過して陽気を発し、泄すべからず。
 
冬至には、一陽初て生ず。陽気の微小なるを静養すべし。
冬はもちろん寒い、陽気も減少し、陰が盛んになる。陽気が減衰すれば血気も静まる。動物なら冬眠と言いたいところだが、幸か不幸か、年中同じペースで働き活動を続けなければならない。しかし動物である以上、その生理に則り、いくらかでもペースを落し養生が出来ないだろうか?いくらかブレーキをかける工夫があっても良い。

冬は暖房に注意がいる。夏の恰好で過ごすほどの暖房は良くない。冬は湿度も低く、暖房が効き過ぎると、熱と乾燥で風熱の風邪に感受する。咽喉や鼻腔が痛み発赤し高熱がでる。自然界で普通に過ごせば夏季に発生する風邪が、冬にみられ、冬季に発生する風邪が、夏にみられるという逆転現象が生じる。強すぎる冷暖房の弊害である。

のぼせるほど保温すれば、陽気は返って漏れ出てしまうので衣服も程々にする。陰は冬至をもって極まり、極まった瞬間から陽が発生する。冬至前後はこの育陽のため労働、外出などを避け静養するほうが良い。

 
神怪、奇異なる事、たとひ目前にみるとも、必鬼神の所為とは云がたし、人に心病あり。眼病あり。此病あれば、実になき物、目に見ゆる事多し。信じてまよふべからず。
漢方の古典・傷寒論では呪医の戒めがある。霊魂や超能力など信じてはいけない。病を患えば、原因不明の病の原因を霊的なものに求めたり、癒しを超人的な力に頼りたくなる。科学的検証が現在より充分でなかった益軒先生の時代、大きな戒めであった筈しかし科学的検証がある程度可能となった今でも、そして常識で理解してはいても、なお心霊治療や超能力気功に惹かれてゆくのは、人というものの「闇」の部分を見る思いである。昔も今も人の本質はそれほど変わっていないのだ。
 
医師にあらざれども、薬をしれば、身をやしなひ、人をすくふに益あり。されども、医療に妙を得る事は、医生にあらざれば、道に専一ならずして成がたし。
 
諸芸には、日用のため無益なる事多し。只、医術は有用の事也。医生にあらずとも少学ぶべし。

ことに医術はわが身をやしなひ、父母につかへ、人を救うに益あれば、もろもろの雑芸よりも最も益多し。しらずんばあるべからず。然ども医生に非ず、療術に習はずして、妄に薬を用ゆべからず。

趣味や技能は色々あるが、身に付けていても自分の愉しみ以外取り立てて役に立たぬものもある。医学は違う。医学を志す人ほどにいかないまでも、少しは学んでおけば病気や薬、養生の面で、自らとそして身近な人達の助けになる。しかし「医療の妙」と表現するように、詳しく学んでも臨床で培った本業の医者とは天と地ほどの差がある。実践の力と経験の智である。

病院へ行くまでもない軽度の不調や病気、あるいは日々の健康維持に医学や薬草、食や養生の正しい知識を以って対処するのは奨励されて良い。むしろそれくらいの自己管理を行うべきである。それで治癒可能な病気はいくらもあるし、その方が良い病気もいくらもある。漢方屋もこの程度が守備範囲ではないか?と思っている。病者の最後の脈を取れない以上「医療の妙」に到達する事は出来ない。薬草に関しては素人よりは幾らか詳しいに違いないが、専門家と自負するほど医療に立ち向かえるかどうか自信はない。

漢方屋や健康食品など医療を取り巻く業界の人々は、よく「素人判断は危険。専門家の指示に従って」と言う。これが業界の利益を温存する言葉でなければ良いが?出来れば詳しく学んで、時にアドバイスも受けて、素人判断はどんどんやって欲しいと思っている。作用や副作用の強い薬品や医療技術を言っているのではない。「自らを守るのは自らですべき。」を基本に考えている。

 
薬の病に応ずるに適中あり、偶中あり。適中は良医の薬必ず応ずる也。偶中は傭医の薬不慮相応ずるなり。
薬や診療がうまく適中して見事に治癒すれば、治してくれた医者は名医と言いたくなる。しかし、医者にもピンからキリまであって。優れた医者の適中した薬は当然で、十分な配慮と洞察のもとに処方されるものである。一方、傭医の適中はたまたま適中しただけで配慮に薄いことも多く、薬も頼りない。医者も最初から名医ではなく研鑚を積んでなるものである。初学の頃の失敗談も耳にする。命を預かるだけになかなか厳しい職業である。

名医、傭医の違いを見分けるためにも、医学の知識は必要である。専門分野以外は、素人同然の医学知識という医者が居るのは確かだ。俗に言う名医もあまりアテにならない。雑誌や名医100人という本などに出てくる医者も警戒を要する。自らの知識で医者に問い、確認するのが良い。そのためにも自分の病気くらいは充分な情報の収集が望ましい。また名医が必ずしも自分にとっての名医でない場合もある。実際の感覚では「自分を治してくれる医者こそ偶中であっても名医」な訳である。

 
我よりまへに、其病人に薬を与えし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術をほこるは、小人のくせなり。  
医者や治療家によくありがちな事の戒めである。聞いていて不快であり、人格を疑われるような言い方をする治療家もいる。さらに、積極的に他医やその薬、療法を誹り、自らを高めようとする人もいる。謙虚な気持ちで癒しに取り組みたいものである。医者や医療に限らず耳に痛い言葉であり、思い当たること、反省すること、多々ある。

 

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